第82話 戻ってきた日常(壱)

 ごぼごぼと、水の中で泡が立つ。

 制服が身体にまとわりついて、身動きがとれない。

 息が苦しい。このままでは溺れてしまう。


 誰か助けてくれないだろうか――そんな淡い希望を抱くが、ここは山の中。人通りなんて望めない。

 いよいよ私が死を覚悟したとき、何かが私の腕を

 そのまま、ぐいっと水の上に引き上げられる。


 そうして、池に足を滑らせた私を助けてくれたのは……




 夢から目を覚ますと、見慣れた天井があった。


 四条の屋敷の自室である。いつのまにか、その布団で私は寝ていた。

 南の廊下に面した障子から差し込んでくる光で、今が昼なのだと分かる。同時に、私が思ったのは「寝過ごしたっ!」ということだった。


 私は慌てて布団から身を起こす。そのとき、身体に倦怠感を覚えたが、起き上がれないほどではなかった。

 とにかく朝食――いや、もう昼食か?食事の用意をしないと……と焦ったところで、はたと気付く。


 眠る前の記憶がないのだ。


 混乱しつつ、額に手をやりながら、私は何とか眠る前のことを振り返った。それで、やっと思い出す。


 さらわれたコンのこと、操られた千景ちかげのこと。

 鬼女紅葉とがしゃどくろのこと。

 そして、ヒサメのこと。


 ヒサメとロウさんが危機を救ってくれた後、自分は失神したのだと私は理解した。

 天狐の筆を使いすぎた弊害だろう。枕もとを見ると木箱があり、その中には件の筆がちゃんと収められていた。


「そっか。屋敷に帰って来たんだ…」


 独り言を口にすると、じわじわと助かったという実感が湧いてきた。やっと、日常に戻ってこれたのだと嬉しく思う。




 そうこうしていると、いきなり障子がパンッと開いた。

 顔を出したのは、コンである。


「ハル!やっと目がさめたんだねっ!」


 そう言って、彼は嬉しそうに私に飛びついてきた。ぎゅうぎゅう抱きしめられて、思わず私の口から「ぐえっ」と変な声が出る。


「あっ、ごめん!くるしいよね?」

「大丈夫…だよ」

「でも、本当によかったぁ。ハルがおきてくれて。もう、三日もねむっていたんだよ」

「えっ、そうなの?」


 衝撃的な事実に私が驚いていると、コンはハッとした顔になった。


「そうだ!みんなに知らせないとっ!」


 そのまま、コンは慌ただしく部屋を出て行く。


 それからしばらくすると、コンと共に、おコマさんと千景がやって来た。千景はお盆を持っていて、その上にはほかほかと湯気を立てている土鍋。そこから、お米の甘い香りがしていた。

 その匂いを嗅いだ瞬間、私のお腹がきゅうと鳴った。


「良かった。食欲はありそうね」


 おコマさんは嬉しそうに目を細める。

 一度空腹を自覚してしまうと、余計にお腹が減ってくる。おコマさんの「食べながら話を聞いて」という言葉に甘えて、そうさせてもらうことにした。


 土鍋の中身はお粥だった。私はお茶碗によそってもらい、さっそくいただく。

 お米の甘みとちょっとの塩味が口の中に広がった。ほっとするような優しい味だ。付き合わせの梅干しの酸っぱさも良い。


 パクパクとお粥を食べている私の横で、おコマさんは私が気を失った後のことを話してくれた。



 失神した私は四条の屋敷に連れ帰ってもらい、コンの言ったとおり三日間も眠っていたらしい。ヒサメ曰く、貧血と極度の疲労のせいだろうとのことだった。

 コンと千景も疲労困憊だったが、彼らは気を失うこともなく、今はもういつものように動き回れているとのことだった。


「ヒサメ坊ちゃんとロウちゃんは、鬼女紅葉のことを検非違使庁に報告しに、屋敷を出ているわ。もう少ししたら、帰って来るんじゃないかしら」


 なるほど、と私は頷き、それからチロリとおコマさんの隣に視線を移す。どうにも気になって仕方ないので、直球でについて尋ねてみた。


「千景さん。さっきから気になっていたんですけれど…頬どうしたんですか?」


 千景の左頬は見事に腫れていた。内出血しているのか、青くなっていて痛そうだ。


「ヒサメさんに殴られた」


 ケロリと千景はそう言った。


「しかも、平手じゃなく拳で思いっきり。めちゃくちゃ痛かったわ」

「まぁ、でも仕方ないんじゃありません?祓魔師がアヤカシに付け込まれて操られるなんて失態を犯したんですから」

「おコマさんは容赦ないなぁ~」


 コロコロと笑うおコマさんに対して、千景はがっくりと肩を落とす。そしてすぐ、へにゃりと力なく笑った。


「でも、許してもらえたわ」


 そう口にする千景は心底嬉しそうだ。


「良かったですね」


 千景は「うん」と頷きつつ、改まった様子で私に向き直った。居住まいを正し、畳に額をすりつけるくらい深々と頭を下げる。


「改めて……今回のこと、迷惑かけて申し訳ありませんでした。それから…」

「はい」

「ハルちゃん、ありがとう」


 顔を上げた千景は、憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとしていた。




 お粥を食べ終わり、お腹が膨れたところで、私はふと少し疑問に思っていたことを口にした。


「でも、まさか。ヒサメ様が来てくれるとは思いませんでした。よく私たちの居場所が分かりましたね」

「千景さんがハルちゃんを連れ去ったと知って、ヒサメ坊ちゃんは最近の彼の行動を調べたの。それで、数日前に鬼女紅葉の情報があった摂州の外れにある森を調査していたことが分かったわ。それで、そこへ向かったの」

「でも、あの森は広かったでしょう?夜で視界も悪かったのに、よく私たちを見つけられましたね」

「あら、それはハルちゃんのおかげだと聞いたわよ」

「私のおかげ……あっ、あの光か」


 そうそう、とおコマさんは肯定する。

 天狐の筆でヒサメの家紋を描いたら生じた、不思議な白い光。やはり、あれが目印になってヒサメは私たちの居場所を特定したようだった。


「まさか、この家の紋にあんな力があるとは思いませんでした」


 そう口にすると、「えっ」と千景が驚きの声を上げた。


「あの光……全部、知った上でやったんじゃないの?」

「いいえ。もし知っていたら、あんな風に追い詰められる前に試していましたよ。とっさの思い付きです」

「はぁ~。ハルちゃん、強運やなぁ」


 感心したような呆れたような口ぶりの千景に、くすりとおコマさんは微笑む。


「あるいは……導いてくれたのかもね」


 おコマさんの視線の先には、天狐の筆が収められた木箱があった。それを聞いて、そうかもしれないと私も思う。亡くなったコンの母親が、私たちを守ってくれたように感じた。



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