第68話 誤解(弐)
ヒサメが怒っている。私に対して怒っている。それはよく分かった。
問題は、彼がどうして怒っているか――その理由である。
あれから、私はヒサメに母屋に隣接した蔵に連れてこられた。
冷蔵庫として利用しているものとは別の蔵だ。以前、コンが閉じ込められ、その後に大穴を開けて逃走した建物である。
今、その穴の部分には、応急処置のつもりなのか木箱が置かれ塞がれて、一応外から中が見えないようになっていた。
そんな蔵の中で、私はヒサメと向かい合う。容赦なく冷たい視線を浴びせてくるヒサメは、結構怖い。
あれだ。放課後、不良に校舎裏へ呼び出されたら、こんな気持ちなのかもしれなかった。
「どうして俺がここにお前を連れてきたのか、心当たりはあるか?」
心当たり、と聞かれて真っ先に思い付くのは、例の小説の件だ。
ヒサメがモデルだと言われている
あの小説は、豆腐屋の又六さんの亡きお父さんが書いたもの。あまりにも面白かったから、私は又六さんに「出版したら売れるんじゃないでしょうか?」なんて言ってしまった。
よもや、それがこんな事態になるとは思わずに……。
実際に、又六さんが小説を出版したら予想を上回る大人気で、そして現在に至る。
事の発端が私だとバレたら、ヒサメが激怒するのは火を見るよりも明らかだった。
――でも!だからこそっ!又六さんやお芳さんには口止めをしたしっ!!
ヒサメが真相にたどり着く前に、手は打ってある。だからヒサメは、私が小説の件の元凶だと知るはずはない……と思う。
私はすっと呆けることにした。
「さぁ…私にはどうしてだか、さっぱり」
「ほぉ…」
どうしよう。蔵の室温が一気に下がった心地がする。それなのに、私の背中をダラダラと汗が伝っていた。
「俺が耳にしたのは、例の小説。アレの出版を薦めた張本人がハル……お前だという話なんだが?」
「…っ!!」
いきなり確信をついてくるヒサメ。図星を指されて、私は何と言えばいいか分からない。とりあえず、「どこでそんなデマカセを…?」と悪あがきしてみた。
「デマカセ?おかしいなぁ。あの小説の作者の家族に聞いたのだが?」
「えっ…」
「確か、
「お、お
あれだけ、口止めしていたはずなのにっ!?
信じられなくて、私はヒサメに尋ねる。
「ああ。お前に口止めされていたらしいが、俺が微笑みかけたら簡単に白状したぞ」
――お芳さんっ~~~!!
私はお芳さんに裏切られたことを呪いつつ、「そう言えばあの人、ヒサメの顔に弱かった」と思い出した。
「大変申し訳ございませんでした」
もはや、白を切りとおすのは不可能。私はヒサメに対して頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。
「まさか、このようなことになるとは夢にも思わず…」
「フン。口だけの謝罪なんていらんのだが?」
「本当に反省しております。今後は不用意な発言には気を付けますので」
「反省ねぇ。そのわりには、最初。とぼけようとしていたよなぁ」
「うっ…」
ヒサメはねちっこく私を責めてくる。いや、私が悪いのは分かっているのだが…。
「どうすれば、許していただけますか?」
恐る恐る顔を上げると、ヒサメはニヤリと口角を上げた。
「そうだなぁ」と顎を撫でながら、邪悪な笑みを浮かべて思案する。
「お前のせいで、俺の周りは今、とても愉快なことになっている」
皮肉!これは皮肉だ!愉快だなんて、これっぽちも思っていないくせに。
「お礼に、お前にも愉快なことをしてやろう」
「け、結構です」
「なぁに。遠慮するな」
じりじりとヒサメがこちらへ詰め寄って来る。
私は後ずさるが、すぐに背中が壁にぶち当たった。もう、これ以上逃げられない。
――猫に追い詰められる鼠って、こんな気持ちなのかなぁ……。
にっこり笑うヒサメを見上げながら、私は現実逃避したくなった。
*
私は息を切らせながら、蔵から脱出した。そのまま、母屋の自室に帰ろうとしたところ、廊下で誰かとぶつかる。
「あっ、すみません」
「えっ、ハルちゃん?」
顔を上げると、そこにいたのは
「……失礼します」
千景さんの横をすり抜け、私は廊下を走る。そのまま誰もいない自室に帰ってきた。
襖を閉めると力が抜け、私は畳にへたり込んでしまう。
「ひ……ひどい目にあった」
思わず、そう呟いた。
愉快なことと称して、ヒサメが私にやったのは、もちろん愉快ではなかった。
いや……ある意味、愉快かもしれないが、私の心情的には全然愉快ではない。
私はヒサメに――くすぐられたのだった。
横腹はもちろん、脇。果ては足の裏まで。散々、くすぐられた。
私は腹をよじって笑い、涙まで出る有様だった。さっきので、向こう一年分は笑った気がする。
「うわ~。着物もめちゃくちゃだ」
私は自分の格好を見て、肩を落とす。
ヒサメにくすぐられ、それから逃げようとしてハチャメチャに動いたため、着物はとても乱れていた。こんな格好で外を出歩いたら、余計な誤解を生みそうである。
私は乱れた着物を正しながら、溜息を吐いた。
私がヒサメに迷惑をかけたのは事実だが、何もあんな風に罰することはないではないか。そう、思う。
というか、あの男。途中から、喜々として私をくすぐっていたような……。
――嗜虐趣味でもあるのだろうか…。
私はぶるりと身体を震わせる。ヒサメの変態的な
そういう趣向は、外でやってもらいたい。門で待ち構えているお嬢さんの中には、ヤツの趣味に付き合ってくれる奇特な人がいるかもしれないから。ぜひ、その人と。
そんなことを考えつつ、着物を正す手は止めない。
程なくして、着崩れた着物が元通りになる。
「よし、これで元通り。さて、夕飯の準備を急がないと…」
私は完全に気持ちを切り替えて、台所へと足を向けた。
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