第66話 筆(弐)

 立ちくらみからの転倒に、私は少し驚いていた。

 ぼうっと天井を眺めながら、「いったい、どうした?」と自分で自分の身体を不審がる。健康で丈夫なのが、取柄だったのに……と。


 そうこうしている内に、廊下からこちらへ近づく足音が聞こえてきた。倒れたとき、結構音がしてしまたから、おコマさんあたりが様子を見に来てくれたのかもしれない。

 おもむろに、ふすまが開いた。そこに立っていたのは――げっ。


「何やっているんだ?お前……」


 そう言って、私を見下ろすのはヒサメだ。彼は呆れたような顔をしている。


「こんな所で寝たら風邪ひくぞ」


 寝てたんじゃない、転んだんだっ!!

 という言葉を飲み込んで、私は起き上がろうとした。

 頭がまだフラフラとするが、起きられなくはない。たぶん。


 私がもたもたと身を起こしていたところ、ヒサメが文机の上に目を止めた。そこには、ついさっき書き上げたばかりの守護の呪符と天狐の筆が置いてある。


「お前、この筆を使ったのか?」

「……はい。どんなものか、試してみたくて」


 ヒサメは呪符、筆、そして私を見比べて「なるほどな」と呟いた。

 いったい何が「なるほど」なのか、私にはとんと分からない。


「この呪符の神与しんよ文字、お前のだろう」

「……は?」

「だから、血だ。血液。お前の血で字が書いてある」


 ヒサメが指し示すのは私が書いた呪符だ。確かにその文字は赤い、赤いが…。


「さすがに血ではないかと……。私はどこも怪我をしていませんし」


 天狐の筆を持っていた右手を見るが、傷も血の痕もない。

 そもそも、血文字なんて猟奇的なことをしたつもりも、するつもりもないし、筆で呪符を書ける量の出血をしていたら、すぐ気付くはずだ。

 ――と思うのだが、ヒサメは私のことなんて無視して、ブツブツ独り言を呟いている。


「血を対価に力を与える筆…?この呪符、確かに……」

「あ、そうだ。いただいた筆で書いた呪符、どうでしょうか?いつものものと違いはありますか?」


 私じゃ、出来上がった呪符を見ても、天狐の筆の効果が判断できなかった。明日にでも、ヒサメに聞こうと思っていたからちょうどいい。

 そう思って、尋ねたら……


「効果はいつもの三十倍はあるだろうなぁ」

「そうですか、三十ば……三十倍っ!?」


 もの凄い数字が聞こえてきて、私は耳を疑った。


「三倍ではなく!?」

「三十倍だ。さすがは千年生きた天狐の尾から作られた筆なだけはある」

「そんなに凄いとは……」

「しかし、連発で使うのは無理だろう」

「えっ?」


 ヒサメが私を指さす。


「お前、顔色が悪いぞ。夜でも分かるくらいにな。おそらく、貧血だろう。対価として自分の血を使ったからだ」

「……」


 実は未だに、私はめまいがしていた。正直言えば、身体には倦怠感もあって、起き上がるのがやっと。立ち上がれそうにはない。

 なるほど、貧血。確かに、これは貧血の症状か。

 私は妙に納得した。


「ところで、この呪符。どうするんだ?要らんのなら、俺が買い取るぞ」


 すると、ヒサメは破格の値段を口にした。効果はいつもの呪符の三十倍と言ったが、値段はそれ以上だった。

 すぐに「売りますっ!」と言いそうになって、私ははたと思い出す。

 この筆には、天狐の尾が使われている。つまり、コンのお母さんの……。


「すみませんが、この筆で書いた一枚目の呪符はコンにあげたいです」

「……そうか」


 あれだけの高値をつけるのだから、もっと粘られるかと思ったが、意外にもあっさりとヒサメは引き下がった。


「お前は本当にコンのことばかりだなぁ」


 呆れとも、感心ともとれるような口ぶりでヒサメが言う。


「さて、筆の試し書きが終わったんなら部屋へ戻れ。今日はもう遅い。早く寝ろ」

「はい…」

「どうした?なぜ、立ち上がらない」

「…そのうち、部屋に戻りますから。ヒサメ様は先にお休みください」


 おそらく貧血のせいだろう。立ち上がらないのではなく、立ちのだが、そんなことを言い出せばヒサメに失笑されるのがオチである。

 私は誤魔化そうとした――が……


「……お前、まさか。貧血で立てないのか?」


 あっさりヒサメに看破されてしまった。


「……」


 図星を指されて押し黙る私を、ヒサメは冷ややかに見る。


「鈍くさいやつ」


 案の定の反応だが、何とも酷い男である。

 だが、そこからのヒサメの行動は私の予想外だった。


 ヒサメは天狐の筆を木箱に仕舞い、その上に私が書いた呪符を置いた――それを私に手渡す。よく分からないまま受け取ると、私の身体がふわりと浮いた。


「えっ?」


 気付けば、すぐ近くにヒサメの顔がある。そこでやっと、私は彼に抱きかかえられていると気付いた。

 いわゆる、お姫様抱っこというヤツ。少女漫画でたまに見かけるそれを、私はヒサメにされている。


 もしかしなくても、私を自室まで運んでくれようとしているのだろうか…?あのヒサメが?どういう風の吹き回しだ?

 思いもよらぬヒサメの親切に、私は混乱する。


「あの…ヒサメ様…?」

「うるさいと落とすぞ」


 落とされてはかなわないと思い、一瞬私はビクリとする。

 けれども、そんな脅しに反して、ヒサメの足取りはしっかりしたものだった。危なげなく、私を運んでくれている。


「ありがとうございます。ヒサメ様って力持ちなんですね」


 礼儀として感謝の言葉を伝えると、フンとヒサメは鼻を鳴らした。


「お前がチビなだけだろう」

「……」


 お礼を言ったつもりなのに、返ってきた言葉がこれだ。もう何も言うまい。


――そう言えば、お姫様抱っこなんて初体験かも。


 前世でも現世でも、男の人にこういう風に抱きかかえられるのは初めてだ。

 まぁ、だからと言って、特別感動するという代物でもないが。


 それよりも、私は他のことに気を取られていた。


――ヒサメの身体って温かいんだなぁ。


 触れられた部分がじんわりとぬくい。おそらく、彼の体温が高いのだろう。

 氷雨ヒサメなんて名前をしているのに、体温が高いとは。意外だ。


――名は体を表すというが、ヒサメの場合はその逆だなぁ。


 彼に部屋まで運ばれている間、そんなことを私は考えていた。



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