第65話 筆(壱)
このところ、ヒサメの機嫌が悪い。
というのも――
「きゃあ!四条様だわ!」
「かっこいい!」
「本当っ!
屋敷の門を越えても聞こえてくる、この黄色い声のせいである。
ちなみに、
その小説の中の主人公は、ヒサメをモデルにしたのだと
私はいつだったか、豆腐屋の女将のお
『今も人気だけれども。さらに、四条様の人気は高まるかもねぇ。四条様会いたさに、屋敷に読者が押しかけたりして』
ああ!恐れていたことが現実になってしまっている!
私は頭を抱えたい気持ちでいっぱいだった。
ちらりと門の近くを伺えば、そこにヒサメがいた。今まさに、屋敷に押しかけてきた女性たちの中をくぐり抜け、敷地内に入ったばかりの様子だ。
女性たちに「のいてください」と声をかけながら、ロウさんが苦労して門扉を閉めると、途端にヒサメは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「何なんだ。あの女共は……」
「ええやないですか。ヒサメさん、大人気で」
地の底を這うような声と、楽しそうな弾んだ声。真逆の性質の声が聞こえてくる。
「
「だって、他人事ですもん」
ヒサメが睨むものの、千景さんはケロリとしている。この日、仕事の後も用があるとかで、二人は検非違使庁から一緒に四条の屋敷へ帰って来たのだった。
「しかし、小説の主人公の見本とはねぇ。ヒサメさんって、やっぱり世間から注目される星の下に生まれてきてるんやわぁ」
「妙な小説が流行りやがって……作者は誰だ?勝手に俺を使うとは良い度胸だ…」
「作者ねぇ。たしか、豆三郎って名前やった気が」
「くそっ!ふざけた名前をしやがって。ソイツが誰なのか突き止めてやる」
私は内心、ギクリとする。
豆三郎というのは、三郎さんのペンネームだ。そして、問題の小説が面白いから出版したらどうかと又六さんに薦めたのが、他でもない私だったりする。
――ヒサメが本気で作者を探ったら……これ。いずれ又六さんの所にたどり着くよね?そこから言い出しっぺが私だとバレたら……。
血が音を立てて引いていく思いだ。
早々に、又六さんやお芳さんに口止めをしておこう、と私は決心した。
そんな心中穏やかではない私の様子に気付いたのか。千景さんが心配そうに尋ねてきた。
「あれ?ハルちゃん。なんか、顔色悪ない?気分でも悪いの?」
「そんなことっ!全く、ちっともありません!私は元気そのものです!」
私はブンブンと勢いよく首を横に振って、声を上げた。
*
夕食の準備や後片付け、その他もろもろが終わったら、夜もすっかり更けていた。
今晩は千景さんも夕飯を食べていくことになり、食事時間が長引いてしまったのだ。
――千景さんがいると、場が明るくなるよなぁ。
私は食事の席の光景を振り返る。
小説ファンのことで気分最悪だったヒサメも、千景さんとお酒を飲んでいるうちに、何だかんだ機嫌を直していたし。千景さんのあの明るい性格は、もはや才能だろうと思った。
そうして、後は眠るだけという状況になったのだが、私には一つ試したいことがあった。
私は居間で、一人文机に向かい合う。そこには紙、墨、
加えて、木箱に入った真っ白な美しい筆。
そう、先日天狗の館で次郎坊さんからいただいた筆である。
コンの母親――天狐という
『この筆は神力を持たないが、
次郎坊さんの言葉が頭の中で蘇る。
ヒサメも「相当な妖力を秘めているな」と言っていたから、すごい力があるのだろう。
しかし、悲しきかな。
神力や妖力のない私には、この筆のすごさがよく分かっていなかった。これでは宝の持ち腐れである。
だから、この筆で呪符を書いたらどうなるのか、実際に試してみようと考えたのだ。
私は墨をすり、呪符を書く準備をした。とりあえず、汎用性の高い『守護の呪符』を書いてみようと思う。
深呼吸を一つして、私は木箱の筆をとった。いざ、という気持ちで筆に墨を付けようとする。
そのとき、不思議なことが起こった。
「えっ…」
私は思わず、自分の目を疑った。
手に筆を持った瞬間、穂首が見る見る朱に染まっていったのだ。
つい今しがた、すった墨は朱墨ではない。黒い墨だ。
そもそも、私はまだ筆に墨をつけてさえいないのに。
「いったい、どういうこと?」
何が何だか分からなかったが、私はこのままの状態の筆で呪符を書いてみることにした。本来ならば、墨を付けていないのだから文字が書けるはずがない。
けれども、入筆すると、何の問題もなく紙の上に字が書けた。赤い文字だ。
私は若干緊張しながらも、鮮やかに赤い
ややあって、問題なく呪符が完成した。
文字が赤いことを除けば、いつも通りの出来である。
私が筆を置くと、つい先ほどまで朱に染まっていた筆からサーッと色が消えていった。そして、気が付けば元通り。洗ってもいないのに、穂首が真っ白になっている。
「不思議な筆だなぁ」
次郎坊さんの言う通り、確かに普通の筆と違うことが分かった。墨を使わずに書け、洗う必要もなさそうなのは大変『便利』だということも。
でも、まさか。天狐の筆の力がただの『便利』だけであるはずがない。
「ということは、出来た呪符に違いがある…?」
私はもう一度、守護の呪符を観察する。だが、その出来栄えについて、いつもの
――仕方ない。明日、ヒサメに見てもらおう。
私は小さく溜息を吐くと、畳から立ち上がる。文机の紙やら硯やらを片付けようとして……
「……あれ?」
不意に、めまいが私を襲う。
足に力が入らなくて、私はそのまま転倒してしまった。
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