第64話 天狗(参)
ヒサメと次郎坊さんの話し合いが終わったようで、私たちは大広間に入ることを許された。
見たところ、部屋に争った形跡はない。話し合いが平和的に行われたと知れて、私はホッとした。直前の二人の空気がずいぶん緊迫していたように思えて、実は少し心配していたのだ。
……と、私とコンの前にヌッとヒサメが立ちはだかった。彼は爽やかな笑みで私たちを見下ろし――
ぎゅっ。
それぞれの頬をつまみ上げて引っ張った。
「いひゃいっ!」
「いひゃいっ!!」
「どうしてお前らは、こう面倒事ばかりに巻き込まれるんだっ!!」
お怒りのヒサメである。
思う存分、頬の収縮性を確かめた後、ヒサメはやっと私たちを解放した。
私もコンも引っ張られた頬をさする。コンは涙目になっていた。
――でも、ヒサメが怒るのも無理ないか。人喰い鬼の一件があった後だし、現に迷惑をかけてしまっているし……。
面倒事に巻き込まれないようにしようと思っていたのに、このザマである。私は反省し、ヒサメに頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
「…ったく」
もう一言二言、小言の追随が来るかと身構えたが、私とヒサメの間に割って入ってきてくれた子がいた。小鈴ちゃんである。
「コン様もハル様も、
「――チッ」
私たちを庇おうとする小鈴ちゃんを見て、ヒサメは軽く舌打ちする。そんな彼に小鈴ちゃんは軽くお辞儀をし、「コン様。ハル様」と改まった様子でこちらに向き直った。
小鈴ちゃんは、その両手にそれぞれ小さな入れ物を持っていた。一つは真鍮製の薬ケースのようなもの、もう一つは色鮮やかな陶器で油壺に見える。
小鈴ちゃんは薬入れをコンに、油壺を私に差し出した。
「コン様には天狗秘伝の軟膏を――傷や打ち身に効きます。ハル様には椿油を――烏天狗縁の神社にある椿の樹、その種から作られたもので、非常に髪に良いのです。私も愛用しております。せめてものお礼に、私からお二人へ……」
小鈴ちゃんの感謝の気持ちがストレートに伝わってきて、私たちは「ありがとう」と笑顔でそれらを受け取った。
すると、私たちの様子を眺めていた次郎坊さんが「ならば、わしも」と腰を上げる。
パンッと大広間の襖が開いたかと思うと、木箱が浮いた状態で何処からともなくこちらにやって来た。
次郎坊さんはそれを手に取ると、パカリと蓋を開ける。その中身が、私とコンに見えるように箱を掲げてみせた。
箱の中身は上等そうな筆だった。
まだ、未使用なのか穂首(毛の部分)は雪のように真っ白だ。とても美しい筆だった。
「相当な妖力を秘めているな」とヒサメが小さく呟く。
「この筆はとても特別なものでのうぅ。筆の軸の部分は樹齢千年の松の木の枝で出来ている。そして、穂首は――」
つらつらと次郎坊さんは筆について説明し始め、にこりと微笑んだ。
「わしが敬愛する天狐様の尾の毛から作られた」
「天狐って…もしかして」
私は思わずコンを見る。コンは不思議そうな顔で、
「おかあさん…?」
そう呟いた。
次郎坊さんは大きく頷く。
「ああ、その通り。おぬしのご母堂に生前貰い受けたのだ」
母親の尾の毛が使われたという筆。それをコンはまじまじと見つめていた。
「孫を救ってくれた礼に、ハル。これをおぬしに渡そう」
「…えっ?私ですか?」
思いがけない次郎坊さんの申し出に、私は目を丸くする。
「コンのお母さんの毛から作ったのなら、コンが受け取るべきでは?」
「だが、この中の誰よりも、おぬしがこの筆を使いこなせるはずだ」
「そんな…買いかぶりです」
私はふるふると首を横に振った。
そんなたいそうな物、私が持つべきではない。きっと筆の持ち主として相応しくないだろう。
そのとき、コンが立ち上がった。彼は浮遊した状態にある筆の入った木箱を手で掴むと、それを私の前にぐいっと押し出してくる。
「これ。ハルが使って」
「でも、これはコンのお母さんの……コンにとって特別なものでしょう」
「うん。でも、ボクじゃ、使いこなせないもの。ボクはハルに使ってほしい」
天狐の息子であるコン本人にそう言われてしまって、私はほとほと困ってしまった。
すると突然、次郎坊さんが私にこんな質問をした。
「ハル。おぬし、コンのことが大事か?」
「はい」
コンは私の家族だ。大事に決まっている。
即答すると、次郎坊さんは笑みを濃くした。
「ならば、この筆を持て」
「でも…」
「この筆は神力を持たないが、
「コンを…?」
次郎坊さんの言葉を聞いて、私は考えた。
神力や妖力がなく、非力な私は戦う術がほとんどない。それは先の人喰い鬼の一件で、骨身にしみている。
あの事件で、私とコンが生き延びられたのは運が良かったからだ。
あと少し、あと数分、いや一分。
ヒサメたちの到着が遅れていたら、私もコンも死んでいただろう。
――この筆が私に力を与えてくれる…?本当に?
ヒサメたちと違い、妖力などに鈍感な私には、ただの美しい筆にしか見えない。コンの母親の尾の毛が使われているというのなら、コンに渡してやりたいと心から思う。
しかし、この筆が私にコンを守る力を貸してくれるというのなら……
「……」
私はコンから筆の入った木箱を受け取る。
「ありがたく、頂戴いたします」
次郎坊さんにお辞儀をすると、「うむ」と彼は首を縦に振る。
軽いはずの木箱が気のせいか、私の手の中でずしりと重たく感じたのだった。
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