第62話 天狗(壱)
つい先ほどまで、
そんな馬鹿なと私は言いたかった。
都から
しかし、格子窓から外を覗けば、どう考えても都とは思えない風景が広がっている。
ここは山の中の――それもかなり標高が高い場所。よくよく見れば、急な斜面に民家と思わしき家が数件見て取れた。
「まさか、本当に
呆然とする私に、双子の天狗左助と右助が頷いた。
「ええ。ここは確かに
「『天狗の抜け道』を使えば、アッと言う間です」
「天狗の抜け道……?」と聞き返せば、先ほど私たちが抜けてきた暗い通路を指すのだと言う。もしかしたらあの道、空間が捻じ曲がってでもいるのだろうか?
説明を聞いても、なお困惑している私をよそに、小鈴ちゃんはテキパキと動き回る。どこからともなく救急箱のようなものを取り出してきて、コンの手当てをしてくれた。
そのとき、不意に
そこに立っている人の姿を見て、私はギョッとした。
その人は、女性ものの着物を着ていて、背格好は人間とそっくりだった。違うのは背中の翼と顔の造形だ。顔は人間のそれと違い、鳥のような
――まさか、これが天狗っ!?
私はその人と、小鈴ちゃんや左助、右助を見比べる。彼らの顔は人間のものだが、これはやはり化けた姿なのだろうか?
小鈴ちゃんの姿を見て、鳥のような見た目の女性は驚きの声を上げた。
「何やら騒がしいと思ったら、お嬢様!皆っ!お嬢様がお帰りになられたわよっ!!早く来て!!」
彼女が部屋の外にまで響き渡るような大声でそう叫んだせいで、わらわらと同じような見た目の天狗たちが部屋に押し寄せてきた。
ずらりと鳥の顔が並ぶ。彼らは口々に小鈴ちゃんの帰還を喜び、その一方で……
「おい。見慣れぬ顔がいるぞ」
「あれは人間か?」
「人間がどうしてここに?」
私やコンを見て、不審がる声が聞こえてきた。
――私、なんだかとんでもない所に来ちゃったかも……。
頭の片隅で「どうしてこう面倒ばかりに巻き込まれるんだ!?」と怒るヒサメの声が聞こえた気がする。これ以上大事にならないためにも、早々に都に帰るのが良いだろう。
それで、私は小鈴ちゃんに話しかけたのだが……
「コンの手当てもしてもらったし、私たちはそろそろ都へ――」
「お嬢っ!」
私の言葉を遮って、一人の男の天狗が慌ただしくこちらへ走ってきた。彼は息を切らせながら、小鈴ちゃんに言う。
「お嬢、次郎坊様がお呼びです!お連れ様も一緒にとのことですっ!」
げっ、と思わず声に出す私。
どうやら逃げるタイミングを逃してしまったらしい。
そうして、私たちは問答無用で
*
この天狗だらけの館は思った以上に巨大だった。
一階から三階まで玄関広間が吹き抜けになっていて、さらに上にも
次郎坊さんは他の天狗と同様に、鳥の顔と立派な翼を持っており、その顔には深い皺が刻まれていた。もしかしたら、結構なお年なのかもしれない。
しかし、その眼光は鋭く、猛禽類のそれを思わせる。自然とこちらが居住まいを正してしまうような風格があった。
百畳はありそうな、だだっ広い畳敷きの部屋に、私たちは正座していた。上座には次郎坊さんが厳めしい顔でドンと座っている。
まず、小鈴ちゃんの口からこれまでの
都にお忍びで出掛けたら、運悪く狩り人に捕まってしまったこと。
隙を見て彼らの元から脱出し、その時に私とコンに助けられたこと。
左助と右助が勘違いをして、コンに怪我を負わせたので、手当てのため天狗の館に私たちを連れてきたこと。
一部始終を聞いた後、次郎坊さんは私とコンに向かって頭を下げた。
「孫娘を助けてくださったこと、心から礼を申し上げる。また、うちの若い衆が迷惑をおかけして大変申し訳なかった。後でよく言い聞かせますので」
よく言い聞かせます――という発言を聞いて、「ひっ」と左助と右助の二人が小さく悲鳴をもらす。
続いて、次郎坊さんは小鈴ちゃんを見た。
「しかし、元はと言えば――小鈴。お前が一人で
鋭い叱責が飛び、小鈴ちゃんはしゅんとする。
「ごめんなさい。お爺さま」
「お前に何かあったら、わしはあの世の息子夫婦に顔向けできん。まったく……」
怒りのためだろうか。次郎坊さんは語気を震わせた。
確かに、小鈴ちゃんのしたことは褒められたものではないが、小さい子が怒鳴られるのは心臓が痛くなる。
私はハラハラしながら、次郎坊さんと小鈴ちゃんの二人を見守っていた。
すると――
「ほんとぉ~にっ、無事でよかったぁ。スーちゃんの行方が分からん間、じいじは生きた心地がせんかったぞぉ」
突然、次郎坊さんはおいおいと泣き始めた。
小鈴ちゃんを「スーちゃん」と呼び、自らを「じいじ」と称する御仁は、孫を猫かわいがりするお爺ちゃんそのもので、威厳も何もあったものじゃない。
コンは次郎坊さんの豹変ぶりに、ポカンと口を開けていた。
左助と右助はいつものことなのかスルー、小鈴ちゃんはちょっと決まりの悪そうな顔をしている。
さて。ひとしきり泣いた後、次郎坊さんはふと気付いたように私に目を向けた。
「それはそうと、おぬし……ハルといったか。スーちゃんにかけられた
どうやって私が小鈴ちゃんの呪いを解いたのか、次郎坊さんは気になるようだ。
私は腰に吊り下げた
「ほぉ、
そのまま立ち上がり、近づいて、次郎坊さんは紙魚たちを観察する。
「ふぅむ。よく育っているなぁ。餌が良いのだろうか。確かに、この紙魚たちなら呪文字も食べてしまえるだろうなぁ。これはおぬしの
「はい」
「ここまで育てるのには、さぞ苦労したじゃろう」
「え、えっと……」
――苦労?苦労なんてしたっけ…?
私がやったことと言えば、ただひたすら紙魚たちに文字を与えただけである。
ヒサメに頼まれている呪符の作製や、その練習もあるから、私は毎日のように文字を書いている。その一部を紙魚たちに渡すだけの、簡単なお仕事だった。
私が言い淀んでいると、隣でコンがこう言った。
「ハルはね、すごいんだよ!文字をかくと、ソレに神気がやどるんだって!それをお魚にあげているのっ!」
「ほぉ。それは興味深い」
今度は私のことをしげしげと見つめる次郎坊さん。その
「本人には神力がないのに、書いた文字には神気が宿る……なんとも特異な性質じゃのう」
「そ、そうでしょうか…?」
「ああ。もしかしたら、おぬしの
「祝福?」
次郎坊さんの言葉に、私は首をかしげる。
祝福されたから、私はこの能力を授かった……ということだろうか?
――しかし、いったい誰から?
全く心当たりがなくて、私は次郎坊さんに尋ねた。
「私はいったい、誰から祝福されたのでしょうか?」
「さぁ、そこまでは分からん。ただし、そんじょそこらの術師や
ますます心当たりがなくて、私は頭を悩ませる。
次郎坊さんは「実に興味深い」ともう一度言った。
「摩訶不思議な力を持つ人の子に、天狐様の血を受け継ぐ
ころころ笑う次郎坊さんに、コンが不思議そうな顔をする。
「あれ?ボク、おかあさんのこと言ったっけ?」
そのコンの疑問には答えず、次郎坊さんはこう続けた。
「おや?どうやら新たな客人がやって来たようじゃな」
すぐに、こちらに駆け寄る荒々しい足音がしたかと思うと、パンッと襖が開く。そこには血相を変えた天狗の男がいた。
彼は叫ぶ。
「た、大変です、お館さま!敵襲でございますっ!!」
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