第54話 髪(参)
いったい、いつからそこに居たのか分からないが、ヒサメはジッと私たちの方を凝視していた。
ややあって、徳子たちもその存在に気付く。
「四条様っ!」
黄色い声というのはこういうのを指すのだろう。嬉しさが声ににじみ出ていた。
すると、ヒサメはゆっくりとこちらに近づいて来る。その顔には、いつものように綺麗な笑みが貼り付けられているのだが……
「……」
「……」
私と千景さんは顔を見合わせた。
私も彼もヒサメの上辺だけの笑みは見慣れているのだが、今回は普段と違っている。その違和感を的確に表現するのは難しいが、なんだろう。妙な威圧感があった。
ただ一つ分かるのは、ヒサメの機嫌が相当悪いということである。
――会議で何かあったのかな?それとも、徳子たちに押しかけられたのが嫌だった?
ヒサメの不機嫌の理由としては、どちらもありそうだ。
それにしても、この状況。まさに前門の虎、後門の狼。
徳子たちにも、不機嫌なヒサメにも関わりたくないのに、その二つに前後を囲まれてしまっている。
一方の徳子たちは、ヒサメの登場に興奮気味で、突然の訪問を詫びながらも、熱心に彼に話しかけていた。
ヒサメはそれを笑顔で聞いている。聞いてはいるが、彼から
どうして、徳子たちはそれに気づかないのか。今この場では、その鈍感さが私は羨ましかった。
「ねぇ、お茶でもしに行きませんか?
上目遣いに、徳子がヒサメを誘う。それにヒサメは首を横に振った。
「魅力的なお誘いですが、まだ仕事がありますので」
「少しくらい良いじゃないですか」
「そうでよぉ。せっかく、こうしてお会いできましたのに」
「ねぇ」
ヒサメの断りにもめげず、お嬢様方が甘ったるい声で言い
「――っ!」
私はたじろぐ。
場の雰囲気がさらに重いものになっていた。
その圧迫感に、息苦しさまで感じるほどである。
しかし、ヒサメは依然として笑顔……それがまた怖い。
これまでに、何度もヒサメに睨まれたり、冷たく見下ろされたりしたことはあるが、こんな恐怖すら覚える緊張感は初めてであった。
鈍感な徳子たちも、さすがにこの異様な空気に気付いたのか、あれだけ騒がしかったのが嘘のように、ピタリと押し黙った。三人は互いを、不安そうな目で見合う。
再度、ヒサメが言った。
「申し訳ありませんが、仕事ですので」
「そ、そうですわね。また、次の機会に」
徳子は上ずった声で頷くと、他二人を引き連れて、すごすごと帰っていった。
後には、私と千景さん、そして……ものすご~く不機嫌なヒサメが残される。
「そ、それじゃあ…私もっ!」
空気の重さに耐えかねて、私もそそくさと逃げようとした。けれども、それはヒサメによって阻止される。
「お前はまだ残っていろ。とにかく、中に入れ」
残念。逃亡失敗だ。
隣で千景さんが「一人だけ逃げるのはズルいわぁ~」と茶化すように言った。
*
幸い、第一課の部屋に入ると、あの押しつぶされそうな圧迫感はなくなった。当のヒサメを見ると、機嫌の悪さも幾分改善したようである。
同じような机がずらりと並べられている広い室内には、私たちの他に誰もいない。他の職員は出張らっているようだった。
「そう言えば、コンはどこにいるんですか?」
私が尋ねると、「アイツは今、修行中でここにはいない。ロウが面倒をみている」とのこと。
そレを聞いて、私は少しがっかりした。
「その辺に適当に座って、自分で茶でも淹れて暇を潰していろ」
ヒサメは千景さんから荷物を受け取りつつ(私がお使いで持ってきたものだ)、私に指示を出す。これに、私は首をひねった。
――わざわざ呼び止めたのだから、用事があると思ったのだけれど……。
暇を潰していろということは、私に用はないらしい。いったい、私は何のためにこの場に残ったのか、よく分からなかった。
その戸惑いが表面に出ていたのか、私の顔を見てヒサメは溜息を吐きながら話す。
「あの女共と帰り道が一緒になったら、また面倒だろう。鉢合わないように時間をズラせ」
ヒサメの言葉を聞いて、それは盲点だったと思うよりも何よりも、私はびっくりしていた。だって、あのヒサメが私に気を使ってくれたのだから。
――今度こそ空から槍でも降るんじゃ……といけない、いけない。
私は慌てて、表情筋をひきしめた。
いつだったか。ヒサメにお礼を言われ、私が驚いた顔をしてみせたら、頬を引っ張られたことを思い出す。アレは結構、痛かった。
「お気遣い、ありがとうございます」
「……ああ」
「えっと…何か?」
ヒサメがジッと私を見つめてくるので、そう尋ねると「髪」という単語が返ってきた。
髪……ああ、私の髪か。
徳子に
「髪が気になるなら、
「ええっ!?ヒサメ様がですか?」
「他に誰がいるんだ」
私は動揺した。
どうにもこうにも今日のヒサメはおかしい。私に対して、親切すぎる。
――熱でもあるのか。もしかして、変な物を食べた?いや、変な物なんて出していないよね…?
ヒサメの食事を管理しているのは他ならぬ私だ。私は今日の朝食のメニューを振り返っていた。
「お前……また、失礼なことを考えているだろう」
「滅相もございません」
「……ったく。で、どうする?
確かに、
しかし、そもそも。良識ある人は笑ったりしない。
成人女性が短い髪を
「いいえ、要りません」
私はキッパリと答えた。
「実は、髪が短いことを私自身はそれほど気にしていないのです。みっともないとも思っていません。髪はいずれ伸びますし、必要ありません」
「そうか…」
「それに、この髪で得したこともあります」
「得?」
「洗髪が楽ですし、豆腐屋のお芳さんに同情してもらって、ただで豆腐や油揚げを貰えました」
油揚げを使ってコンの好物の稲荷ずしを作ろうと思う――そう言うと、「フハッ」とヒサメが噴き出した。
実に愉快そうに笑う。いつの間にか、彼の不機嫌は鳴りを潜めていた。
ヒサメは言う。
「そう言えば、お前。そういう図太い女だったな」
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