第32話 紙魚(肆)
「何なん?壺が独りでに動いて…」
「千景。壺の方はお前が何とかしろ」
「へ?」
「……来るぞ!」
――ガタッ!
壺がいっそう大きく揺れたかと思うと、その中から何かがこちらに向かって飛び出してきた。
銀色に光る小さなモノ、それが群れを作っている。一瞬、羽虫かと思ったが、よくよく見れば――
「さ、魚!?」
宙を飛ぶのは虫ではなく、銀色の小さな魚だった。その数は二十を超えるだろうか。
――と、魚たちが飛び出た反動で、壺がぐらつく。あわや台から落ち、床に叩きつけられそうになる寸前で、千景さんが壺をキャッチした。
「あぶ、危なっ!コレ、渡来品の高いヤツやん!!」
一方、魚たちは吸い寄せられるようにヒサメの方へ向かっていく。小さな尾びれをパタパタ動かす様子は、飛ぶと言うよりも、宙を泳いでいるみたいだ。
宙を泳ぐ魚なんて、見たことも聞いたこともない。十中八九、アレは
もしかして、資料の文字が消えたのは、この魚たちの仕業だろうか?
私と千景さんが見守る中、おもむろにヒサメは魚たちの前へ私が書いた呪符を突き出した。
いったい、何をするのかと固唾をのんでいれば――
「えっ!?」
「うわっ!?」
私たちは驚きの声を上げる。
魚たちは呪符に群がったかと思うと、紙の上から文字がすぅーと消えていっているのだ。
「そのお魚さん。字を食べてるの?」
コンが興味津々といった様子で聞くと、「その通りだ」とヒサメが頷いた。
「この
「神気?」
「ここの資料は祓魔師が作製したものだからな。神力のない人間が書いた文字に比べて、神気が宿っているのだろう。
コンに解説するヒサメに、私は質問する。
「
「それは虫のシミだろう。
眉をひそめるヒサメ。
千景さんの方を確かめれば、彼は自分の頬をサスサス触っている。私は何となく、彼の言いたいことが分かった。
「千景さんの肌はお綺麗ですよ。シミはありません」
「おおー!ハルちゃん、ありがとう」
千景さんはニコリと笑う。
「でも、ソコは『そのシミちゃうでー』って切り返して欲しいなぁ~」
「はぁ」
私と千景さんのやり取りを見て、ヒサメは頬をひきつらせた。
「……ほぉ。なら、俺が切り返してやろうか?拳で」
「えぇっ!?暴力反対!」
「ったく。阿呆なことを言ってる場合か。いい加減、本気で殴るぞ」
「うっ…すんません」
そうこうしているうちに、呪符に書かれた文字が綺麗サッパリ消えてしまった。まるで、最初から何も書かれていなかったみたいだ。
ヒサメが正しいならば、
「いいか。よく聞け」
ヒサメは
「実に美味い文字だっただろう?コレを書いたのはあの女だ」
そう言って、こちらを指すものだから、私はギクリとした。気のせいかもしれないが、魚たちの視線が私に集まったように感じる。
「あの女の式神になれば、いつでも美味い字が食えるぞ。どうする?」
「ちょっ…!?」
ヒサメの言葉を聞いて、
ニヤリとヒサメの口角が吊り上がる。
――どうしよう…。なんだか、とても嫌な予感がする。
そう思った瞬間、ぐっと私はヒサメに腕を掴まれた。
「な、なに」
「動くなよ。傷が増えるぞ」
「傷!?」
いったい何をしでかす気なのか。
条件反射で逃げようとするが、思いのほかヒサメの力は強く、私を掴む彼の手はビクともしない。
「手間をかけさせるな」
瞬間、指先に痛みを覚えた。
驚いて見ると、親指の先にぷっくりと血の玉ができている。ヒサメが何らかの術で、私の指を切ったのだろうか?
すると、
――この
サーッと血の気が引いていく私。対して、ヒサメはそんな私の様子なんておかまいなしだ。
ややあって、ヒサメは手を離し、私を解放した。
「これで式神の契約は成立だな」
悪魔的な笑みを浮かべながら、ヒサメは私を見下ろす。
「今から
「……」
私は抗議の気持ちを込めて、ヒサメを睨み上げた。
――この男……私の意思なんてかまわず、勝手に私と
そう思ったのは私だけじゃなかったようで、コンや千景さんも非難の視線をヒサメに向けている。
「ご主人さま…ひどい」
「女の子に怪我させて、勝手に
だが、外野にそんなことを言われたくらいで反省するようなヒサメではない。彼はあっさりと言ってのける。
「上手く育てば有用な
むしろ良いことをしてやった、と言わんばかりのヒサメに、この場にいる彼以外の三人は呆れていただろう。「こりゃ、アカンわ」と千景さんも溜息を吐いていた。
「それで、ハル。契約者として、
「そんなことができるんですか?」
「できるはずだ」
まるで実感がわかないが、私の式神になったという
半信半疑に思いつつ、私は
「食べてしまった資料の文字、元に戻してくれるかな?」
『……』
だが、反応はない。
「無理みたいです」
「お前の頼み方が悪いんだ」
そう思うのならば、アドバイスくらいくれても良さそうなものだが、ヒサメはヒント一つくれやしない。
そもそも、どうして今回のことで私が頭を悩ませなくてはいけないのか、とも思う。犯罪対策部の資料なんて私には関係のない話だし。正直に言うと、どうでもいいことなのだから。
「ハルちゃん、頑張ったって!資料が戻らんかったら、あの上司うるさいねん」
「千景さん。その点は同情しますが、素人の私にはどうすることも…」
「だいじょうぶ!ハルならできるよっ!!」
「コン……」
コンはキラキラと真っすぐな瞳で私を見てくる。含むところの一切ない、純粋な応援の気持ちがこちらにも伝わってきた。
ならばと、私はもう一度考えてみる。
――ヒサメはどうやって
私の呪符で
――この
思い付きのまま、私は
「もし、資料の文字を戻してくれるなら、君たちのために、後でもう一枚、呪符を書くよ」
『……!!』
意外にも、効果はてきめんだった。
黒い何かは線のように長く連なっている。
「あ、ハルちゃん!よぅ見てみ。コレ、文字や」
「えっ?」
千景さんに指摘されて目を凝らしてみると、確かにソレは墨で書かれた文字だった。何とも不思議なことに、文字が宙を舞っているのである。
おそらくこれが、
文字はしばらく宙を漂うと、スルスルと独りでに、机の上に置かれてあった白紙の冊子に吸い込まれていった。
慌てて千景さんは冊子の中身を確認する。
「あっ!戻っとる!ちゃんと、戻ってるわ!!文章もおかしない!」
続いて、ヒサメも冊子を検分した。
「うん。多少、消化された文字があるかもしれないが……まぁ、大方は無事だろう」
「はぁ~。ほんま、助かったわ。ありがとう、ハルちゃん!あと、ヒサメさんも」
犯罪対策部資料の文字が消えるという奇怪な事件は、どうやらこれで一件落着のようだ。
それにしても、まさか私がコン以外の
私はちらりと宙を泳ぐ
「ありがとう。これから、よろしくね」
相変わらず、何を考えているのか分からない
まぁ、なるようになるだろう。
とりあえず、四条の屋敷に帰ったら、
そんなことを私は考えた。
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