第31話 紙魚(参)
「わしの今後のためにも、しっかり頼むぞ」
そう言い残して、森という上司は資料室を出て行った。大雑把な性格の男のようで、資料室の戸は開けっ放しにしたままだ。
廊下から森の気配がなくなると、ヒサメの顔からも綺麗な笑みが消え失せ、眉間にしわが寄った。
「――チッ。時間を無駄にした」
さっきまでの感じの良い雰囲気から打って変わり、悪態を吐くヒサメ。どうやらヒサメは、上司に対してもその本性を出していないようである。
その変わり身に感心しつつ、通常運転に戻ってくれて私はホッとした。普段のヒサメを見慣れている者からすれば、人当たりの良いヒサメというのは気持ち悪いのだ。
そんなことを考えていると……
「もはや、アレ。二重人格やよな」
コソコソと千景さんが話しかけてきた。私は思わず頷いてしまう。
「職場では、いつもあんな風なんですか?」
「そやね。ヒサメさん、基本的に素を出さんから。あの人の裏表を知ってるの、職場でも俺くらいちゃうかなぁ」
つまり千景さんは、ヒサメがその本性を見せる数少ない人間……ということなのだろう。
「おいっ、そこ!何、ごちゃごちゃ話している?」
「え~?大したことは話してませんよ」
「……ったく。いいから、
「もしかして、この部屋にいるんですか?」
「部屋の中かどうかは分からないが、資料室付近にはいるはずだ」
「えぇ!?ほんまに?」
「やかましい。お前は静かにできんのか」
「けど、午前中に皆で怪しいヤツがいないか探し回ったんですよ?探知にも引っかからんかったし…」
「身を潜めるのが上手いヤツみたいだな……おい、ハル」
急に名前を呼ばれて、私は少し驚く。
「はい」
「字を書け」
「……は?」
いきなり何を言い出すんだ。この男は…。
私は怪訝な目でヒサメを見上げた。
「なんだ。その不満そうな顔は?」
「えっと、今ここで……字を書くんですか?」
「そうだと言っているだろう。何のためにお前を連れてきたと思っているんだ?まさか筆や墨の準備を忘れたんじゃないだろうなぁ?」
「……ヒサメ様に言われましたから、ちゃんと持ってきていますよ」
「なら、さっさと用意しろ」
正直なところ、ヒサメの意図が分からず私は困惑していたが……まぁ、ご主人様がこう言うのだ。命令通りに動くしかないだろう。
私は荷物から、筆、紙、
「何を書きましょうか?」
「何でもいい」
――それなら、書き慣れている氷の呪符を書こうか。アレなら文字も符号も暗記しているし。
私が筆を執り、文字を書き始めると、「えっ」と千景さんが息を呑むのが分かった。
「うそぉ!ハルちゃんが呪符書くの?」
「千景。うるさいぞ。ハルはコイツを無視しろ。集中して書け」
言われなくとも、集中しないと書き損じる。私は二人の声をシャットアウトし、呪符の方に没頭した。
程なくして呪符が完成すると、それをさらうように手に取ったのは、ヒサメではなく千景さんだった。
「おい、千景」
「……すごい。めっちゃ、ええ出来やん」
隅々まで呪符を確認した後、千景さんは私をジッと見つめてくる。そして、改まった様子でこんなことを言い出した。
「ハルちゃん。あと二、三年したらお兄さんと結婚せぇへん?」
「へ?」
「はぁ?」
突然のプロポーズ。
これには私だけではなく、ヒサメも驚きの声を漏らす。
「何言ってんだ、お前。気でも狂ったか?」
「何がおかしいんです?可愛くて、こんなすごい呪符を書けるお嫁さんなんて、祓い屋にとったら最高やん」
つまり、千景さんの狙いは私の
「ハルちゃん、どうやろ?自分で言うのもなんやけど、けっこうオススメ物件やと思うんよ。俺。ヒサメさんほどじゃないけど腕も立つし、ちゃあんと出世街道を進んでるし」
「はぁ」
「ハルちゃんだって、いつまでもヒサメさんとこで働くつもりやないやろ?まだ、結婚を意識するのは早いかもしれんけれど、候補にいれてくれたら…」
「んん?」
千景さんの言葉に、私は首を捻るところがあった。
この
そして、私は今まさに十七歳だ。
――これは、つまり……。
「はぁ~」と私は深く溜息を吐いた。慣れていることだが、説明するのが面倒くさい。もう、このまま話を流してしまおうか……。
そんなことを考える私の様子を見て、千景さんはショックを受けた顔をする。
「えっ!?俺との結婚、そんなに嫌?」
「そりゃ、年上のオッサンから結婚を迫られたら気色悪いだろう」
「オッサンちゃう!お兄さん!そんなんゆーたら、ヒサメさんもオッサンやで?それに、ハルちゃん十四歳くらいやろ?これくらいの年の差は十分許容範囲のはず――」
「そうか?十三……いや、十二くらいじゃないか?」
「う~ん、確かに……そうかもしれんけど」
「……」
そこまで幼く見えるのかと、私は遠い目をした。
身長のせいか?それとも顔立ちか?
もしかして、立ち振る舞いが子供っぽいのだろうか?
これでも、前世で朝倉詩子だったときは、むしろ実年齢より大人っぽいと言われていたのだが……。
悶々とする私からは、もはや年齢を訂正する気も失せている。真実を言ってもからかわれるだけだ。
そんな中で、口を開いたのはコンだった。
「十七だよ」
コンはあっさりと言った。
「へ?」
「あ?」
いったい何を言われたのか、イマイチ分かっていないヒサメと千景さんの二人に対して、コンは繰り返す。
「だから、ハルの年。十七才だって」
コンの発言に、ヒサメも千景さんも
「ほんま、堪忍!」
両手を合わせて謝る千景さんに、「もういいですよ」と私は笑う。
要は、高校生が中学生や、ともすれば小学生に見間違われたようなものなので、ショックと言えばショックだが……相手に悪気があったわけでもない。
白神子村の
「……てか、ヒサメさん。あの屋敷に、ハルちゃんも住んでいるんでしょう?なんで、年齢も知らんの?」
「うるせーな。最初はコンの世話係で連れてきただけなんだ。そんなところまで、気に掛けるかよ」
「でも、一緒に暮らしていたら何となく分かりません?」
「確かに。年の割にはしっかりしているなとは思ったが……」
頭を掻きながら、面倒くさそうにヒサメは続ける。
「年頃の女なら、俺に見惚れたり、言い寄ってきたりするもんだろう?それがないから、色恋が分からんくらい幼いのだろうと思っていたんだ」
「……」
「……」
ヒサメの発言を聞いて、私も千景さんも閉口した。
コイツ、世の中全ての女が自分に惚れるとでも思っているのだろうか。
呆れている私の横で、ボソボソと千景さんが呟いた。
「ソレ。他の奴が
「鼻で笑ってくださいよ」
「いやぁ。それが笑えないくらい、本当にあの人モテるんよ」
「皆、顔に騙されているんですね」
「ほんまになぁ」
「おい、そこ。うるさいぞ」
ぴしゃりと言って、ヒサメは机の上の御札をとった。先程、私が書き上げた呪符である。
「――ったく。千景、お前のせいで話が進まん。もう、黙って見ておけ」
「あはは…、は~い」
話を脱線させたことに自覚があったのか、千景さんはバツが悪そうに笑う。
それから皆が見守る中、ヒサメは呪符を片手に、資料室の中を歩き始めた。
書架と書架に挟まれた狭い通路をゆっくり進み、それから出入り口の方までやって来る。
そのとき、変化があった。
カタカタカタ……。
どこからともなく、小さな物音が聞こえてくる。
耳を澄ませると、それは開け放たれた資料室の扉の向こう――廊下から聞こえてくるようだった。
資料室前の廊下には木の台があり、そこに高そうな壺が飾られている。
その壺が今、カタカタと小さく震えていた。
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