第19話 警護(壱)
ここのところ、ヒサメは忙しいようで、屋敷にいないことが多かった。今日もロウさんと共に朝出掛けたきり、夜になっても帰ってこない。
広い屋敷には、私とコン、そしておコマさんの三人だけだ。
すでにコンは就寝し、私もそろそろ寝ようと思っていたとき、ジッと外を見つめるおコマさんにふと気付いた。
ヒサメがいない屋敷は私にとって天国。まさに、鬼の居ぬ間に洗濯といった気分だ。しかし、おコマさんにとって、ヒサメは大事な大事なご
私はおコマさんに「ヒサメ様は今、どこに?」と事情を尋ねてみた。
「どうも偉い人の警護を任されたようなの」
「警護ですか?」
「とある貴族の下に、毎晩恐ろしい
検非違使はこの世界の警察。そして、その中に妖犯罪対策部という
あの男、胡散臭い祓魔師に見えて、れっきとした公務員なのである。
「それで坊ちゃんも、同僚の方と交代で警護をしているのよ。今夜も夜通し、お仕事なのよね。ご帰宅は明日と分かっているのだけれど、どうしても気になってしまって」
はぁ、と物憂げに溜息を吐くおコマさん。
一方、私はヒサメを心配することなんてなかったが、「アレでも仕事は頑張っているんだ」と少し見直した。
ヒサメとロウさんが帰って来たのは、翌朝だった。
私とコン、おコマさんが朝食を食べようとした、ちょうどその時に彼らが帰宅したのである。
「まぁ、坊ちゃん!どうしたのですか?」
箸を放り出して、おコマさんはヒサメの元へ駆け寄った。
おコマさんがヒサメに関して心配性なのはいつものことだが、なるほど今は彼女が血相を変えるのも頷ける。
それくらいヒサメは酷い顔をしていた。
目の下にはクマができ、夏にもかかわらず日に焼けていない肌は、さらに青白くなっている。
夜中に枕元にでも立たれたら、幽霊と見間違いそうだった。
「実は、昨日の朝から何も食べておらず、睡眠もとれなくて……」
ロウさんが説明すると、おコマさんは「まぁっ!」と悲鳴を上げた。
そんな二人の間をすり抜け、ヒサメは無言のまま私の近くまでやって来る。
ぬっと立つその姿は本当に幽霊じみていた。顔が整っているせいか、異様な凄みがある。
そのとき、私はあることに気付いた。
ヒサメは私を見ているわけではない。彼の視線は、ただお膳に注がれている。お膳の上には、できたばかりの朝食が並んでいた。
炊き立てのご飯を握った塩むすび。
いたってシンプル。ありふれた朝ごはんだ。
ヒサメはそれをジッと凝視している――と……
ぐうぅぅぅぅきゅるぅぅぅ~。
何とも間抜けな音が室内に響いた。盛大な腹の音である。そして、その
私もおコマさんも、おそらくロウさんも、どう反応してよいか分からず固まっていた。まさか、ご主人様であるヒサメの腹の音を笑うわけにもいかない。
奇妙な沈黙が下りて、皆が気づまりに感じ始めた頃、コンが口を開いた。
「ご主人さま。ハルのごはん、おいしいよ?」
そう言って、コンは塩むすびにかぶりつき、頬張る。頬にご飯粒をつけながら「おいしー」と目を細めた。
コンなりにヒサメを気遣って、朝食を勧めたのだろう。
しかし、相手はあのヒサメだ。私の料理に毒が入っていると言ってはばからない男。そんな人が空腹だからと言って、私の作った朝ごはんを食べるわけが……って。
「あっ」
私は思わず声を上げた。
なんと、ヒサメは私の膳からおむすびを一つ掴むと、そのまま口に運んだのだ。
もぐもぐと咀嚼し、それから彼は目を見張る。
――えっ?なにか、まずかったかな……。
そう心配したのも束の間、彼はどかりと土間に腰を下ろすと、黙々と食事をとり始めた。
塩むすびにかぶりつき、おみそ汁をすすり、ポリポリと音を立てて漬物を咀嚼する。決して下品ではないが、かなり早いスピードで料理を平らげていく。
「まぁ、坊ちゃまが…」
「主が…」
驚きを隠せないおコマさんとロウさん。
私もヒサメの心変わりに驚嘆しつつ、こう思った。
――ソレ、私の朝ごはんなんですけれど……。
そうこうしているうちに、ヒサメはすっかり私の膳にある料理を食べ尽くしてしまった。
*
結局、ヒサメの空腹はあの程度の量の食事でおさまらず、私は追加の料理を用意するハメになった。
昼用に炊いてあった米で新たにおむすびを作り(今度は具に入り。梅とネギ味噌を入れた)、お味噌汁は温め直して、それらをヒサメとロウさんにふるまう。
おコマさんは私の作った料理を食べるヒサメの姿を見て、「あの人間不信の坊ちゃまが…」と目を潤ませていた。
――よっぽど、お腹が空いていたんだなぁ。
旺盛な食欲をみせるヒサメを横目で眺めながら、私は思う。
ヒサメはわき目も降らず、黙々と食べ続けている。彼は「美味い」とは決して言わなかったが、少なくとも不味いと思っている様子はなさそうだ。
――まぁ、私が料理上手……というわけじゃなくて、単純に出来立てだから美味しんだろうなぁ。
毒を警戒するヒサメは、ロウさんを使いに出して、普段は出来合いの総菜か弁当を買って食べている。その他に彼が口にする食事といったら、仕事の付き合い上での宴会の席だろうか。
そういった状況で、出来立ての料理というのは中々口にできないだろう。
もちろん例外はあるが、料理は基本的に出来立てが美味しい。
塩でしか味付けしていない塩むすびでも、炊き立てのご飯で握るとやはり良い。ふんわり優しく握ったおむすびは、口の中でほろりとほぐれ、ふわりと甘く香ばしい匂いが鼻腔をくすぐるはずだ。
もしかしたら、ヒサメは出来立ての食事の美味しさに感動しているのかもしれない。しかも、今は極度の空腹。空腹は最高のスパイスである。
ヒサメはいけ好かない男だが、これまで出来立ての料理が食べられなかったこと。その点だけは、私も少し同情した。
*
「それで坊ちゃん。どうされたのですか?」
「どうもこうもあるか」
ヒサメは憮然とした顔で言った。
ようやくお腹の具合も落ち着いたのか、食後の煎茶をすすっている。
「こっちは、上司に言われて仕方なく警護をしてやっているんだ。それなのにあの女共……」
鼻にしわを寄せ、そう口にするヒサメ。ひどく腹に据えかねたことがあったようだ。
誰かに愚痴でも言いたい気分なのか、ヒサメは珍しく饒舌に話し始めた。
おコマさんが言っていたように、妖犯罪対策部の祓魔師たちは、交代でとある貴族の屋敷の警護に当たっていたようだ。
話によると、巨大な蜘蛛の
元々、ヒサメは今回の件について乗り気ではなかった。彼は相当渋ったようだが、上司から「どうしても」と懇願されて警護に行くハメになった。そのとき、ヒサメの上司は弱り切った顔をしていたと言う。
何でも、件の貴族は身分が高く、「この通りだ」と何度も頭を下げてヒサメの上司に頼みこんできたらしい。それで仕方なく、上司も警護を引き受けたのだ。
「しかし、その問題の蜘蛛の
おコマさんが眉をひそめると、面白くなさそうにヒサメは鼻を鳴らした。
「俺の当番のときに限って、
「まぁ…」
「――ったく、
トントンと床を指で叩くヒサメ。イラついているのを隠そうともしていない。
ヒサメの話を聞きながら、考えれば夜通しの警護は大変な仕事だろうと私は思った。
夜勤で生活サイクルが滅茶苦茶になるし、いつ現れるとも分からない(そして現れない)
そんなヒサメを見かねたのか、件の貴族の屋敷の者は色々と差し入れをしてくれたらしい。豪華な食事にお酒までつき、なんと貴族の娘自ら酌までしようとした。
だが、ヒサメからすれば「迷惑極まりない。気の使いどころが完全に間違っている」と露骨に顔をしかめた。
「こっちは仕事だから、仕方なくあの屋敷に滞在していたんだ。酒なんて口にして酔いが回ったときに、件の
もちろん、仕事の妨げになるため、ヒサメは出された食事や酒に一切手を付けなかったようだ。
そもそも、異様に毒物を警戒する男だ。他人の家で出されたものなど、おいそれと口にはしないだろう。
ただ、ヒサメの口ぶりから嫌がりつつも、ちゃんと警護の仕事をしていたことが察せられた。
――性格が良いとは冗談でも言えないけれど、意外に真面目だよね。私が呪符を作ると、別途報酬もくれるし……。
暇で仕方ないが、それでも真面目に警護の仕事を全うしようとしているヒサメ。
そんなヒサメの姿勢を台無しにするような迷惑な気遣いを屋敷の者たちから受け、内心辟易しているヒサメ。
そんな彼を想像して、私はふと言ってみた。
「これじゃあ、警護のためなのか、歓待を受けるためなのか。どちらのために、その貴族宅へ行っているか分かりませんね」
「なに……?」
私の言葉に、ヒサメが大きく目を見開く。
「どういう意味だ?」
「えっと…。まるで、ヒサメ様を歓待するために警護の仕事を依頼しているみたいだなぁ…と思いまして」
「……」
突如、黙り込むヒサメを見て、余計なことを言ってしまったかと、私は内心焦った。
「申し訳ございません。ただの軽口ですので……」
「いや…、なるほどな」
何が「なるほど」なのか不明だが、そう言ってヒサメは口を歪めて笑った。
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