貌(かお)

びい泥。

貌(かお)

「拝啓、お義姉さま。


私の家の窓から見える桜は、もうほとんど緑になってしまいました。ほんとうに、もう少しでございます。

お義姉さまはいかがお過ごしでしょうか。


あの人がこの世を去って、義家族が私を持て余した際、義姉さまさ最後の最後まで私を護って下さろうとしたのをよくよく覚えております。

今でもこうして文でのやりとりをしてくださることも、どれほど私の支えになっているか。

お義姉さまへの感謝を文字にしようとしては、ただの一文字たりとも適切なことばがうかばぬほどです。


ですからこそ、あの人を除いてお義姉さまにだけはことのすべてをお伝えし、謝らなければならないのでございます。


今年の春の盛りの少し過ぎたあたりのことでございました。たったの八日前のことでございます。

毎年のように、ゆんわりと散る桜の花弁を眺めておりましたところ、声が聞こえました。


そちらを見れば、うすらと暗い瞳をした男の人が居りました。不思議なことに、この時はただ瞳にだけめがいったのでございます。

はてどうしたのかしらとよくよく見れば、その貌はご近所の田代さんによく似ておりました。


ですが、私はさっと「田代さんではない」と思いました。

何故だかはわからないのですけれども、思いました。


その男の人は「文代さん。まだですね。まだ桜は残って居りますね」と、そう仰ったのです。

その声があんまりにもやわらかく、まるで愛らしいものに触れるようなお声で。


私は訳も分からず「ええ、はあ、はい、ええ。そうですね」と答えました。

彼はそんなちっぽけな返事にも満足なされたのか、田代さんの貌に笑みをたたえて、そうして私がまばたきをしたその一瞬、ふっとたちきえてしまいました。


その日一日をどう過ごしたか、私はよく覚えておりません。


次の日も、心にもやを抱えながら、私は散りゆく桜を眺めておりました。


その日も、彼は現れました。その日の彼の貌は、近所の皆から可愛がられておられる佐々木の坊やのものでした。


そうしてまた、「文代さん。昨日よりは桜は散りましたね。もうしばししたら、お迎えにあがりますからね。」と、そう仰いました。


彼がとてつもなく恐ろしいことを申し上げていることは理解しておりましたが、なぜか私は「ええ、ええ。そうでございますね。」と、そう答えたのでございます。


それ以降も、彼は理髪店の店主の黄金山さん。近所の小学校の先生をなさっている村上さん。古書店の店主の小池さん…と、別の貌をあつらえながら、私に「もうすこしであなたを迎えに行けます」と申すのです。


これがなんとも恐ろしいことに、私はそれに「ええそうですね」「ええたのしみですね」と、そう答える日々でした。



正直に申し上げます。


始めの二日は、確かに言わされていると思っていたのです。何か人の子には及ばぬ悍ましい力で以てこの口が勝手に返事を返したのだと、そう思ったのでございます。


ですが、彼が黄金山さんの貌で私の前に現れた三日目。

あの日よりあとは、私は自らの意思でもって「ええ。そうでございますね。」と、答えました。


何故だか、彼のあの、人様の貌をとって現れても隠し切れない瞳のうす暗さ。

あれを見ていると、私はどうにも駄目なのです。放っておけない心持ちになるのでございます。




義姉さま、どうかどうか信じてください。

あの日から五年、五年です。五年の間、一度だってあの人以外にこころを移ろわせたことはなかったのです。


それが、たったの八日……いえ、彼が心に住み始めたのは三日目からです、ですから五日でございます。

どうにも彼の存在を四六時中考えてしまうのです。嗚呼どうして。私には彼だけでしたのに。


彼がもののけの類だろうと夢幻であろうと、どうだっていいのです。私を苦しめているのはそこではないのですから。

彼が私のもとへと現れてから八日。彼の貌は毎日変わるというのに、そこに一度だってあの人の貌はございませんでした。


彼の貌はみな総じて私がなんらかのかたちで好意的に思ったことのある人のものでございました。

であるならば、先ず私が真っ先に見るべきはあの人の貌であったはずなのでございます。


それがあくる日もあくる日も、どれだけ待とうともあの人の貌になることはございませんでした。

ただ一度親切にして頂いて、やわく親切への感謝をしただけの田代さんや、ご近所みんなから可愛がられておられる佐々木の坊やですら、現れたのでございます。


であればどうして、彼はあの人の貌をとらないのでしょう。


お義姉さま。私のあの人への思慕というものは、そんなにちっぽけなものだったのでしょうか。

それとも……あの人が、私の元へおいでになることを拒んでおられるのでしょうか。



嗚呼いま、まさに今。桜が散りました。桃色はもう木にはほんの少しもございません。

今、彼が私を抱きしめようと、すすすと後ろに近づいてきております。後ろを振り返ってはおりませんが、わかります。


どうか、この貌があの人のものでありますように。


否、あの人のものではございませんように。


この情動が、今日彼の姿があの人のものであるかを確かめるためのものであったのか、確信をもって諾と言えぬ時点で、私はあの人に迎えにお越しいただく資格などないのですから。



お義姉さま、今まで本当にありがとうございました。

文代の生涯は、今この筆を置くことできっと幕引きとなるのでしょう。


左様なら。どうかお達者で。



山里 文代」




手紙を受け取り駆け付けた沙喜子が見たものは、彼女が生活していたささやかな住まいと、数日前まではそれはたいそう見事な桜であったのとおもわれる、薄汚い茶色の花弁のみでありました。

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