第22話 サナギから這い出てきたものたち
「おは……おはようミユキ?」
「おはようございますナギさん」
「あー……なぜほっかむりを?」
ミユキは結局、3日ほど学校を休んだ。
4日目の今日、いやに早く(いつも真っ先に来てはいたのだが)登校してきたかと思ったら、頭にほっかむりをしていた。こそこそと自分の席に着き、ナギだけがいることにホッとしてそわそわとそれを外す。
あちこち手櫛で整えるが、そんな必要もなく一糸乱れぬ髪の毛。
毎朝癖毛と格闘しているナギは少し羨ましくなった。
(ああ、ミユキってああ見えて意外と恥ずかしがり屋だから……)
おそらく、注目を浴びるのが嫌で目だないように来たつもりなのだろう。あれで。
「……そういえばさ」
「なにかしら」
「転校初日、いったい何があったの?」
「まあ、懐かしい……」
「体調はどうか」と質問・心配攻めに遭わなくて安堵したのか、ミユキは表情を和らげて遠い目をした。そう、ちょうど、3,4ヶ月くらい昔を見るような目だった。
「……あれはね、ペンキ缶が投身自殺を図ったのよ」
「……マジで言ってる?」
「まじなのよ」
◆
その日、あまりに早く着いてしまったので、時間を持て余していたのよ。
その時はまだ美術部の倉庫代わりとして使われていた旧校舎に画材の類を運び込んで、それでも余った時間で荷物を整理しつつ、絵を描いていたの。
今回は何があっても我慢しなくちゃとか、上手くやっていけるのかしらとか、また美術部に入って本当によかったのかしらとか、様々な不安が渦巻いていたわ。
でも、窓から見える景色が本当にきれいだったし、そろそろ終わってしまうライラックの香りだとか、それと対照的に咲き始めたガーデニアの香りだとか、そういうものが重なって、不思議と描いている間はとてもリラックスできたのよ。
その時入ってきていた風の感触だってまだ思い出せる。
ほんの少しだけ日に焼けたあたたかさを持って、それでいてやわらかく腕の間をすり抜けていく間に涼しい風に変わっていった。
本当に、まだ鮮明に覚えているわ。
だって、その時初めて絵が抜け出してきたんですもの。
金魚よ。
金魚の群れ。
カラフルに塗った金魚たちがね。
絵からひょいひょい抜け出してあちこちに泳いで行ってしまったの。
わたしは慌ててしまって、キャンバスと画材バッグを持って追いかけたわ。
金魚が陸で溺れてしまう!そう思って、学校中。
いま思うと、おバカさんだったわね。まあ、仕方のないことだけれど。
辿り着いたのは、この教室。
自分の席にバッグを置いて、1ぴき1ぴき、つかまえてキャンバスに戻そうと奮闘したの。はじめからわかっていたみたいに、金魚はひょいひょい逃げ回った。
ある一点を目指してね。
そう、それがあの空色のペンキ缶。
空を描くために調合してあった、わたしだけの空色よ。
もうわかったわね?
あの金魚たちは、水の中を泳ぐのでなく、空の中を泳ぎたかったのよ。
自分たちで空に帰るために逃げ出したのね。
すると、誰が落としたわけでもないのに、ペンキ缶がひとりでに飛び降りて。
ぱしゃん、と。
そこらすべてを空の海にしてしまったのだわ。
わたしは落胆した。
だって、金魚たちはつかまえられないし、その上ペンキ缶までなのよ?
「あなたまで抜け出ようっていうの?」
今までわたしのいうことを聞いてキャンバスにおさまっていた絵たちが、まるっきりいうことを聞かなくなってしまったんだもの。
窓の外ではみなさんが登校しはじめているし、片付けようにも空の海はわたしの指をすり抜けてしまうし、どうしようもなくなって、逃げ出してしまった。
後で戻ってみれば、金魚たちはキャンバスに、空の海はペンキに戻っていたわ。
ああ、わたし、ただただ他人様に迷惑をかけてしまっただけだわ、って。
ここでも早々に失敗してしまったわ、きっとまたひとりぼっちだわ、って。
どんな自己紹介をしたのかも覚えてないわ……ただ、とんでもなくスベってしまったのは憶えていてよ。
◆
「もっとはやくに、きちんと謝らなければ、と思っていたのよ……」
「パニックになってたのね、密かに」
ミユキは深々とナギに頭を下げた。
あまりに見事なキューティクルだったので思わず撫でてしまった。
絹糸のように見事な感触。くしゃくしゃに撫でても元通りに流れていく。
言われてみると、あの後どうやってあの夥しい絵の具をきれいにしたのか、憶えていない。まったくもって、だ。誰かが掃除していた記憶すらない。
「あれって……いつ戻ったんだっけ?」
「あの後、わたし、授業中に絵を描いていたでしょう?」
そうそう、キャンバスに堂々と。
「なんとかしなくては、と意気込んで描いているうちに絵の中に戻っていって、空の海を描き終える頃には消えていたのよね」
「そうだったの!?」
「だぁれも気付かないので、わたし、夢を見ていたのかと思っていたのだわ」
今更になって、ちょっと怖くなる。
そういえば、変に愛されていたな、この子は、と。
今までさんざん、抜け出た絵を触ったり食べたりしてきたけれど……それに関してだけはなんだか異質な気がする。
(たしかに、抜け出た絵たちって消えた後はキャンバスに戻っていたような気がするけど……これはどちらかというと……)
「おはよう!ナギちゃん!ミユキちゃん!」
何かがわかりそうだったのに、場違いに大きな声に遮られてしまう。
朝から嫌なヤツに遭ってしまった。
「……オハヨウ、ノワキサン」
「……アンタ、よく笑顔でうちらに話しかけられるね」
「なんで?ともだちでしょ?そりゃちょっとケンカはしたけどさ」
「ケンカって、アンタが問題を起こして……」
「アタシは優しくて心が広いから、みんなのこと許してあげるよ」
絶句である。
ノワキは前にも増して、しかしミユキだけにべったりになっていた。
崇拝、といってもいいくらい。
だけど、すこし変。
崇拝しながら見下しているような、おかしな距離感を纏うものだった。
ミユキはなぜか邪険にすることもなく、ノワキの作品とも呼べないようなそれらを、大真面目に見たりしていた。もちろん、個展の話はハッキリと断っていたが。
(いや、ミユキは誰の、どんなものであれ「作品」に対してはいつも真面目だった)
「ねえ、今日はなにを作ろうか?アタシ、なんでもできるからなんでも言って!」
「そうね、今日はカーテンやソファカバー、クッションなどのインテリアを作ろうと思っているのよ、美術部らしい活動でははないのだけれど、だって、ここは、殺風景になってしまったでしょう?」
業者も入り、新しいガラスで覆われた部室は、あたたかい空気を保ったままになっていた。ああ、ここから少しずつ、ミユキの空間に戻っていくのだ。
寸法を取り、抱えてきた生地を裁断し、ミシンで縫っていく。細かいところや刺繍は手縫いだ。ミユキはとにかく「作る」ということにおいて、おそろしく器用だった。
「ノワキさんもなさる?」
ノワキはうろうろと手を伸ばしかけていたが、やがて不機嫌な顔を隠しもせず俯いて頭を振った。ああ、数日前にもこんなことがあったっけ。
◆
ノワキは紙粘土で作られたマグカップらしきもの(陶器の代わりのつもりらしかった)を持ってきて、マリンとミナトに見せつけていた。
「アタシが作ったのはカタチもおもしろくて絵も個性的でしょ?」
「そのカタチ、この間駅前の雑貨屋で見たけど?」
「絵もその雑貨屋に飾ってあったやつパクっただけでしょ?」
「……飾りも独創的だし~、ふたりが作ったのより勝っちゃってるもんねぇ、そういうこと言いたくなるのもわかるけどぉ、ちょっと変えてるし別によくない?」
紙粘土の細かな欠片や飾りらしいビーズやらがポロポロ落ちて、本当に不快だった。
掃除するのも結局、ナギたちだったし。
絵を持ってきて、勝手に飾ろうとした時も。
「なんか、個性でいったら、アタシ、いちばんじゃない?誰もこんな風な絵、思いつかないでしょ?やば、アタシ天才」
「この間ミユキがノートに描いてたやつじゃないの?それ」
「アタシが先に思いついてたのにあっちが先に描いただけだし」
「?????」
なにかと勝ち負けにこだわり、なんでも勝ち負けの話に持って行ってしまうのだ。
ひとのもので勝負しようとしているのに、だ。
なにか特別なこだわりや譲れないものでもあるのだろうか。
「てか、陶器って、紙粘土で作るモノじゃないし……」
「やれるもんならやってみれば?道具ならここにもあるし」
ノワキに腹を立てていたマリンとミナトにせっつかれ、ノワキは陶芸に挑戦させられた。結果はもちろん散々で、作品と呼べる何かのただのひとつも完成させられることなく、言い訳だけが積み重なったままやめてしまったわけだが。
飛び散った水や土や失敗作、使いっぱなしの道具などの掃除はもちろん、マリンとミナトが(嫌々、渋々)したわけだが。
もちろんそれ以来、陶器(のつもりのブツ)をこさえることはなくなり、それについては話すことすら避けている。
おそらく、こわいのだろう。
負けることが。
負けるとわかっている土俵に上がることが。
やらなければ、自分が負けることもないと、本気でそう思っているのだ。
「アタシの趣味じゃないし、ちょっとすぐ飽きちゃいそうだしぃ……」
自分を卑下しているようで、高すぎるプライドを隠しきれていないのだ。
そうやって愚かに必死に守らなければ、誰かが砕くつもりがなくても、触れることすらなくとも、簡単に砕けてしまうのだ。
なにも積み重ねてこなかったせいで。
なにもしてこなかったせいで。
なにもかもを先延ばしにし続けてきたせいで。
なにもかもから逃げ続けてきたせいで。
芯になり得るものがなにひとつ、存在しないのだ。
◆
「んー、絵を描くのに手とか怪我したらやだし、アタシは見てるだけでいいや」
(ミユキは怪我してもいいと……?)
「そう」
ミユキはノワキには目もくれず、楽しそうに花の刺繍を施している。
部室はあっという間に元通りになっていた。
事情を聞いたミユキの家の方で、色々と用意してくれた(本当にあまりにも色々と運び込まれるので、ミユキはとんでもなく複雑そうだったが)のだ。
茶器も新たに持ち込まれ、同じように持ち込まれた食器棚に綺麗に収まっている。
「来年、再来年、その次……わたしたちが卒業しても、誰かがここで絵を描き続けてくれるのなら、それならすごく用意のし甲斐があったのだわ」
卒業。
まだ1年生の秋だというのに、ミユキはもうそんな遠くを見ているのか。
毎日毎日過ぎていく同じような日々に、時間というもの、日常というものは永遠で無尽蔵なものだと、勝手に思っていた。
そんな訳はないと、永遠などあるはずがないとわかっていたつもりだったのに。
やわらかく立ち上るココアの湯気。
律儀にノワキの分まで用意しながら、ミユキは何でもなさそうにノワキに話しかけた。そのあまりにフツウな態度に、むしろノワキが身じろいでいる。
「そういえば、美術部と文芸部はどうなさったの」
「えっと…………行ってない、いじめられてるから」
「そう……」
ミユキの持つココアだけがわずかに波立ってはようミユキ?」
「おはようございますナギさん」
「あー……なぜほっかむりを?」
ミユキは結局、3日ほど学校を休んだ。
4日目の今日、いやに早く(いつも真っ先に来てはいたのだが)登校してきたかと思ったら、頭にほっかむりをしていた。こそこそと自分の席に着き、ナギだけがいることにホッとしてそわそわとそれを外す。
あちこち手櫛で整えるが、そんな必要もなく一糸乱れぬ髪の毛。
毎朝癖毛と格闘しているナギは少し羨ましくなった。
(ああ、ミユキってああ見えて意外と恥ずかしがり屋だから……)
おそらく、注目を浴びるのが嫌で目だないように来たつもりなのだろう。あれで。
「……そういえばさ」
「なにかしら」
「転校初日、いったい何があったの?」
「まあ、懐かしい……」
「体調はどうか」と質問攻めにあわなくて安堵したのか、ミユキは表情を和らげて遠い目をした。そうだな、ちょうど、3,4ヶ月くらい昔を見るような目だった。
「……あれはね、ペンキ缶が投身自殺を図ったのよ」
「……マジで言ってる?」
「まじなのよ」
◆
その日、あまりに早く着いてしまったので、時間を持て余していたのよ。
その時はまだ美術部の倉庫代わりとして使われていた旧校舎に画材の類を運び込んで、それでも余った時間で荷物を整理しつつ、絵を描いていたの。
今回は何があっても我慢しなくちゃとか、上手くやっていけるのかしらとか、美術部に入って本当によかったのかしらとか、様々な不安が渦巻いていたわ。
でも、窓から見える景色が本当にきれいだったし、そろそろ終わってしまうライラックの香りだとか、それと対照的に咲き始めたガーデニアの香りだとか、そういうものが重なって、不思議と描いている間はとてもリラックスできたのよ。
まだ鮮明に覚えているわ。
その時入ってきていた風の感触だってまだ思い出せる。
ほんの少しだけ日に焼けたあたたかさを持って、それでいてやわらかく腕の間をすり抜けていく間に涼しい風に変わっていった。
だって、その時初めて絵が抜け出してきたんですもの。
金魚よ。
金魚の群れ。
カラフルに塗った金魚たちがね。
絵からひょいひょい抜け出してあちこちに泳いで行ってしまったの。
わたしは慌ててしまって、キャンバスと画材バッグを持って追いかけたわ。
金魚が陸で溺れてしまう!そう思って、学校中。
いま思うと、おバカさんだったわね。まあ、仕方のないことだけれど。
辿り着いたのは、この教室。
自分の席にバッグを置いて、1ぴき1ぴき、つかまえてキャンバスに戻そうと奮闘したの。はじめからわかっていたみたいに、金魚はひょいひょい逃げ回った。
ある一点を目指してね。
そう、それがあの空色のペンキ缶。
空を描くために調合してあった、わたしだけの空色よ。
もうわかったわね?
あの金魚たちは、水の中を泳ぐのでなく、空の中を泳ぎたかったのよ。
自分たちで空に帰るために逃げ出したのね。
すると、誰が落としたわけでもないのに、ペンキ缶がひとりでに飛び降りて。
ぱしゃん、と。
そこらすべてを空の海にしてしまったのだわ。
わたしは落胆したわ。
だって、金魚たちはつかまえられないし、その上ペンキ缶までなのよ?
「あなたまで抜け出ようっていうの?」
今までわたしのいうことを聞いてキャンバスにおさまっていた絵たちが、まるっきりいうことを聞かなくなってしまったんだもの。
窓の外ではみなさんが登校しはじめているし、片付けようにも空の海はわたしの指をすり抜けてしまうし、どうしようもなくなって、逃げ出してしまった。
後で戻ってみれば、金魚たちはキャンバスに、空の海はペンキに戻っていたわ。
ああ、わたし、ただただ他人様に迷惑をかけてしまっただけだわ、って。
ここでも早々に失敗してしまったわ、きっとまたひとりぼっちだわ、って。
どんな自己紹介をしたのかも覚えてないわ……ただ、とんでもなくスベってしまったのは憶えていてよ。
◆
「もっとはやくに、きちんと謝らなければ、と思っていたのよ……」
「パニックになってたのね、密かに」
ミユキは深々とナギに頭を下げた。
あまりに見事なキューティクルだったので思わず撫でてしまった。
言われてみると、あの後どうやってあの夥しい絵の具をきれいにしたのか、憶えていない。まったくもって、だ。誰かが掃除していた記憶すらない。
「あれって……いつ戻ったんだっけ?」
「あの後、わたし、授業中に絵を描いていたでしょう?」
そうそう、キャンバスに堂々と。
「なんとかしなくては、と意気込んで描いているうちに絵の中に戻っていって、空の海を描き終える頃には消えていたのよね」
「そうだったの!?」
「だぁれも気付かないので、わたし、夢を見ていたのかと思っていたのだわ」
今更になって、ちょっと怖くなる。
そういえば、変に愛されていたな、この子は、と。
今までさんざん、抜け出た絵を触ったり食べたりしてきたけれど……それに関してだけはなんだか異質な気がする。
(たしかに、抜け出た絵たちって消えた後はキャンバスに戻っていたような気がするけど……これはどちらかというと……)
「おはよう!ナギちゃん!ミユキちゃん!」
何かがわかりそうだったのに、場違いに大きな声に遮られてしまう。
朝から嫌なヤツに遭ってしまった。
「……オハヨウ、ノワキサン」
「……アンタ、よく笑顔でうちらに話しかけられるね」
「なんで?ともだちでしょ?ちょっとケンカはしたけどさ」
絶句である。
ノワキは前にも増して、しかしミユキだけにべったりになっていた。
崇拝、といってもいいくらい。
だけど、すこし変。
崇拝しながら見下しているような、おかしな距離感を纏うものだった。
ミユキはなぜか邪険にすることもなく、ノワキの作品とも呼べないようなそれらを、大真面目に見たりしていた。もちろん、個展の話はハッキリと断っていたが。
(いや、ミユキは誰の、どんなものであれ「作品」に対してはいつも真面目だった)
「ねえ、今日はなにを作ろうか?アタシ、なんでもできるからなんでも言って!」
「そうね、今日はカーテンやソファカバー、クッションなどのインテリアを作ろうと思っているのよ、殺風景になってしまったでしょう?」
業者も入り、新しいガラスで覆われた部室は、あたたかい空気を保ったままになっていた。ああ、ここから少しずつ、ミユキの空間に戻っていくのだ。
寸法を取り、抱えてきた生地を裁断し、ミシンで縫っていく。細かいところや刺繍は手縫いだ。ミユキはとにかく「作る」ということにおいて、おそろしく器用だった。
「ノワキさんもなさる?」
ノワキはうろうろと手を伸ばしかけていたが、やがて不機嫌な顔を隠しもせず俯いて頭を振った。ああ、数日前にもこんなことがあった。
◆
ノワキは紙粘土で作られたマグカップらしきもの(陶器の代わりのつもりらしかった)を持ってきて、マリンとミナトに見せつけていた。
「アタシが作ったのはカタチもおもしろくて絵も個性的でしょ?飾りも独創的だし~、ふたりが作ったのより、ちょっと、勝っちゃってるよねぇ」
紙粘土の細かな欠片や飾りらしいビーズやらがポロポロ落ちて、本当に不快だった。
掃除するのも結局、ナギたちだったし。
絵を持ってきて、勝手に飾ろうとした時も。
「なんか、個性でいったら、アタシ、いちばんじゃない?誰もこんな風な絵、思いつかないでしょ?やば、アタシ天才」
なにかと勝ち負けにこだわり、なんでも勝ち負けの話に持って行ってしまうのだ。
なにか特別なこだわりや譲れないものでもあるのだろうか。
「てか、陶器って、紙粘土で作るモノじゃないし……」
「やれるもんならやってみれば?道具ならここにもあるし」
ノワキに腹を立てていたマリンとミナトにせっつかれ、ノワキは陶芸に挑戦させられた。結果はもちろん散々で、作品のただのひとつも完成させられることなく、言い訳だけが積み重なったままやめてしまったわけだが。
飛び散った水や土や失敗作、使いっぱなしの道具などの掃除はもちろん、マリンとミナトが(嫌々、渋々)したわけだが。
もちろんそれ以来、陶器(のつもりのブツ)をこさえることはなくなり、それについては話すことすら避けている。
おそらく、こわいのだろう。
負けることが。
負けるとわかっている土俵に上がることが。
やらなければ、自分が負けることもないと、本気でそう思っているのだ。
「アタシの趣味じゃないし、ちょっと難しそうって言うかぁ……」
自分を卑下しているようで、高すぎるプライドを隠しきれていないのだ。
そうやって愚かに必死に守らなければ、誰かが砕くつもりがなくても、触れることすらなくとも、簡単に砕けてしまうのだ。
なにも積み重ねてこなかったせいで。
なにもしてこなかったせいで。
なにもかもを先延ばしにし続けてきたせいで。
なにもかもから逃げ続けてきたせいで。
◆
「んー、手とか怪我したらやだし、アタシは見てるだけでいいや」
「そう」
ミユキはノワキには目もくれず、楽しそうに花の刺繍を施している。
部室はあっという間に元通りになっていた。
事情を聞いたミユキの家の方で、色々と用意してくれた(本当にあまりにも色々と運び込まれるので、ミユキはとんでもなく複雑そうだったが)のだ。
茶器も新たに持ち込まれ、同じように持ち込まれた食器棚に綺麗に収まっている。
「来年、再来年、その次……わたしたちが卒業しても、誰かがここで絵を描き続けてくれるのなら、それならすごく用意のし甲斐があったのだわ」
卒業。
まだ1年生の秋だというのに、ミユキはもうそんな遠くを見ているのか。
毎日毎日過ぎていく同じような日々に、時間というもの、日常というものは永遠で無尽蔵なものだと、勝手に思っていた。
そんな訳はないと、永遠などあるはずがないとわかっていたつもりだったのに。
やわらかく立ち上るココアの湯気。
律儀にノワキの分まで用意しながら、ミユキは何でもなさそうにノワキに話しかけた。そのあまりにフツウな態度に、むしろノワキが身じろいでいる。
「そういえば、美術部と文芸部はどうなさったの」
「えっと…………行ってない………………みんなが、いじめるから」
「そう……」
ミユキはちいさく息を吐いた。
ミユキの持つココアだけがわずかに波立っていることに、ナギだけが気付いていた。
今日のおやつである焼き芋を大きくひとくち食べ、いざとなったら助太刀に入る、とアイコンタクトを送っておいた。
「……ところで、ひとつだけ、返してほしいものがあるの」
見ててわかるほどに、そして見ているだけだったナギたちの方がびっくりするほどに、ノワキがびくりと飛び上がった。ウェイトの差なのか、ずしんと戻ってきた振動で、隣にいたミユキまでがちいさくバウンドしていた。ピンポン玉みたいなミユキ。
ノワキの持つティーセットがカチャカチャと音をたて、ココアのしずくが出来上がったばかりのクッションカバーに飛び散る。
謝ることもなく、剰えそれで汚れた指を拭ったノワキは、動揺を隠すようにティーセットをテーブルに置いた。耳障りな音が一度だけ、響く。
「押し花があったでしょう?あれだけは、ほんとうにたいせつなものなの」
真っ直ぐに、でも冷たさを含まず悲しみを含んだ、ひたすらに祈るような目。
それに射抜かれ、ノワキはのろのろとカバンを漁っていた。
飴玉の空袋とか、ちょっと飲み残したペットボトルが数本に、何かのゴミや紙屑らしきもの、くしゃくしゃになった配布物などがボロボロと床に散らばっていく。
(誰が掃除するんだろう、アレ……さすがに自分でやれよな)
ノワキはミユキに見えないように、ミユキの財布から残った紙幣を全て抜き取り、カバンの内ポケットに隠した。もちろん、ナギたちにはすべて見えていたが。
「……拾ったから、守っておいてあげたよ、ミユキちゃんのだったんだ」
「そう、わたしのお財布だったのよ」
「…………あ、アタシは拾っただけだから、返すとかじゃないし、中身は見てないから、入ってるかとかわかんないけど…………ハイ、どうぞ」
「どうもありがとう……ああ、中身はすっからかんね」
「ひ、必要なら貸してあげるから言ってね……少しなら……貸してあげるから……」
びくびくと怯えながら、虚勢を張る虚栄心の塊・ノワキ。
それほどまでにびくつくなら、最初からしなければいいのに。
「ああ……お花は無事だったのね、ほんとうによかったわ」
「あ、押し花の栞ならアタシが作ったのもあげようか?」
「あら、わたし、栞だなんて言ったかしら?」
「えっ!?いや、普通押し花って言ったら栞にするかなって……そう、アタシ、そういうの……相手の考えてることわかっちゃうチカラがあるからさ……!!」
「ちなみにこれはカードであって、栞ではないのだけれど」
「!!!!」
完全にココアをひっくり返したノワキは、自分のカバンをひったくるようにして立ち上がり、逃げようとした。ゴミも、こぼしたココアも、そのままで。
「ノワキさん」
「な……なに?アタシ、帰らなくちゃ……」
「お客さんなら構わないけれど、そうでないのなら、自分で使ったものは自分で片付けましょうね」
ノワキは酔っぱらいのように足をうろつかせていたが、カップをシンクに乱暴に放り、ゴミをいくつも取り落としながら捨て、ドスドスと走り去っていった。
「まあ、心外…………お客さんでいるつもりはないようね」
「でも、かけもちといってもさすがに向こうをやめなきゃ無理じゃない?」
「ていうか片付けれてないし」
「私のチーズケーキ、アノヒトにもあげなきゃダメ?」
皆、一様にがっくりと疲れ果てていた。
これまでに、そしてこれからに。
「ノワキがいると話が長くなるのに話が進まないよぉー!!文化祭の打ち合わせをしようってことだったのに、まったくできなかった……」
「作品だって作り直したいのに」
「今日はチーズケーキの模型を作ろうと思ってたのに……」
「ミニチュアにしてストラップとかにしても良さそうだね、ソレ」
「築地さん、天才?」
「天才なのだ」
病み上がりで裁縫までこなして、そして今ノワキの散らかしたアトをきれいにしているミユキはもっと疲れているはずなのに。
「わたしには、このお花が帰ってきてくれただけでよかったのよ」
ミユキだけが、ホッとしたように掃除を続けていた。
胸ポケットに、ちいさな思い出ひとつだけを大事に抱えて。
(ミユキは学校を休んで……というより、あの事件以降、何か変わった気がする)
ノワキのように、オープンな方向に進化したのではないと思う。
アレはサナギが蝶になるように……いや、実際、周りにとっては害虫のような他害的な存在なのだが。本人の精神的テンション的には蝶になったつもりなのだろう。
ミユキはむしろ、ずっと内側に向かっているような、堅牢な城壁が何重にも建ってしまったような、そんな風な変化だった。
外の人間に対してはずっと柔和になったというのに、おかしいな。
サナギの外に逃げ出すことをやめてしまった、諦めてしまった。
どろどろのまま。
そんな、奇妙な考えが、頭の片隅から離れない。
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