第21話 渦、螺旋、もしくはその心


人生はしばし、海に例えられる。

その中で、様々な出来事を、渦のようだと思うことがある。


描くこと、奏でること、なにかを創り出すこと。

囚われて、他へ漕ぎだす選択肢をすっかり奪ってしまうこと。

船出のタイミングを見失い、そこだけに安息を求めてしまうこと。


それは幸福と呼べるのだろうか。

それは使命と呼んでいいのだろうか。


自分がなんのために生きているのかを知ってしまうのは、不幸だと思う。

だって、そうすると必ずが追いかけてくることを悟り、常に終わりを意識し、そのため、以外に使わなければならないすべての時間を無駄に思う。

惜しくて惜しくて苦しいくらいに足りない時間が、惜しくて苦しくて悲しくて。


あまりに早くを知ってしまうと、それ以外の道が見えなくなり、剰え自らの手でそれらの枝葉すら刈ってしまうのだ。

残るのは一本の道だけ。

そうして怖いのは、それが否応なしに折れてしまった時。


それをなくすこと。

そして、それをなくしても生きていけることを思い知った時。

そんな時、ひとの心はあまりにも簡単に死んでしまうのだ。







(腕が重い……無理に持ち上げたら、べりべりと魂が剥がれて分離してしまいそうなくらいに感じる……たった2、3日描かなかっただけで……)


きっと、熱もある。だって、現に、喉も痛いし。

ひどく、深く、落ち込んだ後は、いつだって体調を崩して、熱が出た。

大丈夫。ゆっくり食べて、ゆっくり寝て。

そうすれば、きっとまたなんでもないように振舞える。


ああ、でも、夢を見ているみたいだ。

あまりに世界が遠くて、現実感が薄くて。

まるで、ずっと昔の映像でも眺めているような、そんな気分になってくる。

熱で勝手に目が潤み、世界をゆらゆら、海に浮かべているのだ。


自分は船だろうか、魚だろうか。

それとも岩礁のひとつだろうか。


ゆらゆら、ゆらゆら。

音が遠く、景色が遠く。

波打つ光だけが、目の奥にはっきりと届く。

痛いくらいに。


(変化することはこわい)


特に、握力。

少し筋力が落ちるだけで、取り戻すまでにたくさんの時間がかかる。

元通りになればそれでいいが、戻らなかった時がこわい。


筆が前みたいに扱えない。

指先が思い通りに動いてくれない。

絵の具の柔さは変わらないのに、筆致がまったく変わってしまう。

自分の絵なのに、どうしようもない。

自分の役にしか立たないくせに、そんな時は自分の役にさえ立たない。


体力もそう。

キリのいいところまで。

筆の望むところまで。

ほんの少しだけ、体に無理をさせて。

そんなことが、そんな簡単だったことが、できなくなって。

なんて弱い。なんて脆い。なんて……望ましくない身体。


(ああ、たくさん心配をかけてしまう)


咳まで出てきた。自分が情けなくなる。

家族はもちろん、学校を休むことでナギたちにまで心配をかける。

マリンやミナトやメルだって、きっと声をかけてくるだろう。


(誰にも心配されなければいいのに)


気にかけてくれることを嬉しく思いながらも、お互いの時間を交換してしまうことを、お互いに時間を浪費してしまうことを、もどかしく感じてしまう。


「……こんな時にくらい、浮かんでこないでほしいものだわ……」


心の片隅に片付けておいたはずの心配事。

盗まれてしまった画材と、財布の行方。


現金はまだいい。

でも、あの中には、の花で作った押し花のカードがある。

あの時花冠から落ちたいくつかの花、正真正銘のお兄ちゃんの花。

思い出を掻き集めるようにして作ったそれは、心の拠り所になっていた。


もし、あれをなくしてしまえば。

もし、あれさえもなくしてしまえば。


(わたしはどうなるの?わたしは誰になるの?)


鏡を見ても、自分の姿を認識できない。

いや、違う。

姿は見えるけれど、それが自分であると確証を持てないのだ。

海の底にいるみたいに、ぐにゃぐにゃ、ぐにゃぐにゃ波打って。

ぐにゃぐにゃ、どろどろ、でろでろと、形のないものみたいに崩れそうで。

いまにも溶けてなくなりそうな、焦りにも似た恐怖心が湧きおこる。


ひとりでいたい時にはひとりになれず。

誰かがいてほしい時は、いつも孤独だ。


「――まるで……」


苦しむために生まれたみたい。

悲しむために生まれたみたい。

涙するために生まれたみたい。

恐れるために生まれたみたい。


ひとりぼっちのいきものだ。

ひとりぼっちでいきていくのだ。

ひとりぼっちでなくてはいきていけないのだ。

ひとりぼっちでいなくては、描くことができないのだ。

そんなことは、百も億も承知している。

そんなことは、ずぅっと前、遥か昔から自覚している。


「また、熱が……高くなってきたみたい……ちゃんと、寝てなくちゃ……」


なんでもいいから、なにかをつくりたかった。

手を動かし続けていたかったけれど。

じわじわと上がり続ける熱が、朦朧とした意識が。

「寝る」以外の選択肢をどこかに隠してしまった。

怖いけれど、悔しいけれど、悲しいけれど。

いまは従うしか、ないのだろう。


「肺も、喉も、頭も熱いわ……」


砂漠にいるみたいだ。

窓の向こうに見える海に潜れば、きっとさぞかし気持ちが良いのだろう。

夢に落ちる間際のように、やさしく揺蕩いながら。

怖い言葉も考えも、すべて消し去るようなさざなみだけを聴きながら。

身を焼く熱を次第に奪って、すこしずつそこへ沈めていくのだ。


いいな、いいな。

うらやましいな。


「……わたしも……いつかそこへ、つれていって……」


きらきらと翻る海面に、ミユキはひとり、願った。








人生で、一度だけ、天使を見た。

人生で、一度だけ、悪魔を見た。


悪魔は優しさをちらつかせながら、的確に傷をつけてくる。

天使は厳しさをちらつかせながら、的確に心を救ってしまった。


天使は海に似ていた。

アタシも、そうなりたかった。

でも、どこまでも飲み込まれそうで怖くなった。

悪魔は炎に似ていた。

アタシは、そうなりたくなかった。

でも、どこかあたたかく感じて安堵してしまった。


いつも、それらは一緒に在った。

それがまた、許せなかった。

どちらの特別にもなれなかった。

誰かの特別になりたかった。

だから余計に、憎らしかった。

だから余計に、妬ましかった。


アタシは誰よりもやさしく、誰よりもかわいらしい。

空想すればおもしろいと言われ、才能があるのだと言われ。

「あなたはなんにも悪くないのよ」

おばあちゃんに、そう言われて育ってきた。

どんなものだって、本当ならアタシが持っているはずだった。

どんな称賛だって、本来ならアタシに向けられているはずだった。

アタシは何をやっても褒められなければならないはずだった。


見覚えのない財布に、知らない名前の彫られた画材。

それが見つかった時、おばあちゃんんはアタシに失望した。

悲しい顔をして、アタシのことなのにアタシに隠れて泣いていた。

「あの子は怪物になってしまったんだ」

「あの子はどうして見た目だけでなく心までこんなに醜いのか」

「生むんじゃなかった、心から、本当に、生まなければよかった」

「あんたが悪いんじゃないのよ」

アタシを生んだくせに憎んだ母親と一緒に、アタシの悪口を言った。

アタシはなんにも悪くない。

ずっとそう言ってきたのに、どうして今更アタシを傷つけるの。

アタシはなんにも悪くない。

アタシを怪物にしたのはいつだって周りの悪人たちなのに。


憎い。憎い。憎い。妬ましい。

アタシをこんな怪物にしたそいつらを、アタシは許せなかった。


空っぽになった菓子の袋たちが、アタシ自身の心みたいで、空しくなった。

同じように空っぽなミナトやマリンでも、輪の内側に入っていけるのに。

なんにも持ってないあの子たちでも、輪の一部になれているのに。


なんでアタシだけ、いつも弾き出されてしまうの?


「おなかがすくと、悲しくなる」

ミユキがそう言ったから、仕方ないのだ。

「悲しくなると、甘いものが食べたくなるのだわ」

これは、ミユキのせいなのだ。

だから、ミユキが償って当たり前なのだ。


ミユキの財布を鷲掴み、家を抜け出して近くのスーパーへ走る。

暗い道はこわい。でも、あの家にいるのはもっと怖い。


煌々と光るスーパーの灯りにほっとして、カゴに次々とお菓子を放り込む。


レジでお札を取り出そうとして、隙間から何かが落ちた。

今どきないような、古臭い押し花のしおり。

こんなものでも、ミユキは美しく仕上げてしまうのだ。


そうだ。これならアタシにもできるかもしれない。

いや、アタシはなんだってできるのだ。


まだまだ残っている紙幣が、アタシを勇気づける。

やっていいんだよ、やってみていいんだよ、と。


ミユキがそう言っているんだもん。

明日は学校が休みの日。

絵を描いて、ミユキがやっていたように粘土や彫刻の材料を買いに行こう。

そうすればそのうちひとつくらいは、ミユキだってアタシを認めるはずだ。


アタシのこと、輪の中に入れてくれるはずだ。







「このメンバーでお茶するの、初めてだね」

「チーズケーキの使者さん」

「マリン、この子はメルちゃんだよ」


今日もまた焼いてきたらしいチーズケーキ(今日はダイスカットのチーズ各種とブラックペッパー入りだ)を持ったメルが、得意げに笑いながら首を振る。


「私、チーズケーキの使者って称号、めっちゃ気に入ってるので」

「気に入ってるんだ……」


切り分けてもらったそれを、紙皿と使い捨てのカトラリーでいただく。

お茶は各自売店で買った物を飲んでいる。なんだか味気ない。


「ミユキ、熱けっこう高いらしいけど大丈夫かな?」

「もうすぐ文化祭なのにね」

「まあ、あんなこともあったし……」


片付きはしたものの、美術室はミユキが来る前のように殺風景になってしまっていた(らしい)(船橋談)。

誰も使っていないような、誰も訪れることのないような、寂しい空き教室。


誰も何もする気が起きず、ただ放課後集まっては掃除したり修理したりしている。

窓は急ぎベニヤ板で塞いだものの、隙間風が入ってきてちょっと寒い。

秋風が吹くたびガタガタと音をたて……。


「あ、みんなここにいたぁ~」

「……ノワキ!?」

「なんで来たの?またなんか壊しに来た?それとも盗みに?」


たった3日間の停学処分しか受けなかったノワキは、停学が明けてもなんの反省の色も見せなかった。現に、こうしてのうのうと現場に帰ってきている。


「アタシが代わりに展示品作ってあげたんだよ、ほら、粘土の胸像とか」

(いびつなサッカーボールかと思った……)

「指とかめっちゃ怪我しながら彫刻も作ったし」

(この汚れ、血……?拭かないの……?洗ったりとかは?そもそもなんの彫刻?)

「絵もいっぱい描いてきたからアタシの個展やろうかなって」

(なにもかも異常で異様なんだけど……やだな、これがミユキの美術部の作品だと思われちゃうの……てか個展ってなんなの?何様?あのザマで?)


ミナトが思いっきり顔を顰めながら、修復した陶器たちを庇うように後ろに隠す。


「ノワキさぁ、あれだけやっておいて懲りてないの?まず謝罪じゃね?」

「アンタ、自分で壊しておいてよくそう恩着せがましいこと言えるよね」

「みんながアタシをいじめたのが悪いんじゃん、でもいいよ、許してあげるから」

「……はぁ??」


だめだ、話が通じない。


「その代わり、今日からこっちの美術部に入れてもらうから」

「は??」


ああ。

ミユキがいなくても怪物に立ち向かえる何かがほしい。

一同は、切実にそう思った。







曇りの日が好きだった。

雨の日が好きだった。

誰もアタシを見ないから。

誰も外に出ないから。

そんな日になると外に出て、アタシは空想に浸ってた。

アタシに意地悪を言ったあの子は、どんな風に死んでほしいか。

どんな死に方でも、何度でも、絵の中なら。

理想のともだちだって、絵にすれば何でも叶う。

動物だって、妖精だって、天使だって。


いつか本当に目の前に現れて、アタシを、本来アタシがいるべき綺麗な場所に導いてくれるんだ。こんな間違いだらけの現実から、連れ出してくれるんだ。


「どうしてそんな風に隠して描いているの?」


テレビか何かから聞こえているのだと思った。

それくらい、現実離れした、透き通った声だった。

(あんたの声って、潰れたカエルみたいな声よね)

ああ、きれいな声って、こんな声なんだ。


俯いた顔があげられなかった。

癖になっていたし、頭が重かった。


「……みんなに笑われるから……あなたも、見たら笑うモン……」

「どうして?」

本当に不思議そうに言うから、思わず顔を上げた。

(あんたは私じゃなくて豚から生まれたのよ、でなきゃそんな醜いはずがないもの)

ああ、目に宝石を詰め込んで夜空で包んだみたいね。

きれいな声に、きれいな顔。

その子の周りだけ、現実じゃないみたいだった。


「笑わないわ」


そんなたった一言で、その子はアタシを救った。


ああ、この子はアタシを導きに来たのだ。

アタシを救いに来たのだ。

アタシを連れ出しに来たのだ。


あなたはそこにいるべきじゃないよ、って。

あなたの本当の居場所はここじゃないよ、って。


この子は連れて行ってくれるんだ。


アタシが本当の姿でいられる場所。

アタシがアタシでいられる場所。

アタシが美しくいられる場所

アタシが特別でいられる場所。


きっと、楽園みたいな場所。



(ねえ、アタシもう待ちきれないんだよ?いつになれば連れ出してくれるの?)


自分ばかりきれいなものに囲まれて。

自分ばかりきれいな存在であって。

自分ばかりきれいで出来た国にいて。

そこはさ、本当は。


アタシの場所、だったんじゃないのか、って。

思い始めちゃうよ。


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