第21話 渦、螺旋、もしくはその心
人生はしばし、海に例えられる。
その中で、様々な出来事を、渦のようだと思うことがある。
描くこと、奏でること、なにかを創り出すこと。
囚われて、他へ漕ぎだす選択肢をすっかり奪ってしまうこと。
船出のタイミングを見失い、そこだけに安息を求めてしまうこと。
それは幸福と呼べるのだろうか。
それは使命と呼んでいいのだろうか。
自分がなんのために生きているのかを知ってしまうのは、不幸だと思う。
だって、そうすると必ず終わりが追いかけてくることを悟り、常に終わりを意識し、そのため、それ以外に使わなければならないすべての時間を無駄に思う。
惜しくて惜しくて苦しいくらいに足りない時間が、惜しくて苦しくて悲しくて。
あまりに早くそれを知ってしまうと、それ以外の道が見えなくなり、剰え自らの手でそれらの枝葉すら刈ってしまうのだ。
残るのは一本の道だけ。
そうして怖いのは、それが否応なしに折れてしまった時。
それをなくすこと。
そして、それをなくしても生きていけることを思い知った時。
そんな時、ひとの心はあまりにも簡単に死んでしまうのだ。
◆
(腕が重い……無理に持ち上げたら、べりべりと魂が剥がれて分離してしまいそうなくらいに感じる……たった2、3日描かなかっただけで……)
きっと、熱もある。だって、現に、喉も痛いし。
ひどく、深く、落ち込んだ後は、いつだって体調を崩して、熱が出た。
大丈夫。ゆっくり食べて、ゆっくり寝て。
そうすれば、きっとまたなんでもないように振舞える。
ああ、でも、夢を見ているみたいだ。
あまりに世界が遠くて、現実感が薄くて。
まるで、ずっと昔の映像でも眺めているような、そんな気分になってくる。
熱で勝手に目が潤み、世界をゆらゆら、海に浮かべているのだ。
自分は船だろうか、魚だろうか。
それとも岩礁のひとつだろうか。
ゆらゆら、ゆらゆら。
音が遠く、景色が遠く。
波打つ光だけが、目の奥にはっきりと届く。
痛いくらいに。
(変化することはこわい)
特に、握力。
少し筋力が落ちるだけで、取り戻すまでにたくさんの時間がかかる。
元通りになればそれでいいが、戻らなかった時がこわい。
筆が前みたいに扱えない。
指先が思い通りに動いてくれない。
絵の具の柔さは変わらないのに、筆致がまったく変わってしまう。
自分の絵なのに、どうしようもない。
自分の役にしか立たないくせに、そんな時は自分の役にさえ立たない。
体力もそう。
キリのいいところまで。
筆の望むところまで。
ほんの少しだけ、体に無理をさせて。
そんなことが、そんな簡単だったことが、できなくなって。
なんて弱い。なんて脆い。なんて……望ましくない身体。
(ああ、たくさん心配をかけてしまう)
咳まで出てきた。自分が情けなくなる。
家族はもちろん、学校を休むことでナギたちにまで心配をかける。
マリンやミナトやメルだって、きっと声をかけてくるだろう。
(誰にも心配されなければいいのに)
気にかけてくれることを嬉しく思いながらも、お互いの時間を交換してしまうことを、お互いに時間を浪費してしまうことを、もどかしく感じてしまう。
「……こんな時にくらい、浮かんでこないでほしいものだわ……」
心の片隅に片付けておいたはずの心配事。
盗まれてしまった画材と、財布の行方。
現金はまだいい。
でも、あの中には、お兄ちゃんの花で作った押し花のカードがある。
あの時花冠から落ちたいくつかの花、正真正銘のお兄ちゃんの花。
思い出を掻き集めるようにして作ったそれは、心の拠り所になっていた。
もし、あれをなくしてしまえば。
もし、あれさえもなくしてしまえば。
(わたしはどうなるの?わたしは誰になるの?)
鏡を見ても、自分の姿を認識できない。
いや、違う。
姿は見えるけれど、それが自分であると確証を持てないのだ。
海の底にいるみたいに、ぐにゃぐにゃ、ぐにゃぐにゃ波打って。
ぐにゃぐにゃ、どろどろ、でろでろと、形のないものみたいに崩れそうで。
いまにも溶けてなくなりそうな、焦りにも似た恐怖心が湧きおこる。
ひとりでいたい時にはひとりになれず。
誰かがいてほしい時は、いつも孤独だ。
「――まるで……」
苦しむために生まれたみたい。
悲しむために生まれたみたい。
涙するために生まれたみたい。
恐れるために生まれたみたい。
ひとりぼっちのいきものだ。
ひとりぼっちでいきていくのだ。
ひとりぼっちでなくてはいきていけないのだ。
ひとりぼっちでいなくては、描くことができないのだ。
そんなことは、百も億も承知している。
そんなことは、ずぅっと前、遥か昔から自覚している。
「また、熱が……高くなってきたみたい……ちゃんと、寝てなくちゃ……」
なんでもいいから、なにかをつくりたかった。
手を動かし続けていたかったけれど。
じわじわと上がり続ける熱が、朦朧とした意識が。
「寝る」以外の選択肢をどこかに隠してしまった。
怖いけれど、悔しいけれど、悲しいけれど。
いまは従うしか、ないのだろう。
「肺も、喉も、頭も熱いわ……」
砂漠にいるみたいだ。
窓の向こうに見える海に潜れば、きっとさぞかし気持ちが良いのだろう。
夢に落ちる間際のように、やさしく揺蕩いながら。
怖い言葉も考えも、すべて消し去るようなさざなみだけを聴きながら。
身を焼く熱を次第に奪って、すこしずつそこへ沈めていくのだ。
いいな、いいな。
うらやましいな。
「……わたしも……いつかそこへ、つれていって……」
きらきらと翻る海面に、ミユキはひとり、願った。
◆
人生で、一度だけ、天使を見た。
人生で、一度だけ、悪魔を見た。
悪魔は優しさをちらつかせながら、的確に傷をつけてくる。
天使は厳しさをちらつかせながら、的確に心を救ってしまった。
天使は海に似ていた。
アタシも、そうなりたかった。
でも、どこまでも飲み込まれそうで怖くなった。
悪魔は炎に似ていた。
アタシは、そうなりたくなかった。
でも、どこかあたたかく感じて安堵してしまった。
いつも、それらは一緒に在った。
それがまた、許せなかった。
どちらの特別にもなれなかった。
誰かの特別になりたかった。
だから余計に、憎らしかった。
だから余計に、妬ましかった。
アタシは誰よりもやさしく、誰よりもかわいらしい。
空想すればおもしろいと言われ、才能があるのだと言われ。
「あなたはなんにも悪くないのよ」
おばあちゃんに、そう言われて育ってきた。
どんなものだって、本当ならアタシが持っているはずだった。
どんな称賛だって、本来ならアタシに向けられているはずだった。
アタシは何をやっても褒められなければならないはずだった。
見覚えのない財布に、知らない名前の彫られた画材。
それが見つかった時、おばあちゃんんはアタシに失望した。
悲しい顔をして、アタシのことなのにアタシに隠れて泣いていた。
「あの子は怪物になってしまったんだ」
「あの子はどうして見た目だけでなく心までこんなに醜いのか」
「生むんじゃなかった、心から、本当に、生まなければよかった」
「あんたが悪いんじゃないのよ」
アタシを生んだくせに憎んだ母親と一緒に、アタシの悪口を言った。
アタシはなんにも悪くない。
ずっとそう言ってきたのに、どうして今更アタシを傷つけるの。
アタシはなんにも悪くない。
アタシを怪物にしたのはいつだって周りの悪人たちなのに。
憎い。憎い。憎い。妬ましい。
アタシをこんな怪物にしたそいつらを、アタシは許せなかった。
空っぽになった菓子の袋たちが、アタシ自身の心みたいで、空しくなった。
同じように空っぽなミナトやマリンでも、輪の内側に入っていけるのに。
なんにも持ってないあの子たちでも、輪の一部になれているのに。
なんでアタシだけ、いつも弾き出されてしまうの?
「おなかがすくと、悲しくなる」
ミユキがそう言ったから、仕方ないのだ。
「悲しくなると、甘いものが食べたくなるのだわ」
これは、ミユキのせいなのだ。
だから、ミユキが償って当たり前なのだ。
ミユキの財布を鷲掴み、家を抜け出して近くのスーパーへ走る。
暗い道はこわい。でも、あの家にいるのはもっと怖い。
煌々と光るスーパーの灯りにほっとして、カゴに次々とお菓子を放り込む。
レジでお札を取り出そうとして、隙間から何かが落ちた。
今どきないような、古臭い押し花のしおり。
こんなものでも、ミユキは美しく仕上げてしまうのだ。
そうだ。これならアタシにもできるかもしれない。
いや、アタシはなんだってできるのだ。
まだまだ残っている紙幣が、アタシを勇気づける。
やっていいんだよ、やってみていいんだよ、と。
ミユキがそう言っているんだもん。
明日は学校が休みの日。
絵を描いて、ミユキがやっていたように粘土や彫刻の材料を買いに行こう。
そうすればそのうちひとつくらいは、ミユキだってアタシを認めるはずだ。
アタシのこと、輪の中に入れてくれるはずだ。
◆
「このメンバーでお茶するの、初めてだね」
「チーズケーキの使者さん」
「マリン、この子はメルちゃんだよ」
今日もまた焼いてきたらしいチーズケーキ(今日はダイスカットのチーズ各種とブラックペッパー入りだ)を持ったメルが、得意げに笑いながら首を振る。
「私、チーズケーキの使者って称号、めっちゃ気に入ってるので」
「気に入ってるんだ……」
切り分けてもらったそれを、紙皿と使い捨てのカトラリーでいただく。
お茶は各自売店で買った物を飲んでいる。なんだか味気ない。
「ミユキ、熱けっこう高いらしいけど大丈夫かな?」
「もうすぐ文化祭なのにね」
「まあ、あんなこともあったし……」
片付きはしたものの、美術室はミユキが来る前のように殺風景になってしまっていた(らしい)(船橋談)。
誰も使っていないような、誰も訪れることのないような、寂しい空き教室。
誰も何もする気が起きず、ただ放課後集まっては掃除したり修理したりしている。
窓は急ぎベニヤ板で塞いだものの、隙間風が入ってきてちょっと寒い。
秋風が吹くたびガタガタと音をたて……。
「あ、みんなここにいたぁ~」
「……ノワキ!?」
「なんで来たの?またなんか壊しに来た?それとも盗みに?」
たった3日間の停学処分しか受けなかったノワキは、停学が明けてもなんの反省の色も見せなかった。現に、こうしてのうのうと現場に帰ってきている。
「アタシが代わりに展示品作ってあげたんだよ、ほら、粘土の胸像とか」
(いびつなサッカーボールかと思った……)
「指とかめっちゃ怪我しながら彫刻も作ったし」
(この汚れ、血……?拭かないの……?洗ったりとかは?そもそもなんの彫刻?)
「絵もいっぱい描いてきたからアタシの個展やろうかなって」
(なにもかも異常で異様なんだけど……やだな、これがミユキの美術部の作品だと思われちゃうの……てか個展ってなんなの?何様?あのザマで?)
ミナトが思いっきり顔を顰めながら、修復した陶器たちを庇うように後ろに隠す。
「ノワキさぁ、あれだけやっておいて懲りてないの?まず謝罪じゃね?」
「アンタ、自分で壊しておいてよくそう恩着せがましいこと言えるよね」
「みんながアタシをいじめたのが悪いんじゃん、でもいいよ、許してあげるから」
「……はぁ??」
だめだ、話が通じない。
「その代わり、今日からこっちの美術部に入れてもらうから」
「は??」
ああ。
ミユキがいなくても怪物に立ち向かえる何かがほしい。
一同は、切実にそう思った。
◆
曇りの日が好きだった。
雨の日が好きだった。
誰もアタシを見ないから。
誰も外に出ないから。
そんな日になると外に出て、アタシは空想に浸ってた。
アタシに意地悪を言ったあの子は、どんな風に死んでほしいか。
どんな死に方でも、何度でも、絵の中なら。
理想のともだちだって、絵にすれば何でも叶う。
動物だって、妖精だって、天使だって。
いつか本当に目の前に現れて、アタシを、本来アタシがいるべき綺麗な場所に導いてくれるんだ。こんな間違いだらけの現実から、連れ出してくれるんだ。
「どうしてそんな風に隠して描いているの?」
テレビか何かから聞こえているのだと思った。
それくらい、現実離れした、透き通った声だった。
(あんたの声って、潰れたカエルみたいな声よね)
ああ、きれいな声って、こんな声なんだ。
俯いた顔があげられなかった。
癖になっていたし、頭が重かった。
「……みんなに笑われるから……あなたも、見たら笑うモン……」
「どうして?」
本当に不思議そうに言うから、思わず顔を上げた。
(あんたは私じゃなくて豚から生まれたのよ、でなきゃそんな醜いはずがないもの)
ああ、目に宝石を詰め込んで夜空で包んだみたいね。
きれいな声に、きれいな顔。
その子の周りだけ、現実じゃないみたいだった。
「笑わないわ」
そんなたった一言で、その子はアタシを救った。
ああ、この子はアタシを導きに来たのだ。
アタシを救いに来たのだ。
アタシを連れ出しに来たのだ。
あなたはそこにいるべきじゃないよ、って。
あなたの本当の居場所はここじゃないよ、って。
この子は連れて行ってくれるんだ。
アタシが本当の姿でいられる場所。
アタシがアタシでいられる場所。
アタシが美しくいられる場所
アタシが特別でいられる場所。
きっと、楽園みたいな場所。
(ねえ、アタシもう待ちきれないんだよ?いつになれば連れ出してくれるの?)
自分ばかりきれいなものに囲まれて。
自分ばかりきれいな存在であって。
自分ばかりきれいで出来た国にいて。
そこはさ、本当は。
アタシの場所、だったんじゃないのか、って。
思い始めちゃうよ。
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