第20話 明るくなるまで待って
「……おなか、すいた」
夜を待って、ミユキは家を抜け出した。
花のランプの灯りをたよりに、煉瓦道をぐんぐんのぼる。
いくらか躓き、転びそうになっても、ぐんぐん、ぐんぐん。
アトリエさえも通り過ぎ、目指すはもっと高くに作った展望場所。
星が見たい。
ひとびとが作り描いた、街という名の星の渦が見たかった。
自分で思っているほど、だいじょうぶじゃなかった。
ひとがいれば、誰かが目の前にいれば笑っていられた。
笑っているような状態を、保つことができた。
つまりは、笑っているフリだ。
街の灯りが明るければ、明るいほど。
そこにひとの営みを見られて、少し勇気づけられる。
自分にとっては最悪の日でも、誰かにとっては最高の日かもしれない。
また別の誰かにとってはいつもの日かもしれないし、最悪だった日を踏ん張って、がんばって、まさに今、たった今、乗り越えようとしているのかもしれないから。
「この中に飛び込んで、吸い込まれて行けたのなら……」
ランプを樹のテーブルに置き、柵に頬杖をついた。
「何も考えずに、ずぅっと眠り続けることができたのなら……」
でも、朝は変わらず来てしまうのだ。
毎日、毎日、望んでもいないのに律儀に毎日。
夜が好きだった。
深く呼吸ができるから。
太陽に焼かれず照らされず、自分のことも溶かして包み込んでくれるような、大好きな海に似た冷たさがあるから。
深く濃くなる風の匂い。
朝露を作り出す緑の匂い。
研ぎ澄まされて洗われる空気の匂い。
ピンクとグリーンとパープルと。
それからすこしのネイビーと。
やわらかく混ぜた夜空の色。
そんな夜が、好きだった。
悲しくなっても許される。
笑えなくても許される。
ため息をついても許される。
死にたくなっても許される。
生きていても許される。
生きていたくても許される。
誰もが、闇夜の中では平等に思えた。
カチ、コチ、チク、タク、心臓の音。
リリ、リリ、ルル、ルル、虫たちの声。
さら、さら、かさ、かさ、葉っぱの声。
たまに遠くから聞こえる車の音。
誰かの発したくしゃみの音。
形にならないほどに、ちいさなちいさな、生活の音。
夜がノイズを吸い込んで、残るはくっきりとした輪郭だけ。
夜が、夜が好きだった。
涙をこぼしても見えないから。
誰かが慰めにくることに怯えなくてもいいから。
自分ひとりの感情くらい、自分一人で始末できる。
「ああ、だけれども……」
ナギが来た時は嬉しかった。
うんざりも、がっかりも、いらだちもしなかった。
夕陽に照らされたくりりんとした髪の毛が、まるで金色の天使みたいに光って。
両の手に抱えた大きな白いまあるい袋が、祝福を詰め込んだ花束みたいで。
「……あまり、心配かけちゃいけないわね」
ミユキの心は、例えるなら、夜の海に浮かぶ筏に似ている。
どこへでも行くことができるけど、どこにも留まりはしない。
ぷかぷかのんきに浮いて見えるけれど、誰もそれを捕まえられない。
波風を立てればどこかへ行ってしまい、遠くへ行けば戻ってこない。
裏も表もあるはずだけれど、傍から見るとどっちも同じ。
だから周りの誰も彼も、転覆していることに気付けない。
ひとりぼっちで浮いてることを、寂しがりながらも好んでいる。
風の吹くまま気の向くままに見えて、いつも同じ場所を目指してる。
「…………もし、わたしだけの星があるのなら」
ちいさい頃から繰り返ししてきた問答をまた、繰り返す。
「ずっとずっと夜のまま、月明りと星明りだけで照らされたい」
花の形のランプは少し、弱い灯りに変えましょう。
「水と緑と土と風、誰も喧嘩せずに存在したい」
ひとを忘れた星のように、街は朽ちて、緑が包み、水が満たす。
「海は広く、とても広く、辿り着かないほどに広く」
誰もやってこられないよう、信じられない広さの海を。
「たったひとつのラジオだけが、いつかの音を繰り返すの」
夜の中の生活音のように、関わることのない誰かの音だけがこだまして。
「四季はそれぞれ住む場所を与えられて、春の丘、夏の岬、秋の森、冬の街」
花畑で冠をつくり、浜辺で走ったり泳いだり。
落ち葉のベッドで埋もれて眠って、クリスマスにまみれて過ごす。
「そこらじゅうに果物や野菜が生えていて、それに生かされるの」
たったひとりに、星ひとつぶんの食料。
「かといって、食べなくても眠らなくても怒られたりしないのよ」
十二分すぎるくらいだ。
「…………遠く、遠くへ行ってしまいたい、誰も知らない場所へ、ただひとりで」
朝になったらちゃんとするから。
明日になればちゃんとするから。
夜の中でだけは『わたし』でいさせて。
思う存分に、自分自身でいさせて。
朝になれば、平気にするから。
朝陽を浴びて、起きたフリをするから。
光の中では、『ふつう』にふるまうから。
望まれるままに『ミユキ』でいるから。
「……お兄ちゃんは今、どこにいるのかしら」
この胸の痛みはなんだろう。
この胸の苦しみはなんなのだろう。
「ひとは死んでしまえば、どこにいくのかしら」
二度と届かないところへ消えていった人々。
そんな人たちを想う時、同じ苦しみが胸を締め付ける。
この星のどこかに、そっと溶け込んでいやしないだろうか。
そんな希望を持て余し、恋しさを愛おしさを持て余す。
これはどこに向かっているのだろう。
恋しさも、愛おしさも。
消えてしまったものにいつだって、向かっている気がする。
「……ああ、そうだったわ」
愛しさと過ごしてきたあの画材はもうここにはない。
誰かの手に汚された時点で、同じものではなくなってしまった。
この世から、それは永遠にうしなわれてしまったのだ。
あれでなくてはいけなかった。
いまここになくてはいけなかったのに。
「あぁ……」
きっと無意識だった。
無意識に、いつものように絵を描こうとそれを手探った。
手探った腕がぶつかり、花のランプまでもが砕け散り、消え果てる。
ひとり、暗闇で、夜に惑う。
なにもなくなった。
支えになるものが、なにも。
ただのひとつも。
いま、この場にない。
希望に似ているのは、遠くに見える星のようなもの、だけだった。
決して手を伸ばしてはいけない星だけだった。
ああ、ああ、ああ。
本の頁を捲るように、夜がゆっくりと捲られていく。
今日はここまで。
そうやって物語が終わってしまうように、パタンと本が閉じられてしまうように。
帳の端から白んできて、とうとう絶望が顔を出す。
「……帰らなくちゃ、帰らなくちゃ……」
太陽なんか、まだ、見たくもなかったのに。
世界がそれで照らされる。
否応なしに、真実が浮き彫りにされていく。
とりが鳴いて、人々が目を覚ます。
絶望が目覚める前に、『ミユキ』になる準備をしなくては。
きらきらと光を反射してしまうそれらを、ミユキは必死に袖で拭った。
腫れないように、擦ってしまわないように、だけど必死に必死に拭った。
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