第19話 なんだよ、それは


「海淵さんに黒潮さん、あと築地さんに河岸さん、ちょっと来て」


ミユキにナギ、ミナトにマリンが呼び出された。

それも、ノワキのクラス担任である若芽に。


「なんですか?」

「あんたたち、ノワキさんのこといじめてるって本当なの?」

「はぁ!?」

「ノワキさん、海淵さんが怖いからそっちにいけないって相談してきたのよ」


ミユキはちょっと首を傾げた後、きょとんとしながら宣った。


「ねえ先生、いじめってなんですか?どういうもの?」

「え?あなたねぇ、無意識だとしても相手がそう思ったのならいじめはいじめだからね……今回の場合は仲間外れにしてるとか、嫌がらせしたとか、そういう」

「そっか……じゃあわたし、いじめられてたのね、ノワキさんに」

「え?なに、どういうこと?話が見えないんだけど」


ミユキはがっくりと肩を落とし、悲しそうに表情を歪めた。


「……わたしがみんなとお話しようとするたび、必ず遮って……気分の悪いことを言われたり、傷つくようなことをいっぱい言われたりして……だんだんひとりぼっちになっていって……それでナギさんたちが、気を遣って美術部に入ってくれたから……でもノワキさんは文芸にも興味があったみたいだし、わたしたちはそこまでしている余力もないから……だから……ああ、そうですね……傍目から見ればどっちが仲間外れにされているのかなんてわからないものね……現に先生は今の今まで、わたしのお話なんて一度も聞こうとはなさらなかったし……気にすらかけてくださらずに……」


若芽は慌てたようにミユキを落ち着かせ、ナギたちに向き直る。


「これ、本当?」

「ノワキさんの言い分は信じてわたしたちを呼び出しまでしたのに、わたしの言い分はまず疑うんですね、第一に……そんなに信用がないのかしら……悲しいわ……」

「ちがうから!一応みんなに確認しているだけですから!」

「本当?」

「本当です、後で他の子たちにもちゃんと話を聞きますから」


それをいじめと言うなら自分もいじめられてたんだな、とナギは思う。


「よかった……ところで先生、暴力はいじめに入りますか?」

「もちろんです!なに、誰か叩いたの?叩かれたの?叩いてるとこ見たの?」

「……最初は、わざとじゃないのかもしれないと思ってたんですけれど……ノワキさんが、ナギさんの……ね?」

「……はい、怪我した方の腕、いつも殴られてました、あと体当たりも」

「そんなことしてたの!?」

「ミユキの前は私がターゲットだったみたいで、同じ嫌がらせもされてました」

「嘘でしょ、聞いてた話とまるっきり違うじゃないの……」


若芽は目を白黒させ、深呼吸してなんとか落ち着こうとしていた。

ナギは一瞬だけミユキの演技かと思ったが、ミユキは本当に悲しそうにしていた。

一瞬でも友人を疑った自分を、死ぬほど恥ずかしく、そして申し訳なく思う。


(そっか、そうだよね……ミユキも散々、標的にされてたもんね)

「謝った方が、って言ったんですけど……ノワキさん、未だにナギさんに一言も謝りもしなくて……だからきっと、何か意図があってのことだったのでしょうね」

「そうね、ノワキさんにもきっと事情が……」

「……事情があったら叩いていいんだ?」


そこまで聞いて、今まで唇を噛みしめていたミナトが口を開いた。


「……先生は意図や事情があったら暴力やいじめを正当化するんですか!?」

「そんなことは……」


普段のほほん朗らかにしているミナトが口調を荒くしているのを初めて聞いて、ナギたちまでもが驚いて固まる。


「じゃあノワキさんは何かいじめをしても許されるほどの超特別扱いを受けなきゃいけない理由でもあるんですか?そもそも話したこともないノワキさんをクラスでは面倒見切れないからって違うクラスのウチらに無理矢理押し付けてきたのは先生ですよね?自分のクラスの生徒なのになぜ?ウチらは仲よくしようとずっと頑張ってきましたよ!?クラスにいられないのはノワキさん自身に問題が山積みだったからじゃないんですか!?こんな問題まで起こされて、はっきりって気分が悪いです!もうすぐ文化祭だっていうのにこっちのクラスまでめちゃくちゃにするんですか!」


若芽は口籠る。

それをいいことに、話を聞いていたクラスメイトたちも口々に抗議に参加する。


「で、でも、ノワキさんが言ったのよ、黒潮さんとなら知り合いだって」

「え、知りませんけど」

「え?」

「いや、話したこともなかったし面識もなかったし名前すら怪しかったし」

「友達だったんじゃないの?」

「いや、そもそも、中学も違ったと思うし」

「ねえ、先生……」


ミユキがさっきより悲しそうな顔をして、いまにも泣きそうな顔をして。


「わたしってそんなに、いじめをしそうな悪人に見えたのかしら」

「それは……」

「それともノワキさんが、そんなにも良い子だったのかしら」

「いや、まあ、大人しい子だとは思うけど……」

「気の合う人となかよくできればいいと思って、部活に入るのをすすめたり、みんなと仲良くできるようにって、悪いことをしたらやめるように言ったり、度が過ぎれば謝るようにも言ったわ……それってそんなに、いけないことだった?」


ああ、事態が収拾できなくなっていく。

同じように不満を持った誰も彼もが、我先にと若芽に抗議している。


「先生、気の合わない子がいるのはいけないこと?嫌がらせをされても、わたしの方が意地悪されていじめられても、それでも仲良くしなければいけない?」

「そういう訳では……!とにかくみんな静かに!席に戻って!」

「……先生が勝手に押し付けた子でも、仲良くできなかったら、こっちが被害者でも私達が加害者ってことになるんですか?実際、そうなってますよね?」


いつもは優等生なマリンまでもが若芽への抗議に参加する。

それに驚きながら、事態の収拾がもはや自力では不可能な領域にまで達していることを理解した。若芽までもが叫ぶようにしている。誰か別の先生が怒鳴りながら走ってくるのが見える。それでもこの場は収まらない。


たったひとりの悪意ノワキによって、こうもたくさんの人間が不幸になったのだ。


こうなってくると、逆にノワキが哀れに思えてくる。


(あの子は、人を不幸にするためだけに生まれてきたのだろうか)


当の本人は、いまどこで何を思っているのだろうか。








「アタシは悪くない……アタシは悪くない……被害者はアタシだけ……アタシは誰よりも優しいんだもん……天使みたいなアタシがいじめなんてするはずないのに……ぜんぶあのカイエンとかいう悪魔みたいな醜いクソ女のせい……」


目の前には、色とりどりの展示品。


「そうだ、たまたま風が強かったんだ……そうだ……そういえば、今日は風が強いんだ……風がやったんだ……風が強かったんだ……アタシがかばってあげなかったら今頃どうなってたか想像するのも怖いくらいだよねっ!」


割れた窓たち。

散乱するガラスの破片。

色とりどりの展示品、だったものたち。

大事にしまいこまれていたはずの、食器だったものたち。

きれいに整頓されていた、きれいで見るからに高級な画材たち。


カーテンはぴくりとも動かず、乾燥した季節に似合わない湿った空気で淀んでいた。


「……これは、アタシに使ってほしいって言ってる……だって、アタシは物のキモチだってわかるもん……優しいから……誰よりも……トクベツなんだもん……」


物語の主人公はいつだって自分で。

周りを生きるモブたちが同じ人間であることに気付けない。

同じように感情や心があることをどうしても理解できない。


自分が、自分が、自分が。


自分だけが。


特別であるのだと、信じ込んだまま。


浮き上がることのできない場所まで、自らの重さで沈んでいく。


落ちていく。


これより下なんて、ないはずなのに。

どこまでも、どこまでも。







「…………な、なに……これ」

「滅茶苦茶じゃないの!一体どうしたのこれは!!」

「こっちが聞きたいのにまた私達のせいにするんですか!?」

「あーもう叫ぶのはやめて!先生、耳が痛くなる!!」


ナギたちは事情を聴くためにとりあえず旧校舎の部室に連れて行かれていた。

そこは本当に美術室かと聞きたくなるような有様になっていた。

窓という窓が割られ、展示品という展示品が滅茶苦茶に破壊しつくされ、茶器やカトラリーも棚から放られ散乱し砕け散り、ソファやクッションまでもがびりびりに引き裂かれて綿が雪のように散らばっていた。

破片たちを避けることもなく蹴り寄せて、若芽はうんざりして言い放った。


「あーもうこんな場所で部活動なんかするからこんなことになるんじゃないの?」

「先生」

「な、なによ」

「今日は風、強かったですか?」


あ、がらんどう。

ミユキの目から、海が消えていく。潮が引いていく。


からからにかわいて、ちいさな砂のお城だけがほろほろと残ったように。


「……強く、なかったけど……それしか考えられないじゃない」

「そうとしか考えたくない、の間違いではありませんか?先生、先生は国語の教師でしょう?なら、言葉は正しく使わないといけないわ……もう一度、訊きますね」


(あ、ミユキがこぼれちゃう)


「……そうね、そう考えたいだけだわ、私が」

「どうして?」

「……それは……」


泣きながら陶器のかけらを拾い集めるミナトの頭を、マリンが抱える。

いまは見ない方がいいよ、後で一緒に治せるから、と。


「思い当たる節があるから、でしょ?どうするんですか?こんな……取り返しがつかなくなってから……先生、どうするんですか?私達は、どうすればいいんですか?」

「河岸さん……」

「どうすれば、良かったんですか……」


それまでからっぽの目で破壊の痕を眺めていたミユキが、緩慢とした動きで何かを拾い上げた。


「なにそれ?それもあなた達の持ち物?」

「……今朝まではなかったわ……落とし物みたいね」


砂の城が崩れ落ちる。

内から芽生えた氷の棘によって。


「これはぜひ……先生から、かえしてさしあげて」

「…………」

「先生のクラスの、ノワキさんに」


若芽は、何かを諦めたようにため息を吐いた。

わからなくもない。誰だって問題は避けたいし、先送りにしたいのだろう。

若芽にとっては、ただ内向的なだけの、大人しいだけの生徒に見えたのだろう。


「……ごめんなさいね、海淵さん、黒潮さん、河岸さん、築地さん」

「先生」

「なにかしら」

「もうわたしたちに、なにも押し付けないって、約束してくださる」

「…………ええ、そうね……ちゃんと、約束するわ」

「それじゃあ、わたしたち、ここを片付けないといけないから……」

「ええ、私の方から言っておきます……」


若芽が静かに去った後しばらくして、やっとミユキは動き出した。

自分の作品だったものにも、大事にしていた茶器にも目をくれず。


ちいさな白いかけらばかりを、同じように白い手の平に掻き集めた。


「ごめんなさい……わたしが余計なことをしたわ……わたしが何もしなければ、ねこちゃんたちも壊されることはなかったし、あなたたちが傷つくこともなかった……」


かけらをひとつ拾うたびに、ごめんなさい、ごめんなさい、と呟く。


「ちがうよ……私達は誰も悪くなかったんだよ……ただ、運が悪かっただけ」

「陶器は直すこともできるから……だけど……海淵さんの絵が……」


ナギは思う。自分がいかに無力なのか。

どうしてミユキを慰められる言葉のひとつも、持ち合わせてはいないのか、と。


ナギとマリンが悔しそうに唇を噛みしめていると、ミナトが鼻をずびずび言わせながら呟いた。震えた、鼻声で。


「……ね、直そうよ……直してみようよ、できるところまで」

「……ミナトさん……」

「ね?セロテープ……は、だめかもしれないけど、なんかホチキスとか、ボンドとか……くっつけたりっ……してさぁ……」


ああ、ミナトは強い子だった。

弱くてもろくて、でも、しなやかで、強い。


「……ええ、そうね、泣いている場合なんかじゃないわね」

「ううん、泣けばいいと思うの、ウチも泣いたし、まだ泣くし、マリンもナギも、みんな、気の済むまで、おなかが空くまで泣いちゃえばいいんだよ」


みんなは、わんわん泣いた。

怒って、悔しがって、悲しくて、やりきれなくて、それはもう泣きわめいた。

お昼休みが終わっても、放課後になっても、みんな泣き止まなかった。


一度先生たちが様子を見に来たものの、まだ泣いていることに驚いたのか、どこかへ行ってしまった。そして少し後に、焼きたてのパンと色んなお菓子、それから温かいココアをたくさんたくさん、持ってきてくれた。

紙皿と紙コップで、いつもよりずっと味気ないはずだったのに、それでもぜんぶ、美味しかった。ゆげが目に染みて、またすこし、みんなで泣いて。


「よし、先生たちも片付け手伝うから一緒に……」

「あ、お待ちになってくださる……?」

「どうした海淵」

「ちょっと……足りない気がいたしまして」

「……何か盗られたのか?」


ミユキはあちこち探し回り、訝し気に戻ってきた。


「画材一式……まるっと……それから、お菓子一式……これも、まるっと……」

「……他に部員は?」

「メルさんがいらっしゃいますけど……」

「うわ、なにこれ!」

「いらっしゃいましたけど……無関係かと……船橋先生のクラスですし……チーズケーキの使者様ですし……」


チーズケーキ(今日はベリー系のドライフルーツ入りだ)を食べながら、ここであったことをかいつまんで聞かせる。やはり同じように怒り、喚き、泣き出した。


「なんでこんなことができるの?」


誰もが何度も思ったことを呟く。

一同、まったくもって同感だ。

なにがノワキをそうさせたのか。


「やっぱり、アイツで間違いないんだな」

「先生、向こうの美術部員の方々に訊ねてきてもらえますか」

「ああ、何をだ?」

「パイは美味しかったか、と……」


からっぽだった目に海が戻っていた。

月の光を飲み込んでしまったかのように、真っ暗な海が。


「それから、使いかけの画材の寄付がなかったか、と」


一瞬怪訝な顔をしたものの、何かに思い至ったのか、頷いて走り去った。


「……みんな、私、今回、ううん、ずっと……なにもできなくてごめん」

「ナギ、きっと、どうにかできた人なんていなかったよ」

「……わたし、甘かったのかしら」

「なにが?」

「悪いことをした人間でも、説得し続ければいつかは改心すると思っていたわ」


いつかの悪夢が、ミユキの中で反響していた。

使用人からの報告では、あの少女は描くことから逃げようとし、でも逃げることを許されずにまだ描き続けているようだ。

上達することも、衰退することもなく、ただ義務のまま停滞しながら。


結局変わらないのだ。

ひとの根っこは。

悪人は発生した時点で悪人で、死んだ後もそれは変わることがない。

外側からの圧力で人を変えようだなんて、おこがましかったのだ。

はじめからそう、決まっていたのだ。


「……ミユキ」

「なぁに?ナギさん」

「……どこへも行かないでね」

「おかしなナギさん、わたしがどこへ行くというの?」

「だって、なんか……」


どこか遠くを見ている。

誰にもわからないほど遠いところを。

誰にも届かないくらい深いところへ。

誰も知らないうちに、そんなところへミユキは行ってしまいそうで。


ひとり。

たったひとりで、誰の手も届かない星へ、旅立ってしまいそうで。


「なんか、手、つないでていい?」

「私も……」

「じゃあウチらも……」


ミユキは初めて見るようなびっくり顔をして、これまた初めて聞くような声量で笑い転げた。何がおかしいのかわからなくて、でもおかしくなって、みんなで笑った。







「え?パイ?ああ、なんかあの……ノワキさん?がなんかひとりでワンホール食ってたっけ……私達はもらってないから知らないけど、私達から隠れて美味しそうに食べてましたよ、飢えた獣みたいにガツガツと」

「画材ならノワキさんが見せびらかしてましたよ、めちゃめちゃ高級なメーカーのやつだからびっくりして印象に残ってます」

「自分のファンからもらったとか言ってましたけど、ほら、アレです」


人間の死体をモチーフにしたとしか思えない絵が立てかけられた席。

そのスケッチブックは端の方が丸まり、よくわからないもので汚れていた。

そんな絵に似つかわしくない、綺麗な画材が一揃い。


言われていた通り、持ち上げて底板の隅の方を見てみる。

確かに幼い字で「かいえん みゆき」と彫られていた。

絵筆には箔押しの筆記体でミユキの名前が書かれていたし、他の画材も似たり寄ったり、つまりはミユキの名前がどこかに隠されていた。


「ファンなんているワケねーっつのあんなのに」

「コラ、しーっ!」


ここでも嫌われているらしく、部員たちからは散々な言われ様だった。

とにかく盗みを働いたのもノワキで間違いなさそうだ。


「で、そのノワキは今どこだ?」

「さあ……なんかおなかすいたとかで売店かどっか行きましたけど」

「あんだけ食っといてまだ食うのかって呆れましたよ、ほんと豚みたい」

「いつもはお金がないからって私達にタカってたくせにね」


ここの部員たちも随分と疲れているようだ。

そして最後の言葉に嫌な予感が船橋の頭を過る。


「……臨時収入でもあったのか?」

「そこまで知らないよ!!私達アイツの世話係じゃないんだから!!」

「す、スマン……」

「……先生、アイツまさか……人のもの盗んだの?」

「いや、確証があるわけでは……」


いや、あるのか。既に確証が。


「……先生、アイツどっかおかしいよ」


ああ。

どうしてあんな怪物がわざわざここへ入学してきたんだ。







陰鬱な気分は、袋いっぱいのお菓子で吹き飛んだ。

これだけ買ってもまだまだ残っている。


「やっぱりアタシは幸運の妖精さんだ」


あの時みたいな天気だ。

あの日みたいな風の強さだ。

あの日も風が強かった、はずだ。


「ナギちゃんは、いつ思い出してくれるかな、アタシが命の恩人だってこと……」


絶えず記憶が書き換わる。

絶えず認識が書き換わる。


自分の都合のいいように。

自分がそうあってほしいと願ったままに。

起きてしまったことは変えられない。

それなら、自分の記憶の方を書き換えてしまえばいい。


そして嫌な記憶はみんな、書き換えてしまった記憶ごと、消してしまえばいい。


「カイエンサンってば、いらないっていったのに友達料なんて押し付けて……」


歪んでいるのに気付けない。

歪みすぎて気付けない。


ぐるぐるぐると絡まって、出口はとうに消え去って。


戻る道も途絶えたよ。

行くべき道は途切れたよ。


ぐるぐるぐると念入りに、首吊る輪っかの出来上がり。


土星に辿り着けないよ。

おまえは海にもかえれない。


ころころころと丸まって、いつかぱちんとはちきれる。


こわいものはただひとつ。

己の姿を映してしまう、きらり透き通った鏡だけ。



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