第18話 それは映日果のジャムのように
「う~ん……」
ナギは悩んでいた。
やっぱり元通りには動かない手のことだとか、使ってこなかった分いくらか弱ってしまった喉だとか、そういう、カラフルな感情を伴う苦痛によってではない。
「拝啓……から始まってもおかしいか……えっと、久しぶり……とか?」
「親しき仲にもなんとやら、でしてよ」
「そうなんだけどさぁ……」
「込めた分だけ、想いが相手に届くように魔法をかけてあげましょうか」
花柄の封筒に、紙でできた花を押し込める。
ふわり、甘い香りが広がった。
紫色のちいさな花ではなく、華やかさのあるオレンジ色の花。
それはいつものミユキの匂いではなくて、爽やかに甘い、果実の香り。
ああ、わざわざ選んでくれたのだろうか、と胸があたたかくなる。
それだけで少し、勇気づけられた気がした。
「よぉし、書くぞー!」
「その意気だわ、ナギさん」
ミユキが文化祭展示に出すための絵をさらに描いている(数はもう間に合っているのだが、やる気が有り余っているらしい)間、ナギは必死に歌や楽器の……特に、ピアノのリハビリをしていた。
楽器に関しては元通りどうこうの次元ですらないのだが、それでも。
「あの時……なんで、ナツミに本当のこと言えなかったんだろう」
素直に言っていれば、現在は何か違っただろうか。
「そんなの、本当は終わりたくなかったからではなくて?」
「終わり?」
「だって、もしわたしがそうなら、描けなくなったと知られて『残念だけど仕方ないね』って、勝手に誰かに終わらせてしまわれたくはないもの……それが優しさであればあるほど、親しければ親しいほどに、なおのこと……」
優しい人も、親しい人も、『それでも頑張れ』とは言ってはくれない。
『終わり』という優しい選択肢もあるのだと、そんな選択肢を選び取っても世界にも人生にも大した影響はないのだと、残酷にも突きつけてくれるだけ。
だって、ひとの内包する精神の世界だとか感情だとか、そういったものはいつだって目には見えようがないし、重さを量る手立てだってありはしないのだから。
「大切な人を遠ざけてしまわなければならなかったほどに、この手に抱いていたかったものなのだから」
ミユキは、壊れ物でも扱うかのように自らの手をゆっくりと開閉した。
まだ動く、きちんと動く、自分の思い通りに動く、そんなことを確かめるように。
「…………よし、書けた!」
きれいな柄の切手を貼り、学校近くにあるパン屋さんのポストまで投函しに行った。
そのついでにジャムパンとカレーパンとコーヒー牛乳を買い、旧校舎へと戻る。
「あっという間に日が暮れるね」
「まるで、いちじくのジャムの中を泳いでいるようだわ」
「ミユキん家にも大きないちじくの木があったね」
「そろそろ収穫しなくてはね、手伝ってくださる?ジャムとタルトと果実を報酬に」
「乗った!」
ジャムパンはいつもの安いイチゴジャムの味わいで、カレーパンだっていつもと同じ、特別なことなんか何もなかったはずで。
だけどいつもよりやたらと美味しく感じて。
ついつい、鼻歌が漏れ出してしまうほどに。
「ベートーヴェンの田園ね」
「秋だからね」
「そうね、秋なのだわ」
秋雨も落ち着き、きらきらとした夕陽が落ち葉を金箔のように染め上げる。
「葉っぱの落ちるのと、ベートーヴェンの田園はなんか似てる」
「彼の時代も、葉は同じリズムで落ちたのかしら」
「そうかもね」
この光景を目に焼きつけたい。
いつか、思い出すだけでどんな苦境にも耐えられるように。
どちらともなく、立ち止まる。
考えてることはわからないのに、なぜか確信がある。
きっと、同じことを考えているのだ。
ふたりは落ち葉の降り注ぐ並木道を見上げて、陽の落ちきるまで眺めていた。
◆
「ナツミ、お手紙が来てるわよ」
「はーい」
制服のリボンタイを整えながら、母の差し出すそれを受け取る。
また何かの招待状やおしらせだろうと差出人を見て、すべての動きが止まった。
「…………そう、やっとってワケね」
ふわりと香る真夏の香りに、遥か遠い記憶がよみがえる。
鮮明に、鮮明に。
どれほど練習しても終ぞ手の届かなかった、星のきらめきみたいなピアノの音が。
「私の金賞は、いまはどう変化してるかしら」
あの天才は、あの頃と変わらない輝きを持っているだろうか。
欠けてしまっても、砕けてしまっても。
自由自在にぐにゃぐにゃと形を変えながら、それでも変わらない輝きを。
流星のように燃え尽きながら、それでも燃え続けようとした幼馴染は。
「それはそれとして、これだけ待たせたんだからちょっとくらい振り回してやらなきゃ気が済まないわ」
◆
「……ま、マリンさん、それは?」
「私、趣味で陶芸習ってて……この間焼いたマグカップなんだけど、私達がなにも展示しないのもアレかと思って……置いていいかな?」
とろりとした光沢を持った、規則正しい形のマグカップ。
これまた規則正しい幾何学模様のような白猫が描いてある。
中学の校外学習でやってから、マリンは陶芸にハマっているそうだ。
趣味だとは言っているが、わざわざ親戚の米農家からいい土を送ってもらっているほどのこだわりを見せている。
「ねこちゃん……白いねこちゃんがここにも……!」
「展示が終わったらプレゼントしようか?」
「いいのかしら!?」
「何種類かあるから、好きなの選んでよ」
既製品のようにきっちりした出来の陶器たち。
そんな中、猫そのもののようなぐにゃぐにゃしたカップが置かれた。
なんとも趣のある猫カップだ。しっぽが持ち手になっている。
「ウチのもいる!?」
「まあ、前衛的なねこちゃん……!いいのかしら、こんなに……」
ミユキはすっかり賑やかに飾り付けられた旧校舎の美術室で、謎の小躍りをした。
うれしいとつい踊っちゃうらしい。
マリンとミナトも、毎日来るわけではないが、こうして度々何か作っては持ってきてくれるようになっていた。
「今ココアを淹れるわね、一緒に洋梨のタルトもどうかしら」
「食べるー!」
「ありがとう、いつもご馳走になっちゃって」
「作る時はホールで作るものだもの、むしろ嬉しいくらいだわ」
ミユキとも少し打ち解けて、ミユキもこうして段々と素を見せ始めていて。
あのノワキも、自分のクラスの美術部員や文芸部員と一緒にいるようになっていて。
このまま何も起こらなければいいのに、と思っていた。
そんなものはひどく脆い願いだったと、この後全員が思い知ることになるのだが。
「海淵さん、ちょっといい?」
「あら、美術部の方……と、文芸部の方々かしら?文芸部の方々はともかく、美術部の方々に関してはわたしたち、お互いに不干渉の約束だったはずでは?」
「そうだけど、でもアレ、海淵さんが送り込んだんでしょ!?いい加減どうにかしてくれない!?」
「アレ?送り込んだ?何が何やらわたしにはさっぱりなのだけれども」
美術部員らしい生徒がくしゃくしゃになった紙を握りしめながらミユキを怒鳴りつけている。ナギたちは顔を見合わせ、いざという時のために近くへそっと寄った。
まあ、案の定と言うかなんと言うか、だった。
「ノワキだよノワキ!!せっかく関わらずに済んでたのにくっついてくるようになったからうちらまでクラスで変な目で見られてるじゃん!!」
「そう?気が合うかと思ったのだけれど」
「そんなワケないでしょ!?そもそもさぁ!見てよ!!なにこの絵!?これでセンスあるとか自信満々とか言っちゃってて自己評価高すぎるし!!アイツどっかおかしいんじゃないの!?ほんっとにキモいんだけど!!キモいんだけど!?」
(……これはちょっと……否めないな)
なんだかもう、下手とかいう次元ではない気がする。
なにかが欠落した人間が描いた、絵……の、ようなもの、としか言いようがない。
利き手じゃない方で描いてもこうはならないと思う。
大目にみてもアートとすら呼べない代物だ。見ていて少し、気分が悪くなる。
現にミユキだけでなくその場の全員が顔を顰めていた。
「文芸部も困ってるの、自分を主人公にした夢物語しか書かないんだもん、あの子」
ほら、といって渡されたのは可愛らしいノート。
「……oh」
に、綴られた『自分は特別!』『自分ダイスキ!』な短い文が散乱したもの。
これでもノワキにとっては物語のつもりらしい。
「……すごいよね、自分のこと天使や妖精に例えるとか、フツーできないよ」
「すごいわね、是非とも文芸部で活かして伸ばしてさしあげては?」
「……それって皮肉だよね?」
「まあ、心外!はじめから上手くできる方なんていなくてよ」
「だって、そういう次元じゃないじゃんこれは!!」
(それはそう)
(本当にそう)
(確かにそう……やっぱ仲良くなるのムリそうだな、あのコ……)
「猪狩先生はなんと仰ってるの?」
「それは……作品が増えればいいって……教え甲斐もあるだろうって……」
「じゃあ話は最初から終わってるワケね」
ミユキがぴしゃりと冷たく言い放つと、文芸部の子が泣き出した。
「……ごめん、でも、あの子だけは本っ当に無理……人を嫌な気持ちにさせる天才だもん……みんなから嫌われて当然だよ……本当に気持ち悪いよ……」
「言っちゃいけないことばっかり言うし、空気読めないし、共感性があるとか言いながら人の触れられたくないところばっかり指摘してくるし……」
「あら、泣いて勝つならわたし、自分の目玉をつつこうかしら?」
美術部員の子が文芸部員を慰め、ミユキを、そして部室内を睨みつける。
「ねえ海淵さん、そっちの部員、いま何人?」
「まあ、算数初心者の方?」
「たしかうちの学校、部員が最低5人いなきゃ廃部だったよね?」
ナギたちは祈った。
あのジョーカーを押し付けられるくらいなら、神にだって祈る。
これは正しくババ抜きだ。真剣勝負だ。負けたら死ぬ。主に胃が。
「あとひとり足りないんなら、ノワキ入れたらちょうどいいじゃん」
「あ、海淵さん!チーズケーキの試作もってきたよ!」
「主は来ませり!」
「チーズケーキの使者様、ちょうどよいところへ」
ささ、こちらへ……と、これから何らかの契約書を書かされるカモのごとく、ソファへと導かれお茶とお茶菓子を出される。チーズケーキを持ってきたのに?という顔をしているが、それはそれ。チーズケーキはチーズケーキ、タルトはタルトなのだ。
「チーズケーキの使者様、お名前は?」
「えっと、メルだけど」
「メルさん」
「はい?」
「何か部活動はおやりになっていらっしゃるかしら」
「ううん、帰宅部だよ」
にーっこり、と、ミユキは優しげな笑みを浮かべた。
◆
「え~じゃあチーズケーキ食べてくれる人が増えたんだ!ラッキー!」
「ごめんなさいね、急に無理なお願いをしてしまって」
「いいよ!海淵さんには恩もあるし!文化祭はチーズケーキ展示していいかな!?」
さすがにそれは、だめなのである。
(ああでも、やぱりちょっとだけ不安だな)
じりじりと、じわじわと、冷え固まってからやっと失敗に気付くジャムみたいに。
いちごジャムの鮮やかさは、煮詰めすぎては取り戻せないものになるみたいに。
何かがどこかで、取り返しがつかないことになっていなければいいのだけれど。
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