第17話 月はそれを見失わない


「う~、さむ……」

「今日は晴れの予報だったのに、残念ね」


秋は深まり、雨の降る度に冬へ、冬へと支度を始めていた。

雨で地面に張り付いた落ち葉たちに足をとられそうになりながらも、なんとか旧校舎に辿り着く。風がガタガタと窓を枠ごと揺らしていた。

いや、もしかしたら建物ごと……?


「来て早々だけど、今日はもう帰ろうか?」

「そうね、青空に浮かぶ雲を描きたいのにこんなに雨が降っているのじゃ、気分がちぐはぐだもの……」

「じゃあハンドクリーム買って帰ろうよ、あとリップクリームも」

「くりーむ、くりーむ……こんな日ですもの、カスタードクリームのたいやきも」

「よし、行こ行こ」


時折ひときわ強く吹き付ける風に、そしてゴロゴロと鳴り始めた空模様に、ふたりの肩がちいさく跳ねる。


「……とにかく、行こっか」

「……そうね」


鈍く光る銀色を、どこか懐かしそうに見上げるミユキ。

まだ、そこまでは踏み込めない気がして、ナギは上着のジッパーをしっかりと上げて傘を両手で支えた。





「あ~、あったか~い」

「身に沁みる甘さね」


店内でたいやきやらココアやらを飲み食べ、ほこほことあたたかな湯気を吐く。

ミユキはあれだけ雨を残念がっていたのに、いまは少しだけ微笑みながら窓の外を眺めている。雨は相変わらず強く強く打ち付けていた。

時折鳴る小さな雷鳴にさえ、そっと耳を傾けている。


「遠くで鳴る雷の音がね、好きなのよ」

「雷?」

「以前、こんな風に雷に似た音に、励まされたことがあるような気がするの」

「……聞いてみたいな、その話」


甘いものでおなかは満たされているし、店内はあたたかい空気だし、照明もオレンジ色であたたかいし、気に入った香りのハンドクリームもリップクリームも買えて、心も満たされているし。これ以上の幸福は、今日はもうないだろうとナギは思う。


「前にわたし、終わりを選ぼうとしたと言ったわよね?」

「うん……」

「その日もこんな雨の日で、でも、いまと違って花を散らすために吹く嵐で……」


瞬きの一回一回が、ゆっくりと震えるようにされる。

何かを惜しむようにも見えたし、何かを堪えるようにも見えた。


「わたしは誰もいない山の中で、終わろうとしていた」


ナギの中に、いつかの風が吹いた気がして、手の中のカップを握り直す。


「その時、雷が鳴った気がして、立ち止まったの……でもそれは雷ではなくて、誰かひとの叫び声だったの……魂から泣き叫んでいるような、でも歌っているようだった、諦めたくないって、全身全霊で叫んでいるみたいで、わたしは振り返った」


稲光が遠くに見えた灯台の記憶と重なって、そっと目を閉じる。


「それが二度、三度と聞こえて静かになったあとで、わたしと世界を隔てていた泡がぱちんとはじけて消し飛んだのね」


世界中がうるさいくらいの色彩で溢れ出して、ぎらぎらと乱反射して、そのすべての切先が自分に向けられているようにチクチクとして。


そして海へ走った。


泣きながら、何かに急きたてられるように走った。

走って走って走って、途中で転んで膝を擦り剥いても、また走った。


「諦めたくない……わたしだってほんとうは、なにひとつ諦めたくなんかない……!そう思って、海へ、海へ……ひたすらに走って」


ぷつりと言葉が途切れる。

ミユキはゆっくりと、震える喉で息を吸い、再び話し出す。


「雨は上がって、灯台みたいに、曇り空を裂いて光がきらきらと降り注いでいた」


ナギはやっと気付くのだ。


「世界はこんなに美しい、こんなにも美しい景色を見ないまま、終わってしまわなくて、本当に良かったって……その光をつかまえたくて、思わず海に飛び込んだの」


あの日聞こえた慟哭は、自分だけのものじゃなかったのだと。


「膝が痛くて、体中が筋肉痛で動けなくて溺れかけたけど、苦しくだけはなかった」


体中に太陽の光を浴びて、捕まえたかった何かを体中に取り込んで。

いてもたってもいられなくて、走るだけじゃ足りなくて。

溺れている場合なんかじゃないと脱出して。

手が動くことを真っ先に確かめて。


「砂浜に絵を描いたわ、手で、足で、流木で」


見るに堪えない出来だったし、あっという間に波にさらわれてしまったけれど。


「ああ、わたしまだ描ける、また描けるのね、と思って、声が枯れるまで泣いたわ」


おかげで肺炎になりかけて2週間も寝込んでしまったけれどね、とミユキはおどけて話を〆た。


「……冷えちゃったみたい、新しい飲み物買ってくる」

「ええ、待っているわ」


ナギは鼻をずび、と言わせ、それを寒さのせいにした。


(私の絶望の叫びが、知らないところで知らなかった頃のミユキに届いていた)


急に世界中の音が一段階大きくなった気がして、思わず耳を塞ぐ。


やがてゆっくりと、おそるおそる手を離した先には……。





生まれて初めて音楽を認識したのは、近くの家から鳴るピアノの音だった。


「ナギちゃん、また同じところ間違ってるー!」

「だって、ここはぽろろんじゃないんだもん」

「どゆことー!?」

「ぎゃーんがいいんだもん!」

「せんせー!またナギちゃんがわかんないこと言ってるー!!」

「はいはい、おみかんでも食べてすこし休憩にしましょ!」


先生の、そして幼馴染の弾くピアノが好きだった。

ピアノの仕組みがわからなくて、幼い私は、それを魔法だと思っていた。


先生の音はマシュマロみたいにふわふわで、幼馴染の音はサイコロみたいに四角いキャンディでできていた。少なくとも私には、そう聞こえていたっていうだけの話。


「手はねこちゃんにするのよ!」

「どんなねこ?」

「えっ、えーっと……せんせー、ねこちゃんの手はどんなねこちゃんの手?」

「そうねぇ……白くてフワフワのねこちゃんだったら、先生はハッピーよ」

「白くてフワフワ……」

「三毛ちゃんでも可!」

「うはは!じゃあきいろいしましまは?」

「それでもいいわよぉ~」

「うひひ!じゃあきいろいしましまのてにするー!」

「ぎゃあ!せんせー!ナギちゃんが手を絵の具でしましまにしてるー!!」


もっとそれを聞いていたくて、私も魔法に触れてみたくて、親に言って同じピアノ教室に通い始めた。

マシュマロみたいにふわふわした白い髪のおばあちゃん先生の、小さなピアノ教室。


私の音はまだまだで、ちいさなコンペイトウをばらばらに落としたみたいだった。

でも、満足だった。音が鳴るだけで。魔法のかけらの中で泳いでいるみたいで。


ああでも、いつか、みずしぶきのようなきらきらの音の中で泳いでみたい。

音の波に飲み込まれるように、いや、むしろ私が飲み込むように。


星のまたたきみたいな音も奏でてみたい。

夜をあれだけ目映く照らすのだから、きっと宇宙は眩しくって目も開けていられないほどにぴかぴかしているはず。


たまにチョコレートみたいな音も溶かしてみたい。

寒い日にあたたかいチョコレートの音で、部屋の空気を丸くてふわふわにするの。


ねこの肉球の音はどうやって出せるのかな。

ねこがとたとた走り回るような、ぴょこぴょこでふさふさした音。


「そんなやつやりたいなー!」

「ナギのやりたいことはわかるようになったけど納得はしていない」

「なんで!?」

「楽譜にはそう書いてないからよ!」


幼馴染の音はどんどん研ぎ澄まされて、大小さまざまな完璧な立方体になりつつあった。先生の音は相変わらずマシュマロで、でも、昔よりすこしだけ、しぼんでいた。


「ねえナギちゃん、ピアノ以外もやってみない?」

「ピアノ以外?」


ハープはぽろろん、ギターはぎゃーん、ウィンドチャイムはとぅるるるん。

木琴はぽんぽこりんで……カスタネットは、噛みつかれてやめちゃったけど。


「楽器が違えば、それだけたくさんの違う音があるのよ」

「じゃあやるー!」

「……あの、先生、ママがコンクールに出なさいって……」

「まあ、コンクール!発表会でなくて?」

「うん……だからもっとがんばらないと……」

「せんせー、ナギは?」

「ナギちゃんも出てみよっか、記念に」


あの頃からかもな。

幼馴染の、ナツミの音が、どんどん尖っていったのは。


「なんでかってに弾くやつ決めるの!?」

「ナギ、コンクールは曲が決まってるんだよ」

「やだぁー!!」

「はぁ……ナギは好きそうな曲だから聴くだけ聴いてみたら?」

「……これすき!やる!!」


ナツミはわがままな私の好みややりたいこと、なんでも把握してくれていた。

私はすっかりそれに甘えてしまって、ナツミの時間を奪っていたことにも気付けなかった。そう、私もミユキと同じ。弾くことだけしか見えてなかった。


「コンクールの景気づけにクッキー焼いちゃおうかしら?なんの形がい~い?」

「うに!それかくわがたむし!」

「ナギ、それはちょっときもいって!」

「だってね、クッキーのはしっこのちょっとカリカリに焼けたとこがいっぱい食べたいんだもん」


そうそう、先生の作るクッキーは、あの部分がやたらとおいしかった。

もうすぐコンクール本番だっていうのに、いかにクッキーのカリカリの部分を食べるか、そればっかり考えてたっけ。


「じゃあ、クリスマスらしくお星さまのクッキーにしましょうか」

「お星さまって、じゃあカリカリのとこ5こ?」

「このお星さまはなんとね、カリカリが8こもあるのよ~」

「じゃあお星さま!!」

「ねえ先生、わたし、ココアとバニラのしましまとぐるぐるのがいいな!」

「あら?いちごのは作らなくていいの~?」

「いちごとココアとバニラの……えっと、しましましま、のも!」

「よぉし!水玉のも作っちゃいましょう!結果はどうでも、コンクールがんばったらココアも淹れてケーキも焼いて、みんなで食べましょうね!」

「やったー!!」


その時のコンクールで、なんの因果か私だけが賞をもらってしまった。

ナツミは本当に悲しそうにしくしくと、それは悲しそうにしくしくと泣いた。

名前のとおりトロピカルな色をしたかわいいドレスに、涙で水玉模様がいくつもできていた。小さい私は、どうしてナツミが泣いているのかも、どうやったらナツミが泣き止んでくれるかさえもわからなかった。


「わたし、がんばれなかったから、ナギみたいに賞をもらえなかったから、クッキーもケーキも食べられないもん……」

「ナツミちゃん、先生は賞をもらった人だけ食べましょうとは言わなかったわ」


ふわふわの、先生の魔法みたいな手。その手がナツミの頬をくしゃくしゃと撫でると、ナツミはそれだけであっという間に泣き止んだ。


「それにね、賞とがんばったかどうかは、先生はあんまり関係ないと思うなぁ」

「どうして?」

「だって、コンクールは審査員の人が好みで決めちゃうものだもの!」

「……じゃあどうして、コンクールがあるの?」

「そうねぇ、世の中には数字や色が好きな人もいるってことかしら」


ナツミはまだ少しだけ不服そうにしながらも、ちいさく頷いた。


「……先生は?先生はコンクール、好き?」

「先生、コンクールはだいっきらい!だって楽しくないから!あははは!」

「うはははは!ナギもコンクールあんまたのしくなかったー!!」

「今度はどこかの発表会にまぜてもらいましょうか!先生、発表会はだいすき!!」

「どうして?」

「だって、発表会はみんながみんなの好きな曲を弾いて、それをみんなで聴くんだもの!先生のだ~いすきなあなたたちがこんなにがんばりましたって、みんなにきいてもらいたいもの!」


ナツミはまた少しだけ泣いて、後はニコニコとケーキやクッキーを食べた。

お星さまと、しましま、ぐるぐる、水玉模様。

きつね色に茶色にピンク色、おまけに緑色も。


「あのね、あのね、ナツミ」

「……なによ?」

「ナギのきんしょうはね、ナツミのピアノの音なんだよ、ずっとだよ!」

「……ふふふ、ナギはたんじゅんね!」


そうだよ。私にとっての金賞は、ナツミと先生、ふたりのものなんだよ。


それから何年も、相変わらずナツミはコンクールに出ていて。

わたしは先生の傍でする楽器遊びにばかり夢中になっていて。


ずっとずっと、そんな時間が続くと思っていた。


ああ、中学でも違うクラスか。

それだけでどこかナツミと距離はできて、でも、先生の所に行けば、いつでも会える。そう思って、その年齢特有の寂しさとか、そういったものを堪えていた。


「ナギ!!」

「あ、ナツミ!どうしたの?こっちまで来るなんて珍し……」

「先生が!!先生が……」


ほんとうは少し、予感はしていた。

先生の音はずいぶんと前から、マシュマロではなくなってしまっていた。

カリカリクッキーを最後に食べたのはいつだったっけ。



ナツミは相変わらず泣き虫で。

その時は私もナツミ以上に泣き虫になって。


ピアノに触れるたび、先生のマシュマロだった頃が見え隠れして。

親にねだりまくって買ってもらった安いピアノは、すっかりほこりをかぶっていた。


「ちがう、いま出したいのは、こういう音じゃない……!!」


どの楽器も、私の出したい音じゃない。

今までずっと仲良しだった楽器たちが、たちまちそっぽを向いてしまった。


初めての経験だった。初めての気持ちだった。

音を吐き出せない。感情を吐き出せない。

苦しい、苦しい、苦しい。

心臓がやぶけて、そこから何もかも流れ出してしまいそうに苦しくて痛い。


制服で先生の告別式に向かうと、ナツミが真っ黒い服でピアノを弾いた。

コンクールなんかじゃない。

泣きながら、祈りながら、それでもただ先生のために完璧に。


ああ。ああ。ああ。

気付いてしまった。


初めて聴いた、誰かの歌うレクイエム。


その時、私の中で、何かが腑に落ちた。

私の求める音は、ずっと傍にあったのかもしれない。


「……ねえ、ナギも……私が今習ってる先生のところへ来ない?」


ナツミもきっと、寂しくて悲しくてしかたなかったのだ。


「……私の先生は、先生だけだから」

「……そっか」


貰ってきた白い花が、風に吹かれて散っていく。

聴いたばかりのレクイエムを、拙い言葉で歌った。


「……ナギ、あんた先生に歌も習ってたの?」

「え、習ってないよ……習いたかったけど、習いたかったって、さっき気付いたから……もっとはやく、気付けばよかったな……」

「…………あんた、歌、まじめにやってみた方がいいかも」

「うそ」

「まじ、私の金賞をあげてもいい」

「じゃあマジじゃん」

「まじだってば!えー……ナギって本当に音楽に愛されてるのね?」


そういうナツミだって、いつの間にかたくさんの賞をもらうようになっていた。

真四角だった音は、いまは色んな宝石たちみたいにカットされてきらめいていた。


「もっかい歌って、私弾くから……今は、これしかないけど」

「あ、懐かしい!ナツミが最初に弾いてたやつだ!」

「形見分けにっていただいたのよ」


赤くて白い水玉の、おもちゃのピアノ。

ぽろろん、ぽろりん、ころりん。

こねこが寝ころぶような、かわいらしい音。

でも今は、悲しい音。


先生、声って、歌って、こんなにも感情が直に乗ってしまうんだね。

春風で乾いたはずの涙が、また、次から次に溢れてしまう。


「私、歌いたい……もっと、好きなように、でも、ちゃんと楽譜を知って」

「うん、うん……歌いなよ、すごく……すごく、しっくりくる」


その日は日の暮れるまでずっとずっと、歌った。







私達の関係が変わってしまったのは、中三の今頃。


「高校、どこ受けよっかな……」

「ナギも行こうよ、音楽専門だよ?きっと楽しいよ?」

「私立は無理だよ~学費高いもん」

「ま、私達ならどこへ行っても音楽だらけでしょうけど」

「それはそう!」


灯台の下に寝ころんで、歌ったり、弾いたり。

お菓子を持ち込んで、先生の家にいたみたいに飲んだり食べたり。

私の作るカリカリクッキーは、結構、先生の味に近づいていたと思う。


「でもさ、受けるだけ受けてみたら?奨学金とかもあるし、記念にさ」

「……そうしよっかな」


行けなくもなかったのだ。

私は一人っ子で、家だってそれなりに余裕があった。


「やば、雨降ってきた!」

「帰ろ帰ろ!風邪ひきたくないし!」


お菓子たちをレジャーシートで包み、急いで帰路につく。

その途中で誰かの悲鳴が聞こえた気がして、私はナツミを先に帰した。


そこからは記憶があいまいだ。


いつもなら、人通りの少なくない場所だったはずで。

いつもなら、車の見通しも悪くなかった場所のはずで。


ただ、雨が強く降っていた。


地面に倒れ込んだ誰かを庇って、ふつうに見えた誰かに怒鳴って。

倒れ込んだ誰かにお菓子を渡して、それから……風が、強かったんだと思う。


(灯台?こんなところまで?)


希望の象徴みたいな灯台に見えたそれは、絶望を乗せた車のヘッドライトだった。

倒れ込んでいた誰かは大丈夫だっただろうか。逆光になって顔が見えなかった。


咄嗟に、利き腕を庇ってしまった。

おかしな体勢になって、立て直せなかった。


バカな私。利き腕を庇って反対の腕がぶつかっちゃ、意味ないのに。


(ああ……星、が)


倒れる間際に、銀河の果てが、見えた気がした。


腕以外の怪我は大したことなかった。

ただ、気がついた頃には、元通りには動かなくなっていた。


私はなんとなく家から出なくなって、なんとなく毎日を過ごして。

そしてなんとなくで、受験をすっぽかしてしまった。


ナツミには何も言わなかった。

というか言えなかった。

いつかもらった金賞の盾が、ばりんばりんに割れてしまった気がして。


あれ?声ってどうやって出すんだっけ?


「……おなかすいた」


なんだ、出ないのは……出ないのは、音楽を伴う声だけか。

固まった手で楽器を弾こうとして、取り落とした。


なんとなく、疲れてしまった。


結局私は地元の高校にだけ受かり、なんとなくでそこに通うことになった。


ナツミの見送りに行って、聞かれた。


「あんた、受験はすっぽかしたけど……音楽は続けるのよね?」


なんとなく早く帰りたくて、なんとなく自分を傷つけてしまいたくて。


「……あー、なんか……飽きちゃったからやめるわ、ぜんぶ」


思い切り打たれた頬がそれほど痛くなくて、でも咄嗟にナツミの指が心配になって。

そんな自分を隠そうと、俯いた。

走り去るバスの音と、ナツミの絞り出した「それだけの才能があるって言うのに……アンタって世界一の大バカよ」という涙声。


鼻歌でも歌ってみようと思ったけど、なにも出てこなかった。


私だって、私だって、好きでなにもかもを捨てるんじゃないのに。


そう思うといてもたってもいられなくて、海へ走った。

雨があの日みたいに降っていて、でもそれはどこか生温く感じて。


私達の灯台で、思い切り叫んだ。

喉なんて壊れてしまえ。音の鳴るものなんてすべて壊れてしまえ。

壊してしまえ壊してしまえ壊してしまえ。


それなのに。


「諦めたくないよぉ……!!」


雨は上がり、陽は射しこんで、希望いっぱいの空だったのに。


私ひとりが、絶望に飲み込まれていった。


そんな、人生で最悪の日だったんだよ。








ああ、時も空間もすべてこえて、人は救われることがあるんだ。


過去を救うことも、救った過去に未来で救われることもあるんだ。


「どうじよう、ミユギ……」

「どうっ、どうしたのかしらナギさんは!?どこか痛いの!?お風邪!?」


ああ、きれいな、光、音、きらめき、空気、ときめき、かなしみ、おいしさ……。


「音が、うるさいの……鳴り止まないの……」

「……ナギさん……?」

「ミユキも、こんなだった?うるさくて、たまらなかった?」


ミユキはすべてを理解して、お菓子と食べ物と飲み物を山ほど買いこんだ。


「ナギさん!!山に登る体力はまだあるかしら!?」


エメラルドの都まで続きそうな、レモン色の煉瓦道。

辿って辿って、ふたりはアトリエである山小屋に辿り着く。


ふたりで急いであたたかいお湯でわーっとお風呂に入って。

お菓子を広げ、ごはんを広げ、飲み物を広げ、暖炉に薪を焼べて。

絵を広げ、家から持ち寄った楽器を広げ、そうして。


(ああ、ナギさんの音楽って、歌って、こんな色彩を、輝きを持つのね)


空気が、魂が、視界が震えて、勝手に涙が出ていく。


(わたし、いつかこの音を描いてみたい……ナギさんの歌うままに、輝きのままに)


一晩中鳴り止まない、音楽と色彩。

途中から役割を交替し、ナギが絵を描き、ミユキが歌ったりもした。

どちらもしっくりは来なかったが、ふたりはとても楽しそうだった。


(わたしずっと、星をつかんだら冷たいか熱いか気になっていたわ)

(星はざらざらしてるだろうか、カリカリクッキーみたいだろうか)

(こんなにもやわく、あたたかい)

(なめらかで、それでいて取り落とすことのない)

(目映いほどにきらめいて)

(瞬きみたいにかがやいて)


ふたりはたしかにその日、星を手にした。

ひとつしかない、きらきらと輝ける星を。


(もう二度と、なくしてはいけないもの)


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