第15話 悪夢
夏休みが明けると、友人グループに見知らぬ誰かが増えていた。
「あれ?えっと、確か3組の……」
「あ、あ、あの、
「……ああそう、野分さんだ……どうしたの?」
「ナギ、ちょっと……」
マリンに呼ばれ、廊下へ。
ミナトと野分が話してるのを横目に見ながら、マリンは声を潜めた。
「あの人、クラスで馴染めてないらしくて」
「ああそれで一緒にごはん食べてるんだ」
「そう……なぜか先生に押し付けられたしずっとついてくるの」
「えっ」
教室の隅で話しているふたり……といっても、ミナトが気を遣ってあれこれ話しているだけで、野分はやや俯きながらはにかんでいるだけだが。
「悪いけど、私もあの子苦手で……どうしたらいいか困ってたところ」
「あ、そうなんだ……」
マリンがこうもはっきり口にするのは珍しい。
なんだか胸の中に不安に似た何かが滲み出すのを感じた。
「ミナトは『話したらいい子かもしれない』っていつも以上に気を遣っちゃってるし……あんまり深入りしないでおきたくて」
「うん……」
「本当は自分のクラスでなんとかしてほしいんだけどね……」
マリンとミナトは家が近所同士の、いわゆる幼馴染というやつだ。
ナギとは中学から一緒になったが、ナギの時は快く友達になってくれたのに。
ノワキはいったいどんな子なんだろう。
「そろそろ戻ろうか……あまり長く話してると……面倒だし」
「面倒?」
教室の中を振り返ると、ノワキがこちらをじっと見つめているのに気付いた。
どこか薄暗く、睨んでいるような、観察されているような、ゾッとする目つきだ。
(ああ、確かに……なんか…………わかるかも)
ナギたちはそれから当たり障りなくノワキに接していた。
だけど、それが良くなかった。
◆
「アタシって変わってるからさ~!」
「あはは……」
「それ今結構流行ってるよね、持ってる子多いし別にフツウだよ」
「……あ、うん…………」
野分は仲良くなるとあれこれ喋り出し、ナギたちが黙り込んでいても気にならないのか、ひとりでずっとずっと喋り続けていた。
ただ、思った返事が返ってこないとむっつりと黙り込むのでわかりやすくはあった。
「いいからお弁当食べちゃいなよ、昼休み終わるよ」
「アタシ、ドジだから……食べるの遅くって……」
(そういうこと言ってるんじゃないんだけどな)
それだけならまだしも。
「じゃあ今度の日曜にさ、そこ行ってみようよ」
「おっけ、そのあと映画ね」
「なになに!?なに話してるの!?てか聞いてよアタシこの間さあ!」
(え……いま、思いっきりどつかれた……?)
ノワキは空いてる場所ではなく、わざわざナギを押し退けて間に入って話し始めた。
「……トイレ行ってくる」
「あ、ナギちゃん!」
押し退けたくせに、ナギが席を外そうとすると入り口までついてきた。
「辛いことがあったら、なんでも言ってね?アタシわかるんだ、そういうの……わかっちゃうんだ……ほら、アタシって人間観察が趣味だし、なんていうか……」
(思いっきりどついておいてそんなこと言うんだ……)
「ナギちゃんいつもなんか辛そうだし……無理しないでね?」
ああ、海が見たい。
碧い碧い、春の海が。
目の覚めるような冷たさを持った、碧い海が。
◆
「あれ?ナギちゃん帰るの?みんなでドーナツ屋寄るのにぃ~」
マリンとミナトの顔にははっきり「ノワキは誘ってない」と書いてあった。
そこについていく気にもなれず、かといってついてこられたくもなかった。
「あー……今日は病院の日だから」
「えー!病院!?どこ!?どこが悪いの!?あ、腕!?いつもサポーターしてるもんね!アタシすぐそういうの気付いちゃうから!」
空気が凍り付いた。
どうやって返したものか考えている間にも、ピキピキぴりぴりと冷えていく。
あれ、これ自分が原因じゃないな、と考えていると、背後から冷気を感じた。
(わあ、北極だ……)
いつかのノワキと同じように、それでも全く別の空気を纏って、ミユキがナギたちを見つめていた。正しくはノワキを、だが。
眼ヂカラが強いせいか、ものすごい迫力だ。まるで大きな氷柱のように鋭い。
慣れ親しんだナギですら、ちょっと恐怖を感じるくらいに。
「……鼻炎の薬もらいに行くだけだから、コレは……関係ないかな」
アナタには。言外にそういう意味を込めたが、ノワキは気付かなかったようだ。
ただ怯えたようにミユキを見ていたが、やがて初対面の頃のように俯いて……マリンとミナトの腕を引いて走り去った。
「ナギさん、アレはなぁに?」
「アレって……3組のノワキさんだよ」
「アレ、おともだち?」
「お友達…………では、ないと……思う……我ながらひどいけど」
窓から黄色く色づき始めた葉っぱが、風にあおられ入り込む。
ああ、随分肌寒くなったなぁ、なんて考えてしまう。現実逃避だろうか。
「生憎、どこかへ行きましょうというお誘いは時期的にできないのだけれど……いつもの場所でよかったら、温かい紅茶とお菓子はいかがかしら?」
「それはぜひに」
「病院はよろしいの?」
「……本当は、病院は先週で終わったんだけど……なんか、放課後私がどこにいるのか知られたくなくて……嘘ついちゃった」
ミユキはちいさく笑い、旧校舎の鍵をくるくると弄んだ。
◆
「あ、モンブランだ」
「もう秋ですもの」
落ち始めた黄色い葉っぱが、冷たい風に吹かれてさらさらと音を立てて舞う。
(きれいだ……すごく、きれいだ)
黄金の蜜に似た夕陽が、すべてを染め上げようと輝いている。
なぜか温められていたモンブランの甘さと、ミルクティにひとさじ入れられたはちみつの甘さが混じる。
夏はカラコロと音を立てていた透明なグラス。
いまはやわらかい湯気をたてる、海色のマグカップ。
「……ありがとう、おいしい」
「昨夜ふと目が覚めてしまったので、夜通し作っていたの」
「器用だねぇ」
「秋のケーキだから、温かく食べられたら楽しいのに、って思ったのよ」
焼きたてのクッキーのようなタルト生地に、しっかりと濃く作られたカスタード、美しい花のように絞られたペーストと鮮やかな栗。
焼き芋や焼き栗だってあるのだから、もちろんそれらは温かくてもおいしいのだ。
紫色、黄色、やわらかい茶色。
どれも少しずつちがった味わいで、どれもあたたかくじんわり甘くて。
今日みたいな日は、特に。
「すごく……あったかくて、おいしい」
「ええ、空気がつめたくなると、甘いものが沁みるのだわ」
(ああ、描かなきゃいけないミユキの手を、私が止めてしまっている)
秋は文化部が忙しくなる時期だ。
コンクールやら文化祭やら、やらなくてはならないことが山積みで。
……山積みのはずで。
「……昨日、あんまり眠れなかった?」
「…………まあ、心外……なぜ?」
「なぜって……なんか、描き終わってる感が」
ミユキはほんのり頬を染めて、もじもじときれいなままの絵筆たちをいじった。
「こわい夢でも見た?」
「……そう、実はそうなの……こどもっぽいと笑うかしら?」
「笑わないよ」
「そのまま眠ったら、また同じ夢を見るのではないかと思って……つい、夜更かしをしてしまったのよ」
ぽかぽかと指先まであたたまり、眠気に似た満足感が体中を満たしていく。
ミユキはそっと窓を閉め、紅色に染まり始めた空を不安げに見上げる。
冷たい風は窓の外の話。ここにいればあたたかいのだ。
「こわい夢はさ、人に話すといいんだって」
「……もし、それがどんな夢でも……ナギさん、笑い飛ばしてくださる?」
「オチによるかな」
「まあ、心外!」
◆
「海淵さんはなにもかも持ってるもんね」
こわい夢はいつも、たったの一言からはじまるの。
きっかけはそうね、1本の青い絵の具。
「……ね、絵の具貸してくれない?青色の」
「はい、どうぞ」
「ごめんね、ちゃんと……買ったら返すから……」
「何本か予備があるからお気になさらないで」
それが誰かの何かのスイッチを押してしまうなんて、考えたこともなかった。
いいえ、今まで知らずにじわじわと押し込んでいたものが、絵の具1本ぶんの重さでとうとう押されてしまったのでしょうね。
だってわたし、その時ですら自分の絵を描くことに夢中で、その子のお顔、見ていなかったんですもの。そんな失礼なことをしておいて、そんな失礼なことに気付けないほどに、絵を描くことだけに夢中になって。
「家が金持ちで、画材もなんでも買ってもらえて、時間も場所もあって、血縁に超有名な画家もいて、なんでも揃ってて、それじゃ上手く描けて当たり前じゃん、私なんてそのメーカーの絵の具をたった1本買うためだけにお昼ごはんや遊びを何回も何回も我慢しなくちゃいけないのに……ねえ、海淵さんにはある?絵を描き終えて洗い流す絵の具がもったいないと思って、そんなことを思う自分が悔しくて泣いたこと」
言うたび、友人だった誰かの顔が黒い靄に覆われて、歪んでいく。
世界中の黒い絵の具をぜんぶあつめて、ぐちゃぐちゃに塗り潰したみたいな黒。
塗り潰したのはわたし。
直視したくなかった。
直視したくなかったのよ。
「それだけ色々恵まれてたら、恵まれてるってだけで次の恵みにまでありつける!そんな意味のわからない絵でも、リアルなだけのつまらない絵でも称賛されて!!」
隠したかった誰かの言葉は、できることならそのまま隠させてあげたかった。
「色んな才能もあって容姿にだって恵まれてて……それなのに、それなのにさぁ!!なんでよりによって絵を選んだの!?なんでもできるじゃん!絵じゃなくてもいいじゃん!!私達から絵を描く楽しみまで奪わないでよ!!あんたといると自分が惨めで仕方なくなる!!あんたのせいでみんな死にたくなるの!!」
わたしはだから、才能って言葉がキライよ。
人を振り回して、いのちを、わたしを振り回して。
ほんとうはそんなもの、存在しないくせに。
それなら、おばけの方がずっとマシだわ。
おばけはいつか存在したなにかの名残だもの。
わたしは胸の中で燃え盛る炎に似た何かを、いつものように抑えることができなかった。ただそれは頭の中を駆け巡って、わたしの中で何かを焼き切ってしまった。
「……それなら、差し上げるわ、ぜんぶ」
確かにわたしは、恵まれていたのでしょうね。
でも、恵まれていたからといって、なにもしてないわけじゃない。
なにもしないまま生きてこられたわけじゃないのよ。
「絵の具も、お金も……この身の血をすべて抜き取って、あなたの血と入れ替えたっていいわ……必要ならどんな支援だってあなたにする」
「……で、でも、あんたは小さい時から恵まれてて、私はそうじゃなかったし……」
「じゃあ、何年待てばいいのかしら?わたしが描き始めてからの年数でよろしい?」
「いや、今からって言われても」
「わたし、何年でも待つわ、あなたがずるいと思った年数を超えるまで……」
目が燃えている気がしたの。
いつもいつも、冷たいものに例えられては揶揄われたこの青い目が。
わたしたちに降り注ぐ太陽みたいに、自らを燃やし尽くしていると、そんな気が。
「ねえ、何年待てばよろしいの?何年わたしと同じ環境にいたらあなたはわたしと同じものを、同じ世界を見てくれる!?誰といてもひとりぼっちのわたしと!!」
(桜の枝とか、ちいさな青いお花とか、芽吹きとか、雪解けとか、春には春にしかない色があるから、描きとめておきたくて)
『あーはいはい、共感覚ってやつ?アピール?』
(みんな、外の景色を見ないのかしら?そういうことじゃ、なかったのに……)
(昨日の波の形がね、貝殻を避けてて、とても面白かったのよ)
『うわ、また意味わかんない絵描いてる』
『ホラ、抽象画ってやつ?悪いけど全然わかんないや』
(そうではなくて、雲が透き通っててきれいだったから……)
『海淵さんは私達と違ってお高尚だからね~』
(波の形も雲の形も、いつもいつも違うから楽しいのに)
(聴くだけできれいな景色が浮かぶような、そんな音楽が好きなのよ)
『出た出た、不思議ちゃんキャラ』
『なんか花畑でちょうちょとかおっかけてそうだよね』
『目に見えないオトモダチとかいっぱいいそうだしね』
『てか暗いよね、だから絵も暗いのかな?』
(いったい、どう言えばみんなにわかってもらえるのかしら?そんなに変なことを言っている?そんなに変な絵ばかり描いている?どうして?音楽だって景色だって、みんなだって好きなのに、どうして?わたしだって変わらないのに、わたしはお話することもできないの?どうしてわたしだけ、いつもいつもひとりぼっちなの?)
わたしにあるのは、いつだって白い部屋だけ。
真四角に整えられた、誰も踏み入らない白い部屋。
窓がひとつ、ポツンとあるだけの静かで穏やかな、わたしだけの場所。
それを景色で音楽で、味で感情で塗りたくっていくだけ。
まあ、今思うと、わたしも結構、常日頃からカチンときていたのよね。
「それとも、わたしがあなたと同じもの同じ場所で描けば満足するの!?」
「いや、でもそれじゃ積み上げてきたものが違……ぁ……」
「じゃあ12色入って100円の絵の具で描けば満足でしょうね!?今から100円ショップに行って買ってくるわ!!」
外は雨が降っていて、風が強く吹き付けていた。嵐が来ていたのね。
その子が止めるのも厭わず、わたしは外に飛び出そうとしたわ。
その子は泣きながらずっと何かを言っていたけど、もう、わたしにはなにも聞こえていなかった。
ごうごう、ざあざあ、ごうごう、ざわざわ、びゅうびゅう、がんがん。
頭の中で鳴り響く嵐の音しか聞こえていなかった。
次に目が覚めた時、わたしは病院にいたの。
泣き腫らした目のあの子が、まだ泣いていて。
でもわたしはその子へ続く扉がぴったりと閉まっているのがわかっていた。
もうこの子とは話せない。目を合わせられない。一緒にいられない。
同じ世界に存在しているだなんてことすら、思いたくもない。
すぐに家へ電話してあの子への支援を頼んだわ。
わたしにしたのと同じように、絵を描くのに何一つ不自由しないように。
「海淵さ……」
「これでよろしくて?」
「海淵さん……私、こんなつもりじゃ!」
「じゃあ、どういうつもりだったの?いつもいつも馬鹿にしていたこと、わたしが気付いていないとでも思っていて?どういうつもりでわたしを傷つけてきたの?」
100円ショップの袋を家の人から受け取って、その子のことを見もせず吐き捨てた。
「これで一枚描いたらわたし、違う街へ行くわ、あなたのいない街に……学校が決まり次第、家もなにもかも引っ越すわ」
「ごめん……ごめんなさい……!!」
「謝らなくていいのよ、だって、あなた、悪いことをしたなんて思ってないんでしょう?その代わりわたしはあなたを許さない、そして描くことから逃げることも、絶対に許さない」
「でも!!こんなことがあったんじゃもう描けないよ!!」
「……また、わたしのせいにするの?」
「!!」
「…………わたしはそれでも描いたわよ、それでも描いて描いて、描いてきたのよ」
その子はそのままわたしが去るまでずっと、すすり泣くだけだった。
「楽でしょうね、そうやっていじける理由をどなたかに押し付けられる人間は」
◆
「おかしいわよね、終わったはずなのにこうしてたまに夢に見ては、こわいと思うのですもの……そんな時決まって、甘いものが食べたくなるのだわ」
冷めてしまったわね、そう言ってミユキは新しくお湯を沸かし始めた。
今度ははちみつを3すくい、赤味を帯びた紅茶に溶かし込む。
ぐるぐるぐるぐるかき混ぜて、温めたミルクをそっと注ぐ。
今の空模様みたいに、ほどけたミルクが広がっていった。
「結局ひとつめの高校でも似たようなことがあって、すぐに今の場所へ移り住んだのだけれど……そう言われると、やっぱりわたしは恵まれているのかもしれないわね、望む望まないに関わらず……」
さっきより熱く、甘いミルクティを飲む前に、ミユキがふわりとあくびをする。
「……あら、やだ、失礼……たくさんお話したからか、急に眠気が……」
「ミユキ、少しソファで寝なよ、30分くらい経ったら起こすから」
「……ええ、そうね……そうさせてもらおうかしら……」
ソファに横たわり、すうすうと寝息を立て始めたミユキに、ナギはそっとブランケットをかけた。厚手でふわふわとした、クリスマスみたいな色をしたチェック模様の。
「……ミユキは、その夢をみるたび、どっちが怖かったのかな」
自分を傷つけてきた誰かのことが怖かったのか。
誰かを傷つけてきた自分のことが怖かったのか。
「……私も、そんな風に人を傷つけたことがあるんだよ」
都会の学校で頑張っている幼馴染を想う。
「……裏切ったわけじゃ、なかったんだけどな」
この空の下で、ナギの幼馴染はまだピアノを弾いているのだろう。
ナギがピアノから遠ざかってしまった理由を知らないまま。
音楽をやめてしまった本当の理由を知らないまま。
ナギへの怒りと憎しみで、残響が聞こえそうなほどに打ち鳴らしているのだろうか。
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