第14話 誰かが遠くで泣いている
「才能」って言葉がキライよ。
積み上げてきたものも、してきた苦労も、重ねてきた対話も、流した汗や血や涙たちも、そうしてやっと手に入れたたったひとつのものでさえ。
ぜんぶ、ぜんぶ、ぜえぇ~~~~~んぶ、否定されてしまうから。
確かにそこにあったのに、なかったことにされてしまうから。
誰かの勝手な都合で。
誰かの勝手な想像で。
誰かの勝手な辻褄で。
誰かの勝手な理想で。
誰かの勝手な嫉妬なんかで。
ぶくぶく、ぶくぶく、水の泡。
海にちらばった泡沫のひとかけら。
春を告げる風の精にはなれずに、ため息ひとつで消えていく。
後にはなぁんにも、残りはしないのだわ。
わたしはすべてが惜しかった。
食べる時間も、眠る時間も、遊ぶ時間も。
それらすべてを代償にしてでも、ただ、絵を描いていたかった。
すべてが楽しい、そんな夢想じみた行いではなかった。
苦しくて、潰されそうで、悲しくて、悔しくて、歯痒くて、もどかしくて。
それでも、どうしようもなく、湧き上がり、突き動かされ、恋しくて、愛おしくて。
わたしのすべては描くために存在していて、わたしの感情も、時間も、魂でさえも、世界に存在するすべてのものは描くために使う以外、思いつきもしなかった。
大好きなチョコレートも、ドーナツも、土星も、月も、花も、海も。
描けなくなるくらいならすべていりません。おかえしします。
だからずっとずっと、わたしから、どうか描くことを奪わないで。
「海淵さんはいいよね、才能があるんだもん」
「遺伝子からして違うもんね」
「同じ賞に出すのがばからしくなっちゃう」
「てゆーか下に見てバカにしてるでしょ、実際」
「見向きもしないもんね、ウチらには」
「海淵さんは最初から上手だったんでしょ?天才だもんね」
「ほーら、また無視して描いてる」
「ウチら凡才だからよくわかんないわ、そーゆー絵」
「いいよね、天才ってのは」
じゃあ、誰がわたしと同じくらい、描くことを愛したっていうの。
あなたたちは雑誌や漫画を読んで、テレビを見て、友達と遊んで、惰眠を貪り、どこかに何かを食べに行ったり、誰かを好きになってきゃあきゃあ言ってみたり泣いてみたり、自分でも楽しくないようなことに時間を使ったりして。
わたしはただ、描いて、描いて、描いて、描いて、それでもまだまだ足りないと泣いて。泣く時間が惜しいとまた描いて、描いて、描いて、描いて。
足りない、足りない、足りないのよ。時間が、腕が、命が、あたまのなかの容量が。
描きたいもので溢れて溢れて、取り零したくないわたしは描くしかないの。
描きたいもので溢れて溢れて、わたしという存在が追いやられても、それでも。
やらなければならないことを捨ててまで、わたしは隅々まで描くことで形作られていたかっただけ。それ以外のものなんて、ただのひとつもほしくなかっただけ。
だって、ずっと、追いかけてくるの。
わたしがうまれたその瞬間から、ずっと、ずっと、ずっと、ずぅっと。
規則正しく響く鐘の音が、わたしのいのちの終わるときを、忘れないで、忘れないで、と追いかけてくるのよ。
だからわたし、泣きながら、それでも走り続けながら、どうしても描き続けたわ。
鐘の音から逃げながら、描くことからは逃げなかった。
立ち止まっていられるみんなが羨ましく思える時もあった。それでも描き続けた。
諦めてしまえた誰かが羨ましく思えた時もあった。それでも描き続けた。
もう、描くことをなくしてはわたしはわたしでいられないの。
どんな形でもいいから、描いて、描いて、描き続けていたいの。
気付けば周りには誰もいなくなっていた。そしてそれでも、描き続けた。
描いてきた絵で作った虹の道を、ずっとずっと継ぎ足して。
おわりを恐れながら、恐ろしいほどに魅入られながら。
どきどきと逸る心臓の音が、いつか聞こえていた鐘の音と重なって。
ああ、そうね、そうよね。
どうか鳴り止まないで。鳴り続けることで終わっていくのだとしても、どうかどうか、おわりのさいごのその瞬間まで、ずっとずっと、はっきりと鳴らしていて。
強く、熱く、烈しく、そして優しく。
わたしはそうして、そっと目を開けるでしょう。
起きたら忘れてしまうのでしょう。
沈んだ月がどこかでのぼりはじめるように。
◆
「いまね、懐かしいゆめを見たのよ」
「のんきだねぇ!?頭ぶつけて失神してたんでしょ!」
「でもね、夢を見たの、忘れてしまったけど、わたしの夢よ」
ナギは「あ、6月の海だ」と思った。
濃い霧が発生して、まえもよこも、何も見えなくなる。
こうして目の前にいるというのに、その海色の目には映らない。
「……ナギさんは…………才能、って存在すると思いまして?」
シャボン玉に包まれたようにうすぼんやりとした海にナギが映る。
ゆらゆらと揺れながら。炎のように、水面のように。
「わたしはね、前の学校で、それがあることにされてしまってね、ひとりぼっちになったのよ……ううん、ひとりぼっちの方が、ずぅっと、よかったのだわ」
夏が始まる少し前。
あと少しだけ早ければ、みんなと同じ時に入学式。
そんな変な時にミユキはここへやって来たのだった。
「才能って……なんだろうね」
「わたしはね、そんなもの、ないと思っていてよ」
海がどこかに落ちていく。
景色をきらきら閉じ込めながら、おおきな粒になって。
宝物みたいにそれはきれいで、こぼしてしまうのがもったいなくて。
「でも、フツウは、見えないものはないものだから……わたしはどこにもいなかったのかもしれないわ」
「……すくなくとも、ここにいるよ」
深海で深呼吸をしているような、ふしぎな気分になってくる。
深海には誰もいない気がして、深く深く呼吸ができた。
でもそこには見えないだけの、お互いが見えないだけで。
「いるんだよ、ミユキ」
きらきらと、まるで硝子か何かに見えたそれは、生温い水だった。
安心したように目を瞑るミユキから、それは絶え間なく流れ落ちる。
燃え尽きる星のように、たいせつな願いごとを乗せて。
「わたしはいつか、海にかえってしまいたいわ」
ナギはなにも言わない。
名前の通りに、凪いだ海のようにただ穏やかにいるだけ。
(わかるよミユキ、すこしだけ)
なつかしい、懐かしい夢。
(私だって、そんなものがあるとされて、そのために幼馴染を遠ざけてしまった)
「才能」って言葉は、呪いみたいだ。
あってもなくても、いつだって振り回されるし。
嫌いなことがたまたまできることなら災難だし。
好きなことがうまくできなくても災難だとされる。
でも。
好きなことがたまたまうまくできたなら、もっと、ずっと、そう。
いつか自分も周りも殺してしまう、最悪の呪いになる。
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