第12話 スイッチかブレーカーか


「ごめんなさいね、今日は部活、行けそうにないの」


夏休みも半ばを過ぎた頃、ミユキは珍しく旧校舎に来なかった。

秋には大きなコンクールがあるからと、おおきな絵を描き進めていたのに。


「わかった……うん、大丈夫、こうして電話に出てるんだし、まだ家にいたから」


体調でも悪いのだろうか、ずいぶんと疲れた声をしていた。

ドーナツだけでも持って行こうかと考え、はたと気付く。

本当になんのきっかけもなく、でもそれは確信めいていた。


「……あの子はミユキを追い詰めたなんて、微塵も思っちゃいないんだろうな」


芸能人に会いたいから描いて出してくれ、と言ってきた女子。

あの子の去り際のあの表情。

それだけで、ミユキのどこかのスイッチを押した。

いや、ブレーカーをぶつんと落としてしまったのだ。


「ミユキならこんな時、誰にも会いたくなんてないだろうけど……」


たとえばインターホン、たとえば電話、たとえば意図しない突然の来客。

どれも全部、ミユキの嫌いそうなもの。


「でもきっと、またなんにも食べてないんだろうな」


そしておなかをすかせて後悔しながらも、それでも、食べないのだ。

だって、自分の中の感情を整理するのが最優先になっているはずだから。

外の世界の人間に対して、平気そうに振舞うために、いまは全力で。


「ちっちゃくてカロリーの高いもの、ちっちゃくてカロリーの高い……」


もういっそ、なにもかもを詰め込んで作った方が早いのかもしれない。







「きてくれてうれしいわ、ナギさん」


ミユキは予想通り青白い顔で、予想外なナギの来訪を喜んでいた。

持ってきた大きくずっしりとした包みを渡したものの、西日が目に突き刺さるのに目を細めてから、もしかしたら余計なお世話だったかもしれない、と思った。

そろそろ夕飯の時間でもおかしくない。この様子なら、今日は夕飯を食べたかもしれなかったのに、タイミングが悪かった。


「前もって言っておくとね、すげー甘いと思う」

「まあ、うれしい」

「簡単なやつにはちみつとかチョコとかドライフルーツとかナッツとか……そっちは抹茶とか、あとかぼちゃとか色々足したりしたからごはんの後とか、明日にでも」


心配するナギをものともせず、ミユキははらりと包みを開き、大層カラフルな仕上がりになった大量のドロップクッキーからひとつ、つまんだ。

ココアとナッツのクッキーをつまんで、それからもうひとつ。

ホワイトチョコとメープルシロップが入ったやつ。


「まあ、五臓六腑に染み渡るおいしさ」

「……ほんとに?」

「甘いもの、だいすきですもの」


誰かが心をこめて作ってくれたものなら、なおさら、特別に。

ミユキはそこでやっと、ほっとしたように微笑んだ。


(ああ、これが春の海の色なんだろうな)


ナギはなんとなく、以前ミユキが言っていたことを思い出していた。







「やっぱり、考えこんじゃってたんだ」

「だってね、苦しいのよ、描きたいものがいっぱいあって、手が何本あっても足りないのに、描くためには苦しむことにも時間を使わざるを得なくて、やりたくないことや、やらなくていいことにまで時間をつかわなくちゃならなくて……それでまた苦しくなるの……それでも……わたしがわたしを、納得させなきゃいけないから……」


他の誰かの言葉じゃ、きっと納得できないのだ。

どれだけ苦しくて、苦しくて、苦しみぬいたって、考えなくちゃいけない。

その先でやっと自分が出した答えでなければ、納得できるわけがないのだ。

一滴たりとも飲み込めやしないのだ。


「……まるで、おおきな渦の中に、はじめからいたみたい」


もがいてもあがいても出ることもできず、気が付けば大渦の中心に押し流されて。

出よう、離れようと暴れれば苦しみだけが与えられ。

捨ててしまおうとなにもかもを放ると、それらが刃となって傷をつけて。

流れに逆らわずに身を任せれば、何者からも守ってくれる場所となる。

すべてを呑み込んで、ひたすらにとどまって、太陽の光だけが幽かに届いて。

渦の中心だけが、自らを安心させる場所になっていた。

そこにいる間だけ、すべてを忘れて深呼吸することができたのだ。


描くという行為、もしくはそれに近い何かに、飲み込まれたら最後なのだ。

それ以外に逃げることはできないし、いつからか逃げようとも思わなくなる。


「……でも、雨が降ったら、傘をさすでしょ?」

「そうね……おなかが空いたら、食べなくてはならないし」

「そんで、眠くなったら、寝なくちゃいけない」


やりたくなくても、それらはやらなきゃいけなくて、逃げられないことで。

生きるって、どうしてこうも時間を浪費しなければならないのだろう。

生きていくって、どうしてこうも時間を無駄にしなければならないのだろう。


雨に濡れながら、食べず眠らずいられたらどれだけいいだろう。

自分のことだけではない。

あたりさわりなく話をして、人付き合いというものがあって、建前というものもあって、それはやっぱりやりたくないけどやらなくちゃいけないことで。


「ひとりきりで、生きられたら……どんなにいいのかしら」


どこか遠くのちいさな星で。

だあれもいないちいさな星で。

ひとでいることを忘れてしまって。

すべての時間を自分のためだけに使えたら。

永遠のようないのちを持って、それだけすべてを使えたら。


ひとは夢をみるいきものだ。

それが叶わないと知っていながらも、願わずにはいられない。


「ナギさん」

「うん?」

「……明日はちゃんと、部活に行くわ、わたし」


ほんの少し頬を染めて、ミユキはもじもじとそう呟いた。


「うん……それがいいと思う」

「いつまでもちいさなこどもみたいに駄々をこねてはいられないし」


駄々だったのか、あれは。


「だれもいない星にうまれたかったと願っても、それでもナギさんといるのは、とてもとても、楽しいことだもの」


ひとは、ほんの少しだけ無駄を楽しみながら、生きていくしかないのだろう。


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