第12話 スイッチかブレーカーか
「ごめんなさいね、今日は部活、行けそうにないの」
夏休みも半ばを過ぎた頃、ミユキは珍しく旧校舎に来なかった。
秋には大きなコンクールがあるからと、おおきな絵を描き進めていたのに。
「わかった……うん、大丈夫、こうして電話に出てるんだし、まだ家にいたから」
体調でも悪いのだろうか、ずいぶんと疲れた声をしていた。
ドーナツだけでも持って行こうかと考え、はたと気付く。
本当になんのきっかけもなく、でもそれは確信めいていた。
「……あの子はミユキを追い詰めたなんて、微塵も思っちゃいないんだろうな」
芸能人に会いたいから描いて出してくれ、と言ってきた女子。
あの子の去り際のあの表情。
それだけで、ミユキのどこかのスイッチを押した。
いや、ブレーカーをぶつんと落としてしまったのだ。
「ミユキならこんな時、誰にも会いたくなんてないだろうけど……」
たとえばインターホン、たとえば電話、たとえば意図しない突然の来客。
どれも全部、ミユキの嫌いそうなもの。
「でもきっと、またなんにも食べてないんだろうな」
そしておなかをすかせて後悔しながらも、それでも、食べないのだ。
だって、自分の中の感情を整理するのが最優先になっているはずだから。
外の世界の人間に対して、平気そうに振舞うために、いまは全力で。
「ちっちゃくてカロリーの高いもの、ちっちゃくてカロリーの高い……」
もういっそ、なにもかもを詰め込んで作った方が早いのかもしれない。
◆
「きてくれてうれしいわ、ナギさん」
ミユキは予想通り青白い顔で、予想外なナギの来訪を喜んでいた。
持ってきた大きくずっしりとした包みを渡したものの、西日が目に突き刺さるのに目を細めてから、もしかしたら余計なお世話だったかもしれない、と思った。
そろそろ夕飯の時間でもおかしくない。この様子なら、今日は夕飯を食べたかもしれなかったのに、タイミングが悪かった。
「前もって言っておくとね、すげー甘いと思う」
「まあ、うれしい」
「簡単なやつにはちみつとかチョコとかドライフルーツとかナッツとか……そっちは抹茶とか、あとかぼちゃとか色々足したりしたからごはんの後とか、明日にでも」
心配するナギをものともせず、ミユキははらりと包みを開き、大層カラフルな仕上がりになった大量のドロップクッキーからひとつ、つまんだ。
ココアとナッツのクッキーをつまんで、それからもうひとつ。
ホワイトチョコとメープルシロップが入ったやつ。
「まあ、五臓六腑に染み渡るおいしさ」
「……ほんとに?」
「甘いもの、だいすきですもの」
誰かが心をこめて作ってくれたものなら、なおさら、特別に。
ミユキはそこでやっと、ほっとしたように微笑んだ。
(ああ、これが春の海の色なんだろうな)
ナギはなんとなく、以前ミユキが言っていたことを思い出していた。
◆
「やっぱり、考えこんじゃってたんだ」
「だってね、苦しいのよ、描きたいものがいっぱいあって、手が何本あっても足りないのに、描くためには苦しむことにも時間を使わざるを得なくて、やりたくないことや、やらなくていいことにまで時間をつかわなくちゃならなくて……それでまた苦しくなるの……それでも……わたしがわたしを、納得させなきゃいけないから……」
他の誰かの言葉じゃ、きっと納得できないのだ。
どれだけ苦しくて、苦しくて、苦しみぬいたって、考えなくちゃいけない。
その先でやっと自分が出した答えでなければ、納得できるわけがないのだ。
一滴たりとも飲み込めやしないのだ。
「……まるで、おおきな渦の中に、はじめからいたみたい」
もがいてもあがいても出ることもできず、気が付けば大渦の中心に押し流されて。
出よう、離れようと暴れれば苦しみだけが与えられ。
捨ててしまおうとなにもかもを放ると、それらが刃となって傷をつけて。
流れに逆らわずに身を任せれば、何者からも守ってくれる場所となる。
すべてを呑み込んで、ひたすらにとどまって、太陽の光だけが幽かに届いて。
渦の中心だけが、自らを安心させる場所になっていた。
そこにいる間だけ、すべてを忘れて深呼吸することができたのだ。
描くという行為、もしくはそれに近い何かに、飲み込まれたら最後なのだ。
それ以外に逃げることはできないし、いつからか逃げようとも思わなくなる。
「……でも、雨が降ったら、傘をさすでしょ?」
「そうね……おなかが空いたら、食べなくてはならないし」
「そんで、眠くなったら、寝なくちゃいけない」
やりたくなくても、それらはやらなきゃいけなくて、逃げられないことで。
生きるって、どうしてこうも時間を浪費しなければならないのだろう。
生きていくって、どうしてこうも時間を無駄にしなければならないのだろう。
雨に濡れながら、食べず眠らずいられたらどれだけいいだろう。
自分のことだけではない。
あたりさわりなく話をして、人付き合いというものがあって、建前というものもあって、それはやっぱりやりたくないけどやらなくちゃいけないことで。
「ひとりきりで、生きられたら……どんなにいいのかしら」
どこか遠くのちいさな星で。
だあれもいないちいさな星で。
ひとでいることを忘れてしまって。
すべての時間を自分のためだけに使えたら。
永遠のようないのちを持って、それだけすべてを使えたら。
ひとは夢をみるいきものだ。
それが叶わないと知っていながらも、願わずにはいられない。
「ナギさん」
「うん?」
「……明日はちゃんと、部活に行くわ、わたし」
ほんの少し頬を染めて、ミユキはもじもじとそう呟いた。
「うん……それがいいと思う」
「いつまでもちいさなこどもみたいに駄々をこねてはいられないし」
駄々だったのか、あれは。
「だれもいない星にうまれたかったと願っても、それでもナギさんといるのは、とてもとても、楽しいことだもの」
ひとは、ほんの少しだけ無駄を楽しみながら、生きていくしかないのだろう。
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