第9話 氷塊の浮く氷海にも氷解はある
ねえ、雪がとけたら何になる?
春になるのでしょう?
だったら、氷がとけたら何になる?
そんなの、夢みるまでもないわよね?
そう。そうよね。そうなのよね。
氷がとけたら、ちいさな奇跡が起きるのよ。
◆
「やっぱり、気になったから聞いてもいい?」
「どうぞ」
「……ミユキは、どうやって立ち直った?」
「そうねぇ……」
現在、夏休み真っ最中。
だのにふたりは、相も変わらずこうして旧校舎の美術室に来ていた。
「ある時急にね、ぱちんと泡がはじけたの」
「急に?」
「急に」
それまで世界と自分を隔てていた澱のような膜のような、思考や感情を遮っていたなにかがぱちんと音を立てて消え、急に世界が、再び鮮やかに見えるようになった。
もしかすれば、増え続ける内側の圧力に負けてくれたのかもしれない。
「それでわたし、世界を確かめに真っ先に海へ行ったわ」
「そっか……」
一瞬、ふたりの間に奇妙な沈黙が流れた。
「わたしには描くことしかないけれど……こんなものでも、もし必要なら、ぜひおっしゃってね」
「……ありがとう」
ほんとうは、どうすればいいのかわかっていた。
いや、どうしたいのかずっとわかっていた。
(いつか……いつか、ミユキから聞こえる音色を奏でてみたい)
描くという行為にとりつかれたミユキ。
ナギもまた、鳴らすという行為にとりつかれていた。
「まあ、真っ先に向かったせいで溺れてしまったのだけどね」
「あれだけこだわっておいて泳げないの!?」
「まあ、心外。普段なら泳げるのよ、わたし」
持参したクーラーボックスから氷を掬い、長さのあるグラスへカラコロ。
爽やかな香りのする、いつかの夕焼け色の紅茶を静かに注ぐ。
すい、と差し出されたそれをナギはすぐには飲まず、ほんの少し、美術室に入り込む陽射しへ翳してみた。
カラコロ、カラコロ、揺れる度に音がする。
いつか待ち望んだ音のように、いつか見えなくなったもののように。
惜しむように、愛するように。
真摯に真摯に、氷が溶けるまで、ナギはグラスを翳し揺らし続けた。
ナギさん、と呼ばれる声に、やっと意識が現実に戻ってくる。
「でもね、海の中からみあげる太陽は、本当に本当に、美しかったわ」
「溺れてたのに……?」
「わたしは実はさかなだったんじゃないかと想うほど、苦しさを感じないほど、それは美しかった」
ミユキはナギの返事など耳に入っていないかのようだ。
ぼうっと、眩しそうに遠くを見つめて、こんなことがあったの、と続ける。
「毎年、ある花畑に来る蝶がいたの……もちろん、蝶の寿命から考えて同一個体というはずはないのだけれど…………毎年毎年、必ずその花畑だけに現れて消えていく」
ナギの脳裏に、依然聞いた「おにいちゃん」が浮かぶ。
その花畑はきっと、アトリエと共に在るように佇んでいた、おにいちゃんの花畑なのだろう。引っ越す前の、本当に本物の。
「ある時、その蝶を描いたの」
寂しくて、悲しくて、愛しくて。
もし、万が一……と思ってしまって。
「描けば描くほど、絵から蝶が逃げ出して、あたり一面の空間を幻の蝶が満たした……木漏れ日にも似た光の蝶が、揃って空に消えていったのよ」
ミユキの海のように青い目は、ともすれば月も出ない夜空のようだ。
暗く、どこまでも昏く。
清く、どこまでも聖く。
「……蝶は……それからも来たの?」
そんな目に耐えきれず、ナギは遮るように言葉を紡いだ。
「まだわからないわ、家は引っ越してしまったし、絵が抜け出るようになってからのことだったもの……ここへ、移って来るといいのだけれど」
「じゃあ、来たら電話してよ」
すぐに飛んでいくから。
ナギがそう言うと、ミユキはさっきまで沈んでいた目を煌めかせ、頷いた。
「そうね、土星の輪が夕焼け色に染まるのが楽しみでならないわ」
ナギはどんな蝶なのか聞こうとして、やめた。
直接見るのを楽しみにするために。
それを知ってか知らずか、ミユキはただナギのように、ただ楽しそうにグラスの氷をカラコロ、カラコロ。
ナギは代わりにため息ひとつ。
それは無意識に音が混ざり、いつしか鼻歌になっていた。
傾ぐ太陽を浴びながら、ふたりはいつかの蝶を夢見た。
いまは目映い夏の中。
やさしい音にあふれた、美術室の中で。
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