第9話 氷塊の浮く氷海にも氷解はある


ねえ、雪がとけたら何になる?

春になるのでしょう?


だったら、氷がとけたら何になる?


そんなの、夢みるまでもないわよね?


そう。そうよね。そうなのよね。


氷がとけたら、ちいさな奇跡が起きるのよ。





「やっぱり、気になったから聞いてもいい?」

「どうぞ」

「……ミユキは、どうやって立ち直った?」

「そうねぇ……」


現在、夏休み真っ最中。

だのにふたりは、相も変わらずこうして旧校舎の美術室に来ていた。


「ある時急にね、ぱちんと泡がはじけたの」

「急に?」

「急に」


それまで世界と自分を隔てていた澱のような膜のような、思考や感情を遮っていたなにかがぱちんと音を立てて消え、急に世界が、再び鮮やかに見えるようになった。


もしかすれば、増え続ける内側の圧力に負けてくれたのかもしれない。


「それでわたし、世界を確かめに真っ先に海へ行ったわ」

「そっか……」


一瞬、ふたりの間に奇妙な沈黙が流れた。


「わたしには描くことしかないけれど……こんなものでも、もし必要なら、ぜひおっしゃってね」

「……ありがとう」


ほんとうは、どうすればいいのかわかっていた。

いや、どうしたいのかずっとわかっていた。


(いつか……いつか、ミユキから聞こえる音色を奏でてみたい)


描くという行為にとりつかれたミユキ。

ナギもまた、鳴らすという行為にとりつかれていた。


「まあ、真っ先に向かったせいで溺れてしまったのだけどね」

「あれだけこだわっておいて泳げないの!?」

「まあ、心外。普段なら泳げるのよ、わたし」


持参したクーラーボックスから氷を掬い、長さのあるグラスへカラコロ。

爽やかな香りのする、いつかの夕焼け色の紅茶を静かに注ぐ。


すい、と差し出されたそれをナギはすぐには飲まず、ほんの少し、美術室に入り込む陽射しへ翳してみた。


カラコロ、カラコロ、揺れる度に音がする。

いつか待ち望んだ音のように、いつか見えなくなったもののように。


惜しむように、愛するように。

真摯に真摯に、氷が溶けるまで、ナギはグラスを翳し揺らし続けた。


ナギさん、と呼ばれる声に、やっと意識が現実に戻ってくる。


「でもね、海の中からみあげる太陽は、本当に本当に、美しかったわ」

「溺れてたのに……?」

「わたしは実はさかなだったんじゃないかと想うほど、苦しさを感じないほど、それは美しかった」


ミユキはナギの返事など耳に入っていないかのようだ。

ぼうっと、眩しそうに遠くを見つめて、こんなことがあったの、と続ける。


「毎年、ある花畑に来る蝶がいたの……もちろん、蝶の寿命から考えて同一個体というはずはないのだけれど…………毎年毎年、必ずその花畑だけに現れて消えていく」


ナギの脳裏に、依然聞いた「おにいちゃん」が浮かぶ。

その花畑はきっと、アトリエと共に在るように佇んでいた、おにいちゃんの花畑なのだろう。引っ越す前の、本当に本物の。


「ある時、その蝶を描いたの」


寂しくて、悲しくて、愛しくて。

もし、万が一……と思ってしまって。


「描けば描くほど、絵から蝶が逃げ出して、あたり一面の空間を幻の蝶が満たした……木漏れ日にも似た光の蝶が、揃って空に消えていったのよ」


ミユキの海のように青い目は、ともすれば月も出ない夜空のようだ。


暗く、どこまでも昏く。

清く、どこまでも聖く。


「……蝶は……それからも来たの?」


そんな目に耐えきれず、ナギは遮るように言葉を紡いだ。


「まだわからないわ、家は引っ越してしまったし、絵が抜け出るようになってからのことだったもの……ここへ、移って来るといいのだけれど」

「じゃあ、来たら電話してよ」


すぐに飛んでいくから。

ナギがそう言うと、ミユキはさっきまで沈んでいた目を煌めかせ、頷いた。


「そうね、土星の輪が夕焼け色に染まるのが楽しみでならないわ」


ナギはどんな蝶なのか聞こうとして、やめた。

直接見るのを楽しみにするために。


それを知ってか知らずか、ミユキはただナギのように、ただ楽しそうにグラスの氷をカラコロ、カラコロ。


ナギは代わりにため息ひとつ。

それは無意識に音が混ざり、いつしか鼻歌になっていた。


傾ぐ太陽を浴びながら、ふたりはいつかの蝶を夢見た。


いまは目映い夏の中。

やさしい音にあふれた、美術室の中で。


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