第6話 みおくるきみは
「夏休みの旧校舎ってどこか懐かしい気がするよね」
「これまでに過ごしてきたことがおありなの?」
「まさか、ここで初めて見た景色だけどなんか懐かしい」
「追憶は己の過去だけとは限らないと聞いたことがあるわ」
夏に生まれたわけでもないし、同じ数だけの季節があったはずなのに。
ナギの胸を締め付けるのは、いつだってセピア色の夏だった。
「ミユキは何かを懐かしく感じることがある?」
「あるわよ」
「やっぱり夏?海ばかり描いてるし」
「まあ、ナギさんたら見る目がないのね」
ミユキは海を描いていた手を止め、がっくりと肩を落とした。
と、思うとパッと顔を上げ、傍にあった椅子に腰かける。
「あれは秋の海よ、春は碧く、夏は青く、秋は蒼く、冬はすべてを飲み込む色」
大きな水筒から持参したティーカップに紅茶を注ぎ、ナギの方へも寄越した。
夏の風がカーテンを揺らし、セピア色の光で部屋を満たす。
それはやっぱり懐かしさを感じるもので。
「わたしが懐かしく思うものは、初雪の頃」
「初雪?」
「どこかでその年初めて点けたストーブや雪の匂い、オレンジ色の街燈、雪雲に覆われて冷えていく薄暗い昼、青と白しかない世界……そう、いつも冬なの」
ミユキの話に空気が冷えた気がして、ナギは手の中の紅茶を握り込んだ。
薄暗く外が吹雪始めたような錯覚に陥り、思わず窓を見やる。快晴だった。
夏なのにあたたかい紅茶は、まるでこうなることを見越していたようで。
どうにかしてミユキの人間らしいところを引き出してみたい。
「そういえばさ」
「なにかしら」
「昔ここで、こんな怪談があったらしいよ」
ここの卒業生だった近所のお姉さんから聞いたいくつもの怪談。
(あのヒト、本当に怪談しか話すことなかったなぁ。)
中庭の池に咲く、呪われた青い花。
それが消え、生まれ変わるように現れた二輪の黒い薔薇。
死者が映るという図書室の鏡。
弱小野球部がどーたらこーたら。
時を遡り続ける女子生徒。
「そして、美術室に現れる幽霊」
「まあ、ちょうどこのあたりね」
怯えるどころか、きらきらと顔を輝かせている。
「それらはもう、いなくなってしまったの?」
「そうだよ」
「あら、残念」
何をする気だったんだ。
「それじゃあ、怪奇、ではないわね」
「え、なんで?」
「だって、ご用事を済ませてこちらをご卒業なさったのでしょう?」
「ご卒業って……誰かが退治したんじゃない?」
「ご用事があっていらっしゃったなら、怪しくも奇しくもないもの……ご存命かご逝去か程度しか違いがないのだわ、間違い探しじゃないの」
ナギは、なんだかいつも上手く言い包められているような気がした。
「わたしね、思うのよ」
「常になにか思ってるでしょうが」
「状況に触発されて、思ったことを急に言いたくなったのだけどよろしい?」
「……どーぞ」
いつか言い負かしてやる。
「怪奇をみおくった方々はどんなきもちだったのかしら」
「どんなって……ミユキ、なんか……さっきからまるでそういうのに会ったことがあるみたいな言い方するじゃん」
「あるわよ」
ティーカップを持ち上げたまま、まっすぐにナギを見るミユキ。
にわかに吹き込んだ風により、部屋が光で満たされた。
逆光で見えなくなっても判るほどに、ミユキの表情はくっきりとしている。
「いくつも、いつも、みおくってきたわ」
「……冗談?」
「この瞳が嘘を言っているように見えて?」
「見えないけど……」
ミユキはティーセットを机に置き、ゆっくりと窓辺へ移動した。
窓の外は山か海かしかないのに、ぼうっと遠くを見つめている。
「……不思議なことね、いっぱいあったわ」
「……たとえば?」
ミユキは、一度だけちらとナギを見て語り始める。
ナギは、無駄口を挟まないようにぬるくなった紅茶を啜った。
「昔ね、だいすきなお兄ちゃんがいたの――」
◆
はじめに出会ったのは夏のはじまり。
わたしのおうちの庭……花畑で眠っていた。
わたしはその日、花畑を描きたかったから、正直邪魔だったわ。
でも、なんだか起こすのは憚られたのよね。
ものすごく疲れて見えたし、悲しそうにも見えて。
だからわたし、その人ごと描くことにしたの。
夕べの花を描き切るのに夢中で、気が付いた時にはもう夜だった。
初夏とはいえ夕陽はすぐに沈んでしまうし、そろそろ雨の降る時期だから、次に陽の光を浴びた花畑がいつ見られるのかわからなかったし、それはもう夢中で。
庭の電灯が点いて、家からはわたしを呼ぶ声も聞こえた。
それで、振り返った瞬間、目が合ったの。
わたしが絵を描いているのを、興味深そうに見ていたわ。
行くところがないのなら、一緒にごはんを食べましょう。
そう言って連れて帰ったのだけど、わたし以外、その人が見えなかったのよ。
それで、ああ、既に亡くなられている方なんだ、と気付いたってワケ。
とてもとても悪い人には見えなくて。
年齢も今のわたしと変わらないくらいに見えて。
夏も、秋も、冬も、春も一緒に過ごしていた。
お名前も年齢も教えてはくれなかったけれど、わたしにはそれで十分だった。
お名前も年齢も、その人がどんな心を持つか判断するには至らないから。
でも、次の夏が始まる頃、お兄ちゃんは消えてしまったの。
夏の初めに咲く花が、その年初めて庭に咲いたから。
お兄ちゃんはその花で花冠を編んで、本当に、心から大切なもののように胸に抱きしめていた。わたしは何も聞かなかった。聞けなかった。
ただただ、幸せそうに去ってゆくお兄ちゃんを、みおくることしかできなかった。
さみしくて、かなしくて、わたし、7日間も寝込んだわ。
でもね。
わたしは本当は、初めてお兄ちゃんをみつけた時に、既にわかっていたのよ。
目を開けてすぐ。
その次の日。
その次の次の日。
雨の日、晴れの日、雪の日。
毎日、毎日、毎日、毎日。
何かを探すように花の咲く場所をあちこち歩き回っていたのだもの。
本当はそのお花を隠してしまいたかった。
摘み取ってしまいたくて仕方がなかったわ。
でも、それ以上悲しい顔のお兄ちゃんを見ていられなくて。
わたし、ただ黙ってみおくったわ。
置いて行かれた気もしたし、捨てられてしまったような気もした。
あれほど切なさに胸を締め付けられたことはないわ。
誰を見送っても、同じきもちにはならなかったもの。
だからね、思うのよ。
その怪奇は、みおくる方にとってどんな存在だったのかしら。
みおくる方は、どんなきもちでみおくったのかしら。
そう、思わずにはいられないのよ。
春も夏も秋も冬も、それぞれ一回ずつ過ごしたのに、いつだって思い出すのは冬の空気。おにいちゃんと、冬の日々ばかり懐かしく思ってしまうのだわ。
◆
「というお話なのだけど」
「そのお兄ちゃんさ」
「なにかしら」
「ミユキの初恋だった?」
ミユキは呆れたように片方の眉毛を上げ、ため息を吐いた。
「恋なんて言葉にあてはめたら、このきもちが陳腐なものになってしまうわ」
「ソウデスカ……」
「いつ冷めやるかわからないものではないのよ」
(意外と情熱的なんだな……)
ミユキはまた、遠くを見やる。
いつかみおくってしまったものをさがすように。
「わたしは、だから絵が好きなのかもしれない」
「絵は、手元から消えないから?」
「いいえ……絵は、描いてしまえば忘れられるもの」
「忘れる……?」
ミユキは、頭の痛みを抑えようとするような仕草をした。
もしくは、漏れ出ようとする何かを塞ぐように。
「ナギさん、わたしに常に何かを思っているとおっしゃったでしょう?」
「そうだね」
「それはその通りで、わたしはいつも溺れているようなきもちになるの」
「大変だね」
「そうなの、大変なの……こまごまとした思いに埋もれて、いつか大事なきもちが消えてしまったらどうしようって、いつも不安で仕方なくなるのよ」
ミユキは寝ぼけているみたいに筆をとり、キャンバスにつづきの色を乗せていく。
「こうしてキャンバスにうつして頭から追い出して、そこでやっと安心できるわ」
美術室に満ちるのは冬の音色。
肌を刺すような寒さでなく、必ずあたたかい火を思い浮かべるようなもの。
(ミユキもきっと、そうなんだ)
自分の内から出でようとするもの。
押し込めるのに苦労するもの。
それでもうしなへば悲しみを伴うもの。
ミユキなら。
ミユキなら、わかってくれるんじゃないだろうか。
まったくちがう人間であることを実感しながら、それでもナギはそう感じた。
いま視界を満たすものと、いつか世界を満たしたものを思って。
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