第7話 月の裏側



「あー、ここじゃないどこかに行きたい」


ひとりでに出たナギのぼやきを聞いたミユキが、いそいそと絵の片付けを始めた。


「どうしたの?」

「お出かけのお誘いかと……違いまして?」

「あー……いや、ミユキがいいならどっか行こ」


夏休みを目前にして、美術室はミユキとナギの部屋と化していた。

旧校舎にあるからか、それとも授業で使わないからか、ミユキの描いた絵で埋めつくされそうな勢いだ。ついでのように色々な私物を持ち込んでいる。


他の部員はミユキに色々な意味で恐れをなして、第2美術室もとい美術部の部室の方で活動がどーたらこーたら。

それでも部員以外が訪れることはある。具体的に言うとミルクの件を皮切りに、月に1、2回くらいのペースで謎の頼み事をする人が来ていた。


「ドアに貼り紙だけして、どこかへ行きましょう」

「まさかミユキと遊びに行くことになるとはね」

「あら、何度か海に行ったでしょう?」

「それは見張りというか……部活じゃん」

「まあ、心外」


放課後になって間もないからか、どこに行っても学生がいそうだ。

街の方へ目を向けると、カラオケに行くのか既に歌いながら移動しているグループがいた。ナギはそれに目を向けて、煩わしそうに目を細める。


「ねえ、ナギさん」

「……ん、なに?」

「良かったらわたしのおうちにいらっしゃる?」


ナギは逡巡した。

恐らくあの異能じみた空気の読み方により、気を遣われたのだろう。そう思うと行きたくないが、あのミユキがどんな場所で育ったのか見てみたい気もする。


「こどもの頃から住んでるなら行こっかな」

「まあ、よくわからない理屈!でも、嫌いじゃなかったりして」


生憎、この街には引っ越してきたところなのだけど、と付け足す。

それもそうだ。そういえば転校生だったもんな、と思い直した。






(国とは言わずとも、市のひとつくらいでけぇ土地持ってんじゃないかって金持ち、フィクションにはよくいるけど……)


目の前に広がる、広大な緑。


「でっっっっっけぇ~」

「あっ!!ハイビスカスがむしられている!!」

「うわ、まじじゃんえぐ」

「鉛玉をお見舞いして差し上げたいわ!!」

「ミユキんちの敷地だって知らないんじゃない?」

「そういうことなの……!?」


ミユキは青い屋根のおおきなおうち、いや、洋館(としかいいようがない)に駆け込むと、出迎えた誰かに柵がどうの監視カメラがどうのと泣きついていた。

ちょっとこどもっぽい。さっそく意外な場面を見てしまった。


が、すぐにいつものミユキに戻ってナギを振り返る。


「土星へようこそ、とだけ言わせてちょうだい」

「土星……?」


そういえば前にドーナツがどうとか言っていたな、と独り言ちる。

ミユキの部屋に通されると、使用人らしき人がドーナツとジュースを置いて行ってくれた。好きなのか、ドーナツ。すまし顔でかじっているが。


土星だからドーナツが好きなのか、ドーナツだから土星が好きなのか。

まあ、どうでもいいか。


「花、好きなんだね……」

「そうね、大地に根付くものだから……」

「落ち込んでるね……」

「わたしが頑張ってお世話したのよ……」

「もしかして、お兄ちゃんの花畑の場所?」

「生家ではないから、そうではないのだけれど……」


しーん。というオノマトペが聞こえてきそうである。


「で、あの、土星ってどういう意味?」

「……わたしが土星を好きだって知って、両親がそう作ってくれたのよ……真ん中には円形に洋館の敷地があって、周りは輪を描くように木や花が植えられているの」

「それはたしかに、持ってかれたらやだね」

「だって、宇宙へ人はゆけないでしょう……?」

「今はね、そうだね……」


ナギはくだらないことを思いつき、それでも言ってみた。


「土星を絵に描けば、土星に行ったことになるのかな?」

「まあ!!!!!!!」


藪蛇だったかもしれない。





ナギたちはおやつや絵の道具をバスケットに放り込み、土星のに来ていた。


「レモン色の煉瓦道を辿ると、裏山へ出るわ」

「山、登るの?」

「ふもとにアトリエにしている小屋があるのよ」

「小屋ねぇ……」

「そのすぐそばに、お兄ちゃんのお花を植えたがあるの……同じ場所ではないけれど、同じ花ではあるのよ、引っ越すときに土ごと持ってきたから」


あれがそうよ、と指す先には、どう見ても小屋ではない建物が立っていた。


(ちょっとした一軒家だろ……)


インフラも整っているようで、着いて早々にミユキはお湯を沸かして紅茶を淹れていた。壁にかけられたすずらんのようなランプが灯る。


「ふしぎだね」

「ふしぎ?」

「アトリエってもっと絵の具くさいのかと思ってた、美術室みたいに」

「まあ、心外」

「ここは花の匂いがするね」


さきほど見た花の香りだろう。

あれが、ミユキの思い出が色濃く残る花畑なのだろう。

アトリエのあちこちに花瓶があり、どれも同じ花が生けられていた。


「……自分でも、ばかなことをしているとわかっているのよ」

「ばかだとは思わないよ」

「こうしていたらいつか、また、訪れてくれないかと……」


ナギはそれを痛いほど知っていた。


「土星を描きながらでいいんだけど、聞いてくれる?いや、聞かなくてもいいんだけど、私がただ言いたいだけというか」

「お好きになさって、ふたりめのおきゃくさま」


ナギは、自分でも驚くくらい、久しぶりにすらすらと話すことができた。








前にミユキ、歌ったり奏でたりしないのかって聞いたよね。

本当は、歌うのも演奏するのも好きだった。

たくさんたくさん、音楽のこと、話したかった。


それまで生活すべてに歌があり、音があり、楽しみがあって。

世界中を音色が満たしていると、柄にもなく思っていた。


でも、急にどっちもできなくなったんだよ。

ミユキが来る前のことだけど。


きっかけは手を怪我したことだろうね。

利き手じゃないんだけど、楽器はどっちの手も使うからさ。


できないことがひとつできただけで、なにもかもを失った気持ちだった。

そしたら今度は歌えなくなった。

喋るのは平気なのに、歌おうとすると喉が引き攣って変な声ばかりが漏れた。


音楽ならなんでもいいと言っておきながら、自分で納得いくものは何一つなかった。


世界中が音楽で満ちていたのに、一番そばで響いていたのに。


そこで急に、世界でいちばん遠いものになりさがった。


真夏にクリスマスを望むようで、自分でもおかしくなって。


自分は失ったとわかると、今度はそれに関わることのできるみんなが憎らしく思えてきたりもして。関わることすら嫌になってきて。


私が歌えないなら、奏でられないなら、なにもかもいらない。


知っていて音楽の話を振ってくる子たちも、みんな憎らしい。


憎らしくて、妬ましくて、羨ましくて、悲しくて、悔しくて。


それでも、もしかしたらいつかは、なんて甘い考えが止まない。






「こんなこと言われても、反応に困るだろうけどさ……」


ナギが話し終わった時、そこは元のアトリエではなかった。

いつかテレビで見た映像、月の映像にそっくりだ。色は違うが。


「こころって、思ったよりも体を支配しているのよね」

「嫌になるほど実感してる」

「月の裏側ってね、地球からは見えないの」

「そうなんだ」

「でも、まるで地球を庇うように隕石に当たって、クレーターだらけなのですって」


ふたりが立っている場所は虹色に輝いているのに、は青白く燃えるようだ。


「わたしはいまのナギさんのお話を聞いて、それを思い出したわ」

「……そう?」

「わたしたち、見ることのできない場所が傷だらけね」

「……そうだね」


いつもいつも、絵を描くミユキからは音楽が鳴っていた。

それが自分の体を通して現実に出てこようとする欲求と闘っている。


「……ねえ……絵、描けなくなったこと、ある?」

「何度も」


たった一言だけど、月ひとつよりもずっと重く感じた。


「……どうやって抜け出したか聞こうと思ったけど、それはミユキにだけ使える魔法みたいなものだから……私が聞いたってしかたないのにね」


どれほど大変だったか、なんて聞かなくてもわかる。

だから、こうして簡単にそれを得ようとする自身が浅ましく思え、嫌悪した。


同じようにそれを知っているミユキは、だから、より悲しかった。

目の前の友人を助けられない、無力でちいさな自分が。


「こころが奇跡を伴えばいいのに、ってずっと思っているわ」

「わかる、気持ちだけなら有り余ってるんだけど」


わたしたちは、それ絵を描いたり、音楽を奏でることをしていない自分を認められない。それをしている自分しか認めることができない。だから、それをしていない自分は、ひどく惨めで出来損ないのように思えてしまう。かといって、自分でも納得のいかないような適当なことをすると、それはいちばん惨めな行為だ。


誰かに助けてほしいと思いながら、誰にも見られたくないと思う。

傷付いて修復中の、どろどろになったさなぎのような自分の姿を。


どうしようもなく原始的な感情を抱いた自分を、否定したくなる。

それじゃあ理性はどこなんだ、人間らしくいたいじゃないか。


そうは思えど、いつからか自分の内からは澱んだ醜い感情ばかりが滲んでいた。


いつか終わる時が来るだろうか。


「それでもね、終わり方だけはこだわらなくっちゃあ」

「終わり方?」

「終わればなんでもいいと思って、死を選ぼうとしたことがあったの」


風により花同士の擦れる音がする。

夏の陽射しを浴びながら、やさしい香りのする花だ。


「そんなきもちはもう、ごめんだわ」


月が消えていく。

窓から射し込む陽射しに掻き消されていくように。


(ただ、その時、私は思ったんだ)


どうせいつか終わるなら。

あといちどくらい、自分の望む自分でいたい。


暴れて、藻搔いて、叫びまくって。

やっと届く自分を見たい。



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