第4話 テセウスの舟とスワンプ・ガール
「ななねん、よ」
「なにが」
今日の美術室には金魚の群れが泳いでいた。
しかしミユキは「それはさておき(物理)」と、小脇に抱えた風呂敷を広げる。
中から出てきたのはやっぱりキャンバスで。
しかしそこらに転がされている絵と違うのは。
「……ずいぶん、分厚いじゃん」
「あら、あら!お目が高い!」
「意味が分かんないよ……」
そう、何度も何度も塗り重ねたのか、キャンバスに塗られた絵の具は、随分と分厚くなっていたのだ。折り曲げたらパキっと割れそうなくらい。
「それと7年に何の関係があるの?7年前に描いたの?」
「ここから見えるビッグバンくらいの距離感ね」
「なんて?」
美術準備室から使われていないイーゼルを運び、件のキャンバスを設置する。
ミユキはそれを感慨深く眺めた後、自身のあちこちを確認するように触れた。
「諸説あるそうだけれど、人間の細胞がすっかり入れ替わるのに7年」
「へえ、それで?」
「わたしがこの絵を描き始めたのは……」
◆
人生で7回目の誕生日。
わたしはプレゼントに油絵の道具をいただいたわ。
大人たちを説得して、キャンプの許可を得た。
道具すべてをシーツで包んで、近くの浜辺へ走ったの。
わたしは海と空の絵を描いて、大人たちに言われるがままに食事を摂り、休憩した。
つぎにキャンバスに向き合った時、たしかに目の前の風景を描いたはずなのに、まったくちがうものに成り果てていたのよ。
ランプに照らされたわたしの絵は淡く、まるで世界からひとりぽっちになったみたいに浮いていたわ。
わたしはしかたなく新しい色を塗り重ねて、眠りに就いた。
もうわかるでしょう?
目が覚めた時、わたしの絵は世界に空いた穴だったの。
わたしは泣きながら、花を摘むように色を重ねた。
でも気が付くと。
ひとつだけ世界の誰にも渡されなかった花束で。
ひとつだけ燃えてしまった悲しさみたいで。
ひとつだけ世界にこぼしてしまった苦しさみたいで。
いつだってちがう絵に成り果てていたのだわ。
いつだっておなじ仲間外れの絵でしかなかったのだわ。
わたしは悲しくて悲しくて、そして悲しかった。
ほら、でも、わたしって基本的にはひとりで解決してしまったから。
日記をつけるようなものだわ、って勝手に納得しちゃったのね。
それで、ひとつ、気になったの。
もしこの絵が現実に出てくるのなら、いつの絵で出てくるのかしら、って。
◆
「ナギさんも気になるでしょう?そうよね?そんな顔だもの」
「まだ何も言ってないし」
「人間は7年、絵は何年なのかしら」
ああ、聞いていないな。
でもナギにはだからこそわかった。
今日、この絵は現実に出てくるつもりなのだ、と。
「……ところで」
「なにかしら」
「ビッグバンってずっと昔のことじゃない?」
「見えるのよ、今も、ここから」
ミユキの話はナギには理解できなかったが、納得はした。
青く清々しい海を描いておきながら、こんなに烈しい音楽を鳴らすなんて。
ナギはふと空を見上げた。
どこまでも青い色しか見えない。
いったいどこでビッグバンなんてやっているのか。
「……、……」
「あら、何を言いかけたのかしら」
「……あんた、後ろに目でも付いてるの?」
「人の顔色を窺っていたらいつの間にか気配で分かるように」
「ヘンなヤツ」
「空気の読める女と呼んでもよくてよ」
「いらねー……」
どこかからさざなみの音がした。
すぐ近くの海からだろうか。
いや、もう既にわかりきっているのだ。
現実逃避はやめようじゃないか。
音はミユキから、目の前の絵から、そしてこの空間を満たす海からしているのだ。
虹色の洪水が、美術室を洗い流そうとでもいうように渦巻いている。
「……きっと、今まで描いてきたすべてなんだろうね」
「まあ、ナギさんお悧巧さん」
ナギは視界を満たす綺麗さに、どこか少し悲しくなった。
一点の汚れもない海が、まるで本人の心を見ているようで。
「……あんたは、悩みなんてなさそうでいいね」
こんなことが言いたいんじゃないのに、と思う。
それでも言わずにはいられなかった。
これまで疵付けられることのなかったであろう魂に。
「まあ、心外」
「あるの?あんたに悩みなんて」
「お悩みさんに”なんて”という修飾語をつけてはだめよ」
「お悩みさん、て……」
「わたしはただ、公私混同はしないだけよ」
目の前の曇りなき色彩を見てもそんなことが言えるのか。
ナギは、世界のよごれがすべて自分に集約されているような気分がした。
「さんざん見てきたのでしょう?わたしが絵を描くさまを」
絵を描くさま。
ミユキが。
「絵を描いてる最中、わたしに魂があったように見えて?」
嗚呼。
最中のミユキは、魂のぬけがらのような姿ではあった。
目の前の色たち以外、世界に存在などないのだとでも言うように。
まるで、魂だけが身体をぬけ出てひとつ高位の次元に行ってしまったような。
だからこそ、ナギは自分の心に芽生えた醜いものに気付いたのだ。
「生まれてからいままで、傷ついたことある?」
「まあ、心外……買い被りすぎではなくて?」
ゆっくりと振り返るミユキの瞳を見て、ナギは固まった。
どこまでも暗く、冷たい色。
音の炎は消え、静まり返った水面だけがある。
生まれてから今まで灯りなど見たことがない、とでも言うような。
陽の昇らない海の底だ。
「わたしにも、こころのずうっと奥、深くに突き刺さって抜けない棘があってよ」
どろどろと、魂の戻ったミユキから黒く淀んだなにかが漏れ出している。
「かくすのが、お上手なだけなのよ」
すう、と消え去った。
黒も、海も、暗いものも、音楽も。
はじめから何もなかったように、さっぱりと。
「……ねえ、それは7年経って……変わった?」
ミユキは前髪から僅かに覗く眉を少し下げて、首を振った。
困ったように笑うそれは、ナギが初めて見る人間らしい表情だった。
「だからこそ、わたしはわたしであるのでしょうね、別の誰かになれるわけでなく」
ナギは自分の八つ当たりにも似た失言を恥じた。
「……ごめん」
「謝らなくて結構よ、ナギさんも痛そうな顔をしているものね」
冷たい意味を持つはずのその言葉は、いつもよりずっとあたたかく感じた。
「……あら、何を言おうとしたのか忘れちゃったわ」
「抜けてるなぁ」
「何か、かっこいいことを言おうとしたのよ」
「はいはい、ありがとう」
「言いたいわ、すごく言いたい気分だったのだわ」
ミユキはそれから7分悩んだが、結局思い出せなかったようだ。
「でもね、いつかはきっと思い出せないくらいに小さくなるとは思うのよ」
「悩みが?」
「ええ、だって、こころってマグカップみたいなものだと思うから、新しいことを入れていけば、いつか溢れて出ていくはずだわ」
「……そうなったら、いいね」
「いつか、聴かせてくださる?」
何を、とは言わなかったし聞かなかった。
ただ、どうしようもなく。
「あんたって、ホントに空気の読める女ね」
「よく言われるわ」
「自称なのに?」
「自他共に認めるほどよ」
「実は他にも超能力持ってたりする?」
「持ってないことを祈るわ」
なるのだろうか。
いつか、そんな悩みがあったと思い出さなくなるくらいに。
「じゃあ、宇宙人だったりする?」
「土星は好きよ、ドーナツが付いててお得なんだもの」
それを乗り越えて自分を取り戻せるくらいに。
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