第2話

 部屋の中央で、せめてもの気遣いなのか、署内では比較的ましな部類の椅子に腰かけていたのは、まだ若い、ブルネットの女だった。ディディエはさっと身を引いて、エティエンヌを先に通す。不安そうに身じろぎした女は、警官とは思えないほど穏やかで綺麗な顔立ちをした若者が現れたのを見て、驚いた顔をしたあと、少し肩の力を抜いた。やはりこいつを連れてきて正解だった、とディディエは内心安堵して、次いで一抹の不安と共に自分の背後を見やった。結局、ついてくると言ってやってきた、長い赤毛を無造作に垂らした、獣のような黒い瞳を持つ異端児は、その視線に気づく様子もなく、部屋に入るなり隅の方へさっさと歩いていくと、あろうことか床にあぐらをかいた。目撃者がぎょっとした表情をするのを見て、ディディエはその尻を蹴り飛ばす。「あ痛っ」「立て、馬鹿」渋々立ち上がったルイ=マリーは、ずるりと壁に凭れて、それきり眠る獣のように動かなくなった。ため息をついて机の方へ向き直ると、エティエンヌは既に目撃者と挨拶を済ませて、本題に入ろうとしていた。女は、目前の若者が身に付けている品が到底警官の身分に釣り合うものでないことに気がついたのか、ちらちらとエティエンヌの時計やネクタイピンを見ている。この人本当に警察なのかしら、と、幼さの残る顔にははっきりと書いてあって、ディディエは笑いだしそうになった。次いで彼女は、いかにも警察官らしい目付きをしたディディエの風体を見て、自分がおかれた状況に確信を持てたようだった。…壁にもたれている赤毛の男は、やはり気になる様子だったが。

 事件のあった宝石店付近の理髪店で働いているという、若い女性の美容師は、ショックを受けて病院にいたとはいうものの、既にしっかりと自分を取り戻した様子で、けれど指は固く組んでいた。もし彼女がもう少し年配ならば、十字架を握っていたかもしれない。

 ディディエが型通りにこれから聴取を開始するというようなことを伝え、エティエンヌに交代する。新人といって差し支えないエティエンヌだったが、優秀な彼は、多くの乱暴な先達の警官たちよりもずっと聴取のやり方を心得ていた。

 相手が凶悪犯であってもけして声を荒らげず、光の暖かさで旅人のコートを脱がす、童話の太陽のようなエティエンヌと、ひたすらに相手の様子を、顕微鏡を通したように観察し…ひとたび綻びや疑問点を見つけたら、相手がすっからかんの搾り滓になるまで攻め抜くディディエは、司教と拷問官と言われていた。今回は相手が犯罪者ではないので、善良な司教が話を聞く。

 エティエンヌに促され、女は、それなりにはきはきとした育ちのよい発音で、しかし言いづらそうに喋りだした。

「私……私、事件そのものはちゃんと見てなくて……」

 エティエンヌが頷く。ディディエはペンを紙面に置いたまま、話の続きを待った。

 昨日の二時頃に、少し休み時間ができて、カフェを買いに出たんです、と震えながら女は言った。どこのカフェでしょうか、と訊ねるエティエンヌにあたふたして答える様子では、まるきり一般人という風情だ。「買って戻る途中に、あの宝石店の…ショーウィンドウを見て、…少し入りたくなって」

 エティエンヌが相づちを打つ。「綺麗ですからね」

「そう、そうなんです。私、今度姉が結婚するんですけど、あの…あそこのお店で指輪を買ったって言ってて、その……私も、今つきあってる人と…そろそろって……」買うつもりじゃなくて、指輪ってどんなのがあるのか、訊くくらいの気持ちで入ったんです、とつかえつかえ言う女に、エティエンヌはまさにその恋人であるかのように優しく対応する。ディディエはメモを取りながら、気づかれないようにじっと女の様子を観察している。だいぶ緊張のほぐれてきたらしい彼女は、しかしやはり事件の発生が近づくと口が重くなり始めた。若者らしく薄化粧をした頬が青ざめたり、白くなったりした。

「私がお店に入ったら、何人か他のお客さんがいて、…私は左奥の指輪がいっぱい並んでるところに行きました」

 ディディエは手元に用意した宝石店内の見取り図を机の上に置く。エティエンヌがそれを示して「このあたりですね」と確認する。女は頷いた。

「五分くらい、店員さんと指輪について話してたら、――入ってきたんです」

 女はぎゅっと拳を握った。手の甲に白く骨が浮くほど。ディディエはそこからいくつかの徴候を読み取った。――恐怖。自己防衛意識による硬化。義務感。罪悪感。……

「思わず注目してしまったので、よく覚えてます。あの、とても印象に残る人だったので……」

「どうして印象に残ったのですか」

 この質問はディディエだ。女はびくっと肩を震わせ、驚いたようにディディエの顔を見てから、あたふたと喋り始めた。

「白い、薄手の長い肩掛けをしていたんです…この季節に肩掛けをしてるのはめずらしいなって、あと」

 ディディエは現場資料にチェックをつけながら聞き返す。「あと?」

 そのとき、女の貝殻のような耳に、ほんのわずか――この場面には似つかわしくないような、ほのかな朱が差したように見えて、ディディエは少し訝しんだ。

「――とても美しかったんです」

 信じられない、というように、彼女は呟いた。

「美しい」ディディエは思わずペンを止めて、その言葉を脳内で反復した。こういった事件におよそ最も似合わない単語のひとつだろう。しかし、女は続けて、身振りまでつけて話し出した。「コートの前が開いたとき、まるで舞台衣裳みたいな、すごく古い時代のドレスを着てたので、何か変だなとは思ったんですけど」ドレス、のところで、膨らんだスカートを表現するようなゼスチャをする。かすかに震えた指先が、波打つレースのように羽ばたいた。「古いっていうのは、どのくらいですか」エティエンヌが手を挙げて質問すると、美容師は首を捻りながら、ロココ・スタイルのものだと思う、なぜなら挿絵や映画で見るベルサイユ宮殿の王族や貴族の姿とよく似ていたから、と答えた。

「髪は黒くて、綺麗に結ってました」今度は美容師らしく、櫛をいじるような細かな手つきをする。「ポンパドール・スタイルで、真珠の飾りをつけていて……」

 そこではっと息を飲んだ。明確に何かを思い出したという表情で、独り言のように囁く。

「ルイ=アベルに――ルイ=アベルに似ていたわ」

「――ルイ=アベル?」

「ピアニストです、あの……近くでコンサートがあって、最近通りにポスターが貼られてたんです」

「その人物に似ていた、と」

「はい。…いえ、あの、顔がとかいうわけじゃなくて、印象が、ということです」慌てて彼女は弁解し出した。濡れ衣を着せるような真似をしていると気づいたのだろう。「彼には申し訳ないけれど……とにかく、とても美しいところが……」

「美しい獣」

 不意に響いた声に、刹那、室内が静まり返った。前衛映画のワンシーンのように、奇妙な静寂が緊張を作り出す。…黙って部屋の隅に立っていたルイ=マリーが、片方の瞼を器用に眇めた。黒檀のような色がぎらりと光る。

「……続けてくださいよ」

 他意はない、というようにルイ=マリーがかぶりを振った。赤い髪の房が灯火のように揺れた。魅入られたようになっていた女は、はっと息を吸い込むと少し動転したように、エティエンヌとディディエのほうを向き直った。

「私、指輪の棚の反対側に回り込んでたんです。入り口に向かい合うように…わかりますか、こう…ガラス張りなので、後ろからも見えて。指輪の裏に文字が彫ってあるデザインがあって、それを見たかったんです」

「そこは、地下貯蔵庫の扉があった棚の裏ですか」

「はい。反対側に回って、床に扉があることに気づいて…うちの台所みたいだって思いました。きっとここは民家を改装したのねって……」

 女はここで少し前のめりに俯いた。首筋の強ばりに気づき、ディディエはエティエンヌに目配せする。「思い出したくなければ、無理をしないでください」意図を汲んだ彼は優しく声をかける。女性は生真面目に首を横に振った。前髪が揺れた。

「店員さんが、店の奥に入ったので、指輪のケースの近くには私ひとりになって。入ってきたドレスの人は、時計売り場のほうにいました。私は…」彼女はそこで机上の見取り図を示した。「ここです。ここにいました」

 エティエンヌが示された場所に印をつけ、注意深く続きを促す。

「その人が来て、五分かそのくらい経った頃に――ガラスが割れるすごい音がして、前の通りで事故でも起きたのかと思ったら……時計売り場のほうで女性の悲鳴が聞こえました。そしたらすぐにまたものすごく大きな音がたくさんして、ヘリコプターのプロペラみたいに、花火みたいな音が途切れずに続いていて、何が起きてるのかわかりませんでした」ドレスを着たあの人が、棚のところに立っていて、黒い鞄を抱えてるように見えたんです、と言いながら彼女は首を振った。「でもその人の向こう側、棚の奥の壁に店員さんが…時計担当の男の店員さんが張りついて、何か叫ぼうとしたときに……」

 そこで女性は激しく震え、俯いた。「頭が……」

 エティエンヌが、看護士のようにそっと白い手を肩におく。「無理はなさらないで」

 ディディエは手元の資料に目を走らせた。犯行当時の様子が事務的に記載された文章は、それでも凄惨な表現が連続する。死体は客と店員合わせて八人、店舗の壁や床は弾痕と血と砕けたガラスに覆われ、市街戦の後のようになっていたという。

 美容師が嗚咽を漏らしだしたことに最初に気づいたのはエティエンヌだった。

「私、怖くて、ひとりで隠れたんです。強盗だ、って思って無我夢中で……鍵がかかってるかもなんて思いもしなかった。パニックだったんです。咄嗟に把手を引いたら開いて……私、自分だけあの床下に隠れたんです」

「それは当然のことですよ」エティエンヌは彼女の手をとる。幼い頃から隣人愛を教えられた善良な人間だけができる仕草だった。「おかげで、あなたが生きていてくれてよかった」

 女は小声で謝った。誰に謝っているのか、相手は自分の生を苛む記憶の亡霊だろうか。

 ディディエはその様子を見つめていた。女は押し寄せる記憶の波に溺れかけている。焦点を合わせて思い出す前には、記憶の暴力性というのは予測できないものだ。

 止めさせよう、と判断したのと同時に、女はまた気丈にも口を開いた。しかし肩の震えは抑えきれなくなってきている。

「床下は思ったよりは浅くて、段ボールが奥の方にあったけど、そんなに狭くなかった…というより、落っこちるみたいに中に入って蓋…扉をおろしてから、ずっとしゃがんでいたから、……音が止んでも、怖くて……ずっと床下にいました。いつ、扉が開くか…もしかしたら、扉ごと撃たれるか……。鞄みたいなのは、機関銃でした。犯人は、人を…人をいきなり撃ったんです。宝石が目当てじゃなかったんじゃないかって、思って……殺される、って」

 彼女が堪えきれずにしゃくりあげ始めたあたりで、エティエンヌに「終わりだ」と耳打ちをする。頷いた彼が女を慰めながら、カウンセリングの手配を上に掛け合うと伝えていた。ディディエは息を吐く。…火薬と血の臭いがする記憶は、どんなに時が経っても薄れることはない。まだ若く、恋人もいる女性がその傷を抱えて生きていくことを思うと、胸が悪くなった。

 女性が出ていくとき、壁に凭れていたルイ=マリーが、片目を薄く開いた。

 扉を出た彼女は、そこで、ふと――無意識に、まるで何かに魅いられた人間が息を洩らすように、本当に小さく呟いた。

「あの人は、とても恐ろしかった。……けれど、本当に美しかった」




 戻ってきた三角形の部屋の真ん中で、三人の男はそれぞれの仕事を始めた。といっても、概ね調書の確認と資料の裏付けだが。

 現場に残されていた弾丸と薬莢から割り出された銃器――複数種類あった――をリストアップしながら、ルイ=マリーがふと口を開いた。

「ルイ=アベルってのは、俺でも名前は知ってますよ。顔は知りませんでしたけど」

 証言から得られた犯行当時の様子を、過去との類似点において調べていたディディエは黙って片眉をあげた。およそ芸術的なことに縁の無さそうなこの部下が、気鋭のピアニストの名を知っていることに驚いたようだ。勤勉なエティエンヌは、三角形の部屋の段ボール箱をひとつ開けて、何かファイルを探って、手早く一枚のポスターを出してきた。見れば、どうやら美容師の言っていた「近くであったコンサート」のポスターのようだ。二人が顔を寄せて一緒に覗き込む様子は、まるで雑誌を読む学生のようである。

 ポスターには、十代半ばほどの少年が、気だるげにピアノの前に腰掛けている写真が印刷されていた。

 思春期の危うげな薄い体に黒いタキシード。タイの代わりに、プロシアの鉄のペンダントで襟をしめ、花の茎のように細い首を際立たせたスタイリストは、彼のあまりに人形的な美にとり憑かれたに違いない。……混血の、闇の瞳……。その横顔はつめたく、あまりに美しく、すべてを突き放す月のような白さだった。膝をついて乞われてもけしてこちらを向かない猫のように、残酷さを秘めていた。

 しばらく口を閉ざしていたルイ=マリーは、切れ長の目を瞬かせて息をつく。その瞳の黒は、実のところ、写真のなかの一対と、とてもよく似た色をしていた。…

「これは印象に残りますね」

 ルイ=マリーは、写真の肩に流れる黒い巻き毛を指で弾き、軽くかぶりを振った。エティエンヌはポスターを元通りファイルに戻しながら肯定の頷きを返した。

「どこまで似ているかはわかんないけど、少なくとも人並み外れた見かけなことは間違いない。

 ……やっぱりパトロン・ミネットじゃあないですか。黒髪巻き毛の美しい殺人犯、現代に甦りしモンパルナス……」

 ディディエは調書を読み返しながら緩慢に相槌を打つ。「こいつはなんとも奇妙な符合だな。お前がユーゴーをきちんと読んでいるのも驚きだが」

「こう見えて俺は読書家なんですよ」得意げに自分の机を指したルイ=マリーの指の先には、アポリネールの"カリグラム"と、ラフォルグの"聖母なる月のまねび"が、大分コーヒーや紅茶の修飾をたまわって、今にも雪崩れ落ちそうな書類の上に積み重なっていた。その惨状に眉間を揉みながら、「お前が象徴主義者だとは知らなかった」と返せば、ウインクを飛ばされた。

「ドレスを着ていたのなら、シュヴァリエ・デオンかもね」彼にしてはくだけた口調で、エティエンヌがルイ=マリーに話しかける。エティエンヌはにやっとして、尖り気味の舌先を軽く出し「竜騎士隊長なんて御大層なもんじゃないでしょ。サドやらヴェルレーヌやらのお仲間ですよ」と肩を竦めた。エティエンヌもほんのわずかに苦笑する。

「うーん……何にせよ、異性装は罪ですからね」ディディエに向けたのか、普段の丁寧な言葉遣いに戻したエティエンヌは、二人の会話をよそに書類作成に没頭しかかっていた義兄に提案した。「ルイ=アベルのことは……」

 ディディエは顔をあげる。眉間に皺を寄せ、考えながら(間をとるように)軽く舌を鳴らした彼は、腕組みをして低く呟いた。

「……一応、連絡はとってみるか」

 エティエンヌは「家に向かいますか」と言ったが、ディディエは手を振って「電話だけでいいだろう。あの男がそんなに犯罪に興味があるようには思えない」

 二人のやり取りを聞いていたルイ=マリーは驚いたように黒い瞳を目を瞬かせた。「お二方、ルイ=アベル氏をご存じで」

 ド・ピスターシュ家の義兄弟は、それを聞いて、多少気まずそうに視線を合わせ――結局ディディエが口を開いた。

「再従兄弟だ」

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