Le triangle -'36'

しおり

第1話

 クー・ド・グラース。

 直訳すれば慈悲の一撃、意味するところは、助からない者の苦しみを楽にしてやるためのとどめの一撃、というところだろうか。

 デスクに広げられた新聞に踊る見出しには白昼の宝石店襲撃の文字、手元の書類には同じ事件を扱った、もう少し事務的で詳しい文面が綴られている。そしてその双方に掲げられた文字。――Coup de grâce,"クー・ド・グラース"。

 パリ、シテ島のオルフェーヴル河岸36番地――通称「36」、パリ警視庁。

 初夏の陽をうけるセーヌ河の畔、白い砂の薔薇のように瀟洒なネオフィレンツェ様式の建築の内部、とある一室。

 犯罪捜査に駆け回る警察官たちが置いていく荷物や書類や雑多なもので、四角かったはずの部屋は狭まっていき、今は奇妙な三角形の空間になりつつある。三角形の形に合うように机をより集めた、浮き島のごときその中央。

 三人の男が三者三様の格好で、手に持った書類を読み耽っていた。

「三人組の強盗団、ね」

 そのうちの一人――ルイ=マリー・アルエは、捜査資料を放り投げ、三角形に剥げたボロ布の座面の椅子にそっくり返った。炎のような真っ赤な長い髪が、これまた三角形の背もたれの上で揺れる。

「現代のパトロン・ミネットってとこですかね」

 傍らに立っていた黒髪の男、ディディエ・ド・ピスターシュは眉をあげて返した。「ありゃ四人だろう」

「三銃士だって四人目がいるでしょう。奴らにもダルタニャンがいるかもしれませんよ。…」

 ルイ=マリーの声を聞き流し、資料を丹念に繰りながら、ディディエは舌を鳴らした。少し影のあるハンサムな顔立ちが歪む。

「他に協力者はいないんだな」

 室内の三角形の一頂点、戸口に近い位置に姿勢よく立っていた金髪の若者――エティエンヌ・ド・ピスターシュが頷いた。「この世に、という意味ならば」

 ディディエはため息をつき、ウェービーな前髪をかきあげながら資料を机に置いた。

「こういう手合いは、居場所を突き止めたと思えばセーヌ河の底だからな」

「彼らの犯行と推定される過去三件の強盗殺人……協力者と目された人間の遺体は全員確認が取れています。今回の襲撃に関わったと目されていた男の遺体が、今朝ジュヌヴィリエの倉庫近くで発見されまして」エティエンヌが別の書類を繰りながら美しい発音で告げる。ルイ=マリーが皮肉げに、尖った糸切り歯を少しだけ覗かせた。

「こりゃ俺たちにお鉢が回ってくるわけだ。とことん物騒な話ですね」

 ディディエもどこか苛立たしげに前髪を整え、鋭い視線でちらりと廊下を見やった。複雑な色合いをしたヘーゼル・マーブルの瞳と、不機嫌な表情がよく映える横顔に、エティエンヌは控えめに、恐る恐るという視線をやる。

「うちの主任は、俺たちを機動捜査班と間違えてないか?」

「申し訳ありません……」

 エティエンヌが生真面目に謝った。その淡い金髪を、彼の直属の上司たる男から賜った捜査資料で東洋の扇子のようにあおぐ真似をして、ディディエは軽くかぶりを振る。「お前のせいじゃないだろ」

 生真面目そうなおもてで、エティエンヌはただ俯いた。垂れ落ちた細いさらさらした金髪が、その淡い翠の瞳と整ったかんばせを隠す。

 ディディエ・ド・ピスターシュ、エティエンヌ・ド・ピスターシュ。同じ苗字を持ち、同じ職場で働くこの二人は、義理の兄弟だ。十代の少年のような、貴族的で美しい金髪の義弟と、刃のように鋭い目をした美丈夫たる、黒髪の義兄。署内では当然のごとく有名な関係だったが、その詳しいところを訊ねようとする者は少なかった。

「でも、物騒な人殺しってだけならまだしも、強盗なんて俺たちの班の管轄じゃなくないですか」ルイ=マリーは、椅子の背もたれに顎をのせられる体勢に座り直して、問いかけた。「どっちかっていうと、こういうのはモレル班じゃ」

 同じ犯罪捜査科、同じ主任警部の管轄とひとくくりにしてはあっても、それなりに分担ができてくる。主に指揮を執る人間の名字で呼ばれるチームが生まれ、それぞれ得意とする案件が少しずつ異なっていた。

「実は、今回の被害者のひとりが、―――でして」

 現職の大臣の名をあげたエティエンヌに、資料を読んでいたディディエが呻く。「……なるほど」

「何がなるほどなんです?」

「お前もう少し脳みそを使え。呼吸したら酸素が余るんじゃないか」

 上司のひねりのきいた皮肉もどこ吹く風で、ルイ=マリーはディディエとエティエンヌを交互に見やる。屈託なく教えてくださいと言ってくる目線に、ディディエは結局ため息をついた。

「強盗を装った暗殺かもしれないだろう」

 なるほど、とルイ=マリーは指を鳴らそうとしたが、湿気ったマッチのような音しか出なかった。「そいつはがさつなモレル班には任せられませんね」

「お前にも任せられないがな」

 慣れた応酬に、ルイ=マリーはにやりと口角をつり上げた。まだ学生のような白いかんばせの中で、笑うたびに覗く尖った歯や、切れ長の珍しいほど黒い瞳が、一瞬狼のような気配を帯びる。――ディディエはこの、義弟と同い年の後輩のもつ、奇妙な獣じみた雰囲気に、わずかだけ飲まれそうになることがある。常日頃から見せるわけではなく、ふとしたときにとばりの向こうから見え隠れするようなそれ。

「……まあいい。とにかく、やるなら早いところ取りかかろう」ディディエはルイ=マリーから視線をそらして言った。はあい、と気の抜けた返事が飛ぶ。「ルイ=マリー、明日ジャックとマティスが戻ってきたら指示を出すから、それまでは必要な情報を頭に入れておけ」

「先輩の言う"必要な情報"って、プルーストより大量じゃないですかぁ」

「四の五の言うな。資料口に突っ込むぞ」

 ディディエはあながち冗談でもなさそうに資料を折り畳み始めたので、ルイ=マリーは口許を押さえながらひきつった笑顔を見せる。「はいはい、了解ですって。口が過ぎましたよ。ねえ?……」助けを求めるように、黒葡萄めいた瞳がエティエンヌのほうへ滑ると、人の良い彼は微笑んで「ディディエ、あなたのその捜査方法が有効なことはルルーだって充分に解っています。今まで何度も成果をあげていますからね。今回の担当だって、上司にあなた方の功績が買われているのだと思いますよ」と、貴族的な社交術――即ち強引な称賛――によって場をとりなした。ディディエは頼られると弱いお人好しの義弟に物言いたげな目を向けてから、結局黙って丸めた資料を開いた。

 ディディエが指揮を執る班――通称ピスターシュ班――は、彼の癖である執拗な過去資料との照会や関連事項の調査によって、突発的な犯行と思われていた事件から、思わぬ糸口をつかむことが多い。先だって起きた浮浪者殺人事件から、組織的な麻薬密売の一端を辿ることができた功績を評価されたのだろう。

「上からの指示は――まあ"自由にやれ"と解釈するとして、今うちの班員は出払ってるんだが、増員は無しか?」

「今回、わたしもこちらの班に入ります」兼任ですが、とエティエンヌは控えめに手を挙げた。ディディエは微かに笑う。「ド・ピスターシュが二人か。どっちが班長だろうな?」

 わかっているでしょうと、義弟には柔和な微笑で返される。ルイ=マリーが「エティエンヌですかね」と元気よく発して、頭をファイルで叩かれる。

「先輩は俺の頭をサンドバッグか何かと思ってませんか」

「馬鹿言え、サンドバッグならもっと丁寧に使ってる」

「あのう、二人とも……」

 三角形の二角が角を付き合わせるたびに困った顔をするエティエンヌに、さすがに申し訳ないと思ったのか、ディディエもルイ=マリーも口をつぐんで机上の紙の海に向き直った。

 "強盗団クー・ド・グラース"。

 芝居がかった大仰な見出しが伝えるのは、謎の犯罪者集団の存在だ。此度の宝石店襲撃事件の実行犯として、警察以外にもメディアがリークしたらしい。

 パリではここ一年ほど、数ヶ月おきに発生する店舗の強盗銃撃事件が騒ぎになっていた。最初はパリ警視庁―「36」も、それぞれが独立した突発的な事件と見て捜査にあたっていたが、比較的初期にその見立てに疑惑が生じた。それは現場に(恐らく意図的に)残された多くの要因からだが――そして、今回の件で、以前から薄々疑われてきた同一組織による犯行という線がほぼ確定した。なぜなら――

「犯行声明、と見てとっていいのでしょうか」

 現場写真を掲げ、エティエンヌは首をかしげた。

――我々はすべて"好ましからざるもの"である。

 写真には、まるで戦時中の廃墟のような弾痕と汚れ、恐らく幾人かの血飛沫、破れたポスターに混ざって、巨大な鈎爪で引っ掻いたような文字が刻まれた壁が写っていた。そしてその文字の下に、小さく――今度は誰かの血で――Coup de grâceと書かれていた。

「この血液は複数の被害者のものと思われます」

 鑑定結果を確かめてディディエは顔をしかめた。「最低のインクだ」

「彼らがこのように署名を残していったことは初めてなのですが、――」エティエンヌの説明を聞きながら昔の事件の写真をめくっていく。銀行、レストラン、それぞれ別の、壁に抉られた傷と弾痕の残る現場。横合いからルイ=マリーが覗いてくるので、見終わったものから渡してやる。

「保管庫の資料をとりあえずすべて持ってきました。ディディエ、あなたなら把握していそうですが――」エティエンヌはそのうち数枚、銀行とレストランの写真を指差しながら言う。「これらは十中八九彼らの犯行ですが、クー・ド・グラースの文字はありません」

 自分の目ですべての写真を確認し終わったディディエがやっと頷いた。「確かに、無いな」

「でも、こいつら前々からこんなことしてたんてすね」立派なテロリストだ、とルイ=マリーは机に足をかけて椅子を揺らした。

「この間検挙した売春宿の――」こんな単語を口にするときでもエティエンヌは詩を朗読するように優雅だが、その耳朶が微かに紅潮した――「娼婦と、その情人の麻薬密売の取引相手を追って聞き込みをしていた際に――」

「つまり、奴らの裏社会での通り名がわかったんだろ」丁寧に記載された内容をすべて読もうとするエティエンヌに、ディディエは肩を竦めた。はなから資料を読むことを放棄しているようなルイ=マリーは、へえっと素直な声をあげる。エティエンヌは目で肯定すると、指を三本立てた。

「少なくとも、この"強盗団"は、一年より前、二年よりあとに活動し始めたようです。彼らの中核は三人。それぞれ通称は――」

 三人の目が最新版の資料に向けられた。そこに踊る三つの単語を、それぞれの色彩が追う。

"カリカチュール"

"エスプリ"

"シャリバリ"

「……随分大層だな」

 マガジンラックを眺めているような顔つきで、ディディエは呟いた。ルイ=マリーが頭の後ろで手を組み、「少なくとも、この呼び名からはどんな奴らかはちっとも分かりませんね」

「エスプリは頭脳担当じゃないか」

「先輩って短絡的って言われません?」

「神に誓ってお前よりマシだ」

 またも鍔迫り合いを始める二人に、エティエンヌは続きを話していいのかな、どうしようかな、という曖昧な微笑を浮かべる。――普段の光景だ。

 彼らは、パリ警視庁犯罪捜査班のなかでも際立って若い集団であり、とても目立つ存在でもある。部屋の外を通った警官が、相変わらずの様子を見てからかいの声をかけたのを機に、ディディエは空咳をして、エティエンヌに続きを促した。

「これまでの事件では、その場に居合わせた人が皆殺しにされていたので、詳しい状況がわからないままだったのですが」ディディエの持っている過去の資料に目をやりながらエティエンヌは申し送り事項を読み上げる。ディディエは複数のファイルを開いて適切な内容を拾いながら、長い事務的な文章を読むのに時間がかかるルイ=マリーのために簡潔にまとめ直したメモを作ってやる。

「今回は生存者がいまして」

「生存者、ねえ」

 災害みたいな言われようだな、とディディエは呆れて首を傾けた。

「床下にある地下貯蔵庫に隠れたそうです。…もう少し遅ければ、あたりの壁と一緒に蜂の巣でしたね」エティエンヌも、ぞっとしないという様子で現場写真をみる。それは歴史の授業でホロコーストの記録を見せられた学生に似た表情だった。ルイ=マリーだけが、少し遅れて写真を覗き込み、ふうんとつまらないゴシップでも眺めるような顔つきで目を細めた。「蜂の巣っていうよか、これあれですね。エメンタールチーズ」

「やめろ、今日の朝飯だ」

 にっこりとにやりの中間くらいの笑みで指を鳴らした(今度は成功した)ルイ=マリーは、「先輩、今晩一緒に晩飯いきましょうよ。チーズ料理なにか奢ってください」

「いい加減殴るぞ。あと俺は基本的に他人と外食しない主義だ」

 いつも殴るくせに、と口を尖らせるルイ=マリーに、気遣いの権化たるエティエンヌが「今度わたしとどこか行きましょうか」と声をかけているのを背後に聞きながら、ディディエはペンを取った。あまりに分厚いミルフィーユのようなメモ帳を片手に、「話を聴こう。どうやら聴取はまだのようだからな」ちらりと紙束を見る。

「ええ。…目撃者は、ええと…当日はショックを受けて病院にいましたが、もう今朝から自宅に戻っているようです。…わざわざ来ていただくよう、連絡したところで」

「そいつはご足労なことだ」ディディエは手早く机の上を整理して、時計を見る。「エティエンヌ、付いてきてくれ」

 物わかりのよい義弟は頷き、すぐに半歩後ろについた。その隣で、飼い犬のようにのんびりとルイ=マリーが挙手する。

「せんぱーい、俺も行った方がいいですか」

「お前はいい」

「なんでですか! 先輩の後輩はこの俺ですよ!」

「自分でわかるだろ」

「……はぁい」

 存外従順に椅子に身を沈めたルイ=マリーは、しかし不満たらたらという顔つきで机に顎をのせて「ふーんだ。今度上から聴取の仕方が悪いって怒られたらぜーんぶ先輩のせいにしてやりますからね。先輩が俺をのけ者にして教えてくれないからって言ってやりますからね」と聞こえよがしに――というか大声で――言い出した。つかつか大股で戻ってきたディディエが、その頭を思いきりはたいた。

「痛ぁっ」頭と顎を押さえて苦しむルイ=マリーに、ディディエは「俺は学ぶ気がある奴にしか教えん。何べん言ってもやり方を正さないのはお前だろう」とちょっとだけ大人げなく怒り出した。ルイ=マリーは不服げに赤毛を揺らしながら「先輩と同じやり方なら先輩がやればいいんですよ。片方が空からいくなら、もう片方は海からいくべきでしょう」「本当に減らず口だけはよく叩くな。次から本気で口のなかに物を詰めてやろうか、七面鳥みたいに」

「あの!」

 常にない大きな声に、ディディエとルイ=マリーは驚いて、揃って声の主の方をみた。

「……わたし、あなた方が仕事をしていないなんて思ったことはありません。職務中、私語を禁止するべきだなんて思ったこともありません。ディディエなんて、ルルーにお説教をしながら誰より早く書類をあげることも多いですし……」ただ、とその伏せられたピスタチオ・グリーンの瞳が、不意にエメラルドのように鋭く光った。

「何事も過ぎたるは及ばざるがごとし。

 時間は有限です。お二人とも」

 春の訪れと同じくらい、有無を言わせない強さのある目で見つめられた二人の警察官は、直ちに黙って仕事に取りかかった。

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