7話 朝霧家の朝は騒がしい
…………曖昧に揺らぐ意識の中、けたたましい騒音が鳴り響く。
半開きの瞼から広がる視界へ差し込む光に招かれて、その光源に手を伸ばす。掴んだ四方系の物体の表面を指先でスライドすると、振動と共にデフォルトのアラーム音は停止した。
携帯の画面上に映る時刻は午前4時30分。代り映えのない光景を前に一日が始まったことを実感しつつ、ベットから体を起き上がらせた。
部屋の明かりを点け、寝間着から事前に準備していた運動着へと手早く着替える。再び部屋の明かりを消してから自室の2階から1階へと階段を下りていき、リビングを介さず玄関へと向かった。
玄関から外に出た俺を迎え入れたのは爽やかとは言い難い、じめじめとした蒸し暑さだった。薄明の空に浮かぶ満月は既に朧気になり始めていて、街灯に頼らずとも地続きに並ぶ家々はその輪郭を取り戻し始めている。
軽く全身を伸ばし、深呼吸して僅かに残っている眠気を体から追い出していく。そして準備が整ったところで、日課のランニングを開始した。
早朝の住宅街を歩く人々はほとんどおらず、稀に散歩しているご老人を見かける程度のものだ。コンクリートの歩道を踏み鳴らす単調な足音に耳を傾けながら慣れたコースを走り抜けていくこの瞬間は、目覚めたばかりで
――――そうして日課のコースを走り続けること15分。ランニングを終えて家に帰りついたところで汗ばんだ体をシャワーで洗い流す。その後は脱衣所に用意していた制服へと着替えを済ませ、身だしなみを整えた頃には時刻は5時30分を過ぎたところだった。
乾ききった喉を水で潤したら手早くエプロンを身に着け、休む間もなく朝食と弁当作りに取りかかった。
まずは揚げ物用の油を温度調節している合間に、昨日の内に下処理を済ませて保存しておいた鮭を人数分取り出しグリルで焼いていく。次に卵をボウルに出して手早く溶きほぐしたら別に用意したボウルへこし器を通して移し、砂糖に醤油、みりんと白だしを少々ずつ加えてかき混ぜる。
フライパンを予熱しつつ唐揚げ用の鶏もも肉を準備、用意していた油で順番に揚げ始める。そして予熱を終えたフライパンに卵液を数回に分けて流し込み、焼き終えた物は一度受け皿の上に並べていく。冷ましているうちに焼き終わった鮭と順番に揚がっていく唐揚げを回収、これらも同様に数分間放置する。
作業の合間合間で生まれる待ち時間を利用して副菜の準備に取りかかる。といいつつも昨晩の残り物や作り置きを流用するため、後は盛り付けをするだけの単純作業だ。
今日のメニューはごぼうとレンコンのきんぴら、小松菜とベーコンのソテー、ひじきと枝豆の佃煮に塩漬けキャベツ。冷まし終えたお惣菜はそれぞれ一口サイズに切り分けて、それらを用意された弁当箱に詰め込んでいく。
風呂敷に包んだら朝食の味噌汁を電子レンジで温めようか――――と考えていたところで、玄関先の方から階段を下りる音が聞こえてくる。ドア越しに薄っすらと見える人影はこちらに近づいてきて、足音が聞こえなくなると同時にゆっくりと開かれた。
「………ぉはよ、ぉにいちゃん」
2階から降りてきた
「おはよう、今日はいつもより早いな」
「……なんか、昨日はあんまり寝付けなくて。暑かったからエアコン、つけちゃったし…………ふわぁ」
欠伸しながら不意に立ち止まったかと思いきや、涼音は溶けるようにその場で座り込むとそのまま丸くなってしまった。さながら斬新な土下座でもしているかのような体勢である。縮まった体勢のせいでインナーが上にずり上がってしまい、背中から脇腹までの下腹部が無防備に晒されてしまっていた。
「寝不足なのはわかったから床で寝るな。あと、体冷やして風邪ひく前にさっさと着替えろ」
「一度にそんな、たくさん言わないでよ……マルチタスクなんて、嫌い……むにゃむにゃ」
そう呟いて涼音はそっぽを向いてしまい、ピクリとも反応を示さなくなってしまった。やれやれと内心ため息を吐きつつも、いつものことなのでそれ以上は構わずに作業を再開する。
涼音が早起きしてもだいだいこのパターンに陥るのは最初から織り込み済みだ。これに付き合っていたらいくら時間があっても足りやしない。どうせしばらくしたら思い出したように起き上がるだろうし、二度寝していたら叩き起こすまでのことだ。
深く語るほどのことでもないが、
とはいえ外に出ることが嫌いというわけでもなく、ふとした拍子に都市部の方まで電車で出かけているなんてことも珍しくはない。休日のアクティブな過ごし方というやつを俺なんかよりもはるかに熟知しているといえるだろう。
最近だと年相応におしゃれや身なりに気を遣うようになり、つい先日、母が美容院に連れて行った時には髪を染めたいと執拗に迫っていたらしい。そういうのは高校生になるまでお預けだ、ということで母には断られてしまい少々ご機嫌斜めになっていたが、渋々納得しているようだった。
もっとも、今の時点でも私服で街を出歩けば一目で中学生だとわからないぐらいには垢が抜けていると思う。中学校に入ってから身長は著しく伸びたこともあり、女子の一般的な平均よりは高く、中学1年生の頃は部活でバトミントンをやっていたから体もある程度は引き締まっている。髪を染めていないだけでそれ以外のおしゃれ要素には着実に手を出しているため、高校生へ進学する頃には女の子らしさに磨きがかかることだろう。
それ自体は大変喜ばしいのだが、兄としては悪い虫にたかられてしまわないか気がかりではある。涼音はそんなに安くはないし騙される心配はないとわかってはいるものの、こればかりは気にかけてしまうのも仕方がないというやつだ。
そうこうしているうちに朝の準備も大詰めに差し掛かろうとしていた。弁当のお惣菜は全て完成し、テーブルにはご飯とお味噌汁、弁当のために用意した鮭の塩焼きに卵焼きと朝食としてはオーソドックスなラインナップである。
「……んんっ。おさかなさんのいい匂いがする~」
丁度いいタイミングで目が覚めたのか、涼音はむくりと前のめりに倒れていた上半身を起こすと、ぐーっと反るようにして体を伸ばしていた。無防備なその姿に呆れつつ、涼音に呼びかける。
「匂いにつられるなんて、お寝坊な猫さんがいたもんだな。お茶と水、どっちがいい?」
「んー、お茶がいい。喉カラカラだから、いつもより多めでよろしくにゃ~」
「はいはい、少し待ってろ」
保冷剤と一緒に風呂敷に詰め終えた弁当を仕分けした後、棚からグラスを取り出して要望通り少し多めにお茶を注ぐ。そして席についていた涼音の前に持っていくと、『ありがと』と言ってそれを受け取り、そのまま一息に呷った。
「――――くはぁ~、生き返る~。まだ梅雨入りもしてないのにこの暑さなんだからやになっちゃうね。おにいちゃん、今日も走ってきたんでしょ? 毎日サボらずによくやるよね~」
「もうとっくに慣れてしまってるからな、ここまでくるとサボるほうが違和感ある。たまには涼音も朝から走ってみたらどうだ?」
「えー、やだよ。走るのは嫌いじゃないけど、朝からは勘弁してほしい。汗だくで一日中過ごすなんてありえないし」
「確かにそれは嫌だな、走った後でシャワーも浴びずに登校なんて気が引ける」
こと電車通学をしている身としては、汗対策は絶対に欠かせない要素だ。特に夏場の満員電車なんてある種の地獄絵図みたいなものだし。生涯あの空間に向き合わなければならない可能性は十二分にあると考えると中々にしんどい。
「そうそう。それにおにいちゃん、お風呂の時間長いんだもん。シャワーだけっていうけどリビングに出てくるまで30分くらいかかってるし、その後で入ろうとしたら確実に朝の時間足りなくなるよ? あ、時短のために一緒に入るってことなら考えなくもないけどね?」
「シャワーも湯船も一つしかないんだから変わらないだろ……そもそもうちのお風呂にそんなスペースはないしな」
「お互い小学生のときは一緒に入ってたんだし、案外余裕じゃないかな? なんなら今度試してみる? 部活辞めたからって見せられないような体してないし」
首を傾げながら涼音はさも当たり前のように言い切ってみせる。相変わらずの切れ味で反応に困るが、こういうやり取りをするのもよくあることだ。それはそれでどうなんだ、という点については弁解のしようもないけれど。
「……そういう問題じゃないんだが。とりあえず、冷めないうちにさっさと食べてしまってくれ」
「はーい。いつも美味しいごはんをありがとうね、おにいちゃん」
「そういうセリフは俺じゃなくて母さんに言ってやれ」
台所も粗方片付いたところで俺も席に着く。そしてお互いに両手を合わせてから、箸を手に取った。
「あ、それで思い出した。今日はお母さん、仕事お休みなんだって。だから朝ごはんはラップしておいてくれってさ」
「そうだったのか? 昨日の夕飯の時、明日も朝早いってぼやいていなかったっけ」
「そうそう、でもその後で会社から電話があったみたいでさー。予定より残業してるのと有給使えって苦言を呈されたらしくて。で、明日はそこまで人手が必要じゃないからって急遽休みを取ったんだって。お母さん、多分昼過ぎまでは起きないと思うよ?」
「なるほどね。じゃあ、今日は一日母さんは家にいるわけか。家事の分配については何か言ってたか?」
朝霧家の家事全般はそれぞれ役割分担している。料理や皿洗いなどの台所回りは俺、風呂掃除と洗濯は涼音、そしてリビングや玄関周りの掃除は母が担当している。あくまで大まかな割り振りでしかないため、その日の気分であったり予定が合わなかったりして受け持ちが変わることはそう珍しくなかった。
「んーとね。夕飯はお母さんが作るから、帰りは遅くなっても大丈夫だって言ってたよ。それ以外は特に聞いてない」
「了解。といっても、用事があるわけでもないから直帰するだろうけど」
「そう? それならおにいちゃん、久しぶりに勉強教えてよ~。最近モチベがあがらないんだよね」
箸で鮭の身をほぐしながら涼音はどんよりと肩を落としている。
「それは構わないが……何の教科を教えるんだ? 中間テストの範囲ぐらい、涼音ならどうにでもなるだろ」
「おかげさまでね。でもさ、学校でそういう空気って出せないでしょ? ちょーっと周りと違うことやってるだけで調子乗ってるーとか意識高いねーとか……正直めんどくさい」
沸々とこみ上げてくる怒りを誤魔化しもせず涼音は口を尖らせていた。何かなだめるような言葉をかけようかと少し迷ったが、結局いつもの持論を口にする。
「……まぁ、 “みんなに合わせる" のはそういうもんだ。波風立てたくないなら相手にしない方が賢明だぞ」
「だよねぇ……というわけで、おにいちゃん。可愛い妹はストレスが溜まっているので、今日は毒を吐かせてください。ついでに何かご褒美も要求します」
「ついで感覚で増やすなよ。プレゼントを要求していいのはサンタクロースだけだって教わらなかったのか?」
「うちには神様もサンタさんもいないんだって、おにいちゃんに言われて号泣したことなら覚えてるけど?」
軽はずみな冗談に対して涼音は満面の笑みでカウンターを繰り出してきた。普通は泣きじゃくった姿なんて忘れてしまいたいだろうに躊躇いなく引きずり出してくるあたり、流石はわが妹、いい性格をしている。自爆前提であろうと相手に致命傷を与えられるなら切り札としては悪くない。
涼音が小学校低学年のとき、買い物に出るたびにあれもこれも欲しいとねだるものだから、鬱陶しいとついそんなことを言ってしまったのだ。当時の俺を振り返れば、妹相手に心の狭い奴だなと呆れてしまう。結果として素直に信じた涼音は外出先で号泣、駆けつけた父と母に何があったのか問い詰められ、散々叱られたのだった。
「…………わかった、帰りに寄り道して、美味しいスイーツでも買ってくるよ」
昔の記憶にグサグサと背中から刺されるような感覚を微笑みで誤魔化して、潔く白旗を上げるのだった。
「ほんと!? それならご褒美は生チョコがいいなぁ、味はミルクのやつね」
「指定するならプレゼントじゃなくてただのパシリじゃねぇか……買うのはそれ一つだけだからな?」
「やったね。流石わたしのおにいちゃん、話がわかりますなぁ」
楽しみができて元気が出たのか、涼音は嬉々として肩を揺らしている。
しかし、美味しいスイーツか……自分で言っておいてなんだが、バイトをしておらず月一のお小遣いだけを頼りにするには中々にハードルが高い。ご要望の生チョコレートを買うとなると、松籟高校の最寄り駅である松籟高校前発の電車から途中下車しなければならないが、それぐらいの手間で英気を養えるというのなら安いものだ。
それはそれとして、金銭の問題がなくなるわけではない。普段から日用品以外でお金を使うことはないから一度や二度で痛手にはならないが、何度も繰り返していてはあっという間に底を尽きてしまう。
物で釣るのはそこそこで控えておかなければと戒めつつ、食べ終えて空となった食器に再び両手を合わせた。
時間には余裕を持たせているが、もたついているとすぐに7時を迎えてしまう。食器類を速やかに片づけてしまい、いつでも出られるよう自室に置いたままの鞄を取りに行く。部屋を出る前に忘れ物がないか確認して、再びリビングに戻った。
「あ、ごめんおにいちゃん。テレビの前にバレッタ置いたままだったから取ってくれない?」
「ん? わかった、ちょっと待って――――」
戻った直後に涼音から呼びかけられ、言われたとおりテレビの前にあるテーブルの上に置かれたバレッタを取りに向かおうとしたところで――――あられもない姿でいる涼音が視界に飛び込んできた。
先程まで来ていたインナーとルームパンツは足元に脱ぎ散らかされていて、薄水色の下着を身に着けているだけの状態で立っている。先のような下腹部に限らず、手足から腰のくびれ、首筋に至るまでその柔肌が惜しみなくさらけ出されていた。
「……あのな、いつも言ってるだろ? 着替えるなら部屋に戻れって」
「いいでしょ別に。あいつがいない時は制服とか鞄は一式玄関先に置いてあるし、いちいち部屋に戻るのめんどくさいんだもん」
「だったら洗面台の方で着替えればいいだろ……」
「ドア閉めたら暑いからパース。そんなに見たくないなら、おにいちゃんが見なければいいんだよ」
もはや何を言っても無駄なようで、涼音は悪びれる様子もなく着替えを再開し始める。ここで突っ立っていても仕方がないため、頭を抱えつつもテーブルに置いてあったバレッタを妹に手渡す。
「……まぁ、家の中で何しようが勝手だけどな。学校でそういう調子になって無ければそれでいい」
「当たり前でしょ? おにいちゃん以外に素を見せたりなんてしないし。 ……だからさ。おにいちゃんも私にだけは、取り繕わなくていいからね?」
そう言って遠慮しがちに微笑む涼音の表情はどこまでも優しく、ほんの少しだけ寂しそうに見えてしまった。
…………内側から心臓を抉るような痛みが、打ち込まれた楔はそう易々と抜けてはくれないのだと思い出させる。時間の流れによって傷口は塞がり、その存在を忘れそうになるけれど、ほんの些細な揺らぎでそれは決壊してしまう。
それは別に特別なことでも何でもなくて、語り聞かせるようなろくな話でもない。だから感傷に浸る前に蓋をして、いつも通りに賢しげな笑みを浮かべてみせた。
「……なぁに、俺はいつでもこんなもんだよ。やる気なんてどこかに飛び去ってるくらいがちょうどいい」
「えー、何それ? 最近ちょっと考え事してることが増えたから心配してあげたのに~。ほんと、しょうがないお兄ちゃんなんだから」
呆れたように肩をすくめながら、涼音は冗談めかすようにはにかんで見せた。
……妹に心配をかけるだなんて兄としては落第点だ。話題を変えようと目に付くものに意識を割いたのだが、そうなると目の前にいる涼音のあられもない姿を直視してしまうわけで。羞恥の気配すら感じられないことに思わず頭を抱えてしまいそうになる。
「ていうか、話す前にさっさと制服着ろよ。いつまで半裸でいるつもりだ?」
「――――っ。な~に~? 何だかんだ言って、やっぱり見てるんじゃん。見たいなら素直にそう言えばいいのに、おにいちゃんのエッチ~」
悪戯心に満ちた笑みを浮かべて、涼音はわざとらしく両腕で身を抱える。押し上げられて浮き上がった胸元のラインが、成長期真っ只中の膨らみを主張していた。
……涼音と同じクラスの男子どもが目にしようものならまとめて悩殺されることやむなしという格好だが、流石に妹に対してそういった劣情が生まれたりはしない。
「おまえなぁ……盛り上がってるところ悪いが、そろそろ急がないと遅刻するぞ?」
現実を突きつけるようにデジタル時計を指差す。画面に表示されている時刻はタイムリミットである7時までのカウントダウンを始めていた。
「あ、確かにやばいかも」
言うが早いか、即座に切り替えた涼音はそそくさと制服に身を包みボタンを留めていく。その勢いで瞬く間に身支度を済ませて、渡したバレッタで髪をざっくりと纏め上げた。
「ごめんおにいちゃん。電車の時間、間に合いそう?」
「心配しなくても余裕で間に合う、駅までは片道10分もかからないからな。仮にいつもの電車に乗り遅れても、この時間なら遅刻することはない」
「ならいいや。あ、帰りにご褒美のスイーツ買うの忘れないでね? 忘れたらおにいちゃんでストレス発散するから!」
「はいはい、わかったわかった。戸締りするからさっさと外に出ろ」
そんなこんなで朝から騒がしいやり取りをしつつ外に出て、間違いなく玄関の鍵を閉めたことを確認する。
「それじゃ、涼音。今日も気をつけてな」
「うん! おにいちゃんもいつも通り、ほどほどに頑張ってね~!」
お互いに見送りの挨拶を交わしてから背を向け合い、それぞれの通学路を歩きだす。
――――今日も一日、何事もなく過ごせますように。と、いつものおまじないを呟きながら。
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