君も、思い出すら、雪のようだった。

一片 綴

本文

「明日は来なくていいよ。大丈夫だから。約束だよ」


 そう別れ際に話す彼女は、静かに手を振り僕を見送った。

 僕には、大切な人がいる。いや、大勢いるが、その中でもとびきり輝く星のことだ。

 彼女は身体が弱く、病室で生活することになって久しい人だった。

 人前では笑顔を作るが、それでも本当は苦い思いをしていると知っていた。だから僕は、毎日こうして会いに行っている。

 だが、どうやら明日の彼女は僕を歓迎しないようだった。何かあるのだろうか——と思案を巡らせるが、しかし、深く詮索することはなく病室を後にした。

 自宅に帰り着くと、いつも通りにコンビニ弁当を温め、夕食を済ませる。今日もいつも通り、いつも通り、いつも通りの日常だ。

 食事を終えると、読書に没頭した。題を「執愛」とする小説は、僕の好きな作家、桐島雪乃の新作だった。

 幼馴染の少年と共に過ごすも、身体の弱い主人公の少女が病室を出られなくなり、少年と自分の住む世界が突然隔たれたように感ずる少女の儚い恋を描いたストーリーだった。

 ——どれくらいの時が過ぎたのだろうか、久々に時間を忘れていた。ふと時計を見遣ると、針は深夜の二時三十分を示していた。


「もうこんな時間か」と、最終章を目前とした執愛に栞を挟む。


 そういえば、なぜ明日の彼女は僕を歓迎してくれないのだろう? 彼女が僕を拒んだことなんて一度もなかった。拒むのではなく、ただ、僕が居ると不都合なことがあるのかもしれない。不都合なこと——不都合。


「そういえば……最近、体調が優れない様子だったかな」


 もう長いこと彼女の傍に立っていたから、顔色一つで体調も窺えた。ここ数日の彼女は、少し窶れたように見える——気の所為だろうか。いや、毎日見ているからこそ変化が緩やかで気付けておらず、病状がすでに悪化していたら? そうした不安が、心の裏側から顔を覗かせる。

 やはり、彼女が僕を拒むだなんてことは一度もなかった。優しくて、弱くて、しかし健気な彼女のことだ——人間は、死期が近付くとそれを悟るという。彼女の行いは、まさしくそのようだと思われた。

 僕の落ち着き払っていた心は、裏側から迫り来る巨大な焦慮に飲み込まれた——静閑とした夜の街。寂寥せきりょうとした闇を、僕は全力で駆けていた。

 もう、夜半の帳は深く落ちている。病院に辿り着いたところで、正面からは入れないだろう。しかし会いたい——だから会いにいく。きっと、彼女が待っている。病室で一人、僕が来ることを静かに待ち侘びている。

 もう時間がなかったと悟り、読書ばかりで運動不足の身体に鞭を打つ。息急くとも堪えて、無理にでも走る、走る、走る。

 そうして必死に走っていると——雪?


「珍しいな、……ここは都心だぞ、……めったに、降らないのにな……!」


 彼女は、雪が好きだった。しかし、雪の寒さは身体に障るからと、閉め切った窓の向こうからしか見せてやることができなかった。

 駆けて、ようやくして病院に辿り着いた。正面は閉ざされているが、彼女の病室は幸いにも一階の角にある。こんな時間に面会なんてできないから、忍び込むしかない。

 病院の前を歩いて角まで行くと、彼女の病室のカーテンが開いていた。


 ——窓は開いてるよ。


 そう伝えるように彼女が手を横に動かして、窓を開けるようにと促した。それを受けて、僕はそそくさと病室に忍び込む。


「いや、まさか、雪が降ってくるなんて」


 冷えた身体を暖めるような素振りは見せず、息急くままにそっと笑ってみせた。


「そう、だね。それは、予想外だったよ」


 数時間前より、相当に弱りきった声音だった。無理をして、普段通りの声量で以て喋っていたのだろう。


「ああ。雪が……綺麗だったよ。積もってる。街一面が、真っ白になってさ」


 必死だったから、まるで景色なんて見ていないけれど。


「そうなんだ……ちょっとだけ、見てみたい、かな」


 僕は無言で首肯を返すと、彼女を抱きかかえて窓辺に向かう。


「ほら、見てごらん? ひどく寒かったけれど」

「——きれいだね」

「ああ……まだ子供の頃はさ、こんな雪の日はよく雪遊びをしたよね。身体を動かすと暑くて、けれど寒くてさ。楽しかったな」

「そうだね。あの頃は、本当に楽しかったよ」

「十歳のときに君が病室を出られなくなって、悔しかったことを覚えてる。君と遊んでいたくて、なんで遊ばせてくれないんだろうなんてさ……でも、君は寂しかったはずだし、僕以上に悔しかったよね」

「——うん」


 弱っても健気な声音を受けて、涙を堪えた。


「——でも、わたしはそれでも幸せだったよ。毎日必ず来てくれて、その日の出来事を話してくれて、外の世界は何も変わってないんだなって、安心できたから」


 彼女はずっと目を閉じたまま、真っ白な銀世界を瞳に映していた。抱きかかえて窓辺に来てから、一度もその目を開いてはいなかった。


「そうかい。それなら、良かったよ……もう、いいかな? 腕、ちょっときつくてさ。ごめんな、格好悪いな」

「ふふっ……うん、いいよ。相変わらずで、安心する」


 少し笑った彼女を、優しくベッドに戻した。


「それで、さ。身体の方は……どう?」


 ——本題だった。彼女も、それを話すつもりで僕を呼んだのだろう。

 しかし——沈黙。静寂ばかりが僕らを隔てるようで、短くとも長い、ひどくうら悲しい数瞬が過ぎた。


「——そう、だね」


 と、涙混じりの、掠れた声が響いた。


「もう、限界だって。お医者さまにもね、そろそろだって言われちゃった」

「——ああ、知ってる。知ってたよ……遠回しにでも、伝えてくれたもんな。ちょっと、気付くのが遅かったけどさ」


 それでもと、いつも通りに笑った。彼女にとっての僕は何も変わらない僕であり、いつも通りの僕でなければならなかった。


「ふふ。最期まで、傍にいてくれる?」

「出て行け、なんて言われてもここに残るよ」

「ありがとう。今、ちょっとだけ格好付けたでしょう?」

「別に、格好付けさせてくれたっていいだろう?」

「うん……今ね。凄く、格好良いよ……」


 大切な彼女との時間を噛み締める僕を尻目に、時計の針は刻一刻と迫る時間を知らしめるようにして、うるさくも時を刻み続ける。


「ははっ、ありがとう。君も——」

 なぜだろう。涙が溢れて、声が濁る。十歳のあの日から、今日まで堪え続けてきたものが溢れ出す。


「——君も、ずっと可愛かったよ。愛してた……ああ、こんなはずじゃなかったのになあ……」


 彼女はもう、何も語らない。語ろうとしていないのではない——語れない。ただ目を閉じて、小さく微笑んで、僕の濁った声に耳を傾けていた。


「いつまでもさ、二人で笑っていたかったよ。学校にも来なくなったときはさ、すごく寂しかったんだよ……」


 彼女の手を握ると、指先が僅かに震えた。そして、ひどく弱い力で、僕の手を握ろうとした。


「本当に愛してるよ。これからだって、ずっと愛してるし、忘れない。忘れることなんて、できない。でもさ……僕は、大丈夫だよ。君のおかげで強くなれたんだ。君が居なくなっても、一人でだって生きていけてしまえるんだ。だからさ……もう、大丈夫だよ」


 そう言うと、僕の手を握ろうとしていた彼女の手が——安心したかのようにして——力を失った。

 ——今、彼女は静かに息を引き取った。

 僕は、白いため息をそっとこぼした。


「——また逢えるよ、いつか必ず。逢えたときにはまた笑おう。君といっしょなら、僕はどこまでだって進める気がするんだ。それまで、僕は一人でだって生きていくよ」


 そう言葉を残して、病室を後にする——その一室の片隅に眠る、桐島雪乃の小説とペン、そして掠れた文字で書かれた僕宛てのサインにも気付かぬままに。

 ——一人、吹雪き始めた都心を流離さすらう。

 もう僕は泣かない。

 彼女は、いつまでも記憶の中で生き続ける。

 君も、思い出すら、雪のようだったから。


「——また、いつか逢おう」

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