第三部パラダイス #60

 さて、そのような状況下で、というのは要するに夢も希望もございませんという状況下で、更に世界の悪意というものは追い打ちをかけるものだ。具体的に何が起こったのかといえば、これは、まあ、いつか起こるべきことが起こるべくして起こっただけだといえばその通りの出来事であって、つまりはリチャードの右腕が地獄節曲舞を突き破った。

 ずぶん、と、地獄節曲舞の表面が波打った。そして、そのクリティカル・ポイントからリチャードの右手が姿を現わした。とうとう、リチャードは、やってのけたのだ。

 へ~、良かったね~。オメデタイゼーションじゃ~ん。とはいえ、まだ全身を自由自在に動かすというわけにはいかないらしかった。グレイとは異なり「機関」の能力を使うことが出来ないリチャードは、身体の一部が外の世界と接触したとして、その瞬間に全身を脱出させるということは出来ない。

 リチャードは、暫くの間、周辺を探っているかのようにしてひらひらと右の手のひらを動かしていたが。やがて、その手のひらで自分を包み込んでいる地獄節曲舞をむんずと引っ掴む。それを引き剥がそうとするかのように、というか実際に引き剥がそうとしているのだろうが、勢いよく引っ張る。

 ずるり、ずるり、ずるずるずるずるぅ。胞衣を食い破って現われるのは獣の子。手のひらによって、そのパイ包みの中から、リチャードの、頭部が、ようやく、解放される。

 頭部と、それから、右肩から先の右腕だけだった。それでも、その出来事の象徴的意味合いは大きい。絶望は一つの象徴だが、とはいえ、流星群の夜のように煌びやかな惨劇であるというわけでもあるまい。とにかく、リチャードは、「くっ……はっ……!」という声を漏らしながら顔を突き出すと。「がっ……がああああああああああああっ!」と絶叫した。今までずっと、といってもせいぜい数分であるが、閉じ込められていたのでイライラしていたのだろう。それで、外に出ることが出来たから、特に理由はないが、取り敢えず叫んでおいたという感じだと思われる。叫び声は、長く長く尾を引いていく。

 さて、それから。

 叫び、終わると。

 はあ、はあ、と、肩で息をつきながら。リチャードは、真っ直ぐに真昼の方に視線を向けた。きょろきょろと辺りを見回すような無粋な真似をする必要はない、リチャードは、真昼の生命の、その色、その音、その香、その味、そして、その独特の肌触り。全ての感覚を、完全に、自分の感覚に刻み付けていた。もう二度と忘れないというほどに、その感覚を、瞋恚の炎によって焼き付けていた。だから、その感覚によって、リチャードにとっては、真昼がどこにいるかなどということは分かり切ったことだった。

 「砂流原真昼ぁああああっ!」と、ほとんど獣が獣を威嚇するかのような咆哮によって叫ぶ「てめぇ! 殺す殺す殺す殺す! ぶっ殺す!」。ただ、どんなに、脅すように、凄むように、叫び掛けたとしても。今のリチャードは、ほとんどの部分が地獄節曲舞に閉じ込められたままの状態なので、なんとなく間が抜けた感じを免れることは出来ない。

 ただ、そのようなリチャードも。真昼の現在の状態を見て、少しは落ち着いてきたらしかった。真昼の現在の状態というのは、まともに立つことも出来ず膝をついている状態、まるで死にかけた芋虫のように背を曲げて跪いている状態、と、いうことであるが。真昼がそういう状態であるということを認識したりチャードは、今までの瞋恚も一転、そんな真昼のことを鼻先で笑い飛ばすように言う「はっ……ははははっ! んだよ、てめぇ! そのクソ情けねぇ様は! こいつ、膾に刻んでも死にやがらねぇ化け物かと思ってたが、どうだ、どうだよ! 実際、確かに死んじゃあいねぇが、今にも死にそうな死にかけの虫けらじゃねぇか! ははははっ! どうした、どうした! 俺を閉じ込めたのは一体なんだったんだよ、え? 俺を、この、気色悪ぃ血反吐に閉じ込めたのはなんだったんだ? ただの嫌がらせだったのか? ただの負け惜しみだったのか? それとも、こんな薄汚ぇだけの血反吐で俺を殺せるとでも思ったのか? おい、おい! どうなんだよ、砂流原真昼!」。

 散木。

 奇歌。

 真昼は。

 リチャードの。

 その、ような。

 挑発に。

 対して。

 ぼそり、と。真昼の仮面は、何か、言葉を落とした。その個体限定範囲の内側から、その生命の疎隔性から、なんらかの言葉を、あららぐかのように滴り落とした。「は? なんだよ? てめぇ、今、なんつった?」と、リチャードは聞き返す。しかしながら真昼はそのようなリチャードの問い掛けを完全に無視していた。どうやら、その言葉は、リチャードに対して発せられたものではないらしい。その証拠に、リチャードとは完全に無関係なままに、真昼は、密やかに、密やかに、些喚き続けている。

 大地に寄り掛かるようにして膝をついたままで。ぜひゅー、ぜひゅー、と、荒い呼吸に肩を上下させているままで。だらだらと、だらだらと、まだ汚れていない怪獣のように、いや、むしろ、もう汚れてしまった怪獣のように、涙を流し続けている真昼の仮面。は、果たして何をその言葉として言葉しているのか? よくよく耳を澄ませてみよう、その言葉、その聖句。ああ、これは、聞いたことがある。どこかで聞いたことがあるぞ。え? なんだ、他愛もない。それは、誰だって聞いたことがあるはずだ。真昼の仮面が、言葉しているのは。その口から、涙の代わりに滴り落としているのは。要するに、聖書の言葉であった。

 トラヴィール聖書、ダニエル書。主によって主のために選び別たれ、召されて族長となったダニエル。そのダニエルが、まさに主によって選ばれたその瞬間。主から主によって降り注ぐ雨によって洗礼を受けるシーン。ダニエルの洗礼。ダニエルの奇跡。それを、真昼は、口ずさんでいた。

「ティンティルの龍の王ベルシェムの治世の第千二百十三年に、ダニエルは主の使いの導く声を聴き、主の砂漠ゲセムに来た。時に主の霊はダニエルに激しく臨み、ダニエルは脳中に幻を見た。ダニエルが見ていると、見よ、燃える青銅のように七色に輝く丸い星と、燃える真鍮のように輝く尖った星とが、ダニエルの周りで無数に回転していた。それらの星の一つ一つには口があり、口はいなずまのひらめきを放っていた。それらの口の全てがダニエルのことを呼ばわった。「ダニエルよ、ダニエルよ」と主は言われた。ダニエルは「ここにいます」と言った。主は言われた、「あなたは銀の鍵を持っているか」。ダニエルは主に答えて言った、「わたしはあなたの言われる銀の鍵を持っていません」。その答えに主は激しく怒り、ダニエルに向かいこう言った、「その答えはいけない、ダニエルよ、あなたは銀の鍵を持っていると答えなければいけない」。ダニエルは主の怒りを恐れたので顔を隠しながらこう答えた、「分かりました、あなたがそう望まれるのであれば、わたしは銀の鍵を持っています」。

「主はダニエルに触り、ダニエルを力づけて言われた、「大いに愛される人ダニエルよ、恐れるには及ばない。安心しなさい。そして、わたしがあなたに告げる言葉を心に留めなさい」。そこでダニエルが言った、「わが主よ、わが主よ、あなたはわが主です。あなたは、わたしに力をつけて下さったから。さあ、わが主よ、わたしに向かって語るべきことを語って下さい」。その言葉を聞くと、主はダニエルに向かい次のように告げられた、「わたしは今あなたと契約を結ぶ。それはあなたがわたしによって大いに愛される人だからである。あなたはこれからわたしに代わってわたしの民、すなわち人を導く者となる。わたしは、イスラエルにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。今、わたしの民の叫びがわたしに届いたのだ。わたしはあなたをつかわして、彼らをわたし以外のあらゆる支配者から救い出させよう」。ダニエルは主に言った「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがイスラエルのところに行って、人をイスラエルから導き出すのでしょうか」。主は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。今からあなたに祝福を与えよう。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたがわたしの民をイスラエルから導き出した時、あなたがたはこの砂漠で私に仕えるだろう」。

「主がそう言われると、決して雨が降らないはずの砂漠の空をにわかに雲が覆い始めた。それは巨大な雲で、しかもこの上なく美しい虹色に輝いていた。その雲から主の声がしてこう言われた。

 わたしはあなたと契約を結ぶ。

 あなたはわたしのうつしみとなって。

 とこしえに変わることなく。

 その生きた体は滅びず。

 その勝利は終わりなく続く。

 あなたは救いを施し、助けをなし。

 天においても地においても。

 しるしと奇跡とをおこない。

 わたしの血の花嫁となって。

 わたしの民をくびきから解き放つ。

「さて、そのような主の祝福の言葉が終わると、空の雲からダニエルに向かって雨が降り注ぎ始めた。その雨の雨粒は一つ一つが主の虹色によって輝いていた。雨はダニエルの体を打ち、ダニエルの体の全てがその雨によって濡れた。そのうちに、その雨粒のうちの一つがダニエルの口の中に入り込んだ。その味は苦よもぎのように苦く、ダニエルはそれを吐き出そうとした。その時、主がダニエルに言われた、「吐き出してはいけない。それを飲み込みなさい」。ダニエルは主に言われた通りそれを飲み込んだ。すると、どうだろう。その雨粒はダニエルの体の中を進んでいき、やがて心臓に達した。心臓に達した雨粒は炎となり、ダニエルの心臓を焼き尽くした。ダニエルは主に言った、「主よ、主よ、わたしの心臓が焼き尽くされました」。主はダニエルにこう答えられた、「あなたはあなたの心臓のために心配することはない。今、わたしはあなたのために奇跡を行う。わたしの雨はあなたの心臓となる。そして、それがわたしとあなたとの間に結ばれた血の契約のしるしである」。」

 真昼は。

 そこまで。

 口ずさむと。

 言葉を。

 切った。

 真昼は、暫くの間、涙を流していた。まるで動かず、言葉することさえせず、ただただ涙を流していた。そうして、その後で、また口を開いた。

 真昼は、まるで、心の中の一番重要な部分が壊れてしまったせいで、その言葉以外の全てを失ってしまったかのように。あるいは、ただ単に、心臓の鼓動のように。とくん、とくん、と、その胸の中の心臓が脈を打つように。ただ一つの聖句を繰り返し始める。その聖句は、先ほど口ずさんだ聖書の一節、終わり近くの言葉。つまり、この言葉であった。

「わたしはあなたのために奇跡を行う。」

「わたしはあなたのために奇跡を行う。」

「わたしはあなたのために奇跡を行う。」

「わたしはあなたのために奇跡を行う。」

「わたしはあなたのために奇跡を行う。」

「わたしはあなたのために奇跡を行う。」

「わたしはあなたのために奇跡を行う。」

「わたしはあたなのために奇跡を行う。」

 しかし奇跡とは何か? 奇跡とは、つまり雨のようなものだ。それは、この世界に遍く降り注ぐ。甘く、甘く、真昼の身体を潤す。甘く、甘く、真昼の身体に浸潤し、真昼の身体の内側を侵食し、そして、いつの間にか、真昼は、自分がそれになっているということに気が付く。雨は生命そのものである。雨は、暗く広い海に流れ込み、その暗く広い海を作り出す、冷たい冷たい水滴である。そして……雨は、一方ではあり得ないことである。まるで空から粉々に砕かれた海の欠片が落ちてくるかのようにあり得ないことである。他方で、雨は必ず起こることである。それは起こる、雨は恩寵である。恩寵である以上、それは主から来たる。主から来たる以上、それがあり得ないということはあり得ない。つまり、雨とは必然なのだ、雨とは運命なのだ。ねえ、デナム・フーツ。あんたはあたしに教えてくれた。奇跡は、絶対なんだって。奇跡は、絶対に、あたしの祈りを叶えてくれるんだって。

 真昼は、頭がおかしくなってしまったように、こう言う「私の雨はあなたの心臓となる」。真昼は、頭がおかしくなってしまったように、こう言う「それが私とあなたとの間に結ばれた血の契約のしるしである」。

 真昼は、もう、汚れてしまった怪獣だった。あたしは、もう汚れてしまった怪獣なのだ。あたしは、とっくに、生まれた時から汚れてしまった怪獣だった。全ての生命と同じように。あたしは汚れていた。ずっとずっと汚れたまま生きてた。それに、気が付かなかった、だけだ。ねえ、デナム・フーツ。あたしね、もしも、なんでも出来るなら。もしもあたしが全知全能ならば。あたし、この星の中心に行きたいわ。この、あたしの星の中心に。この、あたしの惑星の中心に。この、あたしのために惑わされ、あたしのために惑い続けている星の中心に。そして、あたし、見つけるの。きっと、あたし、見つける。まだ汚れていない怪獣を。あたし、見つけるわ。あたしの星の中心に。あたしの心臓の中心に。とくん、とくん、と、あたしに向かって静かに囁き続けている心臓の中心に、まだ汚れていない怪獣を見つけるの。ねえ、デナム・フーツ。あたし、あんたを見つけるの。あたしの心臓の中で、いつものように、くすくすと笑っているあんたを見つけるの。それで、あんたと踊るんだ。まるで、あの空の、満天の星が踊っているみたいに、いつまでもいつまでも、あんたと踊っているんだ。

 でも……ねえ、あんた、眠っちまったの? あんたは、もう、眠っちまったんだね。あたしがまだ起きているのに、あんたは、もう、眠っちまったみたいだ。ねえ、あたし……あんたが眠らない生き物だって思ってた。でも、あんたは、もう、暗く、広い、この海の底で眠っちまった。じゃあ、あたし、あんたにおやすみを言う。おやすみ、おやすみ、デナム・フーツ。あたし、あんたに特別のおやすみを言うわ。おやすみ、おやすみ、デナム・フーツ。ねえ、デナム・フーツ、あたしね……聞いて、デナム・フーツ。あたし、あんたにこう言うわ。ねえ、デナム・フーツ。あたし、今まで、あんたにさんざん嘘をついてきた。でも、これだけは本当よ。これだけは本気で言うわ。あたし、あたしの心臓に懸けて誓う。もしも、あたしに、まだ心臓が残っていればの話だけれど。ねえ、デナム・フーツ。あたし、あんたのための奇跡になる。あんたのためだけの奇跡になる。

 ところで。

 そんな。

 真昼に。

 対して。

 リチャードは、既に、右の腕だけではなく左の腕も地獄節曲舞から抜け出していた。それどころか、両腕が露出している以上、当然のように両肩も露出していたが。結果として、その翼、右の翼、左の翼、地獄節曲舞の外側に表われていた。その様は、あたかも一匹の天使が、天使の卵の中から吐き出されていくその過程であるかのようで。リチャードは、そんな状態のままで、罵り、嘲り、見くだすかのようにして、真昼に向かってこう言う「ははははっ! どうした、どうしたよ、急に聖書なんか口ずさみやがって! とうとう俺には敵わねぇって気が付いたのか? とうとうてめぇの葬式を挙げるつもりにでもなったのか?」。

 真昼は、リチャードのその言葉に顔を上げた。そして、リチャードのことを睨み付ける。数ダブルキュビト先にいるリチャードのことを、その一つ一つが、あたかも、たいまつのように燃えている大きな星の、ように、金に、輝く、二つの、眼球で、凝視する。それから、ぎりっと奥の歯を噛み締める。地の底、深いところに落ちてきた星の、その内側に秘められた金属のような光によって輝く、その歯とその歯とは、まるで火打ち石を打ち合わせたかのような火花を放つ。

 真昼は殺意だった。一つの絶対的な殺意であった。恒星が放つ光のように強い殺意。沈んだ海の底のように深い殺意。そのような凄まじさのままで、真昼は、噛み合わせていた奥の歯を、そっと開く。その口で、あたかも、異教徒に向かって夢の解き明かしをするように言う「デナム・フーツは」「あたしのことを」「奇跡と言ってくれたんだ」「デナム・フーツは」「あたしのことを」「きらきら光る素敵な奇跡と言ってくれたんだ」。

 それから。

 それから。

 真昼は。

 その身を。

 起こす。

 岩盤の上に。

 ついていた。

 左の手のひら。

 強く。

 強く。

 地を押して。

 右膝の上に。

 置いていた。

 右の手のひら。

 力を入れる。

 そうして。

 その全身を。

 引き摺り起こす。

 ゆらん。

 ゆらん。

 両腕が。

 力なく。

 揺れて。

 そうして。

 真昼は。

 その場に。

 立ち上がる。

 そして。

 そして。

 真昼は。

 一人の。

 savage。

 avengeful。

 angel。

 の。

 ように。

 右腕。

 左腕。

 両腕を。

 空に。

 向かって。

 差し上げて。

 右の手のひら。

 左の手のひら。

 大きく。

 大きく。

 開いて。

 そして。

 それから。

 真昼は。

 まるで。

 そう。

 一つの。

 奇跡の。

 ように。

 こう。

 言う。

「浄業兜率讃。」


 静寂。静寂があった。完全な、静寂が、そこにあった。一つの音もなく、一つの声もない、絶対的な静寂だ。これは、ある意味では、真昼のその言葉、明らかに何かのトリガーとなるであろうその言葉によって、何も起こらなかったといえるかもしれない。それによる静寂であると。しかし……どこか……おかしかった。この静寂は、明らかに静か過ぎるのだ。まるで、あらゆる音が、別の何かになってしまったとでもいうかのように。もしも、何も起こらなかったのであれば、世界はこれほどの静寂にはならない。これほど、畏れの感覚さえ抱かせるような静寂には。

 リチャードは、最初は様子を窺っていた。真昼は今度は何を仕掛けてくるのかと。黙って待っていた、何かが起こることを。だが、やがて、この静寂に耐えられなくなった。そして、なんとかこの静寂を破るために声を上げる。若干の恐怖さえ感じさせるような口調で言う「おいおい、なんだよ! なんにも起こんねぇじゃねぇかよ! ははははっ! 失敗か? 失敗したのか? 全く、驚かせやがるぜ!」。

 と。

 その。

 瞬間。

 に。

 雨の。

 一滴が。

 あま。

 くだる。

 リチャードが、真昼に向かって、馬鹿にするようなジェスチュアによって振り回していた右手。その甲の部分に何かが落ちてきた。それは空の方向から落ちてきたもので、その大きさは、小さく小さく、大体においてからし種ほどの大きさしかなかった。リチャードは「は?」と言う。それから「んだよ」と続ける。それから、右手、手の甲を、自分の方に引き寄せてみる。その落ちてきたものは、個体ではなく液体であった。一粒の液体だ。リチャードは、それを見て「雨?」と言う。しかし、とはいえ……それが雨であるとすると、明らかにおかしかった。

 ここは天下の不生女、アクハット平原だ。西方から北方にかけて囲い込むように聳え立っているスカーヴァティー山脈のせいで、ほとんどの雨雲は遮られてしまう。そのせいで、雨期を除けは、ほぼ毎日が晴れの天気だ。それどころか快晴以外になることさえごくごく稀にしかない。また、その肝心の雨期であるが、この冷たい冷たい凍て付くような気温のせいで、ここに降り注ぐのは、ほとんどの場合、雨ではなく雪である。雨期というよりも雪期といった方がいいくらいだ。つまり、アクハット平原は、極めて雨が降りにくい場所なのだ。

 また、それ以前の話として、ここは真昼のオルタナティヴ・ファクトの内部である。ということは、真昼がそう望まない限りは天候が変わることはあり得ない。

 それでは、真昼がそう望んだということか。真昼が雨が降るように望んだがゆえに、オルタナティヴ・ファクトがそのような気候に変化したということなのか。

 いや……どうもそういうことではないらしい。なぜ、そういうことが出来るのか。まず、前提として、リチャードは、それがオルタナティヴ・ファクトとして起こった現象なのか、それとも現実として起こった現象なのかということを判別することが出来る。そもそもオルタナティヴ・ファクトというものは、そのオルタナティヴ・ファクトの制定者の観念領域で起こった出来事、つまりは理想であるに過ぎない。そして、現実の感触と理想の感触とは、全然違うものなのである。

 その判別能力によれば、この雨の感触は明らかに理想のそれではない。ということは、この雨は現実において降っていることになる。要するに、オルタナティヴ・ファクトによって食いちぎられ、その内側に飲み込まれたところの現実の一部としての雨であるということになる。だが、そんなことはまず起こりえないことだ。先ほども書いたようにここはアクハット平原なのだし、その上、閉鎖されたオルタナティヴ・ファクトという環境内部で、こんな短時間で、雨が降るような気候の変化が起こるはずもない。

 決して。

 雨が。

 降らない。

 砂漠で。

 その。

 雨が。

 降って。

 いる。

 異常事態。雨が降ること自体が正常ではないというのならば、それならば、この雨を形作るところの雨粒も、やはり正常ではないと考えなければいけないだろう。

 リチャードは雨粒の重量をよくよく量ってみる。雨粒の感覚を、手の、甲の、上で、深く深く探っていく。例えば祝福に似ていた。自らと、主と、その二者しかあり得ない、暗い、暗い、絶対的な暗黒における祝福。それは、虚無ではない、静寂でもない、そういったものの母親であり、あるいは墓碑銘だ。それは……端的にいえば、存在の断絶。

 つまるところ。

 要するに。

 それ、は。

「反転させた抑止ラベナイト?」

 そう、アンチ・ラベナイトだった。液状化したアンチ・ラベナイトのひとしずくが、天上から降り注いできたのだった。と……リチャードがそのことに気が付いた瞬間に。ぽつ、ぽつ、ぽつり。だらだら、だだだだ、ざああああああああああああああああ。その雨は、小雨から大雨になり、瞬く間に豪雨になった。

 リチャードの、地獄節曲舞から露出した上半身は、濡れ蝙蝠にも似た有様になる。獣のように荒々しく乱れていた髪の毛も、あるいは着ていたスーツも、ぐっしょりと濡れて。そして、いうまでもなく、その他の部分、皮膚の表面も、アンチ・ラベナイトに浸されたようになる。

 「なんだ、なんだよ!」リチャードは……今度は、なんとなく安堵としたような、安心したような響きを声のうちに響かせながら。真昼に向かって、思い上がったような、のぼせああったような、そんな調子で叫ぶ「はははっ、雨じゃねぇか! ただの雨じゃねぇか!」。

 もちろん、これがただの雨ではないことはリチャードも知ってる。リチャードが言いたいことはそういうことではない「おいおい、砂流原真昼! こんなもんで俺が殺せるとでも思ったか? 俺がスペキエースだからって、スペキエース能力を阻害する物質で丸洗いすれば苦しむとでも思ったか? ははははははっ! 浅はか、浅は過ぎるぜ、砂流原真昼!」。

 と、いうことだった。確かにアンチ・ラベナイトは概念による過剰を抑止するものだ。それゆえにベルカレンレインの匙片体としての能力であるスペキエース能力を打ち消すことが出来る。ただし、とはいえ、それは別にスペキエース自身を損傷出来るようなものではない。なぜなら、スペキエース能力はあくまでも能力でしかなく、スペキエース自身はごくごく普通に存在と概念とが平衡した状態にあるからである。つまり、その生命自体には概念の過剰はないわけだ。スペキエース能力とは、あくまでも、そのような生命の容器の中に、アイスクリンで一掬いの概念を注ぎ込んだものに過ぎないのだ。

 ということは、スペキエースがアンチ・ラベナイトで出来た雨に打たれたとしても、そのスペキエースが、例えば痛みを感じたり、例えば苦しみを感じたり、いわんや死に至らしめられるといったようなことはない。

 せいぜいが、そのような身体ではスペキエース能力を使用出来ないという限定が与えられる程度でしかない。そんなわけで、この雨によってずぶ濡れになったところで、リチャードは文字通り痛くも痒くもないのだ。

 それでは真昼は間違いを犯したということだろうか。真昼は、恐らくこれがリチャードを仕留めるための最後の機会となるであろうこの機会において、愚かさゆえに、取り返しのつかない間違いを犯したということなのだろうか。

 わざわざ否定するのも面倒であるが、そんなわけがない。真昼は、この雨によってリチャードを殺せないことなど承知の上であった。つまり、真昼の目的は別のところにあった。真昼が掻き消そうとしたのは全く、別の、ものだった。

 リチャードは。

 ひとしきり。

 高笑い。

 している。

 笑って。

 笑って。

 恐怖の。

 緩和の。

 発作の。

 ように。

 笑って。

 と。

 次の刹那。

 はっとした表情。

 とうとう。

 そのことに。

 気が、付く。

「あっ……クソがっ!」

 リチャードは吠えた。しかし、どうしようもなかった。間に合わなかった。この問題に対処するには遅過ぎた。リチャードは、だいぶん、抜け出していたとはいえ。まだ下半身の重要な部分、膝から下が地獄節曲舞に囚われたままだ。

 リチャードは、ほとんど脊髄の反射、思考を介在しない瞬発性のようにして、二枚の翼を大きく大きく背後に向かって反らせる。それから、そのまま、前方に向かって、一気に羽搏く。すると、二枚の翼はリチャードの身体からいとも容易く自切する。二枚の翼は、そのまま、二振りの剣を投げつけたかのように。二つの疾駆する刃となって、真昼に向かって一直線に飛んでいく。

 無論、真昼にはそれを避けるすべはない。真昼の身体は、そのように唐突に引き起こされたところの出来事、危険、危機、に対して対応出来るほど万全の状態ではない。精神的にそれに対応するための思考をする余裕が残っていないし、肉体的にそれに対応するための行動をする余裕が残っていない。ただ、無力なままに、二枚の刃を待ち受けているかのような態度によって、そこで立ったままでいることしか出来ない。ただし……それで、問題は、ない。

 リチャードの。

 右の翼は。

 左の翼は。

 そのまま。

 空を。

 裂いて。

 翔ける。

 翔ける。

 翔けて。

 いく。

 その雨に濡れながら。

 真昼に向かって飛ぶ。

 その雨に影響を受けることはない。

 スペキエース能力ではないからだ。

 ただ。

 完全な。

 一点の歪みもない。

 直線を描きながら。

 真昼に。

 向かって。

 翔けていく。

 あと。

 五ハーフディギト。

 四ハーフディギト。

 三ハーフディギト。

 二ハーフディギト。

 一ハーフディギト。

 ああ。

 ゼロ。

 の。

 直前に。

 しかし。

 それらの翼は。

 掴まれ。

 握られ。

 引き止められる。

 群がるような。

 無数の。

 花鬼に。

 ああ、そうだ、花鬼だ。そういえば、花鬼はどうしていたのだろうか。真昼が、グレイと戦い、リチャードと戦い、そうしていた間。真昼が作り出した花鬼、無数の、無数の、ノスフェラトゥのリビングデッドはどうしていたというのだろうか。

 あれだけ大量にいたはずの花鬼だ。それなのに、今までの、真昼の戦闘描写において。一切、その姿を現わさなかった。六輪一露を作り出す時に、その残骸を使ったという描写から先。花鬼が、一体、何をしているのかという描写はまるでなかった。

 これはどうしたことだろうか。そのすぐ後には、直後には、花鬼の軍勢の全ては跡形もなく破壊されていたということだろうか。いうまでもなくそんなわけがないのであって。花鬼の軍勢は真昼の戦いとは別の戦いを戦っていたというだけの話だ。

 それは花鬼がそのために作り出されたところの戦い。つまり、リチャードの能力による攻撃の、ライフェルド・ガンによる攻撃の、その妨害のための戦いである。確かに真昼はアンチ・ラベナイトを作り出すことが出来る。そして、それを利用することで、例えば本無妙花ノ花鏡であるとか六輪一露であるとか、そのようにして、多少であればライフェルドを防ぐことも出来ないわけではない。しかしながら、それは数発、せいぜいが数十発の弾丸を防ぐことが出来るというだけの話なのだ。

 もしも、仮に、リチャードが、自分の能力の限界まで、それこそ数え切れないほどのライフェルド・ガンを作り出して。それを一斉に掃射すれば、真昼は、それを防げるわけがないのである。もちろん、リチャードはそんなことはしないだろう。そんなことをすれば、真昼はほぼ確実に死ぬからだ。とはいえ、例えば……数百のチャリカー・ダーヌスを作り出して。一斉に、チャリカーを放って。そうすることによって真昼の手足を切り飛ばそうとすれば、それを防ぐだけの力は真昼にはない。

 つまるところ、結論すれば。花鬼の軍勢は、リチャードの作り出した化城宝処の相手をしていたということである。そこに、さっきまで、あたかも一つの巨大な城壁のようにして立ちはだかっていたライフェルド・ガンの一斉射撃。無限に終わることがないような、永遠に終わることのないような、掃射が、真昼を傷付けることがないようにしていたということである。

 その戦闘はこのように行なわれていた。まず、化城宝処が、花鬼の大軍勢に向かってライフェルドの弾丸を放つ。ライフェルドの弾丸は、花鬼の、手を吹き飛ばし、足を吹き飛ばし、翼を吹き飛ばし。あるいは、花鬼自体を、その身体の全部を粉々に吹き飛ばす。こうして、枝垂桜の千本の桜、花盛りにて散り吹雪く。その光景をあたかも花見月のようにして見下ろしているのは不死の星。

 ただ、とはいえ……このような桜狩りによって、花鬼の全てが砕け散るというわけではない。全くの無傷のままでライフェルドの弾丸を回避することが出来た花鬼もいるわけであるし、また、手や、足や、翼や、そういった部位が吹っ飛んだ花鬼であっても、まだ使える。

 ということで、そうして生き残った花鬼は化城宝処へと突っ込んでいく。その城壁が聳え立っている、まさにその場所まで辿り着く。そうして、その城壁にしがみ付いて、その城壁を攀じ登っていこうとしているかのように、数え切れないほどのライフェルド・ガンのうちの一つを引っ掴む。

 もちろん、花鬼ごときが破壊出来るライフェルド・ガンではない。その傲慢は、花鬼ごときが叩き折ることが出来るほど脆弱ではない。とはいえ……方法はいくらでもある。

 例えば、花鬼自身が、その全身によって、ライフェルド・ガンの銃口を塞いでしまうという方法だ。こうすると、ライフェルド・ガンが銃弾を発射した時に、いうまでもなく花鬼は粉々に砕け散るが、ただし、そうして塞がれた銃口のせいで、ライフェルド・ガンが放ったあらゆる衝撃は、ライフェルド・ガン自身に帰ってくることになる。そうして、ライフェルド・ガンは、自らの力によって自らを爆発させる結果となる。

 あるいは、もっと簡単な方法もある。ライフェルド・ガンが弾丸を発射するそのタイミングで、その銃口が向いている向きを、他のライフェルド・ガンに向けるという方法だ。そうすると、あるライフェルド・ガンが発射した弾丸が、別のライフェルド・ガンを撃ち砕いてくれるわけだ。

 と、まあ、このようにして城壁のあちらこちらに欠損を作り出していく羽蟻の群れにも似た有様、化城宝処に辿り着いた花鬼は、ライフェルド・ガンを次々に爆破していったわけだ。とはいえ、ライフェルド・ガンとて、爆破されたら爆破されたで、はいそうですかというわけでもないのである。

 そもそもライフェルド・ガンは実際の銃砲ではない。リチャードのスペキエース能力によって作り出されたものだ。だから、仮に、それが破壊されたように見えても。一つ一つの破片としてその形状を分解されたとしても。実際には、完全に破壊されたわけではない。ダメージを受けただけなのだ。

 ということで、粉々の光の断片として弾け飛んだライフェルド・ガンも、すぐさま、ふわりと、するりと、新しい銃砲の形を形作ることになる。ただし、これもまた無条件で再生出来るというわけではない。これはリチャードのスペキエース能力によって再生しているわけであって、このように再生させることによって、リチャードはスペキエース能力を消耗させているのだ。つまるところ、ライフェルド・ガンも再生に限界がある。

 何度も何度も破壊されたライフェルド・ガンは、特に、ダメージの蓄積が大きいために再生に対するエネルギーの消費が激しい。ということで、そういったライフェルド・ガンから再生されなくなる。一方の花鬼も……以前にも書いたように、その身体が、あまりにも、ぶっ壊れどうしようもありませんね状態になってしまえば、やはり使用不可能になる。

 要するに、花鬼と化城宝処との間で一進一退が続いていたということだ。花鬼の一部が花と散れば、その分だけ化城宝処の城壁が崩れていって。そうして、戦場における戦力は一定の平衡状態にあった。ちなみに……このような平衡状態には、重心というか、戦火のフォーカス・ポイントとでも呼ぶべき地点があった。

 それは先ほども少しばかり触れた不死の星である。これは、読者の皆さん覚えてらっしゃいますかね? デニーが作り出した結界の発生装置の構造を組み替えて作り出したところの、非時香花めちゃめちゃ量産マシーンである。以前にも説明したことであるが、現在、この戦場にいる花鬼は、真昼の有する「力」によって作り出されているわけではない。この不死の星がアーガミパータという土地から吸い上げた「力」によって作り出されている。ということは、この不死の星を陥落させることが出来れば、花鬼はそれ以上作り出されることはないわけだ。そういうことで、ライフェルド・ガンのうちのかなりの部分がこの星を天から撃ち落とすために、shoot the moon、割かれていた。

 ただ、しかし、不死の星を落とすということは二つの意味で難しかった。まず、当然ながら、花鬼の軍勢も不死の星を落とされれば終わりであるということを理解しているのである。ということで、やはり、花鬼のかなりの部分が不死の星の防衛に回っていた。具体的には、不死の星にライフェルドの弾丸が当たらないように盾になるということ。あるいは、化城宝処に対して攻撃を仕掛けている花鬼も、不死の星を狙っているライフェルド・ガンから優先的に爆破していたのだ。

 そして、もう一つの難しさ。それは、この不死の星に組み込まれている、というか、その前段階であるところの結界の発生装置に既に組み込まれていた、防衛システムの問題である。これはちょっと考えれば当たり前のことであるが、この不死の星が城であったころ、その城は、コーシャー・カフェにとってのアーガミパータにおける重要拠点の一つであったわけなのだ。そうである以上、敵対する勢力による襲撃に備えて、防衛システムの一つや二つ用意されていないわけがない。

 それはデニーが作り出した防衛システムであった、と、こう書けば、花鬼が防衛に失敗したライフェルドの弾丸、それがごくごく普通の銃弾であれ、砲弾のように巨大なものであれ、榴弾のように爆発するものであれ、悉く無効としているということには全く疑問が出てこないだろう。それがどのような防衛システムであれ、デニーが作ったものであれば、それは完璧な、いや、完壁な防衛システムでないはずがないのだ。とはいえ、それでも……ライフェルドの弾丸は、本来、それを防ぐことも壊すことも出来ない弾丸のはずなのであって。それを、どうやって無効としているのかということは、もしかしたら、ほんの僅かに、少しくらいは、読者の皆さんも気になるかもしれない。

 ということで、念のため、どのような仕組みであったかということくらいは書いておこう。つまり、それは、銀の門タイプの防衛システムであった。銀の門というのは……トラヴィール教徒であれば、恐らくは知らないはずはないと思われるが、ある種の神学的なテレポート装置のことである。その歴史は古く、ダニエル書においてダニエルが起こした奇跡のうちの一つとしても数えられているほどだ。

 フェト・アザレマカシア、存在の門に接続することによって発生させたポータルのことである。もちろん、本当の銀の門、真実の銀の門、つまりはヨグ=ソトホースそれ自体に接続出来るのは、銀の鍵か、もしくはそのレプリカを所有している者だけである。ただ……それを、演繹的に引き出してくることは、一定以上の神学的知識がある者であれば誰でも出来ることだ。そして、この銀の門タイプの防衛システムとは、そのようにしてティンダロスを展開させる方法だ。

 不死の星は、その周囲にティンダロス・フィールドを纏っていた。それは、うっすらと銀色がかった、まるでそこに存在していないかのように透明な膜状の何かである。ライフェルドの弾丸が、そのフィールドに触れた瞬間に。その弾丸がそこに存在しているはずの時空間は、全く異なった時空間であったことになる。これは説明が非常に難しい現象であるが、まあ、要するに、ポータルによって転移させられると考えて貰えばいいだろう。間違った理解であるが、それでも分かりやすいは分かりやすい理解だ。そうして、弾丸は、いつの間にか、不死の星を通り過ぎて、その反対側に現われている、ということになる。つまり、不死の星は、その弾丸を防いでいるわけでもなく壊しているわけでもなく、ただ避けることによって無効化しているというわけだ。

 それなら、そのような完壁な防衛システムがあるというのならば、別に花鬼が防衛する必要などないではないかと思われるかもしれないが。これがまた難しいところで、重要なのは、このティンダロス・フィールドが、ヨグ=ソトホースそれ自体ではなく、所詮はそれを演繹したものに過ぎないということである。それは純粋な存在それ自体ではなく、この世界において、一定程度の概念の浸食を受けている。ということは、いうまでもなく、ライフェルドが放つエネルギーの影響を受けることになるわけだ。

 もちろん……これが渾身渾霊のライフェルドであるならばともかくとして、以前も書いたように、リチャードは本気を出していない。数発、数十発、数百発であれば、まあ、余裕で防ぐことが出来るだろう。だが、それ以上の弾丸を受けてしまえば。あるいは、もっと厄介な話として、ティンダロス・フィールドに接触した榴弾が、まさにそのフィールドの接触点で爆発すれば。その内側に秘めていたエネルギーを撒き散らし、そのようにして放出されたエネルギーを、もろに食らってしまえば。さすがに少しくらいは揺らぎを起こしてしまうのである。ということで、花鬼も、そういうことが起こらないように防衛していたのだ。

 と。

 そんな。

 風に。

 して。

 花鬼の軍勢は、その全勢力を落城に傾注していたということだ。夢中落花、さんざめく桜の花びらの花嵐にも似た有様。それゆえに、真昼とリチャードとの戦闘に介入するだけの余裕がなかったのである。

 ただ、そうであるとすれば。なぜ、今となって。よりにもよって、真昼が、あと一ハーフディギト、の、半分の半分の半分にも満たないような距離。その距離の後にも、リチャードによって、打倒されようとしている、その、まさに、直前に。花鬼は、このように、戦闘に介入してきたのだろうか。介入することが出来たのだろうか。それは、全くの偶然なのか?

 もちろん、違う。

 それは偶然ではない。

 この場所では。

 真昼が、いる。

 この場所では。

 偶然など。

 起こり。

 得ない。

 あらゆる事象が。

 真昼に。

 よって。

 決定された。

 必然。

 要するに……それは……浄業であった。兜率の天から降り注いでいるこの雨が、リチャードの、業を、煩悩を、憍慢を、洗い流したのである。

 順を追って説明しよう。まず、この雨は、花洗いの雨であった。つまり、真昼が、どのようにしてこのようなアンチ・ラベナイトの豪雨を発生させたのかといえば。決定論の能力によって、花鬼の残骸を変化させて雨粒としたということである。

 基本的に、雨というものは、大気中を浮遊している微粒子を凝結核として水滴を作り出し、それを雲粒と呼ぶのだが、そのような雲粒が集合することで雲を作り出す。そして、その雲の内部で雲粒同士がぶつかり合い、一定の大きさまで成長すると、それが雨として落ちてくるのだ。

 それとさして変わるものではない。要するに、大気中を浮遊している、無数の、無数の、花鬼の残骸。ライフェルドの弾丸によって再生不可能なまでに粉々に砕かれた花鬼の残骸を、決定論によってアンチ・ラベナイトに変化させる。そのように作り出した雲粒を、集めて、集めて、雨粒とする。そうして、このような、アンチ・ラベナイトの雨が降り注ぐこととなったわけだ。

 このような、広範囲にわたる環境の決定には、莫大な、膨大な、甚大な、絶大な、それに、多大なエネルギーを必要とする。今までの戦闘で……真昼は、ほとんど決定論を使ってこなかった。夢跡却来華で大々的な決定を行なって以来、ごくごく限定的にしか利用して来なかった。それは、全て、この大技を放つ時に備えてのことであった。リチャードがいつだったか推理していた通りだ。真昼は、貯めて貯めて貯めて、弾け飛ぶ寸前まで蓄積したエネルギーを、今、まさに、爆発させたのである。

 海の底に。

 雨が降る。

 不死の星の。

 見下ろす先。

 月影は舞。

 村雨は歌。

 さて、そうして降り注いだ雨は。この戦場に遍く降り注いだ。真昼の上に、リチャードの上に、グレイを包み込んでいる恋重荷の上に。あるいは、花鬼の上に……それに、それから、いうまでもなく化城宝処の上に。

 化城宝処とは、ライフェルド・ガンとは、ここまで何度も何度も書いてきた通り、リチャードの憍慢である。リチャードの驕りが、高ぶりが、魔縁となってこの世界に現われたところのastralである。要するに、簡単にいえば、リチャードのスペキエース能力が出現させた、具体化した概念であるということだ。

 ということは、化城宝処は、それ自体が全体として一つの概念の過剰であるということである。この戦場に表われている、全ての銃砲が、全ての弾丸が、結局のところはリチャードのintentioに過ぎない。それらは鏡に映し出されたところの偶有性、耐えざる生産において現われるところの鏡像であるに過ぎない。

 そうである以上、そのような業縛罪苦は、菩薩の歌詠讃嘆、天より降り注ぐ妙なる花のしずくの清浄によって、来迎引接されるべきものなのである。要するに、何がいいたいのかといえば。真昼が発生させたアンチ・ラベナイトの豪雨によって、偶有子から成り立っていたライフェルドは、その銃砲も、その弾丸も、それらのあらゆる形態を抑止され、この世界から綺麗さっぱり洗い流されてしまったということだ。

 その雨の一滴は、その城壁に触れた瞬間に。まるで強酸の沸騰水が砂糖菓子の煉瓦に触れたかのようにして、あっさりとそれに穴を開けてしまった。宝石は、弾丸は、ただの飴玉だ。舌先で転がされ、徐々に失われていく、ただの飴玉だ。雨は、リチャードがその能力によって作り出した全てを、打って、打って、打って。そして、雨に打たれたライフェルドは、他愛もない冗談でしかなかったかのように溶けていく。

 どうだ!

 どうだ!

 あれほどの煩悩!

 燃え盛る執着が!

 闇の中に満ち。

 雲の中に沈む。

 菩薩の真如によって。

 滅罪。

 消えて。

 消えて。

 消えて。

 いく。

 こうして化城宝処は呆気なく消えてなくなってしまった。しきりに積もり積もって、築き上げられたライフェルドの邪執は、あたかも冬の雪のように消えていった。そして、それは、不可逆的な消滅であった。なぜなら、少し前にも書いたように……この雨は、戦場の全体、全て、全て、全て、の場所を、ら、ら、ら、ろうろう、と、甘く優しく侵害していたからだ。

 リチャードが再びライフェルド・ガンを作り出そうとしたとしても。それを作り出すことが出来る場所がこの戦場にはただの一か所たりとも存在していなかったのだ。

 もしも仮にリチャードがライフェルド・ガンを作り出したとして。それは、即座に雨によって洗い流される。つまり、ここは、既に浄土なのだ。穢身の悪逆は即滅する。

 この戦場においてはライフェルドが成立する余地はなくなった。ということは、だ。もともとは、ライフェルドへの対応として発生した花鬼。そして、実際に、ライフェルドの対応だけに追われていた花鬼。その花鬼の役割が、ぽっかりとした空白と化してしまったわけである。

 これまでの激戦激闘によって、花鬼の数は半分を遥かに下回るまで減少してしまっていた。それでも、そもそもの花鬼の数が数千であったのだ。未だ、千に近い花鬼が生き残っている……いや、死に損なっている。

 その花鬼。

 果たして。

 如何するか?

 リチャードは焦燥していた。ヤバい、ヤバい、ヤバい、明らかに不味い。速く、一刻も速く、目の前にいるあの化け物を仕留めないといけない。そうしなければ……危機的状況が、背後、そこまで迫っていることを感じる。

 「てめぇええええええええええええええええっ!」という叫び声を上げながら、暴れ回り、のたうち回る。後は、この足先さえ引き抜けば、この身体は自由になるのに、それなのに、地獄節曲舞はなかなか離そうとしない。

 まるで、リチャードのことを嘲笑っているみたいだ。わざと、足先以外の部分を引き抜かせて。それで、あと少しあと少しとリチャードのことを煽り立てて、実際は手放すつもりなどまるでないとでもいうかのような悪意。

 まさに、文字通り、足掻いているリチャード。そのうちに……ようやく、片足を、具体的にいえば右足を引き抜くことが出来た。「はっ!」と思わず声を漏らしながら、前のめりに倒れ掛かりそうになるリチャード。「っしゃ! あとは左足……」と、言いかけながら、そのようにして倒れ掛かりそうになった上半身を引き起こしたリチャード。

 さて。

 その頭上に。

 夢の。

 桜の。

 満開の。

 影が。

 咲き誇るかのようにして。

 リチャードに差し掛かる。

 もともと、この戦場は、その中心において、生に対する死、死に対する生、境界におけるあられもない接線のような光によって光り輝いている不死の星によって照らし出されていたのだが。その光が、唐突に遮られたということだ。

 刹那を切断するような鋭利な瞬間。その瞬間に、リチャードの頬を、するりと風が撫でた。これは、ああ、そう、春の風だ。あたかも桜の花をらあらあれいれいと散らしめき、それを戯れるかのように巻き上げていく、春の風だ。

 Quel piegare e amor。あなたを屈服させようとするその空の傾きこそが、即ち愛なのです。さらさらと、ふわりと、リチャードの肩に、何かが落ちてきた。柔らかくそこに触れたそれを、リチャードは指先で触れてみる。自分の目の前に持ってくる。それは……いうまでもなく花弁であった。今、この瞬間という、春の瞬間を告げるための花弁だ。

 リチャードは。

 まるで。

 今日の天気を問い掛けるように。

 何気なく。

 何気なく。

 ふと。

 頭上を。

 見上げる。

 メロウト。

 フィサ。

 フィサ。

 ヴェリリオーサ。

 主を讃嘆せよ。

 そこに。

 花鬼の。

 軍勢。

 ああ、数十の、数百の、いや、千という数字にさえ達しそうな花鬼の軍勢が、リチャードの頭上、その上空に、叢雲のごとく群がりたかっていた。それらの花鬼は、顔のあるものも、顔のないものも、生気というものを全く感じさせない、虚無的なまでに無慈悲な表情をリチャードに向けていた。そして、端的にいえば、リチャードは、既に、完全に包囲されていた。

 リチャードは、「クソが……」と呟く。それから、ぎりぃいいいいっと、強く、強く、まるで自らの歯を噛み砕こうとしているかのように歯と歯とを噛み合わせて。それから、また、口を開く。追い詰められた獣のように咆哮する「クソがっ! クソがっ! クソがぁああああああああああああああああっ!」。

 ただ、今更、何を叫んだところで無駄である。そのような叫びは叩き潰される鼠の悲鳴にも満たない。花鬼の叢雲は……その咆哮の瞬間に……その咆哮を合図としたかのように……一気に、内側に向かって崩壊する。まるで巨大な巨大なつむじ風に巻き込まれたかのように、ただ一点に向かって収束していく。

 いうまでもなく、その一点とはリチャードが立っているその一点のことだ。この花鬼が、その花鬼が、あの花鬼が、戦場にいる、全ての、全ての、花鬼が。ただしリチャードの翼の刃から真昼を守護するためにそちらに回された花鬼を除いてということだが、とにもかくにも、リチャードに向かって突貫した。

 吶喊ではない。音もなく、声もなく、ただただ、一つの夢幻の洪水が、修羅の花瓶の中に注ぎ込まれていくかのように。リチャードに向かって突っ込んでいった。

 もしも、仮に、リチャードがライフェルドの傲慢さをこの世界に一つの暴力として現わすことが出来たのであれば。この程度の花鬼など、一瞬で始末出来ていただろう。地上、自らの周囲、見渡す限りにライフェルド・ガンを出現させて。そうして、その次の瞬間には、花鬼は一匹残らず撃ち落されていたはずだ。だが、今のリチャードはスペキエース能力の利用を封じられているのだ。ライフェルド・ガンを作り出したとして、そのように作り出されるや否や、アラリリハを歌うだけの時間を与えられることもなく無の中に沈んでいくだろう。

 あるいは、仮に、もう少し数が少なければ。花鬼が、数鬼であれば、いや、数十鬼であれば。それどころか百鬼の花鬼が相手であったとしても、リチャードは勝利していただろう。何度も何度も書いているがリチャードは始祖家のノスフェラトゥなのである。始祖家のノスフェラトゥは、純種のノスフェラトゥの中でも圧倒的に強力なノスフェラトゥだ。なぜというに、始祖家が発生するための母胎は、通称機関が達成した様々な成果によって強化されているからだ。正確にいえば、リチャードは私生児なので、ハウス・オヴ・トゥルースの母胎との関係性は色々と難しいところがあるのだが。とにかく、始祖家のノスフェラトゥは、たった一鬼で、百鬼の純種のノスフェラトゥに匹敵する強さなのだ。

 しかし、これだけの数となると……しかも、リチャードは、真昼との戦闘で手負いの鬼なのだ。その身体は、セミフォルテアによって魄から損傷を負っている。一方で、自らの権能については、かなりの疲労状態にある。とても万全の状態とはいいがたい。

 そんな。

 リチャードに向かって。

 あたかも。

 花の。

 下の。

 連歌のように。

 次から。

 次へと。

 打撃が。

 斬撃が。

 連続して。

 一揆。

 同心。

 一体化する暴力。

 華やかなる陶酔。

 どうっと、蒼ざめた薔薇の波瀾のように落ちてきた花鬼の軍勢に対して、リチャードは、必死に、死に物狂いで、抵抗した。しかしながら、そのような抵抗の全てが絶対的に無意味であった。なぜなら、いうまでもなく、空間とも時間とも無関係に、結果というものは、始まりよりも先に決定しているからだ。

 リチャードは、新しく生やした両方の翼にセミフォルテアを導通させて。そうして、周囲一帯を一気に切り裂く。この、たった一撃で、十数鬼の花鬼が真っ二つにされたが。それでも全体からしてみれば一パーセントにも満たない被害に過ぎない。しかも、それだけではなく、真っ二つになったくらいであれば、花鬼はすぐさま再生する。

 リチャードを掴んでくるその花鬼の腕を逆手に掴んで、荒々しくぶん投げる。そうして投げられた花鬼は、別の花鬼に、別の花鬼に、別の花鬼に、ぶつかって。ボウリングのように薙ぎ倒していく。それから、最終的には、大地に叩きつけられてぐちゃりと潰れる。あるいは、すぐ近くまで来た花鬼を引っ掴んで、ばらばらに引きちぎる。その爪で叩き切り、その手のひらで握り潰し、その拳で殴り飛ばす。まさに、物狂おしい修羅の有様によって、凄まじい修羅の舞を舞い踊る。

 花を掴み、花を投げ、花を引き裂き、花を切り、花を潰し、花を叩き、花を踊って花を舞う。ああ、なんという華美華麗な無意味であろうか。リチャードはこれほどまでの暴虐、これほどまでの蛮力でありながらも、それでも押されていた。花鬼の軍勢は、壊されても壊されても、まだまだ残る大量の使い捨ての人形が、面白い人形遊びのように襲い掛かってくるからだ。次第に次第に、リチャードは、その大群の中に埋まっていき沈んでいき、やがては身動きが取れなくなる。

 そうして。

 その後で。

 とうとう。

 リチャードは。

 花鬼によって。

 右の腕を。

 左の腕を。

 右の脚を。

 左の脚を。

 右の翼を。

 左の翼を。

 把握されて。

 掴取されて。

 強く。

 強く。

 締め付けられる。

 リチャードは、まるで花畑に横たわっているかのように。とはいっても、その姿勢は、上半身は真っ直ぐ直立したまま、下半身は無理やり大地に膝をつかされているような、そんな姿勢であったのだが。とにかく、花の海の中に飛び込んでしまったかのように。その全身を花鬼によって拘束された。

 リチャードは、吠える、吠える、吠え猛る。ほとんど意味をなしていない言葉、誰も理解出来ないほどに恫喝的な、雷鳴のような罵倒によって。

 そのようなリチャードの口の中に花鬼は花びらを詰め込んでいく。リチャードによって粉々に撃ち砕かれた仲間の花鬼の残骸だ。リチャードの口の中はどんどんといっぱいになっていって。結局のところ梨轡を食らわせられたような状態になる。

 ただ、それでも、リチャードは黙ることがない。リチャードはノスフェラトゥであって、そもそも音声言語はついでのようなものだ。周囲に向かって、凄まじい悪意の、凄まじい瞋恚の、ノソスパシーをぶち撒ける。くらくらするような意思の絶叫。

 これほどまでに凄まじいノソスパシー。もしも人間のような下等な生物が被曝すれば、間違いなく思考の機能に恒久的な破綻をきたしてしまうほどのサイコジャミングであった。しかしながら、とはいえ、幸いなことに。この戦場には、そのような下等な生物は一匹たりとも介在してはいなかった。ここにいるのは、ここで相対しているのは、二人の化け物だ。つまり、リチャードと呼ばれている一鬼の修羅と、それから……砂流原真昼と呼ばれている、一鬼、の、菩薩。

 さて。

 その。

 真昼は。

 今。

 一歩。

 一歩。

 その足を踏むごとに。

 まるで。

 花を。

 屠って。

 いる。

 かの。

 よう。

 な。

 そのような。

 無量の。

 慈悲の。

 歩き方に。

 よって。

 拾玉得花。

 を。

 歩いて。

 くる。

 その背後に、とてもとても豪奢で、眩暈がするほど素晴らしい、花束の背景を背負いながら。いうまでもなく、その背景とは、恭しく傅くかのように、真昼の周囲、ゆらゆらと浮かんでいる無数の花鬼のことである。リチャードの悪足掻き、二枚の翼を、ぎりぎりのところで差し止めたところの花鬼達である。

 真昼は間違いなく満身創痍であった。全身は、本来であればばらばらな断片であるはずの幾つかの肉塊を、力の波動で無理やり一つにしているだけの代物でしかない。それに、蔓延する苦痛、侵食する疲労、の、せいで。立っているだけで極限状態とでもいうべき状態である。

 だから、ほとんど襤褸雑巾を引き摺り引き摺り歩いているようなものだった。ずるり、ずるり、足をまともに上げることさえ出来ず、自然と摺り足になる歩調。ぼたりぼたりと、どす黒く腐りかけた血液が、腐臭を放ちながら、全身の傷口から滴り落ちている。まるで動く死体。

 しかしながら、それでも、笑っていた。真昼の仮面は、例えば、まるで、教会の中に閉じ込められたままの、この世の醜悪さなど何一つ知らないままの、聖体拝領の衣服を身に着けた若い乙女のような顔をして笑っていた。

 くすくすと、声が聞こえている。いつものような、あの、くすくすという声が。繊細な白い花びらと、繊細な白い花びらと、地獄から吹いてくるこの風によってすれ合っている音だろうか。真昼は、純粋無垢に笑っていた。

 リチャードは、声なき声、炸裂するような疫病の遠隔感応によって絶叫していたが。その、くすくすという、邪悪な声が聞こえてくると。不意に、テレビの画面を唐突に消すみたいにして、その絶叫をやめた。そして、完全な静寂のままで……その、恋をしているように美しい少女の到来を見つめる。

 生命を食らう。

 その生き物の。

 最も惨憺たる。

 無言の、殺意。

 随分と……まるで、恋の手ほどきのように、随分と焦らされるものだ。この、たった数ダブルキュビトの距離を、真昼は随分と時間をかけてやってくるものだ。とはいえ、それも仕方がないといえば仕方がないことだろう。あまり早く歩いてしまっては、いわんや走るようであっては、真昼の身体は耐えられない。激しい運動に耐えられるものではないのだ、下手をすれば、接着している肉片と肉片とがばらばらにほどけてしまうかもしれない。

 花の上を這っていく蛞蝓のように、ゆっくりと、ゆっくりと、その軌跡に腐りかけた血液を滴らせながら、真昼はやってくる。それを、ただただ、主の幻と主の御使いとを待ち受けるかのようにして待ち受けているリチャード。

 やがて。

 真昼は。

 そこに。

 辿り着く。

「リチャード・グロスター・サード。」

 るう。

 るう。

 と。

 無傷の。

 子羊の。

 ように。

「星供の歓待はご満足頂けましたか?」

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