第三部パラダイス #59

 まずは真昼が口火を切った。「口火を切る」という表現は、むしろライフェルド・ガンナーであるリチャードに相応しい表現ではあったが。それはそれとして、真昼が、右の腕、その刀螂匕首をリチャードに向かって振り下ろした。リチャードはそれを受けて反撃する。あたかも先ほどの攻撃の意趣返しをするかのように、その一撃をやすやすと左手で掴み取って、そのまま真昼の運動エネルギーを滑らせるかのようにぶん投げたのだ。当然、こうくることは真昼の想定の範囲内だった。だからこそ、事前に、脚にも刀螂匕首を取り付けておいたのだ。真昼は、ぶん投げられざまにぐるんと身体を半回転させる。そうすることによって、足の刀螂匕首をリチャードに突き刺そうとしたのである。両脚揃えて突っ切ってきたその刃、リチャードは、空いていた方の右手でやすやすと弾き返す。ぱんっと衝撃を受けた真昼の両脚は、そのまま放物線を描くように回転する。ぶん投げられた本体とともに、一旦はリチャードから撤退する過程を辿っていく。そして、いうまでもなく、それを追撃しないはずのリチャードではないのだ。両の翼を回転させながら、あたかも一個の惨たらしい独楽のように真昼に向かって突進する。しかも、それだけではない。あちらからこちらから真昼を狙って合計八枚の翼が襲い掛かってきていたのだ。これは端的にいって真昼にとっては一巻の終わりであるように思われた。いや、まあ、この物語は既に第三部に入っているので、正確にいえば三巻の終わりといった方が正しいかもしれないが。それはそれとして(二回目)、真昼は、絶命はなくとも少なくとも絶体ではあるように思われた。しかしながら、このことこそが真昼の付け入ることが出来るリチャードの唯一の隙であった。このこととは、つまり、リチャードは出来る限り真昼の命を奪うまいとしているということである。真昼は、むしろ、首筋を剥き出しにして。誘惑するかのように、蠱惑するかのように、妖艶な舞踏によって空間を揺らめいた。その揺らめき、当然ながら八枚の翼はそれを断ち切るというわけにはいかない。普通であれば、人間は首を断ち切られれば死んでしまうからだ。その瞬間、若干ではあるが、翼と翼と、その距離に間隙が出来る。真昼は、一気に、その間隙を突っ切る。ああ、極微。すんでのところで害虫は取り箱の中から逃れた。それから、その害虫は、空中で身を翻した。先ほどまで自分の身体を切り裂こうとしていた翼。腕を切り裂こうとしていた翼を、脚を切り裂こうとしていた翼を、とんっとんっと踏んでいく。その翼の、チェーン・ソウの、支配者の方向へと。先ほど、リチャードは、独楽のように回転していたと書いたが、これは独楽で遊んだことがある者なら誰でも分かることであると思うが、独楽というものは、回転中、横方向には一切の脆弱性がないのだが、その真上はがら空きである。真昼は、翼に翼を飛び継いで、リチャードの頭上へと達すると、まさにその独楽の真上に攻撃を仕掛けた。具体的には、両手のひらを組み合わせ、その先の刀螂匕首、あたかも一振りの巨大な剣のようにしてリチャードに叩き込んだということだ。さて、一方の叩き込まれたリチャードであるが、まさにこれを待っていた。これは兵法の基本中の基本であるが、隙を作るということは、その隙をつかれることを狙って行なうことである。リチャードは、まさに自らの頭上を攻撃されることをこそ求めていたのだ。真昼の剣が到達する瞬間に、その直前に。ずるり、と、何かが歪んだ。いや、何かが断ち切られた。つまり、リチャードの背中に生えていた二枚の翼が、誰にも触れられないままに、自動的に切除されたのである。そして、そのまま、ふわり、と、まるで蓮華の花が咲くかのような態度によって。しかし、とはいえ、一気に上昇してきた。いうまでもなく、真昼がいる方に向かってだ。この攻撃方法の素晴らしいところは、この回転する刃、その中心には攻撃が及ばない箇所があるということである。もともとはリチャードの本体があった部分。いわば颶風における目のような部分だ。この部分に、ちょうど、真昼の頭部及び胴部がすっぽり入るようになっている。要するに、その目の外側、両腕と両脚とだけがちょうどよくスラッシュされることになるというわけだ。そう、このままでは、真昼は間違いなくムートナイズされる。どうするか? 迫る、迫る、迫る、新しく誕生したチェーン・ソウが迫ってくる。そして、まさに、その瞬間に、真昼は、今まで秘していたところの切り札を使った。今だ、今だ、それを使うのは今しかなかった。さて、それでは、真昼は何をしたのか? それが出来たのに、出来ないはずがなかったのに、それなのに、今まで、一切それをしなかったところのそれ。つまりは、デウスステップだ。真昼はデウスステップをした。そう、今の真昼に、神力体術を使えるほどの強者であるところの真昼に、それが出来ないはずがなかった。真昼の姿は息を飲む間もなく消えた。その直後、その真昼の姿はリチャードのすぐ真下に現われる。今まさに上が下になり下が上になった。真昼は、剣を振り下ろすその姿のまま、上下を逆転してリチャードの真下に現われたということだ。そのまま、真昼は、リチャードを、頭上からではなく足下から真っ二つにしようと突貫する。ただしここに一つ問題があった。それは、真昼がデウスステップを行なえるのと同じように、リチャードもやはりそれを行なえるということだ。真昼の攻撃が直撃する直前。あたかも先ほどの光景を、真昼とリチャードとを入れ替えてトレースしたかのようにリチャードの姿が消えた。それから、今度は、真昼のすぐ背後にリチャードが現われた。リチャードは斧鉞を振り上げて真昼を狙っていた。その両腕を一時に振り上げて、真昼の両腕を叩っ切ろうとする。しかしながら、その瞬間、またもや真昼の姿が消えた。さて、この後に起こったことは大概の予測通りである。つまり、リチャードが消え、真昼が消え、リチャードが消え、真昼が消え、何度も何度もその繰り返し。デウスステップに次ぐデウスステップ。互いが互いの背後の取り合いだ。けれども、だが、とはいえ。それは永遠に続けられるわけではない。以前にも書いたことであるが、デウスステップというのは、一回一回が全力疾走にも似た魔力の消耗を伴うものなのだ。つまるところ、このような交互に行なわれるデウスステップの泥仕合というのは、端的にいって消耗戦なのである。そして、それが消耗戦である以上は、真昼に勝ち目があるわけがない。数回が十数回になり、それが数十回に至るころ。とうとう真昼に限界が来た。リチャードの背後にデウスステップを果たした刹那、くらり、と真昼の世界が傾いだ。精神に限界が来たのだ。ただただ一瞬、ごくごく僅かの刹那でしかなかったが、真昼の思考がぐにゃりと歪んだ。そして、それを逃すリチャードではなかった。次の瞬間には、リチャードは、デウスステップをしなかった。ただただぐるりと振り返っただけだった。そして、それから、両腕を振りかぶる。両手のひらを組み合わせて作りだした一個の巨大な拳を振りかぶる。その口が勝ち誇ったように些喚く「さて、俺の勝ちだ」。リチャードは、その拳を、叩き込む。

 その瞬間こそ。

 相即相入。

 真昼の。

 身体は。

 あたかも。

 苦痛の中で。

 リチャードと。

 溶け合うように。

 弾き飛ばされる。

 真昼は……真昼は、辛うじて防御していた。つまり、リチャードが拳を振り下ろす直前に、自らの両腕を交差させて。その交差点にあの防壁の盾を作り出していたということだ。しかしながら、リチャードはそうなることも十分予測していた。リチャードが、なぜ両手のひらを一つの拳としていたのか? いうまでもなく、真昼が防御策を打ってくると理解していたからだ。このような盾に対しての攻撃であれば、分散した二つの力によって切りつけるよりも一つの巨大な力を叩きつける方がいい。

 真昼の、ぎりぎりのところで行なわれた抵抗は、呆気なく破壊された。リチャードの拳が叩き込まれたその瞬間に、その盾は粉々に砕け散った。そして、そのまま、真昼の体は空間を突っ切っていった。真昼にとって、これは幸いなことであったのかそれともその反対であったのか、それは分からないことであるが。真昼が吹っ飛ばされた方向は、ちょうど真下の方向であった。つまり真昼は大地に向かって吹っ飛ばされたということだ。

 ここで、赤と白と、以外の、全ての色が返ってくる。ああ、これは実有か仮有か。真昼が感じている全てのこれが仮有であるというのならば、それならば果たして実有が有りうるのか。無いということさえ無いのならば、その仏法は本当に有るべきものなのか。そもそも何が本有なのか、ここにある全てのものは、一体なんであるべきなのか。しかしながら、現時点の真昼は、そんなどうでもいいことについて考えている暇などなかった。

 as soon as possible。

 真昼の身体は墜落していって。

 そうして。

 その後で。

 黒の色。

 岩盤に。

 激突する。

 これで、大地と、これ以上ないというくらいまざまざと甘やかな抱擁を交わすのも何度目になるだろう。いちいち数えてはいないが、真昼は、こうやって叩きつけられるのにも随分慣れてきていた。最初のころは、力の波動で緩衝してみたり受け身をとってみたり、そういったことをしてみていたものだが。もうそういうことをするのもやめてしまうほどに慣れてきていた。

 折れそうな骨は大体折れてしまっている。潰れそうな内臓は大体潰れてしまっている。岩のざりざりとした感触に刮げ取られるべき皮膚は焦げて消し炭になってしまっている、こんなものあってもなくてもさして違いはない。力の波動を展開すれば、激突の衝撃も少しはマシになるかもしれないが。そもそも真昼の身体、その内側は、既に大量の力の波動が注ぎ込まれている。骨を補修したり、内臓を補修したり、あるいは肉が剥がれたところに張り付けて肉の代わりにしたりもしている。要するに、真昼の身体の大部分は力の波動によって包み込まれた状態にあるのだ……というか、力の波動そのものと入れ替わってしまっているのだ。それならば、いちいち外側にそれを展開する必要もないだろう。

 とにかく、真昼は、岩盤に突っ込んだ。それに勢い良くぶつかって、自分自身の弾性により跳ね上がった。川面を水切りしていく他愛もない石ころのように、何度も何度も岩盤の上を跳ねていって。その後で、ようやく、停止した。

 毎度毎度のパターンだ。とはいえ、今回、少し違ったところもあった。真昼は、暫くの間、立ち上がることも出来ず笑うことも出来なかったということだ。今までは、その両方か、あるいは少なくとも片方は出来ていたのに。

 真昼は沈黙していた。あたかも秘密の中にいるかのように。あるいは秘密をうちに秘めているかのように。そのどちらであろうか。そのどちらかであるかということはとても重要だ。真昼がそれが重要なことであると思っている以上に。真昼は沈黙していた。死んでいるかのように。しかし、死んでいないということは、「死」というそれそのものに対して相対することが出来るほど有効であり得るだろうか。真昼は動くことが出来なかった。指一本、その指先さえ。ただただ、目を開いたまま、口を開いたまま、仰向けに横たわっていた。

 はっ、はっ、はっ、はっ、とでもいう感じ。凄まじいスピードで呼吸を繰り返している。まるで全力疾走をした後で、更にもう一度全力疾走を繰り返した、その後であるみたいにして。そう、真昼は疲れていた。疲れ切っていた。

 たかが人間に過ぎない身体で数十回のデウスステップを繰り返したのだ。真昼は魔力・精神力ともに限界になっていた。例えていうのであれば、それは、世界最高の計算能力を持つディープ・ソート・コンピューターであっても数百万年かるような計算を、この数秒間で、数十回、繰り返し繰り返し計算し続けたような疲労感であった。

 もう何も考えられない。それどころか脳髄には全身を動かすだけの余裕さえ残されていなかった。もちろん、人間は、中枢神経系の指示によって肉体を動かしている生き物だ。そして、今の真昼には、そのような指示を出すだけの思考能力も残っていなかったのである。ただただ呼吸をするだけで精一杯だった。

 それでも……疲労だけであれば、なんとか耐えられたかもしれない。この肉体を蝕むものが疲労だけであれば。しかしながら、いうまでもなく、真昼を襲っているのは疲労だけではなく、苦痛もまた同様であった。

 苦しみと痛みと。それは既に真昼の一部になっていた。真昼が鏡を覗いたら、まるで腫瘍のように、その二つは真昼の顔面で醜く蠢いているだろう。全身は内側も外側も傷だらけで、その傷口の一つ一つが激痛を叫ぶ口であった。あるいはうまく呼吸が出来ない苦しみ。それに、ただただ漠然と、何が理由かも分からないままに苦しいという苦しみ。

 ああ、痛い、苦しい、それに疲れた。痛いだけならなんとかなる。苦しいだけならなんとかなる。疲れただけならなんとかなる。しかし、その全てがいっぺんに真昼にのしかかり、その肉体をぺしゃんこにしようとしている。ああ、とてもじゃないがなんともなりそうにない。動かない、動かない。動かせないのではなく、そもそも動くものではない。

 そのようにして。

 横たわっている。

 真昼。

 の、視界が……覆い隠された。ということは、真昼は暗い暗い空の方向、暗く広い海の海面があるはずの方向を見ていたわけだが。その空が、ふっと、遮られたということだ。暗黒が、真っ白に輝く無数の燃え盛る金属のような光によって覆い隠された。

 あまりの眩しさに真昼は直視し続けることが出来なかった。目を焼かれてしまわないように、目を細める。それは目の当たりにするには力強過ぎる栄光であった。そう、あたかも太陽であるかのように。神の目が真昼のことを見下ろしているかのように。

 除暗遍明の大日。美しい、美しい、この世界で最も美しい生き物が、真昼の真上、雲に乗って現われたかのような神々しい有様によってそこにいた。その生き物を刺し通した者は、まさに今、その生き物を仰ぎ見ている。恐れよ、恐れよ、その生き物は報いを携えてきた。

 ああ、つまり、リチャードがそこにいた。真昼が横たわっているその場所の真上。おおよそ数ダブルキュビトの上空に。全身が、満ち満ちて満ち溢れたセミフォルテアによって光り輝いている。人間ごときでは到達出来るはずがない、鬼的ゼティウス形而上体であるからこそ到達することが出来る極点。

 右の翼を、左の翼を、垂宝瓔珞の厳飾であるかのように広げて。そうして、更に、十数枚の回転する翼、大日金輪を従えて。リチャードは、ただただ、真昼を見下ろしていた。その表情には光以外の何ものも浮かんではいなかった。怒りも、憎しみも、あるいは、傲慢さえも。それは絶対的に正しく間違いのない純種のノスフェラトゥの表情であった。つまり、殺意以外のあらゆる感覚を失った、純粋無垢な生き物の表情であった。

 リチャードは何をしているのか? 注意深く量っているのである。真昼が受けたダメージの重さを。そのダメージによって、真昼が受けている影響がどの程度の量であるのかということを。真昼は、これからリチャードが行なおうとする行為に対して抵抗が可能なのか。真昼は、そもそも、立ち上がることが出来るのか、動くことが出来るのか。真昼という生き物の危険性について評価していたのだ。もしも、仮に、真昼が、突然、反撃してきたとして。それに対する再反撃の準備は十分整っていた。リチャードは、もう、手を抜くことはしないのだ。リチャードの背後には、この戦場の全てのチェーン・ソウが勢揃いしていた。真昼の身体、あらゆる方向から狙いを定めていた。

 それから。

 真昼の。

 仮面は。

 それを。

 見上げていた。

 真昼は、真昼は……いつまでもいつまでもこうしている気など、さらさらなかった。あははっ! そう! そうだ! あらゆる苦痛が、あらゆる疲労が、真昼にとって「生きている」ということそのものであったのだから。真昼は確かにそれに耐えられなかったが、それは、真昼がそれを嫌悪したりだとか恐怖したりだとか、そういう意味で耐えられなかったというわけではない。あまりにも多量の生の喜びによって、この肉体という器が耐えられなかっただけだ。だから、肉体が、ほんの少し、ほんの僅か、回復してきて。指先だけでも動かせるようになると……真昼は、即座に、貪婪に、その生の喜びを貪ることを再開した。

 指先を動かした。手首を動かした。腕を動かした。ゆらゆらと、その手のひらが岩盤の上を撫でて。それから、ぐっと、それを掴んだ。それから……いつもならば、ここで、腕の力によって上半身を起こすところであるが。真昼の筋肉はとっくのとうに限界を迎えていたため、腕の力ではいかんともしようがなかった。だから、真昼は、ふわふわと自分の周囲を浮かんでいた力の波動。その力の波動を上半身に纏わせた。

 引き摺るように、というよりも、比喩でもなんでもなく、実際に引き摺り起こす。力の波動が真昼の全身を無理矢理に立たせる。両脚の欠損、で、あるかのように、動こうとしない両脚。その両脚にぐるりと結び付いて。そこから、右脚と左脚と、その両方の力の波動が腰の辺りで合流する。その二つの力の波動の流れ、腰の辺りから、ぐさり、ずぶり、真昼の肉の中に潜り込んで。背骨の周囲、ぐるぐると螺旋を回転するように巡らせて。そして、そのようにして、力の波動を支柱とすることによって、ようやく真昼は立つことが出来た。まあ、このような状態を「立つ」と呼ぶことが出来るとすればの話であるが。

 多足類のように頸椎に巡り巡った力の波動が、真昼の首筋を動かす。そうすることによって、真昼は上を見る、真昼は見上げる。その先にいるリチャードのことを。天の明星、海面に反射する明星の姿。太陽が鏡に映った太陽。真昼の仮面は、それを見て、笑う。声を立てずに。音を立てずに。完全な静寂のままに、悪魔そのものの顔をしてにやりと笑う。

 その顔を。

 見ている。

 リチャードは。

「へぇ、そうか。」

 軽く。

 首を。

 傾げて。

「まだ、立てんのか。」

 惨劇のような瞋恚に。

 表情を、捻じ曲げて。

 その後で。

 こう言う。

「はっ! さすがはデナム・フーツの部下なだけはあるぜ。だが、とはいえ、立てなかった方が、てめぇにとっては良かっただろうよ。なぜかといえば、俺は、てめぇに、慈悲をくれてやるつもりなんてないからだ。何度でも何度でも言ってやるよ。俺は、一切、てめぇに対して、手を抜かねぇ。つまりだ、てめぇが、どんなにぼろぼろだろうと、どんなに死にかけていようと、てめぇがまだ立つことが出来る限り……手足を切らせてもらう。てめぇが、絶対に、俺に歯向かうことがないようにな。」

 リチャードは、右手を挙げた。先ほどから煌々とした光を放っていた、全ての、全ての、チェーン・ソウ。より強い、よりまばゆい、見た者の目から突き抜けてその内側の生命さえも焼き尽くしてしまいそうな発光を開始する。とうとう、リチャードは、真昼にとどめを刺すことにしたようだ。

 それから、リチャードは。自らも、そのような光輝によって光り輝きながら。花嫁のために着飾った夫のように、天からくだってくる御座にいますかたのように、光り輝きながら。世界の終りの災害を告げる声にも似た声によって叫ぶ「さあ、これで終わりだ!」。そして、真昼に向かって、地のおもてに立つ一匹の獣に向かって、燦然と、燦爛と、コンフラグレーションする。

 ああ。

 燦々。

 光が。

 光が。

 美しい光の軍勢が。

 天空から降り注ぐ。

 ところで、ここで、一応、リチャードが何をどうしようとしていたのかということ、その作戦について簡単に触れておくことにしよう。いや、作戦というほどのこともない。至極単純な話だ。つまり、死に損ないながらも死に物狂いで大地に立っている真昼、その真昼を仕留めるのは、他のどのガーディアン・サーヴァントでもなくリチャード自身がそれをしようとしているということ。

 リチャードはこの攻撃で全てを決めてしまうつもりであった。確かにバックアップの作戦はあるが、それでもここで終わらせられるならば終わらせた方がいい。時間というものは経過すればするほどに不確定要素が増えていくのだから。だから、今、ここで、終わらせる。ほかならぬリチャードが、絶対的な確実性によって、真昼の、腕、脚、を、切り飛ばそうとしているというわけだ。

 これは、ちょっと考えると、いつものリチャードの浅慮であるように感じられるかもしれない。真昼のような生き物、下等ではありながらもこの上なく危険な獣、を、相手にする時には。それが例え手負いであっても極力自分で取り扱わない方がいいものである。それにも拘わらず、自分が最前線に向かうということ、手負の獣と相対することは、どう考えても賢い選択とは思えない。

 ただ……実は、リチャードは、そのような危険性とは全く別の危険性を感じ取っていたのだ。それは、真昼の現在の形姿に関連している。いや、違う。物理的な次元の形姿の話をしているわけではない。人間には見えないが、純種のノスフェラトゥには魔学的な構造のようなものが見える。つまり、その魔法がどのような観念によって成り立っているのかということを感じ取れるのだ。

 そのようなリチャードの観点から見ると。実は、真昼をこのような相貌として成り立たせている魔法が方相氏の造成のための魔法と著しい類縁関係にあるということが分かる。恐ろしいほど捻じ曲げられ、信じられないほど歪められてはいるが、それでも、今の真昼は間違いなく方相氏に近しい何かなのだ。

 ということは、今の真昼は、侲子術を使うことが出来る可能性があるということである。つまり、真昼の周囲に浮遊している力の波動を使って、自分の身体と対象となる何かとを繋ぐペリ・サイケースを作り出す。そして、その何かを自分の思いのままに操作することが出来る可能性があるということである。

 無論、当然のことであるが、真昼ごときがリチャードを侲子とすることなど出来るはずがない。何せ真昼は人間なのだし、それ以上に、今の真昼の精神力は、度重なるデウスステップで疲弊し切っている。不可能性の上に更なる屋上屋の不可能性である。まあ、「屋上屋を架す」という言葉は「屋上屋」「を架す」わけではなく「屋上」「屋を架す」なので、「屋上屋」などという単語はないのであるが。そこら辺は雰囲気で感じ取って貰うとして、とにかく、リチャード自身には危険性はない。

 問題なのはリチャードの身体から切除された翼である。それらの翼は、神力体術の必要性、外部からの入力に対してかなり重大な脆弱性を有している。ということは侲子術によって操作されてしまう可能性がないわけではない。あると断言出来るほど大きな可能性ではないが、ないわけではないのだ。そうである以上、僅かでも危険性がある以上、その方法を使うわけにはいかない。ということで、リチャードは自分で始末を付けることにしたわけだ。

 実は……このリチャードの推測は完全に的中していた。真昼は、まさにその方法によって逆転を図っていたのだ。真昼は、リチャードがこちらを本気で扱うことにした以上、何か特別なことがない限り、こちらの方相子としての能力を勘付かれない限り、リチャード本人が攻撃を仕掛けてくることはないと考えていた。ごくごく少ない危険であっても、それが必要のないものであれば冒すことはあるまい。それならばチェーン・ソウを放ってくるしかないはずだ。真昼は、確かに、デウスステップによって精神力のほとんどを使い切っていた。ただ、それでも、まだ最後の最後の一手は残っていた。リチャードが、攻撃のために、それらのチェーン・ソウを真昼に向かって放ってきた瞬間に。デニーの強化の魔学式を精神力に応用した魔学式を何重にも何重にもかけることによって、そのごくごく僅かの精神力を爆発的に強化するつもりだったのだ。確かに、そうしても、リチャードの精神力には到達出来ないだろう。それでも、チェーン・ソウを何枚か味方につけることくらいは出来る。そして、それらのチェーン・ソウを使ってリチャードに反撃を仕掛けるつもりであったということだ。

 ただ。

 しかし。

 その方法は。

 封じられた。

 わけだ。

 これが獣と獣との戦闘の本来の姿だ。基本的に、それは現実において実際に行なわれるものではない。あくまでも可能性の内側で、潜勢力と潜勢力との潰し合いである。自分がどのような攻撃をすると相手が予想しているか。相手のパターンを、読んで、読んで、読んで、それを最後に読み損なった者の負けなのだ。だから、互いがするはずであった無数の攻撃はそれらが現勢力となる前に消え去る。消し去られる。

 現実において攻撃がなされる時には、既に勝負はついているというのは、こういう意味だ。そして、この攻撃に関しては、残念ながら真昼がそれを実行に移す前に消し去られてしまったということだった。

 とにもかくにも、真昼に向かって空間を疾駆したのはリチャードだった。とはいえチェーン・ソウになんらかの役割がなかったというわけではない。それらのチェーン・ソウは、真昼に向かってリチャードが疾駆し始めた瞬間に、その周囲、あたかも円を描くかのようにして一周を囲った。つまりリチャードを中心として直径数ダブルキュビトの円周上に置かれたということだ。それから、その円がもう一つ出来る。それから、更にもう一つ。結果的に、円は、一重だけではなく三重になった。

 現時点で全てのチェーン・ソウは十八。なので、一つの円周ごとに六のチェーン・ソウである。そうして、それらの円、その一つ一つが、リチャードよりも少し前方に、あたかも円筒の檻を作り出すかのように配置された。

 あたかも? 違う。確かにそれは檻であった。真昼がリチャードの攻撃から逃亡しないように、その内側に閉じ込めるための檻だ。また、その檻は、もう一つ、万が一にも真昼がリチャードに反撃を行ない、その万が一にも更に万が一にも、そういった反撃がリチャードに当たりそうになった時に。その攻撃を防ぐために、周囲から攻撃を仕掛けるという役割をも有していた。まあ、今の真昼は立っているのもやっとというような状態であるため、恐らくは何も出来ないだろうが。念には念を入れておくに越したことはない。

 ああ。

 このようにして。

 真昼は。

 完全に。

 追い詰められた。

 わけである。

 今までとは比べ物にならないくらいの全面的なクライシスであった。自分の外側にも、自分の内側にも、このクライシスから逃れ出られるような兆候が一切見当たらない。外側、セミフォルテアを満たしたチェーン・ソウによって閉じ込められていて、そうして、始祖家のノスフェラトゥによって狙撃されている。内側、物理的な肉体は襤褸屑のように使い物にならず、また精神力も魔力もほぼ底をつきかけている。あっははは! まあ、なんと、随分と絶望的だな。例えるならば殺虫剤を吹きかけられて死にかけている虫が、更に新聞紙で叩き潰されそうになっているようなものだ。この状態でどうすればいい? どうすればなんとかなる? 無理だ。考えるだけ無駄だ。どうしようもないしなんともならない。

 それなのに。

 それでも。

 真昼の仮面は。

 笑っていた。

 いつものように。

 純粋で。

 無垢で。

 まるで、開かれた手のひらのように。

 その上に何もない手のひらのように。

 ただ。

 ただ。

 笑っていた。

 波羅蜜、波羅蜜多、摩訶分陀利華。その姿は、まるで、浄土に咲く大蓮華が花開くその瞬間の熾然赫奕のごとく。例えるならば、一枚一枚のチェーン・ソウが一枚一枚の花弁であり、リチャードはその蓮華座の中心に座している一羽の熾天使だ。それは、まさに華厳の凄まじさによって真昼の頭上に降り注いでくる。一人の人間を間違いなく滅ぼそうとして降り注いでくる、硫黄と、火と、燃え盛る溶けた真鍮の洪水。

 真昼は……真昼は……見上げていた……真昼の仮面は、白痴のように晴れやかな低能のイノセント。こおう、こおう、マンドルラの光の中で一切が空になるその瞬間が間近に迫っている。このまま、真昼は、敗北するしかないのか? 結局のところ、真昼の全ての抵抗は無意味であり、真昼の全ての瞋恚は無力な燈明のように吹き消されてしまう小火に過ぎなかったのか?

 失笑。

 そんな。

 わけが。

 ないだろう。

 「はは……ははははっ! そうかそうか。お前は、あたしが、このままおめおめととどめを刺されるような、そんな、無力な、無知な、少女に過ぎないと考えているわけか」。真昼の仮面の表情が、その瞬間に転変した。あたかも戯曲曲芸における変臉のように。それは、唐突に、絶対的な激怒、絶対的な憎悪、リチャードのその瞋恚など、子供の火遊びであったかのように掻き消してしまいそうなほどの凄まじい炎に変わり果てた。真昼の仮面、口を開く。獣が牙を剥き出しにするかのようにして口を開く。真昼は、禍々しく咆哮する「舐めてんじゃねぇええええええええぞぉおおおおおおおおクソ野郎がぁああああああああっ!」。

 そして。

 それから。

 その瞬間。

 真言、マントラ。

 真昼の。

 全身に。

 この世界で。

 最も。

 美しい。

 美しい。

 愛の言葉が。

 浮き上がる。

 ああ、それは、そう……デニーの魔学式であった。真昼がデニーと出会った後、互いをよくよく知り合う前に著わされたところの愛の告白。それが、まるで真昼の絶叫に呼応するようにして光を発し始めたのだ。

 しかも、ただ輝いただけではない。もともと、真昼の身体、服に覆われた部分の大部分に刻まれていたその魔学式。まるで、自ら、自然に、増殖していくかのように。何か奇妙な蛆虫が体細胞分裂によって増殖していくかのように。更に、更に、真昼の身体に広がり始めたのだ。

 腕から手、指先に。脚から足、爪先に。腹から胸、性の交わりにおける淫らがましい愛撫のように首筋を伝っていき、顔に感染する。耳、鼻、目、それに、いうまでもなく口。あらゆる穴という穴に入り込んで、身体の内側までをも蝕んでいく。真昼の全身が、疫病のように輝く。

 要するに、その魔学式は、今まさに重化されていた。強化の魔学式に強化の魔学式が適用されて、更にその上に強化の魔学式が重ねがけされて。それを何度も何度も繰り返し繰り返し。先ほど書いた可能性のこと、消え去ってしまった潜勢力のことを覚えているだろうか? まあ、よほど記憶力がミニマムスモーレストであるか、そもそもまともに読む気がなく読み飛ばしているかしない限りは覚えていらっしゃるでしょうが。真昼は、もしもリチャードが自分自身で攻撃を仕掛けてきていなかったら、魔学式を何重にも何重にもすることで精神力を強化するつもりであった。現在、真昼がしているのは、それであった。

 ただし、その世界線とは一点だけ違いがあった。真昼が多重強化しているのは精神力だけではなかったということだ。あらゆる身体的機能を、科学的な側面からも魔学的な側面からも、多重強化していたのだ。

 感染した疫病によって、真昼の身体は膨れ上がる。肉体も、観念も、凄まじい勢いで悪性の腫瘍が増殖しているかのように。これは……つまり……耐えられない。人間が耐えられるようなレベルを超えている。

 例えるならば、本来であれば一ログしか入らない水風船の中に十ログの血液を流し込んでいるようなものである。普通なら弾け飛ぶ。もし仮に運良く破れなかったとしても、間違いなく風船の皮膜は使い物にならないほどに歪む。

 しかし、そのようなことは些細なことであった。真昼にとっては、そんなことはクソどうでもいいことであった。この瞬間を生き抜くことが出来ないのであれば、一秒後の自分が健やかに幸福に生きることになんの意味がある? 一秒後の自分は所詮は他人だ、他人のことなど気にしている暇など、今のあたしには存在していない。真昼はどうでもよかった。それ以外のことは。つまり、リチャードを、殺すと、いうこと、以外は。一秒後に、もし弾け飛んでしまうとしても、それでもリチャードを殺すことに懸けること以外、真昼に出来ることはなかった。なぜなら、真昼は、そうするべきだからだ。

 夜空に無数に輝く。

 蛍火光神のごとく。

 真昼の。

 全身が。

 殺意の。

 炎に。

 焼かれる。

 ああ、星よ、あの星よ。最後の最後のその瞬間までまつろうことをしないあの星よ。真昼は、鬼神のごとく地を蹴った。その右腕には、巨大な月光刀が出来上がっていた。左手の、右足の、左足の、纏わりついていた全ての力の波動を一転に集中させて作り上げた大太刀。その大太刀を持つ右の手には、重藤が、先ほどとは比べ物にならないほどの極端な巻き数によって巻き付いていて。そして、その大太刀に、真昼の身体に残っているセミフォルテアの全てを掻き集めていた。

 間違いなく、最後の最後の一撃を放つつもりだ。そうであるようにしか見えなかった。あらゆる生命の象徴を、生きてきた過去も生きるはずの未来も、その全てを月光刀の一直線に集めて。それをリチャードに向かって叩きつけようとしているようにしか見えなかった。

 それは、もう声ではなかった。このオルタナティヴ・ファクトの全てが叫んでいた。世界そのものの共鳴。地鳴り。海鳴り。そのような叫喚によって、真昼は、リチャードに向かって突っ込んでいった。

 最も。

 単純な。

 殺意の。

 直線形が。

 リチャードを。

 切り裂こうと。

 襲撃する。

 それに対してリチャードは……結局のところ、怒りと怒りと、憎しみと憎しみと、そのような戦いにおいては、冷静で論理的な者が敗北する。リチャードは、真昼の殺意を見て、その思考の回路を反射的に自己保存の方向に切り替えた。より危険のない方へ、より安全な方へ、向かう回路だ。

 恐らくは、恐らくは死ぬことはない。いくら多重強化しているとはいえ、そもそもの真昼が瀕死の状態であったのだ。万全の状態の真昼が全力で放った一撃さえも生き延びたリチャードである。確かに大打撃を受けるだろう。腕の一本くらい獲られるかもしれない。それでも死ぬことは恐らくない。

 ただ、とはいえ、「恐らく」である。先ほどの文章で三度も繰り返してしまったが、それほどまでにこの想定には確信がない。なぜなら、相手が、あの砂流原真昼であるからだ。これまで何度も何度もリチャードは想定を裏切られてきた。今回に限ってそれが起こらないということは断言出来ない。

 断言出来ない以上は、わざわざこのまま馬鹿正直に突っ込んでいくのは馬鹿馬鹿しい。ノスフェラトゥの本能が、リチャードに、何があっても生き残れと囁いている。

 幸いなことに、真昼は、限界まで強化した自らの身体の全ての力を月光刀に注ぎ込んでいる。いうまでもなく精神力も。真昼にはもう余分な精神力などからっからに残っていないのだ。それが何を意味をするかといえば、つまりは、真昼は、侲子術を使うことは出来ないということだ。

 それならば。

 チェーン・ソウで。

 真昼を。

 切り刻むこと。

 躊躇する。

 理由など。

 一つも。

 ない。

 「誰々をチェーン・ソウで切り刻むことを躊躇する理由など一つもない」ってめちゃめちゃ物騒な文章だな。生きながらに他人をチェーン・ソウで切り刻むことを躊躇する理由は色々とあると思いますが? 倫理的な理由とか道徳的な理由とか。とはいえ、ここには倫理も道徳も一切存在していない。ここは、この場所は、ラインの上だ。あらゆるものを残酷かつ無慈悲に二つに断絶してしまうラインの上。決定しなければいけない場所。選択しなければいけない場所。破壊によって破壊を破壊しなければいけない場所。殺戮によって殺戮を殺戮しなければいけない場所。もしもお前が相手を惨たらしく殺さなければ相手がお前を惨たらしく殺すというのであれば、お前が絶対に泣き叫ぶような拷問の末に相手がお前を殺すのだ、その時、お前は、果たして正義でありうるか? お前はお前が生き残るために相手を殺さずにいられるか? ここは、アーガミパータは、そういう場所だ。そこには倫理も道徳もあり得ない。ただただこの一瞬の選択だけがありうる。

 そして、リチャードはその選択をしたわけだ。刹那、真昼とリチャードと、二人の周囲を閉じ込めていたところの三重の円。蓮華の花弁、十八羽の回転する天使達が、真昼に対してその刃を向けた。比喩的な表現でもなんでもなく、チェーン・ソウの刃が真昼に向かってギャロップしたのである。

 もちろん、リチャードには真昼を跡形もなく粉々に切り刻むつもりなどなかった。まずは月光刀を持っている右腕を切り落として、その後は、まあ、他の手足を切り落として。それで終わりにするつもりだった。念のため、他のチェーン・ソウも、真昼のごくごく近く、一ハーフディギトも離れていないところまで集結させていたが。それは、あくまでも念のため、真昼が妙な真似をした時の備えとしてそうしていただけであった。

 さあ、これに対して真昼はどうするか? 真昼には、もう、逃げ道はない。翼、翼、翼、主の全能によって燃える炎のように光り輝く天使の翼によってあらゆる方向を囲まれている。右も左も前も後も、あるいはそのように飛翔する足元さえもが翼によって狙われている。一方で、真昼自身はといえば、その月光刀以外の何ものも持っていない。自らの身体的能力の全てを、持ち得る権能の全てを、その月光刀に懸けた。その月光刀でその翼の全てを叩っ切ることが出来るか? 切って、切って、切り捨てて、そして、その後で、リチャードに敢然と立ち向かうことが出来るか? 残念ながら、それは不可能である。真昼には、あと一撃を繰り出すだけの身体的能力しか残されていない。もしも一枚の翼を切り落とせば、その後は、リチャードのなすがままにされるしかない。ああ、どうだ、どうだ! これほどの絶望的状況! 真昼はいかにしてこの状況をひっくり返すつもりなのか! 真昼は、真昼は、さあ、真昼の次の一手は一体何か!

 さて。

 真。

 昼。

 は。

 何もしなかった。いや、比喩ではない。嘘を書いているわけでもない。本当に何もしなかった。一切の抵抗を行なうことなく、ただただ、唯々諾々と、そのままでいた。真昼の右腕にチェーン・ソウが迫る。処刑の刃が迫る。だが、真昼は、何もしなかった。いや、それどころか、そのチェーン・ソウが近付いて近付いて……ああ……次の瞬間……すぱんっと景気のいい音を立てて、真昼の右腕を、軽々しく、やすやすと、切り飛ばした。

 真昼の身体能力の全てが懸けられたその月光刀。いとも容易く、真昼から奪い取られた。その、真昼の、あらゆる力の塊は。いかにも無残に、いかにも憐憫に、くるくると回転しながらあらぬ方向に吹っ飛んでいく。

 なんだ? なんだ? これは一体どういうことなのか? リチャードは完全に混乱していた。何かすると思っていた。真昼が、何かを、リチャードの思いもよらない方法によって、攻撃を仕掛けてくると思っていた。だが、真昼にはそのような様子はまるでなかった。ただただ、その武器を、あたかも無条件降伏に際して一切の抵抗の手段を差し出すかのように喪失しただけだった。

 しかも。

 しかも。

 それだけではなかった。

 真昼は、次の瞬間に動いた。しかしながら、その行動はリチャードが全く想定していなかったものであった。つまりリチャードは、真昼が自分に向かってくると考えていた。自分に対して命懸けの攻撃を仕掛けてくるものだと思っていた。それに対して、真昼が実際にしたことは……その場で、ぐるんと身をひねらせるということだった。

 全身を、この暗く広い海を泳ぐ怪物の哄笑であるかのように、勢いよく捻じ曲げた。全身を、あらゆる方向に対して突き出した。結果として、どうなったか? 真昼の全身は、リチャードが、完全に、全然に、思惑していなかったことになった。つまり、ばらばらに切り刻まれたということだ。

 恐ろしいほどクルーエルに。信じられないほどブルータルに。真昼の全身は、ナンセンスなまでにグロテスクな有様によって切断された。体の部分部分が、誰も食べようとしない腐りかけた刺身のように掻っ捌かれる。手が、足が、腕が、脚が、腰が、腹が、首が。チェーン・ソウによって、誰も理解出来ない抽象的な前衛芸術のようにフラグメントする。

 真昼の部分部分が、あちらこちらに飛散して吹っ飛ぶ。いや、とはいえ、それほど粉々というわけではなかった。まあ、例えば手のひらだとかはちゃんと一つの塊であったし、何より、頭部は切断されることなく一つの個体のままであった。それでも、その頭部は胴体から完全に切り飛ばされていたが。

 真昼は、そのようにして一つ一つのパーツに分かたれた。当然ながら、このような状態で生きていられる人間はいるはずがない。これは、完全に、リチャードの想定外の出来事だった。リチャードは真昼のことを殺してしまうつもりなどなかったのだ。ただただ行動不能にするだけのつもりだったのだ。

 だから、この瞬間、リチャードは完全に虚を衝かれた形になった。このようなことが起こるということ、全然予測していなかったのである。いや、正確にいえば、予測はしていた。リチャードは純種のノスフェラトゥであって、いついかなる時も、人間とは比べ物にならないくらい無数の予測をしている。このような出来事も、そういった予測の中に、一応は含まれていた。けれども、とはいえ、真昼がこのようなことをする確率など限りなくゼロに近いはずだった。だって、真昼はリチャードを殺そうとしているのである。何がなんでも、絶対に、何ものと引き換えにしようとも、リチャードを殺そうとしているのだ。それにも拘わらず、こんな風に、自ら、死に向かってその生命を曝け出すなんて。そう、リチャードは、この予測が現実になることはほぼほぼあり得ないと思っていた。リチャードは、わけも分からぬまま、何が起こったのかも分からぬまま、「な……しまっ……!」と口ずさむ。その結果として、リチャードにほんの僅かな隙が生まれる。

 ああ!

 ああ!

 その瞬間。

 真昼の仮面は。

 ぞっとするような。

 サタン。

 まさに。

 主の。

 光輝を。

 遮ろうとする。

 金の目。

 金の口。

 金の星の。

 笑いで。

 笑って。

 そう、笑った。真昼は笑った。その切り飛ばされた首で笑ったのだ。それはあり得ないことであるかのように思われた。まさか死人が笑うなんて。いや、あり得るのか? 例えば、人間という生き物は、首を断ち切られても、その後の数秒間は生き続けることが出来るという。この笑いはそういう種類の笑いなのか?

 いや、違う、絶対に違う。真昼の笑いは、明らかに死にゆく者の末期の笑いではなかった。それは会心の笑いだ。あらゆることが自分の想定の通りに運んだ時に、自らの自らによる自らへの祝福として笑われるその笑いだ。

 その証拠に、笑っている真昼の頭部は、あたかもそのような軌跡を描くことを予め図っていたかのようにしてリチャードがいるその方向へと飛んでいく。真昼の頭部は、くるくると、回転しながら、あたかも戯れ遊びのようにして、リチャードの真ん前、その視界を遮ってしまうほどの距離までやってきて。

 そして。

 それから。

 真昼は。

 カララン。

 アフトン。

 その胞衣の内側で。

 死の。

 胎児が。

 歌う。

 刹那。

 リチャードの口元に向かって。

 口づけでも落とすかのように。

 その口元が。

 こう、囁く。

「地獄節曲舞。」

 リチャードの目の前が赤に染まった。いや、それどころか、その感覚の全てが赤一色以外の何ものも感覚しなくなった。リチャードは、その瞬間に、絶対的な赤の中に投獄された。

 「はっ!?」とリチャードは叫ぶ。「おい! おい! なんだよ!」と続ける。しかし、一切の答えはなかった。そのうちに、あまりにも唐突な、全面的な混乱の中で。リチャードは、ようやく気が付く。ああ、感覚だけではない。閉じ込められたのは感覚だけではない。リチャードの身体そのものが、その全身が、この赤の中に閉じ込められている。

 何が起こっているのか? 一言でいうならば、墜落が起こっている。リチャードは落ちていたのだ。大地の方に向かって、重力加速度そのままに落ちていたのだ。まあ、正確にいえば、諸々の抵抗力があったわけで、自由落下ではなかったのだが。そこら辺は文学的な虚飾であるとしてご理解頂きたい。

 なんにせよリチャードは墜落していた。その墜落に対して、リチャードは一切逆らうことが出来なかった。翼は? リチャードの背に生えた翼は? クソの役にも立たなかった。それは、セミフォルテアの力によってリチャードを飛翔させることが出来なかった。それどころか、動きさえもしなかった。

 籠中の蝙蝠。空しく、ただ何もかも夢であったかのように。落ちて、落ちて、落ちていって。リチャードは、とうとう、吐き捨てられたガムか何かみたいにして、べちゃりという音、無情に、冷淡に、岩盤に叩きつけられた。

 べちゃり? この音。明らかに一鬼のノスフェラトゥが岩盤にぶつかった時の音ではない。これは、もっと、何か、液状の音。粘性を有する液体がぶつかった時の音だ。リチャードは自分を閉じ込めている何かの中で暴れ狂う。ぐにゃりぐにゃりと柔らかく、まるで堕胎されたばかりの死児を包み込んでいる胎盤みたいだった。べちゃりという音は、この何かが表わした音に違いない。

 そうして暴れ狂っているうちに、リチャードは、更に、更に、気が付いたことがあった。何に気が付いたのか? べちゃりという音が、たった一度だけ起こった音ではなかったということだ。べちゃり、べちゃり、リチャードの周囲で、全く同じ音が、何度も何度も不快に響き渡る。具体的にその回数をいえば、リチャードのそれを除いて十八回。

 これらの音は……つまり……チェーン・ソウだ。リチャードの身体から自切されて、神力体術によって操作されていた十八枚の翼。全部、全部、リチャードがそうであったのと同じように、胎盤状の何かに閉じ込められて、抵つことも出来ず抗うことも出来ず、ただただ惨めに落ちてきたということだった。

 これは、なんだ? 一体どうしたというのか? リチャードは、その肉体においては気が狂ったように猛り荒れていたが。ただ、思考においては極めて冷静であった。そして、考えていた。自分自身に、あるいはガーディアン・サーヴァントに何が起こったのかということを。

 全ての始まりは、あの真昼の仮面の艶めかしい笑みであった。まるで死を、死そのものを受胎したその瞬間の、死神の母親のような艶やかな笑み。真昼の仮面は、そのような笑みのままに、そっと、唇で柔らかく愛撫するかのようにその口を開いて……そうして……その後で……ああ、そうだ。その後で、その口から、血反吐が吐き出されたのだ。

 リチャードの顔面に向かって、真昼の仮面は、大量の血液を嘔吐とした。いや、違う。あれは血液ではない。もっと悍ましい何か、もっと惨たらしい何か。真昼が自由自在に操作することが出来る、禍々しい液体。つまりは力の波動。

 たった頭一つ分の容量の中に、どうやってこれほどの体積の力の波動を溜めておいたのかと思ってしまうほどの、洪龍が、その口から洪水を吐き出しているのではないかと思ってしまうほどの量。ああ、そうだ、ちょうどマイトリー・サラスの中心にあった岩山。東西南北の四方向から突き出していたカリ・ユガの彫像。その口が湖水を吐き出していた、あれほどの勢いで、真昼は力の波動を吐き出したのだ。

 しかも、それだけではなかった。力の波動が吐き出されたのは、真昼の仮面の、その口からだけではなかったのだ。真昼が、チェーン・ソウによって切り刻まれた、幾つも幾つもの傷口。手首の切断、足首の切断、腰、腹、胸。それに、もちろん、真昼の頭部、それを胴体から切り離したところの首筋の傷口。首と首とを真っ二つに切り裂いたその傷口からも。大量の力の波動が、サンダルキアを押し流し、アレクの山を海の底に沈めた洪水のように、燦々と、爛々と、降り注いだのだ。

 燦爛する邪悪。散乱する絶対悪。真昼の、一つ一つの傷口から溢れた力の波動は、真昼とリチャードとが相対していたその戦闘領域の全体に広がった。まあ、とはいっても、あくまでも最低限の範囲に過ぎなかったが。要するに、リチャードと、十八のチェーン・ソウと。合計して十九のそれらの標的が広がっている範囲の全体ということだ。

 幸いなことにそれらの標的は、真昼に対してとどめを刺すために一箇所に集合していた。幸いなことにというか、真昼がそうなるように仕向けたわけなのだが。それはそれとして、それでも、直径として十ダブルキュビト程度の球体の、その全体に遍満するほどの力の波動だった。そして、そのような力の波動が、リチャードを、十八のチェーン・ソウを、閉じ込めたということだ。

 ああ。

 それは。

 その様は。

 クレイジーな。

 乗楽心。

 あたかも。

 地獄から。

 聞こえてくる。

 闌曲に。

 合わせて。

 スウィングで。

 グルーヴな。

 ダンスを踊って。

 いるかのように。

 真昼の。

 一つ。

 一つ。

 の。

 肉塊。

 が。

 噴き出す。

 力の波動。

 の。

 ステップに。

 合わせて。

 ハララ。

 ハララ。

 ヒラルリ。

 クルラ。

 この。

 暗く。

 広い。

 海の。

 中を。

 軽やかに。

 舞い踊る。

 真昼は、真昼は、大声を上げて笑っていた。あたかも気が狂った天女が笑っているかのように。あたかも気が狂った天女に引き裂かれている一匹の鬼が笑っているかのように。これ以上ないというくらいの、麁鉛風、哄笑、に、よって、笑っていた。そして、そのような笑い声とともに、その口からは……力の波動が、どうどうと、ごうごうと、吐き出されていた。

 これほどの力の波動は一体どこから湧き出てきたのか? そもそも真昼の体内にはそこそこの量の力の波動が蓄積されていた。身体が損傷を受けた各部分を補修するために、そこここに継ぎ当てられていた力の波動である。真昼は、そのような力の波動を、チェーン・ソウが自分の身体を切り刻んだ瞬間に爆発的に増加させた。力の波動は不確定性なので、その量を増加させたり減少させたりすることは他愛もなく簡単なことである。

 こうして、あたかも疫病によって腐敗した血液が、全身に開いた穴という穴から、暴流、噴出、するかのごとく。真昼の口という口から力の波動が吐き出されたわけだ。

 その力の波動が、リチャードとその軍勢とを、原形質流動によって獲物を捕食する原生生物であるかのようにして。もっと正確にいえば、まさにアビサル・ガルーダのアンチ・ライフ・エクエイションに潜んでいたゾクラ=アゼルがリチャードを包み込んだようにして、獲したというわけだ。

 いうまでもなく、リチャードとその軍勢と、触れた瞬間に。力の波動は変化した。それはリチャードが有するあらゆる力を遮断する何かになった。それは……いうまでもなく、セミフォルテアをも遮断する能力を有した何かだ。その結果として、リチャードとその軍勢と、飛行する能力を喪失したということである。

 ちなみに、この質料は、恋重荷を形成していたそれとは異なったものだ。恋重荷は、ただ単に攻撃に対するアンチマテリアルを形成するものである。一方で、この何かは。二つの種類の質料が、何重にも層をなして作り上げられたものだった。

 層の、一種類目の質料。それは物質であった。正確にいえば、「完全な物質」に極めて近い物質であった。妖質を、魔子を、ほとんど含んでいない物質ということだ。そう、真昼は覚えていた。デニーが話していたことを。つまり兎戮の民のことを。その身体に魔子をほとんど含んでいないために魔学的エネルギーの干渉を一切受けない生き物のことだ。この物質はそれを応用したものだった。真昼は決定の力によってこの物質からほとんどの魔子を取り除いた。こうすることによって、相手の妖質に影響を与えることが出来ないが、一方で、相手の魔学的エネルギーの行使からも影響を受けない物質を作り出したということだ。もちろん、「完全な物質」は、人間に作れるようなものではない。ただ、それでも、真昼は、それに限りなく近い物質を作り出した。

 そして、層の二種類目の質料。アンチ・ラベナイトだ。こちらに関しては繰り返しになってしまうので特に説明はしないが、リチャードがライフェルドの傲慢によって質料を突き破るのを阻止するためのものである。

 この二種類の生地で出来たミルフィーユがリチャードを包み込んでノスフェラトゥのパイにしているというわけだ。こうすることによって……リチャードは、少なくとも、暫くの間は、行動不能のままでいるだろう。

 美味しい美味しいイチジクのパイ。もちろん、いつかは、この質料も破られる。物質は、完全に、魔学的エネルギーを遮断出来るわけではないし。それに、それ以前の問題として、セミフォルテアとは全く関係なく、ただ単に物理的に突き破るという方法も、リチャードには残されていないわけではないのだ。とはいえ、現時点では、リチャードは、その軍勢は、完全に、閉じ込められた。

 さて、これが。

 地獄節曲舞だ。

 真昼が、自分の身体を犠牲にしてまで放った大技。ところで、そういえば、その真昼はどうしたのだろうか。いや、まあ、どうしたのだろうかも何も、全身を切り刻まれて、ちょうどいい大きさの肉塊に成り果てたわけであるが。そういうことをいっているわけではなく、その後にどうなったのかということだ。

 肉塊の一つ一つが、力の波動を吐き出し終わった後で、やはり、リチャードその他と同じように落下していった。ただ単なる生ゴミのように。ただ単なるガーベッジのように。無意味な投棄のようにして落下していった。

 ただ、一つ、とてもとても、凍り付いた銀の串で背筋を突き刺されるような、ぞっとするようなことがあった。そのように落下した後も。ぐしゃりと、頭の、五分の一が、潰れた、後でも。真昼の仮面は笑い続けていた。

 確かに、その笑いは、既に哄笑とはいえないものになっていた。それは、弱々しく、死にかけているかのような、切れ切れの笑いだ。「は……ははは……ひひ……ははは……」といったような。だが、その笑いは、その底の底に、凄まじさというか、一種の不気味さのようなものを孕んでいた。

 これは、一体、どうしたというのか? 明らかに何かが奇妙なまでに狂っている異常な捩じ曲がりのおかしいほどに歪んで壊れた気違い沙汰だ。ただ、何がイカれちまってるのかということが分からないのだ。真昼は……真昼は、死んでいるのか? それとも、今、まさに、死んでいるのか? つまり、前者はdead、既に死人であるのかと問うているのであって。後者についていえばdying、今、死に向かって状況が進行しているのかという問い掛けであるが。どちらであるにせよ……そうであるならば、真昼が、あれほどの犠牲を払ってすっぱしったところの地獄節曲舞は完全なる虚無の意味だったことになる。

 なぜというに、というか、なぜといわずともまっさらさらに自明の理であるが。つまるところ地獄節曲舞は、いかにもど派手なその見かけといかにもど洒落たその名前と、に、反して、もう全然足止めの意味しか持たないからである。しかも、その足止めに関しても、ごくごく短時間の効果に過ぎない。この質料は、耐セミフォルテア性と耐ベルカレンレイン性と、その二つに特化してしまっているために、単純な物理攻撃に対してはさほど強固ではない。始祖家のノスフェラトゥの身体能力によって、これほどまで強力に抵抗されてしまったら、せいぜい数分しかもたないだろう。

 もしも地獄節曲舞によってリチャードを殺すことが出来るのであれば。あるいは、そこまでいかなくても、この牢獄によって永遠にリチャードを閉じ込めておけるというのであれば。それはまあ、真昼が払った犠牲にも意味があったといえる。だが、数分程度、閉じ込めておくというだけであるならば。その間に、真昼が何かをリチャードに対して仕掛けるとでもいうのでもない限り、いかなる大技であってもなんの意味もないのである。つまり、真昼が、生きて、リチャードを殺そうと出来ないならば。地獄節曲舞は、リチャードにちょっと不快感を与えるだけになってしまう。

 果たして、地獄節曲舞は、真昼が死の間際に放ったところの、捨て鉢の嫌がらせに過ぎなかったのか? 全身がべとべとするし、めちゃめちゃ動きにくいし、鳥黐に引っ掛かったみたいでなんか嫌だなと、そう相手に思わせるだけの攻撃に過ぎなかったのか? それとも……それとも、意味のある足止めであったのか?

 結論からいおう。

 それは。

 つまり。

 足止めだった。

 真昼は生きていた。生きていたというだけではなく、これだけ全身をばらばらに切り刻まれて、しかも、その上、落下の衝撃であちらこちらが潰れてしまっているというのに。それでもまだ、そういったあらゆる傷は致命傷ではなかった。

 その証拠に。

 ほら。

 ご覧。

 ご覧よ。

 散乱した力の波動は、実は、リチャードだけに降りかかった災いではなかった。それは、実は、真昼に対して降りかかった幸いでもあった。

 リチャードが墜落した場所、そこから数ダブルキュビトほど離れた場所に真昼の残骸は落ちていた。それは、リチャードが墜落する際に、力の波動が、その墜落の位置を真昼が落ちていくはずの地点からかなり離れたところにずらしていたからだが。とにもかくにも、真昼の、手は、足は、腰は、腹は、胸は、それに、頭は。まるで要らないものとして放り棄てられただけとでもいうかのようにして、がらくたのように転がっていた。

 そして、それらのがらくたが落ちている場所には……そこここに、力の波動が作り出した、小さく、浅い、水溜まりのようなものが出来ていた。

 力の波動の大部分は、リチャードを閉じ込めるのに使われていたが。ごくごく一部が、このような水溜まりを作っていたのだ。しかし、これはなんのための水溜まりなのだろうか。真昼が、このような有様になってしまったせいで、思うように力の波動を操作出来ずに、一部がこのように滴ってしまったというだけなのか?

 いや、違う。全然違う。この水溜まりは、戦略的に、まさに必要性から発生した水溜まりだった。今! 今! その水溜まりが、ふるりと、揺れて、揺らめいた。

 まるで、生きている、甘い、甘い、ストロベリイ・ゼリイの生命体であるかのように。それらの水溜まりは、ふるふると震えながら、移動を開始した。原形質流動の触腕を伸ばして、ずるり、ずるり、と、岩盤の上にその全体を引き摺っていく。

 水溜まりのうちの一つが、真昼の残骸のうちの一つに、辿り着いた。その触腕がその傷口に触れた。ちょうど、それは、真昼の左手の残骸であった。触腕は、ずるり、と、その傷口に入り込む。水溜まりの大部分が左手の内側に飲み込まれる。

 ぴくり、と指先が動いた。左手、小指、薬指、中指、人差指、親指。まるで世界の感触を確かめるかのように、慎重に、慎重に、その指先を動かしていく。

 それから、左手は、ずるり、ずるり、と、岩盤の上を、移動していく。自分の指先を使って。あるいは、傷口から、ほんの少しだけだらだらと流れ落ちている力の波動、に、引き摺られるかのようにして。

 そのような。

 現象が。

 真昼の。

 残骸の。

 あらゆる部位に。

 起こり始める。

 手、だけではない。足に、腰に、腹に、胸に。手のひらのように繊細な動きが出来ない部位は、まあそういう部位がほとんどなのだが、ぐにり、ぐにり、と、蠕動運動で岩盤の上を這っていく。こぼれ落ちた内臓。切れ切れになった腸は、それが小腸か大腸かも分からないが、蛇のように這いずっていく。あるいは、肝臓だとか腎臓だとか膵臓だとか、肺のような形をした内臓は、力の波動によってころころと転がされていく。

 そして……頭部は……笑っていた。笑いながら力の波動に運ばれていた。その笑いは、しかし、それをどう表現すればいいのだろう。ほんの僅かな風に吹かれて、桜の亡霊がさわさわと些喚いているかのような。遠い遠い山の上、黒々とした雲の中で、夏の遠雷が聞こえてくるかのような。月の光が透明に照らし出す光景、世界を凍り付く白い闇に覆い隠してしまう雪。

 ああ。

 そう。

 真昼は。

 幽玄に。

 笑って。

 その、柔らかい、振動に、よって、全てが、揺れて、揺れて、揺れて、いた。一つ一つの粒子が、一つ一つの波動が、震盪していた。ああ、まるで蠅の羽音のようだ。蠅の羽音のように、何もかも、震えている。真昼の残骸の、一つ一つが、震えながら引き摺られていく。

 そうして、力の波動は、真昼の残骸をどこに運ぼうとしているのか? あちらこちらの水溜まりは、それらの全てが、一つの地点に向かっていた。その地点に向かって、四方八方に飛び散った真昼の残骸を集積しているのだ。

 まずは足が運ばれてきた。その上に下腿が運ばれてくる。その上に太腿が運ばれてくる。腰が、腹が、胸が、その上に運ばれてきて。そして、胸の側面に右肩と左肩とが運ばれてくる。上腕が、前腕が、運ばれてきて、それから手のひらが運ばれてくる。

 こうして運ばれてきた一つ一つの残骸が……接着される。傷口と傷口と。鋭い刃で切り離されて、セミフォルテアの熱量によって焼かれた、その二つの残骸が、力の波動によって無理やりに継ぎ接ぎされる。こうして無数の破片が一つになっていく。

 そのようにして。

 出来上がった。

 一個の。

 身体の。

 上に。

 真昼の。

 頭部が。

 運ばれてきて。

 ああ。

 それから。

 それから。

 煉欺。

 拷泥。

 爬裡。

 眩寂。

 假塑体の犠牲。

 理行の施賭場。

 真昼の。

 仮面は。

 また。

 その身体。

 再生。

 する。

 真昼の仮面の、その、枝残る花のような笑い顔。真昼は……死んでいなかった。そう、あれほどの傷を負っていながらも、未だ、その生命の疎隔性はいささかも侵害されていなかった。魄は破壊されておらず魂は個体限定範囲にとどまっていた。あらゆる意味で、真昼は生命体のままであった。

 果たして、いかにしてこのようなことが可能であったのか? それは、つまり、明かしてしまえばこんなものかと拍子抜けしてしまう手品の仕掛けのようなものだが、要するにマネリエス・フォーミングの効果であった。

 真昼がグレイによって蹴り飛ばされた時にも書いたが……デニーによって真昼の魄に施された修復は、今となってもその権能を維持していた。以前もデニーが言っていた通り、それは、デニー自身であるというよりも、デニーの解釈なのである。デニーが観念として観念したその観念こそがマネリエス・フォーミングを形成している。だから、仮にデニーが死んだとしても、それが真昼に対して及ぼすことが出来る権能を失うようなことはないのだ。

 つまり。

 今の。

 真昼は。

 「破壊の非破壊性」の。

 状態にあるということ。

 真昼は、自らの痛みを消してしまえるだけではない。自らの破壊を破壊ではなくすることが出来る。いくら、刻まれようと、潰れようと、木っ端微塵に滅ぼされようと、真昼にとって、その損傷は損傷として機能しないのだ。

 いや、真昼が不死であるというわけではない。確かに、切られたり、高いところから落下したり、そういったことで死ぬことはない。それでも、絶対に死なないかといえば、イモータルだとかデミ・イモータルだとかそういうことなのかといえば、それは違う。所詮、真昼はデニーの解釈によってこの世界に繋ぎ留められているというに過ぎないからだ。だから、そのようなデニーの解釈を破壊出来るくらいのダメージを与えられれば、さすがにそのダメージに耐えることは出来ない。

 リチャードが本気で真昼を殺そうとすれば殺すことが出来るだろう。リチャードには、デニーの解釈を掻き消すだけの力がある。ただ、先ほどのリチャードの攻撃は本気ではなかった。本気の御稜威をその神力体術としていたわけではなかった。なぜなら、リチャードは、真昼のことを、そのように解釈された人間であると思っていなかったからだ。ただの人間だと思っていたからだ。そして、そのような人間に対して本気の御稜威によって攻撃を行なえば。それは、手足を切り飛ばすだけで済むわけがない。その人間は、間違いなく、御稜威によって焼き尽くされて死ぬ。

 リチャードは、真昼が死なないように調整して攻撃を行なった。それこそがリチャードの失策であった。真昼を見誤ったということ。それこそがリチャードの敗因であった。リチャードは、まず、真昼と相対したその瞬間に、真昼を粉々に弾き飛ばしておけばよかったのだ。そうして、指先ほどの大きさになった破片を箱に詰めて、それをREV.Mに渡せばよかった。それで、全然、任務を達することが出来たのだ。なぜなら、真昼は、そのような状態になっても死ぬことはないのだから。

 まあ。

 そんなこと、を。

 いったところで。

 ポスト。

 フェスティヴァル。

 ディプレッション。

 であるが。

 ところで、そのようなリチャードの愚昧は置いておくとして。以上の事実から一つの疑問が出てこないだろうか。まあ、出てこないなら出てこないで全然構わないのであるし、その生において一つの疑問もない生というのはそれだけで素晴らしいものだ、ただ、とはいえ、その疑問が疑問として立ち現われてこない限り話が進まないので、ちょっと一方的ではあるが提示させて頂こうと思う。それは次のような疑問である。つまり、なぜ、真昼は、今まで、このような「破壊の非破壊性」を利用してこなかったのか。

 いくら引き裂かれても死なないのであれば、もう少し大胆な攻撃が出来たのではないだろうか。めちゃくちゃといってもいいような勢いで相手の懐に突っ込んでも。その結果として首の一つや二つが吹っ飛んでも。それでも死なないというのならば、そのような犠牲と引き換えに、もう少しくらいは戦闘を有利に進めていけたような気がする。真昼はどうしてそうしなかったのか。

 二つの。

 理由が。

 ある。

 まず一つ目は、これを、最後の最後の切り札としてとっておいたという理由だ。これは、まあ、考えてみれば当たり前の話だが、首を切断されても死なないというのは、その現象が人間という生き物に起こるからこそびっくりするのであって、それは人間が信じられないほど脆弱な下等知的生命体だからである。例えばノスフェラトゥは首を切り落とされたくらいでは死なない。この程度の頑丈さは、実は、珍しくもなんともない。

 ということは、どういうことかといえば。真昼が首を切断されても生きていたとして、確かに最初の一回はリチャードも驚くだろう。しかし、その瞬間にリチャードは真昼のことをそういう生き物だと認識する。そして、戦い方を、そういう生き物に対する戦い方に変更してしまう。そうなれば二回目はもう通用しないのだ。リチャードは、ただデニーの解釈を消滅させるくらい強い御稜威によって真昼の手足を切り飛ばすだけだ。

 つまり、この手は一度しか使えない。一度、リチャードから思考の盲点を奪い取るのにしか使えないのだ。ということで、真昼は、ここまで追い詰められるまでは、リチャードに手のうちを明かすことをしなかった。

 そして。

 もう一つの理由。

 それは。

 単純に。

 負担が。

 大き過ぎると。

 いうこと。

 確かに死にはしない。だが、消耗は起こる。デニーの解釈も底なしであるというわけではないのだ。デニーが真昼のすぐそばにいて、その解釈の減少、即座に補填することが出来るような状態にあればいいのだが。そうではない場合、そういった減少は、苦痛だとか、疲労だとか、あたかもそういったものであるかのように蓄積していく。

 結果的に、真昼はずたずたのぼろぼろになっていく。攻撃は、効果がないわけではない。ただ真昼を破壊出来ないというだけだ。攻撃には間違いなく効果がある。真昼の身体は四つに八つに引き裂かれたまま、力の波動によって無理やりに継ぎ接ぎされているだけだ。苦痛も限界を超えている。疲労も限界を超えている。真昼の身体は、もう、まともに動かない。

 ああ。

 だから。

 今。

 真昼は。

 揺らめく。

 星の。

 影の。

 ように。

 揺らめいて。

 その身体さえ。

 支え切れずに。

 がくりと。

 頽れて。

 膝をつく。

 正確には、両方の膝をついたわけではなく、左膝をついただけであった。そのまま前に向かって倒れ込みかけた上半身、岩盤の上に左の手のひらをついて支える。その勢いで、左肩と胸の側面とを接着していた力の波動が一瞬剥がれかける。奇妙にずれた二つの肉塊の間から、どろり、と粘液を滴らせる。それから、ぐちゃん、という音を立てて、もう一度その切断面がくっつく。

 左膝をついて。右膝を立てて。左の手のひらは岩盤の上につけたまま。右の手のひらは、左の膝の上に置く。真昼は……ぜひゅー、ぜひゅー、と、荒い息をしていた。死にかけた恒星が、ほとんど消えかけた光を明滅させているかのように。ゆっくりと、ゆっくりと、息を吸って、息を吐いて。

 もちろん真昼には呼吸など必要ない。ただ、それでも、何かをしていないと気を失ってしまいそうだった。何か、規則正しくこの身体の実在性を支えてくれるような行為をしていない限り、自分というものが、ふいと消えてしまいそうだった。

 それほどまでに真昼は消耗していた。それはそうだ、よく考えて欲しい。皮膚は剥がれ、肉は焼け、骨は砕け、内臓は潰れ、血液の大部分は流れ落ちた。体力は尽き果てた。魔力も精神力も、もうほとんど残っていない。痛い、苦しい、すごく、すごく、疲れた。しかも、その上、この身体は既にばらばらに切り刻まれているのだ。今のこの状態を保っているのは、所詮、力の波動で応急処置をしているからに過ぎない。壊れてしまった人形の手足を接着剤でくっつけているだけに過ぎない。はははっ、笑っちまうぜ、馬鹿馬鹿しいほど哀れだ。

 端的にいえば、真昼はほとんど全てのものを失った。人間が望みうる身体的幸福は、健康は、健全は、もうほとんど残っていない。真昼は……今の今まで知らなかった。自分というものを、まるで鑢で削るかのように、少しずつ少しずつ失っていくということがありうるなんて。真昼は、ずっとずっと、生き物には生きるか死ぬかの二つしかないと思っていた。しかし、それは完全な間違いだった。生き物は、生きながらに死にいくことが出来る。そして、今、真昼は生きながらに少しずつ少しずつ死んでいた。

 真昼が。

 未だ。

 手放して。

 いないのは。

 決して止めることの出来ない。

 この。

 胸の。

 鼓動。

 だけ。

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