第三部パラダイス #58

 さて……空、空、空になる。無想だ。無願だ。要するに、ここで、この物語自体が一時停止することを余儀なくされる。なぜかといえば……つまるところ……どういうことかというと……その光景を言語化しようとすれば。そのようにして並べ立てた言葉は、白紙の上に黒く記された瞬間に破裂するだろう。言葉は言葉として役に立たなくなり、この世界から消え去るだろう。形式素のレベルで粉々に砕け散った後、まるで虚無から現われて虚無へと消えていく風に、ふっと吹かれて消え去ってしまったかのようにして、あらゆる生き物が、あらゆる知的生命が、そのような言葉を忘却したことさえも忘却してしまうだろう。

 嘘ではない。本当だ。これはまるで比喩表現ではなく、断固とした事実である。なぜそう断言出来るのかといえば、そう、実際に試してみたからだ。その光景を描写してみようと、知りうる限りの言語、頭蓋骨の中にあるだけ全部の言葉を使って試してみた。しかしながら、そのように試した瞬間に。この白紙の上に書きつけられた単語は、単語として、世界から、歴史から、完全に消滅してしまった。読者の皆さんは、そうして失われた言葉を、もう二度と思い出すことがないだろう。そもそも、あなた方は、そのような言葉が失われたということさえ知ることが出来ないだろう。

 要するに、何がいいたいのかといえば……それは、それほどまでに凄まじい力の炸裂であったということだ。真昼がリチャードに叩きつけた、星、星、星、星の墜落。真昼が名付けた名前で呼ぶならば極星悪尉は。

 信仰、と、さえ呼べるだろうか。恐らくそれは信仰以前のものだ。信仰よりも前にあり、信仰を形作るはずのもの。純粋なサケル。純粋なオルギア。それは秘儀ではない。それは覆い隠されていない。それは、あららぐような、開けっ広げの、ヌミノーゼ。つまるところ力そのものの表われであるところのゾーハル。

 だからこそ、それは言語を受け付けない。たかが人間の言語を受け付けることなどあり得ないのだ。言語はそれほどまでの観念の力を受け止めることが出来るようには出来ていない。ということで、書き留められた瞬間に、それがもたらすところの観念の力に耐えることが出来ず、その統辞は深層構造から破綻をきたす。

 これを表現しようとするならば、恐らくは、魔学式によってそれをする以外には方法はないだろう。記号としての言語の中では最も純粋であるとされている言語。しかし、とはいえ、読者の皆さんのうちの大半は魔学式を読むことが出来ないはずだ。どう? 読める方いらっしゃいます? 少ししかいらっしゃいませんよね? ということは、即ち、エブリバディにこの光景を伝える方法は存在しないということになるわけだ。

 従って。

 とにかく。

 起こったこと、だけを。

 箇条書きで書いていく。

 ことにする。

 まず真昼は右のガントレットと左のガントレットとを合わせることによって凄まじいパラメーター変化を引き起こした。そのようにして作られた一つの巨大な拳は極性悪尉になった。真昼は一度の跳躍によって到達した地点、上空約五十ダブルキュビトの地点から一気にリチャードに向かって突貫した。この際、ただ落下したというだけではなく、極性悪尉の付随的な効果によって周囲にフィールドを作り出すことで、非時間的かつ非空間的な速度に到達することに成功している。

 リチャードが真昼の正式な姓名を省略することなく叫んだ直後、真昼の身体は大地に到達する。極性悪尉は寸分の違いもなく、仰向けに横たわったリチャードを一つの二次元平面として考えた場合に、その全範囲における中心点となる一点に衝突する。とはいえ、極性悪尉は、直径一ダブルキュビトを超えるガントレットを二つ組み合わせた結果として、その直径は二ダブルキュビトを超えるものになっていた。そのため、リチャードは、ほぼ全面的に叩き潰されることとなった。

 ここで、一瞬、この戦場における全パラメーターが停止する。一種のバグである。極性悪尉と、それから始祖家のノスフェラトゥとの衝突が導出したエネルギーはあまりにも強過ぎた。それゆえに、この付近全体が一時的に不定子力学的に不安定になり、パラメーターに破損が生じた。その破損が修正されるまで、世界は停止を余儀なくされたということだ。

 一瞬とはいえ、それは空間であるとか時間であるとか、そういった法則の外側で発生した現象であるため、正確には刹那とも劫波とも表現することは出来ない。どちらの表現も不正確になってしまう。とにかく、その修復が終了するとともに世界は再開する。

 先ほど起こったリチャードの落下によって、リチャードの身体の下部、オルタナティヴ・ファクトの一部には罅が入っていたが。今度の一撃によって、その一部は完全に破壊された。リチャードの身体の下部、その部分だけではあったが、オルタナティヴ・ファクトは粉々に砕け散った。真昼の精神が、真昼の理想が、不可思議な色の闇を乱反射させる無数の断片となって散乱した。この破壊された部分は、リチャードの身体の周囲、半径にして一ダブルキュビト程度の範囲だった。また、それだけではなく、半径五ダブルキュビト程度の大きさで真昼のオルタナティヴ・ファクトの一部にクレーターが発生した。

 ところで、このような一撃を放った後で、真昼の身体は、その衝撃を全身で賞味し賞玩するかのような有様によって大地から跳んだ。つまり、毬が地面に当たった時に、その衝突のエネルギーによって跳ね返るようなやり方であったということだ。とはいえ、真昼は、優雅に、瀟洒に、跳ねっ返り娘を演じた。約十ダブルキュビトの高さまで、あたかもそのような勢いを自らの身体から逃しているかのように、くるくると、くるくると、回転しながら。それから、放物線を描いて緩やかに地面へと近付いていく。

 とんっと、両足を揃えて着地した。着地は完璧であった。だが、直後、膝から始まってその全身が頽れた。正確に表現するとすれば、まず右膝ががくんと崩れ、次に右膝ががくんと崩れ、そして、そのまま後ろ向きに倒れ込んだ。

 要するに、真昼は、もう限界であった。それは、極星悪尉による一撃に全力を使い果たしたという意味においてのみそうであるというわけではなかった。それよりも、それ以前の問題として、真昼の身体は破綻寸前であった。

 化城宝処の一斉射撃によって撃ち抜かれた無数の弾痕。グレイの蹴打によって負った骨折及び内臓損傷。それに、リチャードとの戦闘における数々のダメージ。それだけでも、普通の人間であれば、とっくに三回くらいは死んでいてもおかしくないくらいであった。ただ、それでも、それだけであったならば真昼は耐えることが出来たであろう。まだ、立ち続けることが出来ていただろう。

 真昼が耐えることが出来なかったのは。真昼が打ちのめされたのは。真昼を、大地の上に、叩き倒し、捻じ伏せたのは。それは、つまり、まさに極星悪尉だった。

 極星悪尉が放つエネルギーは人間などが受け止められるようなものではなかった。真昼がしたことを比喩的に表現するとすれば、神の炎を直接その手に握り締めたまま、その拳でリチャードをノック・アウトしたということである。当然ながら、神の炎は、そのような人間の傲岸不遜な態度を許すはずがないのだ。

 端的に表現するとすれば、真昼の全身は燔祭であった。一点の残るところもなく焼き尽くされたところの犠牲の子羊であった。ラム、マトン、子羊の肉のほうが柔らかく味がいい。真昼の皮膚は全面的に火燼と成り果て、そして、その皮膚の下、脂肪、筋肉、そういった皮下組織さえも重度の熱傷を負っていた。生きているというよりも死んでいないと表現した方が正しいような状態だった。無理矢理に、その生命を、あちら側にいかないようにこちら側に繋ぎ留められているだけということだ。

 力の波動さえも、既に、弱々しく漂っているだけの些喚きになってしまっていた。確かに、力の波動は、真昼の生命の個体限定範囲から追放されたところの不確定性ではあったが。それでも、未だ、それを操作しているのは真昼なのだ。そして、真昼は、それを上手 く操作出来ないほどに憔悴し切っていたのである。

 右のガントレットも左のガントレットも失われていた。まだ、辛うじて、真昼の身体の各部位を補修している力の波動は残っていたが。それでも、それ以外の力の波動は、ふわふわとあてどもなく消え残っているだけであった。

 真昼は「ふひっ……ふひひひひっ……」というように、脳に電極か何かを埋め込まれて、そのまま直接的に快感だの悦楽だのを埋め込まれているかのような、そんな不気味な笑い方で笑っていた。遂に、遂に、その激痛は真昼そのものと同化し始めていた。例えば、骨が内臓を刺してそれを傷付けた時、そうはいっても痛みは外的なものだ。つまり、痛みは内臓それ自体ではなく骨によってもたらされるものである。ただ、今となっては、真昼の身体そのものが痛みの原因であった。

 皮膚は、もう痛くないけれど。神経さえも燃え尽きてしまって、既に痛みを伝えることさえ出来ないほどに不具になってしまったのだけれど。しかしながら、筋肉が、脂肪が、今、そういったもののそれ自体が、それ自体として痛みになっていた。真昼の肉は焼け焦げた皮膚の一枚下で痛みであった。まるで自分が自分の痛み以外の何ものでもなくなっていくようだ。脳髄の、細胞の、その一つ一つが細胞膜に包まれた痛みであるかのようだ。

 真昼は、「ぐふっ……ぐっ……あははははははははっ!」と笑った。それから、乾き切った、焼けた砂のような音を立てて咳をした。何度も何度も咳をした。もう吐き出すべき血液さえも残っていなかった。ただ咳をしただけだった。

 それから真昼は立ち上がろうとし始めた。両方の膝を立てて、仰向けに横たわっていたのだが。まずは右腕を上げた。空に向かって、真っ直ぐに、というよりも、軽く膝を曲げたままで、ひどく力なく右腕を伸ばした。その手のひらが、一度、二度、何かを掴もうとする。けれども何も掴めない。当たり前だ、そこには何もないのだから。左腕も伸ばす。その手のひらも、一度、二度、何もない空間を指先で掠める。その時点で、ようやく真昼はそこに何もないということに気が付いたようだった。右腕も、左腕も、ばたんと、疲れ果てて倒れ込むかのようにして岩盤の上に落ちる。

 暫く、そのままでいた。それから、急に、両方の手のひらが動き出した。ぎりぎりぎりっとでもいうかのようにして、岩盤の上に爪を立てる。もちろん、その爪は、岩盤を貫くようなことはないが。それでも、その凸凹とした取っ掛かりに指を引っ掛けることは出来たようだ。

 死に物狂いで握り潰すかのように。爪を立てて命懸けで抉り出そうとするかのように。真昼の手のひらは岩盤を掴んだ。火傷が岩肌にすれて痛むかと思ったが、それほどでもなかった。まあ、皮膚の神経は完全に焼け死んでいるので、当然といえば当然の話だが。その代わりに指先がぽろぽろと崩れ落ちていく感触があった。その内側で、骨が埋み火のようにじくじくと痛んだ。

 真昼は、両腕、残っている全ての精根を注ぎ込む。そして、手のひらで岩盤を押しのけようとしているみたいして力を入れた。徐々に、徐々に、上半身が引き起こされる。ああ、指の一本一本が崩壊してしまいそうだ。

 ようやく、上半身だけであるが起きることが出来た。真昼はぐったりとしている。ぐにゃりと膝を折った脚のままで。べったりと手のひらを岩盤にひたつけたままで。首をだらんと曲げたまま、頭をだらんと垂らしたまま、それを持ち上げることさえも億劫で仕方なかった。

 それでも真昼は、やがて、また、手のひらに力を入れた。ほとんど信じられないほどの不撓不屈であった。ああ、このような少女の華奢な肉体のどこに、これほどの肝腎があったというのか。真昼は、また、腕に精根を注ぎ込む。そして、その全身を、一気に引き摺り上げる。

 立ち上がった。

 真昼。

 その姿勢を。

 保つことが。

 出来ない。

 ぐらん。

 ぐらん。

 その身体が。

 揺らめく。

 まるで。

 主に捧げられる前の。

 揺祭の犠牲のように。

 ゆらゆらと揺れ動いているその肉体。真昼の顔は、真昼の焼け爛れた顔は、忘我のせいで歪んでいた。あたかもなんらかの種類の薬物を使用した後であるかのように。あたかも性的な結合のいつまでもいつまでも消え残る余韻を貪っているかのように。その顔はエクスタシーによる恍惚を感じていた。

 阿、吽、阿、吽、阿、吽。真昼の口は、ぱくぱくと、開いたり閉じたりしている。万物の、始まりと、終わりと、その真言を呼吸している。全身から、生命そのものが焼けるような匂い、反魂香の焼香のような匂いを漂わせている。

 そうして、その後で、真昼はゆらりと揺らめく影みたいに歩き始めた。一歩一歩岩盤を踏んで。暗く広い海、その深海で、水面に映し出された星に似た態度で揺らめく影だ。この海の暗黒よりも、なお、なお、暗く沈んでいる影だ。

 足萎えが。

 星を。

 踏む。

 ように。

 歩く。

 跛行性の移動。あちからからこちらまで。つまり、真昼が着地した地点から、リチャードが叩き潰されたその地点まで。ゆっくりゆっくり歩いていく。何も急ぐ必要もないだろう。そう、今は、飲み込むよりも噛み締めていたい。この残響を。この終止線上のフェルマータを。

 大体の距離、十ダブルキュビト。神力体術を使う必要もない。御神渡りを使う必要もない。ただただ人間の速度で、しかも不具の人間の速度で歩いていけばいい。

 やがてクレーターの縁に辿り着く。これで、リチャードの身体が落ちているところまで、半分程度の距離を歩いてきたということだ。それから、真昼は、一度、ここで、立ち止まる。目を凝らす。よくよく目を凝らす。もうもうと、真昼の理想が砕け散った、暗く広い海の残骸が、土埃となって舞い上がったままになっている。その奥の奥に転がっているはずのリチャードのことを見通そうとする。

 ただ、よく見えなかった。霞んでいる。視界が朦朧としている。どうやら眼球さえも極性悪尉が放出したエネルギーに影響を受けているらしかった。真昼の仮面は、凄まじい笑みを浮かべながら口を開く。そして、こう言う「あはははっ……笑えるぜぇ……目がぁ……焼けちまったよぉ……」まるで、口から、どす黒い死を滴らせているかのように「ああ……お前が……惨めに……野垂れ死んでんのが……見えやしねぇぜ……」。

 ところでこういうタイミグで「野垂れ死ぬ」って使っていいんだっけ? いや、うーん、まあ、語の意味的には、行く当てもなく彷徨い歩いている何者かが道端とかで倒れてそのまま死んでしまう、みたいな意味だと思うけど。とはいえ、そこから派生して、無残に死ぬとか悲惨に死ぬとかそういう意味でも使われる時もあるみたいだしいいんじゃない? 実際さ、まあ、状況的にも、「野」といえば「野」だし、「垂れ」といえば「垂れ」じゃん。っていうか、事ここに至ってしまったら、言葉の正確な意味とかそういう話をしているようなアレではないでしょ。雰囲気だよ雰囲気、格好良い雰囲気が一番重要なんだよ。まあまあ意味がとれるならそれでいいの。物語のクライマックスでそういう無粋なことはいわないように。以上。

 なんにせよ。

 真昼は。

 じっと。

 リチャードが。

 いるはずの。

 その方向を。

 見て。

 いて。

 やがて、その霧も、その靄も、真昼の理想であったはずの全ての残骸で出来た朦朧とした心象風景も、消えて、消えて、消えていく。土埃は収まってくる。そうして、その後で、その奥にある静かな静かな現実の光景が見えてくる。

 そこに落ちていたものは……というのは、要するに、そのクレーターの中心に落ちてたものは、ということであるが。何か、卵みたいなものだった。球体、というか、楕円体、しかも、縦に引き伸ばされたような扁長楕円体をした物体。それは、光り輝いている。比喩表現を全部取っ払っていうと、セミフォルテアの光によって煌々と輝いている。

 真昼は、一瞬、何がなんだか分からなかった。あれはなんだ? なんであんなところに落ちている? というか、リチャードはどうしたのだ。あそこにいたのはリチャードのはずではなかったか。リチャードが、哀れに、惨めに、叩き潰されて死んでいるはずではなかったのか。

 真昼がそんな風に混乱しているうちに……その卵に罅が入った。きりっ、きりっ、とでもいうようにして、割れ始めたということだ。ただ、一つだけ奇妙なことがあった。それは、その罅の入り方についてである。

 卵というのは、普通、まずは、中に閉じ込められている卵児からある一点に力を加えられることによって、その一点を中心として放射状に罅が入るものだ。

 一方で、その卵は、全体を輪切りにするかのように。いや、というよりも表面に螺旋を描いていくかのようにして。ぐるりぐるりと罅が入っていったのだ。

 違う、違う、それは、割れたのではない。むしろ剥がれていっていた。何か、平べったいもの、生き物の皮膚のようなもの。それが、扁長楕円体の物体の周囲に、何回も何回も巻き付けられていたのである。

 それは……ああ……そんな……まさか……二枚の翼であった。つまり、その生き物の身体を、二枚の翼が取り巻いていたということだ。あたかも緩衝材として包み込むかのようにして。

 引き剥がされて。

 引き剥がされて。

 引き剥がされていく。

 翼と。

 翼と。

 そうして。

 その後で。

 その中から。

 現われたのは。

 いうまでもなく。

 リチャードの身体。

 無論、無傷ではなかった。それどころか、始祖家のノスフェラトゥが、神的ゼディウス形而上体以外の生き物によってこれほどまでに傷付けられたというのは少し信じがたいことであった。まず、最も惨憺たる有様となっているのはリチャードを包み込んでいた翼である。皮膜はいうまでもなくぼろぼろの糞掃衣のように成り果てている。その皮膜を辛うじてリチャードの身体に繋ぎ止めている骨格。スパーは、関節の一つ一つ、罅が入ったり、あるいは粉々に砕けてしまっているものもある。リブは、弾性も剛性もクソもないほどにぐにゃぐにゃにひん曲がってしまっている。二枚が二枚とも、あれほどに巨大な刃であった鋭敏さは見る影もない。

 また、その中に包み込まれていた他の部分も悲劇的であった。真昼と全く同じように、全身がくまなく焦爛していた。翼に包み込まれてじっくりと火を通されたノスフェラトゥのミート・パイ。それだけでなく、そのミートはミート・マレットでよくよく叩きのめされていた。骨はあちらこちらで折れていて、その内側では内臓がぐちゃぐちゃになっているはずだ。確かに、純種のノスフェラトゥは、物理的な肉体に対するダメージに関してはあまり影響を受けないが。とはいえ、これほど莫大なダメージとなれば、やはり無視することは出来ない。

 それに、ダメージは、当然のように物質的な身体にとどまるものではなかった。つまり生命そのものに及んでいたということだ。魄の構造は破綻しかけていて、ところどころに空亡さえ開いてしまっていた。それがなぜ分かるかといえば、リチャードの口の端からたらたらと滴っている液体があったからだ。ぎらぎらと、生命そのものの光によって輝いている液体。それは間違いなくスナイシャクだった。リチャードの魄は、既に、スナイシャクが漏れ出すほどに傷付いていたということだ。魂にまで影響が出てくるのは、恐らく時間の問題である。

 しかし、それでも。

 まだ、生きている。

 太陽は地に落ちてきた。全地は燃え盛る硫黄の炎によって包み込まれた。また、地震があり、海の底が上から下まで真っ二つに裂けた。世界は、その一時の間、光も闇もない主の霊のような姿になった。そして、彼の者はアラリリハの栄光の中に投げ込まれ、生きながらに焼き尽くされた。

 それでも、彼の者は、リチャードは、死ななかったのだ。翼の中から現われたリチャードは……生まれたばかりの幼生が身を震わせるかのようにして、そっと目を開いた。ごぼごぼとスナイシャクが溢れ出ている口。次の瞬間、そうして咽喉の全体を塞いでしまっているスナイシャクを吐き出そうとしているかのように、激しく咳き込み始めた。

 先ほどの真昼の咳よりも、遥かに生命を感じさせる音だった。まあ、スナイシャクを咳き込んでいるのだから当然といえば当然なのだが。そういう話をしているのではなく、枯渇していないということだ。真昼の咳は、例えば、砂漠で乾き切った骨の骸が咳をしているようなものだった。一方のリチャードは、瑞々しく、少なくとも充満していた。

 ひとしきり咳をし終わると、リチャードは、その両方の手のひら、ふるりとさざ波のように震えた。ゆっくり、ゆっくり、腕が持ち上がっていく。生まれながらの支配者。支配者として生まれた者。そのような者が、目の前、銀のリボンを掛けられて差し出された世界を両腕で抱き締めようとするかのように。そのような態度によって、両腕を、真っ直ぐ、真っ直ぐ、差し出す。

 それから……咆哮。草を食らう生き物でもなく、肉を食らう生き物でもなく、まさに生命そのものを食らう絶対的強者の吼え声によって吼えた。その声に比べれば、あらゆる雷の霹靂は小鳥の囀りに過ぎず、あらゆる山の噴火は息を引き取る前の最後の咳音に過ぎないだろう。それと比すことが出来るものといえば、神々が吹き鳴らす角笛の音色くらいのものである。

 それは何者かに対する威嚇ではなかった。あるいは、激怒を表わすコミュニケーションでも、憎悪を表わすコミュニケーションでもなかった。それの以前性に位置しているものだ。どうでもいいんですけどね、こうやって「以前」みたいなありきたりな単語に「性」っていう接尾辞を付けると、なんか急に新鮮な感じ出てくるでしょう。こういうのちょいちょい入れてくと文章の全体が格好良くなる気がしてとてもいいものだなぁ(詠嘆)。まあ、この接尾辞自体には全然意味はないんですけどね。

 それこのタイミングでいうこと? それはそれとして、リチャードのこの吼え声は、要するに、自分自身を鼓舞するための掛け声であった。少し前、真昼との戦闘の時にそうしたのと同じ意味の掛け声であったということだ。ただし、今回のこれは、先ほどのそれとは次元が違うものだった、先ほどのそれは、せいぜいが、人間だとかライカーンだとか、そういった下等知的生命体が気分的に奮い立とうとしてそうする程度のものに過ぎなかった。一方で、今回の掛け声は、実際に生命力を励起するためのものであった。

 ある種の、呪文だとか聖句だとか、そういったものに限りなく近い何かであったということだ。自己暗示といえば、間違った例えではあるが分かりやすいかもしれない。自らの生命そのものに対して、強制的かつ革命的な宣命をくだしたということである。生きろ、生きろ、生きて動け。そうして、生命が狂騒の状態に入るように命令したのだ。

 それから、リチャードは、ふっと両腕を下ろした。また、全身を横たわったままの状態にする。いや……ちょっと待て? 何かがおかしかった。つまり、それは……浮かんでいた。ほんの僅かではあったが、リチャードの身体が浮かび上がっていた。

 地上から数ハーフディギトのところ。どうやら、両翼がセミフォルテアの光によって輝いていることから考えると、その神力によって浮遊を行なっているらしい。しかもただ浮かんでいるというだけではなかった。その身体は、少しずつ少しずつ高い位置へと移動していた。そして、それと同時に、リチャードの身体は起き上がっていた。

 ゆっくりゆっくり、真横であったリチャードの身体は、真っ直ぐに立ち上がっているような方向性となっていく。ただ、リチャードは大地に立っているわけではない。宙に浮かんでいる。翼が……開いていく。右の翼と、左の翼と。ずたずたのままで、それでも、禍々しい滅びの光を放ちながら。そして、リチャードは十字架のようになる。

 リチャードの胴体が縦のライン。リチャードの両翼が横のライン。リチャードから放たれているセミフォルテアの光が、その十字の後ろ側の円形。リチャードは、あたかも、荘厳にして崇高な一個のティンダロスの十字架のような姿のままで浮かび上がっていく。ああ、ああ、これほど真聖な。これほど、聖なる、聖なる、起き上がりの姿よ。

 そうして、その後で、リチャードの身体は五ダブルキュビト程度の高さまで至った時に停止した。真昼のことを見下ろしている。まるで壊れかけた奇妙な一個の案山子のようにして立っている真昼のことを。

 リチャードは。

 ぎりっと。

 奥の歯を。

 噛み潰すかのように。

 噛み締めて。

「やってくれんじゃねぇか……」

 一匹の捕食者が。

 別の捕食者へと。

 宣戦布告。

 するかのように。

「やってくれんじゃねぇか……」

 初めて、真昼のこと。

 ただの人間ではなく。

 敵対する者。

 一つの脅威。

 そのような。

 者として。

 凝視しながら。

 こう。

 叫ぶ。

「やってくれんじゃねぇかよぉおおおおおおおおっ!」

 今まで、リチャードは、真昼を侮っていた。真昼の能力が明らかになった時も、グレイを行動不能まで追い込んだ時も。それでも、リチャードは、自分が相手にしているのは人間であると侮っていた。しかしながら、今のリチャードには、そのような真昼に対する軽侮は一切なかった。リチャードは理解した。太陽の墜落にも似たその一撃によって、はっきりと理解した。砂流原真昼は人間ではない。人間ではない何かだ。

 もう、リチャードは、犠牲として捧げられた魚から剥がれ落ちた鱗の欠片ほども手を抜くつもりはなかった。殺そうというわけではない。そうではなく、全ての肉体的能力を、全ての精神的能力を、余すところのない絶対的な精度によって一つの刃とするつもりだということだ。いうまでもなく、その刃は、真昼の手を落とし、真昼の脚を落とし、生け捕りにするための刃である。ちなみに、これは比喩的表現であるが比喩的表現ではない。

 ただ、それはそれとして。そのようなリチャードの未来について語る前に、リチャードの過去についても語っておくべきかもしれない。要するに、どうやってリチャードは極星悪尉を生き延びたのかということだ。

 まあ、書かなくても、今までの描写から大体のところは分かると思うが。一応書いておくとすると、まず、リチャードは、自らの両翼によって自らの全身を包み込んだ。何重にも何重にもその被膜を巻き付けた後で、それから一気にセミフォルテアを流し込んだ。そのセミフォルテアの量は今までとは比べ物にならない量であった。どういうことかといえば、今までの神力体術においては、自らの身体にダメージが及ばない程度のセミフォルテアしか使っていなかったが。このたびのこれについてはそのような制限を取っ払っていたということだ。何せ全力で防御しなければ結局は叩き潰されて死ぬのだ。自分自身に気を使っている余裕などなかった。ただ、とはいえ、自らの炎に焼き尽くされて死んでしまってはこれもまた無意味である。

 実はリチャードはそのことに関しても対策を打ってあった。つまり、先ほど、両の翼を何重にも巻き付けたと書いたが。この構造が鍵であった。一番外側の周回について、セミフォルテアの強度を最強にしておいて。それから、周回が自分自身に近付いていくにつれて、一段一段、その強度を下げていったのである。そして、更に、外側の周回が放つセミフォルテアのエネルギーを、内側の周回が放つセミフォルテアのエネルギーが防御するようにした。こうすることによって、外側に向かう防御は限りなく強く、内側に与える影響は限りなく弱く、そのようにしていたのである。どうです? 結構手が込んでるでしょう? ただ、それだけの意匠惨憺創意工夫であったとしても、それでも、極星悪尉の全てを防ぎ切ることは出来なかったが。

 さて。

 そんな。

 感じで。

 リチャードは守備力の全てを両翼に賭けていたということだ。結果的に、最も重大な損害を負っていたのも当たり前といえば当たり前の話だ。

 今、そのような翼は。それでも、注ぎ込まれたセミフォルテアによって光り輝いている。そして、リチャードの身体を空中で支え続けている。

 と……リチャードが、そのような翼の一枚に手を伸ばした。正確にいえば、右の腕を伸ばして、左の翼に触れた。それから、その翼を、ぐっと握り締めると。驚くほどに躊躇いもなく、あまりにも無慈悲な態度によって、自分の肩から引きちぎった。

 いや、引きちぎったというよりも引き抜いたと表現した方が正しいかもしれない。リチャードの身体に、その左翼を固定していた骨格の部位。それが、まるで剣を鞘から滑らせたかのような態度によって、ずるりと引き摺り出されたのである。

 リチャードの全ての重量を支えるには右翼の一枚があれば事足りる。だから左翼を失ったとしてもリチャードの浮遊のバランスは崩れたりはしなかった。まるでそこにしっかりとした足場があって、その足場の上に立っているかのように真っ直ぐな平衡を保ったままだ。特に問題があるわけではない。ただ、そうであったとしても……リチャードはなぜそんなことをしたのか? なぜ、わざわざ、隻翼の不具者となるような真似をしたのか?

 その理由はすぐに分かった。リチャードが左翼を引き抜いた方の傷口から。あたかも……燃える炎の目と光り輝く真鍮のような足を持つ御使いがその口から諸刃の剣を吐き出しているかのように……ごぼり、ごぼごぼ、ずるずる、ずるり。新しい翼が再生してきたのだ。

 そう、ノスフェラトゥにとっては、顕現している実際の肉体にはあまり意味がない。ノスフェラトゥの本質は、物質的な細胞の集積にあるわけでも観念的な記号の形式にあるわけでもない。ノスフェラトゥは、その生命の維持を、まさに生命そのものに依っている。つまり、魄の構造に大ダメージを負うことがなければ、その疎隔性を失うことはないのである。

 リチャードは、破られ、裂かれ、ずたずたになった左翼を破棄して新しい左翼を作り出したということだった。まあ、再生した左翼も無傷というわけではなかった。翼が翼であることの情報を現勢力として告知しているところの魄そのものが、セミフォルテアによって焼かれていたために、焦熱しているような爛熟しているような、なんとなく焼け爛れたままで再生したのだ。ただし、とはいえ、もともとの左翼よりは遥かにまともな状態になっていたが。

 このように左翼を再生してしまうと。リチャードは、引き抜いた方の左翼をぱっと離した。それから、その後で、左腕を右翼に伸ばす。左の手のひら、翼を固定しているスパーの肩に近い辺りの部分を掴むと、左翼にそうしたのと全く同じ態度によってそれを引き抜いた。

 これもまた左翼と同じように、右翼もやはり新しく生え変わる。全体的に火傷のような痕跡が残ってはいるが、それでも引き抜かれたものよりはマシな翼が生えてくる。斯うと、これでリチャードの両翼は……少なくとも、現時点で可能な限り最高の状態になったわけだ。

 ということは、本来であれば、ここで一連の動作はお終いであるはずだ。今、リチャードは、引き抜いた右翼を手放した。これでシーケンス終了であるはずなのだ。

 しかし、リチャードは、なぜか、またしても、その右の腕を、その左の翼に、伸ばした。いうまでもなく破棄した方の翼ではない。新しく生えてきた方の翼である。そして、その翼の根元を握り締めると……力任せに毟り取った。

 不明、不詳、意味が分からない。リチャードはなぜそんなことをしたのか? その翼は間違いなくまともな翼であった。望みうる限りの翼であった。その証拠に、リチャードがこの翼を引き抜いた時、先ほどの襤褸屑のような翼を引き抜いた時よりも随分と勢いよくそうしなければならなかった。それほど、頑丈に出来ていたということだ。

 しかもリチャードはそれだけで終わりはしなかった。左翼が再生する。破棄した翼を手放す。それから、リチャードは、またもや左腕を右翼に伸ばしたのだ。リチャードが何をしたかということは、書かなくてもお分かりになるだろう。そしてリチャードは大方の予想通りのことをした。また一枚の翼が再生し、また一枚の翼が破棄された。

 Wondering why。

 さて、リチャードは何をしているのか。

 リチャードは、一体、何がしたいのか。

 それを知りたいのであれば、リチャード自身を見ていても無意味である。そうではなく、視線を、翼に……切断されて、その手のひらから放り棄てられた翼の方に向けなければならない。

 先ほどの描写において、手放されたところの翼の手放されてから後のことについては一切描写していませんでしたね。読者の皆さんにおかれましては、いかがお考えになりましたか? きっと、そのような翼は、そのまま落ちて落ちて落ちていって、一枚の死に絶えた枯葉のように、さはりと地面に落ちたのだろうとお考えになったのではありませんでしたか?

 実は、違う。全然違う。リチャードの手から離れた翼は、そのままふわんと浮かんだのだ。よくよく見てみると、そういった翼は切断された後もその光を失うことなく輝き続けていた。要するに、そういった翼はセミフォルテアによって満たされたままに切り離されていたのだということだ。

 そして、そのようなセミフォルテアの力によって浮かび上がったのだ。しかもそれだけではなかった。リチャードの身体から、少しずつ、少しずつ、離れて行って。そうして離れて行くと共に、次第に、次第に、回り始めた。真横の方向に、地面と水平方向に、くるくると回転を開始したのだ。

 最初はさほどの速度でもなかったが、どんどこどこどん、どんちゃらぴーひゃら、加速していく。その擬音語、何? とにもかくにもリチャードの身体から一ダブルキュビト程度の距離を離れて移動が停止した頃には。その速度はあたかもチェーン・ソウのようなものになってしまっていた。

 リチャードの周囲、あたかもガーディアン・サーヴァントのように貞淑な態度によって回転している翼。一枚、二枚、三枚、四枚、の、翼。要するに……実のところ……リチャードの目的は、これであった。

 リチャードの目的は、翼を良好なコンディションに戻すということではなかった。いらなくなった翼を捨てて新しい翼を生やすということではなかった。そうではなく、翼を切断して、このような操作可能な武器とすることこそが目的だったのである。

 少し前に、神力体術について説明した時に、自分の身体の一部分にセミフォルテアを満たしたままで切断することによって、それをリモートコントロール可能な武器として使用するという方法について説明したことを覚えているだろうか。リチャードがしているのは、まさにそれであった。

 斯うと。

 更に。

 リチャードは。

 四枚、だけで。

 その武器の製造を。

 終わらせるつもり。

 など。

 なかった。

 リチャードは、また、翼に手を伸ばす「なあ、砂流原真昼」翼を引き抜く「俺は、てめぇのことを、少しばかり見誤っていたみてぇだな」翼を引き抜く「俺は、てめぇのことを、たかが人間だと思ってた」翼を引き抜く「それは、間違いだった。大きな大きな間違いだった」翼を引き抜く「砂流原真昼、てめぇは人間じゃねぇ」翼を引き抜く「てめぇは、デナム・フーツの部下だ」翼を引き抜く「てめぇは、デナム・フーツの部下だ」翼を引き抜く「てめぇは、紛れもなく、あの化け物の部下だ」翼を引き抜く「なあ、砂流原真昼」翼を引き抜く「それなら、俺は、もう、手を抜くつもりはねぇよ」翼を引き抜く「俺は、もう、てめぇを侮るつもりはねぇんだ」翼を引き抜く「てめぇを、てめぇの扱いに相応しい方法で扱う」そして、それから、翼を引き抜く。

 こうして、十数枚の翼が、リチャードの御許でガーディアン・サーヴァントを演じることとなった。それぞれの距離が、大体、一ダブルキュビト程度ずつ離れている。結果的に、リチャードの周囲には、あらゆる方向、十数ダブルキュビトの範囲にわたって回転する刃の領域が展開されることになった。

 暗い、暗い、真闇の世界であるはずの真昼のオルタナティヴ・ファクトが、一枚一枚の刃によって、切り裂かれているかのように照らし出される。ああ、明るい、明るい、神々しい。真昼が仰ぎ見ているその先で、リチャードは七つの金の燭台によって照らし出されている御使いであるかのようだった。

 リチャードは、そのように見上げている真昼に向かって、吸痕牙を剥き出しにして見せた。しかしながら、それは決して笑顔ではなかった。自らを傷付けうる存在に対する端的な敵意の表明だ。それから、こう言う「安心しろよ、まだ生け捕りにするつもりだ。仕事だからな……殺すつもりはねぇよ」それから、こう付け加える「少なくとも、殺そうとして殺すつもりはねぇよ」。

 一方の、真昼は、真昼の仮面は、笑っていた。相も変わらず、純粋な、無垢な、それでいてリチャードを嘲笑しているような、あの笑顔によって笑っていた。

 真昼は、リチャードに対して答えるかのようにして言う「なるほどなるほど……分かったよ、分かった。お前の懇切丁寧な説明のおかげで、状況をよくよく理解出来た。つまり、お前はまだ生きているわけだな? あたしが、全身で、全霊で、叩きつけた攻撃を食らって。あたしが、これほど、自らの全身を焼き尽くすほどの犠牲を払って叩き込んだ攻撃を食らって。それでも、まだ生きているというわけだな? そうして、そうして……ああ、驚くべきことだ! 驚くべきことに、お前は、未だ、本気を出していなかった。あたしを侮ったままであたしと相対していた。ただ、それも今までのことだ。お前は、もう、あたしを侮ることがない。お前は、本気で、あたしに相対する。あたしが……まあ、自分で言うのもなんだが……これほどまでに傷付き、まるでゴミ屑のように死にかけているというのに。そのようなあたしに対して、今、まさに、本気を出そうとしているということだな?」。

 真昼の仮面は、そこで一度言葉を切った。それから首を傾げる。子供のように首を傾げる。「ははははっ、泣きたいほどに絶望的な状況だな」。真昼の仮面は、だらだらと、だらだらと、相も変わらずに両の目から滂沱の涙を流しながら。血の涙を流しながら、こう続ける。「とはいえ、だ」「あたしの涙は全てあの男のためのものだ」「お前のために流してやるような涙は、一滴も、一滴たりとも、ねぇんだよ」。

 真昼は、両腕を差し上げた。挑戦的に。挑発的に。あたかも天から御使いが下りてくる梯子に向かってアラリリハを叫ぶ少女であるかのように。そして、その両腕に……いや、それだけではない。その両足にも。力の波動が絡み付いていく。

 脆弱だった。あまりにも。先ほどのガントレットに比べれば、先ほどのブーツに比べれば、ひどく薄くひどく小さく、それにセミフォルテアの光も弱々しかった。それでも、真昼の、右腕、左腕、右脚、左脚、力の波動によって包み込まれた。

 リチャードが。

 大水の。

 轟きの。

 ように。

 言う。

「準備はいいか?」

「ああ、いいぜ。」

「じゃあ、続きを始めようじゃねぇか。」

「いつでもかかって来いよ。」

 さんっと音がした。真昼、の、すぐ、横。真昼は、まるで考える間もなく、すぐさまその音がした方向とは反対の方向に飛びのいていた。どうやら……リチャードは、本当に、屑けらたりとも、端くれたりとも、手を抜くつもりはないらしかった。

 なぜそれが分かるのかといえば。いうまでもなく、真昼が回避したその音は、リチャードが真昼に向かって飛ばした一枚の翼が空間を切り裂いていく音だったわけであるが。その空間というのは、真昼がもしも飛びのいていなかった場合、間違いなく、真昼の右腕を根元からイっちまっていたはずの空間だったからである。

 つまりリチャードは致命傷以外のあらゆる損傷を真昼の身体に対して与えるつもりだということ。恐らくは、真昼をREV.Mに移送するにあたっては、オールド・ファッション・ムートン・スタイルにしてからそうするつもりであるに違いない。

 オールド・ファッション・ムートン・スタイルという言葉は、第二次神人間大戦後の穏健派人間至上主義諸国にお住いの方々には耳慣れないかもしれないが。要するに、人間の捕虜を危険性なく移送する時に、その身体を加工する方法の一つだ。

 ムートンとは、易字では木头と書くのであるが、愛国語で丸太を指し示す言葉だ。その言葉の通り、人体から生命維持に無用な枝葉末節を除去する。具体的にいうとすれば、まずは肉体的な抵抗が出来ないように手を削ぎ足を削ぐ。その後で、呪文や聖句などの音声記号を発することが出来ないように、下顎を切断し、舌を引き抜く。ちなみに、そんなややこしいことをしないでも声帯を潰してしまえばいいじゃないかと思われるかもしれないが、声帯を潰すというのは案外に精密な作業であり、戦場の兵士がそれをしようとすると誤って殺してしまうこともあるため、より簡便な方法が取られるわけだ。性的なエネルギーを利用出来ないように性器を破壊する場合もあるが、これはあまり使われない方法だ。とにかく、そのようにして、丸太のように不要な部分を剥ぎ取って持ち運びやすくするということだ。

 リチャードは、真昼をそのようなムートンにするために、まずは右腕を切除しようとしたということなのだろう。まあ、確かに……リチャードとREV.Mとの間の契約がどうなっているのかということは知ったことではないが。それが、とにかく生きたまま引き渡せばいいという内容であるのならば、このようなムートンとして引き渡されるということも十分ありうると認識した上でそのような契約を結んでいるものと見做されても仕方ないだろう。アーガミパータにおいては、オールド・ファッション・ムートン・スタイルは未だによく利用される捕虜の移送方法なのだから。

 それに、たぶんREV.Mにもキュラティヴ(治癒系のスペキエース)の一人や二人、いや、それどころか数十人くらいはいるに違いない。まあ、切断された四肢を再生出来るようなキュラティヴは限られてくるだろうが。それでも、ムートン・マヒルであったとしても、さして很為難というわけではないだろう。

 とはいえ、真昼からしてみれば腕の一本なくなるだけでも甚だ不得了なのでありまして。最初の一枚目の翼の後で、一度のまばたきをする暇さえ与えることなく襲い掛かってきた二枚の翼。しかも、今度は横方向に逃れることが出来ないように、右側と左側と、両方から回転する斬撃として襲い掛かってきた二枚の翼。両腕ともに切り落とされることがないように、真昼は、跳んだ。

 いうまでもなく、未だ真昼が地上に降り立つことも出来ていないうちに次の翼が切りつけてくる。それに対して真昼はどうしたのかといえば……あたかも風の手のひらによって風の手のひらを柔わらかく払うかのような優美。に、よって、とんっと左手、その翼の上に乗せた。

 なかなか状況が読み取れないかもしれないが、まず、その翼は真昼の左腕を狙って飛んできた翼であった。ということは、真昼の左側から真昼の右側へと向かって引かれた一本のスラッシュ・ラインの上を疾駆してきたということである。ということは、つまり、真昼の左腕をまさにイっちまおうとするその瞬間には、真昼の左手の届く範囲にあったということだ。

 さて、ところで、これは当然のことであるが、翼が危険なまでの切断力を持つのはその刃の方向だけである。つまり翼のひらとでもいうべき部分には全く切断力はないわけだ。まあ、まあ、翼はセミフォルテアを含有しているわけであって、普通に触れれば焼かれるが。とはいえ、真昼の腕から先は力の波動に包み込まれている。一瞬触れるくらいなら危険はない。

 ということは……真昼は、その翼のひらを自らの左手により触れた。いや、触れたというよりも、まずは左の手のひらをその上に置いた後で、勢いよく、凄まじい力尽くによって、それを下の方向に向かって押し付けたのだ。

 押し付けた、といっても、翼はびくともしない。ほんの僅かに揺らぎはするが……相変わらずスラッシュ・ライン上にある。相変わらずその直線から外れもしない。ということは、それほどの力、それほどのエネルギーは、翼に向かうことが出来ないままに……無論、真昼に向かう。

 真昼の身体は一気に上昇する。そう、真昼は、その翼を力点として自らを作用点としたのだ。もう少し手っ取り早くいえば、その翼を跳び箱のように利用して、更に、更に、高みへと駆け上がったということである。

 あたかもパンピュリア神国、ギュムナシオンにおける競技者のような振る舞いによって、真昼はそのしなやかな四肢を惜しみなく脈動させた。まあ、それは、四肢を捥ぎ取られたらもう使えないのだし、この期に及んで惜しんでいても仕方がないといえば仕方がないのだが。とにかく、真昼は、そのようにして翼を跳び越えたのであった。

 次の、次の、次の翼が、一度の呼吸をさせる間もなくスラッシュを放ってくる。その一枚一枚のスラッシュ・ライン。真昼は即座に見極める。あの翼とあの翼とあの翼と、それらの全ての翼の方向性を、あたかも有機物で出来たコンピューターのような不気味な正確さによって確定的に関連させて。そして、自らが通過するべき絶対かつ完璧に安全なラインを決定する。

 まず、右脚を狙ってきた翼のひらの上に飛び乗った。乗った、といってもあくまでも一瞬のことであって、次の瞬間にはその上から跳んでいた。そのまま空中で身をひねり、あたかもナリメシアの月光に向かい窈窕としたなめらかさによって跳躍する一匹の兎のごとく二枚目の翼を蹴り飛ばした。

 三枚目の翼、これは真昼の左脚を狙ったものであったが、兎の態度で宙返りをした真昼の身体は、既に逆さまになっていた。つまり、足があるべき位置に手を置いていて手があるべき位置に足を置いていたということだ。従って、真昼は、その翼を右の手のひらでそっと掴んだ。

 翼を投げつけるような動作。しかし、結局のところ、翼ではなく真昼の身体それ自体がエネルギーによって投擲されることとなる。真昼は軽やかに投げ出されたまま、四枚目、五枚目、六枚目、次々と、翼を、跳んで、跳んで、跳び継いでいく。

 かくのごとき。

 真昼の形姿は。

 刀葉の林。

 刃と。

 刃と。

 その間を泳いでいく。

 端正厳飾の。

 甘やかなる。

 セイレーンの。

 肢体の。

 ように。

 真昼は、次々と襲いくる刃、次々と受け流す。あたかも、デニーが、ライフェルドの弾丸を受け流していたかのように。確かに、現在の真昼には左翼を叩き潰す力もなければ右翼を叩き返す力もない。それでも、それを回避することくらいは出来る。あるいは、それをほんの少しだけ揺らがせることによって、自らが生き残る余地を作り出すことくらいは出来る。

 翼は……真昼に掠り傷さえ負わせることが出来なかった。これは少し考えるとあり得ないことのように思われる。なぜなら、真昼は人間でしかないからだ。リチャードのような高等知的生命体と比較すれば、いくら強化されているとはいっても、その知性とその知性との間にはかなりの格差がある。そうであるならば、リチャードの繰り出す攻撃、一撃くらいは当たってもおかしくないはずではないだろうか。

 とはいえ、それでも。現実には限界というものがあるのだ。どういうことかといえば、翼の枚数、翼の形状、それに、戦場として利用可能な空間の範囲。真昼と翼との位置関係。そのような様々な要素の組み合わせは、実は、疑似的非無限数でしかない。

 この疑似的非無限数というのは、要するに、ある特定の範囲においてある特定の物質がとり得る位置は実質的には無限であるが、とはいえ結局はその範囲内でしか位置をとり得ない以上、そのような位置は限定されているため、疑似的に非無限であると考えるという数学的方法であるのだが。なんにせよ、そのような関係性は、ある一定の限界値においてのみ現われてくる。

 ということは、そのような限定値を完全に理解出来る知性を有しているのであれば、それ以上の知性を持つものと、実質的には同レベルの戦闘が出来るということだ。そして、真昼は、その程度の限定値であれば、手のひらの上に取り指先で転がすように容易に理解出来る。

 真昼という。

 生き物の。

 知性は。

 既に。

 人間を。

 超えて。

 あたかも。

 星と。

 星と。

 繋いで。

 作り上げた。

 星座の。

 世界の。

 計算機械の。

 ように。

 美しい。

 ただ、とはいえ……一つ、非常に重要な問題があった。確かに、もしも、翼だけであれば。真昼をムートナイズしようとしているのが、翼と、翼と、翼と、だけであれば。真昼は全然余裕で生き残ることが出来ただろう。ただ、問題なのは、いうまでもなく、真昼をムートナイズしようとしているのは翼だけではないということである。そう、翼だけではない。それらの翼の持ち主も、やはり、そこにいる。

 そこに。

 そこ?

 どこ?

 ああ。

 今。

 真昼の。

 真上に。

 感じることが出来なかった。姿も見えなかったし音も聞こえなかったし匂いもしなかったからだ。それどころか生命の鼓動さえ感じることが出来なかった。恐らくはなんらかの種類の感覚遮断の魔法を使っているのだろう。とにかく、真昼は、全然、それを感じることが出来なかった。

 とはいえ、それでも、真昼は、それを理解出来るほどには賢明であった。つまり、この戦場には翼の持ち主がいるということ。そして、その持ち主もやはり真昼を仕留めようとしているということ。そういったことを勘案すれば、その持ち主から攻撃があるのは明白であるということ。

 だから、真昼は、寸前で気が付いた。

 リチャードが、そこに、いることに。

 現前。察知。そのリアライゼーションが正しいものなのか間違っているものなのかということを、確かめている余裕などなかった。首を上に傾けて、そこにリチャードがいるということを確かめている猶予など残されていなかった。

 本来であればその身体が辿るべきラインを無理やりに捻じ曲げた。具体的にいうならば、ちょうど脚を狙って襲い掛かって来ていた翼のうちの一枚、力の限り蹴打することによって自らの身体を横ざまに投げ出したということだ。

 そして、そのようにして真昼がラインを逸脱した直後。そのラインと直角に交わる新しいラインを引くみたいな態度、リチャードが突っ込んできた。しかも、ただ突っ込んできただけではない。例えるならば翅を閉ざした蝶々のように、右の翼、左の翼、背中から垂直方向に真っ直ぐに伸ばして。全身を、ぐるんと丸めて。そのまま、戦争だとか、災害だとか、そういった種類の現象であるかのような開けっ広げの残酷、で、あるかの、ように、回転していたのだ。他の全ての翼と同じような、とはいえ他の全ての翼とは違いその回転は縦方向ではあったが、そのようなチェーン・ソウであったということだ。この戦場におけるチェーン・ソウの中で、最も巨大な、最も光輝な、最も力強いチェーン・ソウ。チェーン・ソウの支配者。

 目前。

 鼻先。

 擦過する。

 直撃。

 間際の。

 回避劇。

 ぎりぎりのところで真昼はその第一撃を回避することが出来た。正確にいえば、擦過と書いたように、真昼の周囲に浮遊している力の波動の一部にその攻撃が掠りはしたが、とはいえそれは大した問題ではない。問題なのは、そう、いうまでもなく、それは第一撃に過ぎなかったということである。

 ところで、ここで重要なことは……これらの翼。リチャードが操作している十数枚の翼。それを、手掛かり足場として使用することが出来るのは真昼だけではないということだ。いや、それどころか、むしろ、それらの翼は、真昼のためのものではないのだ。

 主のものは。

 主のものに。

 支配者のものは。

 支配者のものに。

 リチャードが辿るラインの前方。ちょうどよく、まるで図ったかのように、一つのチェーン・ソウが飛来した。ああ、もちろん、それは図ったのだ。リチャードは図っていたのだ。

 ぱんっと、熟した蝶々が弾けるみたいにして。リチャードが、唐突に、両の羽を開いた。というか、丸めていた全身を伸展させた。それから、両足が暴虐のように翼のひらを踏む。

 ノスフェラトゥの膝は人間が工業的に作りうるいかなる発条よりも狂人的で破滅的だ。ぎりぎりぎりぃっと、リチャードは、その膝に負荷をかける。その膝の内側で瞋恚の炎を燃やしているかのように、負荷を、負荷を、凄まじい負荷をかける。

 もちろん煩悩とは力である。あらゆる行動とその達成とは、寂滅為楽でさえ、無上正覚でさえ、煩悩によってしかなされ得ない。生命体とは煩悩を燃料として駆動する一種の装置である。そうである以上、いかなる種類の勢力であっても、いかなる種類の強度であっても、それは煩悩が身を焼き尽くすその温度によって決定する。つまり、リチャードの攻撃は、リチャードが持つ、怒りの、憎しみの、その温度によって決定する。さて、それではリチャードの煩悩の温度は如何? もしくは、その瞋恚はどれだけ真昼に向かうエネルギーであり得るか?

 リチャードは。

 まるで、撃鉄が。

 弾薬の、雷管を。

 叩くような。

 態度によって。

 翼のひらを。

 蹴り飛ばす。

 撃ち抜くのは鉛の星か金の星か。撃ち出された弾丸そのものとしてリチャードの身体は方向を転換した。いうまでもなく真昼の身体が投げ出されたその方に向かって。

 今度は、その身を丸めてはいなかった。むしろ、両方の腕を、五本の指のそれぞれが鈎戟のように研ぎ澄まされた腕を、斧鉞を振りかぶる処刑者のようにして振りかぶっていた。

 両の手のひらは両の翼と同じくらいセミフォルテアによって光り輝いている。翼を武器として使おうというのではなく、もっと単純に、自らの手のひらによって、真昼という生き物の、その生命を抉り取ろうとしたというわけだ。

 さて、一方で、そうして襲い掛かられた真昼はどうしていたのかといえば。当然にして当然のごとく、リチャードが追撃を加えてくるなどということは、スーパー真如丸分かり隨縁モードであった。スーパー真如丸分かり隨縁モードとは、スーパーな真如が隨縁によって丸分かりであるところのモードを意味する言葉であり、「スーパー」という形容詞が修飾するのが「丸分かり」ではなく「真如」であるということに注意して欲しいのであるが、それはそれとして、そのこと自体は驚くべきことではない。そりゃあ、まあ、よほどの馬鹿じゃなければ、たった一発の斬撃を避けられたくらいで、リチャードが唐突に無常無我の仏法を看取し、全ての煩悩を滅尽した上で涅槃の境地に入るとは思わないだろう。つまり、リチャードが、たった一回の攻撃で諦めてしまうとは思わないだろう。

 問題なのは、その気付きに対して真昼がどう行動したのかということである。真昼は、まず、何よりも、身体的な方向性のコンディションを最適化することに重点を置いた。分かりやすくいい換えるならば……リチャードの第一撃を回避することだけを最優先としたせいで、誰かによって吹っ飛ばされたのと変わらないような状況であるところの今の自分の状況を変えようとしたということだ。これをどうにかしないとやられたい放題ですからね。

 吹っ飛びつつも吹っ飛んだままで、真昼は、なんでもないちょっとした挨拶であるかのようにして、左手を伸ばした。左の先、僅か上。そこにあった翼、そのスパーを把捉する。

 ぐるんと、そのまま、その身体は、例えるなら鉄棒で逆上がりでもするみたいにして半分ほど回転した。このようにして、真昼は投げ出された時の勢いを上手く逃がしたわけだ。

 さて、これによって、頭を上に足を下にしていた真昼は上下逆さまになったわけだ。ちなみに、リチャードの攻撃を回避した際に、その体の正面が向いている向きは、リチャードがいる方向とは反対であった。とにかく攻撃を避けることを優先した結果であるが、その向きもまた、この半回転によって逆転した。リチャードがいる方を向いたということである。

 まあ、とはいえ、リチャードは、真昼の真正面にいるというよりも、第一撃の勢いもそのままに、斜め下、ずっとずっと下の方にいるのであったが。それはそれとして、真昼は、半回転が頂点に達した瞬間に、その手、ぱっと離した。

 足が上に、頭が下に。真昼は……空に向かって落ちていった。これはちょっと重力の方向からしておかしいような気もするが、ここは真昼のオルタナティヴ・ファクトの内部なので、そういう細かいことは気にしない方がいいだろう。

 なんにせよ真昼は上に上に落ちていって。その先にあった翼のひらに着地した。このようにして真昼はなんとか自分のコンディションを回復したわけだ。無論、その翼は回転し続けているのであって、真昼がそこに落ち着くことが出来るのはただの一瞬の出来事ではあるが。それでも真昼はリチャードの様子を窺うことくらいは出来る。

 真昼は視線を上に向けた。いや、今の真昼にとっては上が下であり下が上であるので、顔を下に向けたといった方がいいかもしれない。つまるところ、翼のひらの、その裏に立っている真昼が、顔を上げて、大地の方を見たということだ。リチャードがそちらの方向にいるはずの方向を。

 と。

 そこに。

 真昼の。

 視線。

 から。

 少女一人分も。

 離れていない。

 その場所に。

 リチャードが。

 吸痕牙を。

 剥き出し。

 に。

 して。

 いた。

 瞋恚のあまりに歪んでしまったような、生命を食らう獣に相応しい表情をして。リチャードは、既に、すぐそこまで迫っていたということだ。しかも、その迫り方は、先ほども書いたように、一発の弾丸と完全な相似形であった。

 次の刹那にもリチャードは斧鉞を振り下ろすだろう。真昼には回避している余裕などなかった。仕方なく、緊急避難の方法として、リチャードが襲撃してくる方向に向かって両腕を突き出す。右腕と左腕と、前腕部で交差させて、顔面を庇うようなポーズをしたということだ。

 また、それだけではなかった。真昼が両腕を突き出すと同時に、その両腕に纏わりついていた力の波動が展開したのだ。デニーが真の姿を現わす前にリチャードの攻撃を防いでいた、あの盾。あの盾と全く同じ盾だ。

 要するに、その表面に、蛆虫の九角形を基調とした防壁の魔法円を描いた盾である。確かに、このような盾を利用すれば、今の真昼のようにセミフォルテアを十分に集積出来ないに状態にあっても、ごくごく少量のセミフォルテアを有効活用出来る。

 さて。

 これで。

 歓待の。

 準備は。

 整った。

 直後。まずは一撃。リチャードは、右の斧鉞を盾に向かって叩きつけた。五つの鈎戟が掴み掛かりつつその盾の表面を掻爬する。十分に熱した包丁が氷の表面を滑っていくかのように、その鈎戟は、力の波動の一部を削り取ってはいたが……それでも、なんとか、耐えることが出来た。

 ただ、それは一撃だけの話だ。そして、リチャードが、一撃で終わらせなければいけない理由など何もないのだ。翼のひらの上、というか、その下に立っている真昼。その翼のひらの反対方向から突撃して来たリチャードに追い詰められて、移動不可能な状態だ。膾、膾、美味しい膾の作り方。じっくりじっくり料理に時間をかけてもなんの問題もない。

 二撃、三撃、四撃、五撃、次々に斧鉞を叩き下ろす。連撃、信じられないほどの速度。真昼が乗っている翼が、真昼が乗ってから未だに一回転さえしていないということを考えれば、これがどれほどのスピードであるかということが理解出来るだろう。真昼は、されるがままであった。いや、されるがままであるように見えた。盾、削られて、削られて、削られて。そうして、それから、数え切れないほどの連撃を食らった後で……とうとう、真っ二つに割れてしまった。

 ああ!

 真昼!

 絶対!

 絶命!

 とでも、思うか?

 少し前の文章をちょっと読み直してみて欲しい。そこには「真っ二つに割れてしまった」と書かれている。だが、これは、考えてみるとおかしい。なぜというに、リチャードの攻撃は打撃ではないからだ。リチャードは五本の鈎戟によって何度も何度も爪撃を繰り返していたのである。ということは盾は割れるのではなく抉り取られなければいけない。要するに、何がいいたいのかといえば……盾が割れたのはリチャードの攻撃によるわけではなかったのだ。それをしたのは真昼自身であった。

 真昼は、見ていた。何を? リチャードの爪撃を。その速度と方向性とを。リチャードがどのように爪撃を繰り出すのかというデータを、一撃、一撃、食らうたびに蓄積していたのだ。そして、そのようなデータをもとに、考えて、考えて、考えて、いた。リチャードの爪撃、次にどのような一撃が来るのかということを、絶対的な精度によって推測するということを考えていた。

 タスクの状態遷移。つまり、真昼はフリーズしていたわけではない。ただただ待機状態にあっただけだということだ。いや、正確にいえば、タスクは二つあり、解析タスクに関しては、既に実行状態にあったといっていいだろう。真昼の頭蓋骨の中では、リチャードの攻撃に対する解析が、猛スピードで、リチャードの爪撃のスピードに匹敵するスピードで、行なわれていた。そして、その解析タスクが終了し、暫定的な結果としてパターンが出力されると。そのパターンを入力された反撃タスクが実行可能状態になったというわけだ。

 真昼は、その瞬間に、反撃を開始した。先ほどは、盾について、割れたとだけ書いた。だが、よくよく見てみれば、それは、ただ単に割れただけではないということに気が付くだろう。

 盾は、割れた瞬間に、真昼の右腕と左腕と、二つの方向に滑り下りていった。一瞬でその全体に絡み付いてグローブのようなものを形成した。それから……そのグローブの一つ一つに、あの魔法円が、防壁の魔法円が刻まれた。

 こうすることで、真昼の両手は、それを掴むことが出来るようになった。それ? それとは何か? と、いう疑問を抱く必要はないだろう。そんなことは明白に明確だ。つまり、そのグローブは、リチャードの斧鉞を掴むためのものだ。

 近接戦闘においては、単純に、力の大きい者が力の小さい者よりも有利である。遠隔戦闘とは異なり、間合いの違いであるとか攻撃精度であるとかといった技術的な要素に左右される可能性が比較的小さいからだ。それでも力の小さい者が力の大きい者に勝利しようとする場合、あるいは少なくとも一矢報いようとする場合、その最も簡単な方法は、相手の力を利用することである。

 リチャードの爪撃は、いうまでもなく、ある地点からある地点へと移動する必要がある。攻撃対象である真昼に対して攻撃をヒットさせるためには、そこまで移動する必要があるというわけだ。その際、出来る限り素早く移動するために、また、ヒットの際のダメージを最大化するために、強く、強く、大量の移動エネルギーがつぎ込まれる。

 真昼は。

 それを。

 利用する。

 ことにした。

 盾が割れた向こう側ではリチャードが左腕を振りかぶっていた。真昼の、右肩を抉り、右腕を引き抜こうとして、一気にそれを振り下ろしてくる。そして、真昼には見えていた。全てが見えていた。手に取るように見えていた。その左腕がどのように攻撃を仕掛けてくるのか、それが辿るはずの将来的なラインが絶対的な精度を持った推測のもとで確定していた。

 リチャードが本気を出していたことが、かえって真昼に幸いした。どういうことかといえば、それが本気であるがゆえにリチャードの攻撃は直線的になっていたからだ。全力であるからこそ、余計な駆け引き、右にずらしたり左にずらしたりといったことなく、リチャードはただただ爪撃を繰り出していた。だからこそ、そのラインは読みやすかったということだ。

 真昼は、あくまでもしとやかに。そして、淑女のように控えめに。リチャードの、荒々しく、野獣のような爪撃を躱した。真昼から見て右側から左側に向かって叩き下ろされた斧鉞。それを、ほんの僅かに、全身を左に逸らすことで躱したのだ。

 結果的にリチャードの攻撃は空振りになった。斯うと、更に、それだけではなかった。リチャードの左腕は、真昼の右腕に向かって振り下ろされたその左腕は、ちょうど真昼の懐に潜り込むことになった。正確にいえば、真昼の右腕の下の辺り、助骨弓から第十肋骨の最下部を結び付ける曲線の、皮一枚を隔ててすぐ外側を通過していったということだ。

 真昼は、あたかも殿方を褥に誘うような艶やかさによってリチャードを誘った。具体的にいえば、自分の脇腹のすぐ近くを通り過ぎようとしていたリチャードの左腕、その肘の関節を、そっと自分の胴体と自分の右腕との間に挟み込んだ。それから、即座に、逃れる隙さえも与えることなく自分の右肘で抱え込んで。その先、つまりリチャードの上腕、左の手のひら、添えるようにして柔らかく柔らかく掴んだ。

 移動のエネルギーは相変わらず移動を続けている。これは空白だ。一瞬の、空白の時間である。リチャードは、本来であれば、攻撃が外れたということになれば、その攻撃であるところの右腕、即座に引き揚げさせるはずである。だが、そういった引き揚げが起こる直前、未だ右腕が前方に向かって移動しているうちに、真昼はその右腕を掴んでいた。

 そして、真昼は……軽く腰をひねった。右側に回転させた。あくまでも、最低限の動きだった。動いたか動いていないのか分からないほどの動きであった。

 そして、それで充分であった、リチャードがバランスを崩すには。あまりにも、あまりにも、大き過ぎる移動のエネルギーが、ごくごく僅かに狂いをきたす。

 真昼は、その瞬間を逃すことがなかった。女の女である部分が男の男である部分を包み込むかのように。捕食し、飲み込み、性の快楽で溺れさせようとしているかのように。セクサス・エデュケエシオネム。真昼は、更に、更に、腰を回して、リチャードのこと、自分自身の淫らな肉体の内側へと引き摺り込もうとしているみたいにして、一気に引き摺り込んだ。

 誘引。誘導。逆らうな、陥れろ。リチャードの暴力に対する真昼の暴力は、その方向性としてはほとんど同じものであった。つまり、リチャードから見て、後方から前方へ、左側から右側へ。たった一つだけ異なっている点は、リチャードのそれが真昼を狙ったものだったことに対して、真昼のそれは、リチャードの身体を、その暴力のラインに従って、背後に向かって放擲することにあったということである。

 それは。

 投げ技。

 本来であれば触れるだけでも毀傷を与えられかねないほどのリチャードの攻撃である。それ自体が溶解してしまいそうなほどに熱した金属の剣で切り掛かっているようなものなのだから。しかし、そのような毀傷に関しては、真昼が触れた瞬間に、触れたところからするりと忍び寄り、そのままリチャードの左腕を覆い隠してしまった力の波動、防壁の方程式が刻まれた方程式のおかげで遮断することが出来た。

 真昼は、自らの背骨を一種の軸として回転させた腰の動きに従って。そのまま、リチャードの身体を、自分の後ろに向かって放り投げた。いうまでもなく、真昼一人の力ではそんなことが出来るはずがなかった。相手は始祖家のノスフェラトゥである。単純な力比べで勝てるはずがない。ただ、それでも、その時に力として力であったのは真昼の力だけではなかった。まさにリチャードの力がそれに加わっていた。

 自分が斧鉞を振り下ろしたその凄まじい勢いそのままに、ということは、とんでもねぇ勢いでぶっ飛ばされた。真昼が手放したその瞬間に。力の波動が滑るように引いていったその瞬間に。リチャードは、真昼の背後、真昼を起点とするとやや左斜め下方向に向かって、ということは実際は下方向ではなく上方向ということであるが、なんだかややこしいね、それはそれとして、投石機によって跳ね上げられた石ころのようにぶっ飛んでいった。

 もちろん真昼の反撃がここで終わるはずがない。反撃とは相手を仕留めて初めて完了するタスクなのである。リチャードが投げ飛ばされた方向を見てみよう。そちらの方向からはジャスト・タイミングでチェーン・ソウが飛来してきていた。しかも一枚だけではない。爪撃に次ぐ爪撃によって足止めしているこのタイミングを狙って、一気に真昼を無力化してしまおうと、右腕、左腕、右脚、左脚、つまりは四肢の全てを切断出来るだけのチェーン・ソウ。四枚の翼が迫ってきていたのだ。

 真昼は、それらのチェーン・ソウに向かってリチャードをぶん投げたのだ。始祖家のノスフェラトゥの本気の神力体術。このまま激突すれば、仮にリチャードとて無事では済むまい。

 ただ、とはいえ。リチャードが、自らの剣によって刻まれるほど愚昧であるわけがなかった。リチャード、四枚の翼、刃と刃と刃と刃とがその身体を切断する直前。チェーン・ソウはチェーン・ソウであることをやめた。

 どういうことかといえば、話は至極単純なことで、翼が回転する刃であるということをやめたのである。そして、その四枚の翼は、ふわりと翻って。そして、四枚が四枚とも重なり合って、クッションというかなんというか、要するに、飛んでくるリチャードのことを受け止めるための膜を作り上げた。

 まあ、それはそうだ。翼はリチャードが操作しているものなのである。そうそうやすやすと自分自身によって自分自身を傷付けることはないだろう。人間であればそういうこともあるだろうが、リチャードは仮にもノスフェラトゥなのだから。

 そして。

 真昼も。

 それくらいのことは。

 理解していた。

 リチャードの身体が、その膜によって柔らかく柔らかく受け止められる。というか、受け止められただけではなく、それらの四枚の翼は、それぞれがそれぞれとして、リチャードの身体それ自体と共同して、リチャードが行動のコンディションを取り戻し、その方向性を真昼がいる方に向かって可及的速やかに反翻させることをした。簡単にいえば、四枚の翼、一枚一枚が、ぶっ飛ばされたリチャードの各部位を丁寧に包み込み、くるりとひっくり返して姿勢を取り戻させたということだ。

 そうしてリチャードは振り返った。真昼の方を、見上げた、見下げた、どちらでもいいが、とにかく真昼の姿を視界に入れた。目と鼻との先の距離まで迫っていた真昼の姿を。

 もちろん、もちろんだ。真昼は、チェーン・ソウがリチャードを仕留めることがないということを理解していた。だから、自らの手によって、仕留めに掛かったということだ。

 真昼の両腕。絡み付いた力の波動。そこに刻まれた魔法円は変化していた。あの防壁の魔法円からあの切断の魔法円に。デニーがリチャードとの戦闘で利用していた魔法円のうち、もう一つ、防御ではなく攻撃に利用していた魔法円だ。

 真昼の両手、そこから先、力の波動は、あたかも光の剣のようになっていた。ただし、デニーがそれを利用していた時とは違い、屠獅子刀のような巨大な剣ではなく、むしろ暗器のようなもの。例えるならば刀螂匕首のようなものになっていた。確かに真昼は人間なのであまり大き過ぎても使いづらいであろう。また……実は、そのような刃が付属していたのは両手だけではなかった。両足からも、ナイフシューズのように、やはり刃が突き出していた。

 四肢に刃を纏わせて、真昼は吶喊していた。野獣のような叫び声であった。いうまでもなく、真昼もまた生命を食らう獣である。真昼は、今まで、無数の生命を食らって生きてきた。パンダーラの、マラーの、生命を。ミヒルル・メルフィスのswarmの生命を。あるいは、それだけではない。それだけではないのだ。真昼は、もともと、真銀のスプーンに血液を注いで、それを口に咥えて生まれてきた少女であった。ディープネットが作り出した兵器。そのような兵器によって殺された、無数の、無数の、スペキエースの生命を食って。それを血肉としてきたこの身体なのだ。

 骨が砕け、皮膚が焼かれ、全身に手負いし、それでも剣のような爪を剥き出しにして獲物に向かって食い掛かる獣。それが真昼だった。それこそが真昼だった。今のこの姿、醜い醜い獣の姿。もう一匹の、生命を食らう獣と、殺し合いをしているこの姿。ああ、そう、そうだ。この姿こそが、真昼の、本当の姿なのだ。

 そして、二匹の獣の姿は激突した。ようやく出会うことが出来た二匹だ。ようやく同じ種類の生き物に出会うことが出来た二匹である。それは、きっと、凄まじい歓喜であろう、凄まじい法悦であろう。

 エロス、タナトス、双入次第。二人は縺れ合いながら転がり落ちていく。しかし、どの方向に? 実をいえば、二人の間には、既に重力などという無粋なものは働いていなかった。上は上ではなく下は下ではなく、左右もまたそれと同様であった。不二に融合した二個の身体はある時には、大地に向かって、ある時は天空に向かって、墜落する。ただただ二人の姿は、カーラチャクラの内側で無上瑜伽の状態にあるかのように。不変大楽の遊戯を行なっているかのように。無既定の空間の中で殺し合いをしていたのだ。

 ああ、この、アヴァドゥーティーを貫くようなディヤーナ! そう、それは確かに静慮であった。二人の間からはあらゆる色が消え去っていた。外色だけではなく内色も。あらゆる雑音は消え去り、ただただ純粋で、そしてやはり単純な、殺戮の三昧だけが脈打っているのだ。

 真昼の赤、リチャードの白。

 世界が二色に塗り潰される。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る