第三部パラダイス #57

 ところで、真昼が砂流原静一郎の一人娘として家庭教師から兎魔学の英才教育を叩き込まれていたということはここまでも何度か書いてきたことであるが。そのような様々な教科の中でも、真昼が最も嫌いだったのはホビット語の授業であった。劣等生というか落第生というか、そういう種類の人間は、大抵の場合、語学の授業を最も嫌うものであるが、真昼もその例に漏れなかったということである。ただ、とはいえ、真昼がどれだけ「めんどくせー」だとか「やりたくねー」だとか「こんなの覚えても将来の役に立たんだろ」だとか「うちの会社も人殺しの道具ばっか作ってねーで「なんでも記憶できるくん」みたいなもっと世のため人のため役に立つもん作れよ」だとか、そういうことを考えていたのだとしても。兎魔学というものは、まずはホビット語を理解しないと全然分からないし全然使えない。ということで、真昼はホビット語を徹底的に叩き込まれていた。

 つまり。

 真昼は。

 数え切れないほどの。

 ホビット語の単語を。

 暗唱。

 出来る。

 さて、この瞬間に、どうやら真昼はガントレットを作成し終わったようだ。左の拳、右の拳、その形状が包み込んでいる。そのような真昼を見ていたリチャードは、「てめぇ、まだやる気か?」だとか、「いい加減に……」だとか、そんなことを言いかける。しかしながら、その言葉はその後に繋がる言葉を失った。

 ぱきーん、という、とてもとても澄んだ音が鳴り響いたのだった。その音は、ちょっと言葉では表現しにくいほど根源的な音で、あたかも閻浮檀金の、その全てに一斉に罅が入り、世界の根底が、透明な硝子が透明に破綻するかのような、そんな態度によって粉々に砕けた時の、その音のようであったのだ。

 何が起こったのか? リチャードの目の前で真昼のガントレットに罅が入ったのだ。ただ、それは壊れてしまったとか崩れてしまったとか、そういうことを意味するわけではない。つまるところ、刻印。

 その罅は表面だけに刻まれたものであった。ガントレットの、手の甲の、全体に、何か目には見えない崇高な存在の手によって描かれているかのようにして。今、まさに、一つの図形が描かれているのだ。

 図形は二つの個所から成り立っていた。さあ、今、それらの二つのしるしについて解き明かしをしよう。まず一つ目のしるし。それは間違いなくエーテル操作のためのコーモスであった。そう、デニーとの戦いにおいてエレファントがそのガントレットに刻んでいた魔法円である。エネルギーを自由自在に作用させるための魔法円。ただし……実は、これは、これだけでは真昼のガントレットには使えない。

 なぜなら、真昼のガントレットは、そこに満たされているセミフォルテアがあまりにも強力だからだ。エレファントのこのコーモスは、せいぜいが傭兵風情が使うコーモスであって、これほど強力なエネルギーに作用出来るほどのパロール的音韻があるわけではない。このようなエネルギーをラングの対象とするためには、それなりの、無慈悲さ無邪気さ、要するに言語的恣意性が必要となってくるのだ。

 それゆえに二つ目のしるしを必要としたのである。それは、つまるところヴィスカムの魔学式であった。そう、あらゆる記号に寄生して影響を与える「ヤドリギの魔学式」。ただし、それはただ単なるヴィスカムであるというわけではなく……デニーが真昼に刻んだ、身体強化の魔学式。それを極限まで単純化することによって、それがなんであれ強化することが出来るようにした魔学式と融合させたもの。

 いうなれば、それはランガージュ完全化の魔学式とでもいうべきものであった。その魔学式が寄生した記号、ラングとパロールとを方程式の両辺に置いて、それらの特定の値が表徴完全性を手に入れられるように、パロール的音韻を強化するための魔学式である。そんなものを、ほとんど直感的に、寄せ集めの有り合わせで作り出すなんて、全くもって信じられないことだが。真昼は、確かに、それをしたのだ。

 斯うと、そのような二つの図形が合わさることによって一つの記号を作り出す。それは、端的にいえば、ガントレットの内部に蓄積しているセミフォルテアを直接的ではなく応用的に利用するための記号であった。ただ、この記号だけではまだ完成ではない。なぜならば、この記号は、セミフォルテアを作用出来るようにしただけだからだ。まだ、真昼は、どのように作用させるかということを決めていない。

 と。

 刹那。

 真昼の仮面。

 右頬。

 左頬。

 その表情の両側。

 全く、異なった、二つの、口が。

 絶対的な同期性として現われる。

 そうして。

 その後で。

 右の口。

 左の口。

 両方が。

 記号を。

 放つ。

「arde。」

「gala。」

 右の口が発した記号。arde。これはホビット語で「燃える」を意味する単語であるところのardereの命令形だ。つまり、真昼は、右側のガントレットに「燃えろ」と命令したのだ。とはいえ「燃えろ」とはどういうことか? 真昼が操作しようとしているものはセミフォルテアである。物理的法則も妖理的法則も超えた、神学的法則によって動いているものだ。それに「燃えろ」と命ずるとはどういうことか?

 凝体、停体、個体、液体、気体、動体、離体。まだまだ様々な種類の物質の形態があるが、人間が現時点で理解しているものの中で最も有名なものはこの七つである。燃えるということは、基本的に、このような形態のうちの離体へと限りなく近付けるということである。離体とは、物質のあらゆる要素が暴れ狂い、どこまでもどこまでも分離していくことによって、結果的に、魔子、科子、それどころか基本子の状態さえも保てなくなるということだ。この状態の物質は、実空間に属しているというよりも統計的なパラメーター上の値となっているため、世界全体のどこにでもあり得る状態にある。

 真昼が命じたのはこの意味における「燃えろ」だった。つまり、いうまでもなくガントレット内部のセミフォルテアも一つのパラメーターであるのだが、そのパラメーターがそのパラメーターとしてあり得る条件の範囲内で最大の値をとるように命令したのである。結果として、右側のガントレットは凄まじい勢いで燦然と輝く光だけを残して消え去った。いや、正確にいうとマテリアルとしてのレベルが一つ上に上がりultra-parameter化したのである。右側のガントレットは、この時空間において一つの変数のようなものと化したということだ。それは、「ここにないもの」というよりも「どこにでもあり得るもの」となったということだ。

 一方で……左の口が些喚いたのはgela。これはホビット語で「凍る」を意味する単語であるところのgelareの命令形である。つまり、左の口は左のガントレットに対して「凍れ」と命じたということだ。いうまでもなく、これもまた、やはり一般的な意味において「凍れ」と命じたわけではない。いってみれば「燃えろ」の対義語としての命令である。

 凝体。凍るということは物質を限りなくこの形態に近付けていくことを指し示す。凝体とは何か? いうまでもなく離体の完全な対称形である。物質のあらゆる要素が硬直し、完全に停止する。絶対的な秩序のもとに整然と並び一つになる。それはやはり、魔子でも科子でもないものだ。そのどちらでもあるもの。いや、というよりも、統計的なパラメーター上では、そのような物質は、そのパラメーター上の全ての物質であり得ることになる。分かりやすくいえば、離体は一にして全であるが、凝体は全にして一なのだ。実空間におけるあらゆるものはたった一つの凝体と一体化する。

 真昼はこの意味において「凍れ」と命じた。ガントレット内部のセミフォルテア、そのパラメーターがそのパラメーターとしてあり得る条件の範囲内で最小の値をとるように命令したのだ。左側のガントレットがどうなったかといえば、それは一つの巨大な穴となった。絶対的な虚無、あらゆるものを飲み込む虚無である。それはマテリアルとしてのレベルが一つ下がったということだ。いわゆるinfra-parameter化と呼ばれる現象であるが、やはりこの時空間における一つの変数となったこと意味する。それは「何ものでもないもの」ではなく「何ものでもあり得るもの」なのだ。

 光。

 闇。

 その双方を。

 一つの身に纏い。

 梵我一如。

 一切菩薩。

「させてくれよぉ……痛い思いってやつをよぉ……」

 真昼の仮面は。

 まさに。

 摩訶衍の。

 笑みで。

 笑って。

「あたしは、痛いのが、好きなんだ。」

 リチャードが見たのは、真昼が何もないところで振りかぶったそのポーズであった。真昼からリチャードまでの距離は少なくとも十ダブルキュビトは離れている。だから、普通に考えて、そんなところで振りかぶったところでなんの意味もない。真昼の拳がリチャードに当たるはずがない。

 ただ、リチャードは、もちろん、分かっていた。真昼が振りかぶったのが右側のガントレットであるということを。つまり、離体化したセミフォルテアを纏ったガントレットであるということを。真昼の仮面、その口が動く。その口が言葉を些喚く。「白式尉」、そして、拳を、振り下ろす。

 リチャードは、「クソがっ……」といいながら信じられないほどの勢いで飛び退った。その直後、いや、時間とは全く無関係な時間によって、リチャードがいたはずのその場所に白式尉が叩き込まれた。普通に考えればあり得ないことである。だって、真昼と、リチャードと、その間には空間があるのだから。しかしながら、白式尉は空間を超越しているのだ。

 本当にギリギリのところで、リチャードは真昼の打擲を回避した。とはいえ、真昼の攻撃がこれで終わるはずがなかった。リチャードが白式尉に気を取られているうちに、真昼は、跳んでいた。リチャードに向かって地を蹴って跳んでいた。

 そして、それだけではなかった。左側のガントレット、あたかも陸地の何もかもを攫っていく波濤であるかのように、大きく大きく開いて。その手のひらを、ぐうっとリチャードの方に差し向けて。真昼は……「黒式尉」と些喚きながら、空中、ピルエットのようにしてぐるんと回転した。

 結果的に、その手のひらは、まるでリチャードを自分の側に引き寄せようとしているかのようにして何もない空間を掻き毟ることとなった。そう、確かにその空間には何もなかった。だが、左側のガントレットとは、凝体化したセミフォルテアを纏ったガントレットのことである。それは、この空間の、このパラメーター上の、あらゆるものであり得る。つまり、リチャードの周囲の空間であり得る。

 リチャードは「うおっ!」と叫んだ。周囲の空間が、いきなり、あたかも激浪のようにして身体の全体を包み込んだからだ。そのまま、リチャードは、放り投げられる、投げ出される。いうまでもなく真昼がいる方に向かって。

 というか、真昼が突撃してくる方に向かって。真昼は、既に白式尉を構えていた。そして、次の瞬間には、それを虚空に向かって叩き込んでいた。

 リチャードにはもう叫ぶ余裕さえなかった。「ぐっ……」という呻き声を上げながら、なんとかして身をよじる。全力で黒式尉の影響から逃れる。

 紙一重、間一髪、そういった言葉さえも悠長に感じるほど極限的な一線、なんとか白式尉を避けることが出来た。とはいえ、あまりにも力尽くの強さによって自らを弾き飛ばしてしまったせいで、黒式尉から逃れたその勢いのままに大地に叩きつけられることになる。

 釣り上げられた魚であるかのように岩盤に激突したリチャードは「がああああっ!」と絶叫する。これは、苦痛であるとか衝撃であるとかそういったもののせいというよりも、気合・根性・努力、燃え上がる闘志のパワーを全身に漲らせるための掛け声みたいなものであるといった方がいいだろう。

 そう、リチャードは意外と熱い男なのである。それはそれとして、リチャードは、そのような叫び声とともに、あたかも打ち上げられた魚が跳ね上がるかのような勢い、ばんっと跳ね上がった。接地していた両翼を発条として使ったのだ。それから、そのまま、真昼に向かって一直線の弾道を描いていく。

 現在の状況、遠隔戦は明らかに不利であると考えたため接近戦に持ち込むことにしたのだ。今の真昼にとって空間はほとんど関係ないものとなっている。どこにいてもリチャードを掴むことが出来るし、どこにいてもリチャードを殴ることが出来る。一方で、リチャードは、真昼にはスペキエース能力が通じないため、少なくとも狙撃という方法をとることが出来ない。それならば……真昼から遠く離れたところにいるよりも、むしろ真昼を自らの攻撃の間合いに捉えるべきである。

 ところで、ここで二つほど補足をしておいた方がいいかもしれない。まず一つ目。なぜ真昼は、白式尉でも黒式尉でもいいのだが、そのパラメーターをリチャードのパラメーターそのものに叩き込むことをしないのか。つまり、白式尉ならば外側からリチャードを殴りつけるのではなくリチャードそのものを殴打というパラメーターに変換してしまえばいいのだし、黒式尉であるならばリチャードのパラメーターを黒式尉であるところの黒式尉としてしまえばいいだけの話ではないか、ということだ。

 実はこういうことは出来ない。なぜというに、もしもガントレットとリチャードとが同一のものとなってしまった場合、即自的に、その一体化したそれ自体に対する支配権を巡る闘争が行なわれることになるからだ。つまり、パラメーターを叩き込むということは、ガントレットがリチャードになるということだけではなく、リチャードがガントレットになるということをも意味するのである。となれば、それ自体の行動の支配権は、純粋に、精神力が上回ったものが手に入れることになってしまうわけだ。

 もちろん真昼は人間でありリチャードはノスフェラトゥである。いくらデニーによって強化されているとしても精神力の勝負で真昼が勝つということはほとんどあり得ない。ということで、リチャードの外部から攻撃するしかないのだ。

 また、それ以前の問題として、リチャードにおける生命の疎隔性の問題がある。どういうことかといえば、それが生命体である限りにおいて生命体とはある種の不可侵なのである。その個体限定範囲は相対的世界独立性を有しているのだ。当然ながら、人間だとか、そういった下等知的生命体に関していえば、無視出来るほどでしかない。ただ、リチャードほどの高等知的生命体ともなれば、その相対的世界独立性は相当なものとなるのだ。つまり、リチャードが望まない限りにおいてリチャードのパラメーターを勝手に操作するということは、その相対的世界独立性を突き破るコヒーレンシアが必要になってくるということである。それほどのコヒーレンシアは、やはり、真昼には到達不可能である。

 二つ目の補足。なぜリチャードは自らの身体を凝体や離体にしてしまわないのか。真昼はセミフォルテアをパラメーター操作することによってガントレットを相転移させた。いい換えれば、セミフォルテアの持つエネルギーを極端に強化することでそれを成し遂げたということだ。それならば、リチャードも、そのように、自らのセミフォルテアを強化することによって自らの身体を相転移させることは出来ないのか。

 結論だけをいうならば、出来る。ただそれをするメリットがない。よくよく考えてみて欲しいのだが、真昼は自分の身体を相転移させたわけではない。自分の身体から疎外したところの不確定性を相転移させたのだ。ということは、そのような極端なパラメーター変更によるダメージを一切負っていないわけだ。

 一方で、もしリチャードが自分の身体を相転移させれば。当然ながらそういったことに伴うダメージの全てが直撃することになる。例えば自分の手を燃やしたり、あるいは凍らせたりすれば、当然ながらその手はmumsie culpepperなことになるわけであるが、要するにそういうことだ。

 もちろん始祖家のノスフェラトゥであるリチャードがその程度のことで致命傷を負うわけがないのだが、とはいえ、多少は戦闘に差し障るということは明白である。そうであるならば、ただただ近付いて攻撃すればいいだけの話であるにも拘わらずそのような大袈裟な手段を使うことには意味がないわけだ。

 それに何も、リチャードは、真昼を。

 自らの手で仕留める必要はないのだ。

 ただ。

 時間、稼ぎ、を。

 していればいい。

 そうすれば……

 やがて……

 真昼は……

 いや、この話をするのはまだ早い。まだその時は来ていないのだ。とにもかくにも、リチャードは、雷霆の大鎚によって何度も何度も打ち据えることによって鍛錬し、永遠に広がる星のない夜の暗黒を一発の弾丸にした、その弾丸のように。刹那よりも刹那、真昼の懐に飛び込んでいた。

 セミフォルテアのエネルギーによって、内側から破裂しそうなほどに光り輝いている、五本の鉤爪。真昼の喉笛を抉り出そうとするかのようにして掴み掛かる。

 一方の真昼といえば、まずは白式尉によってその攻撃を受け流した。それから、その時の上半身のひねりを利用して、黒式尉、勢いよく殴りつけた……大地を。

 リチャードを殴ろうとして避けられたわけではない。黒式尉は、最初から真昼の真下、その岩盤を狙っていた。一体なんのために? 幸いなことに、というのはリチャードにとっては幸いなことにという意味であって、真昼にとっては残念なことであるのだが、とにかく、リチャードは即座に真昼の狙いに気が付いた。

 「不味っ……」と口走ったリチャードは、次の瞬間には飛んでいた。まるで時空そのものに向かって直接的に両翼を叩きつけるかのようにして羽搏くと、その身体、即座に、数ダブルキュビトの距離を一気に上昇する。

 そして、直後。大地が一気に隆起した。まるでそれが液体であるかのようにやすやすと。先ほどまで凪いでいた海面がいきなり澎湃したかのように。真昼の周囲、半径十ダブルキュビト程度の範囲。それは……それらは……無数の、無数の、岩の柱。全てが拳だった。全てが黒式尉だった。

 要するに真昼は、大地をたった一度殴りつけたそのパラメーターを、自分の真下の岩盤、広範囲にわたって、何度も何度も、それでいて完全に同時に適用したということである。もちろん黒式尉はあらゆるものであり得るため、それが一つであったとしても、それが一つでなければならないという制限はないのだ。それが一つであったとしても、それは数え切れないほどの無限でさえあり得るのである。

 結果的に大地からは数十のガントレットが突き出すことになったわけだ。そして、それらのガントレットは、一つ一つが上に向かって殴りつける攻撃となったのである。その様子は、あたかも……平和的回廊地帯の戦場にて、暫定政府軍の歩兵達が使っていた手榴弾。塹壕や、盛砂や、そういった物を暫定的・簡易的に作り上げるために使われていたあの手榴弾が大量に投下されたかのようだった。

 まあ、とはいえ、どれだけの数のガントレットが突き出したとしても、それが二次元的な広がりに限られている以上、上下軸の方向に逃れられたら終わりである。ということで、黒式尉による攻撃はリチャードに当たることがなかった。

 ただ真昼にとってはそれでよかった。というか、真昼の目的は、まさにリチャードが飛躍することであった。つまり、リチャードが真昼に攻撃を当てることが出来る範囲から、リチャードを叩き出すことこそが真昼の目論見だったのだ。

 さて、これでリチャードの攻撃を気にする必要がなくなった。安心してやりたい放題出来るわけだ。真昼の仮面は、にいーっと笑った。まるで、世界そのものの腐敗の、一つの象徴のような顔をして。真昼という一個の生命自体が、腐り果てた世界の傷口であるかのような顔をして。それから、白式尉を振りかぶる。

 治罰。

 降伏。

 治罰。

 降伏。

 治罰。

 降伏。

 治罰。

 降伏。

 怨敵度脱。

 自由。

 自在。

 の。

 転法輪。

 それはあたかも戦車のごとく。戦車の車輪が凄まじい勢いで回転し、目の前にある全てのものを巻き込んで、潰し、砕き、壊し、崩し、粉々にしようとしているかのごとく。真昼は、白式尉を何度も何度も何度も何度も叩き込んだ。

 いうまでもなく、ただただその姿を見ていただけであるならば、それは一種の舞踏であっただろう。真昼は、右のガントレットによって、何もないはずの空間、あちらを、こちらを、殴りつける。上から、下から、右から、左から。

 しかしながらそれは舞踏ではない。何もない空間で踊っているわけではない。まさに、その空間は、リチャードがいるその空間なのだ。あらゆる場所のあらゆるパラメーターであることが出来る白式尉は、常にそこにあるのである。

 両の翼を開き、真昼の少し上のところを飛んでいるリチャードは。「わ!」「な!」「ぐ!」「は!」とかなんとか言いながら、あっちこっち、めちゃくちゃな飛び方によって飛び回っている。これまた何も知らなければダンスに見えるだろう。随分と滑稽な、どことなく間の抜けたダンスだ。とはいえ、リチャードもまた踊っているわけではない。回避行動を取っているだけだ。

 「てめぇ! やめろ、やめろ、やめろ! やめろっつってんだろ!」と叫ぶリチャードであるが、こういうことを言われるやつがこういうことを言われて素直にやめるはずがないのである。真昼は、なおも、拳を叩き込み続ける。

 とはいえ、このようにただただ殴りつけることに意味があるのだろうか。真昼の攻撃は、確かにトリッキーといえばトリッキーではあるが、結局のところ遠距離攻撃でしかないわけだ。そうである以上、人間の速度とノスフェラトゥの速度と、その競争で、人間が勝つということはあり得ない。

 ということは。

 なんらかの。

 一工夫、が。

 必要になってくる。

 わけだ。

 そして、無論、真昼もそれを理解している。今の真昼は……待っているのだ。そのタイミングを。一工夫を明かすべきタイミングを。これまでも何度も何度も指摘したことであるが、リチャードの思考の構造はノスフェラトゥというよりも人間のそれに近いものになっている。人間であるということは愚かであるということだが、愚かであるということはどういうことか。それは、分かり切っていることを間違えるということである。ある一つの事実が確かに指摘していることを、その事実が指摘しているということを知っていながら、目の前で起こっている実際の出来事に適用出来ないということである。基本的に、人間の思考というものは論理的に構成されていない。なぜかというと、朦朧としていて曖昧としているため、縹渺する無数の断片的な感覚による入力を確固とした法爾道理となすことが出来ないからである。人間の思考は完全にはなりえない。それは事実を看取するための法器ではなく、生存を維持するための最低限の能力しか持っていない選択機関なのだ。

 つまり、真昼は待っている。事実が指摘しているその指摘事項を、その指摘事項として知っていながら、リチャードの選択機関であるところのリチャードの思考が行動を選択するにあたって、その指摘事項そのものを失念してしまうタイミングを。

 重要なのはルーティンワーク化である。いい換えるならば、慣れ切って飽き飽きすることである。それが何であれ、一定の決まり切ったことを繰り返し繰り返し続けると、人間は一種の警戒解除状態に入ってしまう。これは生物学的な反応であり、決まり切った手順のようなものなので、もう対処のしようがない。それが例え命懸けの作業であったとしても、限りなく事務に酷似したシークエンスによって定義されているのであれば、人間は緊張の糸をいつまでもいつまでも張り詰めさせておくことは出来ない。なぜなら、警戒とは、緊張とは、命に関する生理ではないからだ。それは例外状況に対する生理なのである。

 真昼は、全力で回避しなければ確実に直撃するが、とはいえそれらの全てが完全に想定の範囲内であるところの攻撃。規格外の方向であるとか、予想もしていなかった角度だとか、そういった意外性の一切を注意深く排除した攻撃を連続して打ち出し続ける。白式尉による殴打、殴打、殴打、その全てをリチャードがぎりぎりのところで回避可能なものとして打ち出し続ける。

 結果としてリチャードは、確かに真昼に近付くだけの余裕はないが、フィールドの全体にあらゆる感覚を張り巡らせるような緊張感を維持するまでもないというような、非常に中途半端な状況に置かれることになる。つまり、真昼が打ち出す打撃の、その運動にだけ注意していればいいという状況だ。

 事ここに至ってリチャードの注意が切断される。というか、正確にいえば「別のこと」に関する注意が切断される。リチャードはノスフェラトゥであり、本来であれば、あらゆる確率を予測出来る存在だ。だが、リチャードの中の人間の愚かさが、そのような予測の全てを切断してしまった。

 いわゆるルーティーン・インと呼ばれる種類の思考状態だ。それは一種の単純化された機械に似ている。もちろん、これは人間が作るような出来損ないの機械のことであって、ミセス・フィストのような人間を遥かに超えた超知性のことをいっているわけではない。とにかく、リチャードの思考は、それ以外のことを切断した。決まり切った可能性以外の可能性に対してアテンションのターミナルを閉鎖した。

 そう。

 これこそが。

 まさに。

 真昼が。

 望んでいた。

 ことだ。

 初めにリチャードのために弁明しておこう。リチャードは、いうまでもなく、そうなる可能性が有るということを知っていた。事物の性質上、そうなるということがあり得るということを分かっていた。それどころか、当初は、そのことに対して最大限の警戒さえしていた。つまるところ、だからこそ真昼は軽々にそれをそうすることを避けていたのであるが。とにかく、リチャードは、それを想定出来ないほど馬鹿ではなかった。ただ、ほんの一瞬。わずかに刹那。注意が途切れた。つまり油断したのだ。頭蓋骨に満たされた油を絶やしてしまったのだ。そのせいで、リチャードの精神をじりじりと焼き蝕んでいた危機感の炎が消えた。そして、リチャードは、その想定が指摘していたはずの可能性を、可能性として認識していながら、選択肢の中から取り落としてしまった。

 真昼の仮面は、差し詰め引き詰め、その弓の素早く震える弦のように笑った。ああ、矢を番えて放て! つまり、真昼は、既に拳を振りかぶっていた。後は叩き込むだけだ。

 これは……なんというか、論理などというものを振り翳す必要もなく、ごくごく当たり前の話であるが。先ほど真昼が凝体の性質を使って左のガントレットを無数に増殖させていたのを覚えているだろうか。いや、無数というほどでもなく、せいぜいが数十であったが。infra-parameterの状態にある物質は、その物質の性質を、パラメーター上にいくらでもコピー出来るということだ。それは、infra-parameterの状態にある物質が、いわば、メタ的であるからである。パラメーター自体ではなく、そのパラメーターに影響を与える何かになっているからである。ということは、いうまでもなく、もちろん、ultra-parameterの状態にある物質も、やはりそのような性質を持つ。

 真昼は。

 矢先を揃えるかのように。

 振りかぶっていた白式尉。

 生きるも。

 死ぬも。

 知らぬ有様。

 さんざらざらに。

 打ち振り下ろす。

 一つであるものが一つである必要はない。一つであるということは一つであるということではなく、これはこれでしかないわけではない。これはあれなのであるし、また、それなのでもあるのだ。エンタングル。つまりは、一つであるものは、パラメーターそれ自体なのだ。離体とは、あらゆる固定から、あらゆる纏縛から、離れたところの、時空間から離れたところの神羅万象。

 リチャードは「やべぇ……」と口走った。なぜか? なぜならば、本当にやばかったからだ。その瞬間に何が起こったのかというと、リチャードの周囲、前、後、左、右、上、下、本当にあらゆる方向から拳がぶっ込まれたのである。

 真昼が、白式尉のどこにでもあり得るという性質を応用したのだった。凝体というのは、以前説明した通り物質というよりも変数なのであるが、それはつまるところパラメーターのあらゆる場所に適用可能な情報ということである。

 その情報を、真昼は、リチャードの周囲のパラメーターにコピーしまくったのだ。結果的に、真昼の右のガントレットは爆発的に増殖した。そして、そのまま、リチャードに叩き込まれたということである。

 ちなみに、白式尉の、凝体が変数であるという性質にはもう一つの利点があった。それは、こちらのガントレットとあちらのガントレットと、その二つが同じ時空間を占めようとする場合。それが物質である場合は、決定値占有原則によって、どちらかのガントレットがその時空間から弾き飛ばされることになるが。それが変数である場合は、二つの変数が、全く同時に、同一のパラメーターを共有することが出来るのである。

 要するに。

 何がいいたいのかといえば。

 白式尉は。

 全く隙間なく。

 完全な球体として。

 リチャードのこと。

 襲ったと。

 いうこと。

 それぞれの拳と拳とが重なり合い、それでも純粋なエネルギーとして、それはあたかも光り輝く一個の恒星であった。自らが有するあまりにも凄まじい質量のせいで内側に向かって崩壊していく恒星である。

 リチャードには逃げ道がなかった。隙間がないどころか、重なり合う格子、光に光を重ねてなお光り輝く光、爆縮する檻の中に閉じ込められてしまったのだから。

 どうすればいいのか? このまま諦めてぶん殴られるしかないのか? もちろん、そんなわけがないのである。リチャードは、ちっと軽く舌打ちすると。ぐうっと、全身を、内側に向かって収縮させた。

 両方の翼も、あたかも拳を握り締めて力を溜めようとするかのような態度によって折り畳む。すると……その翼が光を放ち始めた。真昼のガントレット、白式尉、黒式尉、そのどちらにも似ているのだが、そのどちらとも違う光によって。

 それは、要するにセミフォルテアの光だ。自分の体内のセミフォルテアを、真昼がそれらのガントレットを変質させたのと同じレベルの強力……いや、それ以上の強力、開け放ち始めたのである。ただ、いうまでもなく、リチャードは、自らを構成しているパラメーターを相転移させるような余計な真似はしなかった。だから、それは、離体の光とも凝体の光とも違う、純粋に神学的な光によって光っていたのだ。リチャードは、ただただ、セミフォルテアのそのエネルギーを両翼に満たしていく。

 そして……そのエネルギー。

 求めていた強度に達すると。

 閂を放り捨てよ!

 世界を開け放て!

 捨。

 閉。

 閣。

 抛。

 リチャードは。

 両翼によって。

 撥去の転輪。

 その恒星。

 叩っ切る。

 つまり、何が起こったのかといえば。真昼がガントレットに蓄積していたセミフォルテアを上回る量のセミフォルテアを蓄積した、右の翼、左の翼、あたかも花火でも打ち上げるような景気の良さ、一気に展開したのである。

 それから、そのまま、翼を開いた時の勢いを回転方向に一気に流し込む。翼と翼と、羽搏きによって引き摺られるかのようにして、リチャードの身体は一回転する。

 そこに、ちょうど真昼の殴打が襲い掛かってきた。リチャードを叩き潰そうとする無数のガントレット……しかし、それらのガントレットも、リチャードの、始祖家のノスフェラトゥの、ほとんど本気に近い神力体術には敵わなかった。

 ガントレットは、リチャードの翼が触れるそばから切り刻まれていく。正確には、その部分のパラメーターが無効化されているだけなので、ガントレット自体にダメージがあるわけではないが。それでも一回転した翼の軌跡に沿ってリチャードを閉じ込めていたはずの檻は真っ二つに切り開かれた。

 リチャードは「っしゃ!」と快哉の声を上げながら、その檻の中から転がるようにして脱出する。リチャードが、文字通り、そこから飛び出た後で。恒星は、その全体が空無の中心に向かって崩壊していって……そして、その内側にあるものを叩き潰したとでもいいたげな様子で、完全に消え去った。

 Close shave。

 ああ。

 リチャードは。

 すんでのところ。

 死の罠、から。

 脱したわけだ。

 無論。

 真昼の。

 計画。

 通り。

 に。

 ここでちょっと冷静になって、論理的に考えてみて頂きたいのだが、もしも真昼の目的がリチャードのことをガントレットで作り出した檻の中に閉じ込めるということだけであったとすれば、明らかに、どう考えても、リチャードが油断する瞬間を待つ必要などなかったのだ。

 だって、そうでしょう? 真昼のこの攻撃の最も優れている点は、あらゆる方向から降り注ぐ殴打によってリチャードを閉じ込めることが出来るという点である。ということは、リチャードは、油断をしていようがいまいがこの攻撃から身を躱すすべなんてなかったわけだ。

 もちろん、一度や二度くらいであれば、檻に閉じ込められる直前に、檻が封鎖すると予測される座標軸における一地点から滑り出すことが出来たかもしれないが。ただ、何度も何度も執拗に、そのようにリチャードが滑り出す方向性を予測した地点に檻を作り続ければ、いつかは捕獲することが出来たはずなのである。

 ということは。

 真昼の目的は。

 この攻撃にあった。

 わけではなく。

 まさに。

 その。

 次の。

 攻撃に。

 あったと。

 いうこと。

 もしも、仮に、リチャードが万全な思考の状態を保っていたのであれば。次のような尽十方無碍光投華、疑蓋の余地なく明白なことに気が付かないはずがなかった。つまり、真昼が、このような攻撃を、リチャードを倒すための最終手段とするはずがないということに。

 力動風鬼が、いかに真昼に対してセミフォルテアの集中と蓄積とを、強く、強く、可能にしたとしても。そのガントレットを使う者、神の力の器となる者、は、人間の身体なのだ。確かに、この戦闘におけるリチャード、つまり、出来る限り真昼を生きたままで捕獲しようと考えているところの、生易しく甘ったるいリチャードであれば。真昼の、ぎりぎりまで強化された身体によって、まずまず互角の戦いをすることが出来るだろう。ただ……リチャードが本気を出せば。真昼が使うことが出来る程度のセミフォルテアならば押しのけて退けることが出来るのだ。まさに、今、リチャードがそうしたように。そして、真昼のように狡知に長けた獣が、その程度のことを理解していないわけがない。

 リチャードに思考する余地が残っていれば、そういったことに即座に気が付いただろう。しかしリチャードの頭蓋骨の中に響き渡っていたのは、要するに油断の残響であった。

 まず、リチャードは、想定外のタイミングで放たれた攻撃、しかも、かなり、リチャードのことを臨界点まで追い込むような攻撃に頭が真っ白になってしまったわけだ。ノスフェラトゥの頭が真っ白になることがあるというのは、ちょっと俄かには信じがたいことであるが、まあ、まあ、リチャードは流動知性というよりも関係知性の持ち主であるためそういうこともあるのである。

 そして、次の瞬間には、はっと我に返ったわけであるが。ちなみに、我を失ってから我を取り戻すまでの時間は、それでも人間よりは遥かに短かったのであるが、それはそれとして、その時には現在のこの臨界点をどう解決するかということに関連する思考しかなくなってしまっていたわけだ。なぜというに、一度、頭の中にあった思考の全てが消えてしまったため、新しくぽかんと発生したその思考だけが、何もない頭蓋骨の中にある唯一の思考であったからである。

 リチャードは、とにもかくにもその臨界点から逃れることだけを考えていた。それ以外のことは行動の選択機関から完全に放逐されてしまっていた。だから、普通であれば気が付くであろうこと、気が付かなければいけないことに気が付くことが出来なかった……つまり、今の攻撃が攻撃の第一段階に過ぎず、これから第二段階が始まるのだということに。

 真昼の仮面は。

 世界がしている呼吸の調子、を。

 整えようとしているかのように。

 ふっと。

 静かに。

 静かに。

 息を吐く。

 「あっ……てめぇ、まさか……!」と。リチャードは今更ながら気が付いたようだ。だが、全てが遅かった。真昼は、既に、黒式尉を突き出していた。リチャードに向かって。リチャードの周囲の空間に向かって。

 瞬間。リチャードの周囲の空間「として」唐突に表われた黒式尉が、リチャードの全身を掴んだ。決して逃さないように。全力で。全霊で。そのままひねり潰してしまおうとでもしているほどの力尽くによって、握り締めた。

 リチャードは、喉の奥から内臓でも吐き出そうとしているかのような音、「かはっ!」と声を漏らした。油断した、油断した、あまりにも油断し切っていた。この程度のこと、あらゆる事実が、あらゆる感覚が、リチャードの思考に対して指摘していたではないか。先ほどの攻撃が、リチャードの注意の空白を、リチャードの警戒の緩慢を、導き出すためのものだったのだということくらいは。つまり、真昼は……一度、リチャードをあるポジションに閉じ込めることによって、そのポジションからの脱出ルートを限定した。恒星を切り裂いたリチャードは、その切り裂かれた断面からしか脱出することが出来ない。そうであるとすれば、そのように方向付けられたリチャードを掴み取ることなどいとも簡単なことである。そして、更に、そのようにして脱出するリチャードは、脱出にあらゆる神経を注ぎ込んでしまってる。ということで、真昼の捕獲に関して、予め準備しておくことさえ出来ない。

 かてて加えて真昼の狡猾なところは、攻撃の第一段階、リチャードが恒星から脱出する際に、ほぼほぼあらん限りのセミフォルテアによって神力体術を発動させなければならないように強制したところである。そのせいで、今、リチャードはクールダウンしなければいけない状態にあった。

 リチャードは、先ほどの神力体術、自分自身の身体構造にダメージを与えるほどのセミフォルテアを開放してしまっていた。ここで、一度、身体構造を回復させておかないと。そうせずに、連続して、神力体術を使ってしてしまえば、最悪の最悪、魄の構造にさえ障害を与えかねないのである。

 もしも、そうでなかったら。リチャードは真昼の拳から脱出出来ていた。先ほどと同じように、真昼のセミフォルテア、より強い、より多い、セミフォルテアによって弾き返せば良かった。しかしながら、今のリチャードは抵抗出来ない、今のリチャードはこの拳から脱出出来ない。

 ただ、とはいえ……実は、リチャードにとって、さほどダンゲル・ダンゲルでクラクラ・クライシスであるというわけでもなかった。リチャードは、左のガントレットによって掴まれている。強く強く、潰そうとしているかのような強さで。そのガントレットは、セミフォルテアによって満たされていて、放出される凄まじいエネルギーはリチャードを焼き尽くさんばかりだ。それでも、リチャードに命の危険があるかといえばそういうわけではない。

 まず、真昼の握力では、デニーによって強化されていたとしても、セミフォルテアのエネルギーを借りたとしても、リチャードは握り潰せない。ここまでも何度も何度も書いていることだが、人間とノスフェラトゥと、生物としての質の差はそれほどまでに計り知れないのだ。また、ガントレットのセミフォルテアによってリチャードをこんがりステーキ化することも出来ない。もしも、ガントレットが、リチャードをこんがりステーキ化出来るほどのエネルギーを放っていたのならば。リチャードをkongaringする前に、まず真昼の手がkongaringしているだろう。

 ということは。

 この把握は。

 それ自体として。

 攻撃では、ない。

 真昼は、唐突に、げらげらと、声を上げて笑い始めた。まるでそういう種類の玩具が壊れたかのように。まるである種のプログラムがバグを起こしたかのように。ほとんど激痛のあまり絶叫を上げているみたいにして、あるいは、脳の一部を切り取られた猿猴のたぐいが涎をだらだらと垂らしながら叫びまくるみたいにして。恐怖を覚えさせるような異様さによって笑い始めた。

 それから、振りかぶった。左腕を。いつの間にか、左腕、その全体に重藤が巻き付いていた。それどころかガントレットでしかなかった力の波動が肩の辺りまで真昼の腕を覆い尽くしていた。真昼は、そのような左腕を、振りかぶったのだ。

 頭の上に至るまで拳を掲げる。いうまでもなく、そのようにして掲げられた拳とは、遠く遠く、上空彼方でリチャードを引っ掴んでいる拳とエンタングルしている拳である。いい換えれば、真昼はリチャードを掴んでいる拳を振り上げた。

 ああ、これこそ煕怡快楽! 真昼の左腕は、真昼の左腕を包み込んでいる力動風鬼は、輝いている、輝いている、晃耀微妙な無量光によって輝いている。そして、端的に指摘するとすれば、そのような光は人間が耐えられるものではない。

 真昼の左腕は、あたかも煻煨、極熱した金属によって形作られた籠手を嵌められているかのように。ガントレットの下で、ぶずぶずと音を立てて燃え始めていた。肉体的に燃えているのではなく観念的に燃えているのだ。それほどまでに、真昼は、自分の身体をセミフォルテアによって強化していたということだ。

 真昼は、笑う、笑う、燦然たる呵呵大笑。あまりの焦熱に、あまりの猛焔に、あまりの熾盛に、痛みという感覚さえ焼き尽くされてしまいそうな感覚を味わっていた。ああ、自分がなくなっていくのだ! 細胞の一つ一つまでばらばらになっていく! 身体が舞踏する、崩壊の舞踏を踊っている。だから、笑う。

 ああ、気持ちいいぜ。はははっ、目ん玉がひっくり返っちまいそうなほどに気持ちいい。真昼の左腕は、そのまま膨れ上がる。例えるならば、陰茎海綿体を通る無数の毛細血管に向かって陰茎動脈から多量の血液が流し込まれて、それによって、男根が屹立するかのように。雄々しく、力強く、巨大になっていく。

 そうして。

 その後で。

 その肥大化が。

 一定のライン。

 超えた。

 瞬間に。

 真昼は。

 撾打。

 楚撻。

 その形相は。

 まさに獄卒。

 リチャードを。

 大地に向かって。

 叩きつける。

 リチャードの身体は、大体、地上から十ダブルキュビトの高さにあったのだが。まさに一発のハッピーな弾丸が、ハッピーハッピーに撃ち出された、ザ・ハッピー・バリスティック。奈落の底に叩き落とすかのような勢いによって、一気に、一瞬に、大地に叩き落とされた。

 隕石が墜落したかのようだった。リチャードは天上の世界から箒か何かで払い落とされた星のようだった。一つの小惑星が、別の小惑星と激突して、衝撃によって天に占めていた自らの位置から弾き出されて。そして、地上に、落ちて、落ちて、落ちてきたかのようだった。

 夜刀岩で出来た岩盤に叩きつけられる。ああ、美しい、美しい、なんと美しい響きであることか。その音は、鈴の音だった。世界の終わりを招くための鈴の音だ。星と星とを鳴り合わせ、るるりるらるらとかがよう銀河の流れ。それを、あたかも乙女の黒髪のようにくしけずり、悍ましくもあららかな一個の鈴を作る。あたかも、その鈴を鳴らしたかのような音を立てて、リチャードの身体は大地に激突した。

 その音は……表現しがたいほどに透明で、青イヴェール合金が割れた時のような、冷たい冷たい、ぱきーんという音は。要するに真昼のオルタナィヴ・ファクトに罅が入った音である。リチャードが大地に激突した時、それが結果としてもたらしたところの衝撃には、いうまでもなく、物理的なものだけではなく妖理的なものも含まれていた。セミフォルテアが作り出した魔学的エネルギーのフィールドが科学的エネルギーのフィールドに影響を与えたからだ。そのため、リチャードの身体は、大地を穿っただけではなく、現時点で時空間を定義しているものとして適用されている真昼の観念に亀裂を入れたのだ。

 それほどの、物質面においても、観念面においても、衝撃。ただそれでもリチャードに対しては致命傷ではあり得ない。実際……粉々になって巻き上げられた真昼の観念が作り出した、もうもうと、ざらざらと、巻き上がっている夜の霧のような土埃。その中で、リチャードは「がはっ!」という咳音を発した。それから「ごぼっ、ごぼっ」と、喉の奥が膨れ上がって破裂するような咳を続ける。胸部に直撃したダメージが、内臓の一部に影響を与えたのだろう。いや、いうまでもなく、ダメージは胸部だけではない。リチャードをばらばらにするかのように全身に拡散し、あちらこちらに不具合を起こしていた。

 とはいえ。

 まだ。

 リチャードは。

 生きて、いる。

 そして。

 真昼も。

 無論。

 それを。

 理解。

 して。

 いる。

 ところで、リチャードは仰向けに落下していた。叩きつけられた大地の上、ぐにゃりとひしゃげて凹みを作ってしまっている真昼の観念の、その中心に横たわっていた。ぜい、ぜい、と、荒れ地の上で肺を引き摺っているような喘鳴を鳴らしながら、つまり、リチャードは空の方向を見上げていたということだ。

 ああ、なんか、眩しい。随分と眩しい気がする。あまりに、あまりに、眩しくて、リチャードは目を細めなくてはいけなかった。まあ、それも仕方がないことだろう。アーガミパータの太陽は、一切の秘匿を施されていないままの剥き出しのままの神卵である。そこから放出されるセミフォルテアは相当な量だ。仮にリチャードであっても、始祖家のノスフェラトゥであっても、それを眩しいと思うのは仕方がないことだ。

 いや、しかし……そういえば、今、何時だったか? 太陽が中天に昇る時間だったか? そんな時間は、とうに過ぎていた気がする。というか、そろそろ日没の時間ではなかっただろうか。なんだ? おかしいぞ? 何かがおかしい。そもそもの話として、ここには結界が張られていたはずだ。太陽の光を、神卵光子刺激性相対的独立化現象を引き起こす光を、遮断するための結界が。

 実は、リチャードは神卵光子刺激性相対的独立化現象をある程度は制御出来る。まあ、かなり限定された制御ではあるが。例えば、通常状態と独立状態との間の移行、それがどちら向きの移行であるにせよ、それは非常に困難を極めるものであるため、本当の本当に追い詰められた時、いざという時にしか使わない。それに、そのようにして神卵光子がないにも拘わらず独立状態に移行したとしても、それほど完全な移行とはならない。一定程度は世界との関係性を維持してしまうのだ。そのようなわけで、基本的には、制御は、昼日中であっても街中を闊歩出来るようにするだとか、昼日中でもターゲットをぶっ殺せるようにするだとか、そういう維持の方向にしか使われないわけだ。

 いや、つまり、何がいいたいのかといえば。まあ、結界がなかったとしても別に問題はない。リチャードは、神卵光子刺激性相対的独立化現象によって消えてしまうということはない。ただ、とはいえ……もしも、仮に、結界が消えてしまっているのだとしても。それでもやはり太陽の光がリチャードを照らし出しているのはおかしい。

 なぜかといえば、真昼のオルタナティヴ・ファクトが展開されているはずだからである。真昼のオルタナティヴ・ファクトは、真昼が真昼という名前である割には真昼の光景ではない。あの海のはずだ。御伽話に出て来る、あの、暗く、広い、海。そうであるならば、やはり、太陽が真上からリチャードのことを見下ろしているはずがない。

 何だ?

 何だ?

 何が起こっている?

 何か。

 とても。

 とても。

 畏れを。

 抱かせる。

 ことが。

 起こっている。

 アラリリハ、アラリリハ、さあ、答えて下さい。被造物にとって最も重要な務めとはなんですか? 永遠の重い栄光。ああ、それは、死の務め、死の務め。今のこの状況の、何が、一番、畏ろしいことかといえば。あれが間違いなく太陽であるということだ。あれは神の卵、神々の中でも、最も強く、最も賢く、光り輝く胎児のための卵。その卵が放つセミフォルテアと、同じほど素晴らしいセミフォルテアを放っている。

 リチャードは……いや……しかし……リチャードは、その瞬間、ぞっとした。脊髄が、あたかも運命そのものを映し出す冷たい冷たい鏡の前に、ただ脊髄だけで立ったかのように震えた。ああ、太陽が。太陽が、落ちてくる、落ちてくる。太陽が! リチャードに! 向かって! 落ちてくる!

 間違いなかった。天の中でも最も偉大なる星が。数え切れないほどの星々の中でも最も力ある星が。全宇宙の中心であるところの極点が、今、まさに、リチャードに向かって落ちてきているのだ。いや、それに対して落ちてきているというような生易しい表現を使うべきではなかった。それは突撃であった。明確に、明白に、殺意を持ってリチャードを狙撃しようとしているのだ。

 殺意? 殺意を持つ星? リチャードに対して、輝く憎悪、を、抱いている、星の名前? リチャードは、その瞬間に……ようやく、思考の中で真実が炸裂した。その遍照の無量光明が何者であるのかということを知った。

 ああ。

 そう。

 あれは太陽。

 真昼の太陽。

 砂流原真昼が。

 太陽になったのだ。

 それが放つ、あまりにも熾灼なる力。光り、怒り、真輝、瞋恚、のゆえに、それが太陽であるように誤解していた。逆にいえば、それは、太陽に匹敵するほどの力を散乱していた。

 真昼が、白式尉と黒式尉と、二つの拳を組み合わせて。小指から親指までの五指、一本一本を強く強く組み合わせて。一つの巨大な拳を作り上げて。それを振りかぶって、そして、そのままリチャードに向かって突貫してきていたのだ。

 力は、つまり、その巨大な拳であった。その拳が「この世界の王」のような光を放っていた。それは、あまりにも凄まじく、あまりにも悍ましく、明らかに、ただただセミフォルテアを纏うというだけでは到達し得ないような光であった。

 どういうことかといえば、つまり、それが二つのガントレットを合体させたものだというところに意味があったということだ。少し前に説明した通り、真昼の右のガントレットはセミフォルテアを離体と関係させたものであり、真昼の左のガントレットはセミフォルテアを凝体と関係させたものである。これをいい換えるとすると、右のガントレットはセミフォルテア・シーケンンスに対してパラメーター上極限近似値であり、左のガントレットはセミフォルテア・シーケンスに対してパラメーター下極限近似値であるということになる。

 一方で、力とは基本的に変化のことだ。パラメーターにおけるある値を、それとどれだけかけ離れた値にすることが出来るかということが力の量の定義である。さて、ここで……真昼が、二つのガントレットを合わせるとどうなるか? それは、氷と火とを合わせればどうなるかということである。氷の温度は火の温度に近付いていき、火の温度は氷の温度に近付いていく。つまり、パラメーター上で凄まじい変化が起こる。

 もちろん、火と氷と、くらいのことでは大したことは起こらない。現在の人間至上主義諸国で生きる一般的な人間が作り出せる温度差なんて、大体が数万度程度で、最大でも数億度程度だ。実験室のごくごく限られた時空間ならもう少し大きな差異も作り出せるだろうが、それでも十兆度がせいぜいである。しかもこれは物質的温度に限ったものであり、観念的温度差に関しては完全に操作の対象外なのだ。

 真昼が、そのガントレットで、今、まさに、なしている変化は。セミフォルテア・シーケンスの値なのだ。それも、上極限と下極限と、そのような値に限りなく近い値。物質だとか観念だとかそういったものを超越した、神学的といっていいような温度差によってそれをなしている変化なのだ。

 そのようなパラメーター変化が起こったらどうなるか? 一切の災害。一切の不幸。死によって死としてもたされた死の穢れ。つまりは、それは、禍津日神の御心の荒びだということだ。あらゆるものを破滅させる、歪んだ太陽の、捻じ曲がった太陽の、まつろわぬ力があらゆる方向に向かって解き放たれるということだ。

 そして。

 その太陽こそが。

 あの太陽だった。

 経緯を話そう。あるいは実行に移された計画と呼ぶべきか。まず、真昼は、リチャードを大地に向かって叩きつけた動作、その直後に跳躍した。もちろん、瞬間的に、力の波動の一部を脚部に纏わりつかせて、即自的なジャンピング・ブーツを作り出して。ぐるぐると螺旋状の発条、高く高く、跳び上がったということだ。

 まあ、とはいえ、せいぜいが数十ダブルキュビトといったところであったが。リチャードが大地に墜落していたその瞬間、真昼は天空に飛翔していった。その跳躍が頂点に到達すると同時に……右の手のひらと左の手のひらとを組み合わせた。リチャードを叩き潰すための太陽を作り出した。

 そうして、その後で、彗星の狙撃。リチャードに向かって、自らによって自らを撃ち出した。とはいえ、それは、果たして恒星と呼ぶべきか彗星と呼ぶべきか? いや、そのような区別は、もう必要ないだろう。果たして世界が終わる時にその世界の終わり方を分類する者がいるというのか。

 見よ!

 見よ!

 今!

 まさに!

 鼓を打たんとする!

 神の手を!

 威力!

 威神!

 世界そのものを鼓として!

 その万物を!

 己の舞踏で!

 躍らせようとする!

 その!

 莞爾!

 リチャードは、それを、見上げているしかなかった。避けなければいけない。避けなければ、間違いなく、その星はリチャードに衝突するだろう。しかし、それでも、リチャードは動くことが出来なかった。

 いうまでもなく、これこそが真昼の目的であったのだ。つまり、文字通りに全身全霊を懸けた攻撃を絶対に外さないために、リチャードのことを、動けなくしておくこと、足止めをしておくこと。白式尉によって檻を作り出した上の句から黒式尉で大地に叩き付けた下の句まで、結局の、最後の最後の、花下連歌の挙句の果ての目的はこれであった。

 まず、リチャードは、叩きつけられた時の衝撃によって全身に大ダメージを負っていた。ただ、これだけならば大した問題はない。確かに腕や脚や、あるいは翼といった、移動に使う各部位に不具合が起こっているため、移動することが出来ないが。もしもリチャードがセミフォルテアを使うことが出来るのであれば、その力によって全身の自然治癒力を最高レベルまで強化することが出来る。そういった不具合を即座に修理することが出来るのだ。だが、作り出された檻を破断した時の影響がまだ残っていた。というか、それ以上に、黒式尉によって把握されていた時の、そのガントレットが放出しているセミフォルテアの影響が加わることによって、更に悪化していた。とてもではないがセミフォルテアを使えるような状況ではない。例えるならば、健康のために体を温めなければいけないにも拘わらず、全身に重度の火傷を負ってしまっているせいで、まずはその患部となっている全身を冷やさなければいけない、といった感じである。つまり、もうどうしようもない。その星が、殲滅の星が、掃滅の星が、空虚な玉座に対する喝采のように晴れやかに墜落してくる様を見ているしかないのだ。

 ふと……リチャードは、気が付いた。それが卵であるということに。今、リチャードを殺そうとして降り注いでくる流れ星が一つの卵であるということに。

 卵のままで生まれてくる生き物がいる。全身を、生まれないままの美しい美しい卵の殻によって覆われて生まれてくる生き物がいる。そのような生き物は……つまるところ境界の上にいるのだ。この世界ではない世界、生まれる前の世界と、この世界との境界の上にいる。

 卵が割れるということは、太一なるものが複数に分かれるということだ。そこで、初めて、何かが生まれ得る。いうまでもなく、全てが有るということは絶対的な無なのである。なぜならパラメーターの最大値と最小値とは同じようにパラメーターの極限にあるのだから。

 星は卵だ。そして、それこそがまさに菩薩なのだ。菩薩とは卵のことなのだ。あらゆるものが生まれるべくしてこの世界に産み落とされた卵。この世界において二度目の誕生を運命付けられた卵。そこからは如来が生まれる。斯くの如く来たるものが。しかし、それは一体何者なのか? リチャードは運命の前に立っている、剥き出しの脊髄のままで、運命の前に立っている。それでは、あの運命からは、何が生まれるのか?

 本地垂迹。ああ、その通り。結局のところ、決して救われないものを救わなければいけない。菩薩の卵。死の卵。死だけをその内側に満たし、死だけをその殻の中から吐き出すであろう、大慈大悲の卵を見上げたままで。そして、それから、リチャードは吸痕牙を剥き出しにする「砂流原……」そして、それから、白と黒と、金剛と胎蔵と、両部の曼荼羅の光の中で絶叫する「砂流原真昼ぁああああああああああああああああっ!」。

 ああ。

 毘盧遮那。

 毘盧遮那。

 リチャードの目と。

 真昼の仮面の目と。

 二つの視線は。

 玄旨帰命の灌頂のうち。

 不二の冥合を果たして。

 そして。

 それから。

 大日の。

 菩薩は。

 獅子吼のごとく。

 こう些喚く。

「極星悪尉。」

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