第三部パラダイス #56

 直後、真昼は大きく大きく口を開いた。それは、まるで、顎の骨を落とした蛇のような有様であった。蛇? いや、龍。舞龍。それと同時に、真昼の周囲を回転していた力の波動が、まるで舞龍の羽根飾りのようにして、真昼の背後に、変化し続ける一連の模様を描き出した。

 そして、真昼は……queror。まるで真昼自身の観念の当然性を否定の余地がないほどに証明して見せるかのごとく咆哮した。叫んだ、叫んだ、絶叫した。世界が震える、真昼の、その、他者を前提としていない、究極的に孤立した、梵我絶対異相の咆哮によって揺り動かされる。

 それは、間違いなくアウトサイド・インフルエンサーだった。タンディー・チャッタンの前線基地でシャーカラヴァッシャがやってみせた、あの、魔法に酷似した影響力の行使である。その時にも書いたことであるが、アウトサイド・インフルエンサーは、基本的には個別知性の持ち主しか使うことが出来ないものだ。だが、今の真昼にはそのような「基本的に」は通用しなかった。真昼は、デニーとともに生きていた、その全てを自らの完全な身体としていたのである。完全な身体に欠損はあり得ない、それが、例え、情識であったとしても。情識はなかれ、情識はなかれ、そのようなものはボーディ・サットヴァには無用なものだ。

 ごわお、ごわお、ごわお、とでもいうようにして何度も何度も繰り返す波紋を描いていく。真昼の咆哮が真昼を中心として同心円状に広がっていく。波。そう、確かにそれは波であった。恐ろしい怪物の咆哮が、暗く広い海に、竜波を引き起こしたのだ。そうであるならば、それは海嘯とでも呼ぶべき現象だろう。

 海嘯は、そのまま、可及的速やかに、広がって、広がって、拡散していって。それから四人のグレイが立っているところまで到達した。当然だ、その海嘯が狙っていたのは、まさに、四人のグレイだったのだから。四人のグレイには回避する暇もなかった。ここで発せられてからそこに到達するまで、刹那さえも劫波と感じるような時間しかかからなかったからだ。いや、正確にいえば、時間は、一切、かからなかった。いうまでもなく真昼の行なう決定は時間の外側にあるがゆえに。

 ごうっ、と言忘慮絶の衝撃が四人のグレイを襲った。その影響力、あまりにも暴力的であまりにも独善的な権勢、が、直撃したことによって。四人のグレイは、なすすべもないままに、背後に向かって吹き飛ばされる。

 その様はあたかも突風によって吹き飛ばされたかのようで……ただ……とはいえ……それだけの話であった。真昼の天癩は、四人のグレイに、直接的な、目に見えるような、そういうダメージを与えることはなかったということだ。その証拠に、グレイ、四人が四人とも、後ろに投げ出された直後に態勢を立て直した。空中で、突風の流路を受け流すかのようにしてぐるんと一回転すると。そのまま、すとんと、何事もなかったように着地する。

 四人のグレイ。

 四人とも。

 その見た目には。

 特に異常はない。

 暫くの間。

 自分の身体の様子を。

 見たり触ったりして。

 確かめた後で。

 あの。

 代表者の。

 グレイが。

 真昼に。

 こう問い掛ける。

「虚仮威しか?」

「試してみろよ。」

 突呈。真昼は跳んだ。例によって例のごとく不遜そのものといった口調で言い放った瞬間に、真昼は、四人のグレイがいる方向に、投石機によって放り出されたような勢いで強襲を仕掛けた。あれほどの、ずたずたの、ぼろぼろの、状態。よくも、これほどの、敏捷で剛猛な動作をすることが出来ると思ってしまうほどの動作であったが……よくよく見てみると、真昼の肉体、そこここに、継ぎ接ぎが当てられていた。

 例えば、すり傷が出来ているところ。そのうちでも、肉まで削り取られているような傷口には、あたかも絆創膏かなにかのように力の波動が貼り付けられていた。また、捻じ曲がっていた手首、折れ歪んでいた足首、そういった部位。まるで、手のひらから手首までの全体を包み込む手袋、足の裏から足首までの全体を包み込む長靴、のようにして、骨折を固定していた。あるいは……これは目には見えないところであったが。体内、折れた肋骨のように、内臓を突き刺してしまう恐れがある箇所には、やはり力の波動によって補修が施されていた。

 このようにして真昼は、最低限、自分の肉体が動くように修繕していたのだ。グレイが吹っ飛んでしまっていた間に。真昼から注意が逸れていた間に。

 ということは、つまるところ、真昼の天癩は、このような修繕のための時間稼ぎであったというわけか? そんな超十方恒沙些細かつ超十方恒沙地味な攻撃に、天癩などという勿体振った名前を付けたというのか? そもそも「癩」という言葉は、非常にstigmaな単語であって、あまりこういう風に、無思慮というか不謹慎というか、そういう使い方をしない方がいいというのに。真昼はそのようなめちゃくちゃどうでもいい技名にこのような軽々しい命名をしたというのだろうか。

 まあ、差別用語だとか差別用語ではないだとか、そういうことはたかだか人間が得手勝手に決めたことであって、アーガミパータのような生きるか死ぬかの土地、高等から下等まで、あらゆる生命が、互いに食い食われてしているかのような土地。差別反対などという安っぽいお題目を唱えているようなやつから真っ先に強食によって弱肉とされていく土地では、本当に、心の底から、どうでもいいことなのであるが。それはそれとして、真昼は……瞬く間に、四人のグレイがいる場所に辿り着く。

 右の手のひら、殺意の刃。これほどの長奢を、ただただ指先だけで、凄まじい速度で回転させながら。真昼は、その二枚の刃を四人のグレイに向かって叩き込んだ。

 当然ながら、それほど簡単に仕留められるようなグレイではない。その瞬間に、四散、四人が四人とも別の方向に跳躍する。そして、その次の瞬間には、またもや歴史から消え去る。

 はず。

 で。

 あった。

 の。

 だ。

 が。

 クリック・スペル。

 真昼の仮面。悍ましい嘲笑を浮かべながら、上顎を舌の先で弾いてコッという音を鳴らした。その瞬間、グレイは、まるで脳髄に直接衝撃を叩き込まれたような衝撃を脳髄に感じる。「ぐっ……がぁっ!」という叫び声。四人が四人とも苦悶する。

 これは、もしかして、神的レセプトか? そうだ、間違いない。少し前にも触れたことであるが、ライカーンのジェインズ野というものは人間のそれよりも遥かに従順な恭順な構造をしている。そのようなジェインズ野に何かが叩き込まれたのだ。

 何が叩き込まれたのか。これは、一種の思考ロックだ。というか、文字通りの思考ロックといった方が正確だろうか。つまり、グレイの思考の一部が、真昼によってロックされたのである。それがどのようなロックかといえば、グレイは、もう「自分がそもそも誕生しなかったら」という歴史のIFを想定することが出来なくなってしまったのだった。

 何度も何度も書いてきたことであるが、「機関」は、グレイが希望したことグレイが想像したことを現実世界に適応するものである。ということは、つまり、グレイがそのことを考えることが出来なくなってしまえば、「機関」はそれを実現出来なくなってしまうのである。

 なぜだ、なぜだ、なぜだ? なぜ、たかが人間が、このような心的レセプトを行使出来る? 四人のグレイは四人とも混乱する。しかしながら、その次の瞬間にはそのことについて考えが至る。あたかも狼が威嚇するかのごとく、あるいは、これ以上ないというくらい忌々しげに。口の端を捻じ曲げて、牙を剥き出しにしながら、グレイは真昼に言う「アウトサイド・インフルエンサーによる思考の感染か……!」。

 そう。

 つまり。

 これが。

 天癩。

 真昼がしたことは、つまりはこういうことだった。真昼が自分自身の精神の内側に作り出した「感染する観念」、いわゆる自己複製型情報素子を、アウトサイド・インフルエンサーに乗せて周囲一帯に拡散させる。そうすることによって、それをグレイに感染させる。すると、グレイのジェインズ野に感染した自己複製型情報素子は、あたかもドミトルが細胞に感染することによってその細胞を自分自身の製造工場にしてしまうかのように。あるいは、そう、薨々虹蜺が、触れるもの触れるもの、自らと同じ美しい蝶々へと変化させていくかのように。グレイのジェインズ野を、真昼の観念と共鳴するための共鳴装置に変化させてしまったのである。

 つまり、今のグレイは、真昼の思考に感染してしまったということだ。結果として、グレイが考えられること考えられないこと、そのどちらも、ある程度ではあるが、真昼の支配下に入ってしまったのだ。

 ところで、そうであるとするならば……一つ疑問が出てくるかもしれない。グレイの思考を好き勝手出来るというのならば、ちまちまと能力を封印するなんていうまどろっこしいことをしていないで、さっさとグレイに「自分が完全に消滅して二度と復活することが出来ない」という状態を想定させればいいのではないか、という疑問である。そうすればグレイはその瞬間に消えてなくなるのだから。

 もちろん、真昼がそうしないのはそう出来ないからだ。つまり、そこまで好き勝手に出来るわけではないのだ。そもそも「機関」はある思考がちょっと頭をよぎっただけでそれを現実にしてしまうという危険極まりない代物である。そのような代物がライカーンという下等知的生命体に埋め込まれているのだ。例え、その影響力が自分自身にしか及ばないとしても……それでも、ライカーンの不完全な知性の下に、そのような爆弾を、なんの拘束もなしに置いておけるわけがない。

 要するに。グレイには「機関」を埋め込まれた瞬間から幾つかの思考ロックがかかっていたのだということだ。絶対に、どんなことがあっても、そのようなことを実現化しないように。例えば、グレイは、最強だとか無敵だとかそういうことを考えることは出来ない。ノスフェラトゥの天敵となる生命体について考えることが出来ない。理性を失って暴走することが出来ない。また、自分自身が完全に消えること、完全に死ぬこと、その他無力化されることを考えることが出来ない。

 これは外部からの思考の操作にも対応した絶対的な思考ロックである。そういうわけで、真昼は、手っ取り早くグレイを消し去ってしまうという方法を使うことが出来なかったのだ。

 とはいえ。

 今の。

 真昼に。

 とって。

 は。

 これで。

 十分だ。

 厄介な能力を、やっとのことで封印出来た。これで、そこにいるグレイはそこにいることしか出来ない。真昼の攻撃が当たる直前に消えてしまうということは出来ない。また……そのように「機関」を制限出来たということも大きいのだが。それだけではなく、グレイに隙を作ることが出来たのというのは、ちょっと言葉ではいい表わせないほど重要なことであった。

 これまでも何度も何度も触れてきたことであるが、グレイは恐ろしく冷静な生き物であった。さすがエリート・ライカーンというべきか、自己の感情、自己の欲望、そういったものによって一挙手一投足を乱されることがほとんどない。

 まあ、確かに、エレファントと比べればまだまだではあるが。それは、エレファントがちょっと化け物じみているというだけの話である。グレイの、このレベルであったとしても。動揺を誘い、精神の鉄壁を崩すというのは至難の業だ。

 そのような平常心を奪い取って、身体性を混乱の渦に叩き込むことが出来ないのであれば。そもそも真昼には勝ち目などないのだ。いくらデニーによって強化されているとはいえ、ベースとしては人間に過ぎないところの真昼が、エリート・ライカーンであるグレイの筋力・瞬発力・持久力・敏捷性・平衡性・巧緻性・柔軟性、要するに行動体力のあらゆる側面において、上回ることが出来るはずがない。そうであるのだとすれば、真昼に出来ることは、何とかしてグレイの注意を逸らし、その行動を制御している反応系統の盲点を衝くことだけである。

 そして。

 まさに。

 その盲点を。

 真昼は。

 作り出したのだ。

 四人のグレイは、一瞬、ほんの一瞬。まさに刹那の間だけ惑業苦に囚われた。何が何だか分からない状態に陥った。判断停止を余儀なくされた。そして、その刹那、真昼は、四人のグレイのうちの一人に的を絞って吶喊した。痛み、痛み、この激痛を紛らわせるために、ほとんど獣の絶叫を上げながら、体当たりでもするみたいにして襲い掛かった。

 はっと我に返る四人のグレイ。それから、襲撃を受けている一人のグレイを除いて、残る三人のグレイが真昼のことを取り押さえに掛かる。ただ、グレイがこのような行動をとったということそれ自体が、グレイが無明の闇に落ち込んでいるということの証明であった。

 三人のグレイが、馬鹿正直に攻撃してきたのを見て。真昼の仮面は笑った、凄まじい笑みによって笑った。それから、叫んでいたはずのその口が……いや、それとは別の口が。仮面のあちらこちらに開かれた三つの口が、同時に、コッというクリック・スペルを鳴らす。

 そう、グレイの思考は真昼の思考と共鳴状態にあるのだ。だから、真昼が「もしも自分が二人いたら」「もしも自分が三人いたら」「もしも自分が四人いたら」という思考に対してロックをかければ。いうまでもなく、グレイは、それらの想定を行なうことが出来なくなる。

 吸打音のその瞬間に。そこにいたはずのグレイ、二人目の、三人目の、四人目の、グレイは、あたかもそもそも生まれなかったかのように、いや、というか、まさにそもそも生まれなかったものとして、跡形もなくいなくなった。そして一人目のグレイだけが残される。

 鏡像円融。

 円融無碍。

 とうとう、再び。

 真昼とグレイと。

 二人は。

 一。

 対。

 一。

 に。

 よって。

 相対。

 する。

 バクティの。

 その瞬間に。

 真昼は、殺意の刃を振り上げると、それを、少しの容赦もなく、少しの呵責もなく、ただただ、純粋な、無垢な、美しい愛の感情にも似た完全な暴力によって叩き込んだ。それは一つの関係性としては、それ以上は考えられないというくらいに目眩くものであった。魅惑的であり、幻惑的であり、例えるならば、そう、「美の認識」という言葉以上に無粋なものがあり得るだろうか? いうまでもなく、美は認識するべきものではない。美は眩暈である。薔薇のような性的絶頂を、いかにして認識するというのだろうか。どうして、どうして、暗黒の中にたった一つだけ輝いている恒星に対する愛による愛を、理性として直感することが出来るというのか。その瞬間、真昼とグレイと、二人は、間違いなく愛し合っていたのだ。互いに互いのうちに愛するべきものの一切を欲望していたのだ。ただ、それは、闘争という形態をとってはいたのだが。

 愛を愛する愛の抱擁として、真昼は、殺意の刃をグレイの中心に突き刺した。右でもなく、左でもなく、上でもなく、下でもなく、その全ての中心であるところの中心に。腹。腹部。背中に向かって。まるで口づけに口づけを重ねて、それでもまだ足りない恋人同士の口づけであるかのように、刺して、刺して、刺して、奥に捻じ込んでいく。皮膚を引き裂き肉を引き裂き内臓を潰して、グレイの肉体の根底にある脊柱にまで達する。脊骨を砕き、脊髄を貫き、椎体を壊す。そうして、その後で、殺意の刃は、グレイの肉体を、真っ直ぐに穿通する。

 「がああああああああああああああああぁっ!!」と、グレイは、明らかに人間のそれではない、犬狼そのままの鳴き声によって咆哮する。よくもまあ腹を突き破られているにも拘わらずこのような咆哮を上げることが出来ると思ってしまうが、恐らくは、無意識のうちに「機関」を起動させて、自分が問題なく音を出せるようにしているのだろう。ただ、それでも、どことなく、蛇腹が破れた蛇腹楽器というか、風嚢の破れた風嚢楽器というか、ざりざりとすれているような音として聞こえていたのではあったが。

 真昼は、その鳴き声を、あたかも愛の睦言であるかのようにして、甘く、甘く、聞き流しながら。そのまま、真昼の身体とグレイの身体と、二つの身体によって絡まり合うようにして空間を突っ切っていく。数ダブルキュビトの距離、あちらからこちらまで疾駆した後に……ようやく、二人は、LOVEに堕ちていく。

 そこまで飛んできた勢い、運動力、それに、それだけではなく、自分自身の全重力を懸けて。真昼は、殺意の刃を、それが突き刺しているグレイごと大地に叩きつけた。殺意の刃は、その切っ先によって夜刀岩の岩盤に突き刺さって。そして、そのことによって、グレイは、あたかも採集標本か何かのようにして地面に繋ぎ留められることになる。

 グレイは「るぅ……ぐがあっ!」という、吐き出すような、絞り出すような、叫び声を上げると、そのまま内臓の残骸の混じった血反吐を嘔吐する。真昼の仮面に、その血反吐がかかる。真昼の仮面は、うっとりと舌舐めずりをする。

 しかし。

 これでは。

 まだ。

 まだ。

 足りない。

 グレイは。

 エリート・ライカーンであって。

 「機関」の所持者でもあるのだ。

 この程度の突き留めによって。

 留めて置ける相手では、ない。

 だから。

 真昼の。

 仮面は。

 あたかも。

 一つの。

 愛の。

 告白。

 で。

 あるかのように。

 見下ろしているグレイの。

 その耳元、に、向かって。

 こう囁く。

「恋重荷。」

 ぐぱあっと、殺意の刃が展開した。読者の皆さんは覚えていらっしゃるだろうか。殺意の刃は、主に二つの構成要素によって形作られている。まずは、力の波動。それに、もう一つは、暴走して、狂乱して、今となっては真昼の全身を覆い尽くしてしまっている重藤の弓。その重藤の一部が縒り合わされることで殺意の刃の軸となっているのである。その重藤が、ほどけて、頭足類の触手か何かのようにして広がったのだ。

 勢いよくグレイの全身に巻き付いていく。一本一本の触手が、グレイの五体、それぞれの重要な個所を強盛搦めに絡めとって。そうして締め付けた後で、そのまま、どずっどずっどずっ、と次々に岩盤に固定していく。

 そのようにして、あらゆる個所を縛られた後で。そのように縛った重藤の全体に、力の波動が浸潤していく。こうして、グレイは、殺意の刃によって大地に突き刺されたままで、その全身を完全に纏縛されてしまった。

 つまるところ……現時点の真昼には、グレイを殺すことは不可能なのだ。なぜかといえば、真昼がいかにしてグレイの身体を破壊しようとも。刺し貫こうとも、切り刻もうとも、叩き潰そうとも、グレイは「機関」によって生き延びることが出来るからである。もしかして、読者の皆さんは、真昼が、感染した観念によって、そのような命冥加の企てを阻止すればいいと思われるかもしれないが。残念ながらそういうことは出来ない。

 第一の問題点として、いくら思考を共鳴させることが出来るといっても、ずっとずっと共鳴させ続けるということは出来ないのである。ついさっきやってのけたこと、歴史修正の阻止は、グレイの集中力があらゆる反応に拡散している戦闘の最中であり、しかも、僅か数秒のことであったからこそ可能だったことなのだ。真昼の思考は人間の思考。もしも、グレイが、最大出力の集中力によって、継続的に共鳴を拒否し続ければ、さすがに弾き返されてしまう。

 また、もう一つ問題があって、それは、グレイが「機関」によって蘇生するとして、その蘇生のパターンはいくらでもあるということだ。例えば、今のグレイは、土手っ腹に風穴を開けられているにも拘わらず大過なく生存を続けることが出来ているが。この状態であるためには、たまたまグレイにとって致命的になる部分を一切傷付けることがなかった可能性だとかそもそもグレイは腹に穴が開いても死なない生き物だった可能性だとか、いくらでも可能性はあり得るのである。もちろん、こういった可能性は、どう考えても子供の思い付きに過ぎないものでしかないが。ただ、そのような子供の思い付きを実現するのが「機関」なのだ。そして、真昼は、そのような全ての可能性を瞬時に想定して、それらを子細些細漏らすことなく完全に思考ロックするなどということ、出来るわけがないのである。

 ということで、真昼は別の方法をとることにした。要するに、殺すのではなく行動を閉鎖したのである。これは、グレイの能力が、「機関」が、不完全であるということを利用したものであった。つまり……真昼との戦闘が開始される前にリチャードも言っていたことであるが、グレイの「機関」は、対象を操作しようとする際に、どうしても仮想世界泡内部のパラメーターの操作を必要とする。つまり、確率が未確定の状態にない限りは対象を操作出来ないのだ。そこで、真昼は、自らの能力、決定論によって、グレイを包み込む完全決定領域を作り出した。その領域においてはあらゆるものが既に決定されている。そのため、「機関」は対象を操作することが出来なくなるのである。

 そして、更に、その領域は「機関」が行使する操作を遮断することさえ出来るのだ。これは……直感的には、理解するのが少し難しいかもしれない。そもそも仮説世界泡は、既に結界内部の全体に広がっている。それにも拘わらず、なぜ操作出来なくなってしまうのか。

 これは、グレイの「機関」が能力を二段階に分けて行使していることに由来している。つまり、グレイの「機関」は、まずは作り出し、それから操作しているのである。仮説世界泡としてパラメーターを展開した後で、そのパラメーターを操作する必要があるのである。

 ということは、二段階目の操作を遮断されてしまえば。そこには、結局のところ、グレイが望んだとおりの決定、が、なされていないパラメーターが残るだけなのである。そのようなわけで……これによって、グレイは、完全決定領域に包み込まれている範囲内しか「機関」による操作の対象とすることが出来なくなってしまったというわけだ。どういうことかといえば、自分自身の身体にしかリアリティ・ワーピングを行えなくなったということである。

 自らの肉体を不死にすることは出来る。

 だから、決して、死にはしないだろう。

 ただ、とはいえ。

 脱出も出来ない。

 少なくとも。

 そう簡単には。

 穴を、開けることが出来れば。たった一つでいい。ごくごく小さなものでもいい。外側に繋がる通路を作ることが出来れば。「機関」によって外部のパラメーターを操作出来るようになる。現実を操作して「自分が纏縛の内側ではなく外側にいる」ということにすることが出来るようになる。そうすれば、脱出なんて一瞬だ。だが、そうするためには……なんとかして、力の波動で出来たこの膜を毀たねばいけないのである。

 だから、グレイは、死に物狂いで藻掻いていた。犬の前足後ろ足、足掻いて足掻いて引っ掻いて。五本の爪、残虐な、残酷な、万障を払う金剛利剣。ベイオネットによって、その膜を抉り取り突き破ろうとする。

 しかし上手くいかなかった。全然、上手くいかなかった。ベイオネットは、滑り、流れ、その膜にまともに触れることさえ出来ない。なぜだ、なぜだ、一体なぜだ。それは、あたかも、その膜が、ベイオネットが所属している世界線とは全く異なった世界線に所属しているかのようだった。

 しかも、だ。グレイは……ベイオネットを形作るマテリアルを、ほとんど一瞬一瞬ごとに変化させていた。つまり、冷気によって氷を溶解させることは出来ないように、熱気によって炎を滅尽させることは出来ないように、ベイオネットが、その膜とは相性の悪いマテリアル、その膜を決して破壊することが出来ないマテリアルであることがないよう、あらゆるマテリアルによってその膜の破壊を試みていたということだ。ただ、それでも、その膜を破壊することが出来ないのだ。

 ああ、なぜなのだろうか。実は、種を明かしてしまえば簡単なことだった。要するに、ベイオネットが変化し続けているように、その膜もまた変化し続けていたのだ。真昼は、その膜を決定する際に、その膜を構成するマテリアルが、その膜を破壊しようとしてグレイが仕掛けてきた攻撃に対して、最も相性が悪いマテリアルに、自動的に変化するように決定していたのである。グレイがそれを焼き尽くそうとすれば炎に、凍り付かせようとすれば氷になるようにしたということだ。

 グレイは、吠える、吠える、狼の威嚇、狼の激怒、狼の狂乱、狼の攻撃、あらゆる種類の吠え声によって吠え猛る。しかしながら、そのような行為は無意味だ。なぜなら、その膜は、そのような音さえ漏出させることがないからだ。これでは……全くもってお手上げのハンズアップである。いや、まあ、実際のところは、非常に漸少ではあったが、その膜は傷付いていた。どれほど相性が悪くても、少しずつ少しずつ、すり減ってはいた。ただ、グレイがその膜を毀つまでには随分と時間がかかるだろう。

 所詮は、時間稼ぎに過ぎない。

 ただ、真昼はそれで良かった。

 ところでお手上げとハンズアップってちょっと意味違うよね? え? それこのタイミングで指摘することじゃなくない? それはそれとして、真昼には、そもそも、グレイを殺すつもりなどはなかった。

 真昼は、刃によって繋ぎ留め、膜によって包み込み、そのようにしてグレイの力を封じることさえ出来ればそれで良かったのである。真昼にとってグレイはただ単に邪魔なだけの存在であって、それ以上でもそれ以下でもない。グレイは、真昼によって企画・制作されたところのこの舞台の上では、結局のところ脇役に過ぎないのである。

 いい換えればグレイは飼い犬に過ぎないということだ。確かに雷霆によってデニーを馘したのはグレイだ。ただ、とはいえ、グレイはそれを命じられてやっただけなのだ。誰かが弾丸によって撃ち抜かれた時、果たして銃に罪があるというのか? もちろん、銃には罪がない。罪は引き金を引いた者にこそある。つまり、罪は飼い主にある。

 なあ、そうだろう。

 ハッピートリガー。

 グレイは、完全決定領域によって、大地に突き刺さされたまま、全身を閉じ込められたまま、そこに転がっている。一方で、真昼は、そうしてグレイの腹に突き刺さっている殺意の刃を両手で握り締めたままグレイの腰にのしかかっている。暫くの間、グレイを見下ろしていた。ただただ単純に面白かったからだ。強者の下に組み敷かれて、のたうち回り、なんとか逃れようとしている弱者の姿を見るのが面白い。とはいえ……やがて、そうしているのにも飽きがきた。

 上半身を傾けていく。グレイに纏わりついている力の波動、その下にグレイの顔があるはずのあたり、そっとキスを落とす。お別れのキスだ。まあ、ロマンティックなことで。それから、殺意の刃を握り締めていた両方の手のひら、右手も左手も、ぱっと離した。すると……恒星のあちらこちらで渦を巻いて流動する磁束のように、黒く、黒く、真昼の全身を這いずり蠢いている重藤。そのうちの、真昼と殺意の刃とを結び付けていた部分、右腕に絡んでそこから殺意の刃へと伝っていた部分が、ぷつんと途切れた。

 これでもうグレイに注意を払う必要はない。確かに、いつか、グレイはこの桎梏から抜け出すことが出来るだろう。自分を穿通しているこの杭を引き抜くことが出来るだろう。とはいえ、その時には、とっくに全てが終わっているはずだ。そして、グレイは、自分とは関係のない場所で自分とは関係のない時間に自分とは関係なく起こってしまったことのせいで、もう二度と取り返しがつかなくなってしまったということを知ることになるだろう。はははっ、残念でした。あたし達はいつだって手遅れなんだよ。

 さて、それじゃあ……邪魔者は片付けた。あたしと、お前と、二人の間にはなんの障害もなくなったわけだ。いや、最初から障害なんてなかったのかもしれない。鏡が一枚あっただけだ。その鏡を挟んで、あたしと、お前と、二人は、立っていた。この物語は……あまりにも、長く、長く、続き過ぎた。あたしとお前とはあまりにも長い間向き合い続けていた。アーガミパータに来てから。あたしが本当に本当の意味で目覚めてから。ずっと。それはたった一週間の出来事であった。しかし、あたしにはそれが全人生であった。いや、あたしは、いつも、この、一瞬だ。あたしは閃光だ。あたしはほんの一瞬だけ爆発してそして消えていく閃光だ。だから、終わらせよう、終わらせよう、これで終わりだ。あたしは手のひらを見下ろしている。あたしは顔を上げる。あたしは視線を向ける。あたしはお前がいるはずの方向に視線を向ける。

 その瞬間。

 に。

 真昼は。

 その顔。

 いつの間にかそこにあった。

 リチャード、の、拳。

 力任せに叩き込まれ。

 その場から。

 勢いよく。

 吹っ飛ぶ。

 情緒も感慨もへったくれもないが、まあ、この場合は、こんな状況下でセンチメンタル・モノローグに耽っていた真昼が悪いだろう。何が起こったのかというと、そこに書いてあることが起こったんですね。つまり、いつの間にやら遠距離攻撃から近距離攻撃に切り替えることにしたらしいリチャードが、真昼のすぐ目の前に来ていて、真昼のことをぶん殴ったのである。

 まあ、リチャードがこのようなヤバ挙に出ることにしたというのも、考えてみれば当然のことであって。まず、今の真昼にはスペキエース能力による攻撃は通じないわけだ。となれば、リチャードは、リチャードが使用し得るもう一つの能力、ノスフェラトゥの能力に頼るしかないのである。そして、リチャードにとって、遠距離攻撃とはスペキエース能力であり、ノスフェラトゥの能力は近距離攻撃用である以上、こうする以外に方法はなかったわけだ。

 そして、それだけではなく、グレイが無力化されたということも大きい。グレイが真昼と戦闘を繰り広げていれば、リチャードは、わざわざ決定論の利用者であるところの真昼に接近するという危険を冒すことなく、同じようなリアリティ・ワーピングの能力を持つグレイにその対処を任せ切ることも出来たわけだ。ただ、グレイが無力化された今となっては、もう対処することが出来るのはリチャードしかいない。

 とはいえ、リチャードも、完全な無謀として近接戦闘に持ち込もうとしているわけではない。一応は、真昼とグレイとの戦闘の中で。真昼の能力、その射程距離を見極めた上で、これなら近付いても問題ないだろうと判断したということである。

 真昼はグレイとの戦闘においてそこまでめちゃめちゃな決定をくだしていたわけではない。基本的には自らの不確定性、つまりは、力の波動と、殺意の刃と、その二つに対する決定が大半を占めていた。確かに、夢跡却来華のような大技を放つ時は、自分の外部に対して、しかもかなり広範囲にわたって決定力を行使していたが。そういう時以外に、例えば、直接的にグレイの身体に対して決定力を行使したりはしていないのである。

 要するに、真昼は……まず、敵対する他者に対しては決定力を行使出来ないらしい。何かしらの抵抗力、生命の疎隔性に起因する抵抗力が関係しているのだろう。もしかして対象の協力があればそのような行使も出来るのかもしれないが、とにかく、リチャードを、決定論によって直接攻撃することはないと考えていい。更に、環境を変化させて攻撃するに当たっても、小技を連続して繰り出すというわけではないようだ。エネルギーを貯めて貯めて貯めて、一気に大技として爆発させる。そうであるならば、そのような大技に遠近がほとんど関係ない以上、遠隔戦闘にこだわる必要はない。

 そして最も重要なことであるが、真昼は自分自身の身体に対して決定力を行使することさえ出来ないようだ。リチャードが見た限りでは、グレイとの戦闘において、真昼が強化された人間以上の身体的能力を発揮したことはない。あるいは、グレイから受けた負傷を決定力によって治すということもしていない。確かに、例えば、周囲の力の波動に決定力を行使することで飛行能力を獲得したように見せかけていたりはしていたが。あれは真昼の身体の能力によって飛行していたわけではない。それならば、始祖家のノスフェラトゥの身体能力は、ある程度は戦闘に有利をもたらすはずだ。

 と、いうような。

 複数の言い訳の。

 もとで。

 そう、実際のところ、これらの整然とした論理はリチャードにとっての言い訳に過ぎなかった。よくよく考えてみれば分かると思うのだが、こういった全ての推測は推測に過ぎない。しかも、結構な、穴だらけの推測である。例えば、真昼は、六輪一露のような技を繰り出す際にも周囲の環境に決定力を行使している。花鬼の残骸を集積することによって衛星を作り出しているわけだ。まあ、これは、大技といえば大技といえないことはないが、この程度の攻撃にも決定力を行使するというのならば、必要と判断した場合、ちょいちょい決定力を行使する可能性を否定することは出来まい。あるいは、真昼が、グレイをただ単なる前座と考えていて、本番であるリチャードとの戦闘において切り札として利用するために、様々な能力を秘匿している場合だってあるわけである。真昼が普通の人間であるならば、そうであるのかそうでないのか、ノソスパシーによって判別することも出来るが。ご存じの通り、真昼の自己欺瞞は、既にノソスパシーが通用しないレベルになっている。

 全て。

 全て。

 言い訳だ。

 リチャードが。

 グレイを。

 失うことの。

 耐え切れない。

 恐怖のゆえに。

 ほとんど。

 絶対的な。

 無意味を。

 行動して。

 しまうことの。

 リチャードは始祖家のノスフェラトゥである。つまり飼い主である。そしてグレイは飼い犬である。たかが飼い犬のために飼い主が命を懸けるか? そもそもこの飼い犬は飼い主のための捨て駒に過ぎないというのに? 不合理だ。明らかに正当性が破綻している。リチャードは、いやしくも純種のノスフェラトゥであって、高等知的生命体だ。そのようなリチャードが、このような行動をとってはいけない。

 本来、リチャードがなすべきことは、比較的安全と思える遠距離攻撃に徹することだった。確かにリチャードの遠距離攻撃はライフェルド・ガンに偏重している部分がないわけではない。とはいえ、それ以外には方法が一切ないというわけでもないのだ。例えば、神力体術のうちには、自分の身体から切断したところの、手、足、のような一部分にセミフォルテアを満たすことによって、リモートコントロールが可能な武器として使用するという方法がある。そのような方法では、自分で突っ込んでいくよりも威力は格段に落ちてしまうが、それでも時間稼ぎくらいは出来るだろう。そして、今のリチャードにとっては時間稼ぎが出来ればそれで十分なのだ。なぜならば……いや、この話については後のお楽しみに取っておくべきだろう。

 とにもかくにも、何がいいたいのかといえば。リチャードにはある程度の言い訳がなければいけなかったということだ。自分はこの行動を取ることによって命を懸けていないという、それが偽物であったとしても、確信が欲しかったのだ。そうでなければ、リチャードは、グレイのことを……グレイのことを、自分がどう考えているのかということが分からなくなってしまうから。

 リチャードにとってグレイは何者なのか? 護衛のエリート・ライカーン。それ以上であってはいけないはずだ。それにも拘わらず、もしもリチャードがグレイのことを、純種のノスフェラトゥの本能、孤立捕食種の本能、つまりは絶対的自己保存の本能をかなぐり捨ててまで、助けようとするのであれば。グレイは、リチャードにとって、命よりも大切な誰かになってしまう。

 論理。定義。自明の真諦。結局のところ、生命は疎隔以外のあらゆるものを喪失する。生命自体が疎隔であるがゆえに、時間によって捕捉されない観点から考えれば、生命にとって疎隔は絶対である。それがなくなれば生命がなくなるのだから、生命はそれを喪失し得ない。とはいえ、それ以外のあらゆるものは、喪失され得る。つまり、リチャードは、自分以外の誰かを自分以上に大切に思ってしまってはいけないのだ。

 自分が最も重要であれば、少なくともそれを失うことはない。確実に。何があろうとも。それは一種の絶対的安心である。一方で、自分以外の他の何かを重要としてしまえば。それは、失われる。確実に。何があろうとも。それは、永遠の苦悩、無限の痛憂、を、抱え続けて、生きるということ。

 リチャードは、だから、もう、誰かを大切に思うことは出来ないのだ。これ以上、苦痛を抱えて生きていくことは出来ない。リチャードは、もう、一度、裏切られていたから。リチャードは、もう、一度、傷を負っていたから。そう、グッドマンはリチャードを捨てた。だから、リチャードは、もう、二度と、誰かを愛してはいけない。

 だから。

 リチャードは。

 グレイを。

 飼い犬以上の。

 捨て駒以上の。

 何かに。

 しては。

 いけない。

 まあ、それはそれとしてですね。真昼のことを文字通り殴り飛ばして、グレイからすっぺがすことに成功したリチャードは。秀麗無比、瀟洒極まりない足取りによって着地した。さらとも音を立てることなく革靴が大地を踏むと。リチャードは「はっ!」と笑った。毎度毎度のごとく、吸痕牙を剥き出しにして。

 「おいおい、随分と情けねぇ有様じゃねぇか!」ちらっと目の端で流し見るかのようにしてグレイのことを見下ろしながら、軽く首を傾げる。それから、勿体振った口調で言う「手助けは必要か、スリーピング・ビューティ?」。

 まあ、グレイは眠っているわけではないというか、むしろ活発に活動しているわけだが。とにもかくにもリチャードは、そのようにしてグレイが八面六臂大暴れ真っ最中であるところの恋重荷、その中心部分に突き刺さっている殺意の刃に視線を向けた。

 「あー、まずはこいつを抜いちまわねぇとな。犬の丸焼きでもあるまいし、いつまでもいつまでも腹に串が刺さってるってのも気分が悪ぃだろ」と言いながら両の手のひらで柄の部分を握り締める。そして、本気で、それを引き抜こうとする。

 ただ、どうやら、そう簡単に抜けるものではないらしかった。リチャードの目論見では、殺意の刃を引き抜くと同時に、膜となってグレイの全身を覆っている力の波動、引き裂き、引き剥がし、グレイをそこから引き摺り出すことが出来ると考えていたのだが。それとはまるで反対のことが起こっていた。

 要するに、殺意の刃を引き抜こうとすると、グレイの全身にべったりとくっついてしまっている力の波動が邪魔をするのだ。そもそも殺意の刃からずるずると吐き出されている重藤がグレイを包み込むような繭を作り出しているのである。そして、力の波動はその繭の上をコーティングしているのだから、二つはほとんど一体のものなのだ。

 リチャードは「ちっ、メスガキが……面倒なことしやがって……」といいながら殺意の刃を手放した。それから、今度は恋重荷に屈み込む。グレイを覆っている力の波動、その膜を、鉤爪を突き立てるようにして強く強く掴む。その鉤爪に、自分の身体が耐えられる限りのセミフォルテアを流し込んだ状態で、だ。

 確かに、その膜は、リチャードの鉤爪が触れた瞬間に、セミフォルテアで攻撃するには最も都合が悪いマテリアルに変化していた。ただ、それでも、どれほど相性が悪かったとしても。始祖家のノスフェラトゥの全力のセミフォルテアに対して、それほど強い抵抗を示すということは出来ないらしかった。

 その膜は、見る見るうちに溶けていく。

 もう、すぐに穴が開いてしまうだろう。

 そうすれば、グレイは自由の身だ。

 どうする。

 どうする。

 どうする、真昼。

 と……そういえば、真昼はどうしているのだろうか。リチャードに吹っ飛ばされた後で。この戦闘において吹っ飛ばされるのももう三回目、慣れたものである。受け身をとるのもお手の物。墜落するはずの場所に、流れ作業みたいななめらかさによって力の波動を展開する。その力の波動をスプリング・クッションのように利用して、すぱんっと落下する、ぐるんっと跳躍する、そうして、その後で、あまりにも洗練されたしなやかさによって空中で一回転すると、感傷的とさえいえるほどのアメージング・グレースによって着地をしてみせた。

 そのようにして大地の上に自立した真昼。視線の先には恋重荷を処理しようとしているリチャード。なんとかしなければ、厄介なことになるだろう。とはいえ、真昼は、慌てることも騒ぐこともなかった。easy、easy、まずは落ち着いて。

 この状態の真昼が突っ込んでいったところで、そう簡単にリチャードを排斥出来るわけがない。真昼は所詮は、強化された人間に過ぎない。何か一工夫がいる。リチャードを驚かせることが出来るような隠し味がいる。さて、どうするか。

 まずは、真昼は、コッと舌を鳴らした。その瞬間に、真昼の周囲をくるくると回転していた六つのサテライトが柔らかく歪んで、それからぽしゃんと弾けた。六輪は空々無相之中に消えていく。それらの端厳を形作っていたはずの力の波動は真昼の周囲に纏わり付いているそれへと戻っていく。

 リチャードはノスフェラトゥの能力を使用した接近戦へと戦略を変えた。ということはスペキエース能力に対する装備を維持し続ける必要はない。リチャードのような相手と戦う時は必要なタスクだけに能力を集中させるべきだ。そういうわけで、真昼は、六輪一露を解除したということだ。

 そうして、その後で、暫く考えているような素振りを見せる。顎に手を当てて、首を傾げて。ふーむ、という感じの格好をしてみせる。それから……ああ、そうだ、とでもいうようにして、真昼の仮面は笑った。

 そして。

 次の瞬間には。

 真昼の。

 足は。

 地を。

 蹴って。

 神力体術。デナム・フーツの死骸に駆け寄ったあの時のように、自らの足に重藤を巻き付けて、セミフォルテアを流し込んで。そして、神の力によって真昼は跳躍した。なるほど、確かにこの方法を使えば、多少ではあるが、人間を超えた力を出すことが出来るだろう。ということは、真昼が思い付いたリチャード対策とはこれなのか。

 ただ、もしそうなのだとすると、浅はかであるというしかないだろう。なぜかといえば、ついさっきも書いた通り、リチャードもまた神力体術を使えるからである。というか、ノスフェラトゥという生き物はセミフォルテアを宿しているタイプの生き物なのであって、そのスピーシーズに所属している限り、大体は神力体術を使える。

 今、目の前で、まさに、リチャードが自分と同じ神力体術を使っている。しかもその神力体術は、真昼が使っている人間の神力体術よりも、遥かに遥かに強力なノスフェラトゥの神力体術だ。明らかに、どう考えても……これはリチャード対策にはなり得ない。そんなことは分かり切っている。

 真昼は。

 果たして。

 どういう。

 つもりなのか。

 それを殺気と呼ぶにはあまりにも他者性を阻却している、たった一つの星以外は何も見えない冷たい冷たい夜のような気配を感じて、リチャードは恋重荷から顔を上げた。もちろん、その先にリチャードが見たものは、ぼろぼろと涙を流し続けながらも無明の毒のように笑っている真昼の仮面であった。

 全身に重藤を巻き付けていて、その重藤には、脈々と、禍々しくも華々しい血液が流れているかのようにセミフォルテアが流れていた。恐らく、今の真昼は全身によって神力体術を使うことが出来るだろう。ただ、とはいえ、それだけの話だ。

 人間の神力体術など恐ろしくもなんともない。リチャードは鼻先で笑い飛ばすかのようにして口を開く「ははっ! 空手で突っ込んできてどうしようって……」。

 しかし、そこで言葉が途切れた。目の前で起こり始めたことに絶句したのである。それから、唖然とした表情で真昼のことを凝視しながら「は?」と声を漏らす。

 さあ、真昼の方に視線を移してみよう。一体何が起こっていたのか? 真昼の周囲を、嫣然と、莞然と、漂流していた力の波動。唐突に、あたかも獲物に襲撃を仕掛ける蛞蝓のようにして、真昼の両腕に纏わりついた。

 もともと真昼の両腕を這い回っていた重藤が、ゆらりゆらりとそこら中で鎌首を擡げる。二つの要素は絡まり合い縺れ合って一体化する。そして、真昼の両腕を覆うようにして形成されたのは……ガントレットだった。

 その体積はといえば、片方だけで真昼自身の身体にも達しそうなほどだった。大きさとしては、一ダブルキュビト半を超える長さ、一ダブルキュビトを超える直径。そして、赤く赤く、まるで悪夢の内側で腐り果てた血液のように赤く、歪んだ光によって輝きを放っているガントレット。

 それは、そう、エレファントがたったの一撃で骸車を粉々に砕いた、あのガントレットだった。人間のような生き物の観念の構造では、とてもではないが集積することも維持することも出来ないような量の魔学的エネルギーによって満たして、爆発的な殴打を放つことが出来る、あれだ。

 だが、エレファントが使用していたガントレットと全く同じ物であるというわけではなかった。少しばかり異なっている点があったのである。そもそも、エレファントのガントレットの構造において最も重要だったのは、そのガントレットの内側にプレッシャーの時計甲虫が埋め込まれていたという点である。そうすることによって、ただただ魔学的エネルギーを貯めておくだけではなく、それを圧縮強化することが出来たのだ。

 ただ今の真昼は一人で戦っている。ロンリー、ロンリー、ゆえにエレファントとは違ってプレッシャーの援護を期待することが出来ない。それではどうするか? 真昼は……そのようなREV.Mの記憶に、ダコイティの記憶をブリコラージュしていた。

 読者の皆さんは覚えていらっしゃるだろうか。ASKのアヴマンダラ製錬所に突入した時、ダコイティが、というか、ジュットゥが佩していた武器のことを。ジュットゥの装備はPGO-BGであったわけだが、それはただのPGO-BGではなかった。その銃身には、赤イヴェール合金で出来たコイルが巻き付けられていた。それが魔力収集装置の役割を果たしていて、発射される弾丸の一発一発に魔学的エネルギーを封じ込めていた。

 真昼はガントレットを形成するに当たってその機構を採用していた。つまりガントレットをこのような形状にしていたのである。まずは、中心部分、力の波動を赤イヴェール合金のようにして、一つの巨大なガントレットを作り出す。そして、それを銃身とする。その周囲に、あたかもコイルであるかのようにして、重藤を螺旋状に配置する。

 こうすることによって、周囲から魔学的エネルギーを吸収してセミフォルテアとする重藤、その重藤によってガントレットに集中的にセミフォルテアを圧縮強化することが出来るようになっていたというわけだ。

 そもそも重藤が有している魔学的エネルギーの収集力に、更にコイルの機構の集積力を追加して、人間ではとても支え切れないような力を支えることが出来るガントレットに一気に流し込む。こうすることによって、そのガントレットは、始祖家のノスフェラトゥに匹敵するセミフォルテアを真昼が利用することを可能にしていたのだ。

 そして。

 真昼の仮面は。

 胞衣に包まれた。

 胎児の、ように。

 無邪気に。

 無慈悲に。

 笑みを。

 浮かべて。

「力動風鬼。」

 勢形心鬼。花の咲くことがない巌。音が炸裂した時、音はどのような音を立てるのだろうか。裸絶? 回境? それとも嗣嗣曜? いうまでもなく、疎外された虚空は自らを食らう自らを食らう自らを食らう無数の円環というわけではない。連続する。爆発のエネルギーが、新しい爆発を引き起こすのだ。いや、というよりも、爆発自体が爆発する。

 結論として……リチャードはぎりぎりのところで回避出来た。真昼の、高笑いのように燦然とした殴打を。真昼は、振り上げたガントレットを、そのままリチャードに叩きつけようとした。横殴りに、突風のように、怒涛のように。

 ただ、何一つ思考もなく自然の災害のようにそれを行なったわけではなかった。真昼はそのようなことを行なうにはあまりにも狡知に過ぎていた。つまり、もしも真昼が上から下へとそのガントレットを叩きつけていたら。そのガントレットは恋重荷をその射程の範囲内に入れていたはずなのだ。その場合、恋重荷は、間違いなく、セミフォルテアのあまりに強力なエネルギーによって叩き潰されていただろう。すると、どうなるか? 恋重荷は破裂する。恋重荷は破綻する。そしてグレイは解放される。それは、もちろんグレイも無事では済まなかっただろう。それだけのエネルギー、恐らくは全身が焼き尽くされて消滅していたはずだ。ただし、グレイはそれをなかったことに出来る。「機関」を使って無事に脱出したということにすることが出来るのだ。結局、グレイは傷一つなく真昼との戦闘に再起することになる。

 真昼は、それを避けるために、真上から真下に向かった攻撃ではなく、若干斜め上から若干斜め下へと向かう攻撃にせざるを得なかった。そして、そこにこそリチャードが付け入る隙があった。本来であれば、真昼の攻撃は一切の予測を許さない。なぜというに、真昼にはノソスパシーが通用しない、どういった方向から殴りつけてくるか分からないからである。ただし、今回に限っては、リチャードには確信があった。つまり、真昼が恋重荷を巻き込むように攻撃することはあり得ないという確信である。そうであるならば、真昼が殴打を行なうそのルートはかなり限られてくることになる。特に、真昼のガントレットがある場所を光源とした場合、恋重荷によって陰になっている部分。そこは絶対安全圏であると考えて構わないだろう。そのように瞬時に判断したリチャードは、その判断を脊髄の反射によって行動に移した。

 リチャードは、恋重荷に覆いかぶさるようにして、それを引き剥がそうとしていた。そして、真昼がガントレットを振り下ろした時、そこから転がり落ちるようにして攻撃の死角に入ったのである。まるで爬虫類が身を伏せるようにして身を伏せて恋重荷が作り出している陰に隠れた。

 ということでガントレットは空を切った。いや、というか、空を爆裂爆散雲散霧消させた。真昼は、リチャードが回避しなければリチャードに当たっていただろうそのタイミングでセミフォルテアの出力を最大にしたのだが。そのような惨たらしい、暴走するセミフォルテアのエネルギー量は、真昼のオルタナティヴ・ファクトを作り出している主要な物質であるところの暗く広い海の、その海水を爆発するような勢いで蒸発させるには充分だったのだ。

 そして、ガントレットは、シームレスに連鎖していく無限の爆発を引き起こしながら、なめらかな斜線上を、落ちて、落ちて、落ちていって。それから、夜刀岩の岩盤に激突した。夜刀岩が……科学的な力にも魔学的な力にも、ある程度の対世界独立性を有している物質でよかった。そうでなかったら、例えばごくごく普通の石灰岩であったら、真昼は、そのまま、回避された殴打の勢いのままに、どこまでもどこまでも岩盤に沈み込んでいってしまっていただろう。真昼がガントレットに流し込んでいたセミフォルテアは、石灰岩程度であれば、銀のスプーンでプディングを抉り出すことと変わらないほどの容易さで抉り出すことが出来るレベルのものであったから。

 いや、本当に、そんな間抜けなことにならなくてよかったですね。その代わりにガントレットは、あたかも天体衝突のような衝撃によってその岩盤にクレーターを作り出した。何度も何度も繰り返された、海水の凄まじい爆発は、その錯乱したようにぶちまけられた波動によって夜刀岩まで破損させたということだ。あの夜刀岩が、あたかも液体であるかのように波紋を描いて盛り上がり、殴りつけられたその中心部をべこりと凹ませたままで窪地を作り出す。じゅうじゅうと吐き出された溶岩のしずくが、るうるうと鳴り響くような光を放射しながらそこら中に飛散する。

 ということで、真昼は第一撃を失敗に終わらせたわけであるが。ところで、リチャードはどうしているだろうか。真昼の攻撃を回避したリチャード、そのまま、何もせず、ぼーっと真昼の後姿を眺めているだけ……で、あるはずがなかった。

 当たり前の話だ、リチャードは傭兵なのである。一瞬一瞬の判断が、成功者と、そこら辺にごろごろ転がってる肉塊と、その二つを分ける世界に生きている。敵対する相手が自分に背中を見せたということは、つまりその瞬間が機会なのだ。

 リチャードは兎の耳の先ほどの躊躇いも見せることがなかった。というか、そもそも、リチャードは思考さえしていなかった。完全な諸法無我。諸行無常の境地のままに、流れるように行為する。まずは第一段階として、真昼の攻撃を避けるために重心を下ろしていたわけだが。その時、実は、低く低く身を下ろした勢いを利用するかのようにして一気に両方の翼を開いていた。そして第二段階。真昼のガントレットが地を穿ったことによって、真昼は、ほんの一瞬の間、行動不能になる。岩盤に腕を取られた状態になる。そこを狙って……リチャードは、広げた翼、あたかも回転する処刑器具であるかのように。自分の身体の重心を中心として、全身、一円、ぐるんと回転する。

 シャリテ・ド・シャノンによって横方向に薙ぎ払ったというわけだ。革命、革命、ユニファルテの革命を成し遂げるために、力なき人間が神々を殺すために、作り出された、巨大にして残虐な死の刃。その刃に限りなく酷似した二枚の翼が、真昼を襲撃する。

 さあ、真昼ちゃん絶体絶命! この窮地をいかにして脱するか! と、いうほど、今まで真昼ちゃんがくぐり抜けてきた無数の修羅場と比して危機的状況であるというわけでもないが。まあとはいえ、ヤバかヤバじゃないかといわれればやっぱりヤバである。

 まず真昼は身を翻すことが出来ない。逆立ちしちゃってるからね。しかも片手逆立ちだ。まあ、普通の片手逆立ちであれば、めちゃめちゃ体を鍛えている人とかなら、めちゃめちゃ鍛えられた体の発条? 的な? やつを使って、地を殴り飛ばすかのようにして飛躍的な宙返りをして見せることも可能だが。今の真昼についてはそれもNOT KANAUだ。なぜというに、真昼の右手は、というか正確にいえば真昼のガントレットは、岩盤に埋まってしまっているからだ。これではどうしようもない。

 そして、対するリチャードの攻撃は……確かに全力ではない。リチャードが全力で神力体術を使って、その二枚の翼を叩き込めば、それは叩くというよりも斬るになり、端的にいえば真昼ちゃん真っ二つであるからだ。「真」で頭韻を踏めるところが大変良いですね。なんにしたってハッスルホタッテ、真昼は死ぬ。なので、そうならないように力を抑えてはいる。とはいえ、それでも、それは真昼の無力化を意図した攻撃である。要するにそれが直撃した場合に真昼の背骨をへし折るには十分であるということだ。

 そんな感じである。

 さて。

 さて。

 真昼は。

 どうするか。

 真昼は……ちらとリチャードに視線を向けた。それは様子を窺うためというよりも、どちらかといえば挑発に近い仕草であった。おいおい、お前はどれだけ愚かなんだ? お前は、もしかして、殺すつもりもないままにあたしに勝てるつもりなのか? 笑止! 実に笑止! そのような顔をして、リチャードを嘲笑したままで、コッと舌を鳴らした。

 刹那、真昼の腕を覆っていた力の波動がするんと滑った。要するに、一つのなめらかな流動体となってガントレットとしての形状を失った。そのまま真昼の体の上、滑って、滑って、滑って。そうして腕から脚へと移動する。

 それから、そこにそのままガントレットを形成する。いや、足を覆う物であるのでブーツといった方がいいだろうか。腕を覆っていたものと全く同じ形状、力の波動による銃身、重藤によるコイル、という構造を持つブーツ。

 真昼の両足は、瞬く間にブーツによって包み込まれた。それから、真昼は――それはあたかもアミーンによって屠殺されハンガーに吊るされた時にその肉体がポーズしたポーズであるかのように――淑女に似合わぬ大股開き。右脚を、左脚を、二本の脚がほとんど直線になるように、大きく大きく開いた。

 そのまま、そうして開いた時の余勢を駆るかのように、それらの両脚を思いっ切りぶん回した。鎌、鎌、果実の代わりに鎌を実らせたバナナの木。そうすることによって、要するに、真昼は蹴打を放ったのだ。

 それはちょうど二つの独楽が相対しているかのようなシーン。リチャードの両翼に対して真昼の両脚が対抗する。刃とブーツと、二つの瞋恚貪欲が描き出した円相は、頓極頓足の迅雷のごとく妙響を響かせる。

 華美。浅薄。何が起こったのか? リチャードの翼と、真昼のブーツと、あたかも星が砕ける絶叫が宇宙に響き渡るかのような、壮絶な、凄絶な、それでいて凍えるほど透明に透き通った音を立てて、弾き合ったということだ。その音はセミフォルテアとセミフォルテアとが激突した音であって、そうして発生した衝撃、リチャードも、真昼も、そのまま耐えていることが出来るはずがなかった。反発しあう力の形式を二つの肉体で表示してみせているかのような率直さによって、リチャードの肉体は、真昼の肉体は、互い互いに反対方向へと吹っ飛んでいく。

 真昼にとってはこれこそが望んでいた展開であった。深く深く埋ずまってしまっていたガントレット、まずは、そのガントレットをブーツにしてしまい、固定されていた身体に自由を取り戻す。その後、咄嗟の間も空けることなくリチャードの翼によって弾き飛ばされることによって、あまりにあまりに危険なリチャードの間合いから距離をとることが出来たのだというわけだ。

 真昼は……そのまま、その身体、三次元的に空間を泳いでいく、虚無、虚無、虚無を囁く彗星のような有様によって、その五体の全てが踊躍歓喜する。弾き飛ばされたままの姿勢によって、両脚を開いて、両腕を伸ばして、その姿勢、ぐるんと一度、宙爛をあららぐように回転してみせる。

 ところで、その回転の途中で、またしてもコッと舌を鳴らす。その音とともに、真昼の兵器は、またしても定義し直される。足から手に、ブーツからガントレットに。それは美しい誑法の燦然に似ているかもしれないのだ、そう、美しく美しく、無念の菩薩は無慚のままに来迎を成就する。

 真昼は。

 転落。

 天花。

 再び。

 スニーカーは。

 岩盤を踏んで。

 kick away、kick over、それから、星宿明王を象った跳舞像のごとき完全性として、スニーカーは岩盤を蹴り飛ばしていた。極めて即座に。極めて自然に。真昼の身体は、あたかも真昼自身が蹴鞠の毬であって、真昼がこの星を蹴り飛ばしたのではなくこの星が真昼を蹴り飛ばしたのだとでもいいたげなジェスチュア、何か原初的な力を表記している記号、が、真昼、なのか? 流星にも似た態度で真昼は突撃する。いうまでもなくリチャードに向かって。

 一方のリチャードは? リチャードはどうしていたのか? ああ、そう、リチャードもやはり鬼であった。弾き飛ばされたリチャードは……垂直の軸、後方に回転した真昼とは違う。そうではなく、平行の軸に、あたかも優雅なワルツァン、ノスフェラトゥに相応しいピルエットとしてらうらうと回転しながら、一つの舞踏の振り付けであるかのように着地する。

 その顔は笑っていた。人間が、人間ごときが、鬼の真似事をするだと? その顔は、まさに鬼の顔をして真昼を笑っていた。ああ、なんて、哀れな哀れな人間! リチャードは……天の全てを支配する、霹靂の、稲妻の、支配者が、あたかも口一杯に柘榴を頬張った後で、それを紅蓮の炎として吐き捨てたかのような、生まれながらの強者の顔をして笑っていた。

 リチャードは、生命を食らう生き物が哄笑する哄笑、ほとんど獣の咆哮のごとく笑いながら、やはり地を蹴った。しかしながら、真昼の跳躍が蛮暴のそれであるとするならば、リチャードの振る舞いは明らかに麗雅であった。つまり、荒々しく大地を蹴った真昼とは完全な対称形として、リチャードは、ある種の愛撫であるかのように、優しく、優しく、紛れもない優美さによって風を踏んだということだ。

 しかも、リチャードは、ただ単に跳んだというわけではなかった。リチャードは、跳躍とともに緩やかに回転し始めていた。リチャードが一つの弾丸であるとした場合、その弾道を一本の軸と考えて。その軸の上に螺旋を描くかのような回転だ。

 そして、更に、両翼を、回転式の穿孔器具であるかのようにしてヴェロシティが指し示す方向へと突き出していて。要するに、リチャード自身が真昼を貫くための巨大な錐鑚と化したということである。

 それは。

 ただ。

 ただ。

 愚直に。

 稚拙に。

 拳を振り上げて。

 叩きつけるだけ。

 の。

 真昼の。

 攻撃と。

 比べて。

 遥かに。

 遥かに。

 強力な。

 方法。

 で。

 真昼が跳んだ地点と、リチャードが跳んだ地点と、そのちょうど中間の地点において、二つの身体は激突することになる。真昼は、ガントレットを、雷霆のような凄まじさによって振り下ろす。リチャードは、自らの全身を、装甲弾であるかのように両方の翼で象りながら突尖する。

 そして……瞬間。鳴り響く、鳴り響く、世界の全てが結局は終わってしまうことの力強い福音であるかのようにして。神力体術を使う者と神力体術を使う者とが正面からぶつかり合った時の、その絶叫が鳴り響く。ああ、カルバーリア! あらゆるものを吹き飛ばす不毛の衝撃波よ。

 それは、確かに、先ほど、真昼とリチャードとが激突した時と同一の爆発的エネルギーの放出だった。ただ、その時とは異なっている点がたった一点だけある。その時には、こちら側からのエネルギーとあちら側からのエネルギーとは大体においてつり合っていたのだ。しかしながら、今回に関していえば、明らかにリチャードのそれの方が勝っていたのである。

 ダーリン、ダーリン、ダーリンドゥー。リチャードの翼が作り出した尖頭弾は外科手術か何かのような的確さによって真昼のガントレットを貫いた。ガントレットの真ん真ん中にざっくりと突き刺さったのだ。

 いうまでもなく、このことによって真昼の殴打は完全に無効となった。しかもそれだけではない。リチャードは、ガントレットに突き刺さった直後、右の翼、左の翼、同時に、羽搏くかのように勢いよく広げた。

 結果、ガントレットは内側から粉々に爆ぜた。正確にいえば、完全に破壊されたのは力の波動が形作っていた部分だけで、重藤で出来たコイルは外側に向かって拡散させられただけではあったが。それでも原形を保つことが出来ないほどに捻じ曲げられたということには間違いがない。

 死にゆく星の最後の爆発。スーパー・モルスの爆発。セミフォルテアの内側から外側へと向かって超終星爆発のようにさんざめくそのショック・ウェーヴは、容赦なく真昼のことを吹っ飛ばした。これで五回目になる降魔の放擲、ただし、この放擲は、今までとはかなり状況が異なっていた。

 今回のこれは、つまりは純粋に力負けした結果であった。要するに、ある計画の一環としてこうなったわけでも、不意打ちを食らってこうなったわけでもない。単に、真昼が弱かったから、リチャードが強かったから、この出来事が起こったということだ。

 真昼は、ふっとばされながら、さも忌々しげに「ちっ」と舌打ちをした。その後で「クソが」と言いかけたが、言い終わる前に岩盤に頭から突っ込んでいった。残念なことに、破壊された力の波動を再び集積する間もなくそうなってしまったため、落下時の緩衝材を作り出すだけの余裕もなかった。

 寸前で、なんとか身をひねり、首の骨を折ることだけは回避出来たが。ま、折れたら折れたでなんとかなるっつったらなんとかなるんだけどね。タイニーケーキ、大地は、受け身をとるような形で背中に直撃することになる。

 なるべく背中の広い面でぶつかるようにした。それに、両腕を広げて、可能な限りの重藤をそこに巻き付けて、そうやって衝撃を分散させるようにも努める。墜落のその直後。大地の上、一面に、あたかも真昼に感染していた漆黒の疫病が撒き散らされるかのようにして重藤が散乱し繁茂する。

 だが、そこまでしても衝撃を受け止め切ることは出来なかった。あれだけの勢いでぶん投げられれば当然といえば当然の話であるが、真昼は内臓の全体に避け切れないほど暴力的な暴力を叩きつけられる。

 「かっ……ごばああああっ!」という、普通に笑える悲鳴を上げながら、真昼はどぶのように血反吐を吐き出した。内臓が幾つかイっちまったのだろう。それから、これはきっと肺挫傷も起こしている。肺の内部の、肺胞や、血管や、そういうものが破裂したということだ。

 肺そのものが破裂しなかっただけ良かったというべきだろう。というか背骨が折れなかったということが驚異だ。いや、まあ、先ほど入った罅が明らかに大きくなっている感覚はあるし、新しく幾つか罅が入った感触もあるが。とはいえ骨折だけは耐えてくれたようである。

 真昼は、暫くの間、立ち上がれなかった。自分の周囲、直径数ダブルキュビトの円、一個の遺骸を包み込む花閨の奥津城のようにして広げられていた重藤、真昼の墜落の衝撃を吸収するために広げられていた重藤、を、ずるずると、自分の身体の方向に回収しながら。ただただ横たわっていることしか出来なかった。

 そうして横たわったままで。真昼の仮面は「ごぶっ……がばばばばばばばばっ!」という何がなんだか分からない叫び声を上げた。それは、よくよく聞いてみると、実は笑い声であった。口の中いっぱいに溜まった血液、まるで喉の奥の奥まで嗽しているかのようにごぼごぼとあぶくを立てながら豪快に笑い飛ばしているのだ。

 何を? 具体的に何をというわけではない。ただただ馬鹿々々しい何もかもが馬鹿々々しかっただけである。つまるところ、生きるということの全てはこのような瞬間瞬間の行動の集積なのだ。欲望も苦痛も究極の目的になり得ない。いうまでもなく、思想における抽象性も、あるいは実際における身体性さえも、それらは真昼が生きるということを定義出来ない。真昼は、ただただ行動していた。そして、その行動が真昼の全てなのだ。真昼が弔っているということ。真昼がデニーを弔っているということ。そのこと以上に「この真昼」にとって重要なことがあり得るか?

 ああ。

 デナム・フーツ。

 感じているか?

 あたしの全てを。

 あたしが。

 あんたに。

 捧げる。

 死に踊躍する欲望の。

 生に歓喜する苦痛の。

 全てを。

 幸いだったのは、リチャードが真昼を殺そうとしていなかったということである。リチャードは、全てを傷一つない璧のような完全性によって計算した上で、真昼を吹っ飛ばしていた。真昼が致命傷を負うことがないように。真昼が苦痛を味わい過ぎることがないように。リチャードは手を抜いていたのだ。

 だから、真昼は、やがて「はっ!」と、大きな大きな声を上げた。苦痛への執着を断つために自らをもって自らに喝を入れたのだ。それから、ずるずると、全身を引き摺るかのようにして立ち上がり始める。両腕を真横の方向に伸ばして、両脚をあちらこちらに投げ出して、大の字に寝そべっていた。右の手のひら、左の手のひら、ばんっと岩盤をぶっ叩いて。そのまま、その勢いで上半身を引き起こす。

 がーっと、まるで獲物に飛び掛かろうとしている獣のように口を開く。そこから、だらだらと、口の中に溜まっていた血液が流れ落ちていく。ぎりぎりと、真昼の仮面は、その口を引き裂くようにして笑わせながら。右の脚、左の脚、びょんっと飛び跳ねるかのようにして立ち上がった。立ち上がると、ごぎん、ごぎん、と首を左右に曲げてみせる。その後で、何やら口の中をぐちゅぐちゅとすすぐようにして動かし始めた。どうやら唾液によって口の中の血の味を洗い流そうとしているようだ。そのうち、まあまあ綺麗になったと判断したのだろう。べっと、少し右の方、地面に向かって血の塊みたいなものを吐き出す。

 明らかに物語のヒロインがするべき行為ではありませんね。一応は、真昼ちゃんはヒロインであったはずなのですが。それはそれとして、そのような真昼のことを、静かに静かにリチャードは見つめていた。にやにやと、嘲るような笑顔を向けたままで。

 そして、真昼が血痰を吐き捨て終わると、明らかなる蔑如の表情を浮かべたままで口を開いた。がぱりと。獲物を食らおうとしている爬虫類が、方形骨のstreptostylyを稼働させて、大きく大きくその口を開くかのようにして。

 捕食形態にあるノスフェラトゥの口は存外に大きく開く。どんな巨大な生き物であっても被食とする可能性があるからだ。とにかく、それから、その口、こう言う「ははははっ! まあ、まあ、たかがホモ・ストゥルタスの割にはよくやるじゃねぇか」。いかにも皮肉げに、軽く肩を竦めてみせて。両手のひらを軽くひらひらとゆすらがせながら続ける「とはいえ、所詮、ストゥルタスはストゥルタスだな」。

 ちなみにホモ・ストゥルタスとはホモ・サピエンスに対する蔑称で、ホビット語で賢者を表わすsapiensの対義語であるstultusを利用した言葉だ。つまり端的にいえば愚者という意味である。これはそもそも、神々などに提出する公文書などでホモ・サピエンスという自称を使うのも恥ずかしいなと思った人間側が謙称として使い始めた言葉で、それが様々な生命体に広がって使われるようになったものだ。

 現在ではホビット語だけではなく、多少は変形した言葉になってはいるが、様々な言語に取り入れられている。ヴェケボサンのような高等知的生命体だけではなく、河童のような中等知的生命体も使っている。あるいは、グリュプスに至ってはホモ・サピエンスという言葉を使うことなどほとんどなく人間の正式名称をホモ・ストゥルタスとしているくらいだ。まあ、グリュプスは基本的に口が悪いですからね。

 純種のノスフェラトゥは、あまり尊称とか謙称とか気にしないので、というかそもそも言語による思考というものをよく理解出来ていないので、サピエンスもストゥルタスもあまり区別せずに使う。人間の側がストゥルタスを自称してきたら使うかなっていう感じだ。だが、リチャードは、こういうタイプのノスフェラトゥなので、かなりのストゥルタス・ヘビーユーザーだ。

 リチャードがホモ・サピエンスという言葉を使うことはほとんどないのである。今まで、真昼に対してホモ・サピエンスを使っていたのは、真昼のことを説得出来ると思っていたからである。ただ、もう、今のリチャードは、そういった甘い考えは一切捨てていた。それゆえにホモ・サピエンスを使う理由はもうないのだ。

 リチャードは。

 真昼を。

 ただ。

 ただ。

 圧倒的な、暴力に、よって。

 屈服させるつもりであって。

 内臓の底の底、煮え滾る悪意を見せつけるかのようにしてリチャードはまた口を開く「さあ、お嬢ちゃん! もうお遊びの時間はお終いだぜ! なあ、もう分かっただろ? てめぇは、俺には、勝てねぇんだよ。これ以上てめぇのお遊びを続けたとしてもてめぇが痛い思いをするだけだ。お嬢ちゃん、お嬢ちゃん、痛い思いをするのは嫌だろう? それならさっさと俺に跪けよ! 跪いて慈悲を乞え! ははははっ! 俺はな、寛大だから、謝れば、許してやるよ。まあ……少なくとも殺しゃあしねぇよ」。

 今までの真昼のクソムカつきムーヴを軽々と超えてくる迫真のクソムカつきダイアローグ。更に加速していくアクセラレーターに、ついつい手に汗握ってしまいそうになるが、とはいえ、これはそういうパフォーマンスの勝負ではない。

 とにかく、そこまで言葉すると、リチャードは真昼の反応を待った。確かに現在の真昼は死にかけであり、とどめを刺すには絶好のチャンスではあるが、リチャードには真昼を殺すつもりがないので、そうするわけにもいかないのである。

 ところで、真昼はどうしていたかといえば……咳込んでいた。げほっげほっというよりも、むしろごぼっごぼっとオノマトパイズした方がいいような音を立てながら、次第次第に肺に溜まっていくどろどろとした血液を吐き出していた。

 そのような真昼の全身に、飛散していた力の波動がようやく戻り始めていた。例えば、力の波動の断片がするりと真昼の口の中に入り込む。恐らくは、肉体の内側から肺を修繕する役割を果たすのだろう。ただ、それは本当に一部の一部であって、大部分は、また、真昼の両腕に纏わりつき始めていた。

 はあはあと、荒い息。ほんの僅かに俯いた顔。真昼は、両方の手のひらを拳にして、その俯いた顔の先の先へと差し出していた。つまり両腕、一の腕を八の字にするようにして突き出して。二の腕を軽く上に向かって曲げて。手の甲をリチャードに向かって見せつけるようなポーズを取っていたということだ。

 そして、そのような二つの拳に……要するに、またガントレットを作り始めていたということだ。リチャードは、そんな真昼の様子を見ながら、呆れ果てたように言う「おいおい! まだ理解出来ねぇのか? そんなおもちゃじゃ俺を殺せやしねぇよ!」。

 真昼は、そんなリチャードの言葉を完全に無視してガントレットの形成を続ける。力の波動の重心。重藤のコイル。先ほどと全く同じ形状。

 リチャードの言う通り、これでは真昼に勝ち目があるはずがない。真昼は、このまま、リチャードに、また、戦いを挑むとというのか? 真昼は、結局はホモ・ストゥルタスなのか? 自らの敗北を認められないほどの愚者であるだけだというのか?

 あはは。

 御冗談を。

 もちろん。

 そんな。

 わけが。

 ない。

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