第三部パラダイス #55

 真昼は……刹那、自分が何をしているのか分からなくなってしまった。何? 何? 一体、あたしは何をしている? あたしはリチャードを殺そうとしていた。そして、リチャードの弾丸を、その全てを切り捨てた。そうであるはずなのだ。それなのに、あたしは、このように前方に斬撃を繰り出すことで、何を迎え撃とうとしているのか?

 つまり、グレイは、また自分自身を歴史から消し去ったのである。だから、真昼は「目の前からグレイが消えてしまった」どころか、自分が何と戦っていたのかということさえ分からなくなってしまったのである。

 しかし、その次の刹那、真昼は惑溺するような困惑、頭蓋骨の中で脳髄が暴れ回っているかのような眩暈とともに思い出す。ああ、そうだ、あたしは、あの女と、あの狼と、戦っていたのだ。真昼は凄まじいスピードで自分の思考を整序していく。ぐらんぐらんと揺れて、今にも崩れ落ちそうな、記憶と観念との建築物を補修していく。

 つまり、ついさっき、あたしが陥れられた混乱から考えれば、グレイは、また、自らが発生したという歴史そのものを消したと考えることが正しいだろう。ただし、今、あたしがグレイを思い出しているということは、その状態は解除されたということだ。要するに、グレイは、再びこの世界に現われたのだ。しかしながら、あたしの目の前にはグレイがいない。考えろ、考えろ、よくよく考えるんだ、砂流原真昼! 相手だって、使用可能なエネルギーは限られているはずだ。ということは、ただ単に、あたしを混乱させるために、歴史消去のような膨大なエネルギーを使うはずがない。ということは、まだ、もう一つ、理由があってしかるべきだ。それは、普通に考えれば、もちろんあたしの斬撃を躱すためである。つまるところ、相手は、自分の直進移動のうち、ある一部分をスキップするために歴史消去を行なったということだ。あたしの斬撃、及び、あたし自身、を、過ぎ去る、その一部分をスキップするために。

 ということは。

 導き出される。

 結論。

 あのライカーンは。

 あたしの。

 背後にいる。

 エレクトリック・ショック。鮮烈な雷霆に打たれたかのように、真昼は、瞬間的に理解した。そして、前方に突き出していた回転する斬撃、その運動エネルギーを軽く逸らす。つまり、真っ直ぐ前を向いていた運動エネルギーを軽く左側に向けることで、自分の進退を、その運動エネルギーに追従させる軽羽にして、ぐるんと横転させたということだ。

 直後。真昼がいたはずの空間、真昼が辛うじて身を翻したその空間を、あたかも五本のベイオネット、傭兵がよく使う研ぎ澄まされたナイフのような、爪、爪、爪、爪、爪。把握、後に、裁断、であるかのように、残虐そのままの勢いで擦過した。

 いうまでもなく、グレイの爪撃だ。以前も書いた通り、グレイは、始祖家のボディガードとしてのライカーンである。そのようなライカーンには、実は、外付けの武器など必要がない。品種改良に次ぐ品種改良、形相子レベルの身体強化によって、全身が凶器になっているからである。

 これらの爪は、一本一本が、実は金イヴェール合金をモデルにして作り出された黄イヴェール合金である。以前も少し触れたことであるが、金イヴェール合金とは、主に魔法少女の武器を形成している純粋存在型のイヴェール合金であるが。魔法少女の研究では先進的な技術を有する謎野研究所と、それにミミト・サンダルバニー時代の通称機関と、この二つの組織が共同研究を行い、既に黄イヴェール合金レベルでの実用化に成功していた。つまり、黄イヴェール合金を生成するための造成的偶有子をライカーンに埋め込むことによって、その爪、その牙、黄イヴェール合金に変化させることが出来るようになっていたのだ。

 この黄イヴェール合金は、先ほども書いたことであるが、限りなく純粋存在に近い物質である。これだけを聞くと、真昼のような不確定性を確定させる能力者に対して非常に不利であるように聞こえるかもしれないが。実は、その逆だ。純粋存在は、つまるところ確定し得ないものであるがゆえに純粋という接頭辞を冠している。要するに、それは、そもそも決定を予定していないパラメーターなのだ。決定の埒外にあるパラメーターなのだ。つまり、真昼の兄である深夜の不確定性には真昼の決定が通用しないように、この黄イヴェール合金にも真昼の決定が通用しない。いや、まあ、正確にいえば、黄イヴェール合金は金イヴェール合金に比べれば不完全な物質であるため、通用することは通用するのだが。とはいえ、かなり強力な決定が必要になる。

 要するに何がいいたいのかといえば。

 この爪による攻撃は、真昼に対して。

 致命傷を、与えかねないということ。

 ちなみに、一般的なライカーンは、犬だの狼だのと同じように、爪を出し入れすることが出来ないが。グレイのようなエリート・ライカーンは、このように肥大化した刃となった爪が色々と邪魔、細かい作業をしようとする時に不便であるため、黄イヴェール合金の特徴である不確定性を利用することで、出現させたり消滅させたりを自由に行なうことが出来る。

 まあ、閑話は休題するとして。真昼は、ぎりぎりのところでそれを回避することが出来た。とはいえ、いうまでもなくグレイは真昼が回避することを想定していた……いや……グレイは、というよりも、リチャードは。

 先ほど化城宝処に関してはもう心配することはないと書いた。ただ、ライフェルド・ガンを放つことが出来るのはいうまでもなく化城宝処だけではない。当たり前のことだがリチャード自身もそれをすることが出来る。

 真昼が回避したまさにその先に向かって、既に一発の弾丸が放たれていた。その弾丸に気が付いた真昼は、その仮面、ちっと軽く舌打ちをしてから、殺意の刃をぐるんと回転させる。

 幸いなことに、というよりも、正確にいえばこのような展開を予想していた真昼は。本無妙花ノ花鏡についてはその決定を解除してはいなかった。弾丸は先ほど真昼を襲ってきた全ての弾丸と同じく、真っ二つに切り裂かれてから消え去る。

 ただし、この弾丸もやはり時間稼ぎに過ぎなかった。つまりはグレイが態勢を整えるまでの時間稼ぎだ。真昼が弾丸にかかずらわっている一瞬のうちに、グレイは、真昼に向かって身を翻していた。それから、また、両手のひらを構えて、その爪によって真昼に襲い掛かっていく。

 真昼は、殺意の刃、空間を切って返して。切り掛かってきたベイオネットに対応する。まずは右側の五本のベイオネットが叩き下ろされるが、それを左の刃で叩き返す。次に左側の五本のベイオネットが横から掻き上げるように振り上げられるが、それを右の刃で薙ぐように払う。

 と、そのように、真昼がグレイの対処に集中しているうちを狙って。またもやリチャードが弾丸を放って来た。真昼は、「くっ……」と悶えるような声を上げながら、グレイの左手を弾き返した右の刃、流れるようにしてその弾丸を切り飛ばす。

 不味い。

 不味い。

 このままでは。

 ノット・オープン・ラッチ。

 真昼は、ある程度は、このような展開を予想していなかったわけではなかった。つまり、自分は一人で相手は二人。リチャードが展開させるはずの大量のライフェルド・ガンについては大量に復活させた花鬼に対処させるとして(もちろんあれだけ大量の花鬼を蘇らせたのは全てライフェルド・ガン対策である)、それでもやはり、リチャードと、グレイと、同時になんとかしなければいけないだろう。

 だから殺意の刃をこのような形状にしたのだ。つまり、このように柄の両方に刃が付いているタイプの武器は、通常の刀剣とは異なり、例えば大上段に振りかぶって叩っ切るなどの行動は不可能である。威力に関しては自然と限定的なものになってしまう。ただし、反面、攻撃範囲に関しては、両刃をぶん回すことで、かなりの広さを確保することが出来る。つまり、この殺意の刃は、多人数対応型の武器なのだ。

 ただ、それでも、いくら殺意の刃の斬程が長距離であっても。リチャードが自らの行動を狙撃に限定し、決して真昼に近付かないのであれば、さすがにその斬撃によってリチャードを攻撃することは出来ない。

 その上、だ……真昼は、リチャードにちらと視線を向ける。背景となっている巨大な城壁、花鬼に向かってきらきらと宝石みたいに綺麗な弾丸をばらまいている無数のライフェルド・ガン、とは、対照的に。リチャード自身が、その手にアサルトライフルを握り締めていた。

 そのアサルトライフルは、デニーとの戦闘時に作り出したものと同じ、あらゆるアサルトライフルというトークンの完全な空集合としてのタイプみたいな形をしたアサルトライフルだったのだが。とにかく、真昼のことを狙っているのはまさにそのアサルトライフルだった。

 つまり、リチャードも、真昼と同じような作戦にシフトしたということだ。無数の花鬼は、自分の背景にある無数のライフェルド・ガンに任せて。自分と、グレイと、二人は、真昼の無力化に集中することにしたということだ。これはかなり厄介である。

 このような状況下で、真昼は……思わず、「ははっ」と笑ってしまった。楽しいのだ。楽しくて楽しくて仕方がないのだ。何も賭けずにやる行将ほど面白くないものはないだろう。あるいは、絶対に勝つと分かっていてやるポリクロットほど面白くないものはあるまい。今までの真昼の人生は、例えるならばそういったものだった。真昼は、自分が勝つということが分かり切っていた。自分が生き延びるということが分かり切っていた。

 賭け事は、賭けるものが大きければ大きいほど楽しい。つまり、結局のところ、生きるということは、命を賭けてやるのが一番楽しいのだ。負ければ自分の生命の全てが破滅するという状況下で生きていない生き物ほど不幸な生き物はいるまい。真昼は嬉しくて仕方がなかった。負ければ死ぬということが、負ければ全てが終わるということが、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。ああ、そう、そうなのだ……自分の生命なんてどうでもいいと思っているから、特に楽しい。

 まあ、それはそれとして、だ。この状況は、どうにかしなければいけないだろう。これが、普通のコンビ、普通のカップル、普通の二人組との戦闘であるならば。例えば、二人の行動をある程度誘導することで、リチャードが手を滑らせてグレイのことを撃ち抜いてしまうというような状況を作り出すことも出来るだろうが。この二人に関しては、絶対に、絶対に、そういうことはあり得ないだろう。真昼は、この二人の行動を観察し始めてから一時間どころか十分も経っていないが、それでもそのことは断言出来た。

 絆という言葉を使うのは、なんとなく違うような気がするが。とにかく、二人の間を結び付けているものはあまりにも強力過ぎた。それは、あたかも、もともとは一つの細胞だったものが二つに分かれたその末に二つの生命になったかのような有様だった。いや、もう少し正確にいうのならば、もともとは二つの細胞だったものが一つに合わさって、その末に一つの生命になったかのような。

 グレイは、まるで、全てを、予め知っているかのようだった。リチャードがどこに向かって弾丸を撃つか、その弾道の全てを。いや、それどころか、グレイ自身がその弾丸を発射しているかのようだった。グレイは見もしなかった、いや、それどころか、恐らくはあらゆる感覚を真昼に向けていて、それゆえにリチャードが放った弾丸に関しては、あらゆる感覚によって感覚していないはずだった。それでもグレイは、まるでそこにその弾丸が来ることは当たり前であって、それは内発的に理解出来ることであり、そのことをわざわざ外付けの感覚によって感知することなど不必要だといわんばかりの態度で、弾丸を、弾丸を、弾丸を、回避していた。

 無論、リチャードも、確信していた。まるで、リチャードが、グレイの、運命の全体を管理しているかのように確信していた。グレイがどう動くのかということ、どう動くのが必然であるかということ。リチャードは、グレイの過去であり、現在であり、未来であり、そういった時間を超越した上で、そういった時間の全てを配置している、あたかもそのようにグレイを知悉していた。だから、リチャードが放った全ての弾丸は、悉く、グレイをすべらかに回避していた。

 そのようにして。

 二人は。

 真昼を。

 追い詰めて。

 追い詰めて。

 追い詰めて。

 しかも。

 それは。

 まだ。

 様子を。

 見ている。

 だけだった。

 「リチャード」とグレイが呟いた「いい加減、お遊びは終わらせろ」。それに対してリチャードが言葉を返す「はははっ、分かった、分かったよ。本当に、お前ってやつは面白味がねぇな」。

 リチャードは、アサルトライフルの、トリガー、グリップ、そういった機構のすぐ近くにあった近未来的なギミックのうちの一つをかちんと動かした。それは、奇妙な、小さなスイッチというか小さなレバーというか、とにかくそういうたぐいの何かであって。それを動かすと同時に、バレルの両側、七つずつ列になっているランプが反応を示した。

 具体的にいえば、ある一定のスペクトラム帯域幅で光り続けていたランプが、そのギミックの作動と同時に、銃口とは反対の側から銃口の方に向かって、一つ一つ、まるでカウントダウンでもするみたいにして、そのスペクトラム帯域幅を変え始めたのである。簡単にいえば、ピッピッピッとでも音を立てるかのように、ランプの色が変わり始めたということだ。

 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ。

 そして、七つ目のランプの色が変わる。

 アサルトライフルは。

 それゆえに。

 フルオートになる。

 随分と、なんというか、子供のおもちゃの光線銃みたいなシステムであるが。要するに、リチャードが動かしたそのギミックはセレクターであったということだ。今までセミオート、一発一発発射していた弾丸を、マシンガンのように連射出来るようになったということである。

 別にこんな機構に頼らなくてもライフェルド・ガンはライフェルド・ガンなのだから好き勝手にアサルトライフルをマシンガンに変形させればいいだけの話なのだが。まあ、こういうのは気分が大切なのだろう。

 なんにせよ、リチャードは、そのようにフルオートにしたアサルトライフルを、再び、真昼とグレイとが戦闘を繰り広げている方向に向けると。ろくに狙う素振りを見せることもなく、即座にトリガーを引いた。

 狙う必要などない、リチャードとグレイと、二人は、生命のレベルで結び付いているのだから。基本的にリチャードはグレイからしかスナイシャクを吸収することがなかった。それは、時折は、スナック代わりに別の生き物からスナイシャクを吸収することもあったが。それでも主食はグレイだけであった。

 まあ、そうしているのは色々と理由があって、例えば、このような仕事、つまりは傭兵稼業をしていると、命を狙われるようなことがかなり頻繁に起こる。そのような暗殺の方法には、例えばスナイシャクを呪禍によって穢しておいた上で、リチャードの食卓に饗するという方法がある。そのような、穢れたスナイシャクを吸収させることで、リチャードを弱体化させるわけだ。それを避けるためには、予め、安全だということが分かっている生き物のスナイシャクを吸収するのが一番である。

 ただ、とはいえ、そのような理由は全てが言い訳であって。結局のところ、リチャードは、グレイ以外の生き物を信頼することが……いや、リチャードの話はいいだろう。とにもかくにも、リチャードの大半は、グレイのスナイシャクによって蘇生されているのであって。また、グレイの魂魄にも、やはりリチャードの生命が流れ込んでいる。

 これもまた傭兵稼業をしていると、何度も何度も命のクライシスに見舞われるものだ。特に、アーガミパータのような場所においては……「機関」の能力を有してるグレイであったとしても、そのような命のクライシスから逃れることは出来ない。

 命のクライシスって語呂がいいな、なんか繰り返したくなってしまう。それはそれとして、そのような、グレイの命のクライシスに際して。リチャードは、自らの、ノスフェラトゥのスナイシャクを分け与えることで応急処置を施していた。ノスフェラトゥのスナイシャクというものは非常に運命肯定力が強い。つまり、一個の生命をジュノスから疎隔しておく力が非常に強いということである。そのため、彼岸に行きかけている生き物を此岸に繋ぎ留めておくための、一種の霊薬として使用されることがある。その効果のほどについては、純種のノスフェラトゥがスナイシャクを飲み干した生き物であっても、そのまま死ぬことがないままに雑種のノスフェラトゥになることがあるということからもお分かり頂けると思うが。なんにしても、そのような応急処置によって、グレイの魂魄には、かなりの割合でリチャードのスナイシャクが融け合っているということだ。

 つまり、だ。

 リチャード。

 グレイ。

 二人の生命、は、ほとんど。

 一体化しているということ。

 片方の生命がとある周波数で振動すれば、もう片方の生命も、それは共振のレゾナンスなのである。二人の生命はあたかもエンタングルメントされている二つの粒子であるかのようなものだ。互いの間にどのような障害があったとしても、いかなる空間、いかなる時間、が接触を阻んでいたとしても、二人の非局所性を阻むものはあり得ないのである。

 まあ、そのように一体化していなくても、二人は、飼い主と飼い犬と、といったような関係性であったとはいえ、物心がつく前からともに生きともに過ごしてきたわけである。ノスフェラトゥの物心ってなんだよって話だが、それはそれとして、相手がどういうインフルエンスに対してどういうリアクションを起こすのかということなど、はっきりいって分かり切っている。つまり、互いにとっての互いが、六面の全てに七の目が刻まれた骰子を振って、その目を予測するゲームのようなものなのだ。

 当然のように。

 リチャードは。

 どこに弾丸を打ち込めば。

 グレイへの援護になるか。

 理解しているし。

 グレイは。

 リチャードが。

 どこを狙っているか。

 完全に、知っている。

 俄かには……俄かには、信じられないことではあったが。ただし、事実であった。フルオートのアサルトライフルから、絶え間ない連続性として、なんと一分間に千六百発、ということは一秒あたり二十発というスピードによって吐き出される弾丸。その全てが、真昼とグレイと、二人が戦闘を繰り広げているまさにその空間に撃ち込まれている。

 真昼もグレイも近接戦闘スタイルであるため、その空間は、かなり範囲が限定されている。せいぜいが一辺が数ダブルキュビトの立方体といったところだ。そのような範囲に、これほどの弾丸が撃ち込まれれば。普通であったら、当然のようにフレンドリーファイアが起こってしかるべきである。だが、起こらなかった。全然、起こらなかった。

 それは、まあ、リチャードが真昼を狙っているアサルトライフルは、たった一挺といえばたった一挺である。弾幕だとか弾雨だとか、そんな感じではなく、かなり密度の高い点線といった感じだ。とはいえ、それでも、たかだか数立方ダブルキュビトの範囲に毎秒毎秒二十発の弾丸が撃ち込まれているのだ。普通であれば一発くらい当たるはずだ。

 それでも、グレイには、当たらなかった。それどころか、まるでそれらの弾丸がそもそもグレイの身体の一部であるかのように。例えばグレイが、自らの指先で、自らの肉体を、柔らかく艶やかに愛撫する真似事として、ただただ何もない空間に触れているだけとでもいうように。するりするりとグレイの身体、その僅か紙一重の距離を、しかも毛の先一つ傷付けることなく、弾丸は雅歌における若い乙女のサルターレ。

 そのように。

 交し合う。

 睦言。

 蜜月。

 褥の霧雨にも似た。

 さんざめく攻撃を。

 ただただ受け身に受け続けるしかないところの真昼であったわけである。先ほどまでの、セミオートの状態でも、既にぎりぎりの喫水線であったところの真昼なのだ。このような、フルオートは、明らかに許容出来る積載量を超えている。

 殺意の刃の回転は、その速度にその速度を重ねて、既に回転翼航空機のようになってしまっている。手首の先、指先で弾くように、凄まじいスピードでスピン、スピン、スピンさせながら。真昼は、その二枚の刃を、右手から左手に、左手から右手に、一種の反復運動であるかのように移動させ続ける。

 そうしてなんとか破線のように降り注ぐ弾丸を切り飛ばしているのだ。さりとて、そればかりに集中しているわけにもいかない。なぜといって、その破線と破線との間をくぐり抜けてグレイが爪撃を叩き込んでくるからである。

 正確に状況を把握するとすれば、まず、リチャードが放った弾丸は、真っ直ぐ一直線に整列し、最短でこちらからあちらまでの距離を移動して。真昼とグレイとが戦闘を繰り広げている空間に到達すると、一斉に、あたかも散弾であるかのごとく、そこら中に拡散する。そして、第一弾の攻撃においてそうだったように、あらゆる方向から真昼を撃ち抜こうと襲い掛かる。そして、そのような、弾丸によって構成された点描画の内側を、グレイは、あたかも一匹の魚が、優雅に、瀟洒に、美しい珊瑚の迷宮を泳いでいくかのようにして。ゆらりゆらりと真昼に向かって近付いて……その手のひらで、真昼の身体を抉り取りに掛かるのだ。

 これはなんというか、真昼にとっては始末に負えない。もちろん真昼も反撃しようとはする。襲い掛かってくるグレイに向かって、弾丸を切って切って切って切って掻き消していくその勢いもそのままに、殺意の刃を叩き込もうとする。しかしながら、その瞬間にグレイはスイングバックしてしまうのである。こうされると真昼としてはもう深追いは出来ない。なぜというに、グレイがスイングバックした瞬間に、そうして生まれた空隙にライフェルドの弾丸が撃ち込まれるからだ。下手に追撃しようとすればこの弾丸に撃ち抜かれる。

 それでは、周囲を流動している力の波動を使えばいいじゃないか、力の波動を弾丸に対する防御として使えばいいじゃないか、と思われるかもしれないが。それはそれで難しいものがある。いや、というか、真昼は既にそうしている。それによって、確かに、多少は、弾丸を防ぐことが出来ている。ただし、そのような弾丸に対する防御を形成するたびに、次々に、そういった網目はグレイによって切断されてしまうのだ。つまり、弾丸に対する防御として力の波動を使おうとすれば、それは当然のことながらアンチ・ラベナイトの性質を力の波動に纏わせなければいけない。そして、そうなると、アンチ・ラベナイトとはある種の存在の一形式である以上、同じ存在である、しかも純粋存在である、黄イヴェール合金の攻撃をまともに受けてしまうのだ。かといって、力の波動を、黄イヴェール合金を無効化出来る通常のラベナイトにすれば、それはそれでライフェルドの弾丸に撃ち抜かれてしまう。これではもう完全に手詰まりなのだ。

 今は、まだ、なんとか捌き切ることが出来ているが……このままでは、間違いなくマジヤバルディエ市民革命である。もちろん、真昼の身体は、デニーの魔学式その他諸々の影響によって人間としては限界突破しているが。それでもベースラインが人間である以上は、やはりその完全性は、例えば始祖家のノスフェラトゥだの、エリート・ライカーンだの、しかもその上に何重にもバフバフのバフをかけている生き物には、さすがに敵わない。今、そのような生き物、二匹、向こうに回して同等に渡り合っていること自体が、普通では考えられないような奇跡的な出来事なのだ。

 いつか。

 必ず。

 破綻。

 する。

 これが、仮に、リチャードが使っているアサルトライフルが、ごくごく普通の金属製であれば。いつまでもいつまでも連射し続けていれば、弾切れが起こるか、そうでなくても、あまりの熱によって、バレルが破損したり溶解したりするということが期待出来るが。ライフェルドである以上、そういった出来事は全く期待出来ない。また、グレイについても、「機関」によって自己の肉体をある程度は強化していることが予測されるため、疲労を期待することは出来ない。さて、どうするか。

 などと。

 真昼が。

 考えてた。

 その。

 瞬間。

 背後に。

 感じた。

 これは。

 戦慄。

 頓証菩提。本当に、唐突に、一切の前触れもなく、真昼は気が付いた。自分の背後に誰かがいるということに。しかし、誰が? 一体誰がいるというのか? まず、状況を整理しよう。この結界の中には五種類のアクターしかあり得なかったはずだ。まずは、デナム・フーツ。それに、真昼自身。ここまでは、まあ、考えに入れる必要はないだろう。問題はここからだ。リチャードと、グレイと、それに、リチャードが結界内部に呼び寄せたノスフェラトゥの大群。このうち、リチャードは、相変わらず真昼に近付こうとさえしていない。グレイは、目の前にいる。ノスフェラトゥの大群は、真昼の支配の下にいる。

 いや、いや、いや、誰もいない、いるはずがない。真昼の背後にいるべき誰かなど誰もいないのだ。だが、いる。真昼の背後にはいる。真昼に対して、明確に、明白に、敵意を持った者。明らかに真昼に対して攻撃を仕掛けようとしている者。

 誰だ。

 誰だ。

 誰だ。

 真昼は。

 刹那。

 振り返る。

 そして。

 そこに。

 いたのは。

 も。

 う。

 ひ。

 と。

 り。

 の。

 グレイ。

 「は?」と、真昼は声を上げた。が、真昼に出来た反応はそれだけだった。真昼は、その直後、自分の背後に唐突に出現したもう一人のグレイによって、思いっ切り、勢いよく、完全なクリティカルヒットとして蹴り飛ばされたからだ。

 まるで、脇腹を刈り取られるかのように。グレイの右足が、鎌が雑草を薙ぎ払うようなやり方で、真昼に叩き込まれる。真昼は「ぐぅ……があっ!」という、とてもではないがいいところのお嬢さんが上げていい声ではない声を上げる。

 そのまま、真昼は、大地に向かって一直線に墜落していく。墜落というよりも、斜め下の方に向かってぶっ放された大砲の砲弾みたいだった。約十ダブルキュビトの距離を、一秒もかからず突っ切って。欠片も容赦のない慣性の羂索によって叩きつけられるかのごとく大地に叩きつけられる。

 ただし、真昼は、その直前に、力の波動によって、自分の全身を包み込む球形の緩衝体を作り出していた。辛うじて、真昼は、全身打撲だの複雑骨折だの、難を逃れることが出来たということである。その緩衝体、及び包み込まれている真昼は。柔らかくなめらかな弾性によって、ぼよん、ぼよん、と嫋やかに。三度か四度か、弾んだ後で……力の波動は、ぱんっと、開花にも似た態度で外側に向かって開いて。中からは真昼が出てきた。

 確かに、地面にべたーん!は避けられたが。とはいえ、グレイに蹴り飛ばされた脇腹を、明らかに庇うような格好、抱き締めるような格好をしている真昼。痛い、痛い、痛い、最高! はははっ! なるほど、なるほど。恐らく、これが骨の二本・三本はイっちまってるという痛みなのだろう。

 実をいうと、真昼は……あの能力を、まだ使うことが出来た。つまり、自分にとって不快だったり不要だったりする感覚を切断してしまえるというあれだ。「ヴーア」の封印をなんの処理もなく見ることが出来た時、多少、デニーから説明はあったが。真昼に施されたマネリエス・フォーミングは未だに残存しているのであって、今の真昼は、死んでいた時、生き返る前、使えた能力を使い続けることが出来る。だから、この痛みも、消し去ってしまおうと思えば消し去ってしまうことが出来るのだ。

 しかし真昼はそんなもったいないことをしてしまうつもりなどさらさらなかった。最高だ! 最高だ! 最高じゃないか? 今、真昼は、自らの生死に直結する激痛を感じている。脳味噌が完全にいかれちまいそうなほどの、ばあん、ばあん、右脇腹で遠慮も呵責もなく開催されている花火大会のような、そんな痛みを感じている。そうだ、そうだ、これだ! これこそが、つまり本当に生きるということだった。

 死ぬかもしれないということが、その圧倒的な現実性が、身体に直結する爆発の感覚としてフィールド化する。そのことが、楽しくて楽しくて仕方がない。今、この瞬間の絶対性に比べれば、真昼が月光国で生きてきた十六年間なんて、退屈で退屈で仕方がないヴァーチャル・リアリティに過ぎないだろう。ああ、重い、重い、重過ぎる。この喜びがあまりにも重過ぎて、この華奢な体では支えられないくらいだ。

 真昼は、やっと、ようやく、マコトが言っていた言葉の意味が理解出来た。いわゆる「平和な日常生活」なるものの、唾棄すべきくだらなさ、反吐が出るほどのつまらなさ。真昼の全身、一本、一本、指先まで這い回っているこの神経系に入力される感覚の、「平和な日常生活」における、そのあまりにも、脆弱。

 一度でも、たった一度でも、これを味わってしまったら、この激痛を、この苦悶を、味わってしまったら。ねえ、どんなドラッグだって敵いはしないわ。そうでしょう、だって、この中毒性、この危険性、ああ、あたし、これがいい、これがいいわ。目の前で、自分の手足がぶっ飛んでいく、この世界がいいわ。

 まあ。

 とはいえ。

 真昼には。

 あの二人に。

 殺されるつもりなど。

 あるいは。

 あの二人に。

 その身を差し出す気など。

 欠片もなかったが。

 さて、ところで……真昼が墜落した地点には、大量の、残骸が、積み重なり、折り重なり、していた。なんの残骸か? あら、お馬鹿さん。そんなの、いうまでもなく当然のことでしょう? 花鬼の残骸。

 化城宝処は容赦なく花鬼を破砕していた。腕を撃ち抜き、脚を撃ち抜き、あるいは榴弾によって内側からばらばらに炸裂させていた。そうして、欠損を起こした花鬼は、とはいえ、すぐさま使用不可能になるというわけではなかった。

 例えば、引きちぎれて飛んでいった下半身。その瞬間に、全身を包み込んでいる麗貌の薔薇の花、触手、触手、触手、が、ずるりと触手を伸ばして。下半身を花鬼に結び付け繋ぎ止めてしまうのだ。もしくは、こういう場合もあった。跡形もなく爆発してしまった頭部。首から上には、もう触手で引き寄せるべきものもないような状態。そのような状態であっても、ぽんっぽんっぽんっと、そこに、無数の大輪の薔薇が花開いて。あたかもそれが失われた頭部の代わり物であるとでもいうような顔をして、そして、そのまま、花鬼は、何事もなかったように動き始める。

 とはいえ、とはいえだ。それでも、もう二度と使い物にならないほどに壊れてしまった花鬼もいるのである。それは、もう、一個の生命の紛い物として機能出来そうになかった。それは、既に、粉々になった肉片と粉々になった肉片と、それに、ひらひらと舞い落ちる空華、まるでしんしんと降り積もる雪の欠片みたいな薔薇の花弁だけであった。

 そして。

 それが。

 大地に。

 層をなして。

 惨劇を。

 描いて。

 いる。

 真昼が落ちたのはそのような層の上であったということだ。真昼を包み込んでいた荘厳念珠は、ぼよん、ぼよん、と跳ねるごとに、その層に堆積していた飛花落葉、薔薇の放埓、花吹雪のように巻き上げていて。結果的に……真昼が吐き出されたその空間は、あたかも花の下、春に死んでしまったかのようだった。

 爛熟。漿蝕。それに、それから、騒々しいほどの攪擾。そのような、一面の、一面の聖玻璃の錯乱する光景の内側で……真昼は……一つの総体的な感覚器官であるかのように、ざっと、周囲、冷徹な、冷酷な、感覚を走査した。

 リチャードについて。どうやら真昼のことを一時的に見失っているらしい。この花吹雪の効果だ。つまり、ノスフェラトゥは、人間的な五感以外にも、生命のエネルギーを感じることが出来る感覚を有しているが。このようにプカプカトン錯乱状態を引き起こすほどの魔力の結晶がさんざめいている状態では、うるさくてうるさくてまともに感覚を働かせることが出来ないのである。ただ、このような状態も、それほど長くはもたないだろう。

 グレイについて。正確にいえば、二匹のグレイについて。少なくとも、あと数秒は大丈夫そうだった。こちらもやはり花吹雪によってあらゆる感覚を阻害されている。その奥にいる真昼のことを見通せないでいる。特に、その嗅覚だ。ライカーンにとって、最も需要な感覚。それが、噎せ返るような薔薇の匂い、熟し切って腐り切って、地に落ちた薔薇の花弁の、懶惰な亡骸の香料の匂いによって、完全に封鎖されていた。慎重に慎重を期すグレイのことだ、闇雲に突っ込んでくるということはあるまい。

 ちなみに、そのようなセンサリー・デプリヴェーションの内側で、一体いかなる感覚によって真昼は感覚したのかといえば。それは、確率と決定と、その二つによって現実領域を構成しているところの、パラメーターの微細な動作である。真昼は、決定論を身に帯びている状態においては、このパラメーターを感じることが出来るのだ。まあ、ともかく、そのようにして感じた二人は……完全に、真昼の姿を喪失していた。

 ということは。

 全部。

 全部。

 真昼の。

 計算通りに。

 物事が。

 進んでいると。

 いうこと、だ。

 つまり、真昼はわざとグレイの蹴打を直撃させた。真昼は、実は、避けようと思えば避けることが出来た。振り返り、背後に、二人目のグレイを認めた瞬間に。回避行動を取ることは出来たのである。そうすれば、完全に避け切ることは出来なかったとしても、少なくともこれほどの大ダメージを負うことにはならなかった。それでも、真昼は、それを避けようともしなかった。

 まず、一番重要なことであるが……真昼には確信があった。グレイが、決して、真昼に対して致命傷を与えるような攻撃は行なわないと。グレイはリチャードとは違う、極めて冷静だ。計算機械のように。情報処理装置のように。ということは、生け捕りにしなければいない対象である真昼に対して全力で攻撃を行なうことは決してないだろう。ある程度は手加減した攻撃になるということだ。恐らくは、五本のベイオネット、真昼のことを切り刻むような斬撃は行なわない。打撃だ。真昼のことを無力化出来るほどの打撃。そうであるとすれば……ほぼ確実に、大地に叩きつけるような蹴りを放ってくるはずだ。

 さて、ところで、真昼が叩きつけられるはずの大地には一体何がある? そう、大量の花鬼の残骸。もしもこれが花吹雪となれば、ライカーンの、ノスフェラトゥの、あらゆる感覚を遮断するなまめやかなカーテンとなりうる残骸。

 そう考えると、だ。この直撃を食らったとすると、どうなる? あの二人から、数秒の、ブランクタイムを奪い取ることが出来る。真昼は、それを欲した。

 そうして。

 かくして。

 それを手に入れた。

 真昼は一秒の万分の一の万分の一の万分の一も無駄にすることはなかった。即座に、口の中、コッという吸打音を鳴らした。そのクリック・スペルに従って、真昼の周囲で、ストカラスティック・フィールドが反応を示す。

 未だ確定していない、この世界の確率。それは時間的なものでもなく可能性的なものでもなく、ただただそれ以前の、時間さえ、可能性さえ、そうなることがそのパラメーターによって決定されているところのパラメーターにおける確率。そのような端的な確率が、真昼の恣意によって、横暴に、横柄に、決定することを強迫される。本来ならあり得ないような決定に。あまりにも、真昼にとって都合が良過ぎる決定に。つまり、真昼にとっての奇跡の形の決定に決定される。

 それは……風姿花伝……目には見えぬ嵐の姿を舞い散る花弁が映し出すかのように……まず、一陣の風が吹いた。いうなれば寵深花風とでもいうべき姿。物狂いのように狂おしく、真昼の周囲を渦を巻くように渦巻く螺旋。そのような風に吹き上げられて、舞わされて、踊らされて、弄ばれて、九道輪廻の無明をただただ転輪する一切衆生のごとく、花鬼の残骸が大荒する。

 散乱する花弁。散乱する肉塊。ノスフェラトゥの、肉、骨、内臓、固まりかけたどす黒い血液にまみれた断片が、運命のメイルストロムに巻き込まれたかのようにして、ぐるぐる、ぐるぐる、と、真昼の周囲を回転する。

 いや、それは、どちらかといえば黄金の大釜の内側で煮込まれている造成的な細胞という表現の方が正しいかもしれない。いうまでもなく、火にかけられた大釜のイメージは、母なる子宮を表わしている。だが、既に死んでしまった、未成熟の少女の子宮とは一体何なのだろうか。それは、いつもいつも、堕胎されることを前提とした生命の紛い物しか孕むことはないのだ。

 鍋が、掻き混ぜられる、掻き混ぜられる。どろどろの細胞が混ぜ合わされるみたいな光景。真昼に纏わりつくかのようにして旋回する風が荒れ狂う。ああ、だから、やがて……薔薇が、薔薇が、薔薇が。無数の、薔薇色の肉塊が、べっとりと溶け合って、融合して。ごくごく微細な残骸に過ぎなかったものは、あたかも真昼の重力に捕らえられた衛星のようなものを形作る。

 一輪。

 二輪。

 三輪。

 四輪。

 五輪。

 六輪。

 の。

 サテライト。

 そう、そうだ。まさにサテライトだった。サテライトが作り出した、あの衛星に、限りなく酷似した何かだった。サテライトの肉体から、汚濁したあぶくのようにぼこぼこと吐き出されていた、悍ましい衛星にそっくりな何かだった。

 肉片と肉片とを薔薇の花で繋ぎ止めて、真昼は衛星に似た物を作りだしたのだ。薔薇の花弁がまるで唇のようにふるふると動き出す。やがて、それが、ぱっくりと開いた。ハハハハハハハハッと、脊髄を引っ掻くような声で笑い始めた。

 笑いながら狂い狂いに真昼の周りを軌道運動している衛星達。それらの衛星達に、真昼は、最後の仕上げをする。殺意の刃を軽く握って、構えたままに。衛星のダンスに合わせて自分自身を躍らせるようにして、ぐるんと、一度、ピルエットをした。トウを立てて、いかにも煌びやかに回転した。そして……その殺意の刃、右の刃から、左の刃から、力の波動が、ただただ空性に一滴滴る露のごとく、六方に向かって飛散する。

 この一露は概念に溶けて混じり溺れてしまうということがない。自由自在、無障無碍、一塵の観念さえも触れることが出来ないだろう。要するに、この一露はアンチ・ラベナイトと化していたのであった。斯うと、六方向のそれぞれ、向かう先にあるのは六輪。六つの衛星に、さぱん、という音を立てて、とめどなく付着し、底知れぬほどに染み込んでいく。

 ああ、結縁したまう。菩薩は六輪と結縁したまう。忘れ得ぬ破滅の春の一日よ。遠き、遠き、花の季節よ。その一露は、あたかも瀉瓶の終わりなき喜びであるかのように、衛星の中に、深く、深く、沈み込んでいって……見て! 見て! ほら、あの薔薇の唇を。一露は、したりしたりと唇の内側に、眠る猫のように忍び込んでいって。そして、その一滴一滴が、鍾乳のように、衛星の口の中に、牙を形作る。

 六輪。

 一つ。

 一つ。

 の。

 衛星は。

 笑う。

 笑う。

 ハハハッと。

 笑う。

 そうして、笑っている。

 咲き誇る唇の内側には。

 アンチ・ラベナイトの。

 牙が。

 じゃらりと。

 華鬘の。

 ごとく。

 並んでいて。

 そうして、その後で。

 そのような衛星達に。

 囲まれた、中心、で。

 輪廻を巡り終えるようにして。

 ピルエットを終えた、菩薩は。

 心性蓮華。

 拈華微笑。

 本覚の笑みのままに。

 こう、言う。

「六輪一露。」

 またまたかっこいいポーズでかっこいい技名をぶちかましてくれちゃったところの真昼ちゃんであるが、この魔法が一体いかなる魔法かといえば、まあまあ見て頂いた通りのその通りでございまして、自分の周囲、独立した衛星を六つ回転させるというものである。それらの衛星達にアンチ・ラベナイトによる攻撃方法を付与することによって、つまるところはリチャードが絶え間なく連射してくるライフェルドの弾丸に対する防衛システムとして利用しようとしているわけだ。

 さて、そんなにうまくいくものか。折よくも……真昼が、周囲の花吹雪、その一部を六輪一露として利用したところで、大分視界が開けてきたらしい。特に、垂直方向ではなく水平方向にいたところのリチャードが、花吹雪の奥の奥にいたところの真昼を見つけたようだった。「おいおい、グレイのあの蹴りを食らって……あいつ、まだ立ってやがんのかよ」。

 「はっ! 人間のくせにしぶてぇやつだぜ! だがな、これで終わりだ!」まるで躊躇することなく、恋にときめくほどの暇さえもなく、リチャードは手に持っていたアサルトライフルを構えて引き金を引いた。フルオートの弾丸が、絶え間なく全身を痙攣させ、衝動的に脳髄を爆発させる、性の絶頂の光のようにして、真昼に向かって容赦なく撃ち込まれる。

 進む、進む、進む、弾丸は、空間を掻っ捌いて真っ直ぐに突っ走っていく。そして、そのようにして放たれたうちの最初の一発。一秒も経たないうちに、既に真昼の目の前にあった。

 真昼は、そのような状況下、指先の先の先ほどにも動じなかった。それどころか、そのような弾丸のこと、見くだすような視線で見ていた。嘲笑、侮蔑、あるいは、ある種の退屈ささえ感じさせる。例えるならば、あまりにも愚昧な奴隷を見くだす女王のようにして弾丸を眺めていたのだ。

 真昼は確信していたのだ。この弾丸が、哀れにも、惨めにも、真昼の身体のいかなる部分も傷付けることが出来ないということを。もちろん、この弾丸は自分を狙っている。一瞬の後にも、自分の脳天を吹っ飛ばしかねない。しかし、とはいえ……などなどと、いっている、今、この時。

 がりん。

 と。

 衛星が。

 弾丸を。

 噛み砕いた。

 ハハハハッという笑い声を上げながら、リチャードの、その若々しい傲慢をがりがりと咀嚼する。弾丸は牙によって引き裂かれるたびに、消えて、消えて、消えていく。

 六個の衛星、代わる代わる、池にぱらぱらと投げ落とされる餌を次々に食らい尽くして飲み込んでいく、養殖されている魚のようにして。次から次へと弾丸を消し去る。

 「な……あれは……」と、リチャードは思わず叫んでしまった。そうしているうちにも、弾丸を、フルオートで撃ち込み続けているが。しかしながら、撃っても撃っても、その全てが衛星によって食い尽くされる。「クソが……スペキエース食いの化け物かよ!」「さすが砂流原のお嬢様だな。スペキエース対策はばっちりってか? なあ、おい!」。

 そのような嫌味も、三日四日前の真昼ちゃんであったならば効果があっただろうけれど。今の真昼ちゃんにとってはジャンバラヤにレモン・カルボナーラにブラックペッパーであった。この例えは例えとしてかなり分かりにくい例えであるが、使っている側もよく分からないまま使ってる。とにかく、真昼は、リチャードの言葉に対しても、凍傷を起こしそうなほどの軽蔑の表情、鼻の先で笑って返しただけであった。

 リチャードは舌打ちをする。それから、手の中のアサルトライフル、ぱんっと音を立ててライフェルドの光の束に解いた。そうして、そのまま、光の束は新しく織り成されていく。ただ、今度は、アサルトライフルよりも遥かに遥かに巨大な何かに紡がれていくのだ。それは、既に、リチャードが手のひらによって把持することが出来るような大きさを超えていて……つまり、それは、アビサル・ガルーダを一撃のもとに粉砕したあの大砲だった。

 いや、あの大砲よりは、一回りか二回りか、それくらいは小さかった。さすがのリチャードも、あれほど強力な大砲を使ってしまえば、万が一直撃してしまった場合、真昼が跡形も残らずに消滅してしまう恐れがあることくらいは理解出来ているようだ。ただ、それでも、許される限りの、ぎりぎりの威力を保っているということには間違いがないのである。

 そして、大砲が、リチャードの眼前に出現した瞬間に。リチャードは「吹っ飛びやがれ、化け物!」とかなんとか叫びながら、両方の手のひら、真昼に見せつけるみたいにして突き出した。その瞬間に、それと同時に、大砲の引き金が引かれる。

 傲慢だけが放つことが出来る凄まじいエネルギーが、激怒のように憤怒のように、爆発する。放たれた砲弾。がりがりっと、あまりにも暴れ狂うがゆえに抑え切れなくなってしまった癇癪のようにして、その周囲に電光のようなものが弾ける。

 さあ!

 破滅の砲弾よ!

 巨大な死神よ!

 標的に向かって!

 RUN!

 RUN!

 RUN!

 首を切られた鶏のように!

 狂っちまったように走れ!

 一方で真昼はといえば……それを、まるで相手にしていなかった。さしたる注意もさしたる注目も向けることなく、ふっと、軽く、溜め息をつく。それから、右の手を動かして。殺意の刃の切っ先で、その凄まじい光の塊を指し示す。

 すると、そのような投げやりな指示に従って、六輪の全てが砲弾に向かって突進した。あたかも巨大なケーキを目の前にした六人の子供達みたいだった。一斉に、砲弾に襲い掛かって……そして、そのまま、ばくんばくんと、めちゃくちゃに、そこら中を、食いちぎり始める。

 ちょっと、なんというか、笑ってしまいそうな光景であった。まさか、こんなことが起こるとは。砲弾は、真昼に向かって近付いていくのだが。近付けば近付くほどに、全体が、小さく小さくなっていく。六輪が、恐ろしいほどの食欲で、食って食って食いまくっているのだ。

 閃光の獣ほどの大きさがあった砲弾。見る見るうちに輝きを削ぎ落とされていって……やがて、真昼から、数ダブルキュビトも離れた地点で、とうとう食い尽くされてしまった。

 さて。

 これが。

 意味する。

 ことはと。

 いえば。

 もうライフェルド・ガンは真昼には通じないということだ。いや、正確にいえば、絶対に通じないというわけではない。例えば、リチャードが、本気を、全力を、解き放って。神々に対して使用するようなライフェルド・ガンを紡ぎ出せば、まあ、それは、きっと、六輪一露によっても防ぐことは出来ないだろう。ただ、そういう方法を使うとまた別の問題が出てくる。つまり、先ほども少し触れたが、そんなに強力な攻撃手段によって攻撃してしまったら真昼が無事では済まないだろうということだ。あくまでも、リチャードは、真昼を生け捕りにしたいのである。

 「クソがクソがクソがクソがああああああああっ!」と、リチャードは吸痕牙を剥き出しにして絶叫するが、残念なことに、現時点では、その子供じみた欲求不満を解消する方法はない。リチャードに関していえば、ライフェルド・ガンによる遠距離からの攻撃に関していえば、完全に手詰まりである。

 よし。

 取り敢えずは。

 これで、いい。

 グレイの攻撃に。

 集中出来る。

 ところで、そのグレイであるが……そろそろ、その嗅覚を遮っていたところの、鼻の奥に花粉を撒き散らしているかのような、花畑にも似て嚥下さえ出来そうな、真昼のための蘭麝の香奠も。薄れ薄れて透き通る薄絹ほどに薄れてきたようだ。

 見定める、聞き定める、そして、何よりも重要なことに、嗅ぎ定める。真昼の形姿を。大地に立って、あたかもグレイのことを挑発しているかのように、憍慢の凄まじい表情で笑っている真昼の形姿を。まあ、とはいえ、真昼にとっては菩提即煩悩・煩悩即菩提であるわけだが。とにかく、グレイの感覚は真昼を捉える。

 もちろん。

 一人ではない。

 二人の。

 グレイ。

 二人のグレイは、狼が狼を威嚇する時のように、ぐるるるぅという唸り声を上げながら牙を剥き出しにしてみせた。それから、その次の瞬間には、あらゆる現実の形式から消え去っていた。

 しまった、まただ。真昼は何がなんだか分からなくなる。左の手のひらを頭に当てて、思い出せるわけもないことを思い出そうとする、記憶にあるはずもない記憶を引き摺り出そうとする。

 無駄だ。

 無駄だ。

 グレイなんていう生き物、は。

 もともといなかったのだから。

 と、しかしながら、次の瞬間。真昼は、本能的に殺意の刃をぶん回していた。まずは後ろからの爪撃を弾き返し、それから、上から叩き込まれた爪撃を受け止める。二人のグレイがそれぞれの方向から襲い掛かってきたのだ。「くっ……」と思わず声が漏れてしまうが、とはいえ、その瞬間の次の瞬間には、なぜ自分がそんな声を漏らしているのか分からなくなる。また、二人のグレイは、真実の意味で跡形もなく消え去ってしまったのだ。

 不味い、不味い、不味い、これはかなり不味い。真昼からは、またもや、あらゆる余裕が削ぎ落とされてしまう。消えては現われ現われては消える爪撃、殺意の刃で受け止めるので精一杯だ。逆襲の機会は一切ない。なぜなら、いくら必死に必死を重ねて相手の隙を抉り出し、そういった隙をついてこちらが攻撃しようとしても、その時には、グレイはそもそもいなかったことになっているからだ。逆襲しようという真昼の企図さえも、歴史から、夢幻泡影のごとく消えていってしまう。

 これが、グレイ一人であったならば、真昼としてもなんとか捌き切ることが出来たかもしれない。攻撃と消滅と、連続する二つの現象の中で、グレイが攻撃するまさにそのタイミングを狙って反撃することも出来たかもしれない。ただ、真昼は、グレイと、それにグレイ、二人の相手をしている。これでは、片方の隙を探っている時に、もう片方が唐突に「歴史から消え去った生き物」から「歴史上の生き物」へと還来してきてしまうのだ。

 一方の真昼はといえば。力の波動を操作して反撃する、ということが出来ない状態にあった。なぜかといえば、真昼の注意は、二人のグレイ、六輪の衛星、この八つの向け先だけで精一杯だったからである。そう、実は、現時点の真昼は、六輪の衛星を自分自身の力で作動させていたのだ。

 なぜかといえば、六輪一路が展開されている現在においても、リチャードは、アサルトライフルで弾丸を撃ち込んでいたのだが。そのようにして、始祖家のノスフェラトゥの身体能力、瞬発力だとか反応力だとか、そういった能力によって撃ち込まれている弾丸を、さすがに、自動追尾のようなシステムによって、その全てを防ぐことは出来ないからである。どうしても真昼が自ら防がなくてはいけない状況にあるのだ。じゃあ殺意の刃でかっこよく指示してたのにはなんの意味があったんですか?

 真昼は。

 今。

 本当に。

 ぎりぎりの防戦を。

 強いられて、いる。

 というか、そもそもの話として……なぜ、グレイは二人であるのか? なぜ、唐突に一人増えたのか? 最初から二人いたのだろうか。双子であったのか。信じられないほど非人道的かつ信じられないほど珍妙滑稽な実験によって二人に分裂してしまったのか。つまりはそういうことなのだろうか。そして、一人を、最後の最後の秘密兵器として秘匿しておいたのだろうか。

 いや、そう考えるよりも……「機関」によって、またもや歴史を書き換えたと考える方が合理的だろう。最初から二人いたというのならば、そのような戦力を、全力で立ち向かうべきデニーとの闘いで投入しないというのは不合理なことである。要するに、グレイは一人であったのだが二人であったことにしたということだ。そうした方が、真昼との戦いに、有利だからだ。

 不可能ではない。「機関」は、グレイの範囲内であれば、グレイに都合良くグレイを変えることが出来るのだから。それが出来るなら何でも出来るだろうと思われるかもしれないが、そう、その通り、何でも出来る。

 何でも出来る。

 何でも出来る。

 ということは。

 つまり。

 増加人数は。

 二人に限らない。

 と、ここまで真昼が思考を巡らせた時に。真昼は、思わず「しまっ……!」と声を上げた。右から来た爪撃、左から来た爪撃、その同時の攻撃を、殺意の刃の薙ぎ払うような回転によって同時に捌き切ることが出来た、まさにその瞬間に。背後に、三つ目の気配を感じたからだ。

 脊柱の真上。腰の関節を逆に叩き折られるかのような、惨絶な蹴撃を食らう。「があっ……!」という、悲鳴というよりも、肉体に与えられた衝撃のせいで肺の中の空気が爆発したとでもいうような叫び方をして叫ぶ真昼。

 そのまま真昼は、またもや蹴鞠か何かのように吹っ飛んだ。景気よく空間を突っ切って、それから、大地の上、水切り石か何かのように跳ねていく。

 激突に激突を重ねていく、その激突のタイミングで、なんとか力の波動をクッションのように展開している。そうして、ダメージを最小限に抑えようとしているのだが……だが、そちらに意識を向けているせいで、どうやら、他の部分に注意を向けるための意識がお留守になっていたようだ。

 ようやく勢いが収まってきた、その瞬間に。真昼は、自分の肉体が飛ばされていくその方向に、ぞっとするような気配を感じた。ああ、これは、そうだ、間違いない。四人目のグレイだ。待ち受けていた四人目のグレイが、またしても、真昼を蹴り飛ばす。真昼は別の方向に吹っ飛んでいく。

 今度は……頭を蹴られた。頭蓋骨の中で、脳髄が、シェイク、シェイク、シェイクする。一瞬意識が飛ぶ、自分が叫喚したのか叫喚していないのかさえ分からないほどの衝撃を受ける。いつの間にか、真昼の肉体は、またしても大地に激突する瞬間で。しかしながら、意識を取り戻したその時には既に遅過ぎた。濡れ雑巾が床の上に叩きつけられるかのようにして、全身を地の上に叩きつけられて、またしても意識を失う。そして、意識を取り戻した時にはまたもや激突の直前であって……あまりにも無慈悲なことであるが、真昼は、何度も、何度も、それを繰り返す。

 ようやく、じゃらじゃら、ずずざざー、とでもいうみたいにして。その五体の全部を引き摺るみたいにして、大地の上に投げ出された状態。夜刀岩との摩擦によって運動の維持から抜け出すことが出来た真昼は、なんというか、もう、襤褸屑みたいになってしまっていた。

 全身のいたるところ、すり傷、皮膚が破れてその下の肉が露出している。いや、それどころか、その肉さえも大雑把に削り取られている。べたべたと流れ出す血液に、じゃりじゃりと砕けた岩が絡み付いている。熱い、熱い、黴菌に侵食されているのか、傷口が熱を持ち始めている。

 腕の骨が折れ、足の骨が折れ、その他の名前も知らないような幾つも幾つもの骨が折れている。特にきついのが骨盤で、どうも奇妙な砕け方をしているらしく、立とうとすると、月並みな比喩であるが、まるで雷に打たれたような痛みが脳天から爪先にかけて走る。足首は変な方向に曲がっている。指は、中指、親指、根本がべこりと陥没してしまっている。

 背骨は、なんとか折れずに済んだようだ。ただ、どう考えても罅が入っている。背骨の真ん中に向かって、奇妙に冷たい感覚が、次第に次第に、浸潤していくようだ。これが全体を侵食してしまったら明らかに不味いということだけは分かるのだが、さりとて、それがどうすれば解決するのかということはまるで分らない。脊柱の神経が痺れて、痒い、痒い。

 それから、頭蓋骨。ごくごく僅かであるが、そこここが陥没している。割れた皿のように脳味噌を抉っていないのはどう考えても奇跡である。

 肋骨も、まあ、まあ、当然のように折れているのだが。その折れた先が刺さっちゃいけないところに刺さっているらしく、さっきから、息も出来ないほどの体内の激痛。例えば、金属製の針の塊を飲み込んでしまって、その針の塊が、外側からのリモートコントロールでめちゃめちゃに暴れ回っているみたいだ。ごぼごぼと、肉体の内側で、何か漏れてはいけないものが漏れている。それは液体で、胸の中に詰まって、真昼は、「が……が……」と喉の奥で溺れてしまう。

 そのうち、ごげぼっごぼごぼっ、みたいな音を立てて、もう咳なんだかなんなんだか分からなくなってしまっている音を立てて、口から血反吐の塊を吐き出した。そこそこの大きさで拳くらいはあるだろう。どろどろと固まりかけているその塊は、岩盤の上に落ちると、べちゃりと気持ち悪い音を立てて赤く広がった。

 げえお、げえお、と必死で息をしようとする。喉の奥は紙鑢でざりざりと削られているみたいだ。吸い込んだ息、胸の中で、まるで燃え盛っているかのように熱く熱く感じる。そして胸が動くたびに折れた肋骨が内臓を抉る。総合的に勘案すると、呼吸なんてしない方が体にいいのではないかと思ってしまうくらいだ。

 それでも、まあ、なんとかかんとか、息を吸って、息を吐いて。それから、今まで俯せのままで地面の上に転がっていたのだけれど……右手に掴んだままの殺意の刃、どずっと岩盤の上に突き立てて。左手、折れた指、捻じ曲がった手首、激痛に構うことなく岩盤について。そして、上半身を、引き摺り起こす。

 と。

 ぐらぐらと揺れて。

 ちかちかと光って。

 醜く霞んだ。

 視界。

 ずっと。

 ずっと。

 向こうの方に。

 全く同じ。

 グレイの。

 身体が。

 四つ。

 真昼のこと、を。

 見下ろしていて。

 いうまでもなく、眩暈を起こしてしまっているために、本来は一つしかないグレイの姿が四つに見えているわけではなく、本当にグレイが四人いるのである。

 そして、その四人が四人とも、襲い掛かってくるというようなこともなく、真昼のこと、ただただ見つめているだけ、様子を窺っているだけだった。遠くも近くもない距離。殺意の刃の間合いの外ではあるが、いざとなれば飛び掛かって抑え込むことが出来る距離。大体、五ダブルキュビトのところ。

 リチャードの攻撃も停止していた。だから六輪はふわふわと手持無沙汰そうに浮かんでいるだけだ。リチャードもグレイも、真昼を一時的に無力化出来たと判断したのだろう。まあ、そう考えるのも無理もないことだ。このようなダメージを負った人間は、普通はもう戦闘を行なうことなど出来ない。

 真昼が。

 起き上がろう、と。

 しているのを見て。

 四人のグレイのうちの一人が。

 一歩、真昼の方に、踏み出す。

「もう、いい。もう立とうとするな。」

 真昼が。

 血反吐に。

 濡れた声。

 こう答える。

「あ? なんだって? 何ほざいてんだよ。」

「お前は十分に戦った。デナム・フーツも誇りに思っているだろう。ここで私達に降伏したとしても、お前は何一つ恥じることはない。相手が悪かった。相手が悪過ぎたのだ。予め言っておく。ここでまた立ったとしても、お前には勝ち目がない。お前は私達に勝つことが出来ない。それに……ホワイト・ローズが、お前に対して何度も何度も言ったことだが、私達はお前を殺すつもりはない。だから、お前には、立つ意味も、立つ必要も、そのどちらもない。もう、休め。もう、休むんだ。」

 グレイは、そう言い終わると。

 真昼の反応を待つかのように。

 そっと、口を閉じた。

 さて、一方で、そう言われた真昼はといえば。その言葉を、まるで聞いちゃいなかった。いや、聞いてはいたが、はいそうですかとご拝聴する気なんてさらっさらにないらしかった。

 岩盤にぶっ刺した殺意の刃、縋りつくようにして、右の手のひらだけではなく左の手のひらでも掴む「ははははっ! 甘い、甘い、甘ったりぃな!」まずは、左脚、膝を立てるみたいにして、どんっと、足の裏、スニーカーの底、地面に叩きつける「まあるで、犬っころの甘露煮みてぇだ」それから、右脚、こちらも、引き摺り上げるみたいにして引き摺り上げる「なあ? おい? もしかして、お前の目には、あたしが、か弱いお姫様にでも見えてんのか?」両方の腕、ほとんど死に物狂いの有様で殺意の刃にしがみ付いて、両方の脚、激痛、激痛、激痛に痙攣するかのようにして立ち上がる「残念だったな、それは間違いだぜ」生きている、生きている、真昼は、まだ、生きている、真昼には、それで十分だった、戦い続ける理由は、それで、全然、充分であった「ははははっ! どうしようもないくらい、致命的な間違いだ!」。

 そして。

 それから。

 真昼の。

 仮面は。

 あたかも。

 逆髪の。

 姫君の。

 ように。

 こう。

 言う。

「天癩。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る