第三部パラダイス #61

 それから、真昼の仮面は、そっと目を閉じた。耳を傾けているのだ。リチャードが、その問い掛けに対して答えるはずの答えに。だが、しかし、その答えは一向に訪れない。真昼の仮面は、訝しげに目を開く。そして、ああ、なるほど、という顔をする。それは答えられないだろう、答えられるわけがない。なぜなら、リチャードの口の中は、花びらで一杯だったからだ。

 まあ正確に言えばノソスパシーがあるので答えようと思えば答えられるのだが。それはそれとして、「はははっ! それじゃあ答えらんねぇよなぁ」と言いながら、真昼は、右手の中指、指先で、リチャードの唇を撫でていく。右側の端から、上の唇を左側へと撫でていって。今度は左側の端から、下の唇を右側へと撫でていく「まあまあ、そんな顔すんなよ」「焦んな、焦んな、ちょっと待てって」「今、取ってやるからな」「母親が自殺しちまった小娘みてぇに、ぎゃあぎゃあとうるさく泣き喚くんじゃねぇぞ」。

 それから、そっと、唇から指先を離すと。その指先を、リチャードの口の中に、ぐうっと突っ込んだ。それどころか、人差指と薬指と、一緒に口の中に突っ込んで。そうして、口の中に入っている花びらを引き摺り出していく。

 ずるり、ずるり、唾液交じりの花びらを、掻き出して、掻き出して、掻き出して。そうして、ようやく、後は、口の中にへばりついた数枚だけという状態になる。当たり前の話だが、ノスフェラトゥの唾液と人間の唾液とは全く違う成分で出来ている。それは生命を溶かす唾液である。

 その後……真昼は、暫くの間、憂鬱なほど妖艶な顔をして、三本の指で、リチャードの口の中を蹂躙していた。特に、右と左と、淫靡なほどに鋭く尖った吸痕牙を、なめらかな世界の断層を撫でるようにして撫でていたが。やがて、満足したのか、三本とも、それらの指を引き抜いた。

 さてさて、よくもまあ、リチャードはそれらの指を食いちぎらなかったものである。まあ、とはいえ、指の二本や三本や、食いちぎったところで今更どうにもならないことくらい、高等知的生命体でなくても分かり切ったことであるが。それにしても、リチャードの性格からいって、驚異的なほどの自制心である。

 それに、口から桜の轡が掻き出された後、その直後に、真昼に痛罵を浴びせ掛けなかったということも驚くべきことだ。リチャードは、そのまま、ただ、ただ、黙りこくったままで真昼を睨み付けていた。それは……どちらかといえば、あまりの屈辱のせいで、声を出すことさえ出来ないほどに臓物が煮えくり返っているとでもいうような表情だった。

 しかし。

 やがて。

 リチャードは。

「雨の音が。」

 あたかも。

 腐った。

 内臓を。

 吐き出すかのように。

「雨の音が少しうるせぇな。」

 こう。

 口を。

 開く。

「話をするには、邪魔だ。」

 確かに、言われてみればその通りだった。アンチ・ラベナイトの雨はずっとずっと降り続けている。それが、戦場にあるあらゆるものを、といっても、この戦場には、岩盤以外に打つべきものなどほとんどないのだが、とにかく、そのようにして岩盤を打つ音は、あたかも、虫、虫、虫、の、羽音のように、煩わしいノイズであり続けている。

 真昼は、軽く首を傾げた。それから、また、耳を澄ませているような顔をした。暫くの間、静かに、静かに、何も言葉を発することのないままに、音を聞いていたのだが。唐突に、コッと舌を鳴らした。

 そのクリック・スペルによって、その瞬間に、雨は止んだ。雨止みは、あまりにもなんの前触れもなく、あまりにもいきなりのことであったため、その瞬間以外の全ては丸ごと嘘でしかなく、ちょっとした冗談であったとでもいうかのようだった。真昼が、目を開いて、こう言う「これでいいか?」「ああ、まあな」。

 傘を、捨てよう。

 雨が止んだから。

 リチャードも馬鹿ではないので理解していた。もし、ここで、真昼の隙を突こうとライフェルド・ガンを作り出しても。それは即座にアンチ・ラベナイトによって無効化されるだろうということを。もう少し正確にいうのであれば、瞬間的に作り出せる程度の大きさ、ハンドガン程度のライフェルド・ガンならば、無効化される前に一撃くらいは真昼に撃ち込むことが出来るかもしれない。ただ今の真昼はその程度の銃砲による一撃だけでは無力化することは出来ない。一方で、真昼を一撃で無力化出来るほどのライフェルド・ガンを作り出そうとすれば、やはりそれなりの時間がかかる。そして、その時間のうちにアンチ・ラベナイトによって無効化されるだろう。

 だからリチャードは無駄なことはしなかった。いや、というか、それ以前の話として、そもそも、そのようなことをする必要はないのだ。リチャードは、あとほんの僅か時間を稼げばいいだけなのだ。なぜならもう少し、もう少しで……いや、まだだ。そのことについて触れるのは、まだ早い。

 とにかく。

 リチャードは。

 口を開いて。

 真昼に。

 向かって。

 こう言う。

「さて、俺は捕まったわけだ。」

「そうだな、その通りだ。」

「それで、お前は俺を殺すつもりってわけだな。」

「ああ、まあ、そういうことになるな。」

「そうか、なるほどな。」

 リチャードは、少し考えるような素振りをしてから「絶望的な状況だな」と付け加える。それから、はーっと、深く深く溜め息をつく。ところでノスフェラトゥが溜め息をつく姿を見ると……なんとなく、奇妙に滑稽であるような、そんな姿であるように思えてくる。以前も書いたことだが、そもそもの話としてノスフェラトゥには呼吸など必要ないのだ。あくまでもコミュニケーションのためにそのような挙措をなすのである。偽龍のそれと同じように、その溜め息には身体性が欠如している。いや、それどころではない。偽龍には、少なくとも呼吸の必要性はあるのだから。ノスフェラトゥの溜め息は、なんとなく、子供騙しのような、偽物の芝居じみたところがある。

 リチャードは、花鬼によって、両脚の下腿部を押し付けられるみたいにして、大地に膝を突かされた姿勢のままで。目の前に立ち塞がっている真昼のこと、まるで見下ろすようにして見上げた。それから、ぎーっと、さも不愉快そうに吸痕牙を剥き出しにしながら。リチャードは真昼に向かってこう言う「まあまあってとこだな」「さっきの質問の答えだよ」「てめぇの「おもてなし」が、まあまあだったってことだ」「少なくとも、意外性はあったぜ」。

 特に「おもてなし」の部分に挑発的なまでの辛辣さを込めてそう言ったリチャードの方、真昼は、軽く、上半身を傾けて。それから、まるで、リチャードの首筋に甘く甘く噛み跡でもつけようとしているかのように、その唇を、そっと、耳元に近付ける。それから、吐息を吹きかけるかのような甘やかさで、こう言う「それは良かった、リチャード・グロスター・サード」。

 すっと身を引いて、上半身をもとの姿勢に戻す。その後で、真昼は軽く首を傾げて見せた。唇の先に、そっと、右手、人差指、第一関節、側面部分、を押し当てて。軽く視線を揺らめかせながら、とてもとてもわざとらしく、おままごとのような口調でこう言う「いや……そうだな、お前はリチャード・グロスター・サードと呼ばれることを好んでいなかった」。傾げた首のままで、ちらとリチャードの方に視線を向けて。自分の人差指をちろちろと舐めるかのように、また口を開く「なあ、そうだったよな? ハッピー、ハッピー、ハッピートリガー」。

 真昼ちゃん、そんなキャラだったっけ? それはそれとして、そのような真昼の言葉に、リチャードは、ぎらぎらと、悪意によって燃え盛るような眼球のままで。それでも口元だけはにやりと笑わせて言う「はははっ! 気を使ってくれてんのか? 嬉しいよ、あんまりに嬉しくって泣けてくるぜ」。

 「ただ、とはいえだ」リチャードは続ける「今となっちゃ、名前なんてどうでもいいさ。もう全部終わった後で、何をどうしたって手遅れなんだからな」。

 そんなリチャードに対して、真昼は、そっと、人差指を唇から離した「おやおや、高等知的生命体の台詞とは思えない台詞だな、ハッピートリガー」。傾けていた首ももとに戻して、そうしてから続ける「あたし達にとっては、名前は重要なものだろう? 名前は、とても、とても、重要なものだ。あたし達のような生き物は、名前によって生き、名前によって死ぬ。名前によって地獄に突き落とされ、そして、結局のところ、そういった全てのことは、名前によって作り出された物語の中の出来事であるに過ぎない。あたし達のような生き物は、素敵な素敵な物語の主人公になるわけだ……誰かから、そう呼ばれた名前によって」。

 リチャードは、少し考えてからこう答える「ああ、分かる、分かる、てめぇの言っていることはよく分かるよ」。それから、リチャードは、笑う、声を出すことなく、ただただ口の形を笑わせる「とはいえだ、てめぇだって分かってんだろ? 重要なのは、名前自体じゃねぇってことぐらいは。名前自体はただの名前だよ。あるいは、ただの物語だ。重要なのは、誰にその名前を呼ばれるかだ。現実が、てめぇに、てめぇの物語が終わったってことを知らせにくるその瞬間にな」。

 「現実、現実、現実……はははは、その通りだ、全くお前の言う通りだよ、ハッピートリガー。あたし達は、いつだって、決して呼ばれることがない名前に過ぎない。決して呼ばれることがない名前のままで、誰かから呼ばれることを待っている名前であるに過ぎない」「俺の名前を呼ぶのは俺だけだ。俺の名前は俺によってしか呼ばれることはない。そして、俺は、俺の名前を呼ぶことがない。なぜって? 理由はあるさ、色々とな。ただ、それはどうでもいいんだ。俺は俺によって俺の名前を呼ばれることを待っている。それがこの世界における俺の契約になるはずの、その瞬間を待っている。しかし、その瞬間は訪れない。俺は俺の名前を呼ばないからだ。俺は、ほかならぬ俺自身が俺の名前を呼ばなければいけないということを知っているのにも拘わらず、しかも、その上で、俺の名前を呼ばないからだ」「あたしが勘違いしているのでなければいいのに。あたしが正しいことをしているのであればいいのに。あたしの、本当の名前を、呼んでくれる誰かが現われればいいのに。しかし本当の名前とはなんだ? 本当の名前とは、あたし達が決して思い付かない名前だ。あたしの口では決して発音出来ない名前。あたしよりも、ずっとずっと高等な、絶対的な全能性を有している誰かしか、その名前を思い付くどころか、呼ぶことさえも出来ないような名前。あたしは名前を持っている。しかし、それはあたしのための名前ではない」「俺達の名前は、要するに、秘密だ。そして、虚構だ。完全なフィクションとしての秘め事であるということが俺達の名前だ。だから、俺達は、基本的に、他人の名前として一つの生命であることによってのみ可能になる。ただ、いうまでもなく、それは不可能としての可能だ。そうだろう? 砂流原真昼。つまり、てめぇは不可能性だ」。

 リチャードの、その言葉を聞くと……真昼の仮面は、満足そうに笑った。口の全体が、その顔の全体を真っ二つに引き裂いてしまうかもしれないと思わせるような笑い方で。そして、こう言う「もちろんだ、もちろんだよ、ハッピートリガー」。それから、こう続ける「つまりだ……あたしは、あたしが救われることが、あたしが砂流原真昼という名前であるからということを否定するほど傲慢ではない。それに、あたしは、お前が救われないということが、お前がリチャード・グロスター・サードという名前であるからということを否定するほど不寛容ではない」。

 二人はあたかもじゃれ合う二匹の獣のようにして会話していた。あるいは、互いに互いの毛繕いをしながら、そのうちに喉笛を噛み切ってしまおうとしているかのようにして。それは戯れであったが、とはいえ、例えるならば、四辺を剃刀によって薄く削いだ一揃いのカードでカードゲームをしているような戯れであった。一枚一枚、そのカードを相手の手のうちから奪い取ろうとするたびに、相手の手のひらも自分の手のひらも傷だらけになっていく。

 欲望も。

 苦痛も。

 結局は。

 テーブルの上の。

 カードに。

 描かれた。

 偶像。

 「とはいえだ、ハッピートリガー」真昼は、そう言いながら、両方の手のひら、自分のすぐ目の前でぱっと開いてみせた「現実……そうだ、今は、お前がそう言った通り、現実について話そうじゃないか。残酷な、残酷な、現実について」。真昼は、開いた手のひら、軽やかに傾けて。それから、両の手のひらでリチャードのことを指し示すようなポーズをしてから続ける「今、お前は、たかが人間によって跪かされている。下等知的生命体の中の下等知的生命体。知的生命体と呼べるような生き物の中でも、最も脆弱で、最も醜悪な、最底辺の生き物によって跪かされている。要するに、ハッピートリガー、それが現実だ。どうだ? ハッピートリガー、屈辱の味は。惨めであるということは、哀れであるということは、どういう気持ちだ? あたしには分からないよ、ここまでの汚辱をその身に受けながら、まだ生きていなければならない生き物の気持ちというやつが。ふふ……ふふふふっ、ははははははははっ! さあ、どうだ、ハッピートリガー? 無残だな、あまりにも無残だ。いや、もしかして、まだまだ足りないかもしれないな。お前にとって、今という位置でさえ、適切ではないかもしれない。お前は、まだまだ、絶対的な底辺に落ちていくべきなのかもしれない。どうだ? どう思う? ハッピートリガー? ふむ、そうだな……取り敢えず、あたしの足を舐めてみるか?」。

 突然めちゃめちゃなことを言い始めてびっくりしてしまったが、とはいえ、真昼は、その言葉をただ単に無力な言葉として発したというわけではない。真昼には、今、力がある。その言葉を現実化するだけの力が。

 真昼は、右の人差指を真っ直ぐに立てて。それから、その指先を、軽く、リチャードのことを拘束している花鬼達に向かって振ってみせた。すると、その合図を合図として、花鬼達が、リチャードのことを、後ろから圧迫し始める。

 具体的には、リチャードの背後にいた花鬼達が、強く強くリチャードの上半身を押して、それを傾け始めたのだ。無理やりにリチャードは体を俯かされる。そして、いうまでもなく、俯いた先には真昼の足先が差し出されている。

 リチャードは、そのような、自分の扱いに対して。さすがに冷静の感覚でいることは出来なかったらしい。「てめぇ、何しやが……おい! 何しやがんだ! やめろ! やめろ! やめろっつってんだろ!」と叫ぶ。

 もちろん、花鬼達はやめる素振りを見せない。リチャードは「がああああああああああああああああっ!」と力の限り絶叫しながら、自分の内側に残っているセミフォルテアを、一気に爆発させるかのようにして、自分の背後に向かって放出した。凄まじいほどの神の力が、リチャードの背を押していた、花鬼を、花鬼を、花鬼を、悉く焼き尽くす。

 当然であるが、そのことによってリチャードが自由になるということはない。花鬼は、未だに、数百鬼が残っているからだ、数鬼を焼き尽くしたところでまだまだ代わりはいくらでもいる。ただ、とはいえ……その次に、リチャードの背後を拘束した花鬼達は。もう、その背中を押すことはしなかった。

 リチャードは、今の爆発のせいで自分自身にもかなりダメージを受けてしまったようだ。そのような苦痛から、また、それ以前に、屈辱から。その顔を、ぞっとするような蒼白によって青ざめさせて、リチャードは、ぎりぎりと、歯を噛み締めた。リチャードは、睨み付けるようにして真昼を見上げた。

 一方の真昼は、まるで他愛もない悪戯をしてみせたばかりの子供のようにしてけらけらと笑っていた。本当の、本当に、きらきらと輝くような笑い方で笑いながら、リチャードに言う「冗談だ、冗談」。それから、はーっと一息ついて、こう続ける「ちょっとした冗談だよ。そんなに怒るな」。

 いや、マジでどうしたの、真昼ちゃん? 普通、こんなことは頭がおかしい人しかしないよ? と、思ってしまうような真昼の行動であったが。まあ、よくよく考えてみると今の真昼は頭がおかしい人だからな。別に奇妙なことは何一つないのだった、むしろ狂人としては非常に正常な行動といってもいいだろう。

 ただ、とはいえ、その行動が論理的に正当であろうとなかろうと、こういった狂人の気まぐれに付き合わされてしまった方としてはたまったものではないのであって。リチャードが、怒り、憎しみ、冷めやらぬ顔をしているのも、やはり、これもまた実にもっともな話なのである。

 リチャードは、そのような顔をしたままで、一度、口を開く。それから、大きく大きく息を吸い込む。このようにして息を吸い込んだのは、それを咆哮として発するためであってコミュニケーション上の演技というわけではなかったが。ただ、リチャードは、何かを言おうとしたままで、ぱくぱくと口を開いたり閉じたりすることしか出来なかった。あまりにも瞋恚が大き過ぎて、言葉としようとする言葉がまともに整除されないのだ。リチャードは、暫くの間、何も言えないままでいて。やがて、はっ、と、吸い込んだ息を勢いよく吐き出しただけで終わった。

 もう一度、口を開く。今度は発声器官いっぱいに息を吸い込むような真似をしなかった。必要な分だけ呼吸を摂取して。それから、言葉する「人間?」憎悪のあまり震える声で「人間だと?」。そして、一呼吸おいてから続ける「言っただろ、てめぇは、もう人間じゃねぇんだよ。いつまでも人間のツラしてんじゃねぇよ」吐き捨てるように吐き捨てる。

 その後で、リチャードは……しかしながらリチャードは告発者であるということが出来るのだろうか? サタン、サタン、サーターン。それは、裁きの場において相対して立つ者を意味する単語だ。今、ここは、裁きの場である。とはいえ、重要なのは、その裁きは最後の審判が終わった後の裁きであるということである。既にあらゆる裁きが終わった後の裁き。罪も、罰も、許しも、それどころか救いさえも終わってしまった後で裁かれるべき裁き。それは、つまるところ、裁きそのものに対する裁きである。従って、この裁きには裁く者さえいない。裁く者はその座から退いた。崇高な正義の法律の座は空っぽだ。完全な法律とは、法律を逸脱した全ての生命を、その法律上、そもそも生命ではなかったものとして排除することによって、自らが全知全能であることを保証する全知全能の原理のことである。今、そのような原理はその効力を失った。ダルマはダルマであることを、もう、とっくに、やめたのだ……ここには一切のダルマがない。そして、ここには、ただただ告発と弁護とだけがある。告発者と弁護人と、二つの星だけが相対している。

 裁きではない裁き。

 ああ。

 結局。

 渇望してるのだ。

 震える。

 震える。

 震えるほどに。

 メテオールを。

 リチャードは、また口を開いた。真昼に対する燃え盛るような疾悪の感情のままに、唾棄するみたいにして言う。「なあ、砂流原真昼」「死ぬ前にな……てめぇに殺されちまう前に……てめぇに、一つ、聞きてぇことがあるんだよ」。

 リチャードは。

 完全に。

 制裁を。

 欠いた。

 キュリオンの。

 ように。

 言う。

「てめぇは、今、言ったよな? てめぇは主人公だと。この世界の全てが丸ごと出来の悪いクソみてぇな小説だったとして、てめぇは、その物語の、主人公だと。しかしだ、なあ、砂流原真昼。主人公ってのはヒーローであるはずだろ? あくまでも俺の理解ではって話だがな。物語の中で、主人公ってのは、正義の味方であるはずじゃねぇのかよ。悪いやつを倒して、弱いやつを救って、それで、この世界をめでたしめでたしで終わらせるやつのことを主人公っていうんじゃねぇのかよ。

「それに……それに、だ。砂流原真昼。俺は、てめぇについて、色々なことを聞いてきた。てめぇの家族関係、てめぇの交友関係、てめぇの孤独について。てめぇが生まれてから今の今までの、他人が知りうる限りのあらゆる情報を頭ん中に入れてきた。それによれば、てめぇは、てめぇが砂流原一族の一員であるということを恥じていたんじゃねぇのかよ。てめぇが、SKILL兵器を、スペキエース殺戮のために開発され製造される兵器を、作って、売り捌いてる一族に生まれたということを恥じていたんじゃねぇのかよ。

「てめぇは罪を償いたかったんだろ? てめぇは罪を許されたかったんだろ? なあ、砂流原であるという罪を、お前は憎んでいたんだろ? だから、てめぇは善人であろうとしていた。てめぇが生まれてきたのは、てめぇが砂流原の一族に生まれたとしても、そういった血の桎梏から、てめぇの意志、てめぇの責任、てめぇの、自分自身の、力で、解き放たれることが出来ることを証明するためだって。なあ、てめぇはそう思ってたんじゃねぇのかよ。

「だから、てめぇは、月光国にいたころ、スペキエース解放運動に参加したんだろ? てめぇは、てめぇの父親に、ディープネットでした全てのこと、全ての悪事悪行を告白させるために、狂言誘拐まで仕組んだ。もちろん、それは失敗したわけだが……てめぇは、それくらい、善であろうとした、善人であろうとした。てめぇは、てめぇがそれを犯すということを決めつけられた罪から自由になるために、本当の自分自身になるために生きてたんだろ。

「それが、なあ、見てみろよ。てめぇ自身の目で、今のてめぇ自身を見てみろよ。てめぇは……悪魔じゃねぇか。人間をやめた悪魔じゃねぇかよ。なあ、おい、てめぇのどこがヒーローだ? てめぇのどこが正義の味方なんだよ。

「何度でも何度でも言ってやるよ。てめぇが、そいつのために、てめぇの命まで懸けて復讐をしようとしている男。その男は、デナム・フーツは、悪なんだよ。デナム・フーツは、あらゆる悪の中の悪、絶対悪だ。自分の家族を皆殺しにした。自分の王国の、その国民を皆殺しにした。幾つも幾つもの戦争に参加して、全ての戦争で、あらゆる種類の生き物を虐殺した。そして、今は、世界最悪のギャングの幹部だ。てめぇが、今まで、あれほどまでに忌み嫌ってきたSKILL兵器を世界中に売り飛ばしてるギャングの幹部だ。なあ、砂流原真昼。デナム・フーツは、魔王だ。てめぇが生きてきたその生命を懸けて憎悪してきた悪の象徴なんだよ。

「砂流原真昼、砂流原真昼……なあ、一体どうしちまったんだ? てめぇはどうしちまったんだよ。てめぇは、あれほど、悪を憎んでいたはずだっただろ? あれほど、世界でなされている悪に怒りを抱いていたはずだろ? てめぇはヒーローになるんじゃなかったのかよ。てめぇは、悪を倒す正義の味方になるんじゃなかったのかよ。今の自分を見てみろ。てめぇは、悪になっちまった。てめぇは、今、てめぇが最も嫌悪していた悪そのものになっちまった。なあ、砂流原真昼。それでいいのか? お前は、本当に、それでいいのかよ。」

 さて。

 そのような。

 告発に。

 対して。

 弁護人は。

 真昼は、暫くの間、ただただ黙っていた。黙ったままでリチャードのことを見下ろしていた。けれども、やがて、ふっと笑った。その笑い方は、欠片の悪意も感じさせないものだった。右の手のひらと左の手のひらと、口を塞ごうとしているみたいにして、そっと、口元に押し当てて。可愛らしい子供のように、くすくすと笑っていた。そうして、やがて、そのような手のひらを口から離して。その代わりに、自分の身体の全部を抱きかかえるみたいにして、大きな大きな声を上げて笑い始めた。「あはっ! あははははははははははははははははっ!」という風に。底抜けに明るく、絶対的に無邪気に、穢れの一つも知らない清らかなインファンティアのようにして笑い始めた。

 ユースティティウム。法律の停止。要するに、物語が終わってしまった後の世界。そのような場所で笑うとはどういうことか? それは、つまり、生まれたばかりの幼児が笑う、その笑いと同じ笑いだということだ。幼児が笑うということは、幼児が泣くということとは全く別の意味がある。

 そもそも幼児はなぜ笑うのか? 知的生命体はなぜ笑うのか? その最初の最初の笑いは、一体、いかにして定義されるのか? もちろん、いうまでもなく、それは他者によって定義される。知的生命体は決して自ら笑うことはない。知的生命体が笑うのは常に他者の笑いだ。ドゥクトゥス。

 真昼は。

 まるで。

 その心臓が。

 とくん。

 とくん。

 と。

 真昼の。

 根源的な。

 生命力を。

 巡らせる。

 その音のように。

 笑って。

 真昼は、笑って、笑って、笑って。ようやく、その発作的なエゴ・リーデオーが収まってきたようだった。笑う前から、ずっと、ずっと、だらだらと流し続けている涙。それを、まるで、笑い過ぎて出てきてしまった涙であるかのようにして、手の甲で拭うような素振りをしてみせる。

 「はーあ」と、気が抜けたような溜め息をつく。その後で、真昼は……するり、と、自分の上半身を傾けた。リチャードが跪いているその方に向かって。右の、手の、中指の先、に、よって。燃えるような、凍るような、刺し貫き抉り出すような視線で真昼のことを見ているリチャードの顎。くっと軽く持ち上げる。

 睨視する。

 二つの。

 眼球を。

 まともに。

 覗き込む。

 そして。

 それから。

 真昼は。

 リチャードに。

 向かって。

「踊ろうか、ハッピートリガー。」

 うっとりと。

 こう、言う。

「なあ、踊ろうぜ。」

 ケイドー、ケイドー。落ちていく、滅びていく、戦いによって殺されて、二度と立ち上がることがない者のためのパッセージ。カデンツァ、これは作者によるものではなく、登場人物による、真昼による、絢爛な即興曲。だから、私は手を洗おう。水を取り、読者の皆さん、あなた方の目の前でこの手を洗おう。これは私によって書かれたものではない。始まりから終わりまで、この舞踏は、私によって書かれた舞踏ではない。

 狂。

 狂。

 回れ。

 死体の。

 上の。

 蛆虫よ。

 真昼は、ぱっと、リチャードの顎から指先を離した。真昼は、愛らしい子供のような顔をして、にぱっと笑うと。その右の手のひらを、リチャードを拘束している花鬼、花鬼、花鬼に向かって、ひらひらと蝶々が羽搏くようにしてひらめかせてみせた。その真昼の動作を一つの拍子として。花鬼達は、無理やりにリチャードのことを引き摺り起こした。

 真昼は何かに耳を澄ますかのようにして目をつぶっている。誰にも聞こえない音楽、真昼以外の誰にも聞こえない音楽に耳を澄ませているかのようにして。やがて……真昼の……身体の……全てが……些喚き始める。美しく、美しく、限りなく透き通っていく性の絶頂であるかのようにして震え始める。

 真昼は、ゆらゆらと首を動かし始める。まるでその音楽に合わせているかのように。真昼は、そっと両手を広げて、痙攣するように震えている、人差指と、中指と、それらの指を、ゆっくりゆっくりと、指揮を執っているかのように、動かし始める。もちろん真昼は指揮など執ることは出来ない。指揮を執る教育なんて受けていない。でたらめだ、でたらめに動かしているだけだ。しかしながら、そのようなでたらめは、真昼にとっては、それ以外に正しいものがあり得ない正しさであった。

 舞台の下で奏でられる音楽とはいかなる音楽か? 劇場の外で演じられる舞踏とはいかなる舞踏か? 物語とは全く関係のない場所で、キャラクターは何をしているのだろうか。めでたしめでたしで終わった物語の後の世界で、お姫様は幸せになることが出来たのだろうか。

 夢から覚めた赤い龍が歌を歌っているんだ。海の底で、星の光が届かない海の底で。心臓の鼓動に合わせて赤い龍が歌を歌っている。そして、真昼はその歌に耳を澄ませている。アデュー、アデュー、さようなら。真昼は散華のような笑みを浮かべながら耳を澄ませている。

 ああ。

 つまり。

 これは。

 花鎮めのパルタイ。

 真昼は、ふるりと目を開いた。それから、指揮を執るようにして動かしていた両方の手のひらをリチャードに向かって差し出した。あくまでも淑女の趣きによって。砂流原の令嬢に、まさに相応しい挙措によって。臈長けて、分を弁えた、そのように清楚な誘惑に対して。リチャードは、ぎりっと歯噛みをした。

 差し出された手に向かって唾を吐きかける。ただ、真昼は、気にすることがなかった。絶対的な強者が、なぜこの程度のことに怒りを覚えなければいけないのだろうか? リチャードの生命は、今、真昼の手のひらの上を転がっているのだ。籠の中の蝙蝠に威嚇されたからといって怯えるような愚か者はいない。

 真昼は、軽く首を傾げてみせる。その後で、ちらりと、リチャードを拘束している花鬼に視線を向ける。右腕を掴んでいる花鬼、左腕を掴んでいる花鬼。リチャードの抵抗を完全に無視して、否応なしにそれらの両手を動かす。ぎりぎりと、凄まじい強制力によって、それらの両手を真昼に向かって、一つの蹂躙であるかのようにして、差し出させる。

 真昼は、満足げに、にーっと笑うと。その両手を、右の手のひらで左の手のひらを、左の手のひらで右の手のひらを、手に手を取ってみせた。

 ラ、ラ、ラ、ルー。ル、リ、リ、ラ、ラ、ルー。ル、リ、エー。ル、リ、エー。どこから聞こえてくるのかも誰が歌っているのかも分からない歌が聞こえてきている。ラ、ラ、ラ、ルー。ル、リ、ラ、ラ、ルー。ル、リ、エー。ル、リ、エー。真昼は、その歌を、繰り返すみたいにして、何も考えないままにただただ繰り返しているみたいにして、口ずさんでいる。

 そして。

 それから。

 この三巻の物語。

 ただ今もって。

 皆尽き果てて。

 あたしも。

 お前も。

 花の骸も。

 弥勒のクソに。

 成り果てぬ。

 融通無碍の踊り念仏。そう、真昼は踊り始めた。リチャードと、まるで鏡合わせの双子の兄妹のように手を結び合って。たった一つの身体のようにして踊り始めた。

 地獄の底にまで落ちてきたのだ。二人は、同じように、全く同様に、誰からも愛されることなく、誰からも救われることなく、落ちて、落ちて、落ちてきて。そして、今、この地獄の底で出会ったのだ。

 花が……花が咲いている。この場所の外側の世界から、物語の登場人物から、物語の読者から、この場所を覆い隠そうとしているかのように。枝垂れ桜。その一枚一枚が地獄で死んでいった亡霊の姿だ。

 無数の花鬼が。数百の、千にも至りそうな数の花鬼が。踊っている二人の周囲で、まるで二人のことを祝福しているかのようにして、揺れている、揺れている、身じろいでいる。繚乱と姦しく、腐敗したように、甘い、甘い、葬礼の花束のような匂いを撒き散らしながら。やはり、踊っているのだ。メイン・ダンサーである二人ともに。エクストラ・ダンサー。賤民、熱狂、暴動、爛縵と花狂いの狂い咲いた花の爆発みたいにして踊っているのだ。

 簫々と、羽搏きは、風を巻き起こす。花を散らし、花を舞い上がらせ、花の嵐を巻き起こすつむじ風のような風を。そして、花鬼は、そのような響きの中に花びらを落としていく。

 ああ、なんて美しい光景だろう。希望が、絶望が、憎悪が、愛執が、瞋恚が、嫌悪が、それに、狂おしいほどの渇望が。ありとあらゆる業の穢れが、花びらとなって散っていく。

 この花の下に、一体、幾つの死体が埋まっているのだろう。一体、幾つの、もう生命ではなくなってしまった生命が埋まっているのだろう。しかし、真昼も、リチャードも、そのようなことは気にしなかった。気にする必要があるだろうか? ああ、だって、こんなにも美しいのだから。地獄の底は、こんなにも晴れやかに美しいのだから。

 一瞬が、一瞬が、今という一瞬が、今、まさに、絶対になっていく。真昼は、リチャードは、その一瞬だけを生きている。生も、死も、あり得ない。憎しみも愛も消えてなくなった。ここには何もない、何もないのだ。ただ、全てのものが弥勒によって咀嚼され、消化され、そして排泄物として吐き捨てられたこの場所で踊っている二匹の獣以外には。

 獣の歌を歌っている。真昼は、あの時、あの夜に、教えて貰った獣の歌を歌っている。あの饗宴の只中で、狂乱したように、二匹の獣、と、して、馬鹿みたいな大声で笑っていた、あの獣の歌を歌っている。

 あのワルツを踊っている。幸せな子供のワルツを。この世界が何もかも焼き尽くされていくような、その瞬間のワルツを。夜の王、この世の全ての邪悪。ああ、パンピュリア・ワルツだ。一人では踊れない。

 一人じゃ踊れねぇんだ。だからさぁ、一緒に踊ってくれよ。真昼は、リチャードと、一番単純なポジションでホールドして。それから、一番単純なステップを踏んでいる。花の衣を纏うように、リチャードは、あらゆる身体の箇所を花鬼によって固定されて。そうして、真昼の腰に手を回し、自分の手のひらと真昼の手のひらとを組み合わせている。

 ああ、そんでもって、ワルツァン。回転している。二人は、まるで、馬鹿んなっちまったみたいに。くるくるくるり、くるりくるくる。何度も何度も回転している。どっちがどっちを振り回しているのか。それさえ分かんなくなっちまうくらい、ぐるんぐるんと互いのことをぶん回している。カルーセル、メリー・ゴー・ラウンド。いかにも陽気に、いかにもチアーフルに。ずっとずっと続く、終わりない一瞬を描いている。

 レディ、アンド、ジェントルマン。

 ねえ、騒がしい花を、鎮めなきゃ。

 この花の下に眠っている、あたしの心臓を鎮めなきゃ。足の下の、花を蹴散らして、花を掻き乱して。なんで人間は踊るのか。実は、その問い掛け自体が間違っている。人間は理由があって踊るのではない。踊るために理由があるのだ。人間は踊らなくてはいけない。人間は、今、この時に、いつでも、いつであっても、既に踊っている。踊る理由は、踊っている自分が踊っている、その後にしかあり得ない。真実も、善良も、甘美も、愛情も、解脱も、幸福も、欲望も、苦痛も。あらゆるものは、この身体を踊らせるためにしかあり得ないのだ。その全てが、仮になかったとしても。それでも、人間は、この世界の上で踊っていなければいけない。この巨大な死体の上で踊る蛆虫でなければいけない。そう、だから、踊れ、踊れ、踊るのだ。あたし達は、ねえ、結局、死体の上で踊る蛆虫でしかないんだから。

 真昼は。

 けらけらと。

 無邪気な。

 少女の。

 ように。

 笑いながら。

 歌うように。

 して。

 リチャードに。

 向かって。

 こう叫ぶ。

 「なあ!」「ハッピートリガー!」「聞いてくれ!」「聞いてくれよ!」「あたしは、勘違いしてた!」「あたしは、ずっと、ずっと、勘違いしてたんだ!」「あたしが、この物語の、主人公なんだって!」「あたしは、思ってた!」「あたしは、正義の味方なんだって!」「あたしは、ヒーローなんだって!」「ああ!」「なあ!」「馬鹿みてぇだよな!」「馬鹿みてぇだろ!」「ハッピートリガー!」「それは、勘違いだったんだ!」「完全な、勘違いだったんだ!」「あたしは!」「あたしは!」「悪役だったんだ!」「邪悪な、邪悪な、悪役だったんだ!」「あははっ!」「あははははははははははははははははっ!」「あたしは!」「絶対悪だったんだ!」「邪悪だったんだ!」「この物語の!」「最低の!」「最悪の!」「ヴィランだった!」「そして!」「それが!」「あたしの運命だったんだ!」「あははははははははははははははははっ!」。

 真昼は。

 泣きながら。

 笑っていた。

 まあ、要するにそういうことだった。生命に、最後の最後に残されるものは悪だけなのだ。本当の本当に、今、ここに、あるものは。結局のところ、悪だけなのだ。あらゆるもの、あらゆる素晴らしいもの。生き物が、まさにそのために生きているのだと思えるようなもの。そういった全てのものは、実は、生命にとっては、悪を導き出すためのものであるに過ぎない。そういった全てのもの、生きることの目的であると思えるようなものは、実は、悪の手段なのだ。生命は、正義をなすために生まれてくるのではない。生命とは悪をなすために生まれてくる。生命とは、まさに、悪を行為するその行為のことを指し示す言葉なのだ。

 いや……違う、違うのだ。それさえも、真昼にとっては、既に関係のないことになっていた。そういった、普遍的な原理のようなもの。それは、真昼には関係のないことだった。真昼にとって、それがそうであることは。たった一つだ、たった一つしかない。それは、真昼が悪であるということだ。

 真昼が、真昼という、まさにこの真昼という、具体的な、単独性の、絶対的な絶対性。唯一の、この真昼が、逃れようもなく、否定しようもなく、ただ単に悪であるということ。つまりは、それだけが真昼にとってそうであることだった。

 普遍的な生命の悪などというものが、真昼に、一体、なんの関わりがあるというのか? 真昼にとっては「この悪」だけがあるものだった。それ以外には何もない。真昼にはこれしかない。この胸の中で鼓動している、この心臓しかない。

 あたしは。

 あたしは。

 悪いやつだった。

 全く。

 なんの。

 前触れもなく。

 ただ。

 一つの。

 必然として。

 悪いやつだった。

 ああ、あたしは砂流原の娘。スペキエースをあられもなく虐殺し、その生命の尊厳を踏み躙る砂流原の一族に生まれた女。なあ、ハッピートリガー。相応しいと思わないか? あたしのこの名前は、あたしにとって、これほど相応しい名前もないと思わないか? はははっ、実際、あたしは気に入ってるんだよ、この血に濡れた名前を。この世界で最も穢らわしい、砂流原という名前を。これ以上ないというくらいあたしは気に入っている。

 ああ、そういえば、ハッピートリガー。お前は言ってくれたな。あたしは人間ではないと。あたしは、人間性、人間としての誇り高さ、人間としての繊細な情愛、自由であろうとする意志、責任感、激しい内的な衝動としての希望、偉大なる真実への渇望、共感の力、全く新しいものを作り出す想像力、跳躍する狂気、誰かのために生きること、動物的な荒々しさ、野生的な直観、自立、進歩、あらゆる美徳、あらゆる良心、理性的な歓喜、日常における崇高さ、生活という知恵、真の勇気、真の思慮、卓越した主体性、何かを守ろうとする暴力的なまでの信念、互いに認め合う寛容さ、健全な身体感覚、そういった、全ての、全ての、人間の条件を喪失してしまった生き物であると。

 ハッピートリガー。その通りだ。その通りなんだよ。お前がそう言ってくれた通りだ。あたしは人間ではなかった。あたしが人間だと思っていた生き物、人間はこうでなければいけないと思っていた生き物。もしも、人間がこのように生きないというのであれば、その人間には生きる価値がないと思っていたような、そういう生き方をしている生き物。あたしは、そんな生き物ではなかった。全く反対の生き物だったんだ。はははっ、笑ってしまうほど滑稽な話だろう? あたしは、つまり、怖かった、怖がっていったんだ。あたしが本来そうであるところの生き物に、あたしがなってしまうことを。あたしがそのような生き物に滑り落ちていってしまうことを。あたしは恐れていた。

 もちろん、いうまでもなく、あたしはそのような生き物になってしまったのだが。なぜならば、そのような生き物になることが必然だったからだ。それがあたしの運命だったからだ。ハッピートリガー、ハッピートリガー、なあ、お前にいいことを教えてやろうか。誰も彼もが勘違いしていることだがな。邪悪の対義語は、実は正義ではない。あたしのような生き物にとっては、正義もまた邪悪なのだ。いや、いや、勘違いしないで欲しい。これは、正義も観点によっては邪悪になる、ある状況における正義が別の状況においては邪悪になる、そういった、わざわざでかい声を出してあちらこちらに怒鳴って回るまでもない当たり前の話をしているわけではない。そうではなく……正しいことをしているあたしが、どのような状況においても正しいことをして、それを完全に正しいと、誰もがそう考えていようと。あたしだけではなく、誰もが、誰もが、それを指差して正しいと言っていようと。あたしは、やはり、悪をなしてしまったのだ。なあ、ハッピートリガー。誰もが勘違いしている。あたしにとって、あたしのような生き物にとって、悪に対義語はあり得ない。なぜなら、あたしは悪だからだ。

 ハッピートリガー。

 そういえば。

 お前は。

 こうも。

 言ってくれたな。

 あたしは……あたしは……デナム・フーツの部下であると。ああ……ハッピートリガー……お前の……甘美な……甘言は……なんと陶酔的な快感をもたらす阿諛であることか! それは抒情詩であるのかと思うほどあたしのことを甘く甘く誘う諂媚だ。あたしが、デナム・フーツの部下であることが出来るのであれば、それはどれほど素晴らしいことだろうか。それは、どれほど、美しい、美しい、夢幻の楽園であるだろうか。

 しかし、しかし、ああ、あたしはそれがあり得ないことであることを知っている。なぜならデナム・フーツは死んでしまったからだ。あたしは、結局、楽園を見つけることが出来なかった。楽園の住人になることが出来なかった。つまりここは現実の世界だったのだ。デナム・フーツは死んだ。デナム・フーツは死ぬべきだったから死んだ。デナム・フーツはもうこの世界にいない。あたしは、デナム・フーツの部下にはなれない。

 ああ、結局、デナム・フーツがあたしの運命だったのだ。デナム・フーツだけがあたしの運命だった。デナム・フーツは、あたしの心臓だった。あたしは心臓がなくなったまま生きている。空っぽの胸の中で生きている。ハッピートリガー……つまり、そういうことだ。世界は回る、世界は回っている。デナム・フーツがいないのに。それなら、あたしとお前がくるくると馬鹿みたいに回転してはいけない理由なんてどこにある?

 はははっ! ハッピートリガー! 安心しろ。今、ここにいる、このあたしは。今の、ここにいる、このお前は。作者によって書かれた物語ではない。作者は、今、あたしとお前と、二人のことを書いてはいない。なぜなら、あの作者は、今、手を洗いに行っているからだ。この物語を書いている途中に、意地汚く手掴みで食べていたチョコレート。べたべたに汚れてしまった手のひらを、洗面台に洗いに行っているからだ。

 今、ここには、あたし達しかいない。あたしと、お前と、二人しかいない。作者でさえあたし達のことを見ていないのだ、だから、安心しろ、ハッピートリガー。安心して踊ろうじゃねぇか。母親が、父親が、眠っているうちに。あたし達は、目が覚めた子供達みたいなもんなんだ。いつか夜が明けることなんて分かってる、そうすれば、あらゆる朝が、あらゆる光が、目覚めてくるなんてことは分かってる。でも、今は夜だ、夜の世界だ。あたし達、子供のための世界なんだ。だから、踊ろう、踊ろう、踊ろうぜ! この物語が帰ってくるまで。手を洗い終わって、帰ってくるまで。子供部屋でベッドシーツをかぶって踊る子供みたいに踊ろうぜ!

 ワンダフル・フルムーン! まさしく美しい夜の獣の瞳のようだ。パルタイ、パルタイ、これはパーティ。このダンスには始まりもなければ終わりもない。あたしとあんた、あんたとあたし。あんたとあんた。あたしとあたし。わけ分かんなくなっちゃった。夢だもの。ダンスをしよう、輪になって。二人しかいないけど、くるくる回って。ああ、花びらが、運命の削り屑みたいに落ちてくる。きらきらと降り続く満天の星々みたいにして落ちてくる。あたしがステップを踏むと花びらが舞い上がり、あたしがくるりと回ると花びらが舞い上がる。天使達が羽根を撒き散らしてるんだ。ねえ、あたし達の周りで天使達が羽搏いて、花びらで出来た綺麗な羽根を撒き散らしてるんだよ。天使、天使、数え切れないほどの天使達の真ん中で。フルムーンが陰る、また輝く、陰る、また輝く、舞い散る花びらが辺りに舞い散る。ねえ、踊ろう。夢だもの。

 ラ。

 ラ。

 ラ。

 ルー。

 ル。

 リ。

 リ。

 ラ。

 ラ。

 ルー。

 ル。

 リ。

 エー。

 ル。

 リ。

 エー。

 そうして。

 二人は。

 まるで。

 この世界で。

 一番。

 美しかったはずのものを。

 飼い主によって。

 剥奪された。

 二匹の

 飼い猫の。

 ようにして。

 美しい。

 花の。

 闇の。

 夢の。

 中で。

 何度も。

 何度も。

 くるくると。

 ダンスする。

 そうして……どれくらいの時間が過ぎ去っただろう。永遠であったかもしれないし、一瞬であったかもしれないし、その間のどこかの時間の地点であったのかもしれない。とにかく、作者が、つまり私が、手を洗っていたその間だけ。手についてしまったチョコレートを洗い流していた、その時間の間だけ。二人は、私という普遍性によって書かれたわけではないダンス。この世に顕われたものも顕われなかったものも、一切のものをご覧になり、そしてその何ものもお忘れにならないあの方だけのために踊られたダンスを踊っていたのだ。

 ただし、そのワルツも終わる時が来た。くるり、と、何度目か分からないターンをしてみせた後。何度も何度も、リチャードの身体を、軽やかに弄んでいた、その最後のターンをしてみせた後。真昼は、とんっとステップを踏んで、そのステップでそのワルツを終わらせた。

 ぱっと、リチャードから手を放す。手と手と、繋がり合っていたその手を離して。縫合のように腰を抱いていたその手を離して。そうして、とんっとんっと、飛び跳ねるみたいにして、二歩、くらい、の、距離。リチャードから距離をとった。

 そして、ワルツの残響、柔らかく身体を蝕んでいる余韻を噛み砕くかのようにして、くるりと、一度、回転してみせると。それから、ワルツのパートナーに向かって一礼するみたいにして、優雅な、優美な、手つき、で、ぱちんと指を弾いた。

 その刹那。今までリチャードを柔らかく包み込んで、無理矢理に、強いて、優しい強制として踊らせていた花鬼、花鬼、花鬼が。膝を叩き折るかのようにして、背中を叩き潰すかのようにして、暴力的に、また、リチャードの身体を跪かせた。

 とにもかくにも。

 パーティーは。

 終わったというわけだ。

 その蜜月の関係性は。

 終わって。

 いないに。

 しても。

 ところで……二人は、少しばかり、遠い遠いところまで移動してきたようだった。その身体性が、何回も、何回も、ジロトンドのフィギュアを描いているうちに。二次元上に描かれた幾何学的なカール・ラインは、もともといたところから、それなりに離れたところまでラインを伸ばしていたようだった。

 さて、ここはどこだろうか。リチャードが、連れてこられた、そして、また、跪かされた、ここという場所はどこだろうか。まあ、まあ、とはいえ、さっきいたところとそれほど代わり映えのする光景ということではないのだ。いうまでもなく結界の外側に出てきてしまったわけでもあるまいし。とはいえ、少し、周囲に、違いがないというわけではない。

 それは……星座。さっきまで二人がいたところにはそのようなものはなかった、きらきらと光る残骸、砕けてばらばらになって、地上に降り注いできた星の欠片のように美しい、破壊された多重性が、あちらこちらに、落ちて、落ちて、落ちて、突き刺さっていたということだ。

 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ。そのようにして、九つの星が、九つの星であるままに、重なり合って九重の星となったかのようなその星。傲慢なる暴力によって粉々に打ち砕かれて、そうして墜落してきた星座。ああ、つまり、それはアポルオン。

 この場所はアポルオンが落ちてきた場所。大いなる、大いなる、災いの場所。いや、それどころか、二人がいるところは、そのような星座の中心地点であった。星と星とを繋いだその図形の真ん真ん中。テオログーメナのための位置。いや、回りくどいいい方はよそう。要するに、何をいっているのかといえば、その場所は、まさに、引き裂かれた魔王の形をしたものが落ちているその場所であったということだ。

 ああ。

 ここは。

 デナム。

 フーツ。

 の。

 死体が。

 落ちて。

 いる。

 その。

 場所。

 位置関係を示そう。まず、リチャードが花鬼によって跪かされている。その目の前、具体的には一ダブルキュビトほど先の地点に真昼が立っている。それに、それから、そのような真昼の背後。まるで、そのような真昼のことを背後から祝福する、聖なる、聖なる、携挙の姿であるかのように。五ダブルキュビトほど離れたところに、デナム・フーツの死体が落ちている。

 つまるところ、真昼は、デナム・フーツの死体に、それが成し遂げられる決定的瞬間を、リチャードに対して復讐を果たす素晴らしい瞬間を、見せるために、リチャードをここまで連れてきたということだった。

 真昼は……ちらと振り返った。自分の背後に落ちている、そのデナム・フーツの死体。まるで、決して誰にも打ち明けることが出来ない秘密を。主とダニエルとの間にあって、それ以外のいかなる場所にもあり得ない、絶対的な秘密のような秘密を。打ち明けようとしているみたいに、視線を向ける。

 しかし、真昼は、もちろん一言も言葉を言葉しない。口を開こうとすることさえしない。そんな必要はないからだ。主がダニエルについて完全に知っているように。ダニエルが主について何一つ知ることが出来ないように。何かを言葉する必要はないのだ。なぜなら、デニーは、真昼の奇跡なのだから。

 サクロ・サンクトゥス。自らの記号的形象によってさえ、自らの普遍性によってさえ、そこに踏み込むことが出来ないほどの王国。そう、この場所は、王国だ。二人しかいない王国。魔王と、そして、あたしと、二人しかいない王国。

 ある日……ある日、あたしは木陰で休んでいる。満開になった桜の木に寄り掛かって、その下に座って、うとうとしている。麗らかな春の一日。昼下がりの、風が一番気持ちいい時間。さらさらと桜の花びらがあたしに降ってくる。

 その時。魔王はあたしを試みてこう言う。真昼ちゃん、真昼ちゃん。なに? そこにいる? 見れば分かるだろ。ねえ、真昼ちゃん。だからなんだよ。真昼ちゃん自身を。真昼ちゃんが愛している、たった一つだけの生命である真昼ちゃん自身を。地獄の底の底まで連れていって。そして、デニーちゃんが示す場所で、真昼ちゃん自身を、デニーちゃんに、燔祭として捧げて。

 分かった。

 そうする。

 真昼は、デナム・フーツの死体が落ちているその方向に振り返っていた視線を、振り返る前に見ていた方向に戻した。つまり目の前のリチャードに戻した。リチャードは、事ここに至っても、これほどまでに追い詰められた状況においても。未だ、その顔に、薄汚い野良犬のようにふてぶてしい表情を浮かべていた。嘲笑っているのか、憎悪のために顔を引き攣らせているのか、そのどちらともいえない、口の端を歪めた表情。

 そのまま、その口を開く。吐き捨てるみたいにして、真昼に向かって言う「ははははっ! なるほど、なるほど。そういうことか。てめぇのマジェスティに、処刑の様子をご照覧頂こうってわけだな」。そして、今度は、明白に、蔑みのニュアンスを滲ませて。ぎいっと両方の吸痕牙を見せつけるような顔をしてから続ける「全く、忠実なことだな」。肩を竦めて、更に、続ける。「まるで忠実な飼い犬みてぇに忠実なことだ」。

 しかしながら、そのように辛辣な目眩くような負け犬の遠吠えは、真昼の耳には届いていなかったし、あるいは届いていたとしても、爽やかな早朝の酸性雨のような雑音に過ぎなかったのである。透徹したクラッパー。クラップ、クラップ、ユア、ハンズ。遠い、遠い、笑えるほど遠いところで降っている雨の音を、聞くともなく聞かないともなく聞き流している。そういうことだ。何もかもが透明に消えていく。

 その代わりに、つまり、リチャードの言葉に耳を傾ける代わりに。真昼は、そっと、リチャードに向かって、その手のひらを差し出した。まるで、人と人とが分かり合おうとするかのように。人と人とが、互いを認め合って、全くの信頼に到達しようとしているかのように。あるいは、それを完全に逆転させたかのような素晴らしい愛の欠片として、真昼は手のひらを差し出した。

 それは左の手のひらだった。真昼は右利きのはずであったが? しかし、真昼は、それでも左の手のひらを差し出した。気高く、気高く、気高いほどに美しい孔雀のように、左の手のひらを、差し出した。

 いや、差し出したというよりも……体の前に上げて、それを真っ直ぐに保った。そう表現した方が正しいだろう。その動作は、あたかも一つの意志の力の表象であるようだった。その動作は、あたかも一つの信念の力の表象であるようだった。

 ただ、それにも拘わらず、真昼のそれは抵抗ではなかった。抵抗でなければいけなかった。けれども、抵抗であるべきではなかったからだ。真昼は、それを、一つの、絶対的な……絶対的な……準備として。燔祭の準備として、それをなした。

 真昼は。

 つまり。

 ライフルを。

 構えた。

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