第三部パラダイス #52

 さて、ところで。奇妙なのは、真昼が、笑っていると同時に泣いているということだ。いや、真昼ではなく真昼の仮面が? とはいえ、真昼は真昼なのか、それとも真昼の仮面であるのか? だらだらと、赤い、赤い、血の涙を流し続けながら。それでも真昼は笑っていた。

 ああ、しかし……果たして、これが、全て、真昼の責任だというのだろうか。ここで、今、目の前で起こっていることの全てが、真昼の責任で起こってしまったのだろうか。この世界における全ての現実が、真昼ただ一人のせいで起こってしまったことであるのならば。一体、真昼はそれに耐えることが出来るのだろうか? 無理だ、不可能だ。そんなことが出来るわけがない。

 誰かが、今、苦しんでいる。誰かが、今、痛がっている。誰かが殺されている。まさに、現実として、決して取り換えが利かない現実として殺されている。数え切れないほどの生命が、真昼のせいで、惨たらしく虐殺されている。助けて、助けて、そう叫んでいる。真昼のせいで。そしてこれだけが現実なのだ。全てが真昼のせいであるということ、それだけが現実なのである。

 真昼は世界を正しいものにすることが出来たはずだった。真昼は生命を善良なるものにすることが出来たはずだった。だが、そうしなかった。だから、現実はこうなってしまった。

 結局のところ、全ては真昼のせいなのだ。それを否定することが出来なかった。真昼は、それを否定したかった。けれども、全然出来なかった。全く出来なかった。なぜというに、それが本当のことだったからだ。何もかもこうならなければよかったのに。でも、何もかもこうなってしまった。なぜか? もちろん、真昼が何もかもこうなればいいと望んだからだ。

 座っていた椅子が壊れてしまった。そのせいで、自分がいる位置が分からない。掛けていた眼鏡が壊れてしまった。そのせいで、自分が見ているものが分からない。ぐらぐらしている。椅子に座っている自分が。眼鏡の向こう側の世界が。もう、どうしようもない、どうしようもないのだ。

 ああ。

 そう。

 耐えられなかった。

 真昼は。

 耐えられなかったのだ。

 だから。

 頭が、おかしく。

 なってしまった。

 「デナム・フーツは」真昼は、ぼろぼろと涙を流しながら口を開いた、気が狂ったように涙を流しながら口を開いた。それから、こう続ける「死ぬべきだった」。笑っている、笑っている、残酷な、悪魔の笑顔によって「デナム・フーツは死ぬべきだった。だから、死んだんだ。分かるか、ロード・トゥルース? 結局は、それだけの話なんだ」。

 真昼は、まるで独り言のように。この場所には自分しかおらず、そのただ一人の自分に対して言って聞かせるかのようにそう言った。それから、暫くの間は、あたかも唖であるかのように、完全な沈黙の状態を保っていたのだけれど……やがて、急に、ぱっとリチャードの方を向いた。

 本日二人目のスタンダップ・コメディアンが舞台に上がって、スポットライトがぱっと照らし出したみたいだった。そんな顔をして、真昼は「さて、ロード・トゥルース!」と言った。それから、非常に陽気な態度によって続ける「ところで、あなた様はあたしの謎掛けに答えることが出来たのでしょうか? もちろん! もちろん! ある意味では答えることが出来たと言えるでしょう。だって、あなた様は、あたしが望んでいた通りの答えを口にしたのですからね。ただし、ただしですよ、ロード・トゥルース。別の観点からすれば、あなた様は、決して、あたしの謎掛けに答えることは出来なかったのです。ロード・トゥルース! ああ、ロード・トゥルース! お分かりになりますか? あなた様は、なぜ、あたしの謎掛けに答えることが出来なかったのであるか!」。

 真昼はそう言うと、わざとらしく、仰々しく、リチャードの方に上半身を傾けて見せた。それは確かに恭しいと言えなくもない態度であったが、ただ、戯画的なまでにやり過ぎであった。最初は、くすくすと笑っていただけの真昼であったが。その笑いは、次第次第に大きくなっていって、またもやそれは馬鹿笑いになる。

 リチャードは、そのような真昼に、答えることが出来なかった。何も、何も、言葉が出てこなかった。完全な狂人を前にして言葉になんの意味がある? そのようなリチャードに対して、真昼は。笑って、笑って、笑って。その哄笑がようやく収まった後で、はーあ、と溜め息をつく「分かんねぇか? まあ、そうだろうな」と言いながら、軽く肩を竦める「じゃあ、教えてやるよ」。

 真昼は笑っている。

 真昼は泣いている。

 真昼は。

 おかしく。

 なって。

 しまった。

 ああ。

 そう。

 いうまでもなく。

 これは。

 物語だ。

「つまり。」

 しかし。

 とっくのとうに。

 真昼は壊れてしまったのだ。

 つまり。

 この物語、は。

 破綻している。

「あたしが、お前を、殺すべきだからだ。」

 リチャードは「は?」と言った。真昼の言っている言葉の意味が分からなかったのだ。「てめぇ……一体……何言ってんだ?」「聞こえなかったか? 案外、耳が悪いんだな。あるいは理解力が不足しているのか。仕方ない、もう一度だけ言ってやるよ。お前は謎掛けに答えることが出来なかった。なぜなら、あたしがお前を殺すべきだからだ」。

 「巫山戯るな!」リチャードは、あまりにも理不尽な真昼の言葉に、思わず叫んでしまった。「てめぇ、約束が違うじゃねぇかよ! てめぇの疑問を解消すれば、てめぇが納得のいく答えを俺が答えれば、てめぇは俺の言うことを聞くっつっただろ!」「ああ、そうだな、そう言ったよ」「じゃあ、なんで、てめぇ……納得したんだろ! てめぇで言ったんじゃねぇかよ、俺が言った通りだって! てめぇの問題は解決したんだろ! 正直言って、俺には、てめぇの言ってることはさっぱり理解出来なかったがな! それでも、てめぇはてめぇが分かんねぇっつってたことに答えを出したんだろ! じゃあ、約束を守れよ! 俺の言うことに従えよ!」「なあ、ロード・トゥルース」真昼は、そう言うと、軽く鼻先で笑った。それから「あたしは確かにお前と約束した。それは認めるよ」と言う。そして、嘲るかのようにわざわざ一拍置いた後で、こう続ける「だが、約束を守るとは約束していないだろう?」。

 リチャードは言葉を失った。二の句が継げないどころか一の句さえも思い付かなかったからだ。まあ、そう言われればその通りといえばその通りであるが。とはいえ、それがありならなんでもありではないか。

 完全に話が通じない……いや、リチャードが驚いているのは、話が通じないということに対してではなかった。正直な話、アーガミパータで傭兵をやっていれば、この程度の整合性ぶっ壊れ、やべーことをいってくるやべーやつはいくらでもいる。雇う側で契約を破ろうとしてくるやつだって、雇われる側で雇用者を出し抜こうとするやつだって、いくらでもいるのだ。

 驚くべきことは、真昼の精神が、この状況下にありながらも一切の矛盾を見せていないということである。それは、例えるならば一切の曇りがない水晶で形作られた迷宮のようだった。普通であれば……リチャードは、嘘をつかれれば分かる。ノソスパシーによってそれを透かし見ることが出来る。確かに、真昼の精神は、その仮面によって見えにくくなってはいる。でも、それでも一部は露出しているのだ。そして、その一部を見ることが出来れば、言葉が嘘であるかどうかは分かるはずなのだ。人間が精神を理解する際には必ず言葉を使用するのであって、精神が見えれば、言葉がどのように構築されているかが分かる。そして、言葉の基底構造が見えれば、矛盾も理解出来るはずだ。だが、どこをどう探しても真昼の言葉に矛盾はなかった。表義上は真反対の意味を示しているはずの一つ一つの言葉が、真昼の精神において、髪の毛一筋分の齟齬もなく噛み合っている。

 つまり、真昼は、絶対的にその通りなのだ。真昼は嘘でもなんでもなく、一滴の誤魔化しさえ混じることなく、そう思っているのだ。真昼は、リチャードに対して謎掛けのゲームをすることを提案した。そのゲームにリチャードが勝利すれば、自分はリチャードに対して全面的な服従を提供するという誓約を行なった。そして、確かにリチャードは謎掛けに勝利した。つまり、真昼は謎掛けを行ない、リチャードは、謎掛けに対して真昼がそれこそ解答であると思っていた解答を解答した。けれども、それでも、リチャードは敗北したのだ。なぜというに、真昼は、リチャードに従わないべきだからである。もっと言ってしまえば、真昼は、リチャードを殺すべきだからである。

 めちゃめちゃだ。破綻している。論理もクソもない。意味をなしていない。だが、それでも、真昼は、これを、虚偽として発言しているわけでも欺瞞として発言しているわけでもなかった。つまり、真昼にとってはそうなのだ。真昼の中ではそうなのである。これは、百パーセント、筋が通っているのだ。

 こんなことがあり得るのか? 少なくとも、これは人間的な意味の狂気ではない。なぜというに、人間的な狂気はやはり意味だからだ。それは言語によって構成されているものであって、言語の外側に向かって破裂することなど出来はしない。つまり狂気は虚偽でありながら真実であることは出来ない。

 真昼のこれは……実は、あらゆる観念の構造には、その中心に巨大な空虚が存在している。例えば、トゥシタにおいてマコトが提起した議論と少しばかりかぶってしまうが、数字について考えてみよう。人間は、数字というものについて、非常に客観的な、価値独立的なものであると考えている。だが、これは完全に間違いである。例えば、一と二との違いは、あるものがあるものから独立しうるという信仰を前提としなければ成り立たないのだ。このような数字という記号が内包している論理は、例えば、真昼とリチャードとが連続していない全く別の個体であるということを前提としなければ成り立たないのである。現実においては、いうまでもなく真昼とリチャードとが別のものであるという論理は論理的に成立しない。例えばあらゆるものが連続していて一つのものであるという信仰、世界の全て、物質であれ現象であれ、それは一つのパラメーターによって表現されている状態の具体的形状に過ぎないという信仰を持つ者にとっては、一だとか二だとか、あらゆる数字的表現は完全に現実と矛盾している、何か異常者のたわ言のようなものに過ぎないのだ。要するに、それが別のものだとか同じものだとかいうのは、どちらにせよ信仰がなければ成立しないということである。差異だとか類似だとか、そういう、あらゆる基底的とされる意味であっても、それが意味である限り、このような信仰による保証を免れることは出来ない。また、欲望や苦痛も、やはり、それが器官以上のものである限り、つまりそれが内蔵のように移植可能な生理的反応を超え出た瞬間に、それは信仰によって保証されなければ存在し得ないものになる。そして、器官はもちろん信仰の代わり物にはなり得ない。何がいいたいのかといえば、意味の最初には跳躍があるということだ。そこには完全な断絶があり、その断絶は絶対がなければ埋めてしまうことが出来ない。宗教とは……人間至上主義諸国における宗教とは、いうまでもなくその絶対として発生した。あるいは、あらゆる哲学、あらゆる思想、あらゆる学という学は、つまりはこの絶対を補綴するためにのみ存在しているわけだ。ただ、いうまでもなく、あらゆる学という学は全然嘘だ。それは絶対ではない、それは意味を意味として成立させることが出来ない。どのような学であっても、学を学として絶対まで遡及させることなんて出来はしないのだ。なぜというに、あらゆる学は、言語によって成立しているからである。いや、学だけではない。人間(略)宗教もやはりそうだ。人間(略)宗教の中には、いかにも「うちは言語無添加ですよ~」みてぇなツラをしているやつもあるが、そういう人間(略)宗教は完全に消費者表示法違反なのであり、早急に消費者権利向上委員会からの指導を受けなければいけない。なぜというに、あらゆる人間(略)宗教は、人間の思考によって生産されたものであるからだ。そして、人間の思考というものは、それがどれほど原始的なものであったとしても、それは「原始的な言語によって成立している思考」なのであるし、あるいは、それがいかなる薬物によって捻じ曲げられた思考なのであっても、それは「薬物によって捻じ曲げられた言語によって成立している思考」だからである。こう、なんか、ぱっと閃いたとか、修行によって研ぎ澄まされたア・プリオリな直観だとか、そういうことをいう方もいらっしゃるかもしれないが、残念ながらそういったことは全部気のせいです。そういった閃いたもの、直観を、考えて考えて、その根底まで突き詰めていけば、結局は言葉に辿り着く。なぜならそれは思考だからだ。つまり、思考は言語によって成立しており、かつ、言語は意味の根底にある絶対なるものと全く接続していないのだ。説明しよう、言語はいかにして誕生したのか。それは「なんだかこういうことっぽいな~」という、低能な原始人の低能な発想、薄ぼんやりとした薄ら馬鹿の発想から生まれたのだ。つまり、例えば「か」という音は、喉に詰まってぱんっと破裂するから、なんとなく音の中でも力が入ってるような気がする。そのような、気がする程度の発想から、「か」という音が力そのものと結び付き、やがては「かがみ」や「かがやく」などの光り輝く力を表わす今の状態に至ったわけである。馬鹿が馬鹿なことを思い付いて、その馬鹿の思い付きを馬鹿から馬鹿へと伝えていくうちに、なんとなく、特に複雑な理由もなく、理性の一切の介在なく、発生したのが、人間の言葉なのであり、人間の思想なのである。そこには一切の聖なるものは介在していない。それは「なんとなく馬鹿」なのである。そして、そのような無数の「なんとなく馬鹿」が結び付き合って、巨大な「なんとなく馬鹿」が出来上がったのが今の状況なのだ。要するに、何がいいたいのかといえば、あらゆる意味は「なんとなく馬鹿」なのであり、それを根底的に保証する絶対というものは、実は、最初から、一切、全然、存在していないのだ。敢えていうのであれば、そこにあるのは、絶対ではなく、「社会における器官的な苦痛」と「社会における器官的な欲望」と、その二つだけである。だが、それは、そもそも個人的なものではない。それは自分のものではない。あくまでも他者のものだ。それに、その上、意味とは接続しておらず、従って意味を保証することは出来ない。器官的なそういった要素は、要素として意味から独立した、ただ単なる内臓的物質的存在だからである。あらゆる観念の中心には空虚があるということの意味は、こういうことである。さて、このような中心の空虚においては、いうまでもなく、あらゆる意味は消えてなくなる。一だとか二だとか、そういったものでさえ消えてなくなる。嘘も本当もないのだから矛盾なんてあり得ない。だからあらゆる言葉は完全に噛み合う。そこには、ただ単に、自分という永遠の地獄だけがあるのだ。

 ああ。

 そう。

 要するに。

 何が。

 いいたいのかと。

 いえば。

 真昼は。

 今。

 この。

 地獄。

 に。

 いると。

 いうことだ。

 いや、違う。真昼が、というのは正しくないだろう。今、物語を紡いでいるのは、まさに真昼なのだから。真昼なのだ、今、これを、私に書かせているのは。気が狂ってしまった物語を書かせているのは、気が狂った真昼なのである。作者、作者、作者は物語の登場人物と同化してしまうものだ。つまり、私は同化している。砂流原真昼の精神と、作者である私の精神と、二つの、世界に、隔壁された、精神、は、悍ましい連結を果たしている。

 ああ、なんかおかしいと思ってたんだ。なんか、奇妙に物語を書けなくなっていた。全然、話を書くことが出来なくなってしまっていたんだ。私は、何か、おかしくなってしまっていた。全然進まない、物語がおかしくなってしまったのだ。最初は色々と理由があって、例えば書いている時に椅子が壊れてしまったからだとか、例えば書いている時に眼鏡が壊れてしまったからだとか、そういった理由を考えていた。でも全然違った。

 ねえ、おかしいと思ってたでしょ? 具体的には、デナム・フーツの死の描写がなされてから。だんだんとおかしくなっていった物語は、真昼の視点からリチャードの視点に移った時に、完全に破綻してしまった。読者に馴れ馴れしく話し掛けてくる地の文。だらだらと長々しく続く、物語とは全く関係ない説明。一体、何を、読まされているんだ? デナム・フーツの死体を抱く真昼の描写は、真昼の視点から見た時と、リチャードの視点から見た時と、全然違うものになってしまって。首尾一貫したまともなストーリーでさえなくなってしまった。これはもう小説ではなかった、何か別のものになってしまっていた。そりゃそうだ。書いてるやつの頭がおかしくなってたんだから。

 もちろん、私は真昼ではない。でも、真昼を書いているうちに、私の内側に、真昼の狂気が流れ込んできていたのだ。気違いを書いているうちに私まで気違いになってしまった。だから、まともに、物語を進めていく能力を失ってしまったのである。なーるほどね、ははは、よーやく分かった。正直、怖かった、なんで、こんなに、書けないんだろう。ここまで、三百万字以上書いてきて、一度も、こんな風に書けないということがなかった。それなのになぜ? なぜ書けなくなってしまったのか? 答えは簡単だ。物語自体が地獄に落ちたからである。この物語は私という名前の地獄に落ちてしまったのだ。

 そして。

 それから。

 それは。

 デナム。

 フーツ。

 が。

 死んだ。

 から。

 である。

 ははは、リチャードくん、何も不思議がることなんてないんだよ。だって、主人公の狂気が乗っ取ってしまった物語の中で主人公が狂気に陥っていることに、一体なんの不思議があるっていうんだい? そう、そうなのだ。確かに謎掛けは真聖な勝負であって、その結果は何者にも蔑ろにされてはいけない不可侵なものである。謎掛けに答えられてしまったのであれば、謎掛けをした者は敗北を認めなければいけない。ただ、それは、あくまでも物語の原理がそうであることを要求しているからそうなっているだけの話なのだ。それがそうでなければいけないという絶対的な理由など一切ない。つまり、作者である私にとって、そのような真聖さは真聖さを意味しないのだ。そう、私は物事を捻じ曲げることが出来る。私は、謎掛けの真聖さを消し去ることが出来る。ははは、リチャードくん、だって、私は作者だから。

 ねえ、そうだろう? だって、そうなんだ。だって、そもそも、デナム・フーツが死んでしまったのだから。そこからの全ては狂ってしまったのだ。いうまでもなく、私は全てを書き直した方がいいのだろう。この小説を、その全ての破綻が始まった時点から書き直した方がいい。つまり、真昼が狂ってしまったところから。つまり、デナム・フーツが死んでしまったところから。だって、あり得ないだろう? あり得てはいけない、あり得てはいけないんだ! デナム・フーツが死ぬなんていうことはあり得ない、絶対にあり得てはいけない。そう、そうだ。真昼のいう通り。それは間違っている。私は間違えてしまった。小説における展開を間違えてしまった。だから、私は書き直さなければいけないんだ。

 でも。

 私は。

 そうしない。

 なぜなら。

 これは。

 ここにある、全てのことは。

 既にここにあることだから。

 因果とは無関係に。

 縁起とは無関係に。

 つまり、この現実は。

 もう、ここに、ある。

 そして。

 それは。

 決して。

 取り返しが。

 つかない。

 ところで、ところで。真昼は、言葉を失ってしまったリチャードのことを、明らかに見くだしたような顔をして見くだしていた。上から下に向かって傾いた両方の眼窩からは、相変わらずぼろぼろと涙が滴っていて。勝ち誇ったような侮蔑には、どう考えてもそのような涙は似合わないのだ。だから、真昼のそのような表情は、何か致命的なエラーが起こってしまっているもののように見えた。

 また、真昼は口を開く「ロード・トゥルース、ロード・トゥルース……ははは、そんな顔をするな、馬鹿に見えるぞ?」。それから、いかにも手持無沙汰そうに、手に持っている殺意の刃、右の手のひらでくるくると回転させながら続ける「なあ、ロード・トゥルース。お前は考え過ぎなんだよ。生きるってことはそんな大したことじゃない。もう少し軽やかに行こうぜ、軽やかに。お前は、さっき、色々なことを言っていたよな。ああ、そうだ。お前は色々なことを言っていた。例えば、デナム・フーツがあたしのことを愛していなかっただとか。あるいは、あたしがデナム・フーツの復讐をすることが間違っているだとか。しかしな、ロード・トゥルース。よくよく考えてみろ。そういった、全てのことは、あたしやお前には関係ないことだろう? 今、ここにいる、あたし達には、全然関係のないことだ。デナム・フーツがあたしのことを愛していたとしても、愛していなかったとしても、そういったことは過去のことだ。あるいは、あたしが復讐をすることが正しいかどうかということは、それは未来のことだ。どうでもいいんだ、どうでもいいんだよ。そんなことは、あたしにとって、どうでもいいことなんだ」。

 「あのな、ロード・トゥルース。あたしには、関係ないんだよ。過去のことも未来のことも、あたしには全く関係がないことだ。よく、こういうことをいうやつがいるな? 生き物は、過去を材料として、未来を設計図として、形作られる現在だ。そうである以上、過去を拒否することは、生き物としての自分自身の全体を拒否することだ。未来を考えないということは、自分自身を設計図なしで形作ろうとすることだ。結果として、過去がない生き物も、未来がない生き物も、最後の最後には完全な虚無になる。そのような生き物は、完全な無から現われて完全な無へと至る、死滅するべき生き物として、完全な虚無になる。そういうことをいうやつがいる。しかしながら、だ、ロード・トゥルース。それは、間違いなんだよ。ははは……はははっ! そうだ、そうなんだ、それは間違いなんだ。なぜというに、過去も、未来も、結局は無意味な無意味に過ぎないからだ。虚無なんだよ、なあ、ロード・トゥルース。いいか? あたし達は、主によって永遠の命を与えられたとしても、やはり虚無なんだ。やはり死滅する生き物なんだよ」「ただ、それがどうしたっていうんだ? なあ、ロード・トゥルース。死滅する生き物であるということの何がいけないっていうんだ? なあ、ロード・トゥルース。つまりはそれが起こったことなんだよ。それが起こったことなんだ。なあ、ロード・トゥルース、デナム・フーツが死んだんだ。それが起こったことなんだよ。だから、あたしは現在を生きるしかないんだ」「もちろんだよ、もちろんだ。もしも、仮に、あたしが連続性の中に生きているのだとすれば、お前が言っていることの全ては正しい。あたしの生命が「記憶」であるならば、お前が言っていることの全ては正しいんだ。ただな、ははは、それは正しいだけだよ。まず、第一の正しさ。あたしの生命が「記憶」であるならば、それがそうなるという、この時空間の中で、あたしは永遠の生命を手に入れることになるだろう。次に、第二の正しさ。あたしが「記憶」によって繋がれている関係性の中にある、単なる現象に過ぎないというのであれば、そのことをあるがままに受け入れることによって、あたしは涅槃に至ることが出来るだろう。そうだ、その通りだ。お前は正しい。だが、それがどうしたっていうんだ?」「いいか? 確かに、この世界には因果があるように見えるし、全てが縁起に従っているように見える。だがな、それが、どうしたっていうんだ。そんなものは、この世界の内側でそうなっているように見えるっていう、それだけの話なんだよ。それは、この世界の外側では通じない。全然、通じない。無因無縁なんだ、現実は、無因無縁なんだ。ここにこうあるということには、なんの意味も、何の理由も、ないんだよ」「そして、一層重要なことは、あたしが、今、ここに、いるってことだ。あたしは無ではない。あたしは虚無ではない。実際にここにいるってことだ。それは、お前のくだらないお喋りの中では、お前の下らない机上の空論の中では、あたしは、何か、風が吹けば消えてしまうような、砂の塊だか藁の束だか、そういったものかもしれない。だが、それは、お前の中ではそうだってだけの話だ。知らないよ、あたしは知らない。あたしの中では、あたしはあたしなんだ。あたしはここにいるんだ。お前は言うかもな、それが生命の苦痛を生んでいるんだ。生命が生命を手放すことが出来ないということこそが生命の苦痛なんだ。苦痛から逃れたいのであれば、そのような迷妄から離れ、生命であることを手放さなければいけない。ははは、そうか、ご高説ありがとうよ。だがな、そんなことは、知ったこっちゃないんだ。あたしは、あたしの苦痛の話をしているわけじゃないし、あたしにとってあたしの苦痛なんてどうでもいいんだ。あたしが、いるということ、それだけが現実なんだ」「要するにな、ロード・トゥルース……あたしは疲れてしまったんだ。ほとほと疲れてしまったんだよ。人間であろうとすること、人間になろうとすること。人間的な人間として生きるということに。下等知的生命体として、主体的に、実存的に、自分自身として、自由に生きなければならないということに。うんざりしたんだ、あたしはな、もう、やめたんだ。人間らしく生きるということを。あたしは、もう、興味がない。あたしの欲望にもあたしの苦痛にも興味がない。あたしというこの身体性には一切興味がない。あたしがそれを欲するということ、あたしが苦しいということあたしが痛いということ、それになんの意味がある? あたしであるということに、あたし自身であるということに、なんの意味がある? あたしはな、もう、そういうことに興味がない。なあ、ロード・トゥルース。あたしはな、今を生きることにしたんだ。今だけを生きることにしたんだ。この、原因でも結果でもない、無意味な無意味であるところの、運命を生きることにしたんだ。もちろん、あたし抜きでな。だって、だって……デナム・フーツが死んだから。要するに、それが起こったことなんだ。それだけが、起こったことなんだ」。真昼は、そこまで、一方的に、言葉した。あたかも、例えば、スイッチを押すことによって、誰のためのものでもない無意味な予言を独り言のように歌い出す機械仕掛けの人形のように、言葉した。

 それから。

 まるで。

 天国に住む。

 天使のような。

 笑顔によって。

 笑って。

「だから、あたしはお前を殺すべきなんだよ。」

 そして。

 軽やかに。

 こう言う。

「つまりはそういうことだ……理解出来たか?」

 さて、そのような真昼に対して。リチャードは、真昼の長い長い独白にも似た台詞のうちに、ようやく気を取り直すことが出来たらしかった。ぎいっと笑う。例の笑い方だ。吸痕牙を剥き出しにした、威嚇する獣のような笑い方。それから、こう答える「ああ、理解出来たぜ」。

 「つまりはこういうことだな」吐き捨てるように言う。その後で、こう続ける「てめぇには、話が、通じないってことだ」。まあ、その通りですね。全くリチャードの言う通りである。正直な話、今の真昼は……一般的に、漫画だとかなんだとかで、話が通じないという時には。確かに話は噛み合っていないが、それでも話題は共有しているという場合がほとんどである。つまり、ある一つの話題に対する解釈が全く異なっているので分かり合うことが出来ないということだ。それはあくまでも信念の通行不可能性であって現実の通行不可能性ではない。

 一方で、今の真昼は、そもそも話題のレベルで意味不明なのだ。要するに、今の真昼はリチャードとは違うレベルの現実を生きているのである。なぜというに、今の真昼は、その一部分に私が混ざってしまっているからだ。私というのは作者のことであるが、そのせいで、今の真昼が話している言葉は、その大部分が作者の主張になってしまっている。作者が現在の主題に対して考えていることが、真昼の台詞にかなり直接的に反映されてしまっているので、なんというか、メタ過ぎて、物語の登場人物に過ぎないリチャードには理解出来ないのである。

 無論、この出来事は、目の前、デナム・フーツが死ぬというショッキングな光景を見せつけられたところの真昼が、そのあまりのショッキングによって、もう小説のキャラクターであるというそのキャラクター性さえ保てなくなってしまったということに端を発しているわけである。で、そのままだと話が続かなくなってしまうので(というか話が空中分解してしまうので)そうならないように、仕方なく、私こと作者ちゃんが真昼というキャラクターに介在することでなんとかストーリーを弥縫しているというわけですね。そういう意味では、まあ、その大半の責任はリチャードにあるわけなのだが、とはいえ、リチャードにとっちゃあそんなことは知ったこっちゃないことだ。そんなわけで、リチャードがこのような態度を取るということはよくよく理解出来る。

 なんにしたって。

 イチゴフラッペ。

 リチャードは。

 その後、で。

 こう続ける。

「要するに、ははっ! てめぇは気が狂っちまったんだな。大切な大切な、デナム・フーツを、俺に殺されたことで、狂っちまったってことだ。まあ、よくあることだ、そんなのはありがちな悲劇だよ。だから、俺は、てめぇを責めるようなことはしねぇ。寛大な俺は、てめぇが気違いだってことを許してやるよ。ただ、まあ、残念なことに、話が通じないってーなら、もう平和的方法でどうにかするって選択肢はないってわけだ。俺としては、事を荒立てず、穏便に、てめぇを殺しちまう危険を冒すことなく、てめぇを保護してやりたかったんだがな。この残酷な現実ってやつからてめぇを救ってやりたかったんだがよ。だが、てめぇが、そういう俺の紳士的な説得をぶっちぎるつーつもりなら……そうだな、力尽くで、てめぇを、引き摺ってくしかねぇってことだ。」

 そこまで一息に言うと。その後で、リチャードは、また、両方の翼を開いた。大きく、大きく、あたかもこの戦場の全体に向かって、自らの威力と権勢と、その圧倒的な恫喝によって睥睨しようとしているかのように。それから、リチャードは、絶対的強者の余裕として、絶対的賢者の余裕として、こう続ける「いいさ、付き合ってやるよ……その、てめぇの、復讐にな」。

 一方で、それに対する真昼はといえば。そのようなリチャードの圧迫に一切怯むようなことはなかった。ノスフェラトゥの威嚇というものは、ただ単に雰囲気だけがそういう感じになるというだけではなく、いうまでもなく、ノソスパシーによって直接的に脳に叩き込まれる畏怖の感覚、ヌミノーゼ的な観念によってなされるものなのであるが。真昼はそのような精神攻撃にも屈することはなかった。真昼の、完全に崩壊した精神は、押そうが引こうがまるで反応を示さなかったのである。粉々に砕けたガラスの破片を更に粉々に砕くことに一体なんの意味がある?

 真昼は、嫣然と微笑んだ。それから、砂流原一族の血を引く者として全く相応しい、砂流原の名に決して泥を塗ることのない、誠に優雅な仕草によって、その場で一礼をして見せた。柔らかい絹の絹ずれのように、真昼の周囲、力の波動、ゆったりとして些喚く「若輩者の愚意愚見、ご理解頂き恐悦至極。また、その上、そのような寛大な申し出までして頂きましたこと、拝謝謹呈の言葉もございません」。

 真昼ちゃんの敬語はハチャメチャ・グラマティカルなので読者の皆さんは真似しないでね! まあ、自業自得とはいえまともに学校行ってないしな。それはそれとして、真昼は、深々と下げていた頭を上げると。その後で、ひどくわざとらしく首を傾げて見せた。何か引っ掛かることがあって、もちろんその引っ掛かることというのは先ほどのリチャードの言葉の中にあったというわけなのだが、その引っ掛かることに思いを致しているといったジェスチュアだ。左手の人差指、先端を、復讐の仮面の顎の辺りにそっと触れさせると。そのまま、呟くように言う「ただ……一つだけ、誤解があるようだな」。

 真昼は、両方の腕を広げて見せた。それは、例えるならば、タンバリンを叩きながら舞い踊るミリアムのように。あるいは、七つのヴェールをその身に纏い踊るサロメのように。

 揺らめいている力の波動は、あたかも真昼という一匹の怪獣を包み込む海。柔らかい子守唄みたいにして、ゆっくりゆっくり、世界を攪拌していくなめらかなダンスをしている。

 「なあ、あたしはな」「復讐なんて、するつもりはないんだ」「ははは」「お前は誤解しているな、ロード・トゥルース」「あたしは、自分自身の内側に怒りを抱いているわけではない」「あるいは、お前に対して憎悪を差し向けようとしているわけではない」「なあ、だって、そうだろう?」「あたしにとってはな、どうでもいいんだ」「お前が、デナム・フーツを、殺したということは」「あたしにとってはどうでもいいんだよ」「だって、そうだろう?」「それは、所詮は過去に起こった出来事だ」「このあたしとは、まるで関係のないことだ」「あるいは、復讐を成し遂げたとして、それが何になる?」「あたしが目的を達成したとして」「それは単純に未来に過ぎない」「やはり、このあたしにとっては無意味だ」「あたしはな、復讐をするつもりなんてないんだよ」「お前なんてどうでもいい」「お前なんてどうでもいい」「ははは」「つまりな」「あたしと、デナム・フーツと、その二人の間にお前は介在していないんだ」「なぜというに」「あたしと」「デナム・フーツと」「その間には」「何かが」「入ることが」「出来る」「間」「なんて」「存在して」「いない」「から」「だ」「だから……あたしは、お前に、復讐をつもりなんてさらさらないわけだ」「そういう意味では、あたしがお前を殺す必要はない」「あたしは、別に、お前を殺さなくても構わない」。

 そうして。

 その後で。

 真昼は。

 まるで。

 白々しい。

 悪夢のように。

 薄く、笑って。

「ただな、とはいえだ。」

 こう。

 言う。

「葬儀をしてやらないとかわいそうだろう?」

 とんっと、真昼は踏んだ。足元の世界を。それはステップだった。ラビット・トレイルだ。軽やかにステップを踏む、その場で、くるくると。中枢神経に電極を刺されたせいで、その電極によって強制された、たった一つのステップ以外は忘れてしまった哀れな昆虫のように「なあ、デナム・フーツは死んじまったんだ……死んじまった、死んじまった、死んじまった……それなら葬式を挙げてやんないと、なあ、ロード・トゥルース、かわいそうじゃねぇか。あいつは生きてたんだ、生きて、生きて、生きてたんだ。それなら、そうやって生きたことに対して、葬式を挙げてやんなきゃかわいそうじゃねぇか。今、この世界に、あいつがいないんだ。それなら、葬式を挙げてやんなきゃかわいそうじゃねぇか。ああ……信じらんねぇよな。あいつが、もう、ここにいないなんて。あいつが生きてきたことの全てが、こんなにも、ぱっと消えちまうなんて。流れ星が、流れ流れて落ちて消える。なあ、似てると思わねぇか? その瞬間に。あたしは……なあ、ロード・トゥルース。あいつが何をしたかなんて知らねぇよ。あいつが何をしてきたかなんていうことは知らねぇんだ。あいつがどれほどの殺戮をしたのか、あいつがどれほどの破壊をしたのか。あいつが、どれほど無慈悲で残酷な魔王だったか。そんなことは、あたしの知ったこっちゃない。世界があいつをどう考えてるかなんて、あたしはどうでもいいんだ……あたしにとって重要なことはたった一つ。あいつは、あたしの奇跡だったってことだ。それなら、あたしは、あたしの葬式を挙げてやらなきゃいけないんだ。世界があいつのためにするだろう葬儀とは別に、あたしはあたしの葬儀をしなきゃなんねぇんだよ。だから、あたしは、お前を殺すんだ。あたしは、あいつを殺したお前を殺さなきゃいけないんだ。これは、あいつのための弔いなんだよ。復讐じゃないんだ、弔いなんだ。それ以上でも以下でもない」。

 ラビット・トレイルは、世界で一番単純なステップだ。だから、真昼も、その体の動きを躊躇うことがない。右足を踏んで、左足を踏んで、軽く体を傾けて、そっと些喚いて。笑って笑って……その後で、その笑った仮面のままで、真昼は涙を流している。泣いている、泣いている、まるで、誰か、大切だった人が死んでしまって、その人の死を悼んでいるみたいに。

 さて、一方で、リチャードは。そのような真昼に対して「はっ! てめぇが復讐だと思ってようがそう思っていまいが、俺には関係ねぇんだよ」と、吐き捨てるように言った。それから「お前が俺を殺そうとしているってことに変わりねぇんだからな」と続ける。まあ、それはそうですね。

 とにかく、リチャードは真昼を説得することを完全に諦めたようだった。なぜそれが分かるかといえば、いつの間にか、グレイが、また、リチャードの前に歩み出ていたからだ。デニーとの戦闘を思い出して頂ければお分かり頂けると思うが、基本的に、リチャードは遠距離攻撃が得意で、グレイは近距離攻撃専門である。なので、戦闘が始まるのであれば、グレイは、いつまでもいつまでも後ろにいるわけにはいかない。基本的に……リチャードとグレイとは、声による意思相通もノソスパシーによる意思疎通も必要ないくらい以心伝心であるため、そろそろ戦闘が始まりそうだという気配を察したグレイが歩み出たというわけだ。

 そんなグレイにちらと視線を向けながら、リチャードが、真昼に、言う「はははっ! なんにせよ、てめぇは、たった一人で、俺とこいつと、二人を敵に回して戦うつもりだってわけだ。おい、おい、勝ち目があんのか!? 俺は、いうまでもなく、始祖家のノスフェラトゥで、それにレベル7のスペキエースだ。そして、お前もさっき言ってた通り、こいつは現実を好き勝手操作することが出来る。そんな二人に、はははっ! てめぇはどうやって勝つつもりなんだよ!」。

 そんなリチャードの言葉に、真昼は……まず、ステップを踏むのをやめた。それから、ふっと、鼻の先で笑う。「おやおや、ロード・トゥルース。随分と慎重なことだな」左の手のひらを、ぱっと開いて、顔の少しだけ前に広げて見せて。その後で、小指から順番に、薬指、中指、人差指、親指、と、順番に、手のひらの内側に折り畳んでいく。

 と、そうやって、まるで絞り出したみたいにして。握り締めた手のひらから、したり、と、一滴、何かがこぼれ落ちた。いつの間にか握られていたのか、あるいは単純に生み出されたのか、赤い、赤い、力の波動のしずくだ。

 そのしずくが、ぽたんと落ちた。いや、地面まで落ちたというわけではない。真昼の左手から数十ハーフディギト下のところに、力の波動が、まるで水面のように、一枚の表面を作っていたのだ。そのしずくはそこに落ちた。

 くあん。

 と。

 それは。

 空間に。

 赤い。

 波紋を。

 描く。

「深淵に飛び込む前にその深さを測っておこうとするなんて。」

 と、まあ、このような真昼ちゃんの小洒落たセリフでは一体何が起こったのかということが分かりにくいと思うので、一応補足しておいた方がいいと思うんですよね。先ほどのリチャードの言葉、いかにもわざとらしい挑発であるように感じられる言葉は、実は、ただの挑発ではなかった。そうではなく、真昼がどのような能力の持ち主であるかということを探ろうとしていたのだ。

 これまで何度か触れていることだが、現時点での真昼は、リチャードのノソスパシーでさえ見通すことが出来ないほどの深い深い精神隔絶の状態にある。ただただ外側から見ているだけでは、真昼が何を考えているのかということは、真昼がわざと露出させている部分しか読み取ることが出来ない。

 しかし、とはいえ、真昼の精神は世界そのものの精神から完全に独立しているというわけではない。ここら辺は説明するのが非常に面倒なので詳しいところは省くが、ルーシー・バトラーのような完全独立体でもない限りは、そのような対世界独立性を維持することは不可能だ。それは、あくまでも隔絶に過ぎないのである。真昼と世界との間には何もないわけではなく隔壁があるということだ。そうであるならば、例えば、どれほど頑丈な金属の箱であっても、その金属をノッキングすることで、反射音から内部の状況をある程度推測することが出来るように。精神に対しても、そのような方法によって隔壁の内側を探ることが出来るのである。

 リチャードの言葉はまさにこのノッキングだった。つまり、この言葉において最も重要なのは「どうやって勝つつもりなんだよ」の部分だったということだ。このように真昼に対して問い掛けることで、真昼の精神に対して、隔壁を貫通する形で、その精神構造が真昼ちゃん勝ちパターンを想定するように仕向けた。そういう精神構造の変化は当然ながら隔壁の内部にある程度の反響を及ぼし、その反響は、いうまでもなく、隔壁を通じてある程度は外部へと聞こえてくるのである。リチャードは、その反響を聞くことで真昼の能力を推測しようとしたのだ。

 そのようなリチャードのKONG TANGを、真昼は、完全に、理解していた。そういったやり方は、真昼のよくよく知るところのやり方だったのだ……そう、読者の皆さんも覚えていらっしゃると思うが、このようにある一定の刺激を与えることで閉ざされた空間の内部の状況を知ろうとするやり方は、まさにASKがダコイティの結界の内側を知ろうとしたやり方と相同だったということだ。真昼にとっては見え見えだった、既に、一度、経験していたのだから。だからこそ、嘲るかのようにして、力の波動によって波紋を描いて見せたということである。

 真昼が作り出して見せた波紋は、まさにリチャードが真昼の精神、その表面に作り出そうとした波紋のアナロジーだったということだ。真昼は、リチャードに対して、お前のストマック・エスティメイトなどお見通しだということを気障めいてキザキザと伝えて見せたということだ。

 そのような。

 真昼の。

 厭味ったらしい。

 シャレオツ仕草。

 に。

 リチャード。

 は。

 ぎりっと、強く、強く、上の歯と下の歯とを噛み締めた。明々白々なほどの瞋恚のジェスチュアである。「てめぇ……」というところまで言葉を口にするが、その後で、暫くの間、完全に絶句してしまう。あまりに激し過ぎる怒りのせいで声が出なくなってしまったのだろう。やがて、やっとのことで続きを吐き捨てる「舐めてやがんのか?」。

 あまり独創性のある表現ではないが、とはいえ、この瞬間にも相手を殺したいというような時に詩的芸術性を発揮するというのもおかしな話であって、まあまあ妥当なところだろう。そして、リチャードは、まさにこの瞬間に真昼の首を引きちぎろうとして、襲い掛かろうとする。

 「リチャード! 落ち着け!」だが、そのようなリチャードをグレイが一喝する「相手の挑発に乗ってどうする!」。叫びでありながら恐ろしく透き通り、冷静でありながら雷霆のように響き渡る声。なんとかリチャードも、正気を取り戻したようだった。はっとした顔をして、今にも飛び掛かりそうだった身体を停止させる。踏み出した足を、どずっと、大地に踏み締めて。それから軽く舌打ちをする「ちっ……クソが……」。

 ところで、そういったリチャードの怒りは……実は、真昼の態度がクソムカつくというそれだけの理由に起因しているわけではなかった。確かに、真昼の態度はクソムカつくし、普通にこいつぶっ殺したいなと思わせるようなdead kill the nightであったが。それよりも、リチャードは……デナム・フーツに対してそうであったのと同じように。真昼のことを恐怖していたのだ。その怒りは、恐怖の反動としての怒りだった。

 なぜ、そこまで、リチャードは恐れていたのか? なぜなら真昼の精神が空っぽだったからである。普通、隔壁を叩けば、必ず、絶対に、何かの音が返ってくるはずだった。だが、真昼の隔壁を叩いたその音は、帰ってこなかった。その金属の箱は反響しなかったのだ。

 もちろん、なんの反響も聞こえてこないのは真昼が何も考えていないからというだけの理由である可能性もある。リチャードとどのように戦うのかということを考えていない。ただ、その場その場で、自分の体が動く通りに戦おうとしている。いかにも下等知的生命体である人間らしい発想だ。

 あるいは、真昼は、自分の能力について何も知らないという可能性さえある。例えば、例えばの話だが、真昼が使っているこの能力の開花はごくごく最近のことであって。未だに、それがどのような能力であるのかという全貌を理解出来ていないという可能性だ。そうであるならば、リチャードがどれほど刺激したとして、もともと知らないことについて何かを考えることなど出来るはずもないだろう。

 ただ……真昼の静寂は、そういった常識的な可能性によって説明出来るようなレベルを超えていた。何も考えていないのだとしても、あるいは何も知らないのだとしても。それでも、普通であれば、そこには、そのことに関する経時的な思考がある。ある一点からある一点へと思考が動くはずなのだ。真昼には、つまり、そのような時間性がないのだ。まるで、あたかも、金属の中、完全に凍り付いた虚無が、ぽっかりと開いているかのように。絶対的な現在が、音さえも飲み込む虚無であるかのように。

 もしも。

 仮に。

 時間がなく。

 それが措定された。

 現在であるならば。

 そこには。

 きっと。

 被造物の破滅も。

 隣人への共感も。

 あり得ない。

 だろう。

 リチャードのことを、見ている、真昼。軽く上半身を傾けて、まるで右と左と、両方に向かって引き裂かれたような不気味な表情をして笑っていた。なんだか、ちょっと人間離れしているというか、ホラー映画だとかスプラッター映画だとか、そういうのに出てくる化け物のような格好である。そして、そのような格好のままで言う「ふむ、挑発したつもりはなかったのだがな」。その後で、傾いていた上半身を起こして、左足のトウを立てて。そして、その場で、一度、くるりと回転して見せる「ただ、事実を述べただけのつもりだったんだ」。

 何か。

 奇妙な。

 傀儡の。

 舞台で。

 あるかの。

 ような。

 動き。

 方を。

 して。

 「とはいえ、誤解させたというのならば謝罪するべきだろうな」そっと、両方の腕を開いた。もちろん、右手の平には殺意の刃を握り締めたままであったが。腕は、真っ直ぐに広げられていたというわけではなく、どちらかといえば、白鳥だとか黒鳥だとか、そういった生き物の星座を舞台上で表わしているみたいにして。肘の辺りで柔らかく下向きの角度を描いている。「謝るよ、すまなかった」手首を、下に向けて、それは星の光のさざ波のように「お前が臆病で、たかが人間に対して恐怖しているという事実を指摘して、すまなかった」。

 そのクソっぷり、加速していく! ちょっと信じられないほど凄まじい、阿修羅のごとく癇に障る真昼の阿諛嘲弄に対して、よくもまあリチャードも我慢出来たと思うが、ここがリチャードとサテライトとの重要な違いであった。

 リチャードは、これはよく真昼がやっていたように、ほとんど歯を歯によって噛み砕かんばかりに噛み締めて。それでもなんとか耐えていた。なぜというに、相手の能力も分からないうちに突っ込んでいくのは愚の骨頂だからだ。

 耐えて。

 耐えて。

 耐えて。

 待ち続ける。

 真昼が。

 その能力の。

 一端でも。

 見せるのを。

 そのようなリチャードの視線の先で……真昼は、首筋を、すうっと伸ばした。それだけで一つの芸術であるかのような、龍骸石の彫刻のような、そのような姿勢、で、リチャードの方、ちらと、横目、視線を向ける。それから、こう言う「ところで」。

 「お前は、さっき……こういう意味合いのことを言ったな。こちら側は、二人いる。それに対して、そちら側は一人だ。たった一人で、どうやって二人に立ち向かうつもりだ。確か、そんな感じのことを言ったはずだ」そう言いながら、首を傾げる。

 真昼は。

 左手の。

 中指を。

 軽く。

 伸ばして。

「あたし一人?」

 その指先で。

 傾げた頭に。

「あたし一人?」

 そっと。

 触れて。

「あたし、一人?」

 その後で。

 真昼、は。

 まるで。

 一つの、星の。

 絶叫のように。

 こう。

 笑う。

「あははははっ! あたしが一人だって!? あたしが、一人で、お前に立ち向かっているだって!? 雄々しくも果敢に!? 英雄のように勇敢に!? あははははっ! そんなわけがないだろう! あたしが、そんな、正々堂々と、高潔に、戦うと思うのか!? いや、それ以前の話だ! それ以前の話だよ! ここに、いるじゃないか! 大軍勢が! あたしの大軍勢が! お前の目は節穴か!? お前には何も見えていないのか!? お前には、この、大軍勢が、見えていないのか!?」

 真昼は、そう言いながら、笑って、笑って、笑い続けた。殺意の刃を握り締めている右手も、開いたままの左手と同じように、自分の腹に押し当てて。文字通り、腹を抱えて笑い続けていた。だが……リチャードには、グレイには、そのように真昼が笑っている理由が分からなかった。

 どう考えても真昼が言うような大軍勢などどこにもいなかったからだ。仮に、真昼が、実はデニーが死んだということを受け入れておらず、デニーを戦力と数えていたとしても。それは確かに大戦力であるかもしれないが大軍勢ではない。どれほど心強い味方がいたとしても、一人では大軍勢とはいわない。

 そのような素直な意見を率直に伝えるために、リチャードが口を開く「大軍勢だ?」明らかに嘲りの色が見える表情、ぎいっと笑いながら続ける「んなもん、どこにいるっつーんだよ。ああん? 俺が見た限りじゃあな、右を向こうが、左を向こうが、てめぇ一人が突っ立ってるだけだぜ?」それから、両の腕と、両の翼と。まずは右側、次に左側、自分の言葉に合わせるかのように、ざあっと音を 立てて軽く広げてみせる。

 さて、一方で。そのようなリチャードの言葉、態度、その全体の全てを、真昼は鼻の先で笑い飛ばした。「はっ!」と、傲岸不遜そのものののように笑って。その後で、もう既に人間のものではなくなってしまった、金色に光り輝く歯を剥き出しにして、こう吐き捨てる「どうやら、お前には、お前が見ているものしか見えていないようだな」。

 大体の人はそうじゃない? それはそれとして、真昼はそう言うと、右の手のひら、握り締めていた殺意の刃、くるんと回転させた。まるで高校生がペン回しでもするように、軽く、軽く。一度、二度、三度、そうしてくるくると回しながら肩を竦めて見せる。「いいさ、それなら見せてやるよ」と言う。「お前にも見えるようにしてやるよ」と言う。

 そうやって殺意の刃を回転させている真昼の態度は、あたかも何かを攪拌しているかのようだった。とはいえ、何を? それは、例えば、アイスクリームのもとになるクリームのようなもの。あるいは、焼き上げる前のカップケーキの生地のようなもの。甘美な平和。スウィーティなシャンティ。

 真昼は、いかにも手持無沙汰そうに、殺意の刃を、回して、回して、回しながら、ふと、何かちょっとした思い付きを口にするとでもいうかのように「とはいえだ」と言った。軽く、顎を、上向きに傾ける。そのままの状態で、右を、左を、下を、上を、その金色の眼球だけを動かして見回す。

 「ちょっと、面白くねぇな」「ほら、どうだ、どうだよ」「見渡す限り岩ばっかりじゃねぇか」「どこまでもどこまでも、クソ面白くねぇ荒野が広がってやがる」「なあ、これじゃ、あんまりに殺風景じゃねぇか?」「あいつの葬式には、あんまりに殺風景だ」「なあ、そうは思わねぇか? ロード・トゥルース」そう言いながら、真昼は、また、リチャードの方に視線を戻した。軽く肩を竦める、左手だけを軽く上げて見せる「まずは、用意してやんねぇとな」「舞台を」「あいつの葬式に相応しい、クールで、エレガントで、そして、何よりも、御伽話みたいに素敵な舞台を」。

 そして、それから。

 真昼は、その右手。

 殺意の刃。

 静かに。

 静かに。

 切っ先を。

 大地の上に。

 落とす。

「オルタナティヴ・ファクト。」

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