第三部パラダイス #51

 リチャードは、クソムカつくクソガキムーブをかましてきた真昼に向かって。それでも、飲み忘れてとっくに冷めてしまったコーヒーのように冷静に反応した。具体的にいえば、研ぎ澄まされた横顔、薄く薄く笑って、こう言う「随分と礼儀正しいな、感心したぜ」その言葉に対して、真昼はこう返す「お褒め頂き感謝感激……幸いなことに、教育が良かったもので」。

 その後で、今まであれほど警戒していた姿勢、ゆっくりゆっくりと、絡まってしまったコードレスイヤホンのコードをほどいていくかのような態度によって、つまりは非常に白々しい態度によって、和らげていく。

 自分とグレイとを包み込むように展開していた翼、ふわりと広げて。そのようにして開けっ広げになった空間、一歩、二歩、歩き出した。今までグレイの背後にいたのだが、結果として、その身体はグレイよりも前に出てくる。グレイはというと、そのようなリチャードに対して何も言わないまま、ただただ真昼に対する警戒を続けている。

 翼を畳む。両腕を広げて、差し出すようにする。真昼の赤い仮面に相対して、直面でありながらも、やはり仮面をつけているかのような顔をして笑う。

「それで、砂流原のご令嬢。」

「なんでしょうか、ロード・トゥルース。」

「俺を殺すって?」

「そうだ、その通り。あたしは、お前を、殺す。」

 リチャードは。

 その、真昼の言葉に。

 芝居がかった様子。

 首を傾げて見せる。

「しかし、なぜだ? そんなことをする必要がどこにある? よくよく考えてみろよ。今は、まあ、てめぇが俺を殺せるかどうかっつーことは置いておいてだ。仮に、仮にだぜ? まあ、てめぇなんかが俺を殺せるはずがねぇが、俺を殺せたとしてだ。そのことに、一体なんの意味があるっつーんだよ。

「たぶん、てめぇはこう考えてるんだろう。REV.Mによって誘拐略取されて、このアーガミパータに連れてこられたてめぇは、取引の材料として利用される直前にデナム・フーツによって救出された。そして……まあ、色々なことがあったらしいな。死んだりだとか、生き返ったりだとか、詳しいことは知らねぇが、とにかく、今まで、ずっとデナム・フーツはお前の守護者であり続けた。まるで天使のような慈愛によっててめぇを守り続けた。デナム・フーツは、その命さえもてめぇに捧げたわけだ! てめぇを守るために、俺と戦って死んでいったわけだからな。

「てめぇは、要するに、そのデナム・フーツの弔いをしようっつーんだろ? デナム・フーツの復讐、デナム・フーツの報復、そうすることによって、今までデナム・フーツによって与えられてきた全ての恩義に返礼しようとしてるんじゃねぇのか? まあ、いいぜ、そういうてめぇの考えは分かるよ。

「だがな、ちょっと考えてみろよ。デナム・フーツは本当にてめぇのために死んだのか? てめぇのためにてめぇを守ったのか? あのな、てめぇは知らないかもしれないが、あいつは悪魔なんだよ。デナム・フーツは悪魔なんだ。あの男にとっちゃ、自分自身以外のあらゆるものは利用可能な道具か、それどころか飽きたら捨てるおもちゃでしかない。あいつは、親さえ、兄弟さえ、いとも容易く虐殺した。しかも何か理由があって殺したってわけでさえない。なんとなく、殺したら面白そうだから殺したんだ。

「そんなやつがだぜ、たかがホモ・サピエンスでしかないてめぇを、なんの理由もなく、なんの目的もなく、純粋な自己犠牲として守ろうとするか? そんなことするわけねぇだろ! 目を覚ませ、現実を見ろ、デナム・フーツはてめぇのためにてめぇを守ったんじゃねぇ。自分自身の利益になるからてめぇを守ったんだ。お前も、分かってるんだろ? それくらいは分かってるはずだぜ。つまりだ、あいつは、コーシャー・カフェとディープネットと、その二者間の取引材料としてしかてめぇのことを見てなかったんだよ。

「同じなんだよ、同じ。デナム・フーツも、REV.Mも……つまり、俺も、な。てめぇのことを取引材料だとしか思ってないって意味では、全く同じなんだ。それなのに、なんで、てめぇは俺を殺すんだ? 考えろ、考えるんだ、その足りねぇ脳味噌でな。俺があいつを殺して、お前を奪ったとして、お前のいる状況はなんら変わりゃしねぇ、お前は相変わらず取引材料のまんま、ずっと取引材料のまんまなんだよ。

「いいか? てめぇは勘違いしてんだ。ああ、そうだ、そうなんだ。勘違いしちまったんだよ。あまりにも、デナム・フーツが、力強い生き物だったせいで。てめぇは……つまり、こう考えてるんだ。デナム・フーツはここまでしてくれた。REV.Mを敵に回し、ASKと取引をし、龍王と取引をし、ミヒルル・メルフィスのswarmから生命の樹を奪い取ってくれた。これほどのことを、あたしのためにしてくれたんだ。なぜそんなことをしてくれたのか? それは、あたしのことが大切だったからだ。それほど大切だったからだ。そうとしか、考えられない。

「いいか? それが、勘違い、なんだよ。あいつにとっちゃ全部全部日常茶飯事なんだ。てめぇがこの数日間、あいつと一緒に経験したこと。その全てがあいつにとっちゃ特別でないただの一日に過ぎないんだよ。デナム・フーツは魔王なんだ。デナム・フーツについて、てめぇみたいなホモ・サピエンスを基準にして考えんな。あいつにとっちゃ、ASKだの龍王だのと取引をするなんてことは、知り合いとちょっと世間話をするのとなんにも変わりゃしない。ミヒルル・メルフィスから生命の樹を奪い取るのは、蜂の巣から蜂蜜を取るみたいに簡単なことだ。そして、だ。そもそも、あいつとREV.Mとは敵対関係にあるんだよ。あいつはコーシャー・カフェでもスペキエース関係の担当だからな。スペキエースを、奴隷として売り買いしてるようなやつだ。そんなやつが、REV.Mと仲良しこよしだと思うか? あいつは、別に、てめぇのためにREV.Mを敵に回したわけじゃない。

「俺がこう言うと、お前はこう反論するだろうな。つまりだ、俺が言った全てのことが本当だとする。俺が言った、何もかも、デナム・フーツにとっちゃ大したことじゃないとする。それでも、俺から、つまり、リチャード・グロスター・サードからてめぇのことを守ろうとしたことは大したことだろう、ってな。何せ、俺は、始祖家のノスフェラトゥであって、レベル7のスペキエースでもある。俺は……まあ、自分で言うのもなんだが……俺は、神でさえ敵に回したくないと思う生き物だ。そんな生き物を敵に回して守ってくれたんだ。それならば、あたしのことを、十分に、大切だと思ってくれたんじゃないか。あたしのことを、十分に、愛してくれたんじゃないか。

「バーカ、そんなわけねぇだろ。あいつは自分以外の何者も愛さない。あいつが俺を殺そうとしたのはな、自己犠牲の精神からでもなんでもないんだよ。単純に、俺を殺せると確信していたからだ。まあ、下等なホモ・サピエンスには分かんねぇだろうけどな。俺達みたいな、ノスフェラトゥだとかデウス・ダイモニカスだとか、そういう高等な知性の所有者が戦闘を行なう時には、戦う前に戦闘パターンのシミュレーションを終わらせてんだよ。頭ん中で、どういう結果になるかってこと、完全に理解したという前提で戦闘を開始するんだ。

「あいつがどういうシミュレーションをしたかってことは分かんねぇけどな、一つだけ確実に言えることは、そのシミュレーションの中で、あいつは俺に勝利していたってことだ。あらゆる可能性を考えに入れた上で、確実に、絶対に、勝てると思ったからこそあいつは戦闘を行なった。

「実際に、もしもグレイがいなかったら、あいつは俺を殺せていたわけだ。あいつはグレイがいるということを想定に入れないでシミュレーションを行なった。だから死んだんだ。要するにだ、あいつが死んだのは、てめぇのために丁度半端の博打を打ったからじゃない。お前のために生きるか死ぬかの賭けをしたからじゃない。ただ、あいつが、俺達を測り間違えたから死んだんだ。

「あいつはてめぇのために命を懸けたんじゃない。もしも、俺と戦えば自分が死ぬということを知っていたならば、あいつは、絶対に、俺とは戦わなかった。あいつは兎の爪先や魚の目玉を捨てるみたいにてめぇのことを捨てていただろう。あいつは、てめぇなんかよりも、自分自身の生存を優先していただろう。

「それなら、だぜ? 今から俺がてめぇを取り扱うその取り扱い方と、今まであいつがてめぇを取り扱っていたその取り扱い方と、一体何が違うっつーんだ? そもそも、あいつは、てめぇのことを無事に家に帰そうとしていたわけじゃない。コーシャー・カフェのボスのところに連れていこうとしてたんだ! しかも、コーシャー・カフェのボスの命令で!

「つまり、だ。あいつは、てめぇを守ることに関する全ての行為を、自分の意志でやったわけでさえねぇんだよ。あいつがそうしたいからそうしたわけじゃなかった。あいつがそうしないといけないと思ったからそうしたわけじゃなかった。全ては、あいつの純粋な欲望じゃなかった。あいつは、てめぇを、欲していたわけじゃない。あいつが行為した、てめぇを守るという行為には、あいつ自身の独裁が介在してるわけでさえねぇんだ。あいつは、ただ、命令されたこととして、機械的に、官僚的に、そうしただけだ。全部、全部、ただの仕事でしかなかったんだよ。

「てめぇはあいつによって求められていたわけでさえない。てめぇは、あいつにとって、一切、重要じゃなかった。それどころか、てめぇという人格は、非人格的な対象物としてさえあいつの中にはなかった。てめぇはあいつの対象じゃなかったんだからな。あいつが対象とするのは、自分自身だけだ。それなら……てめぇの復讐になんの意味がある?

「考えろ、考えるんだ! ホモ・サピエンスのくだらねぇ脳味噌で! そもそも復讐ってのは他人のためにするもんじゃねぇだろ? 自分のためにするもんだ、他人から受けた損害に対して代償を払わせるためにするもんだ。勘違いすんなよ、俺は「誰々のために復讐をする」っつー行為そのものを否定してるわけじゃねぇ。そういうことをしようってやつも、まあいるだろう。俺はそんなことをするつもりはないがな。だが、そういう復讐だって自分とは全く関係ない「誰か」のためになされる復讐じゃねぇだろ。それは、自分から、その「誰か」が奪われたことに対する復讐なんだよ!

「分かるか? てめぇがデナム・フーツのために復讐をするんなら、まずはデナム・フーツがてめぇから奪われてなきゃならねぇんだよ。だがな、そんなことは、あり得ねぇんだ。そもそもてめぇはあらゆる意味においてデナム・フーツとともに生きたことがねぇんだからな! てめぇの隣にデナム・フーツはいなかった。てめぇはデナム・フーツを理解出来たわけでさえなかった。てめぇは、今まで、ずっと、一人で、生きてきたんだよ。

「ずっと一人で生きてきた。てめぇは、デナム・フーツによって救われたわけじゃねぇんだ。てめぇは、てめぇ自身の価値によって、てめぇという一匹のホモ・サピエンスがディープネットとの取引材料になるというその価値によって、救われたんだ。てめぇを救ったのはデナム・フーツじゃねぇ、てめぇ自身だったんだよ。

「その証拠に、どうだ? どうだよ! 俺は、てめぇを殺そうとしてるか? してねぇだろ? 俺は、今、何をしようとしている? てめぇを説得しようとしてんだ! なんとか、てめぇを、傷一つなく保護するために、てめぇを説得しようとしてんだ!

「いいか? よく聞けよ? これが真実だ。つまり、誰一人として、てめぇのことを、指一本でさえ、髪の毛一本でさえ、傷付けようとしなかったんだ。確かにてめぇは殺されたが、それはあくまでも事故だ。だろ? てめぇを傷付けようとして傷付けたやつは、てめぇがアーガミパータに来てから、たったの一人もいなかった。実際に、てめぇは、その一度、たった一度きり殺された時を除いて、一切傷付けられてねぇだろ? てめぇはまるで鳥籠の中に閉じ込められたままの鳥のように安全だった。

「お姫様、お姫様! いい加減目を覚ましやがれ! てめぇはな、今もっててめぇの城の中にいるんだよ、てめぇはてめぇの城の中で眠ってるだけなんだ、悪者に攫われて、王子様に助けられた、そんな夢を見てるだけなんだ。いいか、もう一度だけ言うぜ。デナム・フーツはてめぇを救わなかった。てめぇを救わなかったんだ。なぜなら、てめぇはてめぇが持ってる価値の力で生き残れたからだ。てめぇのことを、そもそも、救う必要がなかったからだ。それだけが真実だ。

「なんで、てめぇは、てめぇを愛したことがないやつのために復讐をしようとする? なんで、てめぇは、てめぇのために命を懸けたことのないやつのために命を懸けようとするんだ? さあ、てめぇがどんなに馬鹿だって、もう分かっただろ? デナム・フーツはてめぇの救世主じゃねぇんだ。だから、てめぇは、デナム・フーツのために殉教する必要なんてねぇんだよ。

「ここで、今、起こってることは、てめぇが考えてるようなことじゃねぇ。つまり、悪者が、王子様を、殺して、てめぇのことを掻っ攫おうとしてるわけじゃねぇ。そんなドラマティックな出来事は一切起こっちゃいねぇんだ。ここで起こってることはな、いいか、ただの取引だ。てめぇという一つの価値が、コーシャー・カフェという組織から、REV.Mという組織に受け渡されようとしている。その移行がここで起こってることだ。使用されている力の形態が経済力じゃなくて暴力だったから、人間至上主義社会に生まれて人間至上主義社会に育ったてめぇは、これが取引だとは思えなかったのかもしれねぇがな。こういう取引の形態は、ここでは、アーガミパータでは、クソみてぇにありふれてんだよ。

「ある奴隷売りからある奴隷売りに売り渡された奴隷が、自分を売り渡した奴隷売りのために自分が売り渡された奴隷売りを殺そうとするか? するわけないだろ? そんな馬鹿みてぇなことをするやつはいないだろ? お前がしようとしてんのは、そういうことなんだよ。俺も、デナム・フーツも、同じ、全く同じなんだ。てめぇにとっては全く同じ、てめぇの商品価値のためにてめぇを保護しようとしてる商売人なんだよ。

「だから……てめぇは、俺を殺す必要なんてないんだ。てめぇは、ただ、鳥籠の中で歌を歌ってる小鳥のままでいりゃいいんだ。そうすれば、俺が、デナム・フーツがもしも生きていればてめぇのことをそう取り扱っただろうその通りにてめぇのことを取り扱ってやるよ。つまりだ、傷一つないようにREV.Mのところまで連れていってやるってことだ。そして、REV.Mは、もしもデナム・フーツがコーシャー・カフェにてめぇを連れていったとしたらまさにそうした通りてめぇを取り扱うだろう。つまり、てめぇのことをディープネットに対する取引材料として使うだろう。いいか? それだけだ、これは、それだけの話なんだよ。」

 リチャードは。

 そこまで話すと。

 一度口を閉じた。

 まるで舞台の上に立っているみたいな、しかも、世界の果ての果てまで客席が続いている舞台の上に立っているみたいな、それほど大袈裟な態度で話していた。一番後ろの席に座っている客が、あまりにも遠く離れたところにいるために、指先一つの動きまで仰々しくして見せないと、何一つ芝居が伝わらないとでもいうかのように。そんな風に、リチャードは、真昼の方に身を乗り出したり、人差指で何度も何度も指差したり、一度くるりと回転して見せたり、羽を軽く広げてみたり。

 そして。そのようなジェスチュアよりも、一層、重要なことであるが……リチャードは、まさに純種のノスフェラトゥが会話するように会話していた。この表現方法では、例えば、パンピュリア共和国の政治家だとか、パンピュリア共和国の官僚だとか、そういう種類の人間にしか伝わらないかもしれないが。要するに、どういう意味かといえば、攻撃的共感性ノソスパシーによって相手の思考を捻じ伏せるように会話していたということだ。

 ここまで、かなりの回数、何度も何度も繰り返してきたことであるが。ノスフェラトゥは孤立捕食種である。つまり、基本的に、ノスフェラトゥにとっての会話というものは人間にとってのそれとは全く異なったものである。それは、むしろ舞龍のものに近いといえるだろう。

 無論、舞龍の精神構造は他者を前提としていないのであって、舞龍は会話などしないのだが。そういうことをいいたいのではなく、つまり、何をいっているのかといえば、それは対等なコミュニケーションとしては立ち現われ得ないということだ。

 人間の会話が、文字が書かれた看板を交互に提示し合うような迂遠なものであるならば。ノスフェラトゥの会話は殴り合いのような直接的な暴行である。物質的な力を加えて物質を変形させるかのごとく精神的な力を加えて精神を変形させるのだ。

 リチャードの発した一つ一つの言葉は、そのまま純粋な観念の鋳型となり、言語よりもずっとずっと純粋な状態の観念の鋳型となり、真昼の精神を力尽くで作り替えようとした。それは説得ではなかった。それは暴力だった。リチャードは、ノソスパシーによって、真昼の精神を改竄し改変し、自分の思うままに洗脳し、真昼のことを完全に屈服させようとしていたのである。強制的に、正しいと思わせようとしたのだ。

 要するに。

 これは、既に。

 攻撃、だった。

 さて、これがそのような会話であるとするならば、一点奇妙なところがあった。それは……あまりにも、リチャードが延々と話していたということだ。

 ノスフェラトゥ、しかも純種のノスフェラトゥが、本気を出してノソスパシーを叩きつければ。人間程度の、脆弱な精神しか有していない生命体は、回復不可能なほどに精神が崩壊してしまう。無論、今回のケースにおいては、真昼の精神を崩壊させては不味いのであって、そんなことは出来ないのだが、それほどまでにノスフェラトゥの精神力は強力だということだ。

 そのような強さと、それに、その力を行使する際の、あたかもサージカルであるかのような繊細さ。ノスフェラトゥが、もしも、こういった会話によって人間を跪かせ、無理矢理に従わせようとするのであれば、それは、たった一言で成し遂げられるであろうことなのである。リチャードの口調であれば「俺に従え」。この一言で会話は終わっていたはずなのである。

 それなのに、なぜリチャードはこれほどまでに言葉を尽くさなければいけなかったのか? 答えは簡単であって、てこずっていたからだ。真昼の精神をいじくろうとして、拒否され、拒絶され、失敗していた。会話は弾き返されたのだ、たかが人間に。

 普通の人間であれば、ちょっとした挨拶でさえ、対ノスフェラトゥ用肉体及び精神強化剤なしでは廃人になってしまうような、始祖家のノスフェラトゥのノソスパシー。それを、真昼は、あたかも取るに足らない子供のお喋りのように聞き流していた。

 だから、リチャードは話し続けたのだ。リチャードの、長い、長い、一方的な饒舌は、全てが無効化された攻撃だったのだ。舞踏のように回避された斬撃であり、結局は鎧を撃ち抜けなかった銃弾なのだ。

 リチャードのことを。

 見下ろすかのように。

 ほんの、僅かに。

 上向きに傾けた。

 真昼の仮面は。

 まるで。

 嘲笑の。

 ような。

 表情で。

 笑う。

 狂女。

 金の目。金の口。粉々に砕かれて残骸となった毘盧遮那の光明。鬼神のそれのように、引き裂かれた暗黒の中に埋め込まれている光、は、あたかもデニーの背後で禍々しく光り輝いていたそのアウレオラのようだった。

 なぜ真昼が笑っているのか? その顔は真昼のものではないはずなのに。その顔は、その真昼の空っぽの細胞を満たしている奇跡のものであるはずなのに。なぜ、それなのに、なぜ、それは、真昼の嘲笑であるのか? 仮面でしかないはずのその表情は、信じられないほど複雑なファセットによって刻まれた宝石のように、真昼がその顔を傾ける角度によって、そこに映し出す真昼の感情を変化させる。

 よくよく見てみると、その仮面は、完成された物ではなかった。それは完全ではなく、また、絶対であるというわけでもない。それはアブソリュートな対称性を意図的に放棄していた。そして、それゆえに、静謐であり得た。

 何かが動いていた。そのおもての上では。静かなままに、独りであるままに。歪みの上を転がり落ちるかのようにして、流動的なソルヴェーションが脈動している。ゆらり、ゆらり、ゆらゆらり。寂寞が真昼を束縛している。

 そう。

 そうなのだ。

 要するに。

 なぜ。

 完璧なものを。

 完璧であると。

 そう思うのか。

 対称性はいつも奇跡ではなく喝采。

 典礼に満ち満ちた光が崩れていく。

 真昼の仮面は完璧ではない。

 真昼の物語は完璧ではない。

 イア。

 イア。

 主よ。

 義人は恐れなくなりました。

 義人は迷い出ていきました。

 全てはことごとく無益なものです。

 この世が裁かれるのは当然です。

 しかし、主よ、聞いて下さい。

 ここには。

 あなたしか。

 いないのです。

 真昼は……じっと、聞いていた。力によって形作った椅子に座ったままで。また、自分の身体の左側、肋骨の一番下辺りの高さに、もう一枚の円盤を作って。そこに左の肘を置いて、その上方の、左の拳にした左の拳に、頬杖を突くみたいにして左顎を置いて。そのような姿勢のままで、リチャードの言葉を聞いていた。

 普通の人間であれば脳髄が弾け飛んでしまってもおかしくないような、それほど強力なノソスパシーを、戯れ言をあしらうかのような鷹揚さによって拝聴していた真昼は。そのありがたいありがたいご託宣が終わると……暫くの間、何も言わないままで、リチャードのことを眺めていた。

 それから。

 やが、て。

「それで。」

 こう。

 言う。

「言いたいことは終わりか?」

 え、えらそ~! 不遜の王国エラソディアの国民もびっくりの偉そうさだ。真昼ちゃん、それ、普通だったらぶん殴られても仕方ないやつだよ? 姿勢から口調から全てにおいてストマック直立不動である。とはいえ、幸いなことに、現時点におけるリチャードは非常に冷静であり、礼儀正しく対応した。

 「ああ、まあな」と、辛うじて不敵に笑いながらそう言ったリチャードに対して。真昼は、あたかも不遜の王国エラソディアの女王であるかのような態度によって返答した。つまり、力によって自分の背後に作り出した背凭れに、いかにも偉そうに凭れ掛かりながら。「なるほど、なるほど」と、挑発的なほどにゆっくりと言葉したのだ。

 真昼は明らかにクソ調子に乗っている。まあ、とはいえ、それはそれとして、だ。真昼は、そのまま、その姿勢のままで、にいっと笑った。いや、笑ったのは真昼の仮面だ。とはいえ、仮面というものが表情を変えるものだろうか。とにかく、真昼の仮面は、あたかも冷笑のごとく、金色に輝く牙を剥き出しにして笑った。

 まるで立場が逆転したかのようだ。鏡に映った虚像。二つの世界が、二人の世界が、時の一点を中心として回転してしまったかのように、今の真昼は、少し前のリチャードのような傲慢さであった。そして、その傲慢さによって、こう言う。

「なあ、ロード・トゥルース。お前が言いたいことは、つまりはこういうことだな? あたしが、お前を、殺すのは、おかしい。ごくごく普通に考える能力があれば、それが論理的であれ感情的であれ、そのどちらでもいいが、とにかく思考能力があれば、そんなことは当たり前に分かるはずだ。なぜなら、デナム・フーツは……王子様ではないから。デナム・フーツは、お姫様を救い出すために白馬に乗って現われた王子様などではなく、むしろ、お姫様を攫おうとする悪役のうちの一人だからだ。

「ここでいうお姫様というのは無論あたしのことだが、それはそれとして、そのことは、考え方によればそう考えることが出来るというたぐいの揺動的な選択肢ではなく、厳然としてかつ確固とした事実である。そうであるとするならば、悪役のうちの一人が別の悪役に殺されたからといって、お姫様がそのことに対して怒りや憎しみを抱き、悪役を殺した悪役に対して復讐をしようとすることは、いかにもホモ・サピエンス的な、下等知的生命体的な、知性における欠陥が作り出した錯誤である。

「それは不均衡な力関係が生み出す一種の共依存関係だ。ほら、よくあるあれだよあれ、誘拐犯と人質と、捕獲者と捕虜と、そういう関係性にある二者が長時間にわたって親密な接触の状態にあった場合に発生する、一種の心的外傷、虐待による精神異常の状態。本来であれば、あたしは、デナム・フーツを愛するわけがない。むしろ、自分のことを取引材料として利用としたデナム・フーツのことを、あたし自身が殺そうとするべきだ。まあ、要するに、そういうことだろう?」

 そのような。

 真昼に。

 対して。

 リチャードは「そうだな、大体そういうことだよ」と答えた。ただ、その態度には、この会話が始まった時ほどのいけ図々しさ、大衆演劇のような感じはなくなっていた。

 もちろん、リチャードは、真昼の精神を感覚し続けていた。犬狼が匂いによって、蝙蝠が音によって、状況を探るように。ノスフェラトゥは、場所における全体的な精神状態を感覚することによって状況を探ることが出来る。リチャードは、ノソスパシーを利用して、真昼の精神を読み取り続けている。その精神は……まるで、ホモ・サピエンスではないもののようであった。

 ホモ・サピエンスの精神というものは、よほどの例外を除いて、ノスフェラトゥにとっては竹輪の穴を覗き込むように筒抜けである。これは「何も考えないようにする」だとか「思考にブラックボックスを作る」だとか、そういうおまじないの迷信じみた方法ではどうしようもないことだ。なぜというに、そもそも、あらゆるたぐいのテレパシーは、思考そのものを探っているわけではないからである。ノソスパシーであれデウスパシーであれ、それが探っているものは、場における精神の構造である。

 このことについて詳しく話すとなると、普通に大学レベルの混合法則学の授業になってしまうし、なんならそのような講義によっても完全に理解することが出来るわけではなく、初歩の初歩であるとはいえ神学の領域にまで足を踏み込むことになってしまうので、ここでは残念ながら省略せざるを得ないが。とにかく、どれほど自分の思考を律することが出来る人間であっても、それが所詮は人間的な意味における「思考を律する」である以上は、ノスフェラトゥから考えを隠すことは出来ない。

 そうであるにも拘わらず……真昼は、あたかも精神にさえ仮面をかぶっているかのようであった。思考が、一部を除いて場に見えてこないのだ。そして、そのように見えている一部は明らかにわざと見せているものであった。

 そう、わざと見せていたのだった。真昼は、リチャードの精神攻撃によって、少しも揺らいでいないということを。自分の思考がちょっと親指の先で押された餡パンほどにも変えられていないということを見せつけていた。

 要するに、真昼は。今、自分自身で口にしたことの全てについて欠片たりとも信じていないのだ。リチャードの言葉に欠片たりとも説得されていなかったのだ。いや……違う……その言い方は、少しだけ語弊があるかもしれない。これはどう説明したらいいか分からないのだが、真昼は、そのように自分が話したこと、あるいはリチャードの論理的な説明について、その全体が完全に正しいことであると承認していた。ある意味では完全に説得されていたのだ。リチャードの真昼についての現状認識には一つの瑕疵さえもないということ。確かに、自分は、デニーの死に対しての復讐を行なう論理的な理由は何一つないということ。そのことについて、全面的な無条件降伏にも似た態度で認めていた。

 ただ。

 だから。

 どう。

 した。

 って。

 いうわけ?

 真昼は、それが正しいことを認めた上でそれを無視していた。例えば、否認だとか否定だとか、そういったスタンスでさえなかった。それが正しいということは、真昼にとってはなんの意味もないのだ。雑誌に載っている興味のない漫画を読み飛ばすように。面白くない番組が映っているテレヴィジョンを消すように。真昼にとって、正しさは、安っぽいフィクション程度の価値を持つものでさえなかった。

 デニーにとっては、真昼など、どこかどこか遠い星の、決してその街に行くことがないであろう街の、薄暗い裏道に落ちている、この世界の誰も知らずにそこに落ちている、完全に透明な小石のような存在だった。デニーは真昼のことなど他人に宛てられた借金の督促状ほどにも興味がなかった。確かに、確かにその通りだ。でも、だから?

 真昼は。

 倦怠と。

 紊爛と。

 二つを足して。

 二つで割った。

 そんな感覚。

 で。

 左手から。

 顔を。

 上げる。

 真昼が左肘を離すと、それが載せられていた円盤がぱしゃんと音を立てるかのようにして溶けて弾けた。そのまま真昼の周囲を回転する力の波動に混ざっていく。真昼は、左の手のひら、わざとらしく開いたままにして。そのうちの、ぴんと立てた人差指を、そっと仮面の口に当てた。

 首を傾げる。「ふむ」と呟く。「正論だ」と呟く。「いや、実際、正論だよ」と続ける。それから、人差指を口から離して。人差指と親指と、その二本以外の指を手のひらの方に向かって折り曲げる。そのようにして立てたままの人差指を、二度、三度、どこともない方向に向かって振って見せながら、こう言う「と、いうことはだ。結局のところ、お前が望んでいるのは、あたしが傷付くことなくお前の保護下に入るということだな? そして、そのために、あたしが、デナム・フーツの復讐を諦めること、お前を殺すことを諦めることだな?」。

 真昼はそう言いながら左の脚を折り曲げて、左の足の裏を座面の上に置いた。右の脚は真っ直ぐに伸ばしたままで、右の足の裏をリチャードの方に突き出している。これ以上ないというくらいのふんぞり返り方であるが、そのまま、上半身の全体を左側に傾けながら、舌先でくすぐるようなその言葉を続ける「ああ、ああ、お優しいことだなロード・トゥルース! 正当な理由もなくお前の命を狙い、あまつさえお前の首に傷を付けたあたしに対して、なんと寛大な申し出じゃあないか! そうだな、お前がこれほどあたしに対して歩み寄りを見せたにも拘わらずあたしがお前に歩み寄りを見せないということは不誠実の誹りを免れ得ないだろう」。

 それから、真昼は、何かを考えているような素振りを見せた。背凭れに、一層、深く、背を凭れ掛けさせて。顎の先を撫でるみたいに左手を口元に添える「条理と筋道とを考えるとすれば、あたしはお前の提案を受け入れるべきだろうな。あたしは、確かに、デナム・フーツに対してなんの恩義もない。デナム・フーツは単なる運び屋に過ぎなかった、あたしという物件をA地点からB地点へと運ぶためにコーシャーカフェから派遣されてきた運び屋に過ぎなかった。仮に、仮にだ、デナム・フーツが何かを助けようとしたとする。何かを守ろうとしたとする。その場合、デナム・フーツがそうしようとしたのは、あたしではない。あたしそのものではなく、あたしに付随する価値に過ぎない。分かりやすく言い換えれば、デナム・フーツはあたしを利用しようとしただけだった。そうであるならば、同じようにあたしのことを利用しようとしているだけのお前を殺そうとするのは論理的に破綻した行為だ」。

 「つまりだ、つまり、あたしは、デナム・フーツと全く同じことをしていたということだ。あたしは、デナム・フーツそのものを愛していたわけではない。デナム・フーツのことを理解出来なかったし、理解しようともしなかったのだから、愛せるわけがないからな。あたしは、そうではなく、デナム・フーツがあたしの価値だけを必要としていたのと全く同じように、あたしは、デナム・フーツの価値だけを愛していた。デナム・フーツの、自己存在の保存にとって有用であるという価値だけを愛していた。そうであるならば……あたしには、その価値の入れ物にこだわる必要などないわけだ。あたしを守るものが誰であれ、デナム・フーツであれお前であれ、そういったことにこだわる必要はないわけだ」真昼は、そこまで話すと、また言葉を切った。

 今まで、考え考え話しているかのように、ずっと、左手を顎に当てたままでいたのだが。暫くの間、黙って何かを考えこんでいるかのような仕草をした後で……不意に、それを、ぱっと離した。その手のひら、自分の顔の横、巫山戯ているかのような軽やかさによってパッパッと開いたり閉じたりしながら。

 こう。

 言う。

「いいさ、分かった。」

「は?」

「従うよ、お前に従おう。」

「それは……俺を殺すのをやめるということか?」

「ああ、そうだ。」

 リチャードは、その言葉が完全に嘘であることと、その言葉が完全に真であることと、その二つを同時に知っていた。意味が分からないのだが、間違いなくそういうことなのだ。真昼の言葉は嘘ではないが、ただ、真昼は、リチャードを殺すつもりだった。完全に分裂しているはずの二つの主張が、なんの自己欺瞞もなく、真昼の中で一つになっている。リチャードは、思わず、明白な威嚇をその口調に滲ませながら言う「てめぇ、何を企んでやがる?」。

 「ははははっ! 随分と人聞きが悪いな。自分自身の性格が悪いと他人のことまで信じられなくなるのか?」と言いながら、真昼は、椅子から立ち上がった。「なんにも企んじゃいねぇよ、なぁんにもな。あたしの言葉はあたしの言葉の通りだ、含むところなんてない。見えてるだろ? あたしの言葉が本当だっていうことは、始祖家のノスフェラトゥ様の、お強いお強いテレパシーでな」真昼が体を起こした瞬間に、その下に形作られていた円盤は、ずるりと崩れていって。そして、泥濘が流れるかのようにして、真昼の周囲の力へと戻っていく。

 「ただ……」「あ?」「一つ、条件がある」「条件だ?」「そうだ。まあ、まあ、そんなに身構えるなって。大した条件じゃない。一つ、たった一つ、あたしの疑問に答えてくれりゃあいいだけだ」そう言いながら、真昼は、また笑った。

 面妖、奇々怪々、笑う仮面。仮面の笑顔とは一つの呪いであるが、ただ、それは誰に宛先されたものであろうか。「呪う」ということは「宣る」ということであり、それは「の」をするということである。「の」とは、あたかも海が世界の端から端までいき渡るかのように、あるいは血液が体中をいき渡るかのように、でいでいとしたユートロフィケーションによって世界を満たしていくということである。それは秩序ではなく、それは整理ではない。

 そもそも、仮面とは、ある者とある者との間にあるあらわれの表象というわけではない。それはprosoponであり、それは他者の感覚器官を遮蔽しているということである。要するに、それは関係性を前提としているわけではなく、むしろその拒否をこそ前提としている。それは他者を締め出すということである。それは何も表われてこないということであり、絶対的な孤独の疎隔性の中で、ただただその内側にあるものだけを、完全な現実として現実化するということである。

 そうであるならば、その呪いは、実際、自分自身にしか向けられ得ないものである。仮面は裏側から見られるべきなのだ。その茫漠とした曖昧さこそが仮面の呪いである。真昼は笑っている。その笑いは呪いだ。仮面は世界を向いている。世界は真昼である。この世界は真昼である。抽象は無意味だ。なぜならそれは不完全だから。なぜならそれは選択だから。真昼には、決してうつし身ではないこの仮面こそが相応しい。暗く広い海。呪いと呪いとで満ち溢れ、怪物が生息するために、最も適切な海。

 真昼は。

 まつろわぬ星の。

 荒まじき笑いを。

 笑いながら。

 こう、言う。

「お前の主張はいちいちごもっともだ。あたしはその一つ一つに対して完全に同意するよ。ただ、ただな、たった一点だけ、どうしても分からないことがあるんだ。いや、違う。そうじゃない。お前の主張に矛盾や誤謬があるって言っているわけじゃないんだ。それとは全然別のところであたしは疑問を抱いている。つまりな、あたしは、この物語そのものに、どうしても理解出来ないことがあるんだ。その疑問を、お前が解いてくれるというんなら、あたしは喜んでお前に従うよ。お前を殺すのをさっぱり諦める。唯々諾々とお前についていく。」

 アグリー、アグリー、そういうことであればロジックにコントラディクションはない。真昼は、確かに、リチャードに従属する意思がある。ただ、それは、今から出す問い掛けにリチャードが答えられるのであればという、その限りにおいてなのだ。もしもリチャードが答えられないのであれば、真昼はリチャードを殺す。ここにはなんの相反もなく二重性が胚胎している。

 ただ、とはいえ、ここにはリチャードが看過出来ない問題点がある。それは、真昼が、自分がリチャードを殺すことになるということを確信しているということだ。これは、真昼が、リチャードがその問い掛けに答えられないと確信しているということを意味している。純種の、始祖家の、ノスフェラトゥ。ホモ・サピエンスなどとは比べ物にならないほどの高等知的生命体。そのようなリチャードに対して、たかが人間であるこのメスガキが……一体、どんな問い掛けをしようとしているというのか?

 謎掛けは。

 もちろん。

 誓いを伴う。

 真聖な。

 勝負だ。

 これに負けるのであれば。

 リチャードも。

 真昼が。

 自分を。

 殺そうと。

 すること。

 つまりは。

 これから。

 殺し合いを。

 するということを。

 受け入れなければ。

 いけないだろう。

「へえ、そうか。」

 だから。

 リチャードは。

 真昼に。

 向かって。

 恭しく。

 一つの。

 誓いと。

 して。

 こう。

 告げる。

「それで、その疑問ってのはなんだよ。」

「デナム・フーツはなぜ死んだのか。」

「は?」

「デナム・フーツはなぜ死んだのか。」

 リチャードは真昼が口にしたその言葉の意味が分からなかった。「なぜって、俺達が殺したからだよ」「そういうことを聞いてんじゃねぇよ」「グレイが、あいつの顔を、真っ二つにしたからだ」「あたしが、聞いてるのは、そういうことじゃ、ないんだ」真昼は、そう言いながら、手に持っていた殺意の刃を軽く持ち上げた。今まで大地に突き刺さっていた切っ先をずるりと引き抜くと、また、それを、突き落とす。

 どずり、という鈍い音がする。もう一度。そして、もう一度。どずり、どずり、どずり、どずり。真昼は、まるで地の底から何かを抉り出そうとしているかのようにして、殺意の刃の切っ先、何度も何度も大地に向かって叩きつける。

 「いいか、お前みたいな馬鹿にも分かるように教えてやるよ。デナム・フーツが死んだっていうことは間違っているんだ。それは起こってはいけなかった。そんなことは、絶対に起こってはいけなかったんだ。勘違いしているやつがいる。現実においては起こらないことが、物語であれば起こりうると。物語においてはあらゆることが起こりうると。違う、全然違う。事実は真逆だ。つまり、現実においてはあらゆることが起こりうるが、物語においては絶対に起こり得ないことがある。それは物語における原理主義の問題だ。例えば、ある物語のキャラクターが、第一作と第二作とで完全に矛盾する行動を取ることが許されるか? 第一作で、賢く、用心深く、決して他者を信用しなかったキャラクターが、第二作の冒頭も冒頭で、阿呆にも無条件に他人を信用し、そのせいで無残にも殺されるということが許されるか? もちろん、そんなことは許されない。もしも、仮に、どこかの低能なゲーム会社が、政治的理由でも個人的理由でもなんでもいいが、そのようにして、第一作と第二作とで全然噛み合わないキャラクター造形をしてしまえば、そのゲーム会社は薄汚い犬と罵倒され蔑まれるだろう」「いいか、世界にはな、そうなってはいけないことがある。決定論的に、因果として、縁起として、そうなるということが原理的に不可能であるということがある。例えば互いに非接触である複数の曲線によって構成された多角形はあり得ない。それは端的に間違っている、なぜなら、定義された物語との連続性がないからだ。前提として過去が連続していなければ未来はあり得ないし、未来が結論として用意されていないのならば過去はあり得ない。あらゆる事物は一連の連続性から成り立っている。「それ」は、ここでいう「それ」がなんであれ、「それ」が全知全能の主ではない以上は、単体で成り立っているわけではない。それは、決して疎隔していない。流れ流れていく川の流れは決して途絶することはないが、ある時点における川の流れを形成している液体の総体と別の時点における川の流れを形成している液体の総体とは全く異なったものだ。不鮮明に停滞する淵に浮かび上がっては割れて割れては浮かび上がってくるあぶくは、結局は川そのものがなければ成立しない。つまりだな、お前にも分かるように言うとすれば、こういうことだ。それが一の量ずつ増加していく数列である場合、一の次の数字は二以外になることは出来ない」「あり得ないんだよ、あり得るはずがないんだ。それは、因果的に考えても縁起的に考えても、決して成立しえない。デナム・フーツが死ぬっていうことは、この世界の秩序において許される出来事ではないんだ。あたしは知っていた。その時点において措定されているあらゆる初期条件を。自然界におけるあらゆる力の動向と、宇宙に含有されているあらゆる物質の状態と、その二つを完全に知悉して、更に、それらの条件を絶対的な精度によって解析することが出来た。結果として、あたしが出したのは、デナム・フーツが死ぬことはあり得ないという結論だ」「お前は、色々と、くだらないことをまくし立てたな? ああ、そうだ、そうだろうよ。お前はいくらでもデナム・フーツが死ぬということの理由付けをすることが出来るだろう。例えば、デナム・フーツは知らなかった。そこの女、グレイとかなんとかいう女がいるということを知らなかった。アルフォンシーヌだとか永久機関だとか、あたしの知ったこっちゃないが、そういう物の力によって、その女が存在していたという事実そのものを葬り去ったから、デナム・フーツは、その女が自分を殺すかもしれないという可能性そのものを察知することが出来なかった。しかしな、そんなもんは、お前によって作られたところの、お前にとって都合がいい物語に過ぎないんだよ。そんなもんは、お前にとっての物語であって、あたしにとっての物語じゃない。あのな、物語ってもんは常に多面的であって、その多面性のあらゆる方向から一つの事実をいくらでも都合よく捻じ曲げることが出来るんだ。なあ、なあ、なあ、よくよく考えてみろよ。もしも、仮に、デナム・フーツが、人間程度の低能の持ち主であったならば、そういうこともあり得るだろう。だがな? デナム・フーツはデナム・フーツなんだ……デナム・フーツなんだよ! 世界最強の魔王だよ! この世界で最も強くてこの世界で最も賢い生き物なんだよ! そんな、それほどの、高等な知性の持ち主が、あらゆる可能性に備えていないと思うか? そんな高等な知性の持ち主が、想定外なんていう愚昧を晒すと思うか? いいか、決定論的に考えれば、そんなことはあり得ないんだよ! 物理学的妖理学的に、絶対的に原理的な法則に当て嵌めて考えれば、絶対に間違うことのない完全な方程式に当て嵌めて考えれば、あり得ねぇんだ! あり得ねぇんだよおおおおおおおおおおおおおおおおっ! デナム・フーツが死ぬわけがねぇんだよおおおおおおおおおおおおおおおおっ! クソがっ、クソがっ、クソがっ、クソ馬鹿野郎がっ! なあ! おい! お前のそのクソ生意気なツラを吹っ飛ばしてやろうか!? お前が口にした全ての言葉は間違っている、お前が馬鹿だから、お前は何もかも間違っちまってんだ! 論理的に考えろ、一つの連続的出来事として考えろ! デナム・フーツは知っていなければいけなかったんだ! デナム・フーツはこうして起こることの全てを知っていなければいけなかった! お前が待ち受けていること、そのグレイとかいうクソ女のこと、ここにあるこの結界の内側に入ってしまえば、歴史が書き換えられてしまい、その結果として自分の感覚に決定的な盲点が発生してしまうということ! 知って! 知って! 知ってなければならなかった! そして、それを知ってるのであれば、その致命性に対して備えをしていなければならなかった! だって、そうだろう!? おかしいじゃないか! おかしいんだよ! デナム・フーツは、通称機関との仕事の中で、アルフォンシーヌだか永久機関だか、とにかく、そのリアリティ・ワーピングの能力がこの世界に存在しているという知識を獲得していた! それならば、その能力に対して備えていないなんてことはあり得ないだろうが! いつ、そういった能力の持ち主に襲われてもいいように、そういう準備をしておかないわけがないだろうが! 人間じゃねぇんだよ! デナム・フーツは、どうしようもなく低能な人間という種類の生き物じゃねぇんだ! デナムっ! フーツっ! はっ! デナムっ! フーツっ! なんだっ! よおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」。

 ま、真昼ちゃん……? 情緒不安定過ぎない……? 大丈夫……? ちょっと落ち着こ……? と、いってしまいたくなるような真昼のセリフであったわけだが。このようなセリフを口走っている時の真昼のアクションも、セリフ自体に負けず劣らずのオーバーヘッド・ロックンロールであった。

 右手に持っていた殺意の刃、最初は、少し前にも書いたように、何度も何度も地面に突き刺す程度の動かし方でしかなかったのだが。やがて、次第次第に、その動かし方は変わってきた。その先端、なじるようにつめるように、リチャードの方に向けてみたり。あるいは、まるで目の前にリチャードがいて、そのリチャードのことを切り刻もうとするかのように振り回したり。最終的には、ほとんど、まるで幼児がだだをこねているかのように。あるいは、ただ単純に精神がご不自由になってしまったかのように、めちゃくちゃにぶん回し始めた。そうして振り回す振り回し方には大地も虚空もなく、結果として、真昼の周囲は、その拠って立つところの岩盤さえも、取り返しがつかないくらい切り刻まれてしまう。

 また、真昼の周囲にふわふわと浮かんでいる力の波動も、これまたサテライティックに発狂していた。真昼が叫ぶたびに、その叫びと完全に同期するかのように暴れ狂い、結果として、真昼を中心として発生したある種のオーディオ・スペクトラムのような有様を呈していた。

 まあ、とにかく、真昼ちゃんはそのように叫びまくると。例えば何かのスイッチを切ったかのようにして、急に押し黙ってしまった。不気味なくらいぴたりと静止した真昼の足元は、先ほどの大暴走のせいで、かなり深く抉られてしまって、ちょっとした穴ぼこみたいになってしまっていたのだが……ただ、真昼がそのクレーターに落ちてしまうことはなかった。ふわふわと浮かぶ力の波動が足場を作って、真昼は何食わぬ顔をしてその上に立っていたのだ。

 さて。

 暫くして。

 真昼は。

 まるで。

 何事もなかったかのような。

 淑女的な、態度に、よって。

 口を開く。

 「はははっ! 申し訳ありません、ロード・トゥルース。少しばかり取り乱してしまったようですね。しかしながら、こういう態度もやはり人間らしさの一つなのではないでしょうか? いかにも劣等種であるところの、知性の下等さの発露としてお許し頂ければ光栄と存じます。まあ、それはそれとして、あたしが言いたいことは、要するにこういうことです。デナム・フーツは知っていなければいけなかった。ロード・トゥルース、お前と戦闘をしてしまえば、自分は確実に敗北し、そして死ぬということを知っていなければならなかった」「そうであるならば、だ。デナム・フーツは逃げなければいけなかった。お前と戦闘を行なうことなく、生き残るために逃げ出さなければいけなかった。当然の話だろう? だって、デナム・フーツは自分にしか興味がないんだ。自分だけが生き残ればいい。そうであるならば……例え、例えだ、一パーセントの一パーセントの一パーセントの、更にその一パーセントでも、自分が死ぬという可能性があるのであれば。デナム・フーツが、そのような危険を冒すはずがない」「あたしを守るはずがない。だって、あたしは、デナム・フーツにとってどうでもいい非対象的対象に過ぎなかったのだから。まあ、確かに、あたしを救うことに失敗すれば、つまり、あたしを取引材料として利用可能な状態でコーシャー・カフェまで運搬することに失敗すれば、なんらかのペナルティは発生するだろう。しかし殺されることはあるまい? 違うか? デナム・フーツはコーシャー・カフェの幹部だ。幹部だろう? しかも、デウス・ダイモニカスの中でも最強のデウス・ダイモニカス、魔王だ。そうであれば、ただの一度の失敗で処分されるということは考えられない。そもそも、デナム・フーツを処分出来るような生き物がいるということも考えられない。ということは、だ。そのペナルティがいかなるものであったとしても、死ぬよりはマシだということだ」「お前は言ったな。デナム・フーツはてめぇのことしか考えていないクズ野郎だったと。なあ、ロード・トゥルース。だからこそ、デナム・フーツは死んではいけなかったんだよ。だからこそ、デナム・フーツは死ぬわけがなかったんだ。同意するよ、同意する。デナム・フーツは、正義も倫理も道徳も、クソの欠片も持ち合わせちゃあいない、クズの中のクズだった。だからこそ、デナム・フーツは、あたしを守って死んじゃいけなかった」「つまりだ、つまりだな、デナム・フーツは死んじゃいないんだ。だって、死ぬ理由がない。あらゆる要素を総合的に勘案して、そこから合理的な結論を導き出してみろ。数式を何度も何度も検算して、絶対的に間違いのない精度によって答えを導出してみろ。なあ、なあ、分かるか? デナム・フーツが「死ぬわけない」じゃない。「死んではいけない」じゃないんだ。デナム・フーツは「死んでいない」んだよ。あたしはあり得るとかあり得ないとかそういう話をしているわけじゃない。実際に、デナム・フーツは、死んでいないんだ」。

 真昼は、そこまで言うと。

 ふと、視線を動かした。

 金泥の眼球が。

 ぬるりとその向きを変え。

 リチャードと、グレイと。

 その後ろにあるものを見る。

 つまり。

 デナム・フーツの。

 死体を。

「しかし、デナム・フーツは死んだ。」

 真昼は。

 軽く。

 首を。

 傾げる。

「デナム・フーツは死んだんだ。」

 その後、で。

 こう続ける。

「あたしは、これはどういうことかと聞いている。」

 なんというか、正直な話、そうですかとしか反応のしようがない真昼のエブリシングである。いや、だって、ねえ。そんなことを言われましても……会話というのは話が通じなければ話が通じないものだ。そして、今の真昼は、率直にいわせてもらうと、完全にそれだ。それ系のあれこれのためのいい病院を知っていたら教えてあげたいレベルのそれ具合だ。

 端的にいわせて頂くとするならば、何言ってんのか全く分かりませ~ん、である。真昼の言葉を読み解こうとする全ての営為が失敗に終わる。まともに取り合おうとすれば馬鹿をみる。一秒ごとに「さっき言ってたことと違うこと言ってるやんけ!」が押し寄せてくるため、一つ一つの言葉を理解したとしても、その一つ一つの理解の全てが無意味に終わるのだ。

 その上、だ。それでは、そうした矛盾が互いに結び付き合って、最終的に一つのしっかりとした総体を描くのかといえば、決してそんなことはない。真昼の話が終わった後に、その全部を改めて考え直してみても、やっぱり意味不明なのだ。徹頭徹尾、ホール・アンド・ディテール、自分にとって都合よくぐちゃぐちゃに引っ掻き回した独りよがりでしかない。

 これでは会話の相手方のリチャードも相当困るだろうと心配になってしまうが、実際のところ、リチャードは大変困っていた。まあ、確かに、デナム・フーツの死体を抱きかかえたままげらげら笑い始めた時から、やべーやつだやべーやつだとはなんとなくそう思っていたが。とはいえここまで話が通じないとは思っていなかった。しかも、この会話は、一応は謎掛けということになっているのであって、真昼の問い掛けに対してなんらかの回答を提示しなければいけないのである。だが、そもそも問い掛けの意味が分からないというのに、どうやって答えを出せばいいというのか?

 リチャードは、暫くの間、唖然とした表情をして真昼のことを見ていた。それから、一度口を開いて、またその口を閉じた。ぎりっと、上の歯と下の歯と、噛みしだくかのようにして噛み合わせて。それから、憎々しげにこう吐き捨てる「てめぇ……頭がおかしいのか?」。

 そう言いたい気持ちは痛いほどよく分かる。今まで小説の中の登場人物に感情移入したことなど一度もなかったが、今、まさに今、本当に、心の底から、リチャードがそう言ったというその感情に感情移入している。

 とにかく、リチャードは、威嚇するかのように吸痕牙を剥き出しにして続ける「てめぇは、何を、言ってやがんだ? クソ意味の分かんねぇことを、いつまでも、ごちゃごちゃごちゃごちゃと……てめぇのくだらねぇ妄想に俺を付き合わせるんじゃねぇよ! いいか、デナム・フーツは死んだんだ! 疑いようもなく、完全に、死んだんだよ! そこに死体が落ちてんだろ! よく見ろ、よく見るんだ! それがデナム・フーツの死体だ、デナム・フーツが死んだっていう証拠なんだよ! いいか、その死体は完全に破壊されている。魂は消え去っている、魄は粉々に砕けている。そして、その死体からは、明らかにデナム・フーツのスナイシャクが流れ出してんだ! 明らかに致死量のスナイシャクが流れ出してんだ! この状態で、デナム・フーツが生きてるなんてことはあり得ねぇんだよ! デナム・フーツは死んだんだよ! てめぇが何を言おうと、デナム・フーツは死んだんだよ! いいか、デナム・フーツは、俺達が殺したから死んだ、それが全てだ! それが全てなんだ! あとは全部余計なことだ、いいか、全部余計なことなんだ! てめぇがどう思おうと、てめぇが何を考えようと、それは全部余計なことなんだよ! いい加減にしろ、いい加減に目を覚ませ! つまりはこれが現実なんだよ! 現実を見ろ! 現実を見るんだ!」。

 誠にもってもっともなご意見である。実際、真昼のたわけた妄言に対してこれ以上に的確な返答はちょっと思い付けないというレベルの、教科書にお手本として載せたいレベルのイグザクトリーだ。リチャードは、恐らくは興奮し過ぎたのだろう、はあはあと荒い息をつきながら言葉を切った。そうして、その後で、この正論に対して真昼が反応するのを待つ。

 真昼は。

 そんな。

 リチャードに。

 対して。

 薄く笑った。それは、ひどく酷薄な印象を感じさせる笑い方だった。例えば、獲物を優しく優しく包み込む蜘蛛の巣のような。例えば、引き裂かれた生き物の残骸を白々しく抱き締める蟷螂の斧のような。

 真昼の。

 仮面の。

 口元が動く。

「そうだ……その通りだ、ロード・トゥルース。」

 まるで。

 真昼が。

 全てを。

 手放して。

 しまって。

「それこそが問題なんだ。」

 生命そのものを。

 仮面に委ねたか。

 の。

 ように。

「これだけが現実だということが問題なんだよ。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る