第三部パラダイス #49

 「ははははっ! その顔! なんつー顔してんだよ! あのデナム・フーツが! あの冷酷な悪魔が! あの傲慢な悪魔が!」と、勝ち誇ったように笑い続けてるリチャード。さっきから馬鹿みたいに笑いっぱなしですね、デニーに勝ったということで、というか、デニーに相対したにも拘わらず生き残ることが出来たということで、そのアンビリーバブルなミラクルがよっぽど嬉しいのだろう。一方のデニーはといえば、先ほど眼球の奥に光った光、など、とうに消え失せてしまっていて。ただ、口からだらだらと力を吐き出しながら、見ているとも見ていないとも言えない虚ろな視線によってリチャードを見ていた。もう、死ぬのも、時間の問題だ。

 ちなみに。

 グレイは。

 もう。

 口を挟む気も失せたらしい。

 呆れ切った顔を、している。

 リチャードは立ち上がる。それから、両方の手のひら、ぱっと広げて。馬鹿にするように、ひらひらと自分の体の前で振って見せる。「あー、可哀そうだ可哀そうだ、見てらんねぇよ。そんな哀れな零落の王の姿をよ。いっそのこと、もう楽にしてやろうか?」そんなことを言いながら。リチャードは、ぱっと、安っぽい手品師みたいな手つきによって、見せつけるかのように右の手のひらをデニーの方に差し出した。

 その手のひらは、瞬く間にライフェルドの光によって包み込まれて。それからその後で、ぱんっと弾けた光の繭、リチャードの手のひらには一挺の拳銃が握られていた。特に何をモデルにしたともいうことが出来ない、非常に最大公約数的な拳銃の姿だった。とはいえ、非常にライフェルド的な特徴も備えていたが。奇妙に冷たい光を放つ銃口、全体はぎらぎらと輝いている銀色の金属で出来ている。それに、まるで、余計な物だけでなく必要な物さえ研ぎ澄ましたかのようなシャープな流線形。

 じゃきん、という音。一体どこの機構がなんの必要があって立てた音なのか誰にも分からないが、それはそれとしていかにも格好良い感じの音を立てて、リチャードはその拳銃をデニーに向けると。明らかな嘲笑の口調によって「俺がとどめを刺してやろうか?」と言葉する。

 その言葉に対して反応したのはデニーではなくグレイだった。リチャードの、あまりに恥じらいなき靦然。やっぱり黙っているわけにはいかなくなってしまったらしい。グレイは、明らかに苛立っている表情をして。リチャードの方、横目で流すように睨み付けると、明らかな叱責の口調によってこう宣告する「やめろ、ホワイト・ローズ」。

 「YDSを起動させる恐れがある」「わーってるよ、冗談だって、冗談」。リチャードは、全くこいつは冗談が分からないやつだな、とでもいわんばかりの言い方でそう言うと、手に持っていた拳銃を、ぽんっと放り捨てる。拳銃は、リチャードの手から離れた途端に光の糸にほどけていって。地上に落ちる前に、大気を震わせるようにして消えていく。

 YDSはヤクトゥーブ・ディフェンス・システムの略称である。これがどのようなものかといえば、要するに死霊学者が自分の死体に仕掛けておくトラップのことだ。基本的に死霊学者という生き物には倫理の欠片も萌芽も見当たらないため、お互いに対する友情だとか信頼だとか尊重だとか、そういったものも全く存在していない。なので、一人の死霊学者が死ぬと、その死んだ死霊学者を都合のいい奴隷にしようとして、すぐに無数の死霊学者が群がる。つまり墓荒らしが始まるのだ。当然ながら、死んだ死霊学者としても誰かの奴隷になるのは嫌なので、そのような墓荒らしに備えて、自分の死体に、それを攻撃した者を攻撃し返すための対抗魔法を仕掛けておくのである。これがYDSだ。

 ちなみにYDSのヤクトゥーブという名称は、ヤクトゥーブが自らの弟子であるアルハザードから自分の死体を守るために仕掛けた魔法がこのYDSの起源であるという伝説から付けられた名前であるが。それはそれとして、ここまで意外性に溢れた展開が連続に次ぐ連続で息をする暇もなかったため、読者の皆さんはお忘れになってしまったかもしれないが、デニーは、一応、死霊学者なのである。デウス・ダイモニカスの死霊学者なのだ。と、いうことで、その身体には十中八九YDSが仕掛けてある。

 もちろん、YDSは相手にそれがどのような魔法であるかということを知られてはいけない魔法なのであって(知られてしまったら解かれてしまう)、その存在の隠蔽に特化した魔法になっている。それが実際に仕掛けられているのかどうかということさえも、実際に攻撃して反撃されるかされないかでしか判断出来ない。とはいえ、デニーのような超スーパーウルトラめちゃこん高位の死霊学者の死体にそれが仕掛けられていないわけがないのだ。と、いうことで、下手に手を出さないに越したことはない。

 まあ。

 まだ。

 デニーは。

 死んでいないが。

 それでも。

 このまま。

 放っておけば。

 勝手に。

 死んで。

 くれるという状況で。

 わざわざ。

 手を出す。

 必要、は。

 ないのだ。

 リチャードは、やれやれとでもいいたげに、一度、大きく、ふはーっと溜め息をつくと。こちら側からすればお前がやれやれなんだよお前がという話であるが、それはそれとして、デニーに向かってお手上げだとでもいうように両腕を広げて見せる。「クソ真面目なやつは、これだから面白くないんだよ。なあ、デナム・フーツ」と、厭味なほどに親しげに言う。

 その後で、何か、はっと気が付いたような顔をする。もちろん、これはわざとらしい演技の表情である。リチャードは、まるでデニーが何かを言っている、それを聞き逃さないようにしている、とでもいうように、右耳に右の手のひらを当てて、それをデニーの方に向ける。もちろん、デニーは、何も言っていない。ただただ虚ろな目をしてリチャードを見上げているだけだ。

 「何々? なんだって?」リチャードが聞こえない声を聞こうとしているかのような演技をする。いうまでもなく、そのような声などない。リチャードは自慢したいだけなのだ。自分が立てた計画、上手くいったこの計画を、デニーに自慢したいだけなのである。だから、こんな小芝居をしているのだ。

 リチャードは、それから、あたかもデニーがそう喋っているとでもいうように。そのような声、聞こえない声に答えるかのようにして言う「デニーちゃんは、知っていたはずなのに? そのグレイっていう試験体のことを知らなかったはずないのに? それなのに、なんで、その攻撃に対する警戒が出来なかったんだろう? お前、今、そう言ったのか?」。

 もちろん、デニーは何も言っていないのだが。それでも、リチャードはこう続ける。「ああ、なるほどね……はははっ! そうだな、お前は確かに知っていた。知っていたはずだった。グレイのことをな。お前は第二次神人間大戦の当時から、つまりコーシャー・カフェがまだコーシャー・カフェになる前から、ターナー・ボートライトと通称機関との連絡係だった。それなら、当然、知っているはずだ。イースターエッグに関する全ての実験と、その結果を。グレイのことについて知らないはずがない」。

 「そして、そうであるならば、仮に、イースターエッグの力でお前がグレイのことを感知出来ないようにしたところで、お前はグレイの攻撃について警戒していてしかるべきだった。そして、お前が警戒していたのならば、お前は決してグレイの攻撃を受け入れるはずはなかった。その通りだ、その通りだよ」リチャードはそう言うと、芝居がかったやり方で人差指を立てて見せた。右の人差指、左の人差指、両方をぴんと立てて。胸の前に、すっと差し出して見せる。まるで両方の手、控えめに天を指差しているかのように「俺は認めるよ。全部、全部、その通りだ。お前はグレイの攻撃を避けることが出来たはずだった。お前は、グレイを、逆に殺していた。しかし、そうはならなかった。はっはっはっ、残念ながらそれが現実だよ」。

 「なぜか分かるか?」ぱっと、両手を開く。にーっと、口の両端を引き裂くようにして笑う「いなかったんだよ、グレイなんて。ついさっき、お前が、そんな、無様にぶった切られちまうまで、グレイなんて女はいなかったんだ」。

 「グレイの力でな、デナム・フーツ。俺は、グレイがいたという歴史そのものを消し去らせた。グレイは生まれなかった。当然、グレイは量産型アルフォンシーヌ永久機関の実験体にはならなかった。つまり、お前は、グレイのことを知らなかったんだ。全然、すっかり、さっぱり、な。知ることが出来なかったんだよ。だって、そもそも存在しないものをどうして知ることが出来る?」、リチャードは、そう言うと、ゲスでありクズであり、またその双方をともにクソの極致まで到達させた者にしか出来ないようなクソムカつく顔をして笑った。

 「そして、アルフォンシーヌ・フィールドをこの結界の全体に展開させた。これが何を意味するか分かるか? おい、分かるかよ? はははっ……分かんねぇだろうな、その様じゃ。もう、まともに物事を考えることだって出来なくなってんだろ。いいさ、教えてやるよ。こういうことだ。お前は、もちろん、俺がお前を狙ってることなんて知らなかったわけだ。そうであるならば、俺に対する備えが出来てるわけなんてないし、ましてやグレイに対する備えだって出来てたわけがない。それでは、お前は、いつ、俺がお前を狙ってることを知るのか? いうまでもなく、この結界に突っ込んできた直後だ。この結界が、俺によって乗っ取られているということを知って、初めてお前は俺がお前を狙っているということに気が付く」「つまり、お前は、この結界の中に入ってきて、初めてグレイに対して警戒することが出来るようになるんだよ。初めて、グレイに対して準備をすることが出来る。だが、その結界の中に入った瞬間に、歴史からグレイは消える。ということは、お前は、絶対に、何をどう足掻こうと、俺の作戦から逃れることは出来なかったんだよ。もしも、フィールドがお前を包み込む前にお前がグレイのことに気が付いていたら、もちろん、いうまでもなく、お前はグレイに対して備えをしていただろう。フィールドがグレイに対する歴史の全てを消し去ったとしても、お前は、自分が何かに突然襲われるかもしれないということを、お前の前歴史的構造に刻み込んでいたはずだからな。しかし、それも、お前には出来なかった。なぜなら、お前がグレイに気が付くことが出来たはずのその瞬間には、グレイはもういなかったからさ!」。

 な……なげー! 長いよ! 長過ぎるよ! しかも、長い上に情報も薄い。なぜなら、グレイがいた歴史ごとグレイが自分自身を消し去っていたことだとかなんだとかは、全部、さっき、地の文で書いたことだからである。こいつ、特に必要のない台詞を長台詞で長台詞するんじゃねぇよ! まあ、とにかく、リチャードは、それくらい調子に乗ってしまっているということだ。

 ところで。

 グレイは。

 苦々しい顔をして。

 リチャードの、隣。

 ただ立っている。

 まあ、とはいえ、さすがのリチャード・ザ・調子ビッグウェーブも、これだけ喋くり倒せば言いたいことも大体言い尽くしてしまったようだ。それにテンション的にも、ようやくのこと、少しくらいは、正気に戻ってきたらしい。これだけ馬鹿騒ぎをして、しかも死にかけていてろくに返事もしてこないデニーを相手に一方的にしっちゃかめっちゃか騒ぎ立てて、胸に一抹の虚しさも去来してこないというのは、ちょっと精神的な問題があるとしか考えられないが。リチャードはそこまでのヤバヤバピーポーであるというわけではなかったらしい。

 アンソニー・角太郎、トニー・かくたろう、トニかく、とにかく。リチャードは、また、ひとしきりげらげらと笑うと。しかも、今までのように勢いよく笑い倒すという感じではなく、なんとなく慣性に任せた笑い方というか、投げやりというかぞんざいというか、そんな笑い方で笑うと。そのげらげらの終わりに、はーあ、という感じ、ちょっと気が抜けた感じで溜め息をついた。その後で、軽く肩を竦めて、デニーに言う「ま、そういうことだ」。

 ところで、言われた方のデニーはというと、生命の危機もそろそろ佳境に入ってきたようだった。その視線は焦点さえ合っていない。さっきまでは、ぎりぎりではあったが、リチャードのことを視認することが出来ているといえなくもない状態であったのに。今となっては、あの眼は何も見ていなかった。眼だけが先に死んでしまったかのようだ。

 傷口から、あるいは口腔から、流れ出していた生命の力も。その流出に先ほどまでの勢いはない。ほとんどが吐き出され尽くしてしまったのだ。口の端から流れ落ちていくその力は、こぽりこぽりと、ほんの僅かに泡立っているだけである。デニーは、もう死ぬ、すぐ死ぬ。もったとしても、せいぜいが、あと数十秒といったところだろう。

 今も、ほら見て。さっきまで痙攣していた指先が、その動作を喪失した。その筋肉、というか筋肉に類似したデウス・ダイモニカスの形而上の器官は、力を失い、弛緩し、溶けた天使のようにその白い死骸を黒い岩盤の上に晒している。

 ただ、それでも……デニーは、屍へと変貌していきながらも。それでも、その屍の内側で蛆虫がうごうごと蠢いていて、そのせいで外側を覆っている身体も動いたかのように、その顔を、その眼球の向いている向きを、動かした。それは確かに何も見ていない。けれども、その何も見ていない眼球を、デニーは、その方に向けた。

 どこに?

 ああ。

 そう。

 真昼がいる方向に。

 デニーの喉の奥で、どろりとした液体がこすれるような音がする。かっ……かっ……という感じ。恐らくは、何かの声を出そうとしているのだが、液体のように喉に絡まっている生命の力がそれを邪魔しているのだろう。

 それを見て、また、リチャードはデニーに向かって屈み込んだ。厭味ったらしく、それでいて満足そうに、にやにやと笑いながら。一言一言を区切って、不必要なほどにはっきりと分かりやすく、こう言う「なんだよ、どうした?」。それから、ちらりと、デニーの眼球が向いている方と同じ方を向く「ああ、そうか、そうだよな。お前にはやらなきゃいけないことがあったんだよな」。

 「お前は、あのメスガキを、このアーガミパータから救い出さなきゃいけなかったんだよな」リチャードは、一つ一つの文脈を、絶対的な手遅れの感覚としての過去形としてそう言う「あのメスガキを、お前は、無事に、救い出さなきゃいけなかった。送り届けてやらなきゃならなかった、パンピュリア共和国に、ターナー・ボートライトのもとに」。

 「でも、もう無理だ」「お前は失敗した」「失敗したんだよ、哀れな哀れなデナム・フーツ」「残念だったな」今までとは打って変わって、淡々とした口調でリチャードは言った。

 屈んだ体、曲げた膝。膝の上に肘をついて、その更に上、両方の手のひらの上、顎を乗せる「でも、まあ、安心しろよ」「俺達が、お前の代わりに、あいつを送り届けてやるよ」。

 リチャードはほとんど詩的ともいえるような表情をしていた。その微笑。その憫笑。死に定められており、屠られる、羊、を、見ているようなその笑い方。それは、つまり、絶対的な優位にある者の笑顔であった。それは、つまり、死にいく者を見る生者の笑顔ということだ。

 大変、表情が豊かなことですね。そんな顔をしたままでリチャードは続ける「ただ、俺達は、ターナー・ボートライトじゃなくて、REV.Mの連中にあいつを送り届けるわけだがな」。

 デニーは……一度、口を、大きく開けた。真昼に向かって。デニー自身が閉じ込めた安全という名の牢獄、絶対的な隔離の内側で、何かを叫んでいる真昼に向かって。一体、デニーが何をしようとしたのかは誰にも分からなかった。リチャードにも。グレイにも。真昼にも。なぜ、デニーは口を開いたのか。真昼に何か言おうとしたのか。あるいは、真昼を守護している障壁に対して、何かの魔学的強化を施そうとしたのか。何をしようとしたにせよ、デニーの口からは言葉が出なかった。ただただ、その開いた口、デニーは、何も音をすることが出来ないままで。かといって、閉じることさえも出来ないままでいるしかなかった。

 「お前が死ねば」そんなデニーに、リチャードは、優しく優しく告げる「お前が死ねば、あの障壁は消える」。透明な声だった、慈愛に似ていたが、かといって、他人のものである苦痛でもあった「そうすれば、あのメスガキは俺達のものになる。それを、お前は、止めることが出来ない。止めることが出来ないんだ」。

 「今から起こることを、お前に教えてやるよ。全部、全部、教えてやる。お前は、それが起こる時には死んでいて、だから、それを実際に知ることが出来ないからな。親切な俺は、お前にそれを教えてやるんだ。いいか、まず、お前が死ぬ。そして、俺と、グレイと、二人は、あのメスガキを手に入れる。あのメスガキは、REV.Mに引き渡される。俺達は金を手に入れてハッピー、REV.Mはメスガキを手に入れてハッピー。みんなが幸せになるってわけだ。まあ、あのメスガキについては……どうだろうな。俺には分かんねぇよ。あのメスガキがどうなるかってことはREV.Mの連中が決めることだ。たぶん、ディープネットとの取引に使われるんだろうな。まあ、まあ、心配すんなよ。きっと、悪いようにはされねぇよ。大切な、大切な、人質様だからな。取引が失敗しない限りは大丈夫だろうよ……ははは、まあ、失敗するだろうがな。ディープネットっつー一企業の、企業体質からいって。だが、それでも、お前が心配する必要はねぇよ。なんせ、お前は、そういった全てのことが起こる時には死んでるんだからな」そこまで話すと、リチャードは、手のひらの上に乗せている首を傾げた。なんだか、ちょっと不思議そうな顔をして言葉を続ける「それにしても……お前らしくねぇじゃねぇか。民のいない王、らしくねぇよ。お前は死にかけているのに、その死にかけている自分よりも、あのメスガキのことが気になるのか? どうしたんだよ、あいつ、ただのホモ・サピエンスだぜ? たかがホモ・サピエンス一匹の生き死になんざ、お前の執念に値することじゃねぇだろ。っつーか、お前にとってお前の執念に値することはお前だけだろ? お前は、お前だけが生きてればよかったんじゃないのか。お前だけがお前にとって重要だったんじゃねぇのか? ああ……情が湧いたって? 下等生物が更なる下等生物に情を抱くみたいに? 冗談だろ、お前には情なんてねぇよ。情があるっつーなら、自分の王国の民を、暇潰しに、皆殺しなんてしない。なんだ、なんだ、どうしたっつーんだよ。なんでお前はあいつのことを見る? なんで、お前はそこまでしてあいつを気にする? あいつに、そんな、何かがあるのか? 今のこの状況をひっくり返す、そんな奇跡を起こせるような何かが? いや……どうだろうな。もしかして、俺の思い込みかもしれねぇ。つまり、お前があいつの方を向いたのは、別にあいつに執着しているからじゃねぇかもしれねぇ。死にかけてるお前には、もう、まともな思考能力も残っていない。だから、自分が死にかけているということさえ分からない。ただ、そうなる寸前まで考えていたこと、つまり、あのメスガキのことだけを、壊れかけたラウドスピーカーが何度も何度も同じ音楽を流しているみたいに、何度も何度も考えているだけなんだ。そのせいで、お前は、ただただ機械的に、あのメスガキの方を向いただけなんだ。つまりはそういうことなのかもしれねぇな。分からねぇ、俺には分からねぇよ、お前が何を考えてるのか。ただ、それでいい。それでも構わない。今となっちゃ、お前が何を考えているのかっつーことは、もう重要じゃねぇんだ。なぜなら、お前は、今、死ぬからだ。お前が何を考えていたとしても、お前はそれを実行出来ない、お前はそれを実現出来ない。ただ、その思考を抱えたままで、無意味に死んでいくことしか出来ない」。

 今までよりも。

 ずっと。

 ずっと。

 静かに。

 リチャードは、それが起こるのを待っていた。それが起こるのが確実であると、とっくに理解しているそのことが、起こるのを待っていた。リチャードは、それがいつ起こるのか、その正確な時間も分かっていた。なぜならリチャードはノスフェラトゥだからだ。生命に関することは、どこまでも、どこまでも、容易く理解出来るのだ。つまり、デニーは、あと九秒で死ぬ。あと九秒で、この器から、全ての生命の力が流れ落ちる。

 この快楽を、リチャードは、深く深く味わいたかった。全身で、その体験に沈静するようにして味わいたかった。無駄に騒いで、この喜びを、中途半端にしか享受出来ないような愚かな真似は、絶対にしたくなかったのだ。

 ノスフェラトゥ、孤立捕食種、なのだ。リチャードは。生きることと殺すこととだけが喜びの生き物なのだ。そして、リチャードは、今、生きることと殺すことと、二つ、今まで生きてきて最大の成果を上げようとしていた。

 魔王を殺すということ。世界最強の魔王を殺すということ。そして、生き残るということ。このような経験は、滅多に出来るものではない。まるで――月並みな例えになるが――最高級のロムノド・テロスを味わうかのように、リチャードは、そのように味わいたかったのだ。

 「ああ、お前が死んでいくな」リチャードはそう言った「見ててやるよ、看取ってやる。俺は優しいからな。お前が、無様な、無様な、死に様を晒すのを看取ってやる」。リチャードは、既に人間のような顔をしていなかった。もう、リチャードは、ノスフェラトゥの顔になっていた。純種のノスフェラトゥの顔に。ただただ、獲物の死を待ち受ける吸命鬼の顔に。そうして、数を数えていた。口には出さず。自らの生命の全体で、その振動を貪るかのようにして数を数えていた。あと九秒だ。

 八秒。

 七秒。

 六秒。

 五秒。

 四秒。

 三。

 二。

 一。

 暫くの間、例えようもないほど甘美な静寂が辺りを覆った。まるで世界の全体が熟し切った白い薔薇の花束になったかのようだった。誰かにプレゼントされるために特別に作られた花束だ。リチャードは、その花束を、ニュースタンリーの午後のように贅沢な倦怠感を、柔らかく、柔らかく、深呼吸して……

 そういえば人間至上主義諸国の人間は勘違いしがちなことであるが。デウス・ダイモニカスが死んだとしてもその死体が魔法のように消えてしまうということはない。ゼティウス形而上体であるというならば、その身体は魔学的エネルギーで出来ているのであり、死ぬと同時にきらきらと光の屑のようなものになって風に吹かれて消えてしまうようなイメージがあるかもしれないが、そんなことはない。その魔学的エネルギーが妖質として具体的に具現化している以上、確かにその死体が腐敗する過程は異なってくるが、死体は死体として残存する。

 死体。

 死体。

 死体。

 「死んだのか?」グレイの声がした。リチャードは、屈み込んでいた姿勢、立ち上がった。ぐーっと伸びをした。グレイが立っている方に向かって振り返る「死んだよ」。

 リチャードの顔は、既に人間のそれに戻っていた。まるで、よく晴れた夏の朝、目覚めた後、すぐにシャワーを浴びて肉体に纏わりついている不快なものの全てを洗い流してしまったかのように。そんな、あっさりとした表情をして笑っている。

 グレイは、そういうリチャードのことを暫く見ていたが。やがて、独り言のように「意外だな」と言った。「何がだよ」「もう少し騒ぐものだと思っていた。お前は、今、デナム・フーツを殺した。お前の計画と、お前の能力によって。つまり、それは、お前の知性とお前の暴力とがデナム・フーツを凌駕したということを意味している。そのことについて、お前は、もう少し蛙鳴蝉騒すると思っていた」そこで一度言葉を止めてから、次のように付け加える「実際のお前の感情が今のような静寂であったとしても、お前はそういう芝居じみた行為が好きだからな」。

 「拍子抜けしたってか?」「多少は」グレイはそう答えてから、少しだけ考えて続ける「静かであることに越したことはないが」。リチャードは、そのようなグレイに対して答える「まあ、お前があいつの頭を切り飛ばした時に十分騒いだからな。笑ったりだとか、叫んだりだとか、そういうことはやりたいだけやったよ。あの時に、もう、俺達の勝利は決まったようなもんだ。あの時に、あの化け物が死ぬっつーことは決定していた。あの化け物が、今、実際に死んだのは、まあ、おまけみたいなもんだ」。

 「それに」それから、軽く肩を竦めて付け加える「まだ、俺達の仕事の全部が終わったわけじゃないしな」。リチャードは、ちらりと、デナム・フーツの死体の向こう側、ずっとずっと先にあるそれに視線を向ける。

 それは、未だ、障壁の中に閉じ込められていた。デニーが作り出した障壁、六重の多角形と、虹色のあぶくと、その中に閉じ込められていた。とはいえ、時間の問題だろう。デニーが死んだ今となっては、その障壁が失われるということは。

 「お前、怒るだろ? このタイミングで、俺が騒いだら。まだ終わってないだろーだの、そうやって油断するから失敗するんだーだの」グレイも、やはり、リチャードと同じ方に視線を向けて。そして、こう答える「まあ、そうだな。その通りだ」。

 いかにも重々しく、腕を組んで立っているグレイ。そのグレイの肩を、リチャードはまた叩いた。今度は、ぽんぽんと、軽く、二回。「さあ、それならさっさと仕事を終わらせねぇとな」。

 「後は楽なもんだよ。ただの子守りみてぇなもんだ。はははっ! あのメスガキを送り届けるだけだからな」「ホワイト・ローズ……」「あー、はいはい、分かってるよ。「油断するな」だろ、油断するな油断するな油断するな、もう、俺の耳の中で千人の預言者が歌ってるよ」。

 そのようなリチャードの言葉にも、気を悪くした様子など欠片も見せずに。グレイは続ける「ホワイト・ローズ、油断するな。砂流原真昼にも戦闘能力があるという報告を受けているだろう」「戦闘能力っつったって、魔学的エネルギーの矢だろ? んなもん……仮にデナム・フーツが強化してたとしても、せいぜいがセミフォルテア程度だ。怖くもなんともねぇよ」。

 グレイは、そのような態度のリチャードに対して、更に、何かしらのお説教をしようと口を開いたが。ただ、その瞬間にその視線の先で起こったことのせいで、当該お説教が言語化されることはなかった。代わりに、グレイはこう言う「ホワイト・ローズ」「ああ……お姫様のお出ましだ」。

 さて。

 その場から。

 数エレフキュビト先。

 多角形。

 あぶく。

 一つの。

 安全のための。

 牢獄。

 ぽんっと。

 例えば。

 蕾が、花開く。

 瞬間のように。

 鍵が、開いて。

 リチャードの。

 言葉の。

 通りに。

 その内側から。

 一人の。

 美しい。

 美しい。

 お姫様が。

 吐き出される。

 お姫様は吐瀉物にまみれていました。自分で嘔吐した透明な胃液が、全身にべとべとと纏わりついていたのです。そのまま、べちゃりと音を立てて、地面の上に落ちました。暫くの間、全然動くことが出来ませんでした。

 お姫様はようやく顔を上げました。それから、上半身を起こしました。それから、立ち上がりました。まるでふらふらと、一匹のクラゲが波に揺られているようです。お姫様は、今にも倒れそうな有様で立っていました。

 やがて、お姫様は歩き出しました。やがて、お姫様は走り出しました。お姫様の足は輝き始めました。それは、まるで神様のように、神様の光のように輝き始めました。お姫様は飛ぶように走ります。雲と雲とを蹴って、空を走っている、かのように。お姫様は走ります。

 お姫様を。

 迎えに来てくれるはずの。

 王子様が。

 死んでいる。

 その場所に。

 向かって。

 走ります。

 「おー、おー! 見てみろよ、グレイ!」リチャードは、グレイの肩、寄り掛かるようにして腕を置いたままでそう言った。「あのお姫様、人間の割には足が速いじゃねぇか!」それは、多少、先ほどよりもテンションが上がっている口調だった。

 それはセミフォルテアの応用技術、いわゆる神力体術と呼ばれる方法だった。本人がそれを知っていてそうしているのかは分からないが、それでもその方法であることは間違いなかった。本来は腕だけに影響を与えるはずの黒藤の弓、その黒藤を足に巻き付けて。セミフォルテアを、身体に、無理やりに注ぎ込む。そうすることによって走駆の速度を上げるという荒業。

 お姫様にしては……ちょっとは楽しませてくれそうかもしれないと、そう考えたのだろう。確かに、まあ、仕事は楽に進むに越したことはないが。とはいえ、リチャードは、本質的にノスフェラトゥなのである。狩りの楽しみがあるのであれば、その楽しみを楽しむのにやぶさかではない。

 その。

 お姫様は。

 つまりは真昼は。

 走って。

 走って。

 走って。

 そうして、その後で。

 辿り着く。

 その場所に。

 王子様が……デニーが、死んでいる場所に。数エレフキュビトの距離を、たった数秒で駆け抜けて。「デナム・フーツ!」と叫んだ。真昼は、何度も何度も何度も何度も、その名前を繰り返して叫んだ。「デナム・フーツ!」「デナム・フーツ!」「デナム・フーツ!」「デナム・フーツ!」、そうして、まるで倒れ込むようにして、デナム・フーツの死体のそばに跪く。

 真昼は、デナム・フーツの死体を抱き締めた。真昼は、だだっ広くて何もない宇宙でたった一つしかない星に縋りつくかのようにして、強く、強く、デナム・フーツの死体を抱き締めた。それは、もう死体だった。もう完全な死体だった。生命の痕跡さえも見当たらない、ただの残骸に過ぎなかった。それは真昼を見ることがなかった。それは真昼に言葉を掛けることがなかった。それは、恐ろしいほどに物体であった。

 冷たくも暖かくもない生ぬるい腕が、自らの存在の重さにさえも耐えられないかのようにだらりと垂れている。全体が、何か、真昼が見たことも聞いたこともない、よそよそしい奇妙な物質のようだった。こくりと後ろに反れた首筋が、真昼の一挙手一投足にただただ従属するかのように生々しく揺れている。

 「あ……」と、真昼は声を漏らした。その声の持っていきどころがなかった。なぜなら宇宙は無重力で、真昼はあらゆる方向の方向性を見失っていたからだ。「ああああああああああああああああっ!」と、絶叫する。まるで、その星の残骸と混じり合おうとしているかのように、母なる星と一体になろうとしているかのように、真昼は、デナム・フーツの死体と、頬と頬とをすり合わせる。そのたびに、どろどろとした生命の力、その器からこぼれ出た力が真昼の反吐と混じり合う。

 ただ。

 一つ。

 リチャードとグレイと。

 その、二人に、とって。

 不思議に思えることがあった。

 真昼は。

 これほど。

 凄惨に。

 残酷に。

 嗚咽していながらも。

 それでも。

 その眼球から。

 一滴の涙さえ。

 流していないのだ。

 まあ、とはいえ、些事だった。別にそれほど気にする必要もないだろう。例えば涙を流すということがなんらかの奇跡的な力の発動条件だとでもいうのなら別であるが、そんな話は聞いたことがない。それに、例えそうであったとしたとして、今、真昼は涙を流せないでいる。ただ単に生理的な問題なのか、それとも涙を流すことを禁じられているのか、知らないが。とにかくなんらの脅威もない。それは去勢されている。

 それよりも、リチャードは……そのような真昼の姿を見て、思わず、吹き出してしまった。くははっと、発作のように笑い始めて。それから、あーっはっはっはっはっと、高く高く笑い飛ばす。グレイの肩をばんばんと叩きながら笑いに笑いに笑い続ける「ああ! 見てみろよグレイ! お涙頂戴のシーンじゃねぇか! 胸が引き裂かれるようだ、痛々しくて見ていらんねぇよ」。

 グレイは、いかにも不愉快そうに、そのようなリチャードに対して、無言のままで非難の視線を向ける。だが、リチャードはそんなことにはお構いなしだった。そもそも気が付いてさえいないだろう。「あいつ、分かってんのかよ。自分が縋りついてわんわん泣いているその男が、デナム・フーツだっつーことを。あいつ、もしかして、自分が今まで守られてきたとでも思ってんじゃねーのか? デナム・フーツが、自分のことを助けてくれる、優しい優しい王子様だとでも思ってんじゃねぇのか?」。

 そうして。

 ひとしきり笑うと。

 ふへーっとでも、いう感じ。

 満足そうに溜め息をついた。

 その後で、リチャードは、真昼がいる方に向かって軽く上半身を傾けた。明らかに、反笑いのままで、嘲るような口調のままで、真昼に話し掛ける「あー、あー、お姫様? 俺の声、聞こえてるか? お前、砂流真昼だよな」。

 「俺は……あー……まあ、そうだな、俺のことはハッピー・トリガーとでも呼んでくれよ。たった今、ぱっと決めた、仮の名前だ。正式な名前じゃねぇが、その正式な名前ってやつが、あんまりに気に食わねぇもんでね。それから、こっちの不承面がグレイ。俺達二人は、REV.M……あーっと、REV.Mは知ってるよな? とにかくREV.Mに頼まれて、お前をデナム・フーツから取り戻しに来たんだよ」。

 リチャードの、そのような言葉。けれども、真昼はなんの反応も示さなかった。真昼は、ただただ一つの塑像になってしまったかのようだった。デナム・フーツの死体と一体化したまま、何か計り知れない力によって、沈黙の中に閉じ込められてしまったかのようだった。真昼は、顔を上げることさえしなかった。ただただ蹲って、ただただ俯いて、不気味なまでに静かであった。

 そんな真昼に対して「おい! おい! お前、俺の話聞いてるか?」だとか「すみませーん、聞こえてますかー」だとか、明らかに喧嘩売ってるとしか思えない口の利き方、茶化すようにそう言っていたリチャードであったが。やがて「だーめだ、聞いちゃいねぇ」と言いながら、いかにも飄々と、両方の腕、お手上げのポーズをして見せた。

 それから、その両手、やる気の欠片も感じさせないやり方でぶらーんと振り下ろすと「どうするよ、あれ」と言いながらグレイを振り返った。「こっちの話を聞いてないどころか、ぴくりとも動かねぇぜ。まるでデナム・フーツと一緒に死んじまったみてぇだ。本当に死んじまったんじゃねぇだろうな? とにかく……無理やり、引っ張ってくしかねぇか?」「ああ。ただ、今、手を出すのは危険だ。あの少女はデナム・フーツの死体と接触している。あの少女に手を出すということは、デナム・フーツの死体に手を出すことと同様だ」「いや、お前、同様だっつったって……じゃあ、どうすんだよ。あいつが、自分からあの死体を離すまで待てっつーのか?」「そうなるのが望ましいが……」「おいおい、冗談だろ? そんなの待ってたら日が暮れちまうよ、いや、っつーか、それどころかだぜ? 下手したら、あいつ、あのまま一切動かずに、そのまま死んじまうつもりかもしれねぇぜ?」。

 呆れ返った調子でそう言ってから、リチャードは、また真昼の方に視線を向けた「いや、本当に……わけ分かんねぇな。あいつ、自分が抱き締めてる死体が、一体誰の死体なのか分かってんのか? デナム・フーツ、デナム・フーツだぜ? それを、まるで恋人でも死んだみたいに悲しんでやがる。いや、恋人どころじゃねぇな、母親が死んだって、父親が死んだって、兄弟が死んだって、子供が死んだって、その全員がいっぺんに死んだ上についでに世界が滅びたって、あれほど嘆き悲しみはしねぇよ。あいつ、分かってんのかよ。自分がデナム・フーツに利用されてただけだって。デナム・フーツが、自分のことを、ただ単に取引の材料として役に立つから、排他的に所有権を確立しようとしてただけだって」。

 それから、わざとらしく、ぎーっと吸痕牙を剥き出しにして。首を傾げながら続ける「確かに……そりゃ、REV.Mの連中から聞いてたぜ? あのメスガキが、デナム・フーツとある種の共闘関係にあるっつー話は。でもなぁ、おいおい、あくまでも脱出を目的とした一時的な利害関係じゃなかったのかよ。あれはどう見たって利害関係じゃねぇよ。なんだ? なんだ? 何があったんだ? 何があれば、気の狂った独裁者で、犯罪組織の幹部で、良心の欠片もない殺人者で、虐殺と破壊とそれに愉快な拷問をこよなく愛する異常者を、あれだけ深く深く愛することが出来るんだ? あのメスガキが、もとからそういうやつだっつーならまだ分かるが……聞いた話じゃ、あのメスガキは、別にそういうやつじゃなかったはずだろ? デナム・フーツに心酔するようなタイプじゃなかったはずだろ? それどころか、スペキエース差別反対運動だのなんだの、そういったお嬢様のくだらねぇごっこ遊びに熱心だったんじゃなかったのかよ。正義の味方に随分ご執心だったって話じゃねぇか。そりゃあ、俺だって、この世界が正義だとか邪悪だとか、そういう風に単純に分けられるもんだとは思っちゃいないぜ? とはいえ、あいつは邪悪だろ。絶対的な正義なんてないだとか、価値観は相対的だとか、そういう洒落くせぇ御託、以前の話として、デナム・フーツは邪悪だろ。俺は知ってるよ。知ってるんだ。この世界には、意味だとかなんだとか、そういうものの手前にあるものの話として、邪悪ってもんがあるっつーことを。ただただ生命の問題として邪悪があるっつーことを。そして、デナム・フーツはそういう邪悪なんだ。もしもそうじゃないっていうやつがいるんなら、いいだろう、デナム・フーツと二人だけで一週間過ごしてみればいいさ。あの男に、自分の命を預けて、そうして一週間過ごしてみればいい。そうすれば俺の言ってる意味が分かる。あるんだ、邪悪は。真だとか、善だとか、美だとか、愛だとか、そういったものとは全く別の次元の話として、邪悪ってやつはあるんだ。あのメスガキは、砂流原真昼は……分かってんのか? 自分が抱き締めているものが、その邪悪だってことを」。

 リチャードくんさ。

 さっきからなんか。

 全体的に。

 めちゃめちゃ。

 長台詞じゃない? 

 正直な話、こういうクライマックスのシーンであんまり長台詞されてしまうと、ストーリー的にもちょっと中弛みしてしまうというか、だれてくるので、そういうことはして欲しくないのだが。っていうか本当に独り言長くない? マコト・ジュリアス・ローンガンマンでも目指してんのかよ。いや、まあ、マコトちゃんよりはマシか。などということをいっているうちに、どうやらリチャードはまだ喋るつもりらしかった。マジかよ。

 「ったく、勘弁してくれよ。デナム・フーツさえ倒しちまえば、あとは楽な仕事だと思ったんだけどな。まさかこんな面倒くせぇことになるとは……」などなどと、勘弁して欲しいのはこちらだと思わせるような、またもや長くなりそうな台詞、言葉し始めたリチャードであったが。ただ、幸いなことに、そのセリフは、ふと、そこで途切れた。

 なぜかといえば、今の今まで、眠っているお姫様のように、静かに、静かに、静寂をしていたはずの真昼が。唐突に動き始めたからである。いや、動き始めたというよりも……笑い始めた。

 初め、リチャードとグレイと、二人は、聞き間違いだと思った。何か、別の音を笑い声と聞き間違えたのだと。だが、それは間違いなく笑い声だった。

 最初に聞こえた「ふふっ」という声。それを耳にした時、二人はぞうっとした。まるで脊髄に凍り付いた水銀を流し込まれたかのようだった。この比喩表現、なんか久しぶりですね。それはそれとして、その笑い声は異常だった。

 それは、このようなごくごく普通の、思春期の少女が発していいような笑い声ではなかった。明らかに……それは、邪悪だった。いや、具体的に、どの部分が、どのように、そう感じられたかは分からない。それでも邪悪だった。

 目の前にいたお姫様は、実はお姫様ではなかった。お姫様の姿をした、お姫様の姿に擬態した、怪物だった。そう、その笑い声は、間違いなく恐ろしい怪物の笑い声だった。暗く広い海から聞こえてくるはずの、禍々しい、悍ましい、一種の癩病のような、あらゆるものを死者の黒で塗り潰す癩病のような、笑い声だった。

 「ふふふっ」と、真昼は声を続けた。おかしくておかしくて仕方なくて、ついつい笑ってしまったという感じ。せっかく、お姫様みたいな格好をして、誰も彼も騙すことが出来ていたのに。それなのに、真昼は、ついつい笑ってしまった。自らの邪悪を晒してしまった。

 「ふふ……」「あはっ」「あははっ」「あーっははははははははははははははははっ!」まるで、それは、タンバリンを叩くミリアムのように。あるいはティンダロスの猟犬のように、散乱しながら世界全体を舞踏するティンダロスの猟犬のように。真昼は、気が狂った一人の女であった。そのように、嘔吐していた。口腔から、邪悪を。自らの心臓の、その空虚から吐き出された邪悪を嘔吐していた。邪悪は時空そのものを振動させ、そして、それは、そのような笑い声になる。

 リチャード、グレイ、二人は茫然としていた。何が起こっているのかも分からず、ただただ真昼のことを見ていた。真昼は、もう、俯いてなどいなかった。まるで、世界のはらわたを食い破ろうとする、一匹の黙示録の獣ででもあるかのように。顔を上に向けて、顔を天に向けて、笑っていた。デナム・フーツを腕に抱えたまま、大地にへたり込んだまま。それでも、真昼は、もうお姫様ではなかった。

 「なんだよ……こいつ……」リチャードは、そんな真昼を見て、思わずこぼれ落ちるかのように言った。その言葉には、拭いがたく、否定出来ない形で、恐怖が纏わりついていた。そう、リチャードは恐怖していた。ほんの僅かではあった、自らは気が付かない程度であった。それでも、笑い声を恐怖していた。なぜか? なぜなら……その笑い声は……明らかに……似ていたからだ。

 それは。

 まるで。

 デナム・フーツ、が。

 笑っているかのよう。

 理由のない恐怖が一番恐怖であるが、それだった。理由はない、けれども、目の前にデナム・フーツがいた。死んだはずのデナム・フーツが、少女の皮をかぶってそこに座っていた。リチャードは、自らの内側に恐怖が膨れ上がってくるのを、なんとか押さえ付けようとしているかのように。ほとんど虚勢として、こう言う「なんだ、なんだ、急に笑い出したな。おかしくなっちまったのか?」。それから、グレイの方を向いて付け加える「どうやら、こいつ、本当にデナム・フーツのことを自分の味方だと思ってたらしいな。このアーガミパータで自分のことを守ってくれるたった一人の味方だと思ってたらしい。信じられねぇことだがな。それで、そのたった一人の味方が死んだっていう現実に耐えられないで、おかしくなっちまったんだろう。全く、悲劇的な話じゃねぇか」。

 そう言って、リチャードは、目の前にある恐怖を笑い飛ばそうとした。だが、そうすることは出来なかった。そうすることを、目の前にいる少女の形をした恐怖が許さなかった。

 リチャードのその言葉。真昼が、今までの全ての言葉の中で、初めて反応を示したのだ。そこに誰かがいるということに初めて気が付いたかのようにして、ぐるんと顔を向ける。

 真昼は、笑うことをやめていた。その代わりに、その顔は、リチャードのことを睨み付けていた。どのような表情によって? まるで……救いようのない愚昧を見るような表情によって。軽蔑と嫌悪と、その二つによって。そして、その口が、初めて、リチャードという一人の人格に向かって話し掛ける。

「現実?」

 その声は。

 例えるなら。

 サンダルキア。

 サンダルキア。

 主の怒りによって。

 滅ぼされた都市の。

 暗い。

 暗い。

 廃墟から。

 聞こえてくる。

「今、お前、現実って言ったのか?」

 「お前にはこれが現実に見えるのか? これが? これが?」真昼は、まるで透明な人形が液体で出来た暗黒を震わせるかのような声でそう言った。そんな声が、あの少女の声であるということが、リチャードには全く信じられなかった。それでも、リチャードの固定観念とは全く無関係に、それは真昼の声だった。

 真昼は、また、笑った。ただ、今度の笑いは先ほどの笑いとは違っていた。嘲笑だった。リチャードを嘲笑っているのだ。その笑いの後で、こう続ける「バーカ、これが現実なわけないだろ?」。僅かに首を傾けて、どこまでもどこまでも純粋な目をして、真昼はそう言った。それは恍惚とした愛に似た口調だった。

 「一体……なんだ? なんなんだ?」さっきまでの、いかにも、侮り、軽んじ、馬鹿にしたような口調とは一変して。まるで、ある特殊な獣が、同じような特殊な獣の、その牙の数を数えているかのような口調によって。リチャードは真昼にそう言った。

 この少女は、いや、この女は。明らかに、単なる夢見がちなお姫様では、なかった。どこかのお城でただただ救い出されるのを待っているだけのお姫様ではなかった。リチャードは、湧き上がる恐怖を抑えることが出来なかった。ただただ不気味だった。

 しかしながら、そのようなリチャードに対して……どうやら真昼はリチャードの言葉など全く無視しているようだった。リチャードの言葉などまるで重要ではないと考えているようだった。もっと、もっと、重要なことがある。

 「いいか?」真昼は言った「教えてやるよ」何も知らない子供に説いて聞かせるように。「これは現実じゃない。あたし達が生きているこの世界は現実じゃない。こんな現実が、あるわけがないだろう? 少し考えれば分かることだ。あらゆることがわざとらしく、あらゆることが偽物じみていて、あらゆることが取って付けたようで、あらゆることがしつっこい。あらゆる全てが説明過多で、あらゆる全てが曖昧で、あらゆる全てが行き当たりばったりで、そして、何もかもが安っぽい。これは、この全ては、物語だ。大して頭のよくない作者が、さして深く資料も読み込まず、暇潰しの手慰みに書いた、物語なんだよ」。

 「これを書いている作者は、この物語のことを、自分でさえ面白いと思っちゃいない。書いているこの一文字一文字に飽き飽きしてさえいる。それでも書くのを止めないのは、単にもったいないからだ。ここまで書いてやめるのがもったいないというそれだけの理由だ。ただただ惰性で書いてるだけなんだよ。つまりだ、あたし達は、今、惰性で殺しあっている。誰一人読みもしない、クソ面白くもない物語の中で、惰性で殺しあっている」真昼は、そこまで話すと、そこで一度言葉を止めた。そして、獲物の喉笛を食いちぎるかのような凄絶な笑い声によって笑った。

 そこまで言わなくてもよくない? それはそれとして、リチャードは、あるいは、その隣に立っているグレイさえも、まるで理解出来なかった。真昼が何を言っているのかということが。どうも、完全に気が狂ってしまっているらしかった。この真昼という女は。ただ、そうであったとしても、いや、だからこそ、それは危険であった。何か底知れないものに相対した時に特有の、生理的な感覚として。リチャードと、グレイと、二人は。真昼が、現時点においての理解不可能性としての危険性を秘めているということに気が付いていた。動けなかった、全然。下手に動けば、その秘められた危険性が襲い掛かってくるからだ。

 一方で、そのような二人のalert alertの感覚を、真昼は一切気にすることはなかった。ノスフェラトゥよりもノスフェラトゥじみた顔で笑いながら、真昼は続ける「愚かだな、お前は、愚かだ。まさか、これが素人小説以下の出来損ないの物語に過ぎないことさえ理解出来ないなんて。もう、救いようがないくらい愚かだよ」。

 しかしながら、そこまで話し終わると。真昼は、少しだけ考え直したようだった。「ただな、とはいえだ」人差指を真っ直ぐに伸ばして。それを二度か三度か振って見せながら続ける「これが現実であるのか、それとも物語なのか、なんてことは、実は、あたしにとってはどうでもいいことなんだよ。そんなことは、クソどうでもいいことなんだ。例えば、一人の子供が怪獣ごっこをしているところを思い描いてみろ。その子供は、自分が実際に怪獣ではないということを心に病むか? そんな馬鹿なこと、あり得ないだろう? その子供にとって、自分が実際に怪獣であるかどうかということは関係がない。ただ、自分が怪獣であるかどうかだけが問題なんだ。自分が怪獣であって、無数のビルディングを破壊し、無数の人間を殺害することが出来るかどうかということが問題なんだ。そして、その子供は、まさに、今、数え切れないほどのビルディングを壊し、数え切れないほどの人間を殺している。なあ、お前、分かるか? 実際にそうであるかということは、実は、あたしには関係がないことなんだ。あたしが実際に怪獣であるかどうかということは、あたしにとって、全く関係がないことなんだよ」。

 もう。

 汚れて。

 しまった。

 怪獣。

 それから真昼は……ふと、動いた。リチャードと、グレイと、二人は、そのような真昼に対して即座に構えをとり、なんらかの攻撃が行なわれることに備えたが。ただ、真昼は、別に攻撃をするために動いたのではなかった。

 腕の中に抱えていたデナム・フーツの死体。まるで聖遺物を取り扱う聖職者のような手つきで。あるいは生まれる前に死んでしまった救世主に別れを告げる聖母のような手つきで。優しく、優しく、地面に横たえ始めたのだ。

 「愛だって?」真昼はそう言いながら、デナム・フーツの死体の上に置いていた左の手のひら、その下に回した。「罪だって?」真昼はそう言いながら、右の手のひらと左の手のひらと、二つの手のひらの上に乗せたデナム・フーツの死体を、ゆっくりゆっくり、自分の身体の前に差し出した。「それに、救いだって?」真昼はそう言いながら、跪いた自分の身体のすぐ先、したりしたりと滴った生命の力のその上に、デナム・フーツの死体を横たえた。しゃぱり、と音を立てて、生命の力は波紋を広げていく。真昼は、そっと、一つの星が震えるかのように、デナム・フーツの死体を離す「今となっちゃあ、そんなことはどうでもいいことなんだ」。

 真昼は、目をつぶった。真昼は、自らの上半身を傾けた。デナム・フーツに向かって、何もかも寄り掛かるようにして、何もかも沈み込んでいくかのようにして。「重要なことは、結局これだけだった」真昼は、座ったままそう言った。「いいさ、教えてやるよ、つまりこういうことだ」真昼は、自分の耳を、デニーの心臓の辺りに、そっと押し付けた。そして、その中から聞こえてくる音に耳を澄ませる。そこからは何も聞こえなかった。当たり前だ、それはもう死んでいる。真昼は……まるで、祈りであるかのように。叶えられた祈りであるかのように。最後の最後を告げるかのように、こう言う「あんただけが、あたしの奇跡だった」。

 真昼は目を開く。

 その後で。

 デナム・フーツの死体から耳を離して。

 死、そのものののような静寂によって。

 静かに。

 静かに。

 その場に。

 立ち上がる。

 自らの前に、立ち塞がっている者。

 リチャード・グロスター・サード。

 星のような。

 目によって。

 冷たく。

 冷たく。

 見つめる。

 そして……それから……

 ああ、砂流原真昼は……

 それは。

 まるで。

 一つの。

 絶対的で。

 不可避な。

 決断のように。

 自分の手首。

 食いちぎる。

 右手首。

 だら。

 だら。

 と。

 滴り落ちる。

 その血液。

 真昼は。

 ゆっくり。

 ゆっくり。

 と。

 あたかも。

 一つの。

 呪いで。

 あるかの。

 ように。

 その。

 右手を。

 差し上げて。

 自分の。

 顔の。

 前に。

 差し上げて。

 自らの血液を。

 自らの眼球に。

 右目に。

 左目に。

 塗りつける。

 ずるり。

 ずるり。

 真昼の両目は。

 真っ赤に染まって。

 その後で。

 運命。

 真昼は。

 こう。

 言う。

「あたしがお前を殺す。」

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