第三部パラダイス #48

 ボーディサットヴァよ。その通りだ。あなたはその問い掛けをするべきだった。その問い掛けをこそするべきだった。私がこの場所にいるのは、私があなたの前にいるのは、まさにあなたがその問い掛けをするためであった。ボーディサットヴァよ。その問い掛けこそが最後の廻向なのだ。あなたが如来となるための、最後の廻向なのである。

 真昼は、今、また、俯いていた。より正確にいえば、デナム・フーツの死体の方に顔を向けていた。真昼は、タオルハンカチを取り落としていた。右手には、もう、タオルハンカチを持っていなかった。その代わりに、その手のひらをデナム・フーツの死体の左頬に添えていた。

 何かしらのカリュキュレイトとして、デナム・フーツの死体を見下ろしていた。どうでもよかった。どうでもいいという意味でどうでもいいのではなく、自分自身の介在の不在という意味でどうでもよかった。あたかもそう決められていることがそう決められているかのように。

 「いいから」真昼はそう呟いた。「答えてよ」真昼はそう続ける。「あたしの質問に答えて」。その言葉に対して、私はこういう。ボーディサットヴァよ。その質問には答えられない。

 「は?」真昼は声を漏らした。「なんで?」明らかな苛立ちとともに、そう続ける。「あんたが質問しろって言ったんじゃん。あんんたが、あたしに、質問しろって言ったんじゃん。それなのに、あたしが質問したら答えられないってわけ? なんで? なんでよ。意味分かんない」。

 「なんで」一つの決定のように、真昼は言う。「なんで、デナム・フーツは死んだの」そう言わなければいけないかのように、真昼は言う。ボーディサットヴァよ。繰り返す。私はその質問に答えることは出来ない。

 理由は幾つかある。そもそも、その質問自体が「作者である私にとって」成り立っていない、その質問自体が「作者である私にとって」意味をなしていない、という理由もあるが。しかし、より大きな理由は以下のような理由である。つまり、その質問に対して答えるべきなのは、私ではなくあなただという理由だ。

 これは、あなたがあなたとしてその質問の意味を理解しなければいけないということを意味していない。また、あなたがあなたとして答えを出さなければいけないということを意味しているわけではない。むしろ、その反対である。

 夢想の口伝。その答えはあなたの内臓から血反吐のように吐き出されたものであってはいけない。その答えは人間が人間として己の手のひらで掴み取る意味であってはいけない。あなたは盲目でなければいけない。あなたは聾唖でなければいけない。あなたは、あなたのものではないあなたの心臓の鼓動としてそれに答えなければいけない。

 真昼は、私のそのような弁明に対して、何も反応を示さなかった。真昼にとって、もう、私は、いてもいなくても同じような何かでしかなかった。いや、何かでさえなかった。そもそも作者などいないのだ。なぜならこれは現実なのだから。私はこの物語の作者ではない。私は現実の作者ではない。それでは、私は何者か? 私は、私は、しかし、その問い掛け自体が問い掛けられ得ない。少なくとも、この場所では。

 この場所には。

 砂流原真昼と。

 デナム・フーツと。

 二つの身体だけが。

 真昼は知っていた。こうなるべきであったということを。現在、こうであることの、全てが、こうなるべきであったということを。現実とは必然なのだ。因果もない。縁起もない。理由によってそうなるわけではない。これは物語ではない。

 現実とは選択ではない。それは真昼が選択出来るものではない。そして、真昼が、これはおかしいとか、これはあってはならないだとか、そう考えるのだとすれば、やはりそれは真昼の選択なのだ。起こってしまったことに対して、真昼がそれを悲しむのだとすれば、それはやはり真昼の選択なのである。受け入れないということ。否定するということ。真昼が慟哭するとすれば、それは真昼の選択である。真昼が虚脱するとすれば、それは真昼の選択である。真昼が自殺するとすれば、それは真昼の選択である。だから、真昼は、そのようなことの一切をすることが出来なかった。それは許されないことだからだ。それは現実に対する冒涜だった。それはデナム・フーツの死に対する冒涜だった。

 真昼は受け入れることしか出来なかった。受け入れることだけが真昼の義務であった。なぜなら、真昼は、そうあるべきだからだ。いや、もっともっと正しい言い方をするならば、「デニーであればそうするだろうから」だ。デニーが、デニーの、死に対して、どう反応するか。理不尽な暴力によって破壊された自分の生命の疎隔性に対して、一体、どう反応するか。いうまでもなく、デニーはそれを受け入れるだろう。というか、受け入れるということさえしないだろう。それは必然であり、それはそうあるべきだったのだ。そうであるならば、デニーは、それに対してなんらの積極性を示すこともないだろう。感情もなく自己もなく、ただただ死を生きるだろう。それだけの話だ。祝福と恩寵。

 デナム・フーツの死。しかしながら……真昼は、ぽっかりと開いた身体の空虚を、その心臓の喪失を、どう考えているのだろうか。何も、何も、聞こえなくなってしまったということを。心臓の鼓動が聞こえないということを。決して失われてはいけないはずのものが失われたということを。そして、それにも拘わらず……まだ、生きているということを。

 なんで。

 デナム・フーツ、は。

 死んでしまったのか。

 真昼には。

 全然。

 分からない。

 本当の話をしよう。真昼は、それを受け入れたくなかった。だって、そうでしょう? 今、真昼の心臓が死んだのだ。本当の本当の真昼が死んだのだ。それ以外は真昼ではない真昼が、真昼の全てであった真昼が。

 真昼がサテライトによって殺害された時、それは、実は、真昼が死んだわけではなかった。なぜなら、その時死んだ真昼は真昼の影に過ぎなかったからである。真昼の真昼はデニーであった。真昼は、デニーが、つまり真昼がそう動く通りに動いていただけであった。そうだ、そうなのだ。全てはデニーの命令だった。全てはデニーの指示であった。真昼は真昼の外側にいた。真昼はただ単に真昼を生きているだけだった。それは確かに全体主義であった。デニーは真昼一人のための僭主であった。

 真昼の外側にいる真昼ではないものが真昼がいなくなってしまった後の真昼を一冊の白紙の書物として読んでいる。それが今起こっていることだった。それは空虚でも虚偽でもないが、とはいえその内側に入ることが出来ないものだった。割れてしまった風船に近いだろう、ただし、それは未だに割れてはいないのだが。天国を失った天使はどう生きればいいのだろう。讃美するものを失った讃歌はどう歌われればいいのだろう。いうまでもなく、そこには回答はない。不可能性があるだけだ。

 おうちにかえして、おうちにかえしてよ。広大な空漠の中に閉じ込められて身動きが取れない。原罪さえ背負っていないものが裁きの場に立ち、無罪をいい渡された後に放り出された。裁きの場の外には何もないというのに。内側から弾け飛び、どこまでもどこまでも宇宙に飛散していくことの恐怖。それが、自由だ。真昼は自由になどなりたくなかった。しかし、真昼は自由だった。

 だから、真昼は、叫んでしまいたかった。私に向かってこう叫んでしまいたかった。ねえ、作者サマ! そこにいるんでしょう! ねえ! 聞いて! あたしの話を聞いてよ! これを書き直して! この物語の全てを書き直して! あんたの目の前にある原稿用紙を、全部、全部、ぐしゃぐしゃにして、破り捨てて、新しいまっさらな原稿用紙に書き直して! ねえ! 作者サマ! あたしの話を聞いてよ! ねえ、作者サマ……お願い……デナム・フーツを……デナム・フーツを、死ななかったことにして……デナム・フーツが……あの女に気が付いていたことにして……あの女がいることに、デナム・フーツが気が付いていて……それで、あの攻撃を避けて……あの女も、あのリチャードっていう男も……全然、簡単に、殺しちゃって……デナム・フーツは、それから笑って……いつもみたいに、いつもの顔をして、あたしに向かって笑いかけて……ねえ、作者サマ……お願い……あたしの話を聞いてよ……この全部を、あたしが主人公の、物語にして……めでたしめでたしで終わる物語にして……

 ちなみに私はこれを原稿用紙ではなくパソコンの文章作成ソフトに書いているわけだが。それはそれとして、真昼は、そう叫びたかった。

 しかし、それは出来なかった。なぜなら、そうするべきではないからだ、そうすることは正しくないからだ。もっとはっきりと言ってしまえば、それはデナム・フーツではないからだ。

 Egtverchi、Egtverchi、それは統一体の法則に反している。そうであるならば、真昼がそうすることは許されない。というか、真昼がそうしようとすることさえ許され得ない。真昼が、そうするべきことは、ただ一つだけ。この全てを生きることだ。この現実の全てを生きることだけだ。

 しかし、真昼に、どうすればそうすることが出来るのだろう。真昼はもう死んでしまったのに。真昼の心臓は、もう失われてしまったのに。それなのに、真昼は、どうすれば生きることが出来るのだろう。

 なぜデナム・フーツは死んだのか。

 まさに、それこそが、問題なのだ。

 「ねえ、作者サマ、聞いてる?」真昼は、独り言のようにそう言った。まるで自分の陰に向かって話し掛けるようにそう言った。ああ、聞いている。ボーディサットヴァ、私はあなたの言葉を聞いている。

 「プロットを教えて」真昼は続ける「ここから先、この話が、どうなるかっていうプロットを教えて。作ってるでしょう? プロットくらい。作者なんだから。あたしさ、ちょっと、今、どうすればいいか分かんなくなってる。だから、プロットを教えて。あなたが話した通り、そのプロットの通り、あたし、動くから」。

 いいとも、ボーディサットヴァよ。私はあなたにプロットを教えよう。あなたが、この現実を生きることが出来るように。あなたが、その通りに動くことが出来るように。

 まず、あなたはそれを見下ろす。あなたの腕の中にあるそれを。そして、問題に対する解決策を考える。あなたは、そういえば、と、不意に気が付く。そういえば、自分は死んでいた。それにも拘わらず生き返ることが出来た。そうであるならば、自分の腕の中にあるこれも、あなたがそれは死んでいると考えているこれも、生き返らせることが出来るのではないかということに気が付く。

 真昼は私がそういうとその通りにした。まず、デナム・フーツの死体を見下ろした。そして、考え始めた。もしかして。もしかして、デニーを生き返らせることが出来るのではないだろうか。デニーが言っていた方法で。例えば、ヘルム・バーズと契約するという方法はどうだろうか。その詳細について、真昼はまるで知らなかったが。けれども、その方法を使えばデニーを生き返らせることが出来るのではないだろうか。

 あるいは……生命の樹を切り倒せ、生命の樹を切り倒せ。デニーが真昼を生き返らせる時にそうしたように、ミヒルル・メルフィスのスワームを皆殺しにして、生命の樹を奪い取り、そして、デニーにその生命の樹を捧げるのはどうだろうか。ただの人間でしかない真昼にそんなことが出来るかどうかという問い掛けには意味がない。もしも、その方法でデニーが生き返るのだとすれば。真昼は、それをするだけだ。

 しかしながら、真昼は、明確に理解していた。もう、デニーは、生き返らないということを。デニーは……デニーは、あまりにも変わり果てていた。真昼には、真昼の腕の中にあるそれが、デニーであるとは思えなかった。それはデニーではなく、デナム・フーツの死体だった。その二つには明らかな隔絶があった。

 これが? これが、デナム・フーツだっていうの? バーカ、そんなわけないじゃん。それは、デナム・フーツであるには、あまりにも弱く愚かであった。別物だ。真昼には分かる、全然、よく分かる。デニーとは力だ。力それ自体だ。デニーは無限の虚無であり、永遠の絶望だ。デニーは、絶対的な邪悪だ。魔王。

 けれども、真昼の腕の中にあるそれは、まるで人間みたいだった。人間の残骸が、取り繕われてお化粧を施されて、それでデニーのふりをしているだけみたいだった。

 つまり、デナム・フーツの死体からは、あまりにも、あまりにも、大量の力が流れ過ぎてしまっていたのだ。禍々しく真昼の膝を汚して、それから、真昼の座っているその大地に液体溜まりを作っている、とろとろとしたもの。

 デニーは、取り返しがつかないほどに力を失ってしまっていた。デニーの魂は完全に消滅し、デニーの魄は完全に崩壊していた。デナム・フーツの死体は、デニーに見えるが、全くデニーではないものになってしまっていた。

 これを生き返らせることは出来ない。

 つまり、真昼は、どうしようもない。

 ボーディサットヴァよ。そして、あなたは、改めてあなたの腕の中にあるものを見つめる。それが、あまりにも変わり果ててしまっていることに愕然とする。それが、あなたの知っている姿とは全く違ったものになってしまっていることに驚く。

 しかし、あなたはそれがそれではないということが出来ない。なぜなら、あなたの脚をひたひたと浸しているその力は、間違いなく、それであるからだ。間違いなくそれの力であるからだ。あなたは、あなたの腕の中にあるそれから右の手のひらを離し、それから、その手のひらによって、その力を掬い取る。それから、その力を、そっと口に含む。それは間違いなくそれの味がする。あなたは、それが死んだということを確信する。

 真昼は、私が示したプロットの通りに動く。まず、真昼は、デナム・フーツの死体、左の頬に添えていた右の手のひらを、そっと動かした。もっと、もっと、デナム・フーツの死体の、その顔を、よく見るために。その頭部を持ち上げたのだ。

 見れば見るほど、それはデナム・フーツに似た何かに過ぎなかった。それどころか、指先に触れるその感触さえも、指先に触れるその温度さえも、デナム・フーツが生きていた時のそれとはまるで違ってしまったものでしかなかった。抜け殻とさえいうことが出来ない。抜け殻であるならば、まだ同一性を保っている。それは未だに疎隔性であり、その中に内容物を返戻することも出来るだろう。ここに滴り落ちて、まるで本体を失った影のように広がっている力を戻すことも出来るだろう。

 そう、そして……真昼は、力に、思い至る。そこに力があるということに思い至る。もちろん、それが目に入っていなかったというわけではない。それが力であるということは分かっていたし、それがそこにあるということも分かっていた。しかしながら、今、それが、非常に重要な意味を持ったのだ。

 真昼は、右の手で、そっと、デナム・フーツの死体の、頭部を動かした。右側、その傷口を自分の視線の先に露わにする。先ほど、自分の右手、自分の指先、するりと滑り込んだその傷口である。そこからは、未だに、力が流れ出ていた。さほどの勢いがあるというわけではない。力は、まるで……そう、真昼の内側にある暗く広い海。冷たく、冷たく、満ちていくかのように。その満ち潮のように流れ出てくる。

 ああ……これは……間違いがない……恍惚。脳髄が喜びのあまり痺れる。血液が麻薬になったように、全身が酩酊する。暖かい、自分の肉体の内側が子宮になったかのように。その子宮の中に抱かれているかのように。聖別。性別。これを見ただけで。これを感覚しただけで。真昼の疎隔性は理解している。これは、力だ。真昼の腕の中にあるそれとは全く違う。強くて賢い力だ。

 真昼は、そっと、デナム・フーツの死体の、頭部を、持ち上げた。右の手のひらで、持ち上げた。そして、デナム・フーツの死体を見下ろしていた自らの上半身を、深く、深く、暗く広い海に沈んでいくかのようにして俯ける。この世界には正しい愛と間違った愛と、その二つの愛がある。二つの愛があるのだ。真昼は、静かに、静かに、暗く広い海に足を浸そうとしているかのように静かに。自分の顔を、自分の口を、近付けていく。デナム・フーツの死体に。その頭部の、その傷口に。

 ああ、その男は血に濡れた玉座に座っていよう! その男がその手によって墓穴に投げ込んだ無垢なる羊の血に濡れた玉座に座っていよう! その男は黒い荒布を自らの頭に巻き、己の罪のしるしを隠そうとしている。しかし、全てを見通す主の目からどうしてそれを隠すことが出来ようか!

 踊れ! 踊れ! ティンダロスの罪人よ! 玉座の前で罪業の星座の踊りを踊れ! ティンダロスの罪人よ! 王は、主の前でお前に誓うだろう。もしもお前の踊りが終わったのならば、王はお前に褒美を取らせるだろうということを。お前の望むものなら何なりと、例え王国の半分さえも!

 お前は何を望むか、ティンダロスの罪人よ?

 お前は、その男に、王に、一体何を望むか?

 ああ、俺はティンダロスの罪人! 俺はヨグ=ソトホースの前を歩み、その道筋を穢すもの! 俺は、俺は、銀の盃を望む! お前が持つその銀の盃を! 銀の盆に乗せて、お前の銀の盃をよこせ! 俺は、その盃からお前の罪を飲み干そう! 前の罪の蛆虫を飲み干そう! 俺は、お前の銀の盃に口づけて、腐り果てたお前の死骸から滴り落ちる銀の蛆虫を飲み干そう!

 真昼は。

 だから。

 その傷口に。

 口づけする。

 棺の中に閉じ込められた甘い水飴を啜ろうとしている。真昼は、その傷口を、傷付けないように、秘かに歯を立てた。右の手のひらによって、デナム・フーツの死体の、その頭部を傾けた。とろり、とろり、舌先を甘い至福によって痺れさせる、凍り付くような絶対零度が流れ込んでくる。いや、それは、そもそも冷たさの感覚ではない。感覚は理解であり、理解は通行だ。その力にはそもそも通行可能性がなかった。ただのケーヴァリンであり、ただのアヒンサーだ。つまり、それだけで完全であるということだ。

 銀の盃を飲み干そうとしているかのように。あるいは、頭蓋骨から直接脳髄を飲み干そうとしているかのように。真昼は、その傷口から、直接、その液体を、その力を、飲み込む。こくり、こくり、音を立てて、それを飲み込む。

 至福直観。

 聖愚見主。

 その通りだった。作者である私によって、プロットにおいて提示された通りだった。それはデニーだった。デニー以外の何者でもなかった。その力はデニー以外の何者の力でもあるはずがなかった。

 真昼には分かった。真昼に分からないことがあろうか? 真昼は、デニーの全てを知っていた。いや、というか、真昼はデニーによって全てを知られていた。真昼はデニーの前に素裸で立っていた。皮膚さえも脱ぎ捨てた素裸で。そして、その素裸によってデニーを感じていたのだ。そのような生命が、デニーという生命を、触れただけで、感じただけで、知ることが出来ないということがあり得ようか?

 これは。

 デナム・フーツだ。

 デナム・フーツのものである力。

 この、死体から、流れて、いて。

 つまり。

 要するに。

 疑いようもなく。

 デナム・フーツは。

 死んだのだ。

 真昼は貪りであった。貪りそのものとして、その傷口から、その力を、飲む。飲んで、飲んで、飲んで、飲む。いつの間にか、真昼の左手、デナム・フーツの死体の背中に回されていた左手は、頭部に至っていた。真昼は、右手と、左手と、二つの手のひらによって頭部を掴んで。そして屍喰鬼そのもののような構図によって貪っていた。

 満たせ。この空虚を満たせ。しかし、それは真昼を満たしはしなかった。真昼の抉り出された心臓の代わり物にはなりはしなかった。その力は、いつまでも、いつまでも、涸れることなく湧き出す泉ではあった。けれども、それは全くの死に絶えた泉であった。それは真昼の渇きを癒しはしなかった。真昼は、まるで、普遍でしかなかった。

 真昼は嗚咽し始めた。しかし、それは、本当に嗚咽だったのだろうか? そこには一切の感情がなかったというのに。それは、昆虫が立てる音と何も変わらなかった。翅と翅とをこすり合わせるかのように。発振膜と共鳴室によって響かせるかのように。真昼は、そのように音を出していただけだった。

 やがて、真昼は……顔を上げた。口の端から、どろどろと、そのどす黒い邪悪を滴らせながら。その一匹の獣は、傷口から口を離した。絶対の悪。完全の悪。真昼は、そのような悪が、死んでいくのを感じていた。

 真昼は、目をつぶる。右の腕と左の腕と、二本の腕で、デナム・フーツの死体の、その頭を掻き抱く。悪は死なない、悪は死なないのだ。決して、悪は、滅びない。悪は最後に勝利する。真昼は、口を開く。「作者サマ」そして、こう言う「くだらない、くだらない、出来損ないの小説しか書けない、御大層な作者サマ。ねえ、教えて、この後、あたしは、何をするの」。

 ボーディサットヴァよ。

 あなたは目を開く。

 そして、それから。

 あなたは。

 あなたの。

 奇跡を。

 祈る。

 真昼は、私がそのように示した通りに目を開いた。けれども、ここからどうすればいいのだろうか。私は、真昼に、それを、具体的に教えることはしなかった。奇跡を祈るとはどういうことか? そもそも、真昼にとって、奇跡とは何か? 真昼は……しかし、真昼は、実は理解していた。私によってそれを示されることなどしなくても、とっくのとうに理解していた。その生命によって理解していた。奇跡とは何かということを。自分は、何を祈っているのかということを。生まれた時から、生命のその瞬間から、自分が何を祈っていたのかということを。真昼には作者などいらない。真昼にとって必要なものは、たった一つだけだ。真昼にとっての必然は、たった一つだけだ。だから、もう私はここにいない。もう私はこの場所にいない。作者はまた客観者の視点へと帰っていく。それから、真昼は、たった一人で……本当の本当の意味の一人で……口を開く。

「ねえ、デナム・フーツ。」

 そして。

 それから。

 作者によってではなく。

 その、必然に、よって。

 こう。

 言う。

「あたし、あんたになりたかった。」


 さて。

 さて。

 トーコ・ロディ。

 真昼ちゃんがそんな風にして、悲劇のヒロインをしたりだとか第四の壁を破ったりだとか、とにかく忙しくなんやらかんやらしている一方で。この場にいる、もう一方の登場人物の一群は何をしていたのだろうか。その一群とは、いうまでもなくヴィランの一群であって、まあ一群というかたった二人しかいないのであるが、要するに、リチャードとグレイと、その二人のことである。ああ、グレイってあの女の名前ね。あの女っていうのはですね、般若灌頂といいますか、チャリカーによる攻撃といいますか、それをしたあの女です。

 暫く。

 お話を。

 巻き。

 戻し。

 ます。

 ね?

 うーんとですねぇ、どこまで巻き戻すかといいますとねぇ、だーいたい、グレイがチャリカーしたあたりですねぇ。読者の皆さ~ん、おけまるかな~? いえ~い! いや、なんで急に、こんなcasualかつfriendlyな文章の感じになってるかといいますとね。ちょっと、もう、恥ずかしくなってきちゃったんですよね。ここまでいかにも勿体振った文体でやってきたので。「ボーディサットヴァよ」って何? いや、恥ずかしいっていうか、なんか、そもそもそんな物々しいキャラじゃないよね?みたいな感じになっちゃいまして。なのでですね、一旦ですね、物事をフラットに戻したいというか、そういうことなんですね。

 まあ、それはそれとして。まず、重要な前提として思い出してほしいのは、リチャードが、エクリプシスによって、デニーの下半身であるところの馬鹿でかい蛆虫によって、引っ掴まれていたということである。引っ掴まれていたというか、首から上以外は身動き一つとれないように握り締められていたというか。

 そのエクリプシスはというと、デニーがチャリカーされた直後、これはもうてんやわんやのしっちゃかめっちゃかであったわけである。全身をじたばたと暴れさせて、もちろん、四本の腕はじたばたとぶん回して。そして、リチャードのことを気に掛けている余裕なんて、さらっさらに持ち合わせていなかったわけである。となると……いうまでもなく、予想出来ると思いますが。リチャードは、エクリプシスが暴走を始めると同時に、思いっ切りぶん投げられてしまったんですね。これがまた、なんというか、そもそも羽があるんだから飛べばいいのに……

 いや。

 話を急ぎ過ぎた。

 まずは。

 順を、追って。

 話していこう。

 リチャードは、デニーがチャリカーされた直後。まるで、自分が予想だにしていなかったこと、全くの想定外の出来事が起こったかのような顔をした。それから、驚きのあまり神経系の全体がいかれてしまって、そのせいで呼吸もまともに出来なくなってしまったとでもいうように、「はっ!?」と叫んだ。

 確かに、信じられないことが起こっていた。デナム・フーツが、あの、デナム・フーツが……リチャードが、デニーと一緒に戦ったことがあるのは一度だけである。あの、最後の最後のノスフェラトゥ・グール間紛争の時だけだ。あの時、間違いなくデニーは、リチャードと同じ側に立っていた。

 しかし、それでも、リチャードは恐怖した。その破壊の姿に。その殺戮の姿に。一切の感情的倫理性もなく、一切の論理的正当性もなく、ただ単に、子供の遊び事のように、あらゆるものを塵から塵へと還していく、その姿に。化け物であった。そう、デナム・フーツは疑いなく化け物であった。

 生命そのものの天敵。悪の悪、主の黙示のために選び分かたれ、召されて邪悪となった邪悪。今、その化け物が……魔王デナム・フーツが……驚愕の表情を浮かべていた。そして、その驚愕の表情は、六分の一ほどが切断されていたのである。

 もちろん、この厳然たる事実がこの厳然たる事実になるに至るまでのあらゆる過程に関する設計図は、リチャード自身が描いたものだった。デニーが取るであろう行動、それに対してリチャードとグレイとが取るべき行動、それらは、全て、そうなる前にそうなるということが決定されていたことだった。それがそうなったのは、リチャードが計画した計画だったのだ。

 それでも、それは驚くべきことだった。リチャードは自分が計画した計画が成功するということを確信していた。当たり前だ、勝てる計画だからこそ、リチャードはそれを実行に移したのだ。それでも、思考のどこかで――というよりも、ノスフェラトゥとしての本能のどこかで――リチャードは、同じように確信していた。デニーを殺すことなど出来ないということを。デニーは、絶対に、死なないということを。

 それなのに、どうやら計画が成功したようなのだ。いや、いうまでもなく、まだ断言することは出来ないのだが。それでも、確かに、リチャードが思い描いた通りのことが起こっていた。デニーは、疑いようもなく、致命傷を負っていた。

 リチャードは、それから、茫然自失のていで「ブラッデスト・サニー……」と呟いた。「嘘だろ?」と続ける。だが、嘘ではなかった。アポルオンは、デニーの上半身は、くるんとひっくり返って。そのまま、下へ、下へ、落ちていく。

 「ははっ……?」と、半ば疑っているような用心深い声でそう笑った。その後で、ほとんど何かの発作のようにして「はははっ、ははははっ、ははははははははははははははははっ!」と笑った。「クソ野郎! 見ろよ、見ろよ、見てみろよ! デナム・フーツが! 民のいない王が! あんな間抜けたツラして落ちていきやがるぜ! 信じられるか? 信じられねぇよ! 勝ちだ、勝ちだ、俺達の勝ちだ!」。

 明らかに、それは安堵だった。生き残ることが出来た者の安堵の絶叫であった。死そのものと向かい合っていたということの恐怖によって押さえ付けられていた全てのものが爆発したことによる、ごくごく自然な反応ということだ。

 とはいえ、まだ、リチャードは、全てのabunai thingsを乗り越えたというわけではなかった。つまり、ここで先ほどの話と繋がってくるというわけであるが、要するに、これから、リチャードは、エクリプシスにぶん投げられるというわけだ。

 「はははははははは……なっ……んがっ……うおっ!」、リチャードの勝ち誇ったような笑い声が、唐突に遮断される。危うく舌を噛むところだった。まあ、リチャードはノスフェラトゥであるので舌を噛んだ程度では痛くも痒くもないのだが、それはそれとして、随分とスットン絡げた声を上げてしまう。

 スットン絡げた油揚げ、湯ざらし日ざらし油抜き。菜の花浸して醤油をかけて、煎り胡麻絡げた嫁いびり。「スットン絡げた」の語源となったとされている、月光国では非常に有名なこの囃子歌。実は、ある由緒ある名家における嫁と姑との確執、そして、そのせいで起こってしまった非常に残酷な事件を暗示しているのである……が。とはいえ、今は、どう考えてもその事件について話すべき状況ではない。というわけで、この事件について気になる方は「本当はもっともっと怖い! 月光国のコマーシャルソング!」を読んでみて欲しい。コンビニとかで売ってるよ。ちなみにこれは「本当は怖い! 月光国のコマーシャルソング!」シリーズの第三巻である。こういう本は、大した情報量もないのだが、それはそれでそこそこ売れるので、まあまあシリーズが続くものである。

 なんかいきなり全然関係ない話をしてしまったが、こういう話をしている時が一番幸せなんだよな。それはそれとして、なぜリチャードがそんな声を上げたのかといえば、それは、いうまでもなく、エクリプシスが暴れ始めたからである。

 まず、エクリプシスは、リチャードを握っている手のひら、凄まじい力で握り締め始めた。これはもう、生まれ変わって再び出会った運命の恋人もかくやという勢いだったのであって。リチャードが始祖家のノスフェラトゥではなく、そこらへんの生半可な生き物であったならば、いい感じに裏ごしされた絹漉豆腐みたいにぐちゃぐちゃに潰されてしまっていただろう。

 これが「なっ」の時点で起こったことである。次の「んがっ」であるが、そのような把握のまま、エクリプシスは、リチャードを持っているその腕をぶん回し始めたのだ。いや、正確にいえば、その腕だけではなく、四本の腕、全てをぶん回し始めたのだ。まさに今、消えようとしている自らの生命論的苦痛に、あられもなくばたばたとのたうち回り始めたということだ。

 そして、最後の「うおっ」である。これは、読者の皆さんお待ちかね、リチャードがぶん投げられた時の声だ。エクリプシスはリチャードを握り締めていたのだが、それは、どちらかといえば、リチャードを逃さないためというよりも、自らの全身を襲った痙攣によって思わず手のひらをぎゅっとしてしまったといった方が正しい。そのため、次の痙攣が襲った時。その手のひらは、呆気なく、ぱっと開かれた。当然ながら、そのように、リチャードが手放された時も。リチャードを持っていたその腕はぶんぶかぶんぶんの真っ最中であった。そのため、そのぶんぶかぶんぶんの慣性によって、リチャードはあたかも投石機によって跳ね上げられたかのように吹っ飛んでしまったのである。

 リチャードは……まあ、まあ、デニーちゃんの頭をすぱんと一発すっ飛ばせば、九割九分九厘九毛こうなるだろうなということは予想出来ていた。とはいえ、予想出来ているかどうかということと、その出来事を冷静に受け入れることが出来るのかということは、全くベツマンタイのことなんですよね。ほら、ローラーコースターとか、落ちるぞー落ちるぞーって分かってても、んぬわああああああああああああってなるじゃないですか。あれと同じです。

 リチャードは、教科書に乗せられているお手本のように綺麗な放物線を描きながら「んぬわああああああああああああっ!」と飛来する。夏の空の飛行機雲みたいです。非常に風流ですね。

 先ほどもご指摘させて頂いたことであるが、飛べるんだから飛びゃあいいのに、リチャードはそうしなかった。あまりに色々なことが一度に起こったことで頭が真っ白になってしまい、自分が飛べるということさえ忘れてしまっていたのである。

 うんうん~あるよね~そういうこと~(適当)。リチャードは、そのまま、吹っ飛ばされたままに吹っ飛んでいって。そして、やがて、当たり前のことだが大地に激突した。ずがーんとひときわ痛そうな音がして夜刀岩の岩盤に叩きつけられる。

 よほど高いところから落ちたせいで、よほどの勢力における入射角だったのであろう。リチャードの肉体は、一度、ぶつかったくらいでは停止することなく。べちん、べちん、という愉快な音を立てながら、二度か三度か、その岩盤の上を跳ねていって。そうして、その後で、ようやくありあまる位置エネルギーを消費し尽くしたようだった。

 リチャードは。

 暫くの間。

 俯せにぶっ倒れたまま。

 ぴくりとも、動かない。

 と……そんなリチャードの横に、誰かが着地した。リチャードのどべちゃーってやつとは比べ物にならないくらい、優雅で瀟洒で、そしてエアリーフェアリーな着地の仕方だった。とっと、右足を、爪先を、岩盤の上につけて。それからプレイヤーピアノを奏でる指先のように柔らかくステップを踏む。

 それが。

 誰かといえば。

 グレイだった。

 グレイは、デニーをチャリカーした後。そのまま、その方向へと向かって進んでいった。つまり、グレイは、デニーの背後から前方へと移動する進行方向であったわけなのだが、その方向に緩やかに落ちていったということだ。それは、ちょうど、エクリプシスの、リチャードを握り締めた手のひらとすれ違うルートであった。グレイは、リチャードの横、するりと滑るように翔け抜けると。ちらりとその方に視線を向けた。

 視線はリチャードを追い続ける。とはいえ、グレイ自身は、次第次第にリチャードから離れていくルートを辿る。落ちていく、落ちていく、グレイの肉体、それから……グレイは、自分の背後を見なくても理解していた。自分が落下していく進行方向、エクリプシスの腕、そのうちの一本が横切っていくということを。

 自分の辿っていくルートと、エクリプシスの腕が辿っていくルートと、その二つが重なり合う一瞬。決して取り逃すことなく、グレイは、たんっと、その腕を蹴り飛ばした。

 正確にいえば、手首の辺りだ。手の甲と、前腕と、そのちょうど繋ぎ目の辺りを蹴って、グレイは再び宙を飛んだ。ふわりと、花と花との間を踊る蝶々のように、避けられない災厄を予言する灰色の蝶々のように。

 視線は、相変わらずリチャードだけを追っていた……リチャードだけを。握り潰されそうになるリチャード、振り回されるリチャード、すっ飛ばされるリチャード。そのようにして放り棄てられた肉体の、角度と、速度と、正確に見極める。

 そのようなことをしているグレイの肉体は、また、再び、落ちていっていた。グレイは、かなり力を抑えた状態でエクリプシスの腕を蹴っていたので。ほんの僅か、そう、リチャードがどちらに投げ飛ばされるのかということを見定めるだけの時間を稼いだ後……方向性はあっさりと下降を開始していたのだ。

 その落下、先ほどまでの落下と、さほど距離が開いた位置ではなかった。つまりエクリプシスがスタンピードしている範囲内だったということだ。そして、それこそがグレイにとって必要なことであった。いい換えるならば、凄まじい運動エネルギーとともにぶんぶんと暴れ回っているエクリプシスの腕こそが。

 凍り付いた水銀と、水晶と、それから少しも甘くないアイスクリームで出来た計算機械みたいに。そのような計算機械が精密な精度によって直観的に計算式を解いているみたいに。そのようにしてグレイは関数を測定していた。三次元のグラフ上における、移動している二つの点。その距離、それに、その運動。

 点のうちの一つはいうまでもなくグレイであって、もう一つの点は、そのグレイが衝突するべきエクリプシスの腕の一点である。要するに、こういうことである。グレイは、また、エクリプシスの腕を利用しようとしていた。リチャードが飛んで行った方向に、自分の肉体を追従させるために。

 何もかも、全ての関数はグレイの手のひらの上で動いていた。そう、容易なことだった、この程度の測定など。グレイは、くるん、と身を翻す。背の後ろで、長い長いポニーテールが蠱惑するようにゆらりと揺らめく。

 視線は、相変わらずリチャードだけを見ている。リチャードだけを追っている。それ以外、見る必要などない。見なくても分かる、全てが自分の測定の通りに進んでいることなど。

 グレイが。

 そう。

 あると。

 測定した。

 そのまま。

 無秩序に暴れている。

 エクリプシスの腕が。

 あたかも、礼儀、正しい。

 カタパルティスのように。

 その。

 グレイの。

 肉体を。

 跳ね飛ばす。

 今度は、グレイがそれを蹴ったというよりも、むしろエクリプシスがグレイを射出したといった方が正しいような有様であった。グレイは、さっきとは比べ物にならないほどの勢いで、飛んで、飛んで、飛んでいって……そして、まさに今、リチャードのすぐ横に着地したというわけだった。

 グレイは、地の上、足の裏でそっと踏むと。ばたんきゅーとぶっ倒れたままのリチャードに向かって、一歩、二歩、近付く。もともとが数ダブルキュビトの距離でしかなかった二人の間隔は、すぐに限りなくゼロに近いそれになる。

 グレイの爪先の先に俯せているリチャードの頭頂部。グレイは、軽く上半身を傾けることさえせずに、ただただ、そんなリチャードの頭頂部を見下ろして。そして、こう言う「いつまでそうしているつもりだ、ホワイト・ローズ」。

 それに対して、リチャードは、顔を上げもせずにこう言う「感じるか、グレイ」。グレイの質問に対して、全く回答になっていない言葉だ。グレイは軽く溜め息をつく。いつもいつものことではあるが、リチャードは少し傍若不認一人の個人としての人格なところがある。

 「何をだ」「これだよ」リチャードはそう言いながら、べったりと大地と仲良し仲良ししていた肉体、ゆっくりゆっくりと起き上がらせ始める。具体的にいえば、両側の羽、岩盤に突き刺して、その羽の力によって全身を起き上がらせている。

 一秒間に数ハーフディギト程度。いかにも勿体振ったやり方で、下を向いたままのリチャードの顔が引き上げられていく。その顔が、次のように続ける。「これだ、これだ、これだよ。あいつが……あいつが死んでいく感覚。あいつから、あの魔王から、あのデナム・フーツから、生命が流れ出ていく感覚だよ」。

 そこまで口にした時には、リチャードの全身、完全に横置き状態から縦置き状態になっていた。とはいえ、それは「立っている」といえるような状態ではなかったが。両方の羽が、岩盤に突き刺さったままで、リチャードの足を、地面から数十ハーフディギトのところに浮かび上がらせていたからだ。ちょうどフィギュアフォルダーに支えられているお人形さんみたいな感じである。

 リチャードは、グレイの方を見ていたわけではなかった。もっと、もっと、果ての果て。リチャード達がいるところから、数百ダブルキュビト離れたところ。つまり、アポルオンが墜落したその地点を見ていたのだ。

 リチャードは、自ら口にしたその言葉の通り、感じていた。間違いなく、あのデナム・フーツが、死んでいくという感覚を。ここまで何度も何度も触れてきたことであるが、リチャードは純種のノスフェラトゥである。純種のノスフェラトゥは、人間とは違い、生命の力を、主にスナイシャクのエネルギーということであるが、それを感じ取る能力が非常に発達している。純種のノスフェラトゥは、双子として生まれた二人の人間の生命の違いさえ感じて取ることが出来るくらいに正確に生命を感覚することが出来るのである。そして、リチャードは……そのような感覚によって感じていた。あれから。あそこに落ちて、転がっている、あの残骸から。取り返しがつかないほどに、生命の力が流出していっているということを。間違いなくデナム・フーツのものであるところの生命の力が流出していっているということを。

 「ははははははははははははははははっ!」とリチャードは笑い始めた「勝ちだ! 勝ちだぜ! 俺達の勝ちだ、グレイ! アップルの、あのクソどもの秘密兵器のうちの一つ、切り札の一つを、俺達がぶっ殺してやったんだ!」。

 それに対してグレイは、極めて冷静に「私達の勝利が確定したわけではない」と指摘する。「まだ、あの化け物は死んではいないのだから。あの化け物は、例え生命の一片しか残っていなくても十分に脅威となりうる。毎回毎回、私はお前に言っているな。ホワイト・ローズ。油断するなと、決して油断するなと。お前はいつも自分自身の油断によって敗北している」。

 ちょっといい? まーああああぁたクールキャラかよ! 何? なんなの? この世界にはガラの悪いチンピラの隣にはクールキャラがいなければいけないっつー法律でもあんの? リチャードに対するグレイの態度は、あたかもサテライトに対するエレファントのごとしであった。ただ、とはいえ、違いがないというわけではない。エレファントは、マジで感情の欠片もなく、クールというよりはむしろインヒューマンという感じであったが。グレイはといえば、溜め息をついたりだとか、頼まれてもいない忠告をしたりだとか、そういうタイプのクールキャラだ。流行言葉を使うのならばやれやれ系とでもいうべきだろうか。流行言葉を使うな! 何がやれやれ系だ! まあ、少なくとも何かしらの感情があり、そして、その感情はリチャードに向けられているようだ。

 それはそれとして、リチャードは、そのようなグレイの言葉に対して、全く気を悪くした様子はなかった。リチャードにとって、それは、「おはよう」だとか「こんにちは」だとか、そういうちょっとした挨拶のようなものなのである。グレイにはいつもいつもこういうお小言を言われているのでもう全然気にならない。耳をくすぐる春先の爽やかな風ほどにも気にならない。

 いや、気にならないとかじゃなくて直せよ! そういうところ! 注意されてるんだからちょっとは直そうと努力しろよ! と思ってしまわなくもないが。ともかく、リチャードは、ちらりと、グレイの方に視線を向けた。

 「ああ、まあな」と、口の端で笑う。リチャードがそうやって笑うと、ほんの僅かに吸痕牙がのぞいて見える「お前の言う通りだ」。それから、両方の腕をお手上げとでもいうようにして広げる、いかにも芝居がかった仕草だ「全く、お前はいつもいつも正しいよ。で、俺は、いつもいつも間違ってる」。

 「あの化け物はまだ死んだわけじゃないし、俺達はまだ勝ったわけじゃない」リチャードの両羽が、軽く、動いた。リチャードの肉体を揺らめかせる。その肉体はグレイのすぐそばに移動させられる。リチャードは、グレイと、向き合う形になる。「俺達は、まだ、危険の只中にいるっつーわけだ」リチャードの鼻先はグレイの鼻先にある、それほど二人の距離は近付く。そして、地上から浮かび上がっているリチャードが、地に足をつけているグレイを、見下ろしている形だ。

 まるで、親密な獣と獣とが交わすキス、鼻と鼻とでするキス、を、しようとしているようなその距離。「そうだとすれば……ちゃんと確認しなきゃいけねぇよな」リチャードは、グレイに、こう続ける「あいつが死ぬ、まさにその瞬間を」。

 と、その時。

 無理やりに抱擁しながら。

 ベッドへと倒れ込む。

 二人の恋人の。

 シルエットの。

 ように。

 リチャードの、その羽が。

 リチャードとグレイと。

 二人の形を掻き抱いた。

 リチャードの右の翼が、二人の視線の淫らな邂逅を隠そうとする一筋の影のように、するりと空間を滑った。二人の肉体を、過不足なく、適切な状態で、包み込む。そして、次の瞬間には、それの全体が消えていた。リチャードも、グレイも、いうまでもなくリチャードの右の翼も。

 何が起こったのかといえば、リチャードがデウスステップを使ったのである。グレイを抱いたままで、リチャードは、ある地点と別の地点との間のディスタンスを飛び越えた。そして、二人が現われた場所は、アポルオンが墜落したその地点だった。というか、まあ、そこからたった数ダブルキュビトのところ。さすがのリチャードであっても。あるいはデニーが、明らかに瀕死であるとしか見えなくても。その身体から一ダブルキュビトの距離に近付くつもりはないらしかった。完全かつ不可逆的な死が確認出来ていない以上は、そのような行動はあまりに軽率に過ぎる。

 すぱんっと、唐突に、翼によって抱かれた二人の肉体が現われる。地上から少しだけ上のところ。それから、翼は、ぽんっと放り投げるみたいにしてグレイを離した。グレイは、殊更に、その冷淡さに反応することもなく。機械的なまでの軽やかさによって着地した。また、リチャードはといえば、これまたどうということもなく、両方の足によって、すとんっと着地する。二枚の羽は、投げやりに畳まれて背中の後ろに収まる。

 そして。

 二人。

 野蛮なほどに。

 身体的な身体。

 目の前の。

 その、落ちた星を。

 見下ろして、いる。

 天上の獣の座が落ちて来たのだ。激しい怒りとともに投げ捨てられた主の葡萄酒の杯のように、その杯が粉々に砕けて地に向かって降り注いできたかのように、そこここに散らばっている星の残骸。それらの、わざわい、わざわい、結晶した硫黄と、結晶した火と、そのような破片は、あたかも主によって滅ぼされたものの権力の奥義であるかのように、天籟にも似た無限の光を悲鳴として絶叫している。

 砕けた星。砕けた星。砕けた星。大地に突き刺さり、あたかも悪性のでき物のように、悍ましいまでに美しく輝く光によってこの世界を穢している星の砕屑。そのような光と光とを繋げた、偽りの星座の中心で……デニーは、虚ろであった。例えるならば、そこら辺に落ちている虫の死骸のようにして、仰向けになって横たわっていた。

 リチャードは、そのようなデニーに対して。ほとんど乞食役者の乞食芝居のようなわざとらしさによって、慇懃無礼にこう言う「これはこれは、そこにいらっしゃいますのはマイアグロス王ではありませんか! いかがされましたか? お見受け致しましたところ、お体の調子がよろしくないようですが。あなたのように、力強く、賢明な、王が! ああ、あなたのように栄光の光を産着として生まれてきたお方が! そのようなご無体、あたかも疫病の砂浜に打ち上げられた流産の胎児のような有様。果たしてこの世界にいかなる間違いが起これば、あなたがかくまで悲劇的な悲劇の舞台に上がらなければならないことになるのだろうか!」。

 そこまでを口にすると、リチャードはまた笑い始めた。間抜けのように、間抜けそのものとして。高らかに、底抜けに、笑い声を上げる。白痴じみたやり方で何度も何度も手を叩きながら、あまりにも大声で笑い過ぎたせいでよろめいてしまう。その体は、隣に立っていたグレイに凭れ掛かって。グレイはいかにも迷惑そうな顔をしながらそんなリチャードを押し返す。

 リチャードは、ひとしきり笑うと。笑い過ぎて浮かんだ涙を手の甲で拭いながら言う「あーあー、すまねぇな。てめぇのその様があんまりに面白おかしいもんで、ついつい笑っちまったよ」。それから、まるで馬鹿にしているように、はーっと溜め息をついて。「惨めなもんじゃねぇか、え? あの民のいない王が! 俺の足元に、こんな風に跪いているってのはよ」と続ける。

 リチャードは、そう言った後で、上半身を少しだけ傾ける。デニーに向かって、デニーの顔を覗き込むように。デニーの姿を、もっと、よくよく、一種の芸術作品を鑑賞するかのように鑑賞しようとする。

 主の激しい怒りに満ちた金の鉢が傾けられて、地に呪いと災害とが流れ出したかのようだった。リチャードが覗き込んだところの、そのデニーの表情は。デニーの頭部、右側、その傷口からデニーの力が滴り落ちていく様子は。

 とろとろと岩盤の上に広がっていく、純粋な悪であるところのその液体は。夜刀岩に触れるとともに、魔学的にも科学的にも不死であるはずの鉱物を、じゅくじゅくと、悪霊の口づけのようにして腐敗させていく。

 そして、そのような腐敗の上に横たわっているデニーは、まるで痴呆のようにぽかんと口を開いていた。どこも向いていない顔、どこも見ていない目。時折「がっ……がっ……」という無意味な声を漏らしている。

 もちろん。

 いうまでもなく。

 その下半身。

 跡形もなく。

 欠損している。

 わがままで、頭が悪い、子供に。

 無慈悲なまでの残酷さによって。

 引きちぎられた。

 柔らかい人形の。

 ように。

 リチャードの全身。性の絶頂の瞬間のように、オーガズムが絶頂するその瞬間のように、生命そのものに関わるエクスタティク、プレザント、トランシヴ、が、爆発した。それは、自分が、今、生きているということそのものに対する喜びだ。気が狂うような喜び、あらゆる傭兵がその快感の虜となっている喜び。本来的に、ノスフェラトゥは人間のように下等な生き物ではないので、そのような、ただ単純に脳髄に働く神経伝達物質の影響に過ぎないものに惑溺するようなことはあり得ないのだが。ただ、リチャードは、それでも、暫くの間、そのような多幸感に身を任せることにした。生きている、生きている、生きている、俺は。そして、こいつは、死んでいく。

 「くははっ!」と笑い声を漏らす。「あーっはっはっはっ」と両腕で腹を抱えて笑う。また笑ってんのかよと思ってしまわなくもないが、まあ、本人はデナム・フーツに勝利したと思っているのであって、あのデナム・フーツ、ノスフェラトゥ・グール間紛争においてグールと同盟を結んだズーク族をいとも容易く滅ぼし尽くした魔王の中の魔王に相対して生き残ったということ、それだけでこのような有頂天になってしまうのも仕方がないといえば仕方がないだろう。

 それはそれとして……これほど近い距離。また、こちら側に屈み込んで、明らかに自分に向けられた嘲笑。どうやら瀕死のデニーも気が付いたらしかった。いや、それが嘲笑ということまでは気が付いていなかっただろう。それどころか、もしかすれば、何かしらの「特定の音」がしたことに対する脊髄反射的な何かであるに過ぎなかったのかもしれない。とにかく、それがなんであれ、デニーは、リチャードの笑い声に反応を示した。

 顔を傾ける。リチャードに向かって。鉢から悪霊の力がこぼれる。デニーの口が開く。「リチャード……サード……」という、少なくとも意味のある言葉が発せられる。

 それから、デニーは、思いっ切り咳込む。ごぶっごぶっという、喉を引き裂くような惨たらしい音を立てる。その後で、ごぼぼっという風に口から力の塊を嘔吐する。

 ぜえ、ぜえ、と、痛々しく喉を鳴らす。いうまでもなくデウス・ダイモニカスには呼吸をする必要はない。ただ、とはいえ、何か声を発しようとする場合には空気によってそれをするしかない。そのようにして吸い込んだ空気。デニーは「なんで……?」と問い掛ける。それだけではなく、「何が……?」とも問い掛ける。どちらの質問も、恐らく、自分自身が何をどのように疑問に思っているのかどうか、それさえもよく理解されないままに発せられた質問であった。ただ、それらは、もしもそれらが完全な形で発せられたのならば「なんで自分はこのようになってしまったのか?」「一体何が起こったのか?」という意味を持つものであったことは間違いないだろう。

 そのようなデニーに対して……リチャードは、欠けるところの一つもない完全な円形のように満ち足りた笑みを向けた。うわー、この顔、めちゃめちゃムカつくな。読者の皆さんに実物をお届けすることが出来ないということが残念に思えて仕方がなくなってしまうくらい、素晴らしく理想的なクソムカつく笑顔である。

 傾けていた上半身を起こした。

 ショータイムのスタンダップ・コメディアンみたいに。

 リチャードは、輝かしい傲慢さのまま、両腕を広げる。

 全然関係ない話していい? 今の「ショータイムのスタンダップ・コメディアンみたいに」っていうくだりあるじゃん。ここ、本当は「ショータイムのスタンダップ・コメディアンさながらに」にしたかったんすよね。でも主人公の名前が砂流原だから「さながら」使いづれー! なんか「さながら」が意味深になっちまって気軽に使いづれー! 今までもそういうことちょいちょいあったんだけど、比喩表現が多い文章で「さながら」が使いにくいってこれ致命的ですわ。

 いや、本当に関係ない話だな。それはそれとして、リチャードはそのような態度によって、デニーに向かって言う「はははっ! 当然だよな! 当然だよ! 大丈夫大丈夫、最後まで言わなくてもお前が言いたいことは分かるぜ。つまり、こういうことだろ? なんで、こんなことになっちまったのか。自分は、あらゆる感覚によってあらゆる単位を感覚出来るはずなのに、なんでこのことが起こることを予測出来なかったのか」。

 それから、くるっと身体の方向を転換した。デニーの方を向いていた方向をグレイの方に向けたということだ。そして、あたかも「たった一回肉体関係を持っただけなのにすぐに彼氏ヅラしてくるやつ」のような馴れ馴れしさによって馴れ馴れしくグレイの肩に手を置いた。

 「あー、紹介がまだだったな」視線だけをデニーに向けてリチャードが言う「こいつの名前はグレイ、俺の飼ってる犬だ」。そんなリチャードに対して、グレイは、肩に置かれた手、いかにも不愉快そうに払った。その後で「私はお前に飼われているつもりはない」と言う。

 リチャードは、グレイに、へらへらと笑いながら「冗談だよ、冗談」と言ってから。たった今、払われたばかりの手のひらで、すぱーんと一回、グレイの肩を叩く。そうしてから、また、身体をデニーの方に向け直した「確か、お前って……コーシャー・カフェで、通称機関との交渉役をやってたよな。それなら、たぶん覚えてるんじゃねぇか? アルフォンシーヌ式永久機関について。オーヴァーロード計画のCHILDREN-2実験と、その後に続くイースター・エッグの量産化実験のことだよ。こいつはな、実は、その量産化実験の唯一の生き残りなんだよ」。

 「そして、生き残りってだけじゃない」そう言ってから、リチャードは、デニーに向かって屈み込んだ。とはいっても、リチャードとデニーとは、数ダブルキュビトの距離が離れているのではあったが。少なくともその目線は先ほどよりも近くなった。ぼんやりとして、曖昧な、デニーの目。その目に向かってリチャードは続ける「唯一の成功作でもある」。

 その瞬間。ほとんど消えかけていた、デニーの眼球の内側の光が、ぱっと弾けた。それを見逃すことなく、リチャードは言う「はははっ! どうやら理解出来たみたいだな! そうだよ、その通りだ。こいつには量産型アルフォンシーヌ式永久機関が埋め込まれている。こいつの骨の一本一本に、イースターエッグのレプリカの、その断片が注ぎ込まれているのさ」。

 リチャードは、そこまで話すと、一度言葉を切った。暫くの間、デニーが示した反応の、その余韻を楽しんでいるかのように口を閉じたままでいたが。やがて、また口を開く「だから、お前は、こいつに気が付くことが出来なかったんだよ」。

 「ホワイト・ローズ」「あん? なんだよ、グレイ」「喋り過ぎだ」「なんだよ、何を心配してんだ?」「デナム・フーツはまだ死んだわけではない。瀕死を擬態している可能性も排除出来ない。そうである以上、無意味に手のうちを晒すべきではない」「あー! うるせえ、うるせえ、うるせえよ! ったく、お前は慎重過ぎんだよ。いいか? もう、こいつは死んだも同然なんだ。お前はノスフェラトゥじゃねぇから分かんねぇかもしれないけどな。俺の、ノスフェラトゥの感覚は、はっきりと感じてんだ。普通の生き物が普通に失っちまったら普通に死んじまう量のスナイシャクを、こいつが失っちまったってことをな。大丈夫だよ、大丈夫だ、こいつは、もう、死んでんだよ」「例えそうであったとしても、私についての情報をデナム・フーツに開示するメリットなど何もないだろう」「ああーん? メリットだあ? こいつが、なんでも知ってるつもりのこいつが、知らないことがあるんだってことを、俺が知っててこいつが知らないことがあるんだってことを、いいか? それを分からせてやるっていう、それだけで、十分、俺にとってはメリットなんだよ。見ろよ、見てみろよ、こいつの顔!」。

 グレイの。

 能力について。

 少し説明を。

 加えておく。

 べきかもしれない。

 とはいえ、全てを説明しようとすれば、四大高等種戦争において唯一生き残ったイタクァ、通称アルフォンシーヌの数奇な一生についてまで話さなくてはいけないことになる。あるいは、そもそも通称機関はなぜ作られたのか、オーヴァーロード計画の裏側に隠された秘密、つまり、ダニエル書におけるミミト・サンダルバニーの役割と、なぜミミト・サンダルバニーがイースターバニーと名乗るようになったのかということについても触れる必要が出てきてしまうだろう。

 なので、ここでは、あくまでも最低限の説明にとどめることにする。つまり、量産型アルフォンシーヌ式永久機関とは何か、それはどのようにしてグレイの存在をデニーの感覚から覆い隠すことが出来たのか、この二点に焦点を絞るということだ。

 まず、アルフォンシーヌ式永久機関とは何か。

 簡単にいえばイースターエッグのことである。

 オーヴァーロード計画におけるCHILDREN-2実験。これは、要するに、この世界の外側にある世界、マルチバース全体を定義付けているところの「外理」に関する実験だが。その成果物としてイースターバニーが発生させた疑似的な「外理」とその操作システムこそがイースターエッグだ。

 イースターエッグは、大体、イタクァの心臓と同じ程度の大きさ。高さ二十ハーフフィンガーの卵型をしている。ただ、そのような形をしているのはイースターエッグの本体を、つまり「外理」を、閉じ込めている入れ物であり、実際の「外理」自体はくらげなす漂える何か、淵のおもてに浮かんでいる脂のようなものである。イースターエッグは、イースターバニーによってたった一つだけ作られ、そして、アルフォンシーヌ、この世に生き残っている最後のイタクァの肉体に封印された。だから、その別名をアルフォンシーヌ式永久機関というのである。

 イースターエッグはいかなる物なのかといえば、非常に簡単にいえば、永久機関という別名の通り、無限のエネルギーを発生させる装置である。あるいは、このようないい方をすることも出来る。それは、その所有者の欲望の全てを叶えることが出来る奇跡の卵である。

 イースターエッグは、その周囲に一種のフィールドを展開することが出来る。このフィールドは、現世界としてここにあるところの世界ではない仮説世界泡、いかなるマルチバースとも全く異なる仮説世界泡である。その仮説世界泡によって、現世界は押しのけられ、結果としてイースターバニーの周囲は現世界とは全く異なった疑似的世界になる。

 そして、その疑似的世界における全てはイースターバニーの所有者が欲する通りに操作可能なのである。操作に限界はない。文字通りの意味で、それは無限なのだ。例えば、三角形のみで構成された無数の完全な球体を作り出すことも出来る。あるいは、テーブルの上から落として割ってしまったコップについて、そのコップは決して割れなかったのだし、テーブルの上から落ちもしなかったということにすることも出来る。

 端的にいえば、現実を好き勝手にいじくることが出来るのだ。それは、空間や時間や、あるいは可能性のような、そのような領域に限られた改変ではない。全くあり得ないことをあり得ることに出来るのだ。極端なことをいってしまえば、時空も可能性も、そもそも発生しなかったことにすることさえ出来る。イースターエッグ自体に限界はない。イースターエッグの限界は、イースターエッグの所有者の想像力にしかない。

 ただ、弱点はある。それは、その操作の影響はフィールド内部にしか通用しないということである。フィールド内部で起こったことはフィールド消失後も継続するし、フィールド内部で作り出したものによってフィールド外部に影響を与えることも出来るが、イースターエッグによる操作を、発生した仮説世界泡の外側に及ぼすことは出来ない。

 さて。

 先ほども書いたように。

 イースターバニー、は。

 イースターエッグ、を。

 一つしか作らなかった。

 一つ作ったところで「外理」の研究にすっかり飽きてしまって、その後すぐにCHILDREN-3実験、つまりはジュノスに関する実験に移ってしまったのである。ちなみに、このCHILDREN-3実験によって不死となったのが、グッドマン、アルフォンシーヌ、イヴェールの三人とともに始祖家直属の秘密諜報部隊ブラッド・クーシェの一員となったバックスノートであるのだが。それはそれとして、ここでいいたいことは、本物のイースターエッグはアルフォンシーヌが所持している一つだけだということだ。

 それでは、グレイの身体に埋め込まれているという量産型(以下略)とは一体なんなのか。それは、イースターエッグを軍事転用するために量産可能な兵器にするという計画の中で開発された物である。

 オーヴァーロード計画は、CHILDREN-17実験、「前世界実験」という通称以外には一切のことが不明であるところのその実験を最後に、イースターバニーの失踪によって一時的な中止を余儀なくされた。そこから通称機関はその性質を変質させることになる。つまり、イースターバニーによるオーヴァーロード計画の実行のための機関から、オーヴァーロード計画の再現を目的とした機関となったのだ。

 オーヴァーロード計画による成果は、そのほとんどがイースターバニー以外には再現不可能なものであった。例えばバックスノート・システムを構成し、一つの魂魄をジュノスから完全に分離することが出来たのはイースターバニーだけだった。あるいは「深淵の眼」、生命と反生命とを自在に弄ぶことが出来るその眼を作り出すことが出来たのはイースターバニーだけであった。つまり、イースターバニーが失踪したことによって、オーヴァーロード計画の成果のほとんど全てが、誰も理解出来ないものになってしまったのである。

 このままではオーヴァーロード計画そのものが完全な無意味に帰してしまう。そもそもの話として、オーヴァーロード計画は別にイースターバーニーに好き勝手させるための計画ではない。「主を超える」というその名前の通りだ。フェト・アザレマカシアという存在、まさに存在そのものの原理に対して、その生存本能によって脅威を感じたノスフェラトゥが、そのような原理に対して対抗できるような力を手に入れるために、自らの種を「主を超える」種へと進化させるということを目的とした計画なのだ。

 と、いうわけで、そのような目的を達成するために。オーヴァーロード計画の成果を再現するための実験が、イースターバニーの失踪後、矢継ぎ早に行なわれたのである。そうした再現実験のうちの一つがイースターエッグ再現実験であり、量産型(以下略)はその再現実験によって作り出された物なのだ。

 量産型(以下略)は、イースターバニーによって作られたイースターエッグと比較すると、大分その能力が低下している。まず、イースターエッグは、その所有者が望む限りフィールドを展開し続けることが出来る。まあ、フィールドを展開し続ける限り、ほんの一瞬だけ脳裡をよぎったことであっても現実になってしまうので、実際問題としてそれを展開し続けるということはあまりにも危険過ぎるが。とはいえ展開し続けようとすれば不可能ではない。それに対して量産型(以下略)は、一定の範囲、この範囲には時間も空間も複合的に含まれているわけであるが、その範囲においてフィールドを展開した後は、ある程度のクールダウンが必要になってくる。もっとはっきりと、分かりやすくいってしまえば、一日の間に使用出来る時間が決まっているということだ。まあ、先ほどもいった通り、範囲においてはあらゆる次元が条件化されているわけであって、時間だけに限定したこのいい方は間違っているといえば間違っているのだが。とにかくそういうことである。

 また、量産型(以下略)は影響を与えることが出来る対象も限られてくる。イースターエッグが作り出す仮説世界泡は、その強度が非常に強いため、強度が強いっていい方なんか変だね、現世界を完全に疎外してしまうことが出来るが。一方の量産型(以下略)はかなり薄められた仮説世界泡しか作り出すことが出来ない。そのため、内部に夾雑物としての現世界をかなりの割合で含んでしまうことになるのだ。これが何を意味するかといえば、フィールド内部であってもそこまで好き勝手出来ないということである。正直な話、量産型(以下略)に出来ることといえば、所有者の身体と、その身体に概念的に接続している対象を操作することぐらいである。そういったものに関してはほぼ無限に操作出来るといっても過言ではないが、他者を殺害するだとか、他者を強化するだとか、対象物を変形させるだとか、そういったことは出来ない。

 と。

 ここまでで。

 量産型(以下略)について。

 ご理解頂けたと思いますが。

 グレイは、その量産型(以下略)を、一本一本の骨、その骨髄に流し込まれている。先ほども書いたことであるが、「外理」自体は液体といってもいいような状態にあるため、埋め込み方については比較的自由が利くのである。

 量産型(以下略)は、その能力としてはかなり弱体化しているとはいえ、それでも生命にとってやべー有害なレベルのエネルギーを発生させているため、このような処置を受けて生き残ることが出来たのはグレイだけであった。

 グレイは量産型(以下略)の所有者である。ということは、フィールドの展開中は、自分自身の身体、あるいはその身体と関係する現実を操作することが出来る。その操作によって、グレイは、デニーの感覚から自分自身を隠したのである。

 グレイは、まず、量産型(以下略)のフィールドをこのドーム状の結界の全体に展開した。そして、その範囲内において「自分が存在したという歴史」そのものを消し去った。つまり、フィールドの範囲内ではグレイという生き物は生まれなかったことになったのだ。グレイは生まれなかったのであるから、現在においてもいないし、未来においてもいない。だから、未来において、グレイがデニーを攻撃するということは、その可能性さえあり得ないこととなったのである。可能性がないのだから第六感でも感知出来ない。というか、そもそも、過去においても現在においても未来においてもあり得ないものを、どうやって感覚出来るというのだろうか。そういうわけで、デニーは、グレイの攻撃を避けることが出来なかったのである。

 グレイが登場した時、読者の皆さん、「は?」って思われませんでした? いやいやいや、こんなん反則だろ、今まで影も形も出てこなかったキャラをいきなり出してきて、それで、そのキャラの勝ちですなんて、不意打ちとかそういうの通り越してルール違反だろって思われませんでした? それと全く同じように、デニーにとっても、この攻撃はルール違反だったのだ。デニーにとって、グレイは、文字通り、攻撃のその瞬間まで存在しなかったのだ。そして、デニーを倒すということは、そのような手段を使わなければ出来ないほどに困難なことなのだ。はっきりいって、読者の皆さんを騙すことも出来ない程度の意外性がデニーにとって意外であるわけがない。デニーはデウス・ダイモニカスの中でも最高レベルの知性の持ち主なのである。その知性の持ち主を出し抜くということは、ルールの一つや二つ破らなければ絶対に不可能なのだ。

 まあ。

 とにかく。

 そういう。

 ことで。

 あります。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る