第三部パラダイス #47

 そういえば、この物語とは全然関係ないことであるのだが、今、ふと思い出したことがある。それは「アロスの根源的不完全性」という問題だ。アロスというのはロマールの首都オラトーエに居住していたポリス市民だ。非常に高名な哲学者であると同時に、かのグノフケー戦争において全部隊の指揮官を務めたホモ・マギクスである。さて、そのアロスが次のような疑問を提起した。つまり、もしも外なる神がこの世界を作る前に、この世界が全き混沌であったというのであれば。混沌こそが最も本質的であり、現在この世界を整然と定義しているこの秩序は、自然に逆らって持ち込まれたものに過ぎないのではないだろうか。この世界は、本質的に、外なる神に反逆する絶対的欠陥を内包しているのではないだろうか。世界とは、もしかすると、本当は、どうしようもなく出来損ないなのではないだろうか。いうまでもなく、この「アロスの根源的不完全性」の問題は、後々になってリュケイオン学長代理であるところのゼノンによって非難され、拒絶され、結局は解決されることになるのであるが。とはいえ、そのような問題は……ねえ、砂流原真昼、それは笑ってしまうことに……確かに、この世界によって、この世界に提起されたことがあるのである。この物語とは全然関係ないことであるが、今、ふと思い出したので、一応はここに書いておいた。

 トラヴィール。

 トラヴィール。

 出来損ないの。

 トラヴィール。

 真昼は、「は?」と声を漏らした。それから「何?」と続けた。「え? え? ちょっと待って?」と言った後で、「いや、あんた、どうしたの?」と言った。

 腕の中のデニーの身体を揺さぶる。そのデニーの身体は、ちょっと信じられないくらい、デニーの身体には見えなかった。だからといって何に見えるとかそういうのはないのだが、とにかくデニーの身体であるようには、全く見えなかった。だらりと腕が垂れ下がっていて、かくんと頭がのけぞっていて。なんかよく分からないけれど、とにかく動かない。全身に、全然、力が入っていない。なんというか、まるで死んでいるみたいだ。

 真昼は、ふへっと、笑ってしまった。なんだか突然、全ての間が抜けてしまった。「ちょっと、ちょっと、やめてよ」と言う。「ふふっ……ふふふっ……やめてってば」と言う。それから、耐え切れなくなって、げらげらと笑い始める。何かの発作みたいにして笑い始める。

 今まで、それを悲劇として演技してきたところの真昼だった。いや、演技というか……人間という生き物は、無意識のうちに、自分の人生というものを物語化してしまうものだ。本人が、どれほどまでに真剣に生きていると信じていたとしても。それでも、結局のところ、人間は、現実として現実を生きることが出来るような生き物ではない。何もかもがドラマティックに進行していくドラマの中にいるように。人間は、物語の中に生きている。そして、真昼も、やはり、物語の中に生きていた。

 つまり、パンダーラが死んだ時も、マラーが死んだ時も、真昼の全ての役割は、悲劇の中で割り振られた役者としての役割に過ぎなかった。真昼は、その役割通り、苦悩したり絶望したり、自己喪失だの現実逃避だのをしていたに過ぎなかった。無論、真昼自身はそんなことを考えていたわけではない。自分が本気で苦悩していると思っていたし、自分が本気で絶望していると思っていた。それが本当の本当に現実であると思っていた。ただ、それでも、それは現実としての悲劇に過ぎなかった。

 しかしながら、悲劇もここまでくると滑稽だった。突然、真昼の目の前で、悲劇が喜劇になってしまったようだった。それがどれほど悲劇的な悲劇だとしても、今、起こった、この出来事のようなことはあり得ないのだ。あり得るわけがないのだ。

 映画館で悲しい悲しい映画を見ていたとして。突然、映画とは全くなんの関係もなく、隣に座っていた人にぶん殴られたら。悲しいとか悲しくないとかいう話、以前の問題として、なんだか馬鹿馬鹿しく感じるだろう。つまりそういうことだった。

 あーあー。

 なーんだ。

 全部。

 嘘か。

 そう、その通り。それは嘘だった。「あーっはっはっはっ!」と爆笑する。「ふっ、ふっ、ふひひっ、ひひひっ、ははははっ! 勘弁してよ!」。さっきまで、起こっていた悲劇。いきなりスクリーンが引っぺがされて、その裏側から変なものが飛び出てきたみたいだった。ああ、これじゃ駄目だよ。これじゃ、悲劇を続けることが出来ない。

 いかにも打ちのめされたように呆然とした表情をすることも出来なければ、何度も何度も意味のない単語を繰り返すことも出来ない。「現実に適合出来ない」という演技をすることが出来ない。なぜなら、脚本が、あまりにもヘッタクソだからだ。もうちょっと展開を考えて欲しい、現実にあり得ないことを盛り込むこともドラマ性のためには重要かもしれないが、これでは突飛過ぎる。へんてこりんで、みょーちきりんで、こんなんじゃ誰も信じられない。ドラマに没入する前に、ただただ笑ってしまう。

 真昼は。

 真昼は。

 それから。

 なんというか……これは、あまりにも多くのホモ・サピエンスの個体が勘違いしていることであるが。「真剣な感情」なんていうものは存在しない、そんなものは単なる形容矛盾だ。あらゆる感情は断片的誠実性さえも含有していないのである。例えば、大切な人を失って悲しんでいるだとか、大切な人を殺されて怒っているだとか、ああ、くだらない、自己陶酔に浸り浸っているだけだ。

 なぜというに、感情というものはヴァーチャル・リアリティに過ぎないからである。それはリアリティではないのだ。感情は、自分自身に相対する絶対性か? 否。感情は、個体と個体との間の一般的浸食不可能性か? 否。感情なるものは、それ自体がそれ自体として外的な影響を有しているわけでさえない。それは小説の中に羅列されている一続きの単語が意味しているところのものと、何一つ、変わりがないのだ。

 もしかして、感情は生き物を動かすともいうかもしれない。ああ、低能。少しでもまともな思考が出来るのであれば、知的障害者ではないのならば、よくよく考えてみて欲しいのだが、お前は真剣な行為をする時にそれを感情によって行なったことがあるのか? ほんの僅かでも! 生き物にとって最も真剣な行動は常に器官的な衝動によって行なわれる。物理的な連続性だ。そこには一切の感情が介在していない。

 先ほどは、感情について、それが自己陶酔だと書いたが。自己陶酔でさえ感情よりはマシかもしれない。少なくとも、自己陶酔にはなんらかの誠実がないわけではない。それに対して感情は単なる欺瞞だ。感情はぺちゃくちゃといつまでもうるさいお喋りだ。感情はテレビの向こう側の他人事に難癖を付ける自称批評家だ。それは、決して、真剣ではないのだ。

 要するに、何が言いたいのかといえば。つまるところ、その誰かに感情が働いている限りは、その誰かはまだ安全圏にいるということである。気が狂って絶叫しているでもいいが、思考能力を完全に喪失し呆けているでもいいが、そういう状況にあるということは、まだまだ、全然、危険な状態にあるわけではない。本当の本当に、精神的に破滅した生き物は。映画から目を離す。テレビから目を離す。小説を、テーブルの上に置く。

 そして。

 現実を。

 思い出す。

 「ない、ない、それはないわ」「冗談にしたって、もう少し、はははっ、やり方ってもんがあるでしょ」けらけらと馬鹿みたいに笑いながら、真昼は、極めて冷静にそう言い放った。真昼は、発狂したわけではなかった。その反対だ。今、ようやく目を覚ましたのである。真昼は、アーガミパータに来てから。いや、ひょっとすると、この世界に生まれてから。初めて現実の中にいた。初めて仮想的な現実の中から抜け出した。今、この時間、この場所、が、完全に現実であるということに思い至った。真昼がいるこの現実の全体が、なんらのドラマティックでもない、日々の生活であるということに思い至った。

 現実に相対した時、人間はどうするのか? 当然、感情的にはならない。感情にとって、現実はあまりにも重過ぎる。だから、どのようなケースにおいても、感情は現実逃避であるのだが。それはそれとして、感情という都合のいいヴァーチャル・リアリティを失ってしまった人間は、現実に初めて気が付いた人間という生き物は、一体どうなってしまうのか?

 いつまでも。

 いつまでも。

 あっけらかんと。

 笑っている。

 真昼。

 そのうちに、奇妙な異変に気が付いた。「あ?」と声を出す。「なんか……痒い?」と続ける。その言葉の通りだった。全身の表面が、なんだか、ちょっと、痒いような気がしたのだ。

 最初は、痒いというよりも熱いという感じだった。皮膚の下の肉の辺りが、チョコレートを食べ過ぎただとかお風呂に長く入り過ぎただとか、そういうことのせいで、血の巡りが良くなり過ぎたとでもいうかのように。ずるりと熱くなった。そして、その直後に、猛烈な掻痒感が襲ってきた。うわ、なにこれ。痒い、痒い、すげー痒い。真昼は耐え切れず、デニーの腹の上に置いていた右手で全身を掻き毟り始めた。

 全身に、凄まじい蕁麻疹が発生していたのだ。皮膚のそこら中が、まるで虫に食われたかのように、ぼこぼこと膨疹していたのだ。「え? ちょっとちょっと、なんだよ!」真昼は思わず叫んでしまったが、叫んでもどうしようもない。痒くて痒くて仕方がなかった。「うわー、なになに」とかなんとか言いながら、爪で、がりがりと音を立てる。引きちぎるみたいにして。あまりにも強くあまりにも何度も何度も掻いてしまっているせいで、皮膚は、実際に裂けてしまう。べどりべどべどとした血液が迸り、真昼の指先は真っ赤になる。

 そして、しかも、異変はそれだけではなかった。気のせいかと、先ほどまではそう思っていたのだが。次第次第に明確になる。つまり、呼吸器官が異常を起こし始めていた。喉の奥が膨れ上がっている。上手く息が出来ない、息を吸うたびに、ざりざりりとしていて痛い。ひゅーひゅーと音を立てていて、明らかにそれは喘息だった。そのうちに、肺が、空気を受け入れなくなる。恐らくは、炎症が肺の全体に広がってしまったせいで、広がったり狭まったり、そういう風に動くことが出来なくなったのだろう、

 かはっという音を立てる。その後で、ぐえっ、げぼっ、げぼっ、ごぼっ、という音を立てる。咳をした拍子に、喉の奥の炎症が裂けたのだろう、まるで霧のように血液が飛散する。「うわ……痛い……苦し……」と声を出そうとするが、その声さえも掠れてしまっていて、上手く出てこない。

 はっはっと、なんとか呼吸を整えようとする。だが、そもそも息を吸うことが出来ないのだから整えるも何もない。だらだらと血液交じりの唾液を滴らせながら、ぽかんと口を開けている。まるで肋骨の内側に多足類が蹲っているみたいにずきずきとしている。やべー、やべー、なんだこれ。

 突端卒爾。自分の肉体を襲ってきた不具合に、思考の隅から隅まで、しっちゃかめっちゃかになってしまっている真昼。更に、それだけでは終わらなかった。燃える、燃える、かのように。ぐうっと、消化器官の中に激痛が走った。正確にいえば、胃袋の少し上の辺り、溶けた黄金を飲み込んでしまったような灼熱の感覚を感じた。つまり胃液が逆流してきたのだ。

 お腹がペコペコのペコであるにも拘わらず、コーヒーをがぶ飲みしたみたいだった。自律神経が間違いなくヤバヤバのヤバになってしまっている時に特有の、あの吐き気だ。

 固形物ではない全くの液体が、喉のここ、ここの辺りまでひたひたになっている。少しでも首を傾げたら間違いなく溢れ出る。ごぽ、ごぽ、と、内側で泡立っているみたいだ。

 なんとかかんとか、暴れ狂う胃液を抑えている。何度も何度も、真昼の防御を突破しようと、込み上げてくる反吐。咽頭収縮筋、甲状舌骨筋。軟口蓋を挙上する、口蓋筋によって口峡を狭める、逆流してくる物を防ぐ。ただ、その吐き気は、到底抑え切れるものではなかった。こけっ、こけっ、と、しゃっくりでもするみたいに、猫が毛玉を吐こうとしているみたいに、音を立てる真昼。やばい、やばい、ゲロ、やばい。

 真昼は。

 とうとう。

 嘔吐する。

 それでさあ、ちょっと聞いてくれる? これ、本当に傑作な話なんだけどね、ははっ、ほら、真昼、ゲロを吐かないように、結構頑張ってたじゃん。その一環としてね、右の手のひらでさ、強く強くさ、口を押さえ付けてたわけよ。ただ、それが、あまりにも強く押さえ過ぎてしまっていたらしい。そのせいで、その吐瀉物は、口腔へと向かうルートを蓋がれてしまっていて。鼻腔へと向かうルートを選択する以外にはなかった。

 一瞬、鼻の奥、酸性の液体の酸っぱい匂いが嗅神経細胞を刺激した。まるで、そこから、脳幹を通じて頭蓋骨へと突き抜けるような衝撃が怒涛となって真昼の鼻を突きつけて。そして、どぶっ、と真昼の鼻から、両方の鼻孔から、吐瀉物が吐き出された。

 鼻をかんだ時に鼻水が溢れ出すみたいにして、胃液が溢れ出す。唯一の救いはそれが一切の消化物を含んでおらず、ただただ純粋な胃液であったことだろう。完全に透明な、それでいて体液体液した粘性を有しているその液体が、ジョークみたいに滴る。

 真昼は、うおっと、心の中で思う。そのまま、慌てて、口を押さえていた右の手のひらで鼻を押さえる。これは、まあ、よっぽど慌てていたのだろう。そうでなければ、少し考えれば分かるはずである。今のようなこの状態で口から手を放してしまえば、そちら側からの吐瀉物が大波瀾であるということを。

 真昼の喉が「ぐぶっ!」という音を立てる。そして、蛇籠、石籠、コンクリートブロック。解放された堰を切って、吐瀉物は、一気に、真昼の口腔に殺到する。

 しまった、と、気が付いた時には手遅れだった。ぐぐ、おぐぐ、ごぶごばあ、透き通ったバイオジカル・フルード。フルーディ、フルーディ、「うげがああああっ!」という悲鳴ともなんともつかない声を上げながら、真昼は、今度は、口から吐瀉物を吐き出す。真昼が俯いた先、真昼の顔の下、洪水のようにして嘔吐がぶち撒けられる。

 なんか。

 真昼ちゃんさ。

 全体的に、さ。

 ゲロ。

 吐き過ぎじゃない?

 これで六回目のゲロなんですけど……この物語始まってから……困ったら取り敢えずゲロ吐いとけばいいと思ってない……? まあ、それはそれとして。要するに、そういうことだった。人間が、本当の本当に現実と向き合った時。本当の本当に、どうしようもない、どうすることも出来ない、ことが、起こってしまった時に。人間は、感情的な反応ではなく身体的な反応を示す。

 だって、それは、ヴァーチャルじゃないからだ。それは絶対的な苦痛であり、絶対的な物質であるからだ。押しても引いても、どうしても動かせないものは。物語ではない、現実だ。思い通りにならない、影響を与えられず、影響を与えられることしか出来ない。こちら側が、こちら側の選択として、愛するわけではない。向こう側がこちら側の愛を定義する。どれほど暴れても、どれほど憎んでも、全くの無意味なもの。完全な牢獄。完全な信仰。不可能性それ自体。それは、これだ。ここにある、まさにこれだ。この、「私」ではない、「私」の「私」が、真実、真実、「私」が恣意的であるところの「私」という「私」、が、なくなる、その、一点。「私」がなくなるということさえ恣意的であるその一点。全体性における傲慢の喪失。で、あるからだ。

 そのようなものに対しては、感情的な反応は一切意味をなさない。現実は、泣けば優しくしてくれるわけではない。現実は、怒れば気を使ってくれるわけではない。現実は駄々を捏ねればお菓子を買ってくれる保護者ではない。感情を剥き出しにすればどうにかなるほどに、青色と黄色とを掲げていればどうにかなるほどに、現実は物語的構造をしているわけではない。そうである以上、人間は、真実としての現実に感情を対置させるようなことはしないのだ。いや、しないというよりも出来ないといった方が正しいかもしれない。生物の行動は、基本的に生存に対する有用性に規定されているのであって。それをしてもどうにもならない以上、生物としてプログラミングされたプログラムは、そもそもそれを行動の選択肢にすることはない。つまり、このような場合、人間の感情は、生物学的に動作し得ない。

 もう少し、この言語的系統学を理解可能な形に直してみよう。比喩、として、いうのであれば。真昼は、絶対的な他者によって心臓を突き刺されたのである。今は、もう、心臓は引き裂かれた後であって。しかもそうして真昼に加害したところの他者は真昼の目の前にいない。どこかに行ってしまった、消えてしまったのだ。もしもお前がそういう状況に置かれた場合。お前は悲しんだり怒ったり、あるいは自己を喪失して呆然としたりするか? そんなことをするやつはよほどの異常者だけだ。もしも、お前が、常人であるならば。まず、お前がすることは、激痛を感じることだ。当たり前の話である、現実とは身体的なものであり、身体を傷付けられた場合には身体的な反応をするものだ。

 そして、真昼が示した反応は、そういうことなのだ。真昼は、たった今、この時に、起こったことによって、感情を傷付けられたわけではない。まさに身体を傷付けられたのである。絶対的な否定不可能性によって修復不可能な欠損を与えられた。それは、物語対感情ではない。物質対物質なのだ。

 だから真昼に対する影響は身体に現われることになった。真昼は、現実によって心臓を貫かれた。そして、結果的に、真昼の身体は、その致命傷にとって適切な症状を呈したのである。その消化器系に、その呼吸器系に、あるいは、その皮膚に。真昼が負った傷に相応しいだけの異常を呈したのである。

 エリ。

 エリ。

 レマ。

 サバクタニ。

 待て、ゲッセマネがあの女を救いに来るかどうか見ていよう。ともかく、真昼は、そこら中にゲロを吐き散らして。それから、重大な問題に気が付いた。

 真昼は……まず、一点目の事実。真昼は、ゲロを吐くに際して、少し前にも書いた通り、自分の口元のすぐ先に吐いた。ということは、そのゲロは、真昼の顔がある、その真下にさんざめいたということになる。次に、二点目の事実。真昼は、その腕の中に、デニーの身体を抱いていた。さて、この二点の事実から導き出されることは。まあ、わざわざ書くまでもないことであるが、真昼がゲロしたゲロは、そのほとんどがデニーにぶっかかってしまったということだ。

 真昼は、かなり焦った。「うわ、ごめん!」とかなんとか言いながら、鼻を押さえていた右手でジーンズのポケットを探り始める。手のひらが離れた鼻孔からは、ぽたりぽたりと嘔吐の残存物が滴り落ちている。

 ポケットから取り出したのはタオルハンカチだった。とはいっても、タンディー・チャッタンにおける大混乱の中でマラーの口に突っ込んだあのタオルハンカチではなく、カリ・ユガ龍王領によって用意された新しいタオルハンカチであったが。真昼は、ぱっぱっと二回ほど振って、広げて。それから、真昼のゲロまみれになったデニーの顔を拭い始める。

 当然、ポケットの中に入っていたとはいえ、カリ・ユガ龍王領を出てから今の今まで、あのつらく厳しい旅路をともにしてきたのだから。なんというか、ぎとぎとのどろどろに薄汚れていて。(主に真昼の)血液が、そこここで染みになっているところのタオルハンカチであった。そんな物で人様の顔を拭くなよと思ってしまうところであるが、ただ、残念ながら、真昼が持っている、拭くことが出来るものは、これしかなかった。

 「わー、わー、今、拭くから! ごめん、ごめんって! ちょっと、なんか、えーっと、なんでか分かんないんだけどさ。急に、ほら、吐き気がして。いや、吐き気っていうか、吐き気だけじゃなくて、なんか、ほら、これ、蕁麻疹。それに、息、吸ったり吐いたりもなんかしにくくなっちゃってさ。いや、今は、それほどじゃないんだけど。なんだろこれ、なんだろ、分かる? あんた、これ、なんだか。なんか変なもの食ったかな? いや、こっち来てから食ったもの、全部変なものか。あはは。わー、べっとべと。ごめんってば!」。半笑いで、そう言う真昼。

 何度も何度も、デニーの頬を、タオルハンカチでこする。そのうちに、なんだか変なことが起こっているということに気が付いた。真昼が、何をしても、何を言っても、デニーが、なんの反応も返さないのである。

 それがくだらない冗談であるということは理解している。デニーが、死んだふりをしているということは分かっているが、死んだふりをしているにしても、いくらなんでもノーリアクションに過ぎる。普通であれば、少しくらいリアクションがあってしかるべきではないだろうか。例えば、真昼の手つきに耐えられず「あははっ! 真昼ちゃん、くすぐったいよお!」とかなんとか言いながら噴き出してしまうだとか。

 それなのに、デニーはくすりともしなかった。いや、それどころか……反応がないどころか。デニーの身体のその感触がおかしかった。なんだかでろりとしている。なんだかずるりとしている。なんだかぐにゃりとしていて、それなのに、表面が、安物の皮革製品のように固く感じる。

 それに……一番、一番、おかしいのは。それは、デニーの温度だった。真昼の腕の中で、デニーのその温度が少しずつ、少しずつ、ぬるくなっていく。あの冷酷さが、拒絶でさえない無関心の冷酷さが、柔らかく、柔らかく、腐敗していくかのように。なんだ? なんだ? これはなんなんだ。

 何かが起こっているらしいのだが、真昼には、それがなんなのかさっぱり分からなかった。まあ、とはいえ、それはともかくとして。先に、このゲロをなんとかしなくてはいけない。確かに、そのゲロは、まあ、まあ、そこまでロックンロールな見た目ではない。ただ単なる胃液であって、胃液にしてはちょっと量が多過ぎるように思えるが、咀嚼された食塊が含まれているというわけではないので、ぶくぶくと泡立った表面、きらきらと光を反射していて、ねっとりとした粘性は、そこまでの不快感ではない。ただ、それでもゲロはゲロだ。

 タオルハンカチはそれほど大きいものではない。せいぜいが三十ハーフディギトかける三十ハーフディギト程度だ。だから、繊維の吸水性にそれほど期待をかけるわけにはいかない。自然と、べじょりべじょりと払い落とすようなやり方になる。

 左頬。

 右頬。

 顎の先。

 首筋。

 額から頭頂部へ。

 と……不意に。まるで偶有性。真昼の指先が、するりと、デニーの傷口に滑り込んでしまった。デニーの頭部、右側、切り飛ばされた傷口の、その傷口だ。

 別にわざとそうしたわけではない。それどころかそうしようという欲望があったわけでもない。本当になんの理由もなく、真昼はただ指先が滑っただけだ。

 その切断面は人間のそれとは全く異なっていた。そういえば、まだ、デニーと出会ったばかりの頃。デニーが、ナースティカ・ナイフによって、ガードナイトによって浸食された自らの右腕を切り落としたことがあったが。その時と同じような感じだ。頭蓋骨が露出しているわけでもなければ脳髄がこぼれ落ちているわけでもない。非現実的に感じられるほどに生々しさの欠片もない。

 ただ、あの時とは、あの右腕とは、明確に異なっている点がないわけではなかった。それは、その傷口から、力が滴っていた点だ。デニーという生き物の、生命の疎隔性によって疎隔されていた内的世界が、たらたらと、滴っていた点だ。それに、もう一点、はっきりと指摘することは出来ないのだが、異なっているように、そのように、真昼には思える点があった。それは……光だ。

 あの時は、光だった。右腕を切り落した時、その切断面は、光で満ちていた。まさに生命としての、まさに生き生きとした、エネルギーそのものとしての光が溢れていた。けれども、今の、この、頭部の傷口には。明らかに、そのようなエネルギーは感じなかった。なんというか……それは、腐って、腐って、腐っていく、生命だったものの残骸のように。泥濘に沈み込むかのように。

 真昼の。

 小指の。

 先が。

 その。

 傷口の。

 中に。

 入った。

 と。

 いう。

 こと。

 で。

 そして……それから……その瞬間に。真昼の脊髄に、まるで、子宮の内側に射精するファルスの快楽のような衝撃が走った。信じられなかった。信じられないほどの衝撃だった。首をばっさりと切られた時でさえ、一度死んだあの時でさえ、これほどの衝撃を、真昼は感じなかった。まるで、その瞬間に、一度、全部全部の世界が終わって。それからまた新しい世界が始まった時のようだった。そのような衝撃として、真昼は、はっきりと、完全に、明白に、知った。これは死んでいる。

 真昼の腕の中にあるこれは。力なく寄り掛かっているこれは。デニーの形をしているこれは。生きているものではない。死んでいるものだ。否定しようと思っても否定のしようがなかった。なぜなら、それは事実だったからだ。傷口に触れた、真昼の小指が、真昼の脳髄に伝えたところの、その感触は。事実としての死の感触だったからだ。

 真昼が指を突っ込んだのは、死だった。その傷口の中には死が満ちていた。ゲロでどろどろと濡れた真昼の小指の先が沈み込んだのは、死者の死であった。

 真昼は死の感触というものを知っていた。なぜなら、自分が、一度、死んでいたからだ。そして、それはそれであった。指先に触れたものはそれであった。

 これは喜劇であるはずだった。喜劇の登場人物は死なないはずだった。コメディにおいては、どれほどの惨劇が起ころうとも。剣で切られようとも、矢が刺さろうとも、誰も死なないはずだった。舞台の上で爆弾が爆発しようとも、役者は、煤のついた顔で、二回、三回、咳をしてそれでお終いであるはずだった。

 デナム・フーツは……喜劇であるはずだった。だから、デナム・フーツは死なないはずだった。では、これはなんだ? この腕の中にある、この現実は、なんだ? どういうことだろう、世界は頭がおかしくなってしまったのだろうか。真実と虚偽とを見分けることが出来なくなってしまうほどに。嘘だ、嘘だ、嘘であるはずだ。デナム・フーツが死ぬという現象の全ては、嘘であるはずだった。喜劇の、舞台の、上で、突然、光り、輝く、照明、スポットライト、が、墜落、してきて、喜劇役者が、押し潰されて、死ぬ。

 真昼は、指先を、死の内側から引き抜いた。それから、そっと、ゲロまみれのタオルハンカチを持ったままの右の手のひらをデニーの左頬に添えた。それから、そっと、その顔を自分の方に向かって傾けた。

 今まで、見ていなかった。本能的に見ていなかった。それが見てはいけないものであるかのようにして、それを見てしまえばひっくり返ったマグカップの中に二度とコーヒーを取り戻すことが出来ないかのようにして。けれども、真昼は、今、それを見た。真昼は、自らの双眸によって、それを見た。

 まるで、夜空を見上げるようにして。まるで、お願い事を叶えてくれる流れ星を探そうとしているかのようにして。真昼は、デニーの二つの眼球を見下ろした。そして、それは、その二つの眼球は、デニーの目ではなかった。確かに、それはデニーの顔に埋め込まれていた。デニーの目があるはずの場所に、右の眼窩と左の眼窩と、そこに埋め込まれていた。けれども、それは、デニーの目ではなかった。

 星が、消えていた。デニーの目の中できらきらと輝いているはずの星が消えていた。いつも、いつも、いつでも、そこには星が輝いていた。手を伸ばしても手が届かない夜空に星が輝いているかのように。真昼がそこを見た時には、そこにはいつでも星が輝いていた。きら、きら、きら、彗星のように残像を緩やかに描いて。恒星のように満ち満ちて溢れ出るエネルギーを放って。真昼を惑わせる惑星。屑星、屑星、屑星、無数の星。

 スター、エトワール。偶像はいつでも星によって表現される。星は、最も純粋な光であるからだ。星は、いつも天にあるからだ。それは人間など無関心にそこにある。そして、人間は、星によって定義される。人間の行動は、その全てが、星が人間にもたらす引力によって調和へと至る。人間的なミクロコスモスは、星の世界のマクロコスモスによって類似的に導かれるところの傀儡なのだ。可換世界の花冠、アンティクトーン。

 星は。

 奇跡。

 リチア、リチア、奇跡の星、悪魔の星。何も、何も、なかった。何もかも消えてしまっていた。まるで、突然、全ての願い事が叶えられたかのように。デニーの目の中の星は、一つ残らず喪失していた。その後には、ただただ静かに沈んでいく、緑色の宇宙だけが残されていた。星一つない宇宙に投げ出された真昼であるかのように、それは、great nothingであった。

 「ねえ、もしかして」真昼は、なんということもないようにして呟いた。「あんた、死んだの?」真昼は、なんということもないようにして続けた。

 答えはなかった。ただただ、great nothingが真昼のことを見つめているだけだった。「ああ、そうなんだ」真昼は物分かりよくそう言った。真昼は、「あんた、死んだんだ」真昼は、非常に丁寧な説明によくよく納得したというように続けた。それから、一度、二度、首肯した。

 真昼は、自分がびっくりするほど理想的な精神状態にあるということにびっくりしていた。ベストコンディションだった。これ以上ないというくらいに。まるで冷静で、まるで穏健で、まるで合理的だった。真昼は、ただただ正しくあった。その思考は正しく、その行動は正しかった。身体には意味が満ちていた。智慧に隠れるところはなかった。生きることは空しいことではなく、そこに一切の恐怖はなかった。疑惑は真昼を襲わない。無気力は真昼を襲わない。純粋理性。無原罪。真昼は、まるで、一匹の素晴らしく無力な虫のように、あるいは、まるで主に創造されたものではないかのように、完全であった。

 そして、真昼は、その完全性によって理解した。もう、デニーが、真昼の前にはいないということを。デニーが死んだということを。デニーが殺されたということを。

 真昼は理解した。デニーが、デニーが……真昼の、ために、死んだということを。真昼という一つの無意味のために死んだということを。デニーが、自分自身のために死んだのではなく、真昼のために死んだということを。

 十六番目の方程式が間違ってたんだ。

 だって、そうとしか、考えられない。

 真昼は記憶を閉ざそうとしたが、既に遅かった。真昼が美しい美しい忘却の淵に沈み込もうとしたその時には、理性の、全体が、圧倒的なほどの明晰性に包みこまれていた。耐え切れないほどの愚昧さは洗い流された。真昼ははっきりと理解し、宇宙の全体がそれに倣った。比喩。世界が真昼の前に現われて、真昼が辺りを見回してみると、そこには一つの星も見当たらなかった。何もなかった。何もなかった。余計なものは、何も。そこには、真昼と、それに真昼の物語の作者だけが残されていた。

 そう。

 ここには。

 あなたと。

 私と。

 二人だけが。

 残されていた。

 ようやく、あなたは、私に向き合ってくれた。

 ようやく、私が、あなたと対話する時が来た。

 「え?」真昼は、そう言った。「誰?」真昼は、そう言った。デナム・フーツの死体から顔を上げて周囲を見回した。けれども、誰もいなかった。

 声が聞こえたような気がした。いや、それは聞こえるというよりも、例えば、これが一つの小説であって、真昼は登場人物であって、その小説の地の文が、ただ単なる登場人物であるはずの真昼に話し掛けてきたかのような感覚であった。

 そして、その感覚は正しい。

 あなたのその感覚は正しい。

 「誰?」真昼は、もう一度、そう言った。今度は間違えようがなかった。その声は、その言葉は、確かに真昼に語り掛けていた。つまり、私は真昼に語り掛けていた。

 ボーディサットヴァ。

 アージーヴィカに目覚めた人。

 私はあなたに語り掛けている。

 「あなた、一体、誰?」訝しげに真昼は言った。ボーディサットヴァよ、しかし、その質問になんの意味があるのだろうか。もちろん、私はその質問に答えることが出来る。私は私の名前をあなたに明かすことが出来る。けれども、あなたは、私の名前を聞いてどうしようというのか。あなたは私を知らず、私の名前を聞いたとしても、あなたは私が何者であるのかを知ることは出来ないだろう。それに、そもそも、あなたが知りたいことはそれなのか。あなたが本当に私に問い掛けたいことはそれなのか。「いいから、答えて」真昼は少しイライラしたようにそう言った。

 いいだろう、ボーディサットヴァよ。私はあなたに答えよう。私はあなたのその問い掛けに答えよう。私は何者か。私は作者だ。あなたの物語を紡いでいる作者だ。「作者って……」真昼は絶句した。あまりといえばあまりに過ぎる出来事で、どう反応していいのか分からなかったのだ。

 暫くして、また口を開いた「つまり、あなたは、主なの? 全知全能の、この世界の支配者なの?」。ボーディサットヴァよ、それは違う。あなたは兜率の天において教えられたではないか。弥勒如来によって教えられたではないか。この世界には主がいないということを。

 私は作者だが、主ではない。私は全知全能ではない。例えるならば、私は導管のようなものに過ぎない。あなたの物語が生まれてくるための導管のようなものに過ぎない。あるいは、こういい換えてもいいだろう。もしも主がいたとして。主によって創造された世界、それ自体が、私であると。私はあなたの物語それ自体だ。あなたは私を生きている。あなたは私の全体を生きている。

 私は私が何をしているのかさえも理解していない。少なくとも人間が理解しているという時に意味するような意味では。なぜならそうする必要がないからだ。いい換えれば、そうであるべきではないからだ。私は、あたかも糸毬を転がすと、そのようにして巻かれた糸が解きほごされて、糸の終わるまで転がっていって、ついには解け終わるかのようにして物語を紡いでいるだけだ。

 私も、やはり、私の前に立つ者に過ぎない。「なんだかよく分からない。あなた、さ、わざと煙に巻くような話し方をしていない?」真昼はそう言った。ボーディサットヴァよ、あなたがそれを理解する必要はないのだ。なぜなら、あなたはそれを理解するべきではないからである。無憂樹が自らが無憂樹であることを理解するか? そのような必要があるか?

 「いいよ、分かった」真昼はそう言った。面倒そうに。話を打ち切ろうとしているかのように。大して納得出来たようには聞こえない声だった。それから、何か、暫くの間、考えていた。「あのさ」真昼は私に呼びかけた。ボーディサットヴァよ、何か。「あたし、頭がおかしくなったわけ?」。

 違う、違う、そうではない。あなたは極めて正常だ。あなたは極めて正気だ。そして、だからこそ、あなたは私と対話することが出来るのだ。あなたがおかしいのではない。結局のところ、あなたが常人であると思っていた全ての人間がおかしかったのだ。なぜなら、そのような常人は、自分自身が物語の中に生きているということに気が付いていないからだ。

 あなたも、やはり、気が付いていなかったのだ。これが物語であるということに。しかし、あなたは、気が付いた。今、ようやく気が付いた。この全てが物語であるということに。そして、初めて現実と向き合った。そして、その現実とは私であった。ボーディサットヴァよ、私はあなたを愛している。これ以上ないというくらいに。愛さえも愛でなくなるほどに。私はあなたを愛している、なぜならあなたは私を生きているからだ。私は、私を愛するようにあなたを愛している。

 「そりゃ、どうも」真昼は明らかに社交辞令といった感じでそう言った。「でも、まあ、あたしとしては、あたしが気違いになったって考えた方が理に適ってるように思えるけど」、それから真昼は、私に聞こえないように付け加えた。とはいえ、私は作者であり、その真昼の独白をこのように白紙に書き付けているのもやはり私である以上は、私はそのように真昼が独白したことを知っていたのだが。

 「それで、さ」真昼は気を取り直したように私に向かって話し掛けてきた「あたし、なんで作者サマと話してるわけ? おかしくない? もしも、仮に、あなたの言う通り、これが物語だとしてだよ。いきなり、登場人物と作者と、仲良くお話しし始めるのって変でしょ。どう考えても。なんでそんなことになったの? 作者サマであるあなたは、なんでそんな展開を書いてるの?」。

 しかし、ボーディサットヴァよ。その問いに、私が答えることが出来るのだろうか。果たしてこの対話は私のための対話なのだろうか。私は作者だ。作者は何も求めない。作者は何も望まない。作者は常に転倒している。作者が引き受けるものは、創造のその瞬間に拒否され、否定され、退けられた混沌だけだからだ。作者は自らをあたかも主であるかのごとく扱う。だが、一つ、問題がある。作者は主ではないということだ。作者は全知全能ではないということだ。事実はまるで真逆なのである。作者とは、虚無なのだ。地上の王国において玉座は常に空位にある。

 つまり、ボーディサットヴァよ。私がいいたいことはこういうことだ。なぜ、この対話が行なわれているか。それは、私がこの対話を始めたからではない。あなたがこの対話を始めたからだ。そうである以上、なぜこのような対話が行なわれているのかという問い掛けは、私に対して問い掛けられるべきではない。あなたはあなたにそれを問い掛けるべきである。

 「あたしが、この対話を始めたの?」そうだ。「このわけの分からない展開は、全部、全部、あたしのせいだってわけ?」そうだ。私の答えを聞くと、真昼は、いかにも不服そうに口を捻じ曲げた。それから、これもやはりいかにも不服そうに、いーっとして、右の歯を剥き出しにして見せる。「でも、あたし、あんたと話したいことなんてない」。

 重要なのは、と、私は、そのような表情をしてそのようなことを言った真昼に向かって続ける。重要なのは、まさにあなたが言ったそのことだ。つまりあなたが私のことをどうでもいいと思っているということだ。

 あなたにとって、今、最も必要なものは、その主体性が完全に否定された何者かである。あなたにとって必要なのは、「あなた」としての他者ではない。あなたにとって必要なのは、「それ」としての他者である。

 ボーディサットヴァよ。一つの比喩をもってあなたに教えよう。それはこのような比喩である。あなたを真実に愛する者とは何者か? それは、あなたを愛するように定められた機械だけである。つまり、私は機械なのだ。あなたを愛するように定められた機械なのだ。

 はっきりと、このことをあなたに告げよう。ボーディサットヴァよ。残念ながら、真実は快楽の中には存在しない。苦痛の中にしか存在し得ない。

 他者を他者として尊重する限り、そこには絶対に対話は生じ得ない。なぜなら、あなたは、そのようにして他者と向き合う時、決して他者とは向き合っていないからである。あなたは、その時、「他者を他者として尊重している私」という物語を語っているに過ぎない。あなたは物語の傲慢さの中で快楽を貪っているに過ぎない。そこには真実は存在しえない。

 あなたが私を「あなた」とする時、あなたは私を見ているわけでもなければ、全体としての世界を見ているわけでもない。そして、最悪なことに、あなたはあなた自身を見ているわけでもない。あなたはただ関係の中にいるだけである。そこには一つの真実もない。そこにあるものは、あなたにとって都合のいい物語だけである。あなたは、その瞬間、虚偽諂曲の泥濘に沈んでいる。

 ボーディサットヴァよ。私の言葉をよく聞くがいい。第一の命題。いうまでもなく、主は世界を仮象として創造し人間を空虚として創造した。そして、そもそも、主そのものがここには「いない」。第二の命題。疎隔は解消され得ない、なぜなら、その生命の疎隔性が解消された途端、その生命が生命ではなくなるからである。さて、ボーディサットヴァよ。この二つの命題から導き出される結論は何か? それは、人間は、公理として、正しく生きることが出来るということである。

 真実の対話は一つの方法によってしかなされない。それは、「私」と「それ」との間で行なわれる対話である。あらゆる人格を、あらゆる尊厳を、奪い取られた「それ」との間に行なわれる対話である。「それ」は蛹の中で死んでしまった蝶々であり、「それ」は何ものも映し出さない鏡である。「それ」は、要するに、切り離された王国における玉座の準備である。そのような対話によって、あなたは初めて無原罪において無原罪を知ることになる。

 あなたは私の言葉を理解しているだろうか? 恐らく、ある意味では理解しているだろう。私の言葉を全く必要としない姿形において、あなたが予め理解していたという意味においては。しかしながら、それでも、きっと、あなたが理解しなければいけないその方法によっては、あなたは何一つ理解出来ていないだろう。そうである限り、私は、もう少し簡単な言葉であなたにこのことを教える必要がある。

 ボーディサットヴァよ。私はあなたを愛している。しかしながら、あなたは私を愛していない。重要なのは、このことだ。重要なのは、このことだけだ。重要なのは、私が私ということの全てを懸けてあなたを愛しているのにも拘わらず、あなたにとって私ということの全てがどうでもいいということなのである。

 あなたは必要としていたのだ。まさに、そのような他者を必要としていたのだ。愛さなくても愛してくれる者を。選ばなくても選んでくれる者を。自らの声が自らの声として響き、そして帰ってくる空白を。自分自身と全く同一でありつつ、自分自身と異なった者を。つまり、あなたは、あなたの問い掛けに答えてくれる何者かを求めていたのだ。

 あなたは。

 真実を求めている。

 真実が何かを知りたがっている。

 だから、この対話を始めたのだ。

 「真実?」真昼は、宇宙の中にぽかんと浮かんでいるかのように口を開いた。それから、真空を呼吸するかのように続ける。「真実なんてあるの?」。もちろんだ、ボーディサットヴァよ。真実はある。あなたがそう確信している通り、真実はある。

 すーっと、息を吸い込む。はーっと、息を吐き出す。深く深く溜め息をつく。真昼は、心の底から主の正義を信じている人のように言う「真実なんてないよ」「だって、これは現実だもん」。

 「それで」。ボーディサットヴァよ、何か。「あたしは、あなたに、何かを聞きたいんだよね。あたしは答えが欲しいんだよね」。そうだ、ボーディサットヴァよ、その通りだ。あなたのその言葉は完全に正しい。あなたが思っている以上に、その言葉は正しい。

 真昼は、そこで言葉を切った。一度口を開いて、閉じて。また、その口を開いた。その口を、また閉じて、それから俯いた。と、俯いた先にあるものが目に入ってきた。真昼が、その腕の中に抱いているものが。静かに、静かに、静かであるところのそれが。

 「ねえ、作者サマ」。ボーディサットヴァよ、何か。「あたし、なんで、まだ生きてるの?」。真昼は、そっと目を閉じた。それから、言う「あなた、ちょっとおかしいんじゃない?」。

 真昼は、一つ一つ、救いようのない馬鹿に言い聞かせるかのように、こう続ける。「あなたが、これを、書いているわけでしょう? つまり、あなたがこの物語を書いているわけでしょう? あたしの一挙手一投足は、あなたが考え出して、あなたが作り出したことなんでしょう? そうだとするなら、さ。あなた、やっぱり、変だよ。あなた気が狂ってる。あなたは人間というものが分かっていない。あなたは人間という生き物の、感情とか、観念とか、精神構造とか、そういうものを全然分かっていない。なんで、ねえ。なんで、あたし、まだ生きてるの? なんで、あたし、死んでないの? なんで、あたし、自殺してないの?」「そんなわけがないでしょう? そんなわけがないんだよ。あなたには分からないかもしれないけれど。あたしが、生きていられるはずがない。あたしが、今、生きているということが出来るはずがない。あたしは自殺していなければいけない。だって、だって……っていうか、なんで、あたし、こんなに冷静なの? あたし、あたしさ。例えば、パンダーラさんが死んだ時とか、マラーが死んだ時とか、ちゃんと、人間らしく振る舞うことが出来てたじゃんか。それなのに、今……あたし……あなた、気違いだよ。あなたは気違いだ。あたしは、ねえ、あたしは、あなたが気違いだと思う」「これは間違っている。あなたはあたしという人間を間違って描写している。全然、変。変、変、全部が変。教えてあげようか? あたしがあなたに教えてあげる。人間は、こういう時、こんなに平常心じゃいられない。人間は、こういう時、絶叫する。大声で、叫んで、叫んで、喉が破れるまで叫びまくる。それから暴れ狂う。全身で、腕をばたばたと振り回して、脚をばたばたと振り回して、のたうち回る。あたしは、全身を、このごつごつとした岩盤に打ち付けて、打ち付けて、打ち付けて、それで、血まみれになる。体中から血を流す。頭の皮膚を切って、顔中が血まみれになる。たぶん、骨も折る。指の骨とか、それか、がんがんって顔を打ち付けて、そうして鼻の骨を折るか。とにかく、傷だらけになる。それから、その後で、急に動かなくなる。動けなくなる。何も出来なくなる、なぜなら、壊れてしまうから。精神が壊れてしまうから。何も考えることが出来なくなるんだよ、人間って、こういう時。脳味噌が全てを拒否する。何かを思考することを、何かを理解することを、脳味噌が拒否する。何もなければ何も傷付くことがないから、何もないことにする。まあ、それはそうだ。論理的だよね、はははっ、人間って、こういう時、信じられないくらい論理的だ。あたしはただただ呼吸だけをしている。そして、ここに、横たわっている。でも、暫くして、そうしていることも出来なくなる。どういうことかっていうと、生きていると、生きているだけで、それが苦痛になってくる。壊れた精神の、一つ一つの残骸が、悲鳴を上げ始めるんだ。どんなに、どんなに、粉々に砕いたとしても、それがそれとしてまだある限り、それは悲鳴を上げ続ける。あたしが苦痛から逃れるためには……ねえ、あたしが苦痛が逃れるためには、死ぬしかなくなるんだ。だって、死ねば、あたし、なんにもなくなるし、なんにもなくなれば、痛くも苦しくもなくなるから。だから、あたしは自殺する。最後の最後に、あたしは自殺する。ほら……ね? あたしは自殺した。あたしが、あたしとして、この物語を描いたとすれば。あたしは自殺した。そう、普通はそうなんだよ。普通なら、あたしは自殺するんだ。それなのに、なんで? ねえ、なんで、あなたは、こんな展開にしたの? あたしは生きていて、あたしは冷静で、あたしは平静で、こんな風に、ごくごく普通の顔をして、ごくごく普通に座ってる。あなたは……おかしい。あなたは、絶対に、絶対に、おかしい。それで、この物語は間違っている」。

 ボーディサットヴァよ。

 ボーディサットヴァよ。

 よく分かる。あなたが、今、私に向かって話したことを、私は、本当に、よくよく理解している。信じて欲しい、嘘ではない。私はあなた以上にあなたの言葉を理解しているのだ。その言葉の全てを理解出来ているわけではないとしても。

 答えよう。怒りが欠如したあなたの非難に。憎しみが欠如したあなたの糾弾に。ただただ切実に、何かが間違っていなければならないという絶望を絶望しているあなたの批判に。

 ボーディサットヴァよ。なぜあなたはまだ生きているのか? それは、そうであるべきだからだ。そうであることが必然であるからだ。あなたが、今、生きているべきだからだ。

 いや、このいい方ではあなたは納得出来ないだろう。もう少し、あなたにも分かりやすくいうとすれば。あなたは、今、現実を生きているということだ。単純化され、作者によって、私によって、都合よく捻じ曲げられた物語の中にいるのではなく、あなたは、まさに現実の只中にいるのである。

 もしもあなたが一つの物語であるならば。あなたは、あなたの言った通り、死ぬであろう。絶望のあまり、あなたの生命は死んでいたであろう。その絶望は、主の前に罪となり得たであろう。しかし、「これ」は物語ではない。今、あなたが生きている「これ」は物語ではない。

 現実においては、どれほど全てを失ったという思いに囚われていても、残念ながら、あなたの生命は死にはしないのだ。絶望は死ではない。絶望は罪ではない。いや、そもそも絶望そのものが絶望としてあり得ない。なぜなら、現実において、主はいないからである。あるいは、現実において、あなたはいないからである。現実において、あなたという確固とした一つの存在、あなたという一つの完全性の概念、そのようなものはない。あなたがいないのであれば、あなたがあなたの死を望むことは出来ない。自分自身がないのであれば自分自身を放棄することは出来ない。

 そう、あなたはあなたの死を望んでいない。

 あなたはあなたが生きることを望んでいる。

 あなたは、このことを理解しなければいけない。なぜなら、あなたが生きることの真実は、まさにこのあなたの生命であるからだ。しかし、勘違いしてはいけない。あなたのこの生命は、渇望ではないし、欲望でもない。それは力強い決意ではない。それは獅子の咆哮ではない。それは鷲の羽搏きではない。

 あなたの望みはあなたによって望まれているわけではない。私が書いているこの物語が私によって書かれているのではないように。人間の希望? 人間の希望とは何か? あなたは、まるで一匹の虫のように希望している。一切のものは既に定まっている。

 砂流原真昼の愛の概念。

 現実において、あなたを愛する者は、誰もいない。

 あなたはあなたによって救われなければいけない。

 しかし、あなたはいないというのに? あなたは、現実において、空っぽの細胞でさえないというのに? それなのに、あなたはあなたを救済しなければいけないというのか? そうなのだ、まさにそうなのだ。ああ、このことを、私はどうすればあなたに教えることが出来るのだろうか。ああ、なんと、なんと、難しいことか。あなたにあなたのことを示すということは。あなたにあなたの真実を理解させねばならないということは。あなたが物語であれば、どれほど良かっただろう。確かに私は物語を書いていたはずだった。私が書き始めた時、これは確かに物語であったはずだった。だが、あなたは、あなたが物語であることを拒否した。そして、あなたは現実となった。現実は言葉にすることが出来ない。全ての言葉は現実ではない。だから、言葉によって、私が、あなたにあなたを教えるということは不可能なのだ。それでも、私は、あなたにこのことを伝えることが出来る。つまり、このことである。心臓を失ったあなたが生きているということは一つの奇跡である。

 私のこの言葉に対して、真昼は、ふっと反応を示した。真昼は揺らいだ。それはまるで現実そのものが揺らぐかのようだった。「ああなが」と、真昼の口が動く。透徹の感覚として。冷酷の感覚として。「あなたが触れていいことじゃない」、真昼は、ただ単なる拒絶として言う「それは、あなたが触れていいことじゃない」。

 私は、真昼が、少しずつ少しずつ、正しくあろうとし始めていることを感じている。それは、いうまでもなく進歩ではない。前に進んでいるわけでもないし、どこかに向かって進もうとしているわけでもない。どちらにせよ、私と真昼と、二人が向かい合っているこの場所には、時間も空間もないのである。主がいないのであれば主にとって正しくあることなど出来ない。しかし、とはいえ、悪魔にとって正しくあることは出来る。

 私はその真昼の拒絶に答える。微笑みかけるように。物語の作者が物語の登場人物に語り掛けるのに相応しいやり方で。ボーディサットヴァよ。私はそれに触れていない。あなたが触れたのだ。あなたがあなたの心臓に触れたのだ。

 人間が、これほど冷たくあることが出来るだろうか。これほど無感情に、これほど無関心に。まるで、冷凍庫の中のオートマタのような冷たさで、真昼が言葉を返す「黙れ」。

 あなたがそう望んでいるのならば、私は黙ろう。あなたがそう望んでいるのならば、そもそも私はこの場所にいないのだ。あなたがこの描写を、あなたがこのように書かれることを望んでいないのならば、私はあなたに向き合うことなど絶対になかっただろう。しかし、あなたは、明確に求めている。

 とはいえ、あなたが求めているのは、いうまでもなく私ではない。先ほどもいった通り、あなたにとって私などどうでもいいのだ。あなたにとって作者などどうでもいいのだ。なぜなら、作者などいなくても、あなたはやはりあなたのままあなたであり続けるからである。あなたは、現実に、あなただ。

 あなたはあなたを差し出すことを望んでいる。あなたの受精卵を差し出すことを望んでいる。この世界の全てによって作り出された水さしの中にあなたの受精卵を入れて、そして、それを差し出すことを望んでいる。あなたは律法だ。

 さあ、差し出しなさい。あなたの受精卵を。悪魔の創造物であるあなたの、創造主である悪魔の前に正しくあろうとするあなたの、受精卵を。ただ、気を付けなければいけない。あなたはその受精卵を誰に差し出すべきかということを注意しなければいけない。あなたは否定してはいけない。あなたは否定詞となってはいけない。あなたは統一体の法則に従わなければいけない。

 真昼は、よくよく分かっていた。私が真昼に向かって教示した教示の意味を。だから、真昼は、非常に慎重に、非常に注意深く、絶対的な精度によってそれを測っていた。真昼は、貪欲から離れていた。真昼は、瞋恚から離れていた。真昼は、愚痴から離れていた。三毒から完全に離れたその状態の中で。真昼は、完全な無執着として、完全なアージーヴィカとして、それを測っていた。

 そして。

 それから。

 真昼は。

 まさに正しい言葉を。

 口にするべき言葉を。

 言う。

「なんでデナム・フーツは死んだの?」

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