第三部パラダイス #46

 と。

 その瞬間。

 リチャードの。

 目と。

 鼻と。

 そのすぐ先。

 一つの。

 穴が。

 開く。

 リチャードの顔のすぐ先、ということは、いうまでもなくデニーの目の前。直径にして一ダブルキュビト程度の穴が開いた。これは……つまり……ああ……どこか、この世界ではない世界へと続く穴。この世界において、生命は、その生命の疎隔性の外側から押し付けられる条件によって拘束されている。そのような、外的な条件が一切存在しない場所。生命の疎隔性の内側。この現実とは、全く異なった現実……そう、それはオルタナティヴ・ファクトだった。リチャードのオルタナティヴ・ファクトだった。

 いうまでもなく、リチャードもまたオルタナティヴ・ファクトを作り出すことが出来るほどに強力な生き物であった。そして、また、この結界にはデニーがオルタナティヴ・ファクトを展開出来ないようにする妨害魔法がかかっているが。その魔法はリチャードに対して効果を及ぼすものではなかった。つまりリチャードは好き勝手にオルタナティヴ・ファクトを展開出来るのだ。そして、今、それを展開したのだ。

 さて、少しばかり、リチャードのオルタナティヴ・ファクトを覗いてみよう。あまりプライヴェートの領域を軽々と侵害するのはよくないことであるが、とはいえ、少しくらいならば問題あるまい。端的にいえば、そこは教会であった。しかも、トラヴィール教会オンドリ派の教会。その教会には誰もいなかった。誰も、誰も。そして、まるで夜のような沈黙に包み込まれている。恐らくは……パンピュリア共和国の、ブラッドフィールドにあるセント・ハドルストン大聖堂だろう。大司教の司教座がある教会だ。

 このような性格であるところのリチャードの、そのオルタナティヴ・ファクトが教会であるというのは、なんだか奇妙な感じがするが。ただ、それは、この物語には関係ないことなので置いておこう。今、重要なのは、その教会の中にある物である。その、焼き尽くしの祭壇の上。ティンダロス十字の前に、あたかも一つの異物として。あるいは、まさしく聖霊、パラクレートスとして浮かんでいる。「それ」について。

 「それ」は……しかし……そんなことが……いや、見間違えようがない。それは、確かにライフェルド・ガンだった。しかし、なぜ? なぜそんなことがあり得るのか? デニーの魔法は完全であった。オルタナティヴ・ファクトの内側であるからといってその効力が働かないということはあり得ない。

 では、どうして? よくよく見てみると、そのライフェルド・ガンの周囲。たった今、リチャードの周囲を覆い尽くしているその状態と同じように、無数の魔法円が描かれていた。ただし、実は、それらの魔法円は、リチャードを拘束している魔法円とは反対の効果をもたらすためのものであった。

 その魔法円に描かれている可能的未来は「リチャードがスペキエース能力を利用出来る」可能的未来だった。つまり、その魔法円に囲まれている範囲だけ、デニーの魔法を無効化するための、対抗魔法だったということだ。

 リチャードは、全ての展開を予想していた。自分がデニーによってスペキエース能力を封印されることまで想定の範囲内だったのだ。そして、そのような状況に備えて、オルタナティヴ・ファクトの中に、そういうスペキエース能力の封印魔法によって無効化されないライフェルド・ガンを作り出しておいたのだ。

 念のために補足しておくが、このような対抗魔法でデニーの封印魔法全体を無効化することは不可能である。デニーは、王レベルのデウス・ダイモニカスであり、純粋な精神力だけを考えれば始祖家のノスフェラトゥよりも上だからだ。リチャードとしても、僅かな時間、僅かな空間、無効化するので精一杯だった。

 なんにせよ、そこにはライフェルド・ガンがあった。しかも、そのライフェルド・ガンは……非常に珍しい種類の銃砲を象った物だった。今更いうまでもないことであるが、エオストラケルタ大陸の地理上の区画は中央ヴェケボサニアを中心として東西南北の区画に分けられる。例えば、愛国は東洋と呼ばれるし、ポンティフェックス・ユニットは西洋と呼ばれる。そういういい方で、いわゆる南洋と呼ばれる区画でしか見ないタイプのものだ。それはチャリカー・ダーヌスと呼ばれている。チャリカーとはチャクラであり、要するに環刃のことだ。そして、ダーヌスは弓。つまり、環刃を発射する銃砲なのだ。

 かなり巨大だ、DKGRと同じくらいのサイズ感がある。ただ、DKGRと比べるとその作りは簡素で、重量感はあまりない。ボウガンによく似た構造をしているのだが、ただ、先端にはボウがついていない。銃身というにはあまりにも平面的過ぎる、平べったい発射装置が付いていて。その最後部に奇妙な球体が接続している。そして、その下の方にグリップとトリガーとが付いている。一般的なチャリカー・ダーヌスであれば、これになんらかのマガジンが付いているのだが、これはライフェルド・ガンなのでそれは省略されていた。

 アーガミパータでも、第二次神人間大戦の前期から中期までにかけてはよく使われていた。一般的な銃弾よりも広範囲にわたってダメージを与えられるし、それに、環刃の平面に魔学式を描き込んで発射することが出来るので魔法の効果を付加しやすかったからだ。銃弾ではどうしても書き込める量に限界がある。ただ、それも、榴弾が戦場に投入されるまでのことだった。榴弾のように広範囲にわたって魔法の効果を撒き散らすことが出来ないチャリカーは、その大きさのせいで一般的なアサルト・ライフルと比べて持ち運びがアンビリーバブルクソ面倒ということも相まって、第二次神人間大戦後期からは急速に廃れていった。

 なるほど。

 確かに。

 それは。

 アーガミパータにおける。

 最終決戦には。

 相応しい銃砲。

 だ。

 さて、先ほども書いたように、リチャードの対抗魔法はそれほど長くはもたない。デニーを近付かせるためのコントみたいなやり取りで随分と時間を取ってしまったせいもあるが、一発、たった一発、発射する時間が稼げればいいというところだろう。ただ、その一発で十分だ。

 「行くぜ! しっかり受け止めろよ!」とリチャードが叫ぶ。ツカシュンッ!という硬質な音が鳴り響いて環刃が発射される。そう、一発で十分なはずだ。その環刃の速度。そして、これほどまで接近した距離。さすがのデニーであっても避けられない。リチャードは回避不可能な距離までデニーを近付けていたのだ。

 ああ。

 普通であれば。

 絶対に。

 絶対に。

 避けることなど。

 出来ない。

 はず。

 なの。

 に。

 環刃が、周囲に、凄まじいエネルギーを放ち始める。まるで環刃を中心として狂飆が荒れ狂っているかのようだ。ばぢばぢっという強迫的な音を立てて雷のように弾ける。このような力の塊が直撃すれば、この状態の、魔王の状態の、デニーであっても無事ではいられないだろう。

 そう、死ぬのだ。当たれば死ぬ。そして、避けることは出来ない。このような状況下で……だが、それでも、デニーは表情一つ変えることはなかった。いや、それどころか、デニーの顔に浮かんでいたのは余裕だった。予め、こうなること、全部全部、知っていたとでもいうように。

 いうように?

 いや、それは。

 比喩ではない。

 きらりっと、一瞬だけ、光った。あたかも、願い事を叶えてくれる流れ星のように、デニーの九つの目が光った。デニーは、笑っていた。いつもの、あの笑い方で。そして、言う「ふふふっ! さぷらーいず!」。

 それから、何か、素敵なポーズでもするみたいにして。自分の左手を、さっと、自分の顔のすぐ先のところに差し上げた。そういえば……そう、その左手は、まだスマートバニーを持っていた。音楽アプリから音楽を流し続けている、デッコデコのスマート・バニーを。

 デニーは美しい死神のような指先でホームボタンを押した。一度、ホーム画面に戻って、それから、新しく、アプリのうちの一つを選択する。それは……リチャードが、一度も見たことがないアプリだった。まあ、それも当然だ。これはデニーが作ったアプリなのだから。

 初めてアプリを起動する時ってなんだかわくわくしますよね。さて、そのアプリは一体どういう機能を持つものなのだろうか? デニーの指先が、そのアプリに触れた途端……なんと、なんと、なななんと! スマートバニーの本体、ハードそのものが変形し始めた。うーん、随分と思い切った機能だ。

 ディスプレイが、かぱっと開く。ケースが、上下左右に分解されて。そして、内部の機械が露出する。スマートバニーの分解動画って見たことあります? ほとんどがでかいバッテリーでいっぱいになってて。ロジックボードを外すと、スピーカーだとかカメラだとか、あとたぶんアンテナっぽいやつだとか、そういうのが入ってて。ただ、デニーのそのスマートバニーの内部は、明らかにそのような一般的なスマートバニーの内部ではなかった。

 その内側に入っていた物の中で、一番大きな物は、バッテリーではなかった。そうではなく……そのケースの中に……いっぱいの……円盤。三次元のものではなく二次元のものであるかのように薄っぺらい円盤。完全な真円の円盤。なめらかな金属のように、苦く、冷たい、青い色をした円盤。

 つまり。

 それは。

 テレポート・ポータル。

 要するに、そのアプリは、スマートバニーに内蔵された短距離テレポート装置を起動させるためのアプリだった。そう、そうなのだ。デニーのスマート・バニーには短距離テレポート装置が埋め込まれていた。読者の皆さんは覚えていらっしゃるだろうか。カリ・ユガ龍王領、真昼に対する最後の審判が行なわれる前に開かれたあの共演のことを。あの饗宴で、ユニコーンの丸焼きが駆け抜けていたポータルのことを。あの時に使われていた短距離テレポート装置は、実は、ついでに作られた物だった。デニーが、本当に、目的としていたのは。このスマートバニーに埋め込まれた短距離テレポート装置の方だったのだ。今現在進行中のこのような状況に追い込まれた時に備えて、カリ・ユガ龍王領で手に入った部品で、このような回避システムを組み込んでおいたのだ。

 ブラボー、ブラボー! ようやく伏線回収出来ましたね。あんまり長いこと伏線として伏せてたもんだから忘れちゃうんじゃないかって始終びくびくし通しでしたよ。いや、なんていうか……他に、なんか忘れてる伏線とかなかったかな? いやー、もしかしたらあるかもしれねぇな、まあ、なんか意味ありげなこと書いてあって、その後で触れられるのかなと思ってたら何一つ触れられなかったって場合、それは完全に忘れられた伏線なので、ちょっと見なかったことにしてあげて下さいね。

 スマートバニーはそのまま変形を続ける。ぱちぱちと静電気みたいな音を立てながら、部品の一つ一つが外れていく。そして、その静電気が、まるで奇術師の見えない糸のような機能を果たして。それらの部品は、円形に繋ぎ合わされていく。

 ポータルは、その円形の中に嵌め込まれていた。つまり、これほど小さな短距離テレポート装置であるからして、ポータルを、そのまま、独立して発生させることまでは出来なかったのだ。部品によって組み立てられていく装置そのものが、その円形の内側に、プロジェクターのようにしてポータルを発生させているということである。

 そうして、機械の円形は、次第次第に広がっていって。結果として、ポータル自体も広がっていく。最終的には……それは、デニーの全身を覆い隠す円形の盾を構成する。

 そして。

 それは。

 間に合った。

 間に合ったのだ。

 ぎりぎりだった。直前だった。直後だった。つまり、ポータルが開いたのは、環刃がデニーがいる空間を斬伐する直前だった。環刃がその距離を通過したのは、ポータルが開いた直後だった。環刃は、空虚な青の内側へと突っ込んでいく。それから、その後で、吐き出される……デニーの、すぐ背後の空間へと。

 ちょうど、デニーが浮かんでいる、その場所だけ、すっぽりと抜け落ちてしまったみたいだった。デニーの眼前、デニーの背後、作り出された二枚のポータルによって。その場所は……環刃の弾丸、その弾道から切り取られてしまったのである。

 標的を見失った環刃は、空しく、無益に、不毛に、世界を切り裂きながら飛んでいってしまう。ただ……それは、完全な無意味というわけではなかった。環刃が持つエネルギーがあまりにも強かったせいだろう。そこから溢れ出ていた、あの暴風雨のような力の波動。それが、デニーのスマートバニーに悪影響を及ぼした。ポータルを包囲するように展開していたスマートバニー。環刃が接近すると、ぼうっぼうっと、そこここから火を放ち始めて。そして、環刃がポータルを通り抜けた瞬間に、ぼんっと音を立てて爆発してしまった。少なくとも、これで……もう、音楽は聴けなくなってしまったわけだ。

 ただ、それだけの話である。確かにスマートバニーは失ったが、それでもデニーは傷一つない。一方のリチャードは……環刃が、その標的を射止めそこなった瞬間。それと同時に、リチャードのオルタナティヴ・ファクトの内部にあったチャリカー・ダーヌスがぱーんと弾けた。光明華を形作っていた数百のDKGRと同じように光の屑となって消えていく。対抗魔法が限界を迎えたのだ。

 これで。

 もう。

 リチャードに。

 攻撃手段、は。

 残っていない。

 金属製の円盤のようなポータルが、軋むような音を立てて、あたかも中心に向かって潰れていくかのように消えていった後。そのポータルの向こう側で、デニーは笑っていた。銀イヴェール合金で出来た鈴を二つ、柔らかくこすり合わせるようなあの笑い声で。くすくすと笑っていた。

 それから、ゆっくりと、ゆっくりと、リチャードに近付いていく。もう、リチャードのオルタナティヴ・ファクトは閉じてしまっていた。いつまでもいつまでも空白のアーセナルを開いていても仕方がないからだ。その向こう側にはリチャードの顔があった。こちらの顔は……無表情だった。そこからは、何も読み取れない。ただただ、何ものもそこから読み取れない完全な無だけがその顔に彫り込まれている、かの、ような。

 デニーの顔が、リチャードの顔の、そこから、たった数ハーフディギトの距離まで近付いていく。デニーが呼吸をしていれば、その吐息さえ感じられそうな距離だ。もう、リチャードについて、恐れるものなど何一つない。オルタナティヴ・ファクトは空っぽだ。吸痕牙で噛みつかれないようにすればそれでいいだけだ。

 それから、デニーは、そっと人差指の指先を差し出す。ほっそりと優美で、あたかも何ものも育まない不生女の不毛、の、象徴であるかのような指先を。

 柔らかく、その指先を、顎に当てる。そして、リチャードの顎を、すうっと持ち上げた。デニーがリチャードの顔をまともに見下ろして、リチャードがデニーの顔をまともに見上げる、そのような関係性に、するために。

 まるで、リチャードを捕食しようとしているかのように。腐肉を食らう蛆虫が、目の前の死骸に毒牙を掛けようとしているかのように。そのように、デニーは、リチャードの目を見る。それから、こう言う。「どおお? 驚いた?」「これで、全部、全部、お終いだね」「ふふふっ……ロード・トゥルース」「結局は、ロード・トゥルースの勝ちってゆーことには、ならなかったね」。

 そこまで言葉した時に。デニーは、リチャードの目の中に何かを見た。そのようにして覗き込んでいる、黒い黒い、真闇のような瞳の中に、何かが走るのを見た。後悔? 屈辱? いや、違う。ただただ静かな、静寂にも似た満足感。しかし、それを見た時にはもう手遅れだった。「ああ、そうだな、その通りだ」リチャードが言う、あっさりと、さっぱりと、弊履を放り捨てるかのように「これは俺の勝ちじゃない」それから、吸痕牙を剥き出しにして、にやっと笑う「俺「達」の勝ちだ」。

 その瞬間。

 デニーは。

 今まで。

 本当に。

 今。

 この瞬間まで。

 一片たりとも。

 感じることのなかった。

 純粋な。

 殺意の。

 狼燧を。

 感じる。

 デニーは、あらゆる感覚を有しているはずだった。デウス・ダイモニカスとしての感覚だけではない。例の三年間のvacatiom。レノアとともに宇宙旅行に行っていた時に、デニーはこの借星以外のあらゆる場所に住む生き物のあらゆる感覚を学んでいた。そして、それらの感覚を自分の身体によって模倣していたのだ。それらの感覚は、力を封印された状態では大半を発揮出来ないが。現在のこの状態ならば全てが完全に機能しているはずだった。今のデニーは、生き物の存在自体を感覚することさえ出来る。そこに存在さえあれば、例え、いかなる迷彩、科学、魔学、あるいは神学でさえ見破ることが出来るのだ。いや、それだけではない。例えば、デニーは、可能性さえ感じることが出来る。カレントがそうであったように、デニーは、マルチバースの世界線を感覚として読み取ることが出来るのである。だから、そこに、現時点で存在しなくても。例えば、テレポート機能か何かによってそこに現われる「だろう」という、その「だろう」を感じることが出来るのだ。これは人間至上主義諸国において第六感と呼ばれている感覚であるが、それを、デニーは、百パーセントの精度で感じることが出来る。つまり、要するに、あり得ないのだ。今の状態のデニーが、自分の背後、何かがいるということに、何かが現われるかもしれないということに、気が付くことが出来ないなどということは。デニーがそれを感じないなどということは、世界が間違っていない限りはあり得ない。

 ただ。

 まあ。

 残念なことに。

 世界は。

 たまに。

 間違う。

 ことが。

 あります。

 デニーは振り返った。美しい塩の柱の彫刻のように。そして、そこには一人の女がいた。見た目だけでいえば、その年齢は、恐らくは二十代の中盤。リチャードよりも少し年上といったくらいだ。髪の色はとてもとても濃い灰色。あたかも焼き尽くしの灰のように灰色。一度だって櫛を通したこともないような、ひどく獣毛じみたその髪の毛を長く長く伸ばしている。背に向かって流れるように、腰の辺りまで伸ばして根本で一つに括っている。いわゆるポニーテールだ。デニーのことを、あたかも燃え上がる硫黄のように凝視しているその目の色はブラウン。ただ、その角度によっては、まるで地中深く隠された黄金の色のように見えないこともない。その服装。全然サイズが合っていないぶかぶかのトラックスーツを着ている。黒を基調としていて、全体が黒い色で統一されたトラックスーツである。履いているのは、こちらは黒一色のスニーカー。そのような服装の全体が、あちらこちらに切り傷や焼け跡や、その女が通過してきたのだろう凄まじい戦闘の痕跡によってぼろぼろになっている。また、その首元には、なぜか革で出来た首輪をつけている。

 それから。

 それから。

 その右手。

 に。

 掴んでいる。

 ものは。

 降魔。

 成道。

 転法輪。

 あたかも神通光のように。

 荘厳に輝く、チャリカー。

 先ほど、デニーが、短距離テレポート装置によって回避したチャリカーを、その女は、その右手に、掴んで、いた。増上慢、業増上力。がりがりと音を立てて、あらゆるものを切り裂き焼き尽くす、無限に近似した力、対神兵器。それを、女は、振り上げて構えていた。大きく大きく頭上に振りかぶっていた。赤く暗い背景に、雷霆の光が閃く。その姿は、あたかも金剛を掴む蓮華のごとく……そう、つまりは執金剛。金剛の法輪によって羅睺羅を打ち砕く、リチャードの絶対的守護者。

 デニーは。

 まるで。

 昆虫が。

 全く。

 処理出来ない。

 出来事に。

 出会った。

 瞬間の。

 ように。

 完全な。

 空白の。

 表情の。

 ままで。

 停止して。

 そして。

 それから。

 その。

 次の。

 瞬間。

 その女は。

 般若。

 灌頂。

 チャリカーを。

 振り、下ろす。


 主よ……主よ、星が落ちてまいります。いと高きところから、わたしたちのおりますこの地上へと、あの星が落ちてまいります。ああ、今、わたしの霊はわたしの内側で溶けて流れ出し、それゆえに破滅の瞬間はわたしの左手を掴みました。わたしを責めさいなむ茨は枯れることがありません。わたしのはらわたをついばむ鳥は死ぬことがありません。破滅です、破滅です、ケレイズィの破滅です。蛇を助けようとするものは身をかがめ、その蛇に噛まれました。その毒は愚かなものの体を腐らせ、愚かなものはやがて死ぬでしょう。主よ、わたしの皮膚は黒くなって剥げ落ちています。主よ、わたしの骨は熱さによって燃えています。主よ、わたしの肉は薪の中の枝のように弾けています。主よ、わたしの血は鍋の中の水のように煮立っています。主よ、ここには感じるべきいかなる幸いもありません。ここには災いと苦しみだけがあります。見よ、彼がわたしのかたわらを過ぎ去っても、わたしは彼を見ない。彼は落ちていくが、わたしは彼を認めない。見よ、彼が奪い去られるのに、誰がそれを阻むことができるか。誰が苦い剣に向かって「あなたは何をするのか」ということができるのか。闇です、全地のおもてに闇が広がっています。天に星が見えません。どこにあるのですか、主よ、あの星はどこにあるのですか。ここは暗き地で、闇に等しく、暗黒で秩序なく、光も闇のようです。まことにわたしたちは滅ぼされました。わたしたちが残したものは火で焼き滅ぼされました。その後には屍を焼く火と硫黄だけが残されました。主よ、偽りに違いありません。これは偽りに違いないのです。しかし、誰がわたしにその偽りを証明するのでしょうか。主よ、主よ、わたしの耳にあなたの声が聞こえません。

 あ。

 あ。

 あ。

 デニーは「え?」と口走った。本当の本当に、何が起こったのか分からないとでもいうかのように。何が起こったのか? とはいえ、別に、何か奇妙なことが起こったというわけではなかった。起こったそのことはとてもとても当たり前のことでしかなかった。つまり、魂魄さえ切り裂く刃によって切り裂かれた時に当たり前のように起こることだった。

 デニーの頭部、右側が吹っ飛んだ。正確にいえば、鼻の右上の辺りから、右側にある眼球の三つ分を含んで、後ろ側の角の四本、先端にいたるまでの部分。頭部の六分の一ほど。その女が持っていたチャリカーによって、切断されたのだ。そのまま、その勢いのままに、切り離された部分は、くるくると回転しながら明後日の方に向かって飛んでいく。

 くらり、と傾いだ。デニーの上半身、アポルオンの全体が、あたかも初めて眩暈を起こした子供が世界の方向性を喪失したかのように、あたかも上下も左右も分からなくなってしまったというように、大きくゆすらいだ。

 デニーの口は「え? え? え? これ、なあに?」と続ける。穢らわしいレプラの斑紋の一点も見当たらない、羽化したばかりの天使のような、四枚の翼が、不思議なほどに煌めいて揺らめく。「どーしたの?」と言いながら、デニーは、くるんとのけぞる。後ろ向きに倒れ込むみたいにして、九重に重なり合った一つの星、美しいその星を中心として、半分と少し回転する。

 デニーの両腕が、何かを掴もうとするかのように、何かに縋りつこうとするかのように、じたばたと暴れた。ただ、デニーは何もない空中に浮かんでいるのであって。その手のひらは、何も掴むことはなかった。それから……デニーは……その星は……アポルオンは……落下し始めた。

 デニーの口が、驚きのあまり言葉さえ出ないとでもいうかのように。つまりは唖然として、ぱくぱくと、開いたり閉じたりしている。そのようにしてその口を動かすたびに、大顎の右側と大顎の左側と、ぶつかり合って、かちかちと音を立てる。

 流れ星なのにお願い事を叶えることが出来なかったお星様みたいだ。そのように落ちていく様は。なすすべもなく、出来ることなど何もなく。引き摺り落とす重力に、無条件降伏のように全身を任せて、ただただ無力なままに落ちていく。

 さて、ところで。アポルオンの下には、いうまでもなく影があった。あらゆる光を食い尽くす蝕の悪魔。エクリプシス、要するに、デニーの下半身が。そして、エクリプシスは腕を有している。四本の、長い長い、腕を。

 そうであるというのであれば、エクリシプスはアポルオンを受け止められるのではないだろうか。四枚の手のひら、それらのどれかで、あるいはそれらの全てで、アポルオンの墜落を受け止められるのではないだろうか。

 ああ、しかし、残念ながら、それは不可能だった。なぜか? なぜかといえば、それは、エクリプシスは、悶え、藻掻き、身体をよじらせて、のたうち回っていたからだ。

 世界の誰もそれほどの苦悶を見たことがないほどの、凄まじい有様だった。いや、苦悶という表現は間違っているだろう。なぜなら、それは痛みでも苦しみでもなかったからだ。例えば、一匹の蛆虫を捕らえて、その頭部だけを抉り取るとしよう。残りの部分が、ただただ神経の反応として、伝達される運動の命令の混乱としてのランページのような。そのような、理性も感情も一切関係していない、無秩序な身体的痙攣であった。

 世界を食らう蛆虫は、口を開いた。大きな大きな、盲いたものにさえ見える、光の洪水の後に残されたものの全てを飲み込むオラーム・ハッバーのような口を開いた。そして……そこから……まるで……世界の終わりみたいに。燃え盛る太陽の炎を消し去り、二つの目に見える月と一つの目に見えない月と、その全部から光を奪い取る、いつまでもいつまでも終わることのない、世界の最後の夜みたいに。もしくは、そう、「生まれざる方」の産声みたいに。絶対的で白痴的な、沈黙の叫び声を上げた。

 それはある意味では驚くべき現象であった。そう、それは確かに叫び声であるはずだった。けれども、何も聞こえなかった。いや、何も聞こえなくなった。聞こえているはずのあらゆる物音が、その叫び声によって聞こえなくなった。何も、まるで音を感じる脳髄の一部に麻酔をかけられてしまったかのように何も、聞こえなかった。例えば、何かの漫画の中の出来事で、エクリプシスの口から、完全に真っ白な吹き出しが吐き出されていて。そのせいで、世界の物音の全てを覆い隠してしまったかのような。そんな、周囲の音の、周囲の声の、皆世皆界を塗り潰してしまう沈黙を、エクリプシスは、叫んで、叫んで、叫んだのだ。

 そうして。

 その後で。

 その絶叫。

 嘔吐した。

 その口から。

 エクリプシスは。

 どろりと。

 溶け出した。

 あははっ、いいね、悪くない。喝采、喝采、馬鹿げたグロリア。つまるところ、真夏の情熱的な抱擁によって気が狂ったアイスクリームみたいなんだ。エクリプシスは。その、白い、磁器で出来た、蛆虫は。あたかもフラシェギルドのその時に、ヨグ=ソトホースの最も偉大な七人のティンダロスの王達、アムシャ・スプンタ、が歌う讃歌。それを聞いたヘプタカイデカス、不完全な鍛冶師によって作り出された十七の世界が、あたかも信判の際に溶け出す金属それ自体のように、溶け出し、混じり合い、そしてどろどろとした形のない主の霊へと回帰していくかのように。ミスワン・ガートゥ、その茫漠たる虚無の口から溶け出したということだ。

 白いハオマ。羊水のように温かいミルク。ずるりずるりと、蛆虫の形は溶け出していって、そして液体へと変わっていく。少しずつ、少しずつ、しかしながらプレスト。見る見るうちに、急速に、エクリプシスは溶けていく。絶望的なまでに無意味なテンペストによって暴れ狂いながらエクリプシスは溶けていく。

 とろりとろりと、ろりろりとろり。ぐじゅぐじゅに、べとべとに、子宮の中で腐り果てて、肉も骨も腐乱した流動体になってしまった胎児が、流産していくかのように。エクリプシスの口、エクリプシスの腕、一つ一つの無数の体節、溶けていく。

 それから……そのようにして溶けた爛液は、辺獄の大地に触れて。そのまま、その大地へと染み込んでいくかのように消えていってしまう。それは、あたかも影が震えながら溶け込んでいくかのようだった。それは、あたかも闇が虚ろに死んでいくかのようだった。「あたかも」使い過ぎじゃない? それはそれとして、それは、あたかも魔王の命の光が消えてしまったがゆえに、その光が作り出していた影さえも消えていくかのように。辺獄の底へと沈んでいってしまう。

 その口が。その腕が。その、一つ一つの、無数の、体節が。溶けて、解けて、自らの全身が大地に作り出した洞黒の影の中に流れ込んでいって。やがては、エクリプシスの全ては、完全に消え去ってしまった。

 後には。

 次第に。

 次第に。

 薄れていく。

 その影だけが。

 あたかも。

 痕跡のように。

 残されている。

 だけで。

 ああ、だから、いいたいことは。アポルオンを受け止めることが出来る者はそこには何者もいなかったということだ。エクリプシスは、その時には、跡形もなく消え去った一つの幻の現象であった。デニーは、つまり、その上半身しか残っていなかった。孤立だった。無援だった。援軍は誰もいなかった。何もない空間にぽっかりと浮かんでいる孤独な星であった。だから、だから、アポルオンは。落ちていって、落ちていって、落ちていって。抛り棄てられたおもちゃみたいに、そこに墜落する。

 After that。

 きら。

 きら。

 きら。

 きら。

 主の御使いによって。

 地の上に投げ落とされた。

 その、黙示録の、星。

 に、似ている、星は。

 ぱりん。

 と。

 きれいな。

 きれいな。

 音を。

 立てて。

 真昼の。

 目の前で。

 その。

 一つの。

 美しい。

 星は。

 あっさりと、割れた。

 それでは、一方で、その真昼は? この物語の主人公。ヒーローにしてヒロイン。お姫様は、真昼は、その瞬間に、どうしていたのだろうか。真昼は……無意味で、無価値で、無能な少女は……感じていた。その様を感じていた。いや、感じてはいなかった。真昼は、つまり、その瞬間に、ただ、ただ、空っぽの細胞であった。真昼は、その光景を見ることが出来なかった。なぜなら真昼は空っぽな細胞であったからだ。真昼は、その音声を聞くことが出来なかった。なぜなら真昼は空っぽの細胞であったからだ。真昼は叫ぶことが出来なかった、なぜなら真昼は空っぽの細胞だったからだ、とはいえ、真昼は気を失うことさえ出来なかった、なぜなら真昼は空っぽの細胞だったからだ。

 真昼について、その瞬間の真昼について、書くべきことは何もなかった。なぜなら、そこにいる真昼は、あらゆる意味で何もなかったからだ。糸の切れてしまった凧が、遠い遠い空に消えていくのだ。心臓の形に似たその凧が、軽やかな足取りで、遠い遠い空の方向へと消えていくのだ。

 しかしながら、けれども、それでも。真昼は……ねえ、起きてる? まあね、うんざりしてるけど、まだ起きてるよ……真昼は、生きていた。絶対に死ぬことが出来ない呪いをかけられた生き物が、心臓を失ったまま、なお、死ぬことが出来ないままでいるかのように。真昼は生きていた。

 それは絶対にあり得ないことであるように思えた。なぜなら、これは大抵の人間は勘違いしていることであるが、生き物は、心臓を失えば死ぬからだ。心臓を失った真昼が、生きていることは、それはあり得るわけがないことだった。しかしながら、それでも、真昼は……生きていた。

 真昼の。

 目の前で。

 真昼の。

 全てが。

 失われて。

 いくのを。

 救済もなく。

 心臓もなく。

 ただ。

 ただ。

 その現実が。

 起こってる。

 そのことを。

 認めながら。

 それでも。

 真昼は。

 生きて。

 いなければ。

 ならなかった。

 そう、そうだった。真昼は生きていなければならなかった。真昼という一つの生命は、生きているべきだった。しかし、なぜ? なぜ、真昼は、全てが、今、奪われていくというのに、それでも生きていかなければならないのか? 真昼には分からなかった。というか、そもそも、今の真昼は、考えるということさえ出来ていなかった。

 真昼の目の前でエクリプスが溶けていった。真昼の目の前でエクリプスが沈んでいった。真昼の目の前でアポルオンが落ちていった。真昼の目の前でアポルオンが大地にぶつかった。デニーの身体は、まるで真昼が大切に大切にしていた人形が、誰かに無理矢理奪い取られて、その誰かが、真昼のことを嘲笑いながら、その人形を地面に叩きつけて、足の裏で踏み躙ったみたいにして、大地の上に、力なく横たわった。

 あれは。

 何だ?

 あれは。

 一体。

 どういうことだ?

 死ぬ。

 死ぬ。

 死ぬ。

 死ぬ?

 デナム。

 フーツ。

 が。

 死ぬ?

 冗談でしょ。

 笑っちゃうね。

 そう、その通りだ。それは笑えるような冗談だった。デニーが死ぬ? あり得ない! あの、陶器で出来た白い蛆虫が。あの、民のいない王が。聖処女イスラエルが奇跡者ダニエルによって底知れぬ深きところに閉ざされる、その前から生きていたデニーが? 第一次神人間大戦を、第二次神人間大戦を、生き延びたデニーが? アーガミパータを、エスカリアを、ワトンゴラを、まるで子供の遊び場のように渡り歩いてきたデニーが? 数え切れないほどの銀河を滅ぼしてきた、あの、デニーが? こんなに簡単に死ぬ? そんなことは絶対にない。

 そうだ、そうなのだ、どうせこれは罠の一つに過ぎないのである。デニーが、何度、このような罠を張り巡らせたことだろうか。ああ、逆転に次ぐ逆転! それこそがデニーであった。いかにも自分が危機的な状況に追い込まれたと、そう見せつけてから。その後に、一体、何度、デニーは起死回生の一手を打って出たことだろうか。それは鮮やかな勝利のための前菜に過ぎない。

 実際、つい先ほどだってそうだったではないか。あと五分で間違いなく死ぬという瞬間。デニーは、アビサル・ガルーダのアンチ・ライフ・エクエイションに隠していたゾクラ=アゼルによって、いとも容易くリチャードを出し抜いて見せた。今の、この状態も、きっとそのようなことに違いないのだ。そうだろう? そうだ、そうだ、そうなのだ。そうとしか考えられない。

 死んだように見せかけている、だけだ。

 リチャードを油断させようとしている。

 デニーは。

 生きている。

 生きている。

 生きている。

 そう、だろう?

 そう、生きている、はずだった。デニーが死ぬわけがない、はずだった。だが、しかし、けれども、それにも拘わらず。その後に……その瞬間に、ぽんっと音がした。一度、その音がして。それから、ぽんっぽんっぽんっぽんっぽんっ、また五回、それと同じ音がした。合計して、六回、聞こえた音は。例えば、何か、可愛らしいおもちゃの花束が弾けたみたいな音だった。

 なんだか、すごくあっさりとしていた。少し物足りなくなってしまうような、そんな音だった。だが、その音は、絶対にあり得ない、絶対にあり得てはいけない、絶対にあり得るはずがない出来事が起こった音だった。そんな……そんなことが起こるはずがないのだ。それは冗談だ、それは悪い冗談だ、そうであるはずなのだ。だが、それは、確かに、実際に、起こった。

 何が起こったのか? つまり……真昼の周囲を回転していた多角形。格子。牢獄。悍ましい角度、いびつな直線、で、形作られたそれ。真昼のことをリチャードから、デニーとリチャードとの戦闘から、優しく優しく、まるで母親のような慈悲によって守護していた障壁が、砕けたのだ。

 外側から、一つずつ、一つずつ。それらの多角形は呆気なく破裂した。ばらばらになった。きらきらとしていて燦々で、禍々しい影を、クラッカーの中の紙吹雪のように撒き散らしながら。一つずつ、一つずつ、それらの多角形は、跡形もなく、消えていった。

 結局のところ、残されたのは、それらの障壁によって包み込まれていた、一番内側、虹色のあぶくだけだった。その被膜だけが、真昼のための防御機構として残された。

 しかしながら、今、この時、その虹色のあぶくさえも……何か、奇妙な変化を起こし始めていた。具体的に表現することは出来ないのだが、何かがおかしくなっていた。

 世界のあらゆる物質は、世界のあらゆる現象は、汎世界的に整備されたパラメーターの値でしかないということは、別にここでわざわざ触れる必要などなく、誰もが知っていることだろう。例えば、この世界の内側では、完全な虚無は完全な虚無ではない。それはあくまでもパラメーターの値がゼロを指示しているというそれだけのことであって、世界という名前のパラメーター自体まで消え去ってしまうわけではない。時間も、空間も、生命でさえも、パラメーターが指し示している値の一つの表現型に過ぎない。

 そして、つまるところ……そのパラメーターの針が、揺れている、と、いう感じだ。この虹色のあぶくとして表現されている値が、不可思議にも不安定化している。いや、それは完全なランダム性としての不安定ではない。どちらかといえば、切り立った崖の上に立っているような。両側が断崖になっている、一本の尾根の上に立っていて、いつ谷底に落下してもおかしくないというような、そのような状態。

 だめ。

 やばい。

 ゼロに。

 向かって。

 落ちる。

 落ちる。

 落ちる。

 あ……

 落ちた。

 ぱみんっとでもいう感じ。なんとなく、可愛らしくて、悪戯っぽい、そんな音を立てて、その愛は破綻した。きれい、きれい、ねえ、これ、きれい。まるで、ほうせきのかけらみたい。そのなかに、だれかの、だれか、ぜんぜんしらないひとの、とてもとてもたいせつなゆめの、きおくを、とじこめた、ほうせきが、ぱんっとわれてしまって。そのほうせきの、きら、きら、かけらみたい。

 被膜は、割れた、消えた。そして、その後には、素裸の真昼だけが残された。いや、まあ、素裸というのは「守るものが何もない」ということの比喩的な表現でありましてですね、実際には服を着てるんですけどね。それはともかくとして、真昼は、ただ真昼という一匹の生き物として世界に向かって投げ出された。誰も、抱き締めてくれる人もなく。誰も、口づけしてくれる人もなく。

 ガ、ガ、ガ、ガランキー、バ、バ、バ、バリンキー。ダムン、フリーキー。なんだかすごく自由だった。どうしようもないくらい、取り返しがつかないくらい自由だった。真昼の虚ろな肉体は、そのまま、落ちて、落ちて、落ちていく。まるで、デニーが落ちていった、その過程を、なぞるようにして。同じように、重力によって指示された方向性に完全に服従したままで、落ちていく。

 壊れた。

 壊れた。

 そのケージ、が。

 壊れてしまった。

 晴れた空。

 静俄。

 静俄。

 一つの不埒な完全性。

 ああ。

 そ。

 ん。

 な。

 こ。

 と。

 あ。

 り。

 え。

 な。

 い。

 よ。

 さて、なぜか。なぜこのことは起こり得ないはずのことであったのか。それは、真昼を守護していたティンダロス・ケージが壊れるということは、つまり、デニーが、ティンダロス・ケージを維持することが出来ないような、それほどまでに瀕死の状態にあるということを意味しているからである。

 いうまでもなく、それ以外にティンダロス・ケージが壊れるというパターンはあり得ない。なぜなら、ティンダロス・ケージが壊れるということは真昼が危険に晒されるということであって。そして、真昼がリチャードによってダメージを負わされるというイベントが起こる可能性へと至る、あらゆる行為を、デニーが、するはずがないからである。

 デニーは、別に、真昼が死のうが生きようがどうでもいい。道端に吐き捨てられたガムについて、どれほど踏み躙られようが、誰もそのことについて同情しないことと完全な相似形として。デニーは、真昼の苦痛について、完全に、興味がない。

 ただ、デニーに命じられた「仕事」は真昼の保護だ。もしも、今、真昼を喪失してしまえば、自らに害が及んでしまう。そして、デニーは、自分自身に害が及ぶということを許さない。Never、never、自分が傷付くようなことをするはずがない。

 と、いうわけで。デニーが、自分から、自分の意志として、ティンダロス・ケージを解除することはないのだ。もしも、ティンダロス・ケージが壊れるとすれば。それは、デニーが、それを維持し続ける力さえも失ってしまった時だけなのだ。

 ということは。それが意味することは。デニーが、本当に、死にかけているということである。しかも、先ほど、あと五分で死んじゃうよーみたいなことを言っていた時。その時よりも、遥かに追い詰められた状態で。

 あの時でさえ、まだ、デニーには、ゾクラ・アゼルを操作してリチャードを攻撃するだけの余裕があった。だが、今は……既に展開した神学的法則さえも、それが真理としてコロボンであるほどの、力の喪失であった。

 死んだふり、死んだふり、で、あるはずなのに。それなのに、だって、これは起こらないはずのことで。つまり、あり得ないのだ。もしもデニーが、これが死んだふりで、生きていて、少なくとも死にそうであるというわけではなくて、つまり、これから、華麗な逆転劇が用意されている一つの過程は、罠、というか、いつも、いつも、そうであるように、いつも通りに、勝利、どうせめでたしめでたしで、敵は、みんな、みんな、立ち塞がったり、そうしたり、そういう邪魔な連中は、綺麗さっぱり排除されるという、そういうことであるならば。つまり、あり得ないのだ。

 ただ単に死んだふりをしているというだけならば。真昼を危険に晒すようなこと、イコール、自分を危険に晒すようなことをするわけがない。

 要するに。

 それが。

 どういうことを。

 意味するか、と。

 いえば。

 デニーが。

 本当の。

 本当に。

 死にかけていると。

 いうこと?

 どざっという鈍い音を立てて、夜刀岩の上に真昼は落ちた。背中から落ちた。仰向けだった。上を向いていた。腕が伸びていた。足が伸びていた。何か、肉が詰められた袋のように。暫くの間、動かなかった。もろに背中を、それに頭も、固い岩石に打ち付けたのだから、それなりに痛みを感じているはずなのに、それでも、真昼は、身動き一つしなかった。痛みを感じなかった。何も感じなかった。ただ、命であった。

 やがて……動いた。唇が。喉の奥で声帯が震えて、その振動は一つの言葉に似ていた。真昼はこういう音だった。「嘘」。もう一度、真昼は同じことをした。真昼はこういう音だった。「嘘」。

 真昼は、それから、肉体の他の部分を動かし始めた。まずは脚を。次に腕を。それは、思考や意思や、そういったものによって動かさた動きではなかった。それは、まるで、乾き切った骨の上で蛆虫が身をよじらせているようなものだった。それは、ただ、反応の連続性としてのphenomenonであるに過ぎなかった。

 真昼は、右脚を折り曲げて、その後で、また、右脚を伸ばす。真昼は、左脚を折り曲げて、その後で、また、左脚を伸ばす。真昼は、右腕を伸ばす。何かの疫病に取り憑かれているかのように、小刻みに痙攣する指先。真っ直ぐ、真っ直ぐ、上の方に向かって伸ばす。震える指先で、何かを掴もうとしているかのように、一度、手のひらを握り締める。二度、三度、それを繰り返す。真昼は、左腕を伸ばす。先に伸ばした右腕と、まるで同じように。右の手のひら、左の手のひら、何度も何度も、握り締めたり、拳を解いたり、する。真昼は、伸ばしていた両腕を折り曲げる。右の手のひら、左の手のひら、胸の上で重ね合わせる。胸の上、自分の爪を突き立てて、何度も何度も、掻き毟る。ゆっくりゆっくりと。真昼は、また、右腕を伸ばす。今度は、仰向けになったその頭の、その先に向かって。まるで、真昼が立っているのだとしたら、真っ直ぐに手を上げるかのようにして、地面と平行に右腕を伸ばす。手のひらを、地面に向けたままで。真昼は、右の手のひら、地面に、岩石に、爪を立てる。ざりざりと音を立てるようにして、何度も何度も、その地面を引っ掻く。ゆっくりゆっくりと。

 呼吸をしている。

 呼吸をしている。

 真昼は。

 呼吸をしている。

 それなのに。

 心臓の音が。

 聞こえない。

 真昼は……伸ばしていた右腕を、そのまま、ずるずると、地面の上を這わせていって。自分の体の横に移動させた。つまり、真昼が立っているとしたら、右腕だけで気を付けをしているかのように。それから、真昼は、左の手のひらを胸の上に置いたままで。それから、真昼は、右の手のひらで地面を押しのけるようにして。それから、真昼は、肉体の、上半身を、起き上がらせた。

 そのようにして。

 起き上がらせた。

 視線の。

 先に。

 デニー、が。

 落ちていた。

 真昼は、「デナム・フーツ」と言った。真昼は、もう一度、「デナム・フーツ」と言った。真昼は、もう一度、「デナム・フーツ」と言った。真昼は、もう一度、「デナム・フーツ」と言った。真昼は、もう一度、「デナム・フーツ」と言った。真昼は、もう一度、「デナム・フーツ」と言った。真昼は、もう一度、「デナム・フーツ」と言った。真昼は、もう一度、「デナム・フーツ」と言った。真昼は、もう一度、「デナム・フーツ」と言った。真昼は、壊れてしまった。

 一匹の蛆虫は、朽ち果てて、乾き切った、真黒の色の骨の上を這いずる。真昼は、うごうごとのたうつようにして、自らの肉体を前方に向かって投げ出すと。右腕と、左腕と、交互に、そのような手のひらで夜刀岩の大地を掴み、自らの肉体を引き摺っていくかのようにして、這いずり進み始めた。なんの方に向かって? いうまでもなく、デニーが落ちている方に向かって。

 その口は、まるで、合理的な数列のようにして、動き続けていた。真昼は、何度も何度も、何度も何度も、音を嘔吐し続けていた。「デナム・フーツ」という音を嘔吐し続けていた。真昼の内側には、それしかなかった。それ以外には何もなかった。

 これほど。

 空虚に。

 響く。

 一連の音。

 以外には。

 何も。

 なかった。

 真昼は、這いずって、這いずって、這いずって。それから、いつの間にか立ち上がっていた。本当に、いつ、立ち上がっていたのだろう。真昼は……右脚、膝を折り曲げて。まるで、夜刀岩の大地を蹴り飛ばすように、その発条によって跳ねるかのように起き上がったのだ。宙に浮いた肉体、前方に投げ出されて。その後、左脚、その先端の足によって、夜刀岩の大地を踏み潰し踏み躙るみたいにしてその肉体を支えたのだ。そして、次は右足、次は左足、次は右足、次は左足、交互に、その足によって、真昼は、この大地を踏んでいく、蹴っていく。真昼の肉体は、今にも前方に向かって倒れ込みそうだった。デニーがいるその方に向かって、真昼自身さえも、落ちていってしまいそうなほどの勢いだった。それほどの勢いによって、真昼は駆け出していた。

 水のないところで溺れているかのように、両腕を、ばたばたと動かしていた。滑稽なほどに激しく、真昼の両腕は、真昼が向かっているその方に向かって暴れていた。虚無に爪を立て、虚無を引っ掻き、虚無を捕まえる。ああ、まるで、降り注ぐ流れ星を手のひらの中に掴もうとしている子供みたいだ。ああ、まるで、流星群のように、何千の、何億の、何兆の星が降り注ぐ夜に。それでも、たった一つの星も手に入れられない子供みたいだ。

 デニーと、真昼と、二人の間の距離はそれなりに離れていた。それは、まあ、いうまでもなくオブヴィアスに明白な話であって。そもそもなぜ真昼がティンダロス・ケージによって守られていたのかといえば、それは真昼のことを戦闘に巻き込まないためだったのである。最初、本来の姿を解き放つ前のデニーが、リチャードと戦闘を行なっていた時は。それなりに、二人は接近していたのだが。それから、デニーは、徐々に、徐々に、リチャードのことを真昼から引き離すように誘導していたのである。

 デニーが真の姿を解き放った時には、もう数エレフキュビト離れた場所にいた。ということは、月光国における、女子、高校二年生、二エレフキュビトの持久走の平均的なタイムは大体において五分くらいであり、しかも、真昼は、お世辞にも運動神経がいいタイプとはいえないタイプなのだ。真昼が、デニーのいる場所まで辿り着くためには、どう考えたとしても、五分以上の時間がかかるはずである。

 ただ、この物語は、あるいはこの物語の主人公である真昼は、そういう現実的な諸条件について完全に無視をすることにしたらしかった。デニーのところに辿り着くまでには……五分とかからなかった。それどころか、一分とかからなかった。

 いや、理由がないわけではない。例えば、真昼は、ここまで何度も何度も書いていることだが、デニーの魔学式によって強化され、人間に可能な限りの身体の能力を引き出されていた。また、それだけではなく、真昼は、自分では何も考えることなく、意思というものを全く介在させないままに、セミフォルテアによって自分の脚部を強化していた。それは、ちょうど、デニーをぶん殴ったところのセミフォルテア・パンチと同じ要領で。あるいは、エレファントが、自らの脚部を魔学的に強化していたのと同様のやり方で。真昼は、人間というものを軽々しく超えた速度を、空を飛ぶことさえ出来そうなその速度を獲得していた。

 そう。

 空の上を。

 雲を踏んで。

 走るみたい。

 に。

 デニーはそこに落ちていた。壊れてしまった天使さまのお人形にも似た態度で、そこに落ちていた。その周囲には、星の欠片、デニーの腰から下の部分を構成していたところの、まるで偶像のように美しかったその星の、天から落ちてきて地にぶつかり跡形もなく砕けたその星の、フラグメントが散乱していた。

 それは、例えるならば理想郷の中でも最も輝かしい場所のような光景だった。信じられないほど完全な構造をした結晶が、ジェム、ジェム、あちらにこちらに散らばっている。そして、太陽の光を氾濫させて、世界を鮮やかな光で満たしている。それはある種の祭儀の場だった。理想郷における理想的な神を崇拝するための、光によって浮かび上がった祭儀の場だった。

 祭儀の場の中心に、デニーは横たわっていた。そのデニーの姿であるが……あの、悪魔としての姿。九つのプロミネンスによって光り輝く王冠をかぶった魔王としての姿、では、なくなっていた。端的にいえば、真昼がよく知っている、真昼がずっとずっと一緒にいた、あのデニーの姿。フードをかぶっていた時の、人間の少年と何も変わらない形に戻ってしまっていたのだ。

 九本の角は失われていた。四枚の翅は失われていた。そして、デニーの背後で禍々しくも壮麗な讃歌を歌っていたはずのアウレオラは、失われていた。

 九つまで増殖していた複眼は、二つだけ、ごくごく普通の、人間と全く変わらない眼球に戻っていた。蛆虫のような大顎も可愛らしい口元に戻っていた。

 これは以前も書いたことであるが、デウス・デミウルゴスとは異なり、デウス・ダイモニカスの異形はそれが本来の姿であるというわけではない。基本的には、デウス・ダイモニカスは人間とほとんど変わらないような形状の生き物なのである。そりゃあ少しくらい異なっている点がないというわけではないが……ともかく、例えばその角は。あたかも地殻の内側に閉じ込められていた鉱物が、結晶となって岩盤を貫いて露出してくるかのように。デウス・ダイモニカスの有する凄まじい魔力の象徴が、具体的なマテリアルとして現れたというだけの話なのだ。

 だから、もしも、なんらかの事情で、当該デウス・ダイモニカスが魔力を失ってしまえば。その異形は、それと同時に失われてしまうのである。生まれた時に、一本の角も生えていなかったように。あらゆる聖痕は拭い去られるのだ。

 ただ、とはいえ、そこに落ちているデニーは。真昼がよくよく知っているデニー、いつものデニーとは、少しばかり違っている点があった。まず下半身である。デニーの腰から下は、何かの不思議な手品みたいにして、すっかり、さっぱり、跡形もなくなくなってしまっていた。恐らく、地面に叩きつけられた拍子に割れてしまった星、そこここに散らばっている星、が、それなのだろう。それから、これはいうまでもないことであるが、頭部。あの女によって、あのチャリカーによって、切り飛ばされてしまった部分。これもまたどこかにいってしまっていた。

 そして。

 そして。

 デニー、の、その、死骸のような残骸、の、断面、から、は、何か、が、とろり、とろり、と、磨り、潰した、甘い、甘い、洋梨、の、体液、の、よう、に、滴って、いま、した。真っ二つに引き裂かれた胴体から。無残に切り開かれた顱頂から。それは、まるで、死そのものが嘔吐した悍ましくも邪悪な腐敗に似ていた。仮に、世界の最後の最後の日、絶対的な善の勢力と、絶対的な悪の勢力と、二つの勢力が、最終戦争をするとして。その結果として敗北した悪の勢力の、全ての構成要素の屍をミキサーにかけて。そうして出来上がったどろどろとした穢らわしいジュース、に、とても、とても、似ていた。要するに、それは、ただ単なる悪に似ていた。

 それは……例えば、人間が、傷口から血液を流しているようなものであった。デニーの傷口から、デニーの力、スナイシャクや、神学的エネルギーや、科学的エネルギーや、その他のあらゆる力がぐちゃぐちゃに混ざり合ったもの。デニーにとって、最も重要なフューエルが流れ出しているということだった。

 フューエルは、だらだらと、取り返しがつかないほどに、デニーという器からこぼれてしまって。デニーの周囲に、液体溜まりを作っていた。液体溜まりは、何か、取り憑いて離れようとしない不吉な影のようであった。

 真昼は。

 真昼は。

 縋りつくように。

 疾走、してきた。

 真昼の。

 足は。

 その。

 影を。

 踏んだ。

 デニーの、すぐそばまでやってきた真昼は。そのまま、崩れ落ちるようにして、その傍らに跪いた。それから、真昼は、肉体と肉体とを重ね合わせ、性的な交わりを交わそうとでもいうようにして、デニーの上に覆いかぶさる。

 「デナム・フーツ」。白痴が唾液を滴らせるように、真昼は声を滴らせる。「デナム・フーツ」「デナム・フーツ」「デナム・フーツ」。風を縫い合わせた薄絹で、湖水の表面を撫でているかのような、聞き取れないほどの、ほんの僅かな、囁き声によって、言う。掠れてしまって、口の中から吐き出される前に消えてしまいそうなほどの声によって、言う。

 だが、それは、その声は、次第に、次第に、大きくなっていく。不気味な巨人の影法師が、呪われた山と、呪われた山と、二つの山の間から、ずるりと擡げてくるかのように。来迎の戦慄を感じさせるそのネガティヴのように。真昼の声は、次第に、次第に、大きくなっていく。

 何度も何度も、全く同じ単語を、失われた心臓の失われた鼓動のように、その鼓動を取り戻そうとしているかのように、繰り返す真昼。Automated External Defibrillator、で、あるのだろうか。誰も助けてくれないのだろうか。もしかして、誰も、助けてくれないのだろうか。

 助ける? しかし、何を? そもそも助けるとはどういう行為を指し示している言葉なのか。救済が行なわれる時、それはどうある「べき」であるのか。天使であれば天使である。アラリリハであればアラリリハである。勘違いしてはいけない、主が不可能を命じることが出来ないのではない。主が命じないことが不可能となるのだ。主よ、どうか、命じてください。主よ、どうかわたしに一つの肉体のとげをお与えください。わたしが、これ以上高慢の罪を犯すことがないように。

 「デナム・フーツ!」「デナム・フーツ!」「デナム・フーツ!」。真昼の声は、既に、絶叫のようなものに変化していた。まるで、親の獣に見捨てられた子の獣が、それでも親の獣を求めて叫んでいるその叫び声のように。あるいは、ただ単に、まさに今心臓を抉り出されている最中の生き物の悲鳴のように。

 美しければ。

 美しいだけ。

 対話は。

 普遍的愛と。

 誤解されて。

 真昼の指先は、いつの間にか、デニーに触れていた。膝立ちになって、デニーに向かって、告解するかのように身を乗り出して。横たわったままのデニーの肩、左肩を右の手のひらで、右肩を左の手のひらで、掴んでいた。

 宇宙の真空に投げ出された宇宙飛行士が、自分のことを故郷の星まで連れていってくれる彗星の尾を掴んでいるその手のひらみたいに、強く、強く、真昼は、掴んで。それから、勢いよくデニーの身体を揺さぶっていた。

 デニーの、上半身しかない身体は、儚く、空しく、頼りなく、真昼に揺られるその通りに揺れていた。そんな、そんな、そんなわけがなかった。こんな……デニーが、あのデニーが。残酷な悪魔が、天国さえも滅ぼした力強い悪魔が。こんな、弱々しく、真昼の手のひらの、そうするがままに、されるがままに、なっているなんて。あり得ない、あり得ない、何かが完全に間違っている。

 真昼は混乱してしまっていた。完全に、何がなんだか分からなくなってしまっていた。上が下になり、右が左になり、三半規管を抉り出されたかのように、自分が存在しているところのこの場所の、概念的な平衡感覚を喪失してしまっていた。真昼という一つの生命は、崩壊していた、破綻していた、いや、それどころか、全ての正しいものを奪われた後で、完全に間違ったものを与えられたかのように、現実に適合することが出来なくなってしまっていた。例えばそれを否定すること、例えばそれを拒否すること、あるいは、それが理解出来ないということは、そもそも、大前提としてそれに適合出来ていなければ不可能なことだ。そう、もしもそれに適合出来ないのであるならば。自分が、それを理解出来ているのかどうかさえ分からない。何もかもがぐちゃぐちゃで、ただただ、爆発しているみたいにめちゃめちゃだった。

 ふ。

 と。

 目が合う。今まで、別の方を向いていたデニーの視線が、何を見ているのかさえよく分からない方を向いていたデニーの視線が、真昼の方を向いたのだ。どうやら、ようやく、真昼がそこにいるということに気が付いたらしかった。

 目、が、合う。片目だけ。左目だけ。なぜというに、右目はあの女によって切断されてしまった部分に含まれていたからだ。もうデニーには左目しかなかった。まるで緑色の夜のような目。その内側できらきらと星が輝いている目。

 突然、衝撃のように、真昼は美しいと思った。真昼は、それが綺麗だと思った。それは、何か、表現しがたいほどの驚愕だった。無論、いうまでもなく、一般的な意味における驚愕ではない。本当に根源的な、力そのものの強襲としての驚愕。物事が、苦痛と快感と、恐怖と理解と、穢れと清めと、そのような分析が行なわれる前の。神経系に対する、雷撃としての驚愕。

 真昼は。

 自分の。

 両目で。

 デニーの。

 左目、を。

 見ていた。

 その後で、気が付いた。

 デニーは死んでいない。

 まだ生きている。

 生きている、生きてる。そうだ、生きていなければ目を動かすことなど出来るわけがない。生きていなければ、真昼のことを見ることなど出来るわけがない。「デナム・フーツ!!」真昼は気が狂ったような咆哮を叫んだ。それから、デニーの身体を、無理やり捕まえて。それから、自分の方に引き寄せた。

 ピエタのように。嘆きのトラヴィールのように。燃え盛る賢しらを優しく優しく抱く永遠の忘却のように。真昼は、デニーの身体を抱いた。左の腕を、デニーの背に回して。デニーの左の脇から、巡らせるようにしてその胸を抱く。そして、右の手のひらは、そっとデニーの腹に触れる。そこから先は切断された下半身であるところの、デニーの腹に。

 真昼は跪いていた。というか、正確にいえば、まるで崩れた藁の家のようにその場に座り込んでしまっていた。有機物を腐敗させる薬品を投与されてしまったせいで全身が弛緩したかのように、地べたの上に横座りをしていた。

 ひたり、ひたり、と、海のように、デニーの身体から流れ落ちた、液体に似たものが真昼の膝の辺りを浸していた。あるいは、液体のようなものは、デニーの身体そのものからも流れ落ち続けていた。真昼が抱えた身体の、傷口。

 下半身との切断面から、るうるうと流れていく力、は、真昼の肉体の下側に、溜まって、溜まって、溜まって、いって。あるいは、頭部の切断面から流れ落ちる力は、そのままデニーの首筋を伝って、真昼の左腕をやらりやらりと濡らしていく。それは……生命の欠片さえ感じさせない絶対的な零度として、つまりは、デニーのその冷度として。それは、冷たかった。まるで、真昼の生命そのものを凍り付かせてしまうみたいに冷たかった。

 捨てられた人形のように。

 真昼に抱きかかえられた。

 デニー。

 は。

 そのまま。

 真昼の。

 腕の。

 中で。

 星を閉じ込めた。

 左の眼球だけで。

 真昼の。

 ことを。

 見上げて。

 いた。

 「デナム……フーツ……」。先ほどまでとは全然違った声。壊れやすい、壊れかけた、鉛の城に触れるかのように。真昼は、そっと、デニーの耳元でそう囁いた。デニーにその声が聞こえているのか聞こえていないのか、真昼には全然分からなかった。ただ肉の塊に割礼を施しているかのように。デニーの左の眼球は真昼の声になんの反応も示さなかった。

 冷たい。ひたすらに、ひたすらに、冷たい。偶像のように冷たい。真昼の腕の中で、デニーは、力なく、真昼のことを見上げていて。真昼は、氷の星を抱いているかのように。氷の星の、氷が、するすると真昼の肉体に絡み付いて、真昼の肉体の全てを閉じ込めてしまおうとしているかのように。とても、とても、冷たい、デニーのことを見下ろしていた。

 デニーは、生きている。間違いない、それは間違いのない現実として、デニーは生きている。ただ、それを、どうすればいいのか分からない。なぜというに、真昼はその現実に適合していないからだ。これがなんなのか分からない。今、何が起こっているのか、全くもって分からない。何もかも、真昼の頭蓋骨の中で、爆発しているみたいだ。現実の全てが絶対的な混乱の中で無秩序に暴れている。どうにかしなければいけないのだ。どうにかしなければ、大変なことになる。でも、どうすればいい?

 と。

 一つの。

 古い。

 古い。

 夢の。

 ように。

 デニーの。

 口が。

 開いた。

 弱く、弱く、手折られやかに。デニーの唇が震える。何かを言おうとしているらしかった。デニーは、真昼に、何かを言おうとしているらしかった。

 真昼は、はっとした。そうだ! そうだ! 真昼が、それを、どうにかする必要などないのだ。なぜというに、ここにデニーがいるからだ。デニーが、生きて、ここにいるからだ。デニーがどうにかしてくれる。全部、全部、上手くやってくれる。いままでもそうであったではないか! デニーが生きているのならば、真昼は何も心配する必要ない。デニーが生きているならば、全ての問題は、解決しているも同然だからだ。ああ、真実の福音よ! 真昼は耳を澄ませた。全神経を、その聴覚に集中させた。そして、待った。デニーの口から、魔法の言葉が流れ出る瞬間を。あらゆる結び目を解きほぐし、あらゆる困難を吹き飛ばす、その言葉が紡がれる瞬間を。

 デニーの。

 口が。

 動く。

 真昼に。

 向かって。

 デニーは。

 まるで。

 何も。

 知らない。

 子供の。

 ように。

 とても。

 とても。

 不思議そうな。

 顔をして。

 こう言う。

「まひる、ちゃん?」

 そしてそれから。

 それは、死んだ。

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