第三部パラダイス #45

 さて、戦場はそういった様相を呈していたのであるが。ところで、二人の指揮者のうちのもう片方、天上の音楽の指揮者はどうしていたのだろうか。リチャードは……蛮勇。一人の蛮族のように、一人の勇者のように、戦場を駆け抜けていた。

 その手には、また、新しいライフェルド・ガンを持っていた。それは、これまで作られたライフルの中で最も強力なライフル。竜殺しの銃、ドラゴンキラー・グレネード・ライフルだ。第二次神人間大戦の最初期に作られたものであり、その名の通り、神々の陣営においてビークルとして利用されていたオロチ。飛龍や泳龍や、あるいは、時には洪龍までも殺害することを目的としていた。

 洪龍の鱗さえも貫通する貫通力。一撃で仕留めるため、体内に入った時に爆発を起こす榴弾式の弾丸。この二つの仕組みが合わさって、当時の携帯可能な兵器の中では最強とされていた。ただし、その威力ゆえに連発式にすることが出来ず、携帯型の対神兵器が開発されるとともに、その使用は廃れてきた。現在でも使用しているのは、アーガミーパータの一部の人間至上主義者くらいだ。

 未成年者の背丈ほどもある長さ。新生児の頭ほどもある直径。その銃身は、もはや砲身とでも呼ぶべきものだろう。携帯式とはいっても、普通であれば両腕で抱えなければいけないような、その途方もない武器。リチャードは、なんと、二挺掴んでいた。右手に一挺、左手に一挺。確かにその形状、原理的には片手で持てないことはないが、それでも……ここまでやすやすと、それをなしてしまうとは。ノスフェラトゥの膂力がなければ到底不可能なことであるように思える。

 巨大な得物、大して邪魔に感じている様子もなく。右と、左と、両側に構えたままで、リチャードは戦場を突っ切っていく。その道程を、当然のように魔王の城壁が阻んでいる。譫妄状態で見る意味をなさない白昼夢のように。頭がおかしくなってしまった大樹のように。のたくり、のけぞり、身悶えする蛆虫。

 その巨体に向かってリチャードはDKGRをぶっ放す。着弾したグレネードは、蛆虫の身体の内側に潜り込んで。そして、そこで、凄まじい爆発を引き起こす。本来のDKGRは、先ほども書いたように、セミフォルテアの爆発を起こすが、このDKGRはライフェルド・ガンだ。それは、傲慢の炎によって、ヒュブリスの炎によって、対象を焼き尽くす。

 蛆虫は、榴弾が爆発した部分から真っ二つに引き裂かれる。しかも、その上、燃え上がった炎は、聖なる油の上を走っていく主の清めの炎のようにして、瞬く間に蛆虫の全体に燃え移っていく。蛆虫を構成している死者の残骸が燃えていく。声にならない悲鳴を絶叫しながら、やがて、蛆虫は、一欠片の生命だったものさえも残すことなく完全に消滅する。

 驚くべきことにリチャードは、DKGRの、重さだけではなく反動さえ感じていないようだった。DKGRは、オロチの鱗さえ突き破るような勢いで榴弾を射出するためのライフルなのであって。その反動は、リチャード的に表現するならば「クソやべー」ものになる。人間であれば、当然ながら、ストック部分を壁面もしくは地面に固定して、その反動を散らばしながら発射せざえるを得ないものであったし。ヴェケボサンやイタクァのような生き物であったとしても、そのストックをしっかりと肩に固定して発射しない限り、正確な射撃は不可能であるほどだった。それを、リチャードは、まるで普通の拳銃でも扱うようにして発射していた。それだけではない。その全ての射撃が恐ろしく正確であった。一ハーフディギトさえ擦離することなく、半導体製造機械のような正確さによって重心を撃ち抜いていく。

 そう。

 撃ち抜いて「いく」。

 つまり。

 その銃撃は。

 その砲撃は。

 たった一度では。

 終わらない。

 つい今しがた書いた通り、本来のDKGRは連射を行なうことが出来ない。一度一度の射撃ごとに装弾を行なわなければいけないのだ。いや、正確にいえば、現時点において、箱型弾倉タイプや回転弾倉タイプがFPPによって開発されてはいるのだが。そういったタイプのものは、正直な話、弾倉が邪魔過ぎてまともに使えたものではない。

 それにも拘わらず、リチャードは、装弾を行なう素振りさえ見せなかった。まるで、自分にとって不都合な現実など考慮にさえ値しないとでもいうかのように。

 そう、つまり、そのDKGRはライフェルド・ガンなのだ。装弾など行なう必要はない。リチャードがそうであるように望めば、榴弾はそこにある。そして、ただ引き金を引けば、その榴弾は発射される。

 撃つ。

 爆ぜる。

 撃つ。

 爆ぜる。

 撃つ。

 爆ぜる。

 撃つ。

 爆ぜる。

 あたかも、独立記念日の花火のように。

 自由の周囲に、美しい暴力が燦爛する。

 「ぬるいぬるいぬるいぬるい! ぬるいぜクソ野郎!」。そうして、城壁を突き崩していくリチャード、自らが驀進するその方向に道を作っていくリチャード。ちなみに、リチャードが空中を行かず地上を進んでいるのはそちらの方が有利だからだ。そもそも蛆虫は、巨大な全身を、上空に向かって突き立てている。これは、ふわりふわりと宙を舞っているデニーの上半身を守護するためにはそちらの方が都合が良いという理由によるものだが。ということは、その貪婪な口は地上に向いていないということだ。しかも、リチャードは、自分が地上を行くために、ノスフェラトゥの大群に対して上空から攻撃を仕掛けるようにわざと命令していた。こうすることで、ほとんどの蛆虫、というか、事実上全ての蛆虫は上空からの攻撃に掛かり切りになってしまっていた。となれば、地上の防御など粗雑な作りの笊も同然である。

 時折、上から、小型の蛆虫に姿を変えたシンセティック・リビングデッドの断片が降り注いでくることもあったが。その程度、リチャードにとっては考慮にも値しなかった。あたかも氷上のフィギュアスケーターであるかのようにして、ぐるん、と、一度、回転する。小さな羽虫でも――羽虫ではなく蛆虫であるが――払うかのようにして。二枚の羽が、その断片を弾き飛ばす。

 ただ。

 いうまでもなく。

 それほど簡単に。

 通してくれる。

 わけではない。

 リチャードが、何者にも遮られることなく疾走していると。どうやら周囲の状況が変化し始めたらしいということに気が付いた。進行方向に築かれている城壁が。あちらで、こちらで、蠢いている蛆虫が。奇妙な振動を起こし始めたのだ。その振動は、物理的な振動というよりもむしろ妖理的な振動であった。つまり、それらの蛆虫を形作っている生命の残骸、に、仕掛けられた魔法が。なんらかの変化を起こそうとしているのである。

 大地を突き破って、そこに聳え立っている蛆虫の光柱が……ぐじゅり、ぐじゅり、と泡立ち始める……生命力が沸騰し始める……そして、やがて、ずぼごっ!というような音を立てて、その側面から触手が突き出した。いや、触手と呼ぶのは正確ではないだろう。それは、新たな蛆虫だった。つまり、巨大な蛆虫の側面を食い破って、また別の、小型の蛆虫が吐き出されたのである。

 小型といっても、リチャードにとって脅威になるのに十分な大きさだった。その直径は一ダブルキュビトを超える、リチャードの四肢を食いちぎることも、あるいは丸呑みすることさえ可能だろう。長さは自由自在だった。つまり、根元は巨大な蛆虫に接続したままで。その巨大な蛆虫から生命力を受け取っているかのように、どこまでもどこまでもリチャードを追いかけてくる。

 しかも、そのような蛆虫は一匹だけではなかった。ずぼごっ! ずぼごっ! ずぼごっ! 一つの光柱が五匹ほどの蛆虫を生み出す。あの光柱が、この光柱が、蛆虫を生み出す。結局のところ、数え切れないほどの蛆虫が、まるで口がある無数の触手のように、ぐねりぐねりと光柱から突き出していて。そして、リチャードの進行方向を、すっかり塞いでしまった。

 ただ。

 それでも。

 リチャード。

 を。

 止めることなど。

 出来は、しない。

 「はっ! 舐めてんのか!」と叫ぶ。それから、前方に待ち受ける密林のような空間に、躊躇いの一瞬さえも無意味だとでもいうようにして突っ込んでいく。ただし、そうして飛び込む直前に、二挺のDKGR、あっさりと放り捨ててしまった。確かにこのような状況ではDKGRはあまり有用ではない。威力重視、小回りが利かないので複数の標的を排除するのには向いていないのだ。

 その代わり、リチャードは、ライフェルドの光によって新たなる銃砲を生み出していた。やはり、右の手に一挺、左の手に一挺、その銃砲は……テンプルワーカーだった。読者の皆さん、覚えていますか? サリートマト製の短機関銃のことですよ。

 ただ、一点だけ。普通のテンプルワーカーとは異なっている点があった。それは、明らかに口径が大き過ぎるということだ。普通のテンプルワーカーの二倍以上。ショットガンと見紛うような大きさ。まるで、機関銃という物の構造についてよく知らない子供が書き殴った落書きを、そのまま設計図にして作ったかのようなバランスの悪さである。

 こんな安っぽい造りで、こんな口径にしてしまったら、一発か二発か撃っただけでばらばらに分解してしまうだろう。それがフルオートの掃射ということになれば……とはいえ、そのような不安は、百パーセント無用なものだった。なぜというならば、このテンプルワーカーは現実のテンプルワーカーではないからだ。これはライフェルド・ガンなのである。そう、これはまさに子供の落書きの世界の子供の落書きのテンプルワーカーなのだ。

 引き金を引く。ただそれだけでいい。余計な動作は一切必要ない。引き金を引くだけで、銃口は光を放つ。プラズマで形作られた星が爆発したかのような光を放つ。

 弾丸が。ショットシェルのように重々しい弾丸が、一分当たり数百発というスピードで撒き散らされる。んなこたぁあり得ない、ちゃんちゃらお笑い種だと、読者の皆さんは思われるだろう。実際、書いているこっちもそう思う。ただ、それは事実だった。可能なのだ、ライフェルドの想像力は、ただただ格好良くあればいいというその思いは、全てを可能にするのだ。

 物理的にあり得ない現象が、小型の蛆虫を襲う。自分が進む道を塞ぐものは何もかも薙ぎ払うとでもいわんばかりに掃射された弾丸が、触手を、薙ぎ払う、薙ぎ払う。

 しかも、それだけではなかった。そのようにして叩きつけられたショットシェルは文字通りのショットシェルだったのだ。ただの弾丸ではなく……小型の蛆虫に着弾すると、その直後に、凄まじい爆発を起こしたのだ。小型の蛆虫は粉々になって飛び散って、繋ぎ合わされた死者は跡形もなく燃え尽きる。

 ただ、とはいえ。これほど強力な武器を自らの手のひらに握っていてさえ。小型の蛆虫の数はあまりにも多過ぎた。それに、それだけではなく、小型の蛆虫はあらゆる方向から襲い掛かってくる。右から、左から、上から、下から。ただ一方向に弾丸を撒き散らしていればいいというわけではない。

 リチャードは、既に、重力などというものを尊重している余裕がなくなっていた。自然法則に対する敬意も何もなく、ほとんど無重力のような身軽さで、密林の内側、自由自在に動き回る。大地を蹴って跳ねる、襲い掛かってきた小型の蛆虫の頭部に飛び乗る。その蛆虫に弾丸をぶち込みながら、その衝撃で、高く高く舞い上がる。二枚の翼を回転させて、左右の蛆虫を切り刻む。上に、下に、銃口を向けて。一斉に攻撃を仕掛けてくる小型の蛆虫の群れを吹き飛ばす。それから、そのまま落ちていく……燃え盛る流星のように、その姿は力に満ちている。

 「ちょっとは楽しませてくれるじゃねぇか!」、力強き者の傲岸さで言い放つ。いや、なんていうか……こういう状況で、こういう台詞を、いかにもいかにもな感じで叫ばれると、書いているこっちとしてもちょっと恥ずかしくなってくるが。それはそれとして、リチャードの快進撃を押しとどめることが出来るものは何もなかった。あらゆる形態のシンセティック・リビングデッドが、なすすべもなく蹴散らされていく。

 リチャードは進軍する。

 強く。

 雄々しく。

 あたかも主が共にいるかのように。

 その足の裏で、踏むところは。

 皆、リチャードに与えられる。

 一つの極星から。

 一つの極星へと。

 数百ダブルキュビトの距離。

 瞬く間に。

 疾駆する。

 あと。

 百ダブルキュビト。

 九十ダブルキュビト。

 八十ダブルキュビト。

 七十ダブルキュビト。

 六十ダブルキュビト。

 五十ダブルキュビト。

 四十ダブルキュビト。

 三十ダブルキュビト。

 二十ダブルキュビト。

 十ダブルキュビト。

 九。

 八。

 七。

 六。

 五。

 四。

 三。

 二。

 一。

 ゼロ。

 そして、それから、リチャードは、とうとう、辿り着く。その場所に。つまり、魔王の玉座の、その御許に。目の前で、星を食らう蛆虫が。蛆虫の軍勢の中でも、最も強く最も賢い蛆虫が。つまり、デニーの下半身が、あたかもドゥームズデイのように、何もかもを滅ぼす最後の最後の戦争の、それ自体の具体化のように、ただただ暴虐であった。

 頭上にはアポルオンが輝いていた。この王国において、たった一つだけ輝くことを許された夜の王。つまり、デニーの上半身。他のあらゆる輝くものを、他のあらゆる星を、皆殺しにする。カタルゲオンでありエネルゲオンでもある賜物の象徴として……それはエウアゲリオン。嵐の中心に光り輝く虚無。災厄の余白であり、また、福音でもある。

 さて。

 Shoot the star。

 リチャードは。

 あの星を。

 撃ち落とす。

 必要がある。

 「確か、馬鹿と林檎は高いところが好きっつー諺があったよな」襲い掛かってきた最後の蛆虫、そちらの方に目を向けることさえせずに。まるで魅入られたかのようにアポルオンを見上げたままで、リチャードは、テンプルワーカーで吹っ飛ばした。それから、続ける「どうやら間違っちゃいねぇようだぜ」。

 そう言った後で……軽く首を傾げる。さあ、どうするか。ロード・トゥルースであるリチャードは、つまり、パンピュリア共和国における全ての真実を支配している始祖家の後継者であるリチャードは、知っていた。目の前にいるこの魔王の殺し方を。

 重要なのはエクリプシスを攻撃しても無意味だということだ。あれは、本体ではない。蜥蜴の尻尾のようなものでいくらでも再生する。本体は、アポルオンの方だ。あちらに致命的なダメージを与えさえすれば、エクリプシスは自動的に消滅する。

 ただ、地上にいる限りアポルオンに攻撃を通すのは難しいだろう。仮にこの距離から狙撃したとしても、そのような攻撃の全てはエクリプシスによって防御されてしまうからだ。ということは、まずはアポルオンと同じ高さまで移動する必要がある。

 と。

 いう。

 わけで。

 リチャードは。

 双翼を開いて。

 夜の王。

 底知れぬところで輝く。

 その星へと、向かって。

 赤の。

 空を。

 翔け上がる。

 ふわり、と、いとも優雅で貴族的なほどに洗練されたその飛翔は。ただ、それでも、あたかも戦闘機のような敵意を秘めていた。荒野を蹴り飛ばして、その速度は、瞬く間に、百ダブルキュビトを超える高さまで到達する。

 そのように、急激に移動する異物。付近にいた成れの果ての蛆虫が気が付いたようだ。気が付くというか、どちらかといえばリチャードが発散しているセミフォルテアのエネルギーに本能的に引き付けられるみたいに。

 ごうっという、空間を叩き潰すような音。を、立てながら、三匹の蛆虫が、リチャードに向かって、突っ込んでくる。光の柱のような身体、巨大な口でリチャードを食らおうとする。だが、リチャードは、そのような雑魚は歯牙にもかけなかった。

 アポルオンから目を逸らそうとさえしなかった。ただ……その三匹の蛆虫が、まさに、リチャードを噛み砕こうとする直前。ひらり、と、ほんの一瞬だけ宙を翻った。本当に、軽く。しかも、一度だけ。その回転をした。

 次の瞬間には、蛆虫の、口があったはずのところ、無数の破片に切断されていた。リチャードがその双翼で切り裂いたのだ。しかも、それだけではない。そうやって断片になったそれぞれの生命、セミフォルテアの炎によって燃え上がる。これでは、新たな蛆虫となってリチャードを襲うことさえ出来まい。

 ところで。

 三匹の蛆虫。

 斬撃された口以外。

 まだ、残っていた。

 その残存部分。

 身体が。

 凭れ合って。

 織り合って。

 形作る。

 一つの。

 足場のような。

 フィールドを。

 要するに、一匹一匹の蛆虫が、光の柱として立ったままで、互いに寄り掛かって。三つの光の柱が支え合うことで塔のような構築物を形成したということだ。まあ、形成したなんて言葉を使うような大した代物ではなく、ただ単に、三匹の蛆虫の、三つの切断面が、比較的その上に立ちやすい場所を作り出していたというだけの話であったが。

 そして、そのような現象は、別に偶然そうなったというわけではなかった。当然の話だ、この戦場で、今まさに実現しているところの、この戦争は。魔王とノスフェラトゥとの戦争なのである。超知性と超知性との闘いにおいて、偶然などというものが関与するような生易しい愚昧の余地はない。その全ては理性的に管理された因果応報である。

 リチャードが、その上に立つためのお台場を作り出したのである。お台場、まさに相応しい言葉だ。リチャードがライフェルド・ガンナーであるということを考慮に入れれば。とにかく、リチャードは、ゆらりと身を翻すと。そのお台場の上に聖書の表紙を撫でるような柔らかさによって着地した。ほんの少し上、だが、十分に手が届く距離。燦然と、死と呪いと災いとを散乱させている焦点。アポルオンを見上げる。

 アラリリハ。

 アラリリハ。

 鮮烈なる。

 トレメンダム。

 少しでも気を抜けば跡形もなく消し去られてしまいそうな威力、に、これほどの至近距離から照らされるリチャード。そもそもの話として、聖性というものに明確な根拠などないのだ。生命というものが持つ、本源的な恐怖。力による浸食、力による破壊。あらゆる方法で、疎隔性が破綻するということ。そのことへの恐怖こそが聖性というものの正体である。そうであるならば……その破滅、その破綻、それ自体であるところのデニーが、聖なるものではないということがあり得ようか? ポルテンタ、モンストラ、それは、最も聖なる、聖なるもの。

 眼球が、眼球が、眼球が……光背に埋め込まれた無数の宝石が、周囲を睥睨している。それらの宝石は、何もかもを見通している。いうまでもなく、リチャードが城壁を突破したということも、リチャードがそこにいるということも。

 ぐらり、と、現実の全てが些喚くようにして。宝石のうちの一つがお台場の上に立っているリチャードの方を見た。それから、その宝石によって、ようやく、初めて、気が付いたとでもいうみたいに。デニーが、リチャードに気が付く。

 きらきらと星が煌めいて、デニーはくるんと全身を傾けた。リチャードが立っているその方向に。「あれあれー? ロード・トゥルース!」「もーお、ここまで来ちゃったんだねー」何がおかしいのか、けらけらと笑いながらそう言った。それに対して、リチャードは、にやりと笑って「おいおい、あんな出来損ないのバーバリアーで俺を足止めしようとしたのか?」「舐めてんじゃねぇぜ、クソ野郎」と答えた。

 それから両手に持っていたテンプルワーカーを手放す。二挺のライフェルド・ガンは、リチャードの手のひらから離れた瞬間に、無数のフィラメントとしてほどけ始めて。そして、下へ下へと落下しながら消えてなくなる。

 その代わりにリチャードの手のひらの中に発生したのは、一挺のアサルトライフルだった。アサルトライフルというのはどれもこれも似通っていて、しかも、ライフェルド・ガンというのはそういう形状を限りなく象徴化したある種のアイコンであるため。それが果たしてどのアサルトライフルを模倣したのかということ、よく判別出来ない。

 いや、もしかしたら、それは、別に、何かのアサルトライフルをモデルにした物というわけではないのかもしれない。なぜそのように思われるかといえば、そのアサルトライフルは、あまりに現実離れした形をしていたからだ。現実世界よりもむしろサイエンス・フィクションの世界に相応しいとでもいうべき形。物理的にあり得ない存在感。

 まず、マガジンがどこにもない。普通であればボックスマガジンがついているところがすっきりとフラットになっている。これは、確かに、論理的といえば論理的といえる構造で、ライフェルド・ガンには給弾が必要ない以上、マガジンなど邪魔なだけである。それから、そのバレル。何のためにそうなっているのかは完全に不明であるが、筒状ではなく柱上になっている。ちょうど、オートマチック・ピストルのバレルがそうであるような感じだ。これは完全に意味不明な事実であって、そもそもオートマチック・ピストルのバレルが柱状であるのは、スライドだのエジェクション・ポートだの、そういった構造上の理由で仕方なくそうなっているのである。そういう構造を必要としていないライフェルド・ガンが筒状ではないという理由など何もないはずなのだが、まあ、ただ、実際にそうなっているものは仕方ないだろう。

 誰も名前を知らない天体で採取された鉱物のような、奇妙な金属の光沢を帯びたバレル。そのバレルの両側には、七つ、一列になったランプが取り付けられている。一つ一つのランプの大きさは一ハーフディギトもないだろう。それらのランプは、色が違うわけでもなく、点滅するわけでもない。一体どんな意味があるのか分からない、いや、そもそも意味などないのだろう。それは、つまり、ライフェルドなのだ。ただただ格好が良いという、それだけのために取り付けられたランプ。あとは……極限までシンプルに、研ぎ澄まされたような形状をしているバット・ストック。明らかに大き過ぎて、握るのに一苦労しそうなグリップ。柱状のバレルとほとんど一体化してしまっている、トリガーとトリガー・ガードと。それから、全体的に、何に使うのか分からない、なんとなく近未来的に見えるだけのギミックに覆われている。

 リチャードは、そのアサルトライフルを。あるいは、アサルトライフルのような物を。一瞬たりともデニーから目を逸らすことないままに、構えた。

 いうまでもなくフロント・サイトはデニーを捉えている。そして、リチャードは口を開く。「さて、これで、俺はてめぇに照準を合わせたっつーわけだ」。

 ま、確かにそっすね。わざわざ言うまでもないことであるが、それはそれとして、リチャードは続ける。「そして、てめぇを守るようなやつは、どこにもいない」。

 こちらのセリフについては少し検証が必要かもしれない。なぜというに、先ほど書いたように、デニーの上半身の下には、常にデニーの下半身がいるからだ。もしも、リチャードがそのアサルトライフルをBANGしても。その弾丸はデニーの下半身によって……いや、ちょっと待て。

 あれはなんだ? 一体何が起こっているというのだ? デニーの下半身に、エクリプシスに、あたかも疫病のようにして、無数の影が取り付いていた。その数は、数十などという生易しいものではなく、数百。

 数百のノスフェラトゥがエクリプシスに取り付いていた。あちらに、こちらに、腫瘍のように。あるノスフェラトゥは吸痕牙を突き立てている。あるノスフェラトゥは両腕で抉り取っている。あるノスフェラトゥは、両方の羽で、まるで剣のように切りつけている。エクリプシスは……四本の腕で、そのようなノスフェラトゥを引き剥がそうとしているが。あるいは、大地の上を転がり回り、叩き潰そうとしているが。いくら殺しても殺しても、ノスフェラトゥは、次から次へと増えていく。

 要するに、こういったノスフェラトゥは、リチャードが城壁に作った蟻の一穴を通じてここまでやって来ているのだ。無論、成れの果ての蛆虫、シンセティック・リビングデッドの数が随分と減っていたということも理由しているだろうが。なんにせよ、エクリプシスは、そのようにして群がってくるノスフェラトゥの相手にいっぱいいっぱいになっているようだった。さすがのデニー(下半身)といえども、これだけの量の純種を相手にすれば、てこずるということもあるらしい

 いつかは皆殺しにしてしまうだろう。エクリプシスは破壊不可能である一方で、ノスフェラトゥは破壊可能なのだから。鎧を着た王が蝙蝠に纏わりつかれているに過ぎないのだから。ただ、その「いつか」は今ではない。そして、その「いつか」が来るまでは、アポオルオンを守護する者はいない。

 デニーは、リチャードの言葉、軽く聞き流すみたいにして……左手にスマートバニーを持ったまま、その右手を、軽く、自分の頭の上に差し上げた。女の髪のように、地に巣食うあらゆる憎むべきものらの母の髪のように、聖処女の髪のように、流れ落ちていくアウラ。緑色の髪に、そっと触れる「んー、そーだね」。それから、首を傾げて、可愛らしく笑う「そのとーり、だいせーかーい」。スマートバニーは、相変わらず音楽を流している。途方もない激怒についての音楽を。開かれた敵意についての音楽を。

 リチャードは、空々しい星の輝きにも似たその言葉に、軽く舌打ちをした「安っぽい連続活劇の悪役なら、ここで、言うんだろうな」。それから、いかにも忌々しげに言葉を吐き捨てる「最後にチャンスをやろう、どうだ、あの娘を渡す気になったか? お前とて死にたくはないだろう、私は寛大な男だ、あの娘を渡せば命だけは助けてやるぞ。そんな、甘ったりぃことをよ」。

 そこまで言葉すると、リチャードは、また、あの、物凄い、引き裂かれたような笑顔でにいっと笑った「だがな、俺はそんなことは言わねぇよ。俺はくだらねぇ漫画の間抜けた悪役じゃねぇんだ。もう、てめぇに勝ち目はない。この空の全ての星を掻き集めて、それを全部奇跡にしたって、てめぇの負けは覆らない。俺は、今、お前を殺せる。そして、俺は、お前を殺す」。

 トリガー・ガードに掛けていた指をトリガーに掛けて「それだけだ」リチャードは最後通牒のように言う「分かったか?」。その言葉に対して、デニーは……「ねえ、ロード・トゥルース」「なんだ」「デニーちゃんはね、お空のお星さまなんて必要ないよ」「は?」「だって、だって、デニーちゃんは、もう奇跡を知ってるから。きらきら光る素敵な奇跡を知ってるから」。

 そうして。

 まるで。

 救世主。

 の。

 ような。

 笑顔で。

「おいで、ロード・トゥルース。奇跡を教えてあげる。」

 それは、どちらかといえば恐怖であった。殺意でも敵意でもなく。「死にやがれ、クソ野郎!」という絶叫とともに。まるで追い詰められた獣のようにリチャードは引き金を引いていた。引き金を、引かされていた。

 そして、デニーはまさにその瞬間を待っていた。その瞬間、キャハハハッ!という笑い声とともにデニーは全身を震わせた。大淫婦の淫らがましい舞踏みたいに、その絶頂の痙攣みたいに、コンヴァルジョンした。

 すると、まるで、その身震いによって、星が、星が、星が、偶像の星が、投げ落とされたかのようにして。デニーの腰から下、そのアポルオンから、新たなアポルオンが嘔吐された。星が星を生み出したのだ、それは、まるで透き通った硝子のような純金で出来た星であった。天の上にある聖なる都のような星が、次々に生み出されたのだ。

 まず、最初のアポルオンから吐き出された星は九つだった。その九つの星がまた九つの星を吐き出して。更に、その九つの星が九つの星を吐き出す。ほんの一瞬で、デニーの周囲は、満天の星空のように星によって満たされた。

 そして、無数の星々のうちの一部が、一斉に、一つのライン上に蜈集する。まるで天の川のように形作られたそのラインは、いうまでもなく、リチャードが発射した弾丸の射線を表わしていた。

 ノックノック、ライフェルドの弾丸が、その先端が、最初の星に触れた。リチャードはレベル7の能力者であり、ライフェルド・ガンは神を貫く銃砲である。星を一つ、打ち砕くくらいは容易いことだ。

 最初の星は突き崩された。しかし、次の星は? 次の次の星は? その後にも、まだ、まだ、無数に連なるその星々は? スズメバチでさえ無数のミツバチによって焼き殺されるのである。量はそれだけで力だ。ライフェルドの弾丸は……やがて、とうとう押しとどめられてしまう。

 あははっ。

 ねえ。

 ねえ。

 それだけじゃないよ。

 ああ、神様。星が降ってくる。満天の星がたった一つの焦点を目指して降り注いでくる。もちろん、その一点とはリチャードのことだ。九の、九倍の九倍の九倍の、更にそれよりも多い数の星が。リチャード一人を目掛けて墜落してくる。

 見て、きれい。リチャードが立っているお台場に、何か悍ましい秘密のようにして。不吉な徴表のような尾を引いて。それらの星々を見上げながら、リチャードは……「クソが」と呟く。

 それから、跳んだ。お台場を蹴って、高く高く飛び上がった。それから、怪物じみた星の一つに飛び乗る。いうまでもなく星とはデニーの悪意であり、底のない邪悪である。それは、死そのものなのだ。だから、それを踏んだリチャードの泥まみれの革靴、その瞬間に、消えることのない炎に包みこむ。

 ノスフェラトゥが履く革靴の革は、非常に特殊な加工を施されている物が多い。それはヌミノーゼ・レザーと呼ばれるもので、その名の通り、ライカーンの革にヌミノーゼ・ディメンションの塗装を施したものだ。それは、対魔性に非常に優れた代物であって……しかしながら、それでも、リチャードの革靴は、数秒後には燃え尽きていた。

 ただ、そのことについて、リチャードはほとんど気にしなかった。なぜというに、例え、その邪悪といえども、たった一瞬触れただけではリチャードの足を焼くことなど出来はしなかったからだ。革靴の灰とともに、その炎はリチャードの足から剥がれ落ちる。リチャードは、結局のところ「はっ! くすぐってぇぜ!」と叫んだだけだった。

 とはいえ、あまり長いこと触れ続けていても危険である。リチャードはすぐさま踏んでいた星を蹴り飛ばした。そして、再び宙を舞う。

 その後で両翼を開く。星に触れることが危険であるということを学んだリチャードはもう星を踏むようなことはしない。その代わりに自らの翼で飛べばいいだけの話だ。

 そう、それだけの話だ。触れなければいいだけの話……なのか? はてさて、そんな簡単な話なのだろうか。魔王の邪悪は、それほど簡単に退けられるものなのだろうか。

 ともかく、リチャードは、二枚の羽による飛行を開始した。あちらこちらから吶喊のように投げつけられる星々を、ひらりひらりと、形のない影のような身軽さによって躱していく。無数の星は、リチャードの、そのあまりの完璧な回避に追いついていくことが出来ない。そして、そのまま……エレガンス、パッション。あたかも燃え盛る硫黄のように、リチャードは突進する。星空の中心に。夜の王に。

 このままでは。

 リチャードは。

 そこに。

 辿り。

 着いて。

 しまう。

 と。

 でも。

 いいたいのか?

 ああ。

 低能。

 そんなわけ。

 ないだろう。

 リチャードが、あと、数ダブルキュビトの距離まで近付いた時に。デニーは、その姿を見て、にぱーっと笑った。あたかも、仕掛けてあった罠の中に小動物が入ってきたことを喜ぶ子供のような顔をして。それから、こう叫ぶ「sparkle!」。

 すぱーくる、すぱーくる。光れ! 星空では夜の王の言葉は絶対だ。だから、その言葉通りのことが起こる。つまり、何が起こったのかといえば……星、が、光り始めたということだ。

 デニーの腰から下、最初のアポルオンが、「光あれ」という言葉の、その光であるかのように光り始めた。来たりませ、来たりませ、あらゆる邪悪よ。緑の目をして災いをもたらす者よ。

 そして、その直後のことだ。アポルオンから一筋の光線が放たれた。緑色のその光線は、一直線に、リチャードに向かって突き進んでいく。光よりも早く、あるいは、愛と愛との間の距離よりも早く。リチャードを撃ち抜こうとする。

 ただ、リチャードは始祖家のノスフェラトゥだ。この程度の速度であれば、ぎりぎりではあるが、見極めることが出来る。「遅い、遅い遅い遅い、あくびが出るぜ!」と、いかにもこういうタイミングでこういうキャラクターが言いそうなことを言いながら。その光線、二次元の紙切れ一枚ほどの差で避ける。

 「こんな馬鹿正直な、一直線の攻撃で俺を仕留められるとでも思ったのかよ!」「もーっちろん、そんなこと思ってないよ」デニーは、高らかに誇らしく叫んだリチャードの言葉に、静かに、静かに、そう返した。それから、くっと、腰から上の全体を傾けるように首を傾げて。昆虫の節足のように細長く多節に分かれた人差指を、大顎の先、そっと当てる「それにね、その攻撃はね、一直線じゃない」「は?」。

 と。

 リチャードは。

 背に。

 死を。

 感じる。

 振り返っている余裕さえなかった。全身が、ノスフェラトゥという生き物の生半可じゃない生存本能によって、横っ飛びに飛んでいた。そして、その直後。一本の光線が、今までリチャードがいたその場所を貫く。「な……」、と、思わず声を漏らすリチャード。何が起こったのか分からなかった。ただ、すぐに、それを分からされることになる。

 リチャードが避けたその光線は、真っ直ぐに、前方へと進んでいって。そのまま、その先にあった星々のうちの一つに突っ込んだ。すると、その光線は、まるである種のプリズムに突っ込んで、内側で反射したとでもいうみたいにして。その星から、また発射されたのだ。

 リチャードがいる方向に、その進行方向を変えて。リチャードは慌てて避ける。それでも、光線は、また別の星に反射してリチャードを追いかける。よくよく見てみればリチャードは囲まれていた。全方向を星によって囲まれてしまっていた。これでは、いくら避けても光線は追いかけてくるだろう。

 そして、それだけで話は終わらなかった。デニーが、また叫んだのだ。しかも、今度は一度では終わらなかった。「sparkle! sparkle! sparkle!」、子供が巫山戯けて遊んでいるみたいに。何度も何度も叫び声を上げる。そして、その叫び声のたびにアポルオンから緑色の光線が発射される。

 それは檻だった。光の格子によって閉じ込められた檻だった。このままでは、光線によって撃ち抜かれるのも時間の問題だ。リチャードに出来ることは、なんとか、どうにか、その檻から抜け出すことだけだった。星々によって囲まれている空間を抜け出して。その外側にやってくる。

 そうしてから……また、アサルトライフルを構えた。そう、リチャードは飛び道具を持っているのだ。別に、わざわざデニーに近付く必要はないではないか。先ほどまではセミオートにセットしていたセレクターは、いつの間にかフルオートに変わっていて。そのまま、中心のアポルオン、デニーの本体に向けて掃射した。

 ただ、残念ながら、その行為は完全に無意味だった。なぜというに、星々が盾となって発射された弾丸の全てを防いでしまったからだ。そもそも、リチャードがデニーに接近しようとしたのも、こういう風に防がれてしまうことを防ぐためだったではないか。この距離から狙撃するのは不可能である。

 それでも、リチャードは掃射を続ける。星々を一掃してしまおうとしているのだ。けれども、いくら時間が経っても星々の数は一向に減少する様子はなかった。九つの星は九つの星を生む。星は星を生み続ける。むしろ増殖しているように見えるくらいだ。

 それだけではなく、星が、絶え間なく攻撃を仕掛けてきている。檻の外側に逃れたとしても、流れ落ちる星々の突撃は未だに続いているのである。落ちてくる、落ちてくる、落ちてくる。魅入られてしまいそうなほど壮麗な星空の全体が、リチャードを目掛けて。このままでは、リチャードは、圧倒的に不利だ。

 ただ、それでも、リチャードは笑っていた。この世で最も残酷な捕食獣の笑顔で笑っていた。ああ、そう、そうなのだ。リチャードはまだ本気を出していなかったのだ。レベル7の能力の全てを。神さえも殺すことが出来るその力の全てを。リチャードは、馬鹿にしたように笑っていて。そうして、言う「ちょろちょろと纏わりつきやがって!」「鬱陶しいんだよ、蠅が!」。

 その瞬間。

 リチャードの背後。

 巨大な翼が。

 展開、した。

 いや、違う、それは翼ではない。ノスフェラトゥの両翼ではない。なぜなら二枚の翼は既に開いていたからだ。それは、要するに……偉大なるライフェルドの厳飾蓮華だった。

 数十の。いや、数百の。アサルト・ライフルが、迅雷が天から地へと叩きつけるその速度よりも早く、リチャードの背後に現われたのだ。あたかもリチャードの威力そのものであるかのように。あたかも宇宙に向かって開かれた曼荼羅のように。それは、二枚の、金属製の翼によく似ていた。十数ダブルキュビトにわたって広げられた翼は、あらゆる方向に銃口を向けていた。上に、下に、右に、左に。あらゆる方向で輝いている星々の方向を指し示していた。

 「爆ぜろ!」とリチャードが叫んだ。すると、それらの、数百の銃口が、一斉に閃光を放った。ストーム・ブリンガー。その現象は間違いなく光の嵐だった。リチャードを中心にして、数百のフルオートの射撃が荒れ狂った。独裁者に向けられた喝采。

 星が、弾ける。汚らわしくも艶めかしい多角形によって組み立てられて、歪みながら弧を描く光を放っていた星が。無数の、直線と、曲線と、それに苦い味がするアラリリハへと分解される。撃ち抜かれる、撃ち抜かれる、他愛もない玩具の星のように。

 あの星を。

 その星を。

 この星を。

 打ち抜く。

 無慈悲であった。あるいは、累卵が砕けていく、その快哉であった。数式が書かれた紙を、その数式が解けないという苛立ちのままに、引き裂いて、ぐしゃぐしゃに握り潰す、ということの羅絶。そう、圧倒的な力の前にはあらゆる論理が無意味である。なぜなら、結局のところ、記号によって構築された全ての構造物は雑誌に載っている星占いと何も変わらないからだ。

 恣意的に定められた星の連続性を、より純度の高い恣意によって滅ぼしていくリチャード。デニーが思い描き、現実の世界に映し出した計画の形を、ただただ力によって射殺していくリチャード。定め、役割、そういったものが、力の前ではいかに無力なものか。リチャードに向かって墜落するように定められた星も。リチャードを排除するための檻として定められた星も。全ての星は等しく潰えていく。差別もなくなる。区別もなくなる。ただただ世界は平面な虚無と化していく。つまるところ、それこそが独裁である。それこそが全体主義である。定めを認めないということこそが。

 そうして、その後で……やがて、銃声はやんだ。出来事としては、せいぜいが数秒のことだった。嵐は過ぎ去った。その後には何も残らなかった。実際に、文字通りの意味で、何も。リチャードに向かって射出されていた星も、デニーのことを固く守っていた星も。星という星は、一つ残らず消え去っていた。デニーと、リチャードと、二人は、また、剥き出しのままで向き合っていた。

 そう、デニーの前に、もう盾はなくなっていた。これは絶好のチャンスだ。無論、そのようなチャンスを逃すリチャードではない。「丸見えだぜ、デナム・フーツ!」と叫ぶリチャード。その後で、まさにノスフェラトゥの速度によって、手に持っていたアサルトライフルを構える。「これで終わりだ!」と叫びながら、あっさりと引き金を引く。

 本当に。

 こんな、に。

 あっさりと。

 終わって。

 しまうと。

 いうのか?

 勇者による。

 魔王の征伐。

 拍子抜けするような。

 軽々さによって?

 ああ。

 爛戯。

 いうまでもなく。

 魔王は。

 容易く。

 殺せない。

「ざーんねーん!」

 と、デニーが笑った。悪戯っぽく、子供だけが見つけることが出来る宝箱のように。それから、スマート・バニーを持っていない方の手、右手を、真っ直ぐに突き出す。まるで、その手によって銃弾を塞ごうとしているかのように。

 そんな手のひらで、昆虫の少女のように華奢な手のひらで、ライフェルドの銃弾が防御出来るとでも? あるいは、その手のひらによって魔学的な障壁を作り出したとして、そのような物で防御出来るとでも? 不可能だ、出来るわけがない。ライフェルドの弾丸が、あらゆる障壁を撃ち抜いてしまうということは、既に証明されていることだ。

 それでは、デニーは何をしているのだろうか? 全く無意味なことを、デニーはしているのか? 恐怖のあまり、絶望のあまり、頭がおかしくなってしまって? ああ、そんなわけがない、そんなわけがないのである。デニーは、その銃弾を防御するための方法を知っている。

 つまり、デニーは、手のひらを突き出した。そして、そのように突き出された手のひらは右手のそれだけではなかった。右手のそれを突き出した、その後で……デニーは、他の手のひらを突き出した。デニーの、下半身、エクリプシス、その四枚の手のひらを次々と突き出した。

 アポルオンの星のもとにいたエクリプシスは、上に向かって手のひらを突き出した。一枚目、二枚目、三枚目、四枚目。その四枚の手のひらを、デニーの前に、堅固な防壁として突き出した。ライフェルドの銃弾は……一枚目を突き破った。二枚目も、三枚目も。だが、四枚目までは撃ち抜けなかった。その手のひらの半ば、遂に独裁者は屈服した。

 リチャードは、「な……クソがっ!」と口走る。周囲を見回す。つい先ほどまで、その全身をノスフェラトゥによって覆われていたはずのエクリプシス。それらのノスフェラトゥは、ほとんどが振り払われていた。

 なんとかしがみ付いているノスフェラトゥの数は、せいぜいが数十鬼といったところだ。ノスフェラトゥは、食われて、潰されて、あるいは……成れの果ての蛆虫によって、エクリプシスから引き剥がされていた。

 今、城壁は、先ほどまでとは全然違う形になっていた。アポルオンを中心として巨大な円を描いていたはずの、成れの果ての蛆虫の軍勢は。まるで、エクリプシスに縋りつくかのようにして、その巨体に群がっていた。そして、その巨体に攻撃を仕掛けていたノスフェラトゥを貪り尽くしていたのである。

 もちろん、そういった成れの果ての蛆虫の数も随分と少なくなっていた。あれほどの軍勢、地上を覆い尽くしていたはずの軍勢は、十数匹にまで減っていた。だが、もう十分にその役目は果たしたといっていいだろう。なぜなら、蝕の悪魔は、疫病から解放されたからだ。

 そう。

 エクリプシス。

 もう、自由だ。

 あたかも性的な絶頂に誘うみたいに、淫奔な、蠱惑な、指先が蠢く。やらやらと、るうるうと、エクリプシスは、四枚の手のひらをひらめかせる。右の手に九本、左の手に九本、合計十八本の指だった。アポルオンの指先と同じように、多節、で、あたかも真銀によって鋳出された、聖なる聖なる偶像のように。それらの手のひらは、底知れぬところに誘惑するのだ。

 と……それらの手のひら。それらの指先。夜に来る盗人のように、なんの前兆もなく、なんの予告もなく、リチャードに向かって襲い掛かった。

 リチャードは、先ほども書いたように、アポルオンから遠いところにいた。少なくとも百ダブルキュビトは離れていただろう。ただ、その程度の距離は、エクリプシスにとってはなんの意味もなさない距離であった。動く必要さえない。腕を伸ばせば届くのだ。

 「やばっ……」とかなんとか言いながら、リチャードは、その攻撃を躱す。いや、それは攻撃と呼んでいいようなものだろうか。あたかも、ちょっと邪魔な蝙蝠、手で払うだけというかのような。あまりにも巨大な生物の、あまりにも超然とした態度。要するに、これが魔王だった。魔王の力だった。

 リチャードは「撃て! 撃て撃て撃て撃て撃ちまくれ!」と叫ぶ。その号令に従って、光明華が、リチャードの背後に広げられたアサルトライフルの翼が、一斉射撃をする。当然ながら、エクリプシスの手のひらは蜂の巣になる……しかし無意味だ。

 エクリプシスは、その名の通り影に過ぎない。アポルオンが照らし出す闇によって形作られたところの世界の暗黒に過ぎない。影を、いくら、刻んでも、刻んでも、本体はなんの痛みも感じないのと同じように。エクリプシスを攻撃しても意味などないのだ。

 ただ、エクリプシスがいる限り、あらゆる攻撃は防がれてしまう。まずはエクリプシスをどうにかするしかない。「この蛆虫野郎!」と言いながら、リチャードは、手に持っていたアサルトライフルを投げ捨てる。そして、新しいライフェルド・ガンを作り出す。それは、成れの果ての蛆虫をたった一発で吹き飛ばした銃砲。つまりDKGRだ。

 右手と、左手と、二挺。「消え去れ!」という絶叫とともに、両方をエクリプシスに向かってぶっ放した。レベル7の能力の、対神兵器級の能力の、その全てを込めて、二発の榴弾はエクリプシスに向かって突っ込んでいく。

 神々さえも殺す榴弾だ。当然、当たれば、エクリプシスとてただでは済まない。少なくとも一時的には行動不能になるだろう。まるで強烈な光に照らし出された影が胡散霧消するように、跡形もなく消え去ってしまうだろう。

 もしも。

 当たる。

 ならば。

 エクリプシスは、未曽有の、無尽蔵の、破邪軍荼利の光を放ちながら襲来する榴弾。ほんの僅かな怯えさえ見せることはなかった。その傲慢さに対して、一欠片の憎悪さえ見せることはなかった。それどころか、エクリプシスが見せた、その表象は愛であった。純粋な愛、無償の愛。まるで、その対象を貪婪に食い尽くしてしまうような、精霊のための狂気の愛。

 エクリプシスは、優しく、優しく、四本ある腕のうちの二本の腕を差し出した。まるで、アモル・ヘレオスのように。愛の病であるかのように。ああ、そうだ。英雄には愛を。殺意には愛を。突撃してくるライフル・グレネードには愛を。そうして、その後で、その榴弾がエクリプシスに直撃する直前……エクリプシスの手のひらは、その榴弾を掴んだ。そっと、恋人に口づけを落とすかのように。懶惰なドルチェ・ジョーコのように。

 もちろん、普通であれば、その榴弾は爆発しているはずだった。衝撃によって、その信管が起動していたはずだ。ただ、その掴取はあまりにも柔らかかった。柔らか過ぎた。エクリプシスが掴んだ瞬間、榴弾には、完全に、衝撃がなかったのだ。結果的に、榴弾は、自分が掴まれたということにさえ気が付けなかった。

 目の前で起こったことが信じられず「な……嘘だろ!」と叫ぶリチャード。一瞬だけ虚を衝かれた形になってしまうが、即座に気を取り直す。そして、リチャード自身の思考能力によって榴弾を爆発させようとする。いうまでもなくライフェルドの榴弾は物理的な距離など関係なく自由自在に爆発させることが出来る。

 ただ、遅過ぎた。一瞬という時間は魔王にとってはあまりにも長い猶予であった。エクリプシスは、とっくのトークンピーナッツ、掴んだ榴弾の弾道を変えてしまっていた。さすがに、リチャードに投げ返すということまでは出来なかったが。ただ、ハームレスであるには十分なくらいそっぽを向かせてしまっていたのだ。榴弾は、ほとんど真上に向かって突っ走っていて。リチャードがそれを爆発させた時には、もう、その爆発はデニーに対してほとんど効果がないものとなってしまっていた。

 ただ。

 ぱーんと。

 弾けて。

 すごく。

 きら。

 きら。

 きれいな。

 だけで。

 「がああああああああああああああああっ!」と、理性の萌芽さえ見いだせない獣のような声で咆哮するリチャード。それから、両手のDKGR、めちゃくちゃに撃ちまくる。ただ、何発発射しても、何十発発射しても、エクリプシスはその全てを受け流してしまう。まるで、ヒステリーを起こした恋人のめちゃくちゃな罵詈雑言を、海よりも広大な愛によって受け流すかのように。

 「ように」「ように」うるせーよ! いい加減にしろ! 余韻も旨味も無い直喩しか出来ねーのか! つーか破邪軍荼利ってなんだよ破邪軍荼利って! 明らかに格好良さそうな単語をなんとなく二つ並べただけだろ! いや……ごめん……なんか繊細な表現というものに飽きてきてしまって……だんだんと、クライマックスが近付くにつれて比喩表現が適当になってきてしまっている。これは由々しき問題であるが、残念なことに、これといった解決策はない。なぜなら、人間、飽きてきてしまったものは飽きてきてしまったものだからである。こればっかりどうしようもないのだ。あとは、もう、頑張るしかない。ちなみに生きるということの九十九パーセントは「頑張るしかない」ことであり、残りの一パーセントは「頑張ってもどうしようもない」ことである。

 それはそれとして。リチャードは、さすがに、手に持っている二挺のDKGRだけでは「頑張ってもどうしようもない」ということに気が付き始めたようだ。「こいつ……巫山戯やがって……」と呟く。しかしながら、どうすればいいのか?

 DKGR以上に口径が大きい、大砲のようなライフェルド・ガンを出せないわけではない。それこそアビサル・ガルーダを撃ち落としたようなやつだ。ただ、弾丸が大きければいいという話でもない。軌道を逸らされてしまったらそれでお終いだからだ。

 それではエクリプシスが掴んだ瞬間に爆発させるという方法はどうだろうか。そうすれば手を吹き飛ばすことが出来る。そして、手を始末してしまえば、あとは榴弾を打ち込み放題だ。ただ、これもまた難しいことだった。なぜかというと、エクリプシスの手つき、先ほどから書いている通り、なんらかの魅了の力を放っているようだからだ。

 その手の動きを見極めようとしてもぼうっとしてしまう。焦点が合わない、集中が持たない。目が覚めた後に夢を思い出そうとしているみたいだ。どうやら認識疎外の魔法を使っているらしい。だから、榴弾を爆発させようとしても、その時には、既に、エクリプシスが離してしまった後なのだ。

 無論、魔法を解除することは出来る。リチャードはロード・トゥルースなのだ、そういう方法はいくらでも知っている。ただ、そのためには、まずは相手が使っている魔法を理解しなければいけない。時間がかかる。リチャードが相手にしているのは魔王なのであって……そんな余裕は、一切ない。

 残る方法は、光明華を、つまり、背後に展開している数百のライフェルド・ガンを、全てDKGRにしてしまうことだ。全てを、リチャードの全力、神殺しのライフェルド・ガンにしてしまうという方法だ。数百の榴弾が、一時に襲い掛かってくれば。さすがに、エクリプシスといえども、たった四本の腕ではどうしようもあるまい。ただし、この方法には一つ問題がある。

 それは、そこまで大量に、全身全霊のライフェルド・ガンを作り出してしまえば。リチャードは、相当に消耗してしまうということだ。はっきりいって、そのようなsalvoは、たった一度しか行なうことが出来ない。そして、その後、リチャードは、まともに立っていることが出来るかどうかさえ怪しい。

 つまり、その一撃(と呼んでいいかは微妙なところであるが)で、エクリプシスだけではなくアポルオンも仕留めなければいけないということだ。全ての榴弾の爆発をリチャード自身の思考能力によって一つの空間に集中させる。そして、その空間の内部でデニーの全体を焼き殺す。これしか方法はない。

 さあ、これで。

 やるべきこと。

 は。

 決定した。

 リチャードは、にいっと笑った。それは、不敵とも傲慢とも異なった表情だった。敢えて表現するとすれば、世界の亀裂を目の前にした生き物の表情だ。ぽっかりと開いた深淵。何もかも飲み込む深淵。そこには何もない、リチャードは、闇によって閉じ込められ、暗黒がその顔を覆っている。後は……その瞬間を待つだけだ。裁きがくだるその瞬間を。その裁きは、善と悪とを峻別するための裁きではない。もっと、端的で、簡単で、破滅的な。つまり、ただ単に、リチャードが生きるに足る生き物であるかどうか。それだけを裁く裁き。「俺が死ぬかてめぇが死ぬかだ」リチャードは口の端で呟く。「はっ! 面白ぇじゃねぇか。結局、これが生きるってことさ」と付け加える。

 そして「行くぜ、蛆虫野郎!」と叫ぶ。その瞬間に、リチャードの背後、形作られていた数百のアサルト・ライフルが、一斉にほどける。まずは、紡ぎあげられる前の、もともとの、光の糸。純粋なライフェルドの力まで引き戻したのだ。それから、また、新しい形へと紡いでいく。DKGRに、デニーを殺しうる武器に。銃身が、銃床が、照準器が、引き金が、形作られていく。舞台の上で、取り返しがつかない悲劇が形作られていくかのように。そして、そのライフェルド・ガンに、ライフェルドが、あたかも一つの冗談のように、最後の線を描き入れる。

 ラ。

 タ。

 タ。

 ルー。

 その瞬間。

「待ってましたあ!」

 と、歓喜。楽しげな、祝福のような声が響いた。聖なるかな。聖なるかな。星が輝く。底知れぬところ。夜の王。そうして、その後で、リチャードはようやく気が付く。自分が、完全に陥れられていたということに。

 「しまっ……」という言葉、リチャードは最後まで言うことさえ出来なかった。その前に、その言葉は、激痛と苦悶とを原因とした絶叫に変わってしまったからだ。リチャードは、「それ」に、気が付くことが出来なかった。当然だ、気が付かないようにしていたのだから。わざわざ認識疎外の魔法をかけていたのだから。その魔法は、実は、このためのものだった。

 リチャードの下方から、いつの間にか、そっと、眠っている恋人に口づけを落とすみたいに、手が迫っていた。エクリプシスの手。テンプテーションのような、ヴェインのような、魅惑的で致命的なエクリプシスの手。

 リチャードの注意が、その全てが、ライフェルド・ガンの形成に向かっている、まさにその時のことだった。全てを受け入れる愛そのもののようなその手がリチャードを捕まえたのは。

 一本一本の指先が、性的な愛撫のようにリチャードに絡み付く。そして、その手のひらは、握り締める。手のひらの中で潰してしまおうとしているかのような、圧倒的な握力によって。

 「それ」が、この襲撃が、もう少し早く行なわれていれば。リチャードは、もしかしたら、この手を振り払うことが出来たかもしれない。けれども今となってはそれは不可能なことだった。リチャードは、ほとんど全てをライフェルド・ガンにつぎ込んでしまっていた。魔王の把握を逃れるだけの力は残されていない。

 それでは、そのライフェルド・ガンを使えばいいのではないか? 今こそ、saluto、数百の銃声によって、デニーに対する別れの挨拶を告げるべきなのではないか?

 ただ、実は、リチャードからはそのような選択肢さえ奪われてしまっていた。なぜというに、その手がリチャードを捕まえた瞬間に。エクリプシスが、巨大な虚無から、口から、詩神の声を咆哮していたからだ。

 そう、それは、獣のような叫び声というわけではなかった。かといって、論理的な言語というわけでもない。それは、まさに神の声だ。つまり、抽象言語型呪文であった。

 記号を媒介としない呪文によってその魔法が発動する。何が起こったのかといえば、リチャードの周囲、まるでリチャードのことを縛り付ける鎖のようにして、何重にも何重にも、魔法円が描かれたのだ。まあ、リチャードはエクリプシスの手のひらに掴まれていたのだが。その手のひらを完全に無視するようにして魔法円が出現したということだ。

 その魔法円は、今まで出現したどの魔法円とも異なったものだった。どういうことかといえば、その魔法円は、可能的未来そのものの写像であったということだ。その魔法円は、あらゆる記号とは明確に異なった方法で呈示されたものであった。それは二次元の平面でも、三次元の立体でもない。あり得べきであるとデニーが決定した世界そのものの形が、魔法円として存在していた。それは、つまり、現実であった。もう少し正確にいえば、その魔法円によって導かれるところの、世界そのものの証明がそこに呈示されていたということだ。そして、その世界において……リチャードはスペキエース能力を奪われていた。

 要するに、それは、スペキエース能力を封印するための魔法だった。そう、実はそういう魔法は存在する。デニーが使用した魔法円以外にも色々とあって、その中でも一番一般的なものは、ビューティフル・ポートレイトというタイプの魔法だ。これは、その名前の通り、ディープネット社が作り出したS-KILL生物兵器であるビューティフルの肖像をそのまま魔法円にするというタイプのものである。ビューティフルという生き物についての共同幻想が生み出すオレンダ周波数から、「スペキエースの能力を破壊する」という観念だけを抽出してきてその魔法の効果とする。非常に容易に使える傭兵魔法の一つである。

 まあ、そういう閑話は休題するとして、そんな便利な魔法があるならば、デニーはなぜ最初からそれを使わなかったのか。問いの答えは簡単で、リチャードがオールパワー全然大丈夫状態である状況下では、この魔法は通用しなかったからである。状態、状況、かぶっててちょっとくどいね。なんにせよ、リチャードは、ここまで何度も何度も書いてきたように、レベル7の能力者なのである。そう簡単に能力を封印することは出来ない。

 この魔法を使うには、リチャードがそれ相応に弱体化するのを待たなくてはいけなかった。つまり、その能力を使い切ってしまうような全力の攻撃をするタイミングを待たなければいけなかったのである。そして、そのタイミングがとうとう訪れたということだった。良かったね。

 とにもかくにも、その魔法円がリチャードを拘束した瞬間にリチャードが出現させた数百のDKGRは呆気なく消滅した。ぱんっと弾けて、きらきらとした光の残骸だけを残して、跡形もなく消えてしまった。後にはリチャードだけが残される。親衛隊を失った僭主だけが残される。

 無力だった。悲鳴を上げ続けていた。全てを引き剥がされたリチャードには、明らかに、もう何も残っていないように見えた。それは、あまりにも敗北であった。リチャードは、敗北そのものの戯画でしかなかった。だから、エクリプシスは……勝利であるかのように、リチャードを握り締めた手を掲げた。上に向かって。星が輝く方に向かって。

 ああ。

 その星の名はアポルオン。

 一体、誰がその星に匹敵し得ようか。

 誰がその星と戦うことができようか。

 ニンブス。あたかもアナスタシスのカトゥルンのように絶対的な栄光をその背に背負って。アポルオンは、リチャードに向かって降下してきた。ゆっくりと、ゆっくりと、まさに玉座から王が立ち上がるがごとき威儀と威厳とによって。ああ、光り輝くコロナ。蝕の悪魔によって食い殺された太陽の、その鮮血みたいなコロナ。が、アポルオンを、一つの宗教画にも似た有様で世界から浮かび上がらせている。勝利だよ、勝利だよ。In hoc signo vinces。手を広げている姿は十字のように。その光背は円形のように。それは、間違いなくティンダロス十字であった。アポルオンのその姿は、間違いなく勝利によって飾られたティンダロス十字であった。

 リチャードが、リチャードが、リチャードが、そこにいる。その手のひらに向かってアポルオンが近付いてくる。そして、やがて、アポルオンは。リチャードから、たった数ダブルキュビトの距離に浮かんでいた。

 デニーは……笑っていた。にーっとした笑顔で。リチャードの臨在を感じてから。この結界の内側に入ってきてから。初めて、デニーは、デニーの、いつものような、あの顔で笑っていた。可愛らしく笑っていた。

 ほんの僅かに、リチャードを把握していたその握力が緩んだ。いうまでもなく、とてもではないが逃れられはしない程度。それどころか、ぎりぎりと締め付ける手のひらは、未だリチャードに苦痛を与え続けている。ただ、それでも、叫び声を上げなければ頭がおかしくなってしまいそうなほどではなくなった。

 背中の方で。

 手を組んで。

 悪戯っぽく。

 首を傾げて。

 デニーは。

 こう言う。

「デニーちゃんはあ、あまーいあまーい悪役さんだからあ。」

 そこで、一度言葉を止める。

 組んでいた手を、ほどいて。

 両腕を、随分と芝居がかったやり方。

 リチャードに向かって、差し出して。

 それから、続ける。

「『最後にチャンスをやろう、どうだ、真昼ちゃんを諦める気になったか? ロード・トゥルースとて死にたくはないだろう。デニーちゃんは寛大なデウス・ダイモニカスだ、真昼ちゃんを諦めれば命だけは助けてやるぞ』。」

 大仰に、わざとらしく、しかつめらしく、そう言った。それから、暫くの間は、クソ真面目な表情をして、リチャードのことを睨み付けていたのだけれど。やがて、我慢出来なくなったとでもいうようにして、ぶふふーっと噴き出した。両方の腕、お腹を抱えながら。けらけらと笑う、空中でくるくると踊っているみたいにしてけらけらと笑う。

 だいぶんと長いこと笑っていたのだけれど、ようやく気が済んだらしく、「ほへー」とかなんとか溜め息をついた。それから。姿勢をもとの位置に戻して。リチャードと向き合う形、ただ、デニーの方が少しだけ上にいて、リチャードが少しだけ下にいる、というその形に戻って。右の人差指、つんっと自分のほっぺをつっつきながら続ける。

 「んー、でもお、命だけは助けてあげるーってゆーのは冗談じゃないよお。だってだって、ロード・トゥルースはロード・トゥルースだから。もしも、デニーちゃんが、ロード・トゥルースのことを、下手に殺しちゃったりしたら……コーシャー・カフェがハウス・オブ・トゥルースとすってけわやわやなことになっちゃうからね! わあ、たいへーん! それで、それで、そーなっちゃうと、デニーちゃん、キラーフルーツに怒られちゃうよお。もー、めーっちゃめっちゃに怒られちゃう! だからねーえ、デニーちゃんは、なーっるべくロード・トゥルースのことを殺したくないの!」。そこまで話すと、デニーは、分かった?とでもいいたげな顔をしてリチャードの方を見た。一言も答えないリチャード。苦痛に顔を歪めながら、それでも、憎悪に満ちた視線でデニーのことを見つめている。そのような敵意に対して、デニーは、特にそうすることに意味もないのだろうが、くるんとその場で一回転する。それから、続ける「まあ、暫くの間は再生出来ないように、両腕と、両脚と、それに両羽、ざくざくーってして。それから、ちょーっとだけ遠くの方に、ぽーいってして。デニーちゃんと真昼ちゃんとがアーガミパータからばいばーいってするまで、デニーちゃんと真昼ちゃんとのことを襲っちゃったりなんだったり出来ないように、そーんな感じだけどね! でも、死んじゃうよりはぜーんぜんいいでしょお? 死んじゃったら死んじゃうしね! ま、そーゆーわけ!」。

 デニーは、そう言うと、またリチャードの方に視線を向けた。きゃるーんという感じ、九つの目がきらきらと光るみたいにしてリチャードのことを見つめている。

 さて、リチャードは。そんなデニーのこと、相も変わらず、憎々しげな目で凝視していたのだが。やがて、全てを諦めたとでもいいたげに「クソがっ」と呟いた。

 「分かったよ、俺の負けだ。手も足も出ない、スペキエース能力も奪われた。こんな状況じゃ、どうしようもねぇ。諦めた、諦めたよ。あのメスガキのことは諦めた」。それから、ふーっと溜め息をつく。「好きにしろ。手を捥がれようが脚を捥がれようが、ゴミみたいに放り捨てられようが文句は言わねぇよ」。

 と、そこまで話してから。いきなり、何かを思い出したとでもいようにして表情を変えた。なんとなく、思い残しというか、憂慮、鬼胎、そういうものを感じさせる表情だ。どうでもいいけど鬼胎って単語、字面ちょっと凄過ぎない? 明らかに鬼胎という意味を宿している単語のそれではないでしょ。

 それから、ちょっとの間、何かを思い詰めるように俯いていたのだけれど。また、デニーの方を見上げた「ただ……」「ほえほえ?」「ただ、一つ、言い残したことがある」。

 デニーはきょとんとした表情をする。「言い残したこと?」「そうだ」「なになに? 何を言い残したの?」デニーは興味津々といった具合でリチャードの方に身を乗り出す。

 リチャードは口を開いた。ただ、そのまま、何も言わないで口を閉じる。その後で、ちらと視線を動かした。デニーの背後、ずっとずっと遠く。何重も何重も、格子によって隔てられて。その内側、浮かんでいる虹色のあぶく。つまり、真昼がいる方向に「あいつには聞かれたくねぇな」「え? あいつって、真昼ちゃんのこと?」「ああ」「あははっ! だいじょーぶだよ! 真昼ちゃんはさぴえんすなんだから。あーんなに遠いところにいたら、なーんにも聞こえないよ」「まあ、そうだろうけどな。ただ、罷り間違っても聞かれたくねぇんだよ」。

 罷り間違うって言葉、日常生活で聞くの結構レアだよね。まあ、今のこの時間を日常生活っていってもいいのか微妙だけど。それはそれとして、リチャードは視線をデニーに戻す「もう少し近くに来てくれよ」「ええー?」「いいだろ? 俺はこんな状態なんだ。もう一山いくらの安っぽい拳銃だって出せやしねぇ。安全だよ、全然安全だ。だから、少しくらい近くに来てくれよ」。

 「んー、だいじょーぶかなあ」「大丈夫だよ」「ほんとーに?」「ああ、本当だ」「ほんとーのほんとーに?」「本当の本当だよ」。この感じ。もう、明らかに、絶対に大丈夫ではないが。とはいえ、確かに危険はどこにも見当たらない。リチャードは、あらゆる方法で、何重にも何重にも縛り付けられている。デニーを殺したくても、どうしようもないはずだ。だから、デニーは「じゃ、ちょっとだけね!」とかなんとか言いながら近付いていく。

 「はい! これでどーお?」「もう少し」「これでどう?」「もう少し」「これでどう?」「もう少しだ」「ええー? じゃあ、これでどーお? もうこれ以上は近付けないよ!」その距離は、もう一ダブルキュビトまで迫っていた。ただ、それでも、さすがに。デニーはそれ以上は近付くつもりはなかった。もしも、顔と顔と、すれすれまで近付いてしまえば。何かあった時に取り返しがつかないことになってしまうから。

 「ああ、そこでいい」とリチャードは答えた。「言い残したこと、教えて!」とデニーが返す。「ああ、そのことなんだが」リチャードは、一度、言葉を切る。「さっき、俺の負けって言ったな。あれは嘘だ」こらえ切れないとでもいうように、にやっと笑う。明らかに、敗者のそれではない表情で。むしろ勝者のそれとしかいいようがない表情で。「本当はな……」そして、デニーに言う「俺の勝ちだよ」。

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