第三部パラダイス #44

 さて。

 さて。

 ところで。

 一方の、リチャードはどうしていたのだろうか。そこら中に飛び散ったアビサル・ガルーダのアンチライフ・エクエイション。寄生していた、全ての、全ての、ゾクラ=アゼルが、今、リチャードを閉じ込めておくだけに。封印の球体のためだけに、その一箇所に聚集していた。そうして出来上がった球体。ぐずりぐずりと蠢く、あらゆる種類の「死」、あぶく、あぶく、あぶくが生まれては消えるその呪詛の球体の中に、まだ、リチャードは、閉じ込められたままでいた。

 だずん! だずん! 音が聞こえている。リチャードは、何度も何度もショットガンをぶっ放して拘束から逃れようとしていた。だが、ショットガンではあまりにも力不足であった。確かに、ペレットが飛散するたびに、ゾクラ=アゼルの一部は吹っ飛ばされてはいたが。それでも、アビサル・ガルーダという強大な生き物に寄生していたゾクラ=アゼルの量は、そのような小規模な爆発によって全滅させるにはあまりにも大量過ぎた。

 このままでは脱出は不可能だ。別異を取志する必要がある。他の方法を選択する必要がある。そのようなわけで、リチャードは……暫くの間、抵抗を、完全に停止した。

 ショットガンの音は戦場に鳴り響かなくなった。ゾクラ=アゼルは、そのまま、一切の抗いを受けないままで、リチャードのことを包み込んでいる。ぐぼりぐぼりと音を立てながら、その身体を咀嚼し、今にも飲み込もうとしている。リチャードは、諦めたかのように思えた。それは、ゾクラ=アゼルの勝利であるかのように思えた。ただ、いうまでもなく……リチャードが。甘やかされ切った傍若無人な子供が。「諦める」などという殊勝な単語を知っているわけがない。

 その、暫くの間が、過ぎた後で。ユニファルテの百日天下のような、支配と平穏との一時が過ぎた後で。唐突に、ゾクラ=アゼルの全体が光を放ち始めた。それは……ゾクラ=アゼル自体が輝いたというわけではなかった、その中にいた者が、リチャードが輝いたのだ。

 まるで漫画に描かれたかのように大袈裟な光。はったりじみていて、馬鹿馬鹿しいほどにオーバー・アンド・オーバーで。それは要するに、新しいライフェルド・ガンが紡がれる時の光であった。役立たずのショットガンではない、全く別の、反逆の作法を紡き出す光。

 そして、光が、ゾクラ=アゼルの胃袋(比喩的な表現です)の中で、一つの形状をとる。そして、リチャードは、その形状の、その引き金に、指を掛ける。そして、リチャードは、まるで、自分の気に食わないもの全てに中指を突き立てるかのようにして、その引き金を、引く。

 ごぶどぶっ、と、いう、凄まじい音がした。本能的な拒否反応を、生理的な嫌悪感を、否応なしに引き起こす音。それは例えば、肉も骨も腐りはてた死骸の腹を、一気に突き破ったような音だった。そうして、そのような音を立てて……ゾクラ=アゼルが作り出した球体を、一発の弾丸が貫いた。

 いや、それは弾丸というにはあまりにも大きいものだった。どちらかといえばミサイルといった方が正しいだろう。というか、実際にミサイルだった。光によって紡がれたミサイルだった。全長は一ダブルキュビト弱といったところ。尾翼は、最初は折り畳まれているが、発射後に展開するフォールディング・ファン・タイプのもの。ポンっという感じ、ゾクラ=アゼルから外側に放り出されて……そして、そのまま飛んでいく。

 真っ直ぐに、真っ直ぐに。寸刻、上空に向かって突っ走っていったが。十ダブルキュビトほど飛んだところで、急に、くるっと旋回した。その飛行の方向は完全に逆転して。今度はもと来た方向へと飛来する。

 下へ。

 下へ。

 憐憫も。

 容赦も。

 なく。

 そのミサイルは。

 ただ一点を目掛けて。

 墜落、を、していて。

 それから……ゾクラ=アゼルから、一ダブルキュビトほどの距離に到達した時点で。咲き誇る花束を投げ捨てるかのように、ああ、グロリア、グロリア、晴れやかに爆破した。その爆風は、まるで何者かの意思によって完全に制御されているかのように、ただただ一つの方程に向かって。つまり、ゾクラ=アゼルの方程に向かって降り注ぐ。

 暴虐だった。あるいは徹頭徹尾の、狷介なほどのヴァイオレンス。その爆発のエネルギーは、あたかも礼拝堂のステンドガラスを叩き割る反抗期のデリンクエントのようなやり方で、その先にある全てのものに対して排除の論理を振り翳す。暴力、暴力、暴力。清々しいほどに、ただただ、明るい暴力性。

 いうまでもなく、そのような暴力には潜勢力などない。なぜというに、それは常に現在でしかあり得ないからだ。いうまでもなく、そのような暴力は死者ではない。なぜというに、それは常に生きている者によってなされるからだ。それゆえに、そのような自由、強者のみに与えられる自由は獣である。

 その獣は、ゾクラ=アゼルを食らう。食らう、食らう、食らう。ライフェルドは後悔などしない。ライフェルドは不安を抱かない。なぜなら、愚かだからだ。愚かな者だけが真実の意味において自由になりうる。ライフェルドは過去を振り返らない。ライフェルドは未来を見つめない。つまり、創造への反逆は潜勢力の中にはあり得ない。潜勢力は賢しら。そして、賢しらを完全に破棄すること、それだけがゾクラ=アゼルを殲滅しうる力だ。

 ライフェルドの光が。

 それを、照らし出す。

 あらゆる潜勢力は。

 あり得たかもしれない。

 あらゆる、死者の影は。

 ただ。

 ただ。

 獣の力の前に。

 消え去って。

 その内側から。

 たった一人の。

 現勢力が。

 現われる。

 要するに何がいいたいのかといえば。ミサイルの爆発によって、ゾクラ=アゼルは跡形もなく吹き飛ばされたということだ。正確にいえばゾクラ=アゼルの欠片に過ぎないとはいえ……それを、たった一度の爆発で、ここまで完全に一掃するとは。その爆発はどれだけの威力を有していたのだろうか。

 その後。たった一人、リチャードだけが立っていた。無傷なる体躯のままで。無謀なる態度のままで。「がっ……はぁっ!」と、いかにも苦しそうに息継ぎをする。確かに、ゾクラ=アゼルの内側では呼吸は不可能だろう。ノスフェラトゥにとって呼吸は不可欠ではないにせよ、しなければしないで苦しいといえば苦しい。

 そして、その腕に持っていたのは。どう見ても把持型生物携行式対龍ミサイルシステムとしか思えない形をしたライフェルド・ガンであった。恐らくはハウス・オブ・ラヴ製のEZE-21、通称テラピムをモデルにしているのだろう。まるで、ちょっと小さめの土管みたいだった。一.五ダブルキュビトくらいの長さ、五十ハーフディギトくらいの直径。普通の人間であれば抱えて歩くような巨大な円筒形を、リチャードは、軽々と片手で掴んでいる。

 先ほどのミサイルはこのミサイルシステムで発射した物だということだ。とにもかくにも、そのようにして、リチャードはゾクラ=アゼルの拘束を解いたのであって……「クソが、クソが、クソがぁああああああああっ!」という叫び声とともに、そのミサイルシステムを投げ捨てた。

 ぼんっとでもいうようにして、その光の塊は破裂する。ミサイルシステムは、跡形もなく消えてなくなる。「クソ野郎が! てめぇ、馬鹿にしやがって!」と咆哮するリチャード。それから、「殺す殺す殺す! ぶっ殺してやる!」と叫びながらデニーの方に視線を向ける。

 そうして。

 その後で。

 ようやく気が付く。

 目の前に現れわた。

 王。

 の。

 姿。

 に。

 リチャードは、ただ、ただ、黙って、見上げていた。天に現われた大いなるしるし、主の怒りのしるしのようなその姿を。高く、高く、壮麗な九つの金の燭台のように高く、笑い声を上げているその姿を。その姿は、ああ、確かにわざわいであった。リチャードは、その耳元で誰かが叫び声を上げるのを聞いたような気がした。わざわいだ! わざわいだ! その者の前に立つ人々はわざわいだ! なぜなら、その者は、主によって力と位と大いなる権威とを与えられ、やがて生き返るべき子羊を屠ることを許されたのだから。リチャードは、本能的な戦慄とともに、ただ、ただ、立ち竦んでいることしか出来なかった。

 口元には笑みが浮かんでいる。しかしながら、その笑みは、今までのそれとは異なるものになっていた。今までの笑みは追い詰める者の嘲笑だった。一方で、その笑みは、追い詰められた者の恐怖、痙攣にも似た笑い方であった。

 リチャードは、それから。

 ようやく、その口を開く。

 そして。

 独り言のように。

 こう、言葉する。

「ルイ・デナム・フーツ。あるいは「磁器で出来た白い蛆虫」。ナシマホウ界とマホウ界とを合わせても、たった十四人しかいないといわれるナイン・ホーンドのデウス・ダイモニカスの一人。現在ではターナー・ジョージ・ボートライトとの契約によってコーシャー・カフェの幹部の一人として拘束されているが、過去においてはパンピュリア神国の王領のうちの一つ、マイアグロスを支配する魔王だった。ある日、突然、なんの理由もなく、自らの王領に住む生き物を蟻一匹残すことなく雑草一本残すことなく皆殺しにしたことから、その別名は「民のいない王」。その王領は、未だに、生命の一欠片さえ見いだすことのない死の場所であり続けている。ルイ・デナム・フーツ。恐らくは……恐らくは、レノア・ネヴァーモアとともに、この世界で最強のデウス・ダイモニカス。」

 そう、要するに。

 そういうことだ。

 デニーは。

 真実の。

 意味に。

 おいて。

 魔王。

 いやー、びっくりですね! まさかデニーが人間ではなくデウス・ダイモニカスだったなんて! まあ、ここまでちょいちょいそうであることを文章中で匂わせていたのだし。よおおおおおおおおおおおおっぽどサッシー・バッドでない限りはお気付きになっていたでしょうことでございまして。今更、こんな風に「驚きの新事実」的に提示されても、読者の皆さんとしても反応に困るところだろうが。とはいえ、まあ、まあ、こちらとしましても、この事実はこの物語の中でも最も重大な事実であるというていでやっておりますので、そこら辺はそういう感じでお願いします。

 とにもかくにも、デニーはデウス・ダイモニカスであった。しかも、デウス・ダイモニカスの中でも最も強力とされる九本の角が生えたデウス・ダイモニカス。ちなみに、リチャードの独白では、デニーは最強のデウス・ダイモニカスであるように言及されているが。実際は、その上にビリビリベンベンというちょっとヤバいレベルの力を持つデウス・ダイモニカスがいる。ただ、とはいえ、ビリビリベンベンは例外的な存在であるので、デニー(あとレノア)が最強であるという認識はほぼ間違っていないといっても構わないだろう。

 リチャードが怪物であるように、デニーも、やはり、怪物であった。いや、もしかしたらリチャードが怪物である以上に。グッド・シェパードの噂を知っているか? 第二次神人間大戦時、四柱の神々と十四人のデウス・ダイモニカスとが、神々の陣営を裏切って人間の陣営についた。その十四人のデウス・ダイモニカスで作られた特殊部隊がグッド・シェパードだ。グッド・シェパードの噂を知っているか? グッド・シェパードがどのような極秘任務をこなしてきたか知っているか? その部隊に所属していたデウス・ダイモニカスが、デウス・ダイモニカスでありながら、一体、何柱の神々を殺害したのかということを知っているか?

 デニーは。

 傾けられた。

 運命の、冷たい絶望の。

 九つの、金の鉢、から。

 流れ出した。

 しるしを行なう。

 悪霊の霊のように。

 笑って。

 笑って。

 笑って、いた。

 もう、デニーは、完全な状態に戻っていた。リチャードに負わされた傷は、もう跡形もなくなっていた。左脚は、まあ、今のデニーには存在しなかったが。折れてはいけない方に折れていた右腕は、元通り、真っ直ぐになっている。それに、それだけではなく、全身を蜘蛛の巣のように這い回っていたはずの罅割れ。魄に与えられた、あのダメージが、いつの間にか、綺麗さっぱり消えてしまっていた。本当の力を取り戻した瞬間に、あの程度の傷、呪文一つ唱えることなく治癒してしまっていたらしい。

 そして、そんなデニーが……ふ、と。リチャードに視線を止めた。ついさっき放り捨てたままで、すっかり忘れてしまっていたおもちゃのことを、ようやく思い出したかのように。

 まるで、甘える子猫みたいにして、ゆらり、ゆらり、と、体をくねらせながら。遥かな高みから、地上のリチャードを見下ろしているデニー。くすくすと笑いながら、こう言う。

 「どおお! ロード・トゥルース!」「何がだよ。」「ポップコーンみたいだと思わない!?」「は? てめぇ、何言って……」「糖蜜に浸した、あまーいあまーいポップコーンみたいだと思わない!?」そう言って、デニーは、また無邪気な子供のように、けらけらと笑い転げ始めた。

 本当に笑い転げていた。ふわふわと浮かんでいる上半身。くるくると、空中で回転していて。それを見ながら、リチャードは呟く「クソが……意味分かんねぇよ」。

 ひとしきり笑い終わると、デニーは、「はーあ」と、溜め息であるとも溜息でないともいい切れないような溜め息をついて。それから、きゅるん、とでもいう感じ。上半身を、真っ直ぐの姿勢に戻した。

 ふわり、まるで、天使の羽がこの星の表面を撫でるみたいに、柔らかく、柔らかく。デニーの上半身が、リチャードがいる地上に向かって降りてきた。とはいっても、まあ、地上まで降りてきたというわけではなく、そこから五ダブルキュビトほどの高さまでではあったが。

 デニーの下半身は、上半身とは全く関係ないもののように。というか、その従属者ででもあるかのように。一つの、純粋な、悪意ある、沈黙として、その巨体をくねらせている。

 デニーが、リチャードに、聖歌を歌うように言葉する。「すっごーい、ロード・トゥルース、デニーちゃんのこーそくから、もう自由になっちゃったんだね」「ああ、まあな」「ゾクラ=アゼルはどーしたの? もう、どこにもいなくなっちゃったみたいだけど。全部、全部、ばばばーんってしちゃったの?」「ああ、まあな」「わあ、やっぱり、ロード・トゥルースって、とってもとっても強いんだね!」「ああ、まあな」。

 リチャードは、一度抽出したコーヒー豆を、もう一度使って抽出したアイスコーヒーのような態度で答えた。その声にはほとんど感情がない。努めて無表情であろうとしている。努めて冷静であろうとしている。ただ、その味のないコーヒーを舌の上に乗せて、注意深く味わってみれば……その奥の奥。ただただ苦々しいだけの警戒感が透けて見えている。

 ただ、そのようなリチャードの感情を斟酌するようなデニーではなかった。相も変わらずくすくすと笑いながら。ひらりひらりと風に吹かれている雪片のように揺らめている。「すごい!」「すごい!」「ロード・トゥルース!」「さすがだね!」「あははっ!」「でもね!」「ロード・トゥルース!」「見て!」「見てよ!」「デニーちゃんのこと!」「デニーちゃんの!」「ほんとーのほんとー!」「強くて!」「賢い!」「デニーちゃん!」「あははっ!」「ねえ!」「ロード・トゥルース!」「あのね!」「聞いて!」「もう!」「大きな鎖は!」「どこにもないんだよ!」「もう!」「大きな鎖は!」「どこにもない!」それから……リチャードが見上げる、その先で。また、るるんと姿勢を戻す。

 「さーて、ロード・トゥルース!」デニーが、両方の腕を、大きく大きく広げて見せながら叫んだ。捕まえたばかりの蜘蛛の足を、一本一本捥いでいく子供のように楽しげだ。「今、ロード・トゥルースには、二つの選択肢がありまーす!」。

 そう言いながら、リチャードの目の前に右手を差し出して見せる。その右手、人差し指と中指と、二本の指が突き立てられていて。それから、デニーは、左手の人差指で、そのうちの人差指を指差した。「まず一つ目がねーえ、愛と平和! 友情の心をもって握手すること! お互いの違いを乗り越えて分かり合うことです! つ、ま、り! デニーちゃんは、このまま何事もなく、真昼ちゃんをおうちに帰してあげたいわけでしょお? でも、ロード・トゥルースは、そういうわけにはいかないわけだよね。ロード・トゥルースは、よーへいさんで、REV.Mのみんなに雇われてて。それで、REV.Mのみんなからお金を貰うためには、真昼ちゃんを連れて帰らなきゃいけなくて。こーゆー、状況の違い、立場の違いを乗り越えて……ねーえ、ロード・トゥルース、みんな、みんな、分かり合えると思うんだよね。ちゃーんとお話をして、お互いを分かり合えば。どんなに違っていても、みんな、みんな、分かり合えると思う。デニーちゃん、そう思うんだ」。

 デニーは、にぱーっと笑う。九つの目で。大顎の口で。まるで子供みたいに純粋な笑顔で笑う「さっき、キラーフルーツと電話でお話ししてね。ちょーっと、色々、そーだんしてみたんだけど。キラーフルーツは、んー、ある程度はってゆーことだけど、ロード・トゥルースのよーきゅーを聞くつもりがあるみたいだよ。よーするにさーあ、ロード・トゥルースは、お金が欲しいわけでしょお? ロード・トゥルースが本当に欲しいものは、真昼ちゃんじゃなくてお金なわけだよねーえ。そ、れ、な、ら! 真昼ちゃんを渡すことは、もーっちろん出来ないわけだけど。その代わりに、お金なら、払ってあげることが出来るってゆーこと! まー、まー、いくらでも払えるよーってわけじゃなくて、いくらいくらってゆーのは、やっぱりそーだんしないといけないわけだけどね。それでも、こーすれば、デニーちゃんは真昼ちゃんのことを無事におうちに帰してあげられるわけだし、ロード・トゥルースは欲しいものを手に入れることが出来るわけだよね! ね、ね、どーお? とーってもないすあいであじゃないですかあ!」。

 そう言うと、デニーは、自分の話したそのアイデアで自分が嬉しくなってしまったとでもいうみたいにして。大喜びといった感じで拍手をし始めた。手のひらと、手のひらと、ぱちぱちぱちと白々しい音を立てて打ち鳴らされる。

 一方のリチャードは。相変わらず、自分と同じくらいの大きさの体と自分と同じくらいの鋭さの牙とを持つ自分と同じ種類の生き物と相対している肉食の獣のような顔をして、デニーのことを見上げていたが。やがて口を開く。

 「それで?」「ほえほえ?」「二つ目は? 俺には二つの選択肢があるんだろ? その、二つ目の選択肢はなんなんだよ」「あははっ、そんなの決まってるじゃーん」デニーはそう言うと、ぱっと開いた右の手のひらを口のところに当てて。軽く首を傾げてから、こう答える「殺し合いだよー。デニーちゃんと、真昼ちゃんを巡って殺し合いをするってゆー選択肢」。

 リチャードは、その答え。

 ふんっと、鼻先で笑って。

 それから。

 独り言のように。

 言う。

「ま、そりゃそうなるだろうな。」

 それから、まるで口を縫い付けられた聾唖者のように黙ってしまった。暫くの間……何かを考えているようだった。いや、考えているというよりも、予め決まっている答えを口にすること、躊躇っているかのようだった。リチャードにしては珍しいことだ。躊躇するなんて。ただ、リチャードは馬鹿ではない。目の前にしているものがどれほど強力な存在であるか。そして、今から自分が口にする答えがどれほど危険な答えであるか。そういうこと、十分に承知しているのである。

 とはいえ、これは相手がいる話だ。いつまでも先延ばしにすることが出来るわけではない。デニーが、その場でくるんと回転して。逆さまになったままで口を開く「さあ、さあ、ロード・トゥルース!」「あ? なんだよ」「どーしますか! どっちにしますか! デニーちゃんのおすすめはねーえ、もーっちろん、愛と平和! 世界に遍くラヴ・アンド・ピース! だよっ!」。

 「あのな、デナム・フーツ」「うんうん、なあに?」「俺が、そっちの選択肢を選ぶと思うか? 俺が、てめぇらの飼い主に尻尾を振る馬鹿犬だと思うか? なあ、おい、デナム・フーツ。俺が、アップルの連中からお情けのお恵みを貰うようなやつだと思うのか?」リチャードはそこまで一気に言ってしまうと、一度、口を閉じた。それから、その後で。一つ一つの言葉、噛んで含んで聞かせるようにして、こう言う「俺は、そんなことをするくらいなら、てめぇと殺し合いをする方を選ぶぜ」。

 その答えに、デニーは。ぴんと立てた左手の人差指の先、そっと左頬に当てながら「んー」と言った。それから、逆さまになっていた姿勢を、ちゃんとした、頭が上、星が下、の姿勢に戻して。それから「デニーちゃん、とーっても残念」と続ける。いうまでもなく、大して残念そうな様子ではなかった。分かっていた、リチャードがなんて答えるかなどということは。ちょっと、念のために聞いてみただけだ。「分かり合えるって思ったのに」。これもいうまでもないことであるが、デニーは、分かり合えるなんて欠片も思ってはいなかった。

 デニーは、軽く、両腕を広げてみせて。お手上げとでもいいたげなポーズを取る「でも、しょーがないよね」。その後で、ぽんっという感じ、自分の顔の前で両手を合わせる「ロード・トゥルースにはロード・トゥルースの事情もあるわけだし。それに、世界があんまり綺麗で、全部全部、思い通りになっちゃったら、やっぱり、なんだか嘘みたいって思っちゃうもんね」。

 そして……ふっと。春の一番最初の日に、春の一番最初の風に乗って、明日起こるとてもとても不幸なことの前触れとして誰かのことを訪れた、黒い色の翅の蝶々のように。デニーは、上を向いた。右の手のひらを右の大顎の近くに。左の手のひらを左の大顎の近くに。それぞれ持ってくる。まるで、手のひらで拡声器を作ったみたいにして。それから、すうっと息を吸う。

 それは。

 まるで。

 九人の御使いが。

 九つの金の角笛を。

 荒廃と大いなる滅亡の角笛を。

 ただ。

 一時に。

 吹き鳴らしたかのような。

 激しい。

 激しい。

 咆哮。

 デニーが、唐突に叫び声を上げた。いや、それは叫び声というよりも、むしろ音楽といった方がいいかもしれない。死者の骨を削り出して作り上げたフィストゥラ、秩序も調和もない、論理的な調節が不可能な、死の舞踏のための楽器。それを高らかに吹き鳴らしたかのような音楽。そして……上半身だけではなかった。下半身もまた叫んでいた。ぽっかりと開いた、地獄へと至る陥穽のような口を開いて。その巨大な蛆虫は絶叫していた。

 そのような、永遠の罪、永遠の死、の、音楽。デニーの二つの半身は、上に、上に、向かって、叫んだ。そして、その音楽は、赤のドーム、この場所を閉じ込めている結界に反射して。あたかも、さんざめく光の雨のようにして地上へと降り注いでくる。

 言葉ではない言葉。混沌それ自体の記号。理解出来ない差異。この音楽がこの大地を洗礼する。それは恩寵だ。主から授けられる無償の賜物。なんの自由もなく、なんの意志もなく、偶然でさえなく、決して逃れられないやり方で強制される絶対的な召命。

 そう。

 召命。

 全地の王。

 万軍の王。

 いと高きところ。

 に。

 いまします。

 魔王。

 に。

 よる。

 諸々の民に。

 対する召命。

 そうして、その後で……あたかも「いのちの書」に書かれた名前を一つ一つ読み上げていくかのような絶叫、に、呼応する。何が? アーガミパータが。アーガミパータというこの地獄自体が、散乱する魔王の歌声に反応を示したということだ。

 荒野が、凍り付いた荒野が、蠢動を開始する。最初は僅かだった。注意しなければ気が付かない程度、密やかな期待のように些喚く。それが、すぐさま殃禍に転変する。この星そのものが、溺れ、慄き、喝采し、褒め称えているかのような、激甚なる震災。例えるならば、打ち鳴らされる戦鼓みたいに、轟きを響かせる軍鼓みたいに。世界が根底からゆすらぐ。

 ああ、まるで激しい怒りのようだ。魔王の敵、悪しき者、呪われるべき者、への、憤りであるかのようだ。あまりに凄まじいアース・クウェイク、に、リチャードは、さすがに立っていられなくなってしまう。「ちっ!」と舌打ちをしてから、ふわりと宙に浮かび上がる。

 羽が、セミフォルテアによって、夢の内側に差し込んでくる月光のように輝きを放っている。ノスフェラトゥは、このように、羽に満たしたセミフォルテアの力によって飛行・浮遊を行なうことが出来るのだ。さて、それはそれとして……災害はこれで終わりではない。

 自らの激怒、自らの憎悪、に、耐え切れなくなってしまったとでもいうようにして。荒野の表面に亀裂が入ったのだ。あたかも一枚の地表の下、に、どろどろと、ぐつぐつと、混濁し、沸騰し、狂気のような暴力への渇望によって爆発しそうな何かが、蠢いているかのように。いや……比喩ではない。なぜ、なぜ地震は起こる? いうまでもなく、その下に、何かがいるからだ。今にも噴火を起こしそうな何かがいるからだ。亀裂は、次第に、次第に、広がっていく。その下で蠢いているものを隠し切れなくなってしまうほどに広がっていく。

 と。

 次の瞬間。

 とうとう。

 それが。

 爆発する。

 あちらで、こちらで、その下に見られてはいけないものを閉じ込めていたはずの薄皮一枚が弾け飛ぶ。硬く硬く凍り付いていたはずの地表が粉々に砕けて……その下から、現われる。

 身を捻じらせ、ひねり、よじり、のたうつように。大地そのものを破壊して、悍ましく、惨たらしく、凄まじい、怪物が、現われたのだ。それは、例えば……真聖なる光の洪水。どこまでもどこまでも純粋な、命の輝き。本当は、この世界よりも、遥かに遥かに高い世界の生き物であるはずの生き物。それが、上から放たれた光の照射が一枚の紙の上に形を描き出すかのように、一つの姿に仮託されて具現する。そういう、種類の、何か。

 違う、違う、そうじゃない、それは、この世で最も邪悪な力……蛆虫だ。そう、そうだった。この世界の肉の内側に寄生していた、たくさんの、たくさんの、蛆虫。それが、この世界の皮膚を食い破って、その外側に出てきたのだ。

 しかも、一匹ではなかった。どずんっ! どずんっ! ずるり、ずるずるずる。一匹、二匹、三匹、それから先はたくさん。数え切れないほどの蛆虫が、地面を突き破る。禍々しい光を放ちながら、陽炎のようにぐらぐらと揺らぐ。

 蛆虫が。

 蛆虫が。

 蛆虫が。

 現われる。

 恐らくは、その全長で五十ダブルキュビトを超えるだろう。十ダブルキュビトほどもある直径。真っ白な、罪の終わりと救済とを告げる白鳥のように白い色をした、光を放ちながら。無数の蛆虫が、地面から突き出している光景。

 それぞれの蛆虫が、全身をぐねぐねと動かして、天空に頭を向けて、穴から現われた全身を緩やかに伸ばしている。虚無へと繋がる穴のような口をがりんがりんと噛み合わせながら、周囲を威嚇しているみたいに揺らめいている。

 デニーに似ている。というか、デニーの下半身に似ている。四本の腕のようなものは付属しておらず、ただただ蛆虫であるだけだが。それでも、デニーがアーガミパータという地獄に産み付けて、やがては、その卵から孵った、幼虫のような姿をしている。

 ただし、よくよく見てみると、それらの蛆虫は……蛆虫ではなかった。蛆虫に似た形態をとっているだけで、実際は、一匹一匹の蛆虫の、そのそれぞれが、群体であった、集団であった。つまり、それらの蛆虫は、ここ、この場所、この地獄、で、死んでいったあらゆる生き物の生命の残骸を繋ぎ合わせて作り出されたシンセティック・リビングデッドだったのだ。

 ただし。普通、リビングデッドと聞いて思い描くものといえば。既に死骸となってしまっている肉体が腐り果てたままで動いているといったイメージだろう。あるいは、そういう肉体の欠損を繕って、ともかくも見た目は生きているかのように装われているか。どちらにしても、生前、魂魄が宿っていた肉体を利用したものだ。一方で、それらの蛆虫は。そのような物理的な肉体を利用していなかった。ただただ生命であったものの光によって形作られていたのだ。生命力を、魄を、縫い合わせた。

 様々な生き物の、というか、生きていたはずの物の、生命。人間の、グリュプスの、犬の、猫の、羊の、牛の、虫の、魚の、ガジャ・ラチャの、ウパチャカーナラの、グラディバーンの、ヴェケボサンの、ユニコーンの、メルフィスの、ダガッゼの、舞龍の、ノスフェラトゥの、デウス・ダイモニカスの。あるいは……神々の生命さえも混じり合っていて。それらがぐちゃぐちゃになって、ただただ、畏怖と崇敬と、それに身震いするほどのヌミノーゼの感覚を抱かせる、純粋な力の塊となっている。

 要するに。

 それらの。

 蛆虫は。

 生命の。

 成れの果て。

 さて、そのようにして。戦場のそこら中に、成れの果ての蛆虫を呼び出したデニー、は、ようやく叫び声を止めた。それから、「んー」と言いながら、満足そうににっこりと笑う。デニーの周囲は……デニーを中心として、数百ダブルキュビトにわたって成れの果ての蛆虫の軍勢によって囲まれてしまった。成れの果ての蛆虫は、それぞれが、あたかも侵入者を破滅させようと待ち受ける破滅の火柱ででもあるかのようにして。がりんがりんと噛み砕くみたい音を立てて威嚇している。

 一方のリチャードは。ついさっきまでデニーのすぐ目の前にいたのに、今となっては、遠い遠いところに追いやられてしまっていた。成れの果ての蛆虫が大地から突き出してくるごとに、その化け物の口が襲い掛かってくるごとに、「クソがっ!」と叫んでその捕食を回避していたリチャードは、デニーを取り囲む軍勢、その外側に追い出されてしまったのだ。

 セミフォルテアの光によって、靦然と、僭上者の態度によって浮かびながら。リチャードは憎々しげに歯を軋らせた。もしもデニーを倒したいのならば。あるいは、デニーのすぐ近く、ふわふわと、大事に大事に守られている真昼のことを奪取したいのならば。まずは、この軍勢を乗り越えなければいけないということだ。

 デニーは、そのようなリチャードのこと、軍勢の最奥で見ていた。それから、あははーっと笑った。大きな大きな声で「ロード・トゥルース! ずーいぶん! とーくに! いっちゃったね!」と呼びかける。それから「さあ! さあ! どーでしょーか! ロード・トゥルースは! このしょーがいを乗り越えて! デニーちゃんのところまで辿り着けるでしょーか!」と続ける。

 いうまでもなく、デニーには馬鹿にしたつもりなどない。なんとなく楽しくなってしまったので、その楽しいという気持ちを表わすために、楽しげにしているだけだ。だが、リチャードからしてみれば、もうこれは完全に馬鹿にされているとしか思えない仕打ちである。ということで、リチャードは一瞬逆上しかけた。「クソ野郎が……!」と口走る。

 しかしながら、次の瞬間、驚くべきことが起こった。なんと、なんと、なななんと! リチャードが冷静になったのである! あのリチャードが!

 まるで深呼吸でもするように、大きく息を吸って、大きく息を吐いて。それから、にいっと笑った。その笑いは、なんというか、ただ笑っているだけの笑いではなかった。強がりだとかそういうのではなく、その裏側にきちんとした裏付けがありそうな。つまり、このようになることを、完全に予測していたとでもいいたげな笑い方だったのだ。

 「そうか、なるほど」と言う。不敵としかいいようのない顔をしたままで「確かに難しいな。俺だけで、てめぇのところまで辿り着くのは」と言う。それから、いかにもわざとらしく、何か考え込むような素振りを見せる。左手、軽く腕を組むような形にして。右手、手のひらを顎を当てて。「お前がそうやって蛆虫どもを侍らせるっつーなら……そうだな、俺にも軍隊が必要だな」。

 そして、リチャードは、揺らめいた。両腕を前に差し出して。少しだけ俯いて。あらゆる生き物から忘却された精霊が瞑想でもするみたいに、そっと、両方の目をつむる。

 すると。

 また、音楽が。

 聞こえてきた。

 ただ、先ほどの、デニーの、地獄における音楽とはまるで異なった音楽だった。まず、最も分かりやすい違いとして、先ほどの音楽は管楽器による音楽であったが、今度のこの音楽は弦楽器による音楽だった。どこまでもどこまでも尾を引く張り詰めた黎明……宇宙の果て。遠い星。星と星とが孤独のうちにすれ違い、その冷たい引力が奏でる天球の音楽、みたいな、音楽。

 ハルモニア。それは俄かには信じがたいほどの調和であった。例えるならば神秘的な数式のようだ。完全性、一体性、この世界の根底に流れている変わらざる法則。一つ、二つ、三つ、四つ。四つの天体の軌道が、あたかも回転する同心円におけるいとも空虚な典礼のごとく均衡する。何者も座ることの許されていない玉座は美しい。摂理機械が放射する栄光の論理は美しい。

 ああ……その音楽は……実は、リチャードが奏でているものだった。ノスフェラトゥは、人間が会話する時にそうするように、声帯を震わせて声を出す以外に。もう一つの音声記号の方法を有している。それが、今、リチャードが歌っている歌の方法だ。

 ノスフェラトゥの喉の奥には四本の弦のような器官がある。その弦を、舌の、右側と左側と、まるで二本の弓のように利用して弾き鳴らす。これがノスフェラトゥの狩りの音楽だ。ここまで何度も何度も書いてきているように、ノスフェラトゥは、基本的には孤立捕食種だ。しかも、仮に集団を形成するとしても、その集団内の意思疎通はノソスパシーで充分であるはずである。それにも拘わらず、ノスフェラトゥは、狩りをする時に、この弦楽器の音楽を奏でる。この弦楽器の音楽によって狩りの獲物を追い立て、狩りの仲間と記号の交換を行なう。

 なぜこのような発声器官が必要になってきたのかということは未だによく分かっていないが。現時点で一番有力な説は魔学的な理由によるものという説だ。つまり、ノスフェラトゥが魔法、あるいはそれに似た魔学的な影響力を行使する時に、このような音声記号を利用していたのではないかということである。

 まあ、そういう砂塵の櫂はどうでもいいことでありましてですね。ここで重要なのは、リチャードの歌ったその歌が、ノスフェラトゥにとっては狩りの歌だったということだ。それでは、その歌のモチーフとなる動機は一体何か。いい換えれば、この「狩り」において、その歌はどのような役割を果たすものであるか。

 まさか恫喝がその旋律的衝動というわけではあるまい。リチャードとて、デニーが、ノスフェラトゥの歌に対して怯えなどという感情を抱くとは考えていないはずだから。それではこれは、呪文だとか聖句だとか、そのたぐいの記号なのか? 何かをインフルエンスするための、一続きの徴表なのか? どうやらそういうわけでもないようだ。リチャードが歌ったその歌に対して、周囲の魔学的エネルギーはそよとも反応を示さない。

 それでは、その音楽は言葉なのか? 意思疎通、精神交流、なんでもいいが。ある個体とある個体とが、ある疎隔とある疎隔とが、内的に内蔵化された意味器官をコミュニケートするための言葉であったのか?

 だが、しかし……ここには誰もいないではないか。リチャード以外には。デニーと真昼と、その二人しかいないではないか。人の手で作り出された紛い物ではなく真実のノスフェローティ。その弦楽器によって言葉を伝えなければいけないような生き物は、ここにはいないではないか。

 んー。

 まあ。

 そうだね。

 確かに、その通りさ。

 ここには誰もいない。

 でも。

 ここではない場所には?

 空が……空が揺らいだ。あたかも現実は現実ではなく、夢もまた現実ではないと囁いているかのように。全てのvirtusはvirtualであり、それゆえに円形の運動が一番美しいのだと密やかに笑うかのように。天空が、ゆっくりと些喚いた。オービタル・レゾンナンス。重力と重力とが共鳴しているみたいだ。リチャードの、その歌の、その振動数に、天空が共鳴している。いや、それは……つまり、天空の紛い事をしている、赤い結界が共鳴している。

 赤が、赤が、赤が、歌っている。宇宙の諧調。この戦場を外界から隔離し、それゆえに、この戦場の天球それ自体として成立している半球が伴唱していた。リチャードに。リチャードの狩りの歌に。四分円。二本の紡錘。真聖幾何学によってのみ導き出されうる星震学の原理。ああ、サルバトール・ムンディなのか? この世界の支配者にこの世界が傅いているのか? そうであるならば、それは讃歌であろう。それは間違いなく天体の喝采であろう。

 生命と。

 宇宙と。

 同心円を描いて。

 それは。

 光輝と。

 燦然と。

 回転する不動者の音楽。

 なんか、こう、あまりにも馬鹿馬鹿しいポエジーによって、何が何だかさっぱり分からない描写になってしまったが。要するに、何が起こったのかといえば、リチャードが奏でたその音楽と全く同じ音楽によって、結界の障壁として機能している赤いドーム状のそれが振動し始めたということである。

 だったら最初からそう書けよという話だが、それはまあそれとして。この現象には一体なんの意味があるというのだろうか。天球の全体が歌ったところで、この天球の下には、さっきも書いたように、聞く耳を持つものは三人しかいないのだ。そして、その三人が三人とも、リチャードの歌声が聞こえる範囲にいる。この三人のために、ということであるならば、わざわざ天球が歌う必要性もないわけである。え? ああ、そうだ。限定的用法。「この三人のために」、で、あるならば。

 ここで一つ理解しておかなければいけないことがある。天球とは境界であるということだ。それは、ただ単に、精霊の梯子の最上階であるということだけを意味しているわけではない。それは内側の世界と外側の世界との接触面なのだ。

 セディス・ペタ・ヴァイコ。何がいいたいのかといえば、もしもその境界が振動しているのであれば、音楽は、天球の内側だけではなく天球の外側にも聞こえているということだ。そして、それこそが、この現象の真実の意味であった。

 つまり。

 その歌は。

 結界の。

 外側に。

 向けられた。

 メッセージ。

 だったと。

 いうこと。

 あたかも巨大なラウドスピーカーのように機能した。結界は、アクハット平原の全域にわたってリチャードの音楽を鳴り響かせた。最初は……最初は何も起こらなかった。あらゆる出来事がそうであるように。しかし、すぐにそれが起こった。

 とぷん、とでもいうかのように。まるで、水中から見上げている水面に、雪の欠片が一つだけ落ちてきたかのように。赤い結界の表面に一つの波紋が現われた。しゃらしゃらと拡散していくその波紋の中心……何かが、結界に、入って、きた。

 それは人間によく似た形をした何かだった。二ダブルキュビト程度の身長。四肢がある。頭部がある。けれども人間とは異なったところもあった。例えば、それには、二枚の羽が生えている。まあ、当たり前といえば当たり前の話ではあったが。それが現われた位置は、地上から離れに離れたところだったのだから。最も高いところとまではいわないが、数百ダブルキュビト上方だった。なんらかの飛行手段がなければ、そんなところには到達出来ない。

 他にも違いがあった。それは、明らかに、人間的な雑食の生き物ではなかった。とはいえ、草食動物でもなければ肉食動物でもない。そういった、普通の生き物は、これほどまでの殺意であることはできない。これほどまでに完全な、機械で出来た兵器のような、生命の敵であることは出来ない。それは、生命を食う生き物だった。要するに、それは、ノスフェラトゥであった。

 しかも雑種ではない。正真正銘の、純種のノスフェラトゥ。そのようなノスフェラトゥが。リチャードと同じような捕食者の姿、ノスフェラトゥとしての真の姿。結界の内側に入ってきたのだ。

 そうして。

 その後で。

 とぷん。

 とぷん。

 とぷん。

 と、と、と、と。

 と、と、と、と。

 たああああ……

 ざああああああああっ!

 まずは一鬼、一鬼、一鬼、といった具合に。雨の降り始めみたいにして、数鬼のノスフェラトゥがぽつりぽつりと結界の内部に入り込んできた。ただ、そのような状況は長くは続かなかった。その小雨は、すぐに大雨になって。やがて豪雨に変貌した。

 数え切れないほどの、無数のノスフェラトゥが。あたかも機関銃によって掃射された精霊の大群であるかのように結界に突っ込んで来た。天の星のように。海の砂のように。あるいは、それは一つの雷雲のように。結界の上方で大群を形成していた。

 神の力、に、よって、光り輝く翼。美しいヒエラルキア、全ての者がたった一つに調和する天上の位階。それは天の大群衆だった。それは聖徒達の陣営であった。それは、要するに、リチャードとともにいるべく選ばれた、忠実な者達であった。

 リチャードには、軍隊が必要だった。魔王を守護する城壁、幾重にも幾重にも巡らされた城壁を突き崩すことが出来るだけの軍隊が。だから、その軍隊を呼び寄せたということだ。

 数百の。

 数千の。

 ノスフェラトゥの。

 軍隊。

 が。

 リチャードの背後。

 その上空。

 たった一つの、しるしで。

 全てを押し流してしまう。

 大洪水。

 みたいに。

 洪水の比喩これで何回目? もう洪水とクラゲと霹靂と稲妻と、それに災害の比喩は使用禁止にした方がいい気がする。いや、まあ、でも、これ禁止にしちゃうともう何も書けないんだよな。さて、それはそれとしてですね。今、目の当たりにしている、この光景について。一つの疑問が湧いてはこないだろうか。

 それは、孤立捕食種であるはずのノスフェラトゥが、どうしてリチャードの軍隊になり得たのかということだ。どうやって、リチャードは、これほど大群のノスフェラトゥを集めたのか。どうやって、リチャードは、これほど大群のノスフェラトゥを従えることが出来ているのか。

 ちょっと前に少しだけ触れたが、実は、ノスフェラトゥは純粋な孤立捕食種ではない。ごくごく例外的なケースにおいては群れを作ることもありうる。

 これはなぜかといえば、ノスフェラトゥの起源が関係している。ノスフェラトゥは、もともとは、ケレイズィによってフェト・アザレマカシアに対する兵器として作られた生命体であるが。それゆえに、その精神構造の一部分には、軍隊として戦争を遂行するための機能が付加されていたのである。そして、その機能は現在も残存しているのだ。

 その機能によって、ノスフェラトゥは群れを作ることが出来る。また、それだけではなく、その機能を効果的に「説得」することによって、あたかもケレイズィが操作していたかのようにノスフェラトゥを従えることも出来るのである。

 ただし、このような「説得」は困難を極めるものだ。なぜなら、ノスフェラトゥを操作することについて、ケレイズィは使用者ロックをかけていたからである。今までに使用者ロックの解除方法を解明し得たのは通称機関だけであって、しかもそれは謎野眠子の協力がなければ不可能であった。通称機関が持つノスフェラトゥについての情報と、それに、謎野研究所が持つケレイズィについての情報。その二つが合わさって初めて解明出来たのだ。

 現在、「説得」の方法を知っていて、しかもそれを実行出来るのは始祖家のノスフェラトゥに限られている。そしてリチャードは始祖家のノスフェラトゥだ。つまり、リチャードは、アーガミパータにもともと生息していた野良のノスフェラトゥを「説得」することによって、軍隊に仕立て上げたのである。

 ちなみに、余談であるが、始祖家のノスフェラトゥを「説得」することは不可能である。始祖家のノスフェラトゥは、誰からも「説得」されないように誕生した直後に「説得」に関係する精神構造を綺麗さっぱり切除してしまうからだ。そして、この切除もやはり始祖家のノスフェラトゥ以外には出来ない。

 さて。

 その。

 ような。

 わけで。

 かくして……二つのオルケストラが用意された。片方は地獄における無秩序の咆哮。そして、もう片方は、天球で共鳴する光の喝采。互いのコロスは相対しており、ただただ張り詰めた当為の中で、舞台の幕が上がるその瞬間を待ち受けている。

 指揮者から指揮者までの距離はおおよそにして二エレフキュビト。踊れ、踊れ、その距離を踊れ。もちろん、あらゆる行為はダンスに集約される。身体は身体ではなく、生命は生命ではない。それは、全ては、パラメーターのダンスなのだ。

 骰子が頭上に落ちてくる時に。死ぬということが死ぬということになる時に。殺すということが殺すということになる時に。欲望の定義は失われる。ただ絶対的な決定だけが必然としてそこに現われる。それが、つまり生命が舞踏するということ。

 確かに、確かに、その通り。サンニヤーサ、三昧とは舞踏である。とはいえ……事ここに至っては、そんなことはどうでもいいのだ。それがどうした? 生きるか死ぬかだ。今から、デニーと、リチャードと、二人は、殺し合いをしようとしている。そして、二人は、「自分」が生き残ろうとしている。それだけが現時点において真実である真実だ。一瞬において無限は無意味だ。今、今、今、だけで、ある、この、今に、おいて、「自分」以外のあらゆる意味は無意味だ。

 だから。

 デニーは。

 あたかも。

 一人の。

 無原罪の。

 少女の。

 ように。

 笑って。

「ねえ、ロード・トゥルース。」

「なんだよ。」

「フルーツケーキの季節だね。」

「は? 何がだよ?」

「全部が。全部、全部が。」

「ああ……そうだな、その通りだ。」

 それから、暫くの間、平和が訪れた。静かな、静かな、善なる世界が訪れた。いうまでもなく、世界の全ては完全な邪悪であり、暴力と暴力とが均衡に至った瞬間のみ、そのほんの一瞬のみ、現実は平和を見いだすことが出来るのだ。ぽっかりと穴が開いたような、常に喪失の予感を抱き締めた、平和を。

 そして、その一瞬が終わる。最後のフルーツケーキの、最後の一切れを食べ終わってしまうみたいに。誰も彼もが愛し合えればいいのに。馬鹿みたいに愛し合えればいいのに。でも、結局、殺し合うことになる。笑っちゃうね。でも、結構、この世界ってそんな感じ。さ、始めよ。それで、終わらせようよ。どうせ、やんなきゃいけないことはやんなきゃいけないことなんだから。

 デニーが。

 ふっと。

 左手を。

 差し上げる。

 その手には。

 実は。

 まだ。

 スマート・バニーが。

 握られていて。

 デニーは。

 その。

 ディスプレイ。

 軽く。

 指先を。

 滑らせ。

 て。

 それは。

 ミュージック。

 アプリケーション。

 その中から。

 お気に入りの。

 ナンバー。

 ラ。

 タ。

 タ。

 ルー。

 デニーは。

 その一曲を。

 選び出して。

 そして。

 それから。

 可愛らしい。

 子供の。

 ように。

 言う。

「みゅーじっく、すたーと!」

 戦争が始まった。真昼にとって、この物語の主人公にとって、初めて、本当の意味での戦争が始まった。真昼は、アーガミパータに来てから、今まで、この時まで、一度たりとて戦争というものの渦中にあったことはなかった。当然だ、当たり前の話だ。お前が戦争を感じただと? お前が戦争を行なっただと? お前が戦争であっただと? 巫山戯けるな。お前は、ただの一度だって危機に陥ったことはなかったではないか。お前は常に守られていたではないか。お前が、お前の全存在を賭けて存在していたことがあったか? お前という概念が絶対的な終わりの終わりに向き合ったことがあったか? お前は、いつもいつも安全な場所にいた。安全な場所でのうのうと悲劇を気取っていた。お前にとって、この物語の結末は決まり切っていたではないか。お前が、救われること、それは決まり切ったことだった。なぜなら、おまえの庇護者はあまりにも強力過ぎたからだ。お前の庇護者は魔王だった。全てを支配する魔王であった。お前の庇護者にとっては、死でさえも本物の危機ではなかった。物語を面白くするためのちょっとしたギミックのようなものに過ぎなかった。お前は、つまり、本当に主人公であったわけではないのだ。今まで起こったことの全ては、結局のところ、テレビの中で他人の悲劇を見ていたに過ぎなかった。いや、それどころか、全ては物語だったのだ。お前は物語の中のお姫様でしかなかった。お前は、王子様が、自分を助けてくれるということを確信しているお姫様でしかなかった。だが、今、戦争が始まった。本当の戦争が。真昼が、真昼の心臓が、失われるかどうかという戦争が。

 デニーのあどけない声、が。

 その言葉を口にした瞬間に。

 リチャードは、一際美しく、一際煌やかに、ノスフェローティを弾奏した。リチャードの喉の奥でその命令がくだされた。全軍に対して、正義と、憎悪と、それに、目の前に立ち塞がる全ての敵の抹殺が命令された。そして、全軍は、その命令に従った。

 それは驟雨であった。さんざめく死と光との驟雨であった。千を超えるノスフェラトゥの大群が、一斉に、魔王がいるその城壁の方向に降り注いだのだ。いうまでもなく、その目標はデニーであった。しかしながら、そう簡単に、その目標に辿り着けるというわけではなかった。

 呪われたまま永遠の死を死んでいるかのようなアーガミパータの大地を、食い破って、現われた、蛆虫、ども、が。こちらも一斉に、その全身を屹立させた。あちらでこちらで、巨大な蛆虫が、暴れ狂い、荒れ狂う。その様子は、あたかも地獄の邪悪の全てが噴火したかのようだ。

 ああ、戦争だった。ridiculousなほどに残酷で、laughableなほどに惨劇で。真昼は、今まで、全然理解出来なかった。なぜ戦争が起こるのかということが。なぜ、生き物が生き物を殺そうとするのか。なぜ生き物は殺し合おうとするのか。真昼には分からなかった。だって、だって、それは悪じゃないか。相手を殺すくらいであれば、自分が死ぬべきではないだろうか。他者に苦痛を味わわせるくらいならば、自分が餓死するべきではないか? 真昼には、他者の領域を侵略しようとする全ての行為が、他者の生命を強奪しようとする全ての行為が、理解出来なかった。でも、今なら……今なら理解出来る。今の真昼には、この世界の全てと引き換えにしても惜しくないものがあるから。今の真昼には、あらゆる生命を絶対的な苦痛の底に叩き落としてでも失いたくないものがあるから。ああ、真昼はようやく理解出来た。現実なんて些細なものだ。真昼にとって、実際にここにあるこの現実など、どこまでもどこまでも無意味な代物だった。だって、そうでしょう? あたしは、この現実の中で生きているわけではない。あたしの中で本当に生きているものは、現実の中にあるあたしというこの身体ではない。あたしというあたしだけが、本当に生きているものだ。真昼は、今、はっきりと理解した。無慈悲で一方的で、拷問を伴う、犯罪を伴う、無分別な、非難されるべき、特別軍事作戦のみが、本当の本当に正しいことであるということを。邪悪だけが正義だ。邪悪だけがジャスティスだ。邪悪であることと引き換えにしてでも守りたいものだけが、あたしがあたしであるということだ。呪われろ、地獄に落ちろ、全ての侵略を非難するものは、全ての戦争を非難するものは。

 だって。

 あたしが。

 虐殺。

 された。

 時。

 あんたは。

 それを。

 嘘だと。

 言った。

 華やかにあられもなく世界の全てを滅ぼすミサイルのようにノスフェラトゥの大群は大地に向かって突撃した。蛆虫が、蛆虫が、蛆虫が、天球を噛み砕く毒牙のようにそれを迎え撃つ。二つのオルケストラは衝突し、混じり合い、そして、一つの脈動するスティグマータになる。鮮烈だった。素晴らしいほどに。なぜなら、それは真実だったからだ。それだけが真実だったからだ。

 天球から流れ落ちる屑星はその墜落の過程で回転する。二枚の羽、偽善者の処刑器具のような二枚の羽を、あたかもミキサーのブレードのように旋回させているのだ。ぐるぐる、と、回る刃は、そのまま蛆虫に向かって強襲する。ざんっと音を立てて。それから、ざぱっざぱっざぱっと音を立てて。蛆虫の身体、その上半分が、きらきらと輝く缶詰のパイナップルのように輪切りにされる。無理矢理に生者の世界に引き戻された死者の残骸が粉々になってそこら中に飛散する。

 無論、それで終わりではない。シンセティック・リビングデッドの断片が、夢の中で子供達と遊んでくれるおもちゃの兵隊みたいにして、くるん、と形を変えた。つまり、粉々にされたその一つ一つの生命力が、それぞれが、小さな小さな蛆虫の形になったということだ。大量の蛆虫がまるで空間そのものに寄生する寄生虫のようになってノスフェラトゥの全身を包み込む。ノスフェラトゥの、腕を、脚を、羽を、全身のあらゆる部分を、食いちぎる。エトワール、エトワール。

 蛆虫は……巨大であった。主の僕であるかのように。主の福音のために選び分かたれ、召されて使徒となったアウグストゥスであるかのように。星々が死に絶えた素晴らしい夜空のような口をぽっかりと開いて、白痴、剥き出しの無意味な力そのもの、刃と刃と、大顎に乱雑に突き立てられた剣みたいな牙を噛み合わせている。そして、そのがりんがりんという音は、救世主を迎える万雷の拍手にも似ている。

 今、その虚無を開いたままで。蛆虫の半身は、があっと、空間を薙いだ。無数のノスフェラトゥがいた空間を、あたかもその空間自体を食らうみたいに、噛んで、引き裂く。

 さて、そこにいたノスフェラトゥは当然ながら虚無の内側に飲み込まれた。身体を食われる。骨格が砕ける、内臓が潰れる、冷血を撒き散らす。それから、跡形もなくなる。

 何鬼も、何鬼も、食われる。ノスフェラトゥの身体は混ぜ合わされる。挽肉を捏ねているみたいに。肉団子を作っているみたいに。食われて、食われて、食われて……しかし、その中で、たった一匹だけ、全てが肉の塊にならずに飲み込まれる鬼がいた。当然、無傷では済まない。羽は失われた、胴体は半分に引きちぎられた。それでも、そのノスフェラトゥは生きていた。

 生きたままで、内側に潜り込む。蛆虫の中心部に到達する。死者の生命力の、最も美しい深淵の底の底へと落ちていく。それから……光だ。恒星が爆発して死ぬ時のような光だ。

 ノスフェラトゥが、自らの内側のセミフォルテアを暴走させたのである。それは、凄まじい魔学的エネルギーの破滅的な閃光になる。当然ながら、ノスフェラトゥ自身も無事では済まない。というか、ノスフェラトゥは、爆弾になったのだ。自らを爆弾へと変貌させたのだ。

 そのエネルギーは、闇を切り裂き、夜を切り裂き、そういった全てを内包していた蛆虫そのものを炸裂させた。大爆発だった。蛆虫は神の力によって焼かれた。生命力は完全に消滅した。そして、死者はまた死者に戻った。栄光が永遠より永遠であるように、アラリリハ。

 何もない荒野に花が咲き乱れるかのようにこの戦場に殺戮が咲き乱れた。蛆虫がノスフェラトゥを食い殺す。ノスフェラトゥが蛆虫を打ち砕く。繰り返し、繰り返し、たった一つの主題を模倣するフーガ。きらきらと、生命が、咀嚼された光の破片となって消えていく。ダ、ダ、ダ、ドゥー、ドゥー、ドゥル、ドゥル、ドゥー、ダ、ダ、ダ、ディ、ダッダッダ、ダ、ディ、ディ、ダ、ドゥー。燃え盛り噴き上がる溶岩、みたいな、蛆虫、の、暴力、の、間、を、禍々しい流れ星のようにノスフェラトゥが閃いていく。今……一匹の蛆虫に、数鬼のノスフェラトゥが取り付いた。そこここに吸痕牙を突き立てる。そして、蛆虫を構成している生命力を食い尽くそうとしている。今……蛆虫が、歓喜のようなエネルギーを吐き出した。その身体の内側で、食い尽くしたノスフェラトゥのセミフォルテアを一つの炎として、それを吐き出したのだ。周囲にいたノスフェラトゥは一鬼も残らず焼き尽くされる。

 捕食。

 切断。

 炎上。

 破砕。

 寄生。

 爆発。

 暴力。

 暴力。

 暴力。

 暴力。

 そのような戦争の中で。最も強く、最も賢く、最も強大で、最も残酷で、最も美しく、最も醜く、そして、最も邪悪な、魔王。は、笑いながら踊っていた。これほどまでに生命力に溢れた舞踏というものを真昼は初めて見た。それは、絢爛だとか、素晴らしいだとか、そういった真昼の人間的思考を超えた絶対性だった。真昼は……真昼という生き物の、その生命が、恍惚のあまりに震えているのを感じた。幸福が、幸福が、幸福が。とっくの昔に死んでしまっていて、今はもう腐り果ててしまっている、真昼の生命に、巣食っている、無数の蛆虫であるかのようにして。真昼が真昼であるということそれ自体を犯していく。ああ、猛毒だ。これは猛毒だ。多幸感。とろ、とろ、と、頭蓋骨、の、中、の、脳味噌、が、溶けて、いく、みたい、に。真昼は、ただただ抗うことの出来ない忘我に浸食されていく。

 デニーは。

 神のように。

 踊っていた。

 デニーの下半身は踊っていた。それは貪りのダンスだった。それは貪欲のダンスだった。あらゆるものを食い尽くそうとする、この世界が持つエクリプシスの意思それ自体であった。そのエクリプシスにとって、食らうものは、なんであれ構わなかった。なんであれ関係がなかった。それが、ノスフェラトゥであれ、リビングデッドであれ、荒野であれ、凍土であれ、ただ単なる空間であれ、エクリプシスには全く関係がないことであった。

 なぜなら、エクリプシスは世界を愛していたからだ。いや、このいい方は間違っている。エクリプシスは、世界という抽象的な感覚ではなく、「それがそれであること」を愛していた。普遍性でもなく原理性でもない。エクリプシスが愛しているのは、その第一義的な摂理ではない。それが食うことが出来るものであるという、そのありのままの事実を愛している。つまり、エクリプシスは、この辺獄を愛している。

 信じられないほど終わりに似た曲線を描いて、エクリプシスは戦争という現象の中で踊っていた。その様は、あたかも星の死骸を食らう蛆虫が、今、まさに、一つの星、深淵、食らいつつ泳いでいるかのようだ。

 ごああああっという、破滅する銀河の最後の絶叫のような音を立てて、エクリプシスは星のおもてを食い破る。あるいは大地の底へと沈んでいく。あるいは空間に向かって浮上してくる。縫い糸のように。世界そのものを縫い繕おうとしている縫い糸のように。長く、長く、のたうち回るエクリプシスは、夜刀岩で出来た不毛の岩盤を、あたかもそれが気体だとか液体だとかであるとでもいうようにして、軽々しく泳いでいく。

 そして、エクリプシスが泳いだその痕跡は蝕の姿になる。まるで何もなくなってしまったかのように。完全な無であるかのように。エクリプシスが通り過ぎた後は……光さえ残らなかった。光さえ、エクリプシスに食われてしまった。あたかも不吉な彗星が尾を引き摺るように、あたかも墜落する飛行機が飛行機雲を引き摺るように、エクリプシスは、その背後に、絶対的な暗黒を引き摺っていく。あらゆる確率がゼロになる。

 食われていく。

 食われていく。

 食われていく。

 なすすべもなく。

 疫病の鬼は。

 ノスフェラトゥは。

 食い殺される。

 ただ、中には、そのようなエクリプシスの暴食を逃れるノスフェラトゥもいないわけではなかった。一匹、二匹、その程度ではあったが。蝕の悪魔の大顎を逃れて、城壁の内側に入ろうとするノスフェラトゥもいないわけではなかった。

 しかしながら、そのような行動は無意味だった。なぜなら、蝕の悪魔は、腕を有していたからだ。四本の、「長い腕」を有していたからだ。

 ぐねぐねと、多関節を、性的な快楽のような艶やかさでくねらせながら。エクリプシスは恐ろしいほどの器用さによってそのような行動をしようとするノスフェラトゥを捕獲する。鮮やかに、九本の指先を持つ手のひらは、ノスフェラトゥを掴んで。その頭を、その羽を、その胴体を、優しく優しく愛撫する。

 暫くの間、少女が人形で遊ぶようにして、その身体を弄ぶ。それから、やがて、そうやって遊ぶことに飽きると、あっさりと壊してしまう。腕を引きちぎり、脚を引きちぎり、ゴキブリの残骸でも握り潰すかのように握り潰す。

 気まぐれな。

 魔王の。

 下半身。

 は。

 やりたい放題の。

 子供の。

 暴政そのものとして。

 この戦場を支配して。

 一方で、デニーの上半身は。それは天使であった。それは四枚の羽が生えた絶世の極星であった。つまり、デニーの上半身こそが、この戦争の中心であった。

 この星に住む生き物は……条々、この星こそが世界の中心であると思いがちである。地面がある方が下で、円空がある方が上で。そして、自分が、そのように揺るぎなく定義された固定的なダイヤグラムの中を移動する一点であると考えている。

 だが、それは間違いだ。完全なる間違いである。この星は疑う必要がない基準点などではない。この星は神の卵を中心として回転する任意の一点に過ぎない。そして、力ある者にとっては、星を一つ跡形もなく消し去ってしまうことなどどうってことないことだ。この星がなくなった後で、生き物は、まだこの星をダイヤグラムとして使うことが出来るか? 不可能だ。

 つまり、中心とは、力なのだ。その領域で最強の力を持つ者こそが、その領域の中心となりうるのだ。この星に住む生き物にとって、この星が中心であるように思えるのは、この星が最も力ある者であるように思われているというただそれだけの理由に過ぎない。力こそが方向だ。力こそが重力だ。そして、この戦争において、まさにデニーこそがそのような力であった。

 ハレーション。

 を。

 起こす。

 衝撃と。

 畏怖と。

 見よ。

 見よ。

 魔王の。

 アウレオラ。

 地の上に車輪があった。

 魔王が行く時は、これらの車輪も行く。

 魔王が笑う時は、これらの車輪も笑う。

 諸々の車輪は。

 死のような。

 緑色の光輝。

 車輪の中に車輪がある。

 無限の車輪が回転する。

 一つ一つの車輪は。

 眼球のような宝玉。

 満たされて、いる。

 それらの。

 宝玉は。

 全て。

 全て。

 魔王が。

 食った。

 生き物の。

 霊。

 そのような、九重に重なり合った泉、冥府の光を背負って。蘇りであり命であるデニーは、ひらりひらりと軽やかに踊っていた。浮かれている、輝いている、華やいでいる、明るく、楽しく、軽快な、ラビット・トレイルみたいなダンス。可愛らしい兎のダンス。デニーのような生き物に最も相応しいダンス。ただ、今のデニーには足がなく、それゆえに、それはステップではなかったが。

 きらきらと、ぴかぴかと、パーティみたいに光っているアポルオン。めちゃくちゃに回転して、めちゃくちゃに飛び回って、めちゃくちゃに跳ね回って、めちゃくちゃに巫山戯ていて。デニーの上半身は、あっちこっち、止まることなく錯乱する。けらけらと笑いながら、あたかも平和の王国の到来を告げようとしているかのように煌めいている。

 いや、それは、どちらかといえば、この世界と平和の王国と、その二つのごくごく僅かな差異を探しているかのようだった。その差異を知って、その差異を行なえば。ごくごく僅かな何かを、ごくごく僅かに移動させれば、この世界の一切が破壊され、全く新しい世界が到来する、その差異を探し出し、実行しようと奔走している救世主みたいに。

 中心に、辿り着ける者は誰もいない。神の卵に触れようとするものが、皆、神の光によって焼き尽くされるように。デニーの上半身に、アポルオンに到達しようとするノスフェラトゥは、蛆虫が作り出す城壁によって食い尽くされる。鳥籠の中の小鳥。あるいは、鳥籠の外側に世界の全てを閉じ込めてしまった小鳥。デニーは、そのように、絶対的な安全の中にいた。

 そうして。

 まさに小鳥のように。

 デニーは歌っていた。

 踊っているだけではなく……ご機嫌なミュージックに合わせて歌を口ずさんでいた。そのミュージックは、デニーの左手、の、あのスマートバニーから流れていた。そう、その通り。この戦争の開始の合図として選ばれた、あのナンバーだ。それは"Fire and Fury"。ダンシングラビット・ウィズ・シークレットフィッシャーズのファースト・アルバムの題名にもなっている曲。DwSのファンの中でも、DwSの最高傑作として名高い曲。これこそロックンロール・オブ・ロックンロール。激しい神の怒りにも似たメロディーライン。クレイジーとしか表現のしようがないリズム。そして、大観衆、の、希望、の、叫び、の、ような、ハーモニー。全てが完璧な、伝説的な一曲。それを、スマート・バニーから流していたのだ。そして、デニー自身も、流れ出す歌声に合わせて歌っていたのだ。今、ちょうど、サビに差し掛かったところだ。敵に立ち向かう一人の英雄、腕を組んだまま、神の巌のように、神の盾のように、立ち塞がる、戦士にも似た、コーラス。

 デニーは。

 そのコーラスに。

 合わせて。

 ハッピー。

 ハッピー。

 天使のように。

 こう。

 歌う。

「もしもこれ以上君を怒らせてしまったら。

 僕は一体どうなってしまうんだい?

 Fire and Fury!

 Fire and Fury!

 世界が今まで見たこともないような。

 炎と怒りを見せてくれよ。

 世界が今まで聞いたこともないような。

 炎と怒りを教えてくれよ。」

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