第三部パラダイス #43

 相変わらず、ただただ獲物を食らうことしか考えていないけだものがもし笑うことが出来るとしたら、このように笑うだろうという笑い方。ほとんど恫喝のような哄笑によって笑いながら、デニーに向かってショットガンをぶっ放したリチャード。なんと、なんと、その一発が、とうとうデニーの姿を捉えたのだ。

 一発というか無数のペレットに分裂した状態の一発であったが。それでも、とにかく、その無数のペレットが、デニーの全身に襲い掛かる。ペレットは、腕を貫き、脚を貫き、腰を、腹を、胸を、それに顔面のあちこちを穴だらけにする。

 とうとう、疲れがデニーのことを捕まえたのだ。そう、確かに、その前にデウスステップをした時、その回避は本当にぎりぎりのところだった。今回、とうとう、デニーは避け切れなかったのだ。リチャードは、一瞬、そう思う。

 ただ何かがおかしかった。あまりに手ごたえがなさ過ぎるのだ。まるで影でも触れているみたいに。まるで月の光の中で泳いでいるみたいに。魄を砕いたという感触もなく、魂が飛び散るということもない。これでは、まるで……そこで、ようやくリチャードは気が付く「ちっ、フィグーラか!」。

 と、そのリチャードの言葉とともに、散弾が撃ち抜いたデニーであるはずの姿がぐにゃりと歪んだ。その虚像の各部位は一つ一つの直感的記述に変化していって。そして、デニーがいたはずのところに現われたのは、緑色の光によって何もない空間に描かれた魔法円だった。

 つまるところ、それは、幻影に過ぎなかったということだ。デニーは、左手に残っていた魔法円の断片を利用して、一定の空間範囲にオノマを移植した。それから、そのオノマが、あたかも三次元的な鏡のようにして、その空間範囲にデニーのフィグーラを作り出したのだ。

 それでは本物のデニーは一体どうしたというのか? どうしたもこうしたも、デニーは、あれほどまでに切実に、リチャードに隙が出来るタイミングを待望していたのであって。こうして隙が出来た今となっては、その隙をついて攻撃を仕掛けようとしているに決まっているのである。

 リチャードは一切の気配を感じなかった。だが、それでも、自分の背後にデニーがいるということを確信といってもいいような精度で理解していた。

 デニーは、その気になれば、自らが発するあらゆる気配を消し去ることが出来る。特に、ノスフェラトゥが背後にいる何者かを感じる時には、その何者かが発する魔力を感じるわけであるが。デニーは、自分の身体内部の魔力が引き起こすところの魔学的エネルギーの振動を、完全に遮断した状態で出現した。

 そして、すぐさま、左手の指をぱちんと弾いた。オルタナティヴ・ファクトを開いて、その内側に入れておいた武器のうちの一つ、いざという時のために、アナンタの軍勢とガルーダの軍勢とが最後の戦いを繰り広げたあの戦場から拝借してきた、ドンランカ・チャクラという特殊なチャクラを取り出そうとしたのである。

 ドンランカ・チャクラというのは、九百九十九鬼のノスフェラトゥの魄、それを溶かして鋳型に嵌めて、鍛錬に鍛錬を重ねた結果として、直径数ダブルキュビトの円盤としたチャクラのことだ。生き物の魄の構造をそのまま切り裂くことが出来るという特殊な武器であり、アーガミパータにおいて、非常に高い地位にある人間が使用することを許されていた武器である。

 もともとは、ヌリトヤ沙漠のような場所でごく稀に出現することがあるノスフェラトゥの群れに囲まれた際、それを撃退するために使おうと思っていた物だ。ちなみに、ノスフェラトゥという生き物は孤立捕食種であり、パンピュリア共和国のような例外を除けば、ほとんど群れを作ることはないが。アーガミパータにおいては、一鬼のノスフェラトゥだけでは太刀打ち出来ないような相手がごろごろしているので、そのような相手に対する狩猟を行なうために群れを作るということも珍しいことではない。

 この武器であれば、リチャードのような始祖家のノスフェラトゥであっても、ある程度は傷付けることが出来る。ということで、デニーは指を弾いたわけなのだった。

 が。

 しかし。

 そ。

 れ。

 に。

 も。

 か。

 か。

 わ。

 ら。

 ず。

「ほえ?」

 何も起こらなかった。デニーの指先、ぱちんという音。空しく響き渡っただけで、起こるべきことは何一つ起こらなかった。「え? そんな……嘘っ!」とデニーは口走るが、しかしながら、気が付いた時にはもう遅かった。つまり、デニーは、罠にかけられたということである。

 にぃっと、顔全体を真っ二つに掻っ捌くみたいにしてリチャードは笑った。それから、振り返る。自分の背後、デニーがいる方向を。いうまでもなく、その両腕は、ショットガンを構えていて。そして、振り向き様、ほとんど数十ハーフディギトの距離にいるデニーに向かってそれをぶっ放す。

 デニーは信じられないような瞬発力によってその射撃に反応した。完全に躱すことなど絶対に無理な距離だ。だが、それでも、致命傷を防ぐことは出来る。咄嗟の判断……跳ねた。後ろに向かって勢いよく飛びのいた。

 直後、大量のペレットが着弾した。ぞぐんっ、という生々しい音を立てて抉る。デニーの身体、その左脚を。デニーは、なんとか、頭や胴体や、そういった場所が破壊されることだけは避けることが出来たということだ。

 ただ、それでも、腿から足首にかけて。デニーの左脚はその魄の構造から粉々に粉砕された。一つ一つのペレットが、デニーを撃ち抜いて。その身体の内部で凄まじいエネルギーを爆発させ、全てをぐちゃぐちゃにする。

 デニーは。

 そのように。

 破壊された。

 残骸を。

 三稜鏡を通した。

 光の欠片のよう。

 きらきらと、散乱させながら。

「いっ……」

 それでも慣性によって。

 後ろ向きに飛んでいく。

「たーいっ!!」

 あんまりにやべーことが起こると、そのやべーことのやべー感じに、思わずげらげら笑ってしまうことがあるが。恐らくはその感じなのか、デニーは爆笑しながら叫んだ。

 そのまま、けらけらと笑いながら、もともとの場所から数ダブルキュビト離れた場所に着地する。いや、それは着地といえるような代物ではなかった。そもそも、着地するための足がないのである。ずべちゃっと、背中から、勢いよく地面に叩きつけられて。そのまま、その上をずるずると滑っていく。ほとんど放り投げられた兎の死体のような有様だった。

 そんなデニーのことを、満足げに見下ろしながら。リチャードはそちらの方へと歩き出した。猫が、足を食いちぎった鼠のことをいたぶるかのようにして。ゆっくりゆっくりと。もう……もう、焦ることはない。デニーは、満身創痍なのだから。右腕は叩き潰されている。左脚は撃ち抜かれている。まともに立ち上がることさえ出来ない状況で……左手の魔法円は使い物にならず、オルタナティヴ・ファクトを開くことも出来ない。

 ただ、それでも、リチャードは、デニーに向けたショットガンを下ろすことはなかった。確かに、ほとんど勝利したに等しい状況であるが。ただ、今相手にしているのはデナム・フーツなのだ。いくら慎重になったとしても、なお十分とはいえない。

 一歩。

 一歩。

 デニーに。

 向かって。

 歩いて。

 いって。

 やがて。

 リチャードは。

 デニーから。

 二ダブルキュビトの。

 ところまで。

 やってくる。

 そこで立ち止まった。それ以上は念のために近付かないことにした。まあ近付く必要もないだろうが。それから、目の前に落ちている、ずたずたのぼろぼろになってしまったデニーを見下ろす。

 デニーは、この戦いの前にそうであったような姿勢、あたかも跪いたような姿勢になっていた。左脚は、いうまでもなく、もう使い物にならない。胴体からちぎれ飛んでしまわなかったのが奇跡とでもいいたくなるくらいの悲惨さで、辛うじてぶら下がっているだけだ。その左脚を、べったりと伸ばして。そして、右脚は、立つことさえ出来ずに地面の上に膝をついている。

 そういえば、地面の上は……先ほど撃ち落とされたアビサル・ガルーダのアンチ・ライフ・エクエイションがだばだばと降り注いだことによって、まるで雨が降った後のように一面が黒い水溜まりによって覆われていた。だからデニーの膝も、その黒い水溜まりによってひたひたと浸されている状態だった。

 右腕は、だらんと垂れ下がっている。捻じ曲がった前腕の先、手の甲が、ずるずると、その水溜まりの中に沈んでいる。左腕は体を支えるために利用されている。つまり、手首から先をアンチ・ライフ・エクエイションの中に沈めていて。その底にある凍り付いた大地の表面に、その手のひらをついている。

 それでも。

 そんな状態にあっても。

 デニーは。

 まだ。

 仮面のような顔で。

 笑ったままだった。

 自分を見下ろしているリチャードのことを見上げて「ふふふっ、デニーちゃん、びっくりしちゃった」と言う。それから、少しだけ首を傾げて続ける「まさか、結界に、オルタナティヴ・ファクトに関する禁制を付け加えてたなんて」。

 つまり、デニーがオルタナティヴ・ファクトを利用出来なかったのは、この場所を覆っている結界の効果だったのだ。リチャードが、デニーに気が付かれないように。こっそりと、この結界の内部ではオルタナティヴ・ファクトと現実世界との接触点を作り出せないようにしていたのである。

 析出者であるデニーにも気が付かれないようにそんなことをするなんて、土台無理な話だと思われるかもしれないが。リチャードの魔力及び精神力があれば出来ないことではなかった。ただ、まあ、デニーがこの結界に付け加えられたヴィスカムについて丁寧に解析していれば、当然ながら気付かれていただろう。読者の皆さん、ヴィスカムのこと覚えてますか? 魔学的記号に付加することでそれが持つ効果を変質させる魔学式のことですよ。今更ながら書いておくと、リチャードは、ヴィスカムによってデニーの結界を変質させていたのである。それはそれとして、だからこそ、リチャードは、デニーに解析させないように、最初からトップスピードで攻撃を仕掛けていたのである。

 その目論見は。

 見事当たった。

 と。

 いうことだ。

 さて、リチャードは、デニーの言葉に答えなかった。その代わり、ぎいっと吸痕牙を剥き出しにして。脅すように「今のは」と言う。それから、ショットガンの先端、銃口を動かしながら「わざと外した」と続ける。その銃口、デニーがかぶっているフードの向こう側、デニーの額に狙いを定めながら「次は外さない」と続ける。そして、最後に、「分かってるよな」と言いながら首を傾げる。

 デニーがその首を傾げた傾げ方とはまるで違う。可愛げの欠片もない、憎々しい傾げ方だ。一方で、それに対してデニーは。デニーは……デニーは……一体どうするつもりなのだろうか。

 勝ち目などあるわけがない。それどころか、このままでは、命さえ危ないような状態である。吹き飛ばされた左脚、そこからは、たらたら、たらたら。明らかに血液ではない液体が流れていた。その色は赤ではない。敢えていうならば、まるで、そこからあらゆる生命が発生したであろう宇宙の焦点、みたいに、虹色に歪んでいるかのような純白。要するに、それは、スナイシャクであった。つまるところ、デニーの左脚は、ただ質量的部分が傷付いただけではなく、その形相構造から破壊されていたのだ。スナイシャクが流れ流れて流れ出して、それが致死量に達してしまえば。デニーといえども無事で済むわけがない。

 そんなデニーの様子を見て。そして、デニーに突きつけられたショットガンを見て。真昼は……叫んでいた。自分の精神によっての行為でもなく、自分の肉体によっての行為でもなく。自分という生き物が全く介在していないところで、自分でも全く気が付かないうちに、頭がおかしくなってしまったかのように叫んでいた。

「逃げろ!」

「逃げろ!」

「逃げろ!」

「逃げろ!」

「デナム・フーツ!」

「あたしを見捨てて逃げろ!」

 全身の細胞の一つ一つが、この現実が有している絶対的な非情さに共振するようにして暴れまくっている。ほとんど、それは発作であった。脳に受けた重度の損傷によって発作が起こってしまったのだ。心臓が、心臓が、心臓が苦しい。心臓が鼓動する、弾けそうなくらいにどきどきと脈打っている。世界の悪意がぐるぐると回転している、吐き気がする。恐怖で。恐れで、怖れで、どうしようもない喪失への予感で。真昼は、その拳にセミフォルテアを纏わせて。死に物狂いで殴りつける。真昼のことを、優しく優しく守ってくれている障壁を、ぶち破ろうと叩く、叩く、叩く。そして、それから、まるで血反吐を咲き乱れるようにして叫び続ける。やめて、死なないで。死んでしまわないで。あたしのあたしからあんたが失われてしまわないで。だって、あんたがいなくなったら。あたしはどうすればいいの? 心臓を失ってしまったら、あたしはどうやって生きていけばいいの?

 しかしながら、いうまでもなく。真昼のそのような行為は完全に無意味であった。アヴマンダラ製錬所で、真昼が、パンダーラを、救えなかったように。現実に対して、真昼は、完全に無意味な生命なのだから。あの時と同じように、真昼の拳は障壁を破ることが出来ない。あの時と同じように、障壁の内側で真昼が発する、あらゆる声、あらゆる音、は、外部に伝わらない。ただただ生ぬるい胎盤のような無力だけが真昼のことを包み込んでいる。焦燥感だけが、絶対に変えることが出来なければいけないということを変えることが出来ないという焦燥感だけが、まるで降り注ぐ硫黄の星のようにして真昼の全身を焼いている。

 真昼は人間のように叫んでいた。まるで、人間の感情がある生き物のように叫んでいた。その叫び声は、既に意味をなしていなかった。最も純粋な、何ものにも穢されていない人間の欲望のような絶叫で叫んでいた。

 腕をぶん回し、脚をめちゃくちゃに踏みしだき。大きな口を開けて咆哮する。障壁の内側を転げ回り、のたうち回る。お願い、お願いだから。全部あげるから、あたしのことなんて全部あげるから。だから、お願い。この一度、たった一度だけでいい。ねえ、お願い、世界、あたしの思い通りになって。デニーが、あたしを、見捨てて、逃げて。

 ああ。

 笑ってしまうような。

 檻の中の、人間の姿。

 そのようなものに。

 現実が。

 世界が。

 注意を払う。

 わけもなく。

 「さあ、もう一度だけ言うぜ」、リチャードは、そう言うと……あたかも一つの宣告のように。その人差指を、トリガー・ガードから離して、トリガーに掛けた。それから、当たり前のことを、もう答えなんて分かり切った質問をするみたいにして。デニーに、こう続ける「あのメスガキを、俺に寄越せ」。

 それに対して、デニーは。なんとなく感情が伴っていないというか、棒読みというか、やけに芝居がかった口調で「そうだよね……デニーちゃんの負けだよね……」と言った。それから、ひどく悔しそうな顔をしたいのだろうが、傍目から見るとそれに完全に失敗しているとしか思えない顔をして「なんていうことだ……デニーちゃんは……真昼ちゃんを渡すしかないのか……」と続ける。

 リチャードは、この瞬間、奇妙に不気味なものを感じていた。ふわふわと星の海に浮かんでいる夢を見ている時に、死にたくない、死にたくない、と笑いながら回転する、なんだかよく分からない、黒っぽい影のようなものが、自分の後をついてきているということに気が付いたような。確かに自分はゲームに勝っているはずなのだが、そもそもそのゲームのルールを自分は知らなかったのだと気が付いた時のような。そんな、名状しがたい悪寒のような感覚だ。追い詰めているのは確かに自分のはずなのに、名前のない不安がリチャードの全身を包み込んでいる。

 だから、デニーが、わざとらしいくらい苦渋の表情をして「ごめん、ごめん、真昼ちゃん……デニーちゃんは、真昼ちゃんを救えなかったよ……」とかなんとか言いながら、その頭を俯けた時。リチャードは、思わず「てめぇ! 変な動きをするじゃねぇ!」と叫んでしまった。怯懦の心情を隠すかのように「顔を逸らすな! こっちを見やがれ!」と続ける。

 けれども、デニーは、その言葉の通りにはしなかった。というか……どちらかといえば、出来なかった。デニーは、俯いたままでふるふると震えていた。まるで、自分自身のあまりの不甲斐なさに震えていますとでもいうようにして。「くっ……」と声が漏れる。苛立たしげな、歯痒げな、もどかしげな、声。

 デニーは、暫くの間、そのようにしていたのだが。やがて、何かがおかしくなってきた。デニーの口から漏れ出す声。「くくっ……」というように、何か性質が違うものになり出したのだ。それと時を同じくして、デニーの体の震えも、なんとなく変化してくる。「早く……早く、顔を上げろっつてんだろ!」と、もはや怯えの色を隠すことなく絶叫するリチャード。デニーは、とうとう、その言葉に従って顔を上げた。

 「あははははははははははははははははっ!」と、まるでオードリー・ワイルダーが歌ったかように晴れやかに、笑い声を上げながら。デニーは、あられもないほど陽気に。悪夢のように明るく、自殺のように朗らかに、屈託も憂鬱も欠片もなく、ただただ純粋無垢なおかしさによって、笑いながら、顔を上げた。

 あまりに、おかしくて、おかしくて、涙を出してしまっているくらいだった。「ふふふ……ふふっ、ふーっふふふ」とかなんとか言いながら、デニーは、まともに動く方の左手で涙を拭う。

 そんなデニーの様子を、呆然とした表情で見つめながら……リチャードは、なんの反応も出来なくなってしまっていた。ほとんど、その頭蓋骨の中は恐慌状態だった。警戒のアラートが鳴り響いている。真っ赤な光をそこら中に撒き散らしながら、ノスフェラトゥの本能が叫んでいる。危険だ! 危険だ! 危険だ!

 でも?

 何が?

 ようやく、我に返ったリチャードは。はっとした顔をしてから、「黙れ黙れ黙れっ!」と叫ぶ。「笑うんじゃねぇ!」と続けるが、しかしながら、いうまでもなく、リチャードが本当に求めていることは、デニーが黙ることでも、デニーが笑うのをやめることでもない。一体、今何が起こっているのかということを知ることだ。自分が、どんな危険に巻き込まれているのかを知ることだ。

 「てめぇ……何がおかしいんだよ!」、なんとか思考を整理して、やっとのことで意味のある言葉を掻き出したリチャード。それに対してデニーは「はーあ」と一度、笑い過ぎた自分を落ち着かせるための溜め息をついて。それから独り言のように話し出す。

 「やっぱり、ロード・トゥルースはすごいね」「たぶん、本当に本当のデニーちゃんと同じくらい、強くて賢いんじゃないかな」「今のデニーちゃんじゃ、ぜーんぜん敵わないよ」「デニーちゃんが」「本当に」「本当の」「デニーちゃんじゃないと」「敵わない」「だから、んー、これは、最後の手段にしよーって思ってたんだけど……まっ、仕方ないよね」。

 その。

 瞬間。

 リチャードは。

 ようやく。

 気が付く。

 自分が。

 既に。

 囲まれて。

 いること。

 に。

 何に? 何に囲まれているというのか? ここには、リチャードとデニーと、それからクソの役にも立たない真昼しかいないではないか。誰もいないし、何もない。リチャードが支配している結界と、荒野と。そして、それから、その荒野を覆っている……ああ、そう、そうだ。荒野を覆っている、アビサル・ガルーダのアンチ・ライフ・エクエイション。

 リチャードは、そのアンチ・ライフ・エクエイションに囲まれていたのである。いつの間にか誘き寄せられていた、荒野に水溜まりを作っているその水溜りのうち、一番広い、一番深い、水溜りの真ん中に。リチャードは「クソがっ!」と口走る。だが、気が付くのが遅過ぎた。

 リチャードが行動を起こす前に、既にデニーが動いていた。左手、中指、親指によって弾いて。アンチライフ・エクエイションの水面を叩く。

 ぱしゃん、と音がして。アンチライフ・エクエイションの水面がゆすらぐ。波が、波が、波が、揺れて。その波紋が、リチャードに達する。

 リチャードは慌てて、デニーの頭部に照準を合わせていたショットガンの引き金を引こうとする。だが、その指に力を入れる直前に……水溜まり、水面、ずぁああああっとでもいう感じで盛り上がった。

 あたかも水中に何者かが潜んでいて、その何者かが腕を伸ばしてきたかのようだった。それは、ショットガンの銃身をぐいっと掴んで。それから銃口の向きを思いっ切り上に逸らせる。

 リチャードは「な……んだよっ!」と驚きの声を上げる。銃口は、完全にデニーから逸れてしまっていた。引き金を引く。放たれた銃弾は、全く関係がない方向にペレットを撒き散らす。

 「てめぇ、何しやがったんだ!」「なあんにもしてないよ」デニーは笑う、くすくすと笑う「デニーちゃんは、なあんにもしてない」。リチャードは慌てて態勢を整えようとするが。そんなリチャードの右足を、いきなり何かが引っ張った。「がっ……!」と声を上げて、バランスを崩すリチャード。そんなリチャードの周囲、アンチ・ライフ・エクエイションの水面を突き破って、何本も、何本も、腕に似た何かが現われる。

 真昼は、いきなり起こり始めた出来事、びっくりした顔をして、ただただ見ていた。リチャードは、なすすべもなく、全身のいたるところをその腕に掴まれて、アンチ・ライフ・エクエイションの中に引き摺り込まれていく。

 いや、というか……アンチ・ライフ・エクエイション自体は、さほどの深さがあるわけではない。その腕のようなものが、何本も何本も纏わりついて。絡み合って、溶け合って、どろどろとした、べとべととした、球体のようなものを作り出して。その内側にリチャードを包み込んでしまったのだ。

 あれは、あれは、見たことがある。あれを、真昼は知っていた。ぼこぼこと、無数の、無限の、あぶくを吐き出している。一つ一つのあぶくは、今にも何かになりそうなのだが、何ものにもなれないまま、どこへとも知れない場所へと消えていく。その全て、その全体は、それらの、ぐちゃぐちゃとした細胞に分裂してしまいそうだが。それでいて一個の腐りかけた集団としての流動体であることを保っている。それはここにあるべきものではなかった。この世界になり損ねたもの、この現実になり損ねたもの。ここにあるこれになることが出来なかった、全ての、そうなったかもしれないもの。でも、決して、そうはならなかったもの。絶対的な腐敗によってどろどろに溶けて、疫病、飢餓、あるいは、あらゆる闘争。蒼褪めた死のような形をした。寄生虫。生命そのものに、まるで決して消えない影のように寄り添って、寄生している寄生虫。無から作り出され無へと消え去っていくようなabominable。

 そう。

 それは。

 つまり。

 ゾクラ=アゼル。

 要するに、デニーは、ゾクラ=アゼルによってリチャードを拘束したということだった。というか、ゾクラ=アゼルの断片というか。真昼が生命の木で見たゾクラ=アゼルに比べれば、このゾクラ=アゼルは、まるで太陽と、それから屑星の周囲を回転する小さな小さな氷の欠片とを比較しているようなものだ。

 ミヒルル・メルフィスが、ゾクラ=アゼルという「死者」そのものを抽出して武器を作り上げていたように。デニーは、ゾクラ=アゼルの死骸の一部分、使えそうなところを、いざという時のために採取しておいたのだ。その一部分を、アビサル・ガルーダのアンチライフ・エクエイションに寄生させておいて。アビサル・ガルーダさえも殺害してしまうようなやべーやつが現われた場合に備えてlast resortを用意しておいたのだ。

 ゾクラ=アゼルは、いうまでもなく、この世界で最悪の存在の一つである。現実になることが出来なかったあらゆる「そうであったかもしれないもの」。選ばれなかったもの。最善ではなかったもの。被造物になれなかったもの。目覚めた瞬間に消えてしまった夢、もう誰も覚えていない想像、ずっとずっと昔に可能ではなくなってしまった可能性、それから、ふとした瞬間に発せられた「私と貴方はもしかしたら愛し合えたかもしれない」という言葉。現勢力を、憎悪、している、あらゆる実現しなかった潜勢力。生まれる前に堕胎されたあらゆる胎児。

 ゾクラ=アゼルは、常に「生者」を引き摺り込もうとする。あちら側に。最初から存在しなかった世界に。「生者」を生まれなかったことにしようとしている。生まれる前に死んでしまったことにしようとしている。ゾクラ=アゼルに食われてしまった「生者」は、「死者」の群れの中に閉じ込められる。そして、それは、そもそも最初からなかったことになってしまう。永遠に、無限に、死んで、死んで、死んでいった「そうであったかもしれないもの」のうちの一つになってしまう。

 ただ……とはいえ……ゾクラ=アゼルでさえも。死そのものでさえも殺すことが出来ないような生き物も、この世界には、ほんの僅かではあるが存在しているのだ。例えばデニーはゾクラ=アゼルを切り裂いた。その全てではないにしても、その一部を殺した。ということは、つまり、デニーと同等かそれ以上の力を持つ生き物であれば、ゾクラ=アゼルに対抗しうるということだ。

 そして。

 リチャード。

 そのような。

 生き物の。

 一匹。

 暫くの間、リチャードは、ぐぼり、ぐぼり、と泡を吐き出しながら蠢いているゾクラ=アゼルに包み込まれて、身動き一つ取れないようだった。ゾクラ=アゼルが作り出したその球体は、ごぶごぶとリチャードのことを咀嚼してしまって。何事もなく、リチャードを消化してしまうかに思われた。

 しかし、その直後のことだ。なんの前触れもなく、ずどうっという音を立てて、その球体、左斜め上のところ、巨大な穴が開いた。いや、一つの穴というか、幾つも幾つも小さな穴が開いて、その集団が大きな穴に見えたという感じ。そういう一つ一つの穴、ゾクラ=アゼルの作り出した胎膜を突き破ったのは……ショットガンのペレット。

 ライフェルドだった。Living pool does not exist in any way, shape, or form without Lifeld。簡単なことだ、ライフェルドこそが創造者なのである。リチャードの若々しい傲慢。リチャードの若々しい才能。何もかもその手のひらにあるという自負、そして、世界さえも、簡単に握り潰すことが出来るという青春の感覚。それこそがライフェルドだ。そして、ライフェルドとは、あらゆる生命の力の爆発なのだ。生きようとする全ての意思。自分が自分であろうとする、無知なる者の驕り。

 そう、自分だ。今、ここにいる、自分だけが全てなのだ。他のあらゆるものはリチャードにとって捕食の対象に過ぎない。自分であることが出来たかもしれないが、結局は自分にならなかった全てのもの。それさえも、リチャードにとっては、単なる餌に過ぎない。ライフェルド、それこそが真の実存だ。いや、それ以上のもの。理念や思想によって捉えられる前の、賢しらに把捉される前の、最も生々しい、無知なる自分自身。

 それゆえに、ゾクラ=アゼルはリチャードを食うことが出来なかった。いや、その表面に僅かな傷を付けることさえ出来ないだろう。なぜならリチャードはライフェルドだからだ。そして、ライフェルドこそが、最高の現勢力、道化、低能、愚昧、想像力が完全に欠如した現勢力だからである。

 自我に対する一切の悩みがない、現実における生命の享楽が、ゾクラ=アゼルを撃ち抜く。ずどうっ、ずどうっ、ずどうっ、と、音を立てて、ゾクラ=アゼルの表面は、次々に引き裂かれ、破られていく。

 ゾクラ=アゼルも、なんとか、そのようなリチャードを球体の内側に閉じ込めようとしていた。ぞぶっ、ぞぶっ、ぞぶっ、アンチ・ライフ・エクエイションの水面から、無数の腕が伸びてきて。リチャードが開いた穴を弥縫していく。しかも、それだけではなかった。他の水溜まり、他のアンチ・ライフ・エクエイション。あちらから、そちらから、まるで惨たらしく殺された大蛇の、腐敗した死骸のようにして。ごぼごぼと泡を吐き出しながら、ゾクラ=アゼルの断片が、こちらに向かって這いずってくる。それらのゾクラ=アゼルの断片、その全てが、なんとかリチャードを抑え込もうとしているのだ。

 ただ、それも結局は時間稼ぎに過ぎないだろう。リチャードのこと、始末することはおろか球体の内部に閉じ込め続けておくことさえ出来はしない。リチャードはそれほどまでに強力な生き物なのである。ゾクラ=アゼル、いくら、断片が集まってこようとも。その断片が球体に取り込まれた直後、ショットガンによって吹き飛ばされる。

 それでは。

 一体。

 デニー、は。

 どうすれば。

 いいと。

 いうのか。

 デニーは、リチャードが閉じ込められている球体。あちらこちらから、まるで一度もデッサンなんて習ったことがない造物主が描き殴ったような、めちゃくちゃなエネルギーの塊が、散弾となって弾け飛んでいる球体を眺めていた。

 それから……急に咳込み始めた。最初は、げおっ、げおっ、という感じ。喉の奥に何かが詰まってしまったように噎せに噎せんでいたのだが。やがて、ごぶっとでもいうようにして、口から大量の液体、みたいな何かを吐き出した。

 どろどろと、液晶の態度で溶けだした月光に似ている。それは、要するにスナイシャクだった。よくよくデニーのことを見てみれば。身に纏っている服装からのぞいている身体、手や、首や、それに顔といったところ。光り輝く亀裂みたいなものが走っている。それは、どうも、吹き飛ばされた左脚から始まっているようで……どうやら、左脚に発生した魄の破損が広がっていって、全身を蝕み始めたらしい。

 間違いなく命に関わる。というか、ここまで悪化してしまっては、もう半分くらい手遅れになっているようなものだった。いうまでもなく、とてもではないが、リチャードが球体に閉じ込められているうちに真昼を連れて逃げるなんてことは出来ない。

 このままでは、デニーは、ただただ待っているだけだ。自分が死ぬのと、リチャードが球体を脱出するのと、どちらが早いかなんていうことを考えながら。何も出来ずに這いつくばっていることしか出来ない。

 では。

 デニーは、そのようなことをするために。

 ゾクラ=アゼルを解き放ったというのか。

 もちろん、そんなわけがない。

 デナム・フーツは、夜の王だ。

 跪くのはデニーではない。

 跪くのは。

 この世界。

 デニーは……口の端から、涎のように、たらたらと、スナイシャクを滴らせながら。ふっと、振り返った。背後にいる真昼のこと、檻の中に閉じ込められた真昼のこと、視線を向ける。真昼は……まるで、白痴のようになってしまっていた。幾つも幾つも、全然予想もしていなかった展開が連続したせいで情動的に破壊されてしまったのだ。その檻の中にへたり込んで。まるで四つ足の獣のように両の手のひらをついて、まるで精神薄弱児のようにぽかんと口を開けたままで。そして、ただただ、涙を流すことが出来ない目でデニーを見つめていた。

 逃げて、逃げて、逃げて、それだけを、その開いたままの口が、何度も何度も口ずさんでいた。そんな真昼に向かって、デニーは、ばちこーんとウインクをして見せる「ごめんね、真昼ちゃん」仮面のような笑顔のままで「もーちょっとだけ待っててね」。

 それから、また、振り返った。けれども、今度は、リチャードの方に視線を向けたわけではなかった。そうではなく、無事に残っている方の手、つまりは左手で、自分の着ているスーツの色々なところをまさぐり始める。

 「えーっとお、どこにしまったっけ」「こっちのポケットじゃなくて、こっちのポケットでもなくて、んーと、えーと」とかなんとか言いながら、一つ一つのポケットに手を突っ込んで。まずは、左手でも探りやすい、左半身にあるポケットを探って。そちらにはなかったらしく、今度は、左手では探りにくい、右半身にあるポケットを探り始めて。そして、ようやく目当ての物を見つけたらしかった。

 「あったあった!」と言いながら取り出したのは……あのスマートバニーだった。真昼が、アーガミパータに来てから、何度も何度も見てきたスマートバニー。きらきらと、まるで子供用のお星さまみたいに綺麗に輝く模造宝石で全体をデコレートされたスマートバニー。それを、暫くの間、片手で色々と操作していたのだが。やがて、その操作が終わったらしく、受話口を耳につけて、通話口に口を近付けて。どうやらどこかに電話をかけたということらしかった。

 るるるるるーん。

 るるるるるーん。

 まるで。

 運命のように。

 受話口の向こう側。

 聞こえている音。

 口ずさんでいる。

 デニー。

 そして。

 それから。

 その。

 一つの。

 黙示の。

 ように。

 聖なる。

 聖なる。

 通話が。

 始まる。

「ぷっぷくぷー、デニーちゃんだよー。あっ、キラーフルーツだよね? 今、だいじょーぶだったあ? あははっ、ごめんなさーい、ちょーっとだけ、急なごよーじがあってね。え? ああーっとねーえ、んーと……それが、まだアーガミパータにいるんだよね。わーわー、怒んないでよお! デニーちゃんにも色々あったの! え? ああ、うん、真昼ちゃんはそこにいるよ。それはだいじょーぶ。うん、うん、そーそー。それでね、いちおーはさーあ、ランデヴー・ポイントまで来てるんだけど。そこでね、んー、問題が起こっちゃったってゆーか。

「今さあ、目の前にロード・トゥルースがいるんだよね。あははっ、そーだよ、リチャード・グロスター・サードのこと! それ以外にロード・トゥルースはいないでしょお? なんでって、真昼ちゃんのこと奪っちゃうぞってゆーことだよお。ロード・トゥルースは傭兵さんをやっててね。それで、今、REV.Mに雇われてるんだって。だから……ああー! ちょっとちょっとちょっと! 落ち着いて、キラーフルーツ! そーんないっぺんにお喋りされても、デニーちゃん分かんなくなっちゃうよ! え? 何でって……知らないよお。デニーちゃんがそんなこと分かるわけないじゃーん。でもねーえ、なんか、お金が欲しいらしいよお。うん、うん、革命を起こすんだって。か、く、め、い! アップルの連中をみんなみんなぶっ殺してやるんだー!って張り切ってるよ。

「ああ、うん、今はね。今は、いちおー、こーそくじょーたいっていうか。うん、うん、ゾクラ=アゼルで球形の檻を作って、その中に閉じ込めてるの。えーっとー、そーだねー……あと五分くらいはだいじょーぶかなあ。え? それは無理でしょお。だって、コーシャー・カフェって、アップルとべったべたのべーったりじゃーん! そもそもハウス・オブ・ラヴの下請けみたいな組織なんだから。いくら、こっちが、REV.Mよりもお金払うって言っても聞いてくれないよお……ええー? はいはい、分かりましたー。いちおー聞いてみますー。ちょっと待ってね。

「ロード・トゥルース! キラーフルーツがね! REV.Mよりもたくさんたくさんお金払うから見逃してくれって! ロード・トゥルース! ロード・トゥルース! 聞いてる? 聞いてないや。あ、キラーフルーツ? ダメダメ、やっぱり聞いてくれないよ。え? うん、そーそー、そーいうこと。

「それでねーえ、さっきも言ったけど、なんとかかんとかロード・トゥルースのことをこーそくしたのね。でもさーあ、そーする時に、やっぱりデニーちゃんも被害をこーむっちゃって。えーっと、具体的に言うと、まず右腕がダメんなっちゃったでしょお。それから、左足をショットガンでずばばーんってされちゃって。それで、その時に、魄に罅が入っちゃったのね。その罅が、今、全身に広がってて。そーそー、今、ちょーっと不味いじょーたいっていうか。うーん、一言で言っちゃうとね、このじょーたいだと、デニーちゃん、あと一時間で死んじゃいそーな感じなんだよね。

「あははっ! そーそー、それで、しかも、あと五分……っていうか三分もしないうちに、ロード・トゥルースがこーそくからじゃじゃーんって感じで抜け出ちゃうでしょお? もうさーあ、これって、ちょーやばやばのやばって感じじゃない? うんうん、もう、ぜーったいに勝てないんだよね。今のデニーちゃんだと。

「だからさーあ、その、お願いってゆーのが……あー、そーそー! そーいうこと! 許可が欲しいんだよね。デニーちゃんが、全部全部の力を解放する。たぶん、そーすれば勝てるから。ええー? そりゃー、絶対じゃないよお。だって、相手はロード・トゥルースだよ? だ、か、ら、そーんなこと言ってる場合じゃないんだって! あと二分くらいで、ロード・トゥルースがこーそくから脱出して、それで、ぜーんぶ終わっちゃうんだよ? え? あははっ、だいじょーぶだよ、ここ、アーガミパータだよ? デニーちゃんが全力を出したくらいで壊れちゃうよーなところじゃないって! んもー、キラーフルーツってば、心配性なんだから!

「え? いいの? 許してくれる? やったー! うれしー! わーあ、デニーちゃん、全力を出せるのなんて、何年ぶりだろ。あれだよね、この間、ピープル・イン・ブルーの子達とどんぱちぱっぱってした時以来だから……え? あははっ、分かってる分かってる。はいはい、分かりました、今誓いますよー。デニーちゃんは、解放した力を、ロード・トゥルースを倒すこと、真昼ちゃんを守ること、この二つ以外には使いませーん! また、仮にこの二つの目的を達するためであっても、キラーフルーツに反乱する目的には絶対に使用しませーん。これでいい? じゃあ、解放して。

「あっ……!

「ふふ。

「ふふふふ。

「ふふふふふふふふ。

「うん。

「分かった。

「なるべく早く終わらせるよ。

「明日には帰れると思うから。

「んー。

「ばいばーい。

「ぴろぴろりーん。」

 デニーは。

 通話を。

 切って。

 暫くの間……静かに、静かに、そのままでいた。まるで、どこか、深い深い海の底へと沈んでいく、恐ろしい怪物のように。両方の目をつぶって、ただただ世界の終りのように静寂でいた。黙示録の最初のページ。エゾテリコス、エゾテリスム、内側に隠された奥義が明かされる。まるで死人から内臓を取り出すようにして秘密が明かされる。それから、不完全な被造物は消え去り、新しい、完全な、創造が、行なわれる。

 アラリリハ、主の栄光。デニーは……目を開いた。きらきらと、底知れぬところの穴を開く鍵を与えられた星のように輝く目を。薄く、薄く、笑って、いる。まるで人間のような顔をして。死を求められても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げていく、そのような生き物を見て、ひどく無垢な顔、ひどく純真な顔、を、して、笑っている子供のような顔をして。

 そして、なんていうこともないとでもいういうみたいにして立ち上がる。残っていた右足と、吹き飛ばされた左足と、で、立ち上がる。立ち上がって、その左側の腿から先の部分は、ぶらぶらと、引きちぎられたままぶら下がっていただけなのだけれど。それでも、そんなことは大したことではないとでもいうように、デニーは、ごくごく普通に、そこに立っている。

 「さてさて、礼儀作法のお話です!」そっと、今、目の前で死んでいく、聖なる、聖なる、子羊に、口づけを落とすようにして。やがて生き返るその子羊に口づけを落とすようにして、あわやかに、唇を開く。「ロード・トゥルースのように、えらーい人が目の前にいる時には!」ああ、その声は、まるで……まるで……悪魔のように。誰よりも力強く、誰よりも主に愛された、悪魔のように。「おぼーしを取らなければいけません」。

 デニーは、そう言うと、右腕を差し上げた。捻じ曲がり、叩き潰されて、明らかに使い物にならないはずのその右腕を。事も無げに動かして。そして、その先にある右の手のひらが、デニーのトレードマーク、ともいえる、あのフードに触れた。

 真昼は、その瞬間、初めて思い至った。そういえば、デニーは、真昼と出会ってから。このアーガミパータで行わわれた全てのこと、あのめちゃくちゃな冒険の間中、ずっとずっと、そのフードを取ることをしなかった。一度も、一度たりとも。何があっても。昼も夜も、話している時も食べている時も、ミセス・フィストと戦闘を繰り広げている時も、ミヒルル・メルフィスのswarmを滅ぼしている時も。そのフードを取ろうとはしなかった。

 そのフードを、今、デニーは、取ろうとしている。真昼は、なんだか、燃える炎に燃やされているような、凍る氷に閉ざされているような、全身に、耐えられないほどの力が流動している、そんな感覚を抱いていた。力、力、純粋な力。それは……歓喜と、畏れと、だった。選ばれたことの歓喜。選ばれたことの畏れ。その二つが、身の内を駆け巡る。選民、聖徒、災害の後に、たった一人生き残るということの証。全ての全てが終わった後で、主の御座の左側に座ることを許された者の感覚。デナム・フーツ、デナム・フーツ、もしかして、あんたは……そして、それから、デニーは、真昼の目の前で、初めて、そのフードを取る。

 ずるり。

 と。

 まるで。

 卵から。

 九匹の。

 蛆虫が。

 生まれてくるかのように。

 その。

 フードの。

 下から。

 現われる。

 美しい。

 美しい。

 九本の。

 角。

 王冠。あたかも、絶対的な権力と権威とを有する一人の王が、その冠に冠する、光り輝く光で出来た冠のように。フードの下、に、あった、デニーの頭部には、九本の角が生えていた。完全な白。全き空白、何も書かれていないタブラ・ラサ、世界が描かれる前の主の計画書よりも真っ白な白。一本一本が、まるで蛆虫の体節のように、複数の節に分かれていて。右側に三本、左側に三本、後ろ側に並んでいる三本。そうして、ゆっくりと、柔らかく、内側に向かって弧を描いている、瀆聖の角。

 真昼はその胸の中の心臓が高鳴るの音を聞いていた。魅了されていた、誘惑されていた。そこに現われた九本の角に。とろとろと全身が溶けて、甘く甘く腐り果てていくかのような快感。あまりの快感のせい、で、頭蓋骨の中、ちかちかと火花が瞬いている。ああ……なんて……なんて……希望。それは邪悪であった。邪悪であるほどに希望であった。世界の全てを犠牲に捧げて、そうして初めて現われる、宝石のような恒星、に、似ている。始まりの、終わりの、明星。つまりそれは悪魔の角。

 そうして。

 真昼は。

 ふ。

 と。

 気が付く。

 デニーの身体が。

 徐々に。

 徐々に。

 ああ……

 それは。

 いと高きところに住まう。

 神々の、ごとく。

 デニーが、大きく、大きく、両腕を広げて。まるでティンダロス十字に架けられたトラヴィールのような姿をして、少しずつ、少しずつ、上へ、上へ、昇っていく。どういうことなのか、最初は分からなかった。しかしながら、次の瞬間、真昼は気が付く。デニーは……その姿は、変態していた。いや、というか、そもそもそうであった姿に、デニーが本来そうであった、怪物の、怪物の、暗く広い海に棲む怪物の姿に戻ろうとしていた。

 笑い声が聞こえる。既に、人間とはかけ離れたものとなった、悍ましい、惨たらしい、笑い声が。「あははっ、あははっ、あっははははははははははははははははっ!」。そして、その笑い声を笑っている口は、次第次第に歪んでいく。

 ぐじゅり、ぐじゅり、ずるずる。デニーの口の、左側と右側と。その両側から、大顎が突き出してくる。それは、まるで鋭い牙のような。蛆虫が有するところの大顎だ。また、それに伴って、顔の全体も変形してくる。

 二つしかなかった眼球。顔の全体が、ぼこり、ぼこり、と泡立って。そして、その眼球の数は九つにまで増殖する。顔の上部は全体が眼球によって覆われて。そして、その一つ一つは、白目と虹彩との区別のない複眼。

 全体が緑一色に塗り潰された眼球……それから、角と角と、その隙間に生えていた髪の毛、も、緑色だった。その髪の毛、あたかもデニーの身体から漏れ出るエネルギーの象徴のように。燃え上がるアウラに変化する。

 また、いうまでもなく、変化はその頭部だけにとどまるというわけではなかった。デニーの、その背中からは。天使の蛹から一匹の天使が羽化するかのように、名状しがたいほどに恐怖に溢れた翼が生えてきていた。それは、間違いなく天使の翼であって、それを覆う一枚一枚の羽根は、苦痛と絶望と、それに絶対的なtyrannyの……透明な色をしていた。透き通った翼は、数えてみれば、一枚、二枚、三枚、四枚。完全変態の昆虫のそれのように四枚。

 それから。昆虫。昆虫。明らかに人間の模倣であることをやめたデニーの器官。異様に畸形し、肉というよりも透き通った宝石のような外骨格に包み込まれていく。それは腕だった。デニーの腕だった。もともと一つしかなかったはずの関節は昆虫のそれのように二つに増殖する。肩と呼ばれる構造だったはずのその部分は基節へと変化する。捕食昆虫のそれのように、ずるりと、だらりと、長奢に滴り落ちるようなその腕の先端。その指先は、何か奇妙に細長く、何か奇妙に多節に分かれ、あたかも真銀によって形作られたいびつな細工物のようだ。

 そして、その、美しい、美しい、まるで一つの宗教画のような身体の中で。最も特筆すべきものは腰から下の部分であった。その部分は……既に、人間に似たものとしては完全に失われてしまっていた。リチャードに吹き飛ばされた左脚も、無傷のままで残存していた右脚も。デニーは、それを脱ぎ捨ててしまっていた。そう、そうだ。人間の足のようなもの、そのような不完全な器官は、デニーのような完全な生き物には似合わない。

 その代わりに、デニーのその部分は……星になっていた。これは比喩的な表現ではない。腰であった部分から下。それは、本当の本当に、一つの星になっていた。一つの? いや、そうであるのかどうかは難しいところだろう。それは、確かに形状としては一つであったが。ただ、人間的な意味において一つというには、あまりにも多重性であった。まるで九つの星がたった一つの場所に存在しているような。もともとは、この宇宙の全ての秘密事、を、解き明かしする九つの星、九つの刻印を繋ぎ合わせて作られた星座であったはずものが。奇妙な時空の歪みによってぶつかり合い、融合し、アポルオンの不気味な象徴となったかのような。

 そう、アポルオン。それがその星の名前だ。そうであるはずだ、少なくとも真昼はそう思った。それは、人間が星と聞いた時に思うような、不愛想で不格好な、平板な、陳腐な、星ではなかった。複雑な多角形が幾つも幾つも接続し、まるで御伽話の中、絵本の片隅に、主人公の運命を暗示するために描かれている星、みたいな星。きらきらと、まるで子供のように輝きながら、天から墜落してきて。そして、大災害のようにあらゆるものを滅ぼし尽くす星。それは……この宇宙の法則には明らかに従っていない。気まぐれで、自由で、それでいて純粋無垢で。角度、角度、星の棘、毒牙。ゆるやかに回転している。まるで笑っているかのように。

 そのような。

 デニーの姿。

 上空。

 高い。

 高い。

 ところ。

 何よりも清らかな。

 天使のように。

 浮かんでいて。

 ゆらゆらと、ふわふわと、浮遊しているデニーの身体。その下は、ぽっかりと何もない場所となっていたのだけれど。いうまでもなく、デニーの変容はそれでおしまいというわけではなかった。その場所を埋める必要があるということだ。というか、いってしまえば、その姿は、デニーの上半身に過ぎなかった。まだ、デニーは、下半身を現わしてはいなかった。

 デニーの上半身、を、支えている星が。銀河の鉱脈から掘り出してきた水晶のように輝いた。この宇宙で生きている生き物、の、生命を、一匹ずつ、一匹ずつ、食らって。その光によって光っているかのような光で光った。

 ぽっかりと、穴が開いた。デニーが浮かんでいるその真下。星の光に照らし出された絶対的な暗黒の影みたいにして。荒野に、一つの穴が開いた。それはオルタナティヴ・ファクトではない。そうではなく、ただただ……現実世界の虫食い穴だ。現実が、一つの織り成された織物であるとして。その織物を食い破って生きている害虫のようなもの。それが食い荒らした後の穴だ。

 そして、いうまでもなく、その穴の中から、その害虫が姿を現わしたのだ。ぐぼり、どりり、がりん、がりん、ずるずるずるずる、ずるるるるるるるるぅ。It……it writhes! It writhes! それは暴れ、悶え、のたうち回り、捻じくれて、そして、死にゆく者の激痛のような絶叫を上げながらこの世界に姿を現わした。それは蛆虫だった。この宇宙そのものの壊疽の部分に巣食っているかのような、巨大な、巨大な、化け物じみた蛆虫だった。

 それと比較出来るものは、真昼は、カリ・ユガだとかゾクラ=アゼルだとか、そういった化け物しか思い付かなかった。それは飢餓だった。それは暴食だった。それは、決してとどまることのない貪りそのものだった。数十ダブルキュビトの直径。アビサル・ガルーダほどもあるであろう全長。ただ、そのような見た目の大きささえ無意味と化してしまうような、巨大な、巨大な、あまりにも巨大な「力」の存在感。穴から姿を現わしたその蛆虫は、何もかも食い尽くしてしまうであろう馬鹿でかい口を、無限の空漠のように開いて、笑い声を上げている。

 形がないままに蠢いている、見上げるように大きい道化師のように醜悪だった。それでいて……崇高だった。あまりにも崇高だった。その姿を目にした時、その目にした者の口が、自然に、動き、心の底から天使祝詞を唱えてしまうほどに。全き静謐、完全な白。デニーの頭部に生えている九本の角と全く同じ白。何もない、何もない、その内側に、宇宙の外部に広がっている何もない絶対的な空白を閉じ込めた……そう、その中に自由を閉じ込めた磁器の入れ物のような白色。一つの、真っ白な、磁器で作り上げた神々の世界の白鳥のような、そんな白色。

 はははっ!

 そう。

 つまり。

 それは。

 磁器で出来た白い蛆虫。

 それこそが、デニーの下半身であった。その蛆虫には、その蛆虫の計り知れない大きさと比べても、なお不似合いなほどに、物凄い、腕が生えていた。世界を貪り尽くすべくぽっかりと開いた口、そこから、幾つかの体節、下へ、下へ、くだったところ。あががいらしささえ感じるほどに均衡を欠いた形状の腕が生えていた。

 長い、長い、それぞれの長さが百ダブルキュビトはありそうな長さだ。それにも拘わらず、やけに細長い。数ダブルキュビトしかない直径。そして、その腕は、無数の関節に分割されている。腕の先端には、いうまでもなく手のひらが付属しているのだが。その手のひらは、あたかもこの現実そのものを傀儡する傀儡師のように。あるいは、もっと直截的にいえば、ある種の芸術品であるかのように、繊細に研ぎ澄まされて優美で優雅であった。このような、忌み事じみた生き物のものの手のひらであるとは思えないほど優婉であり……妖艶といえるほど蠱惑的。ただ、そうではあっても、その大きさは、ヴェケボサン程度の生き物であれば簡単に握り潰せるほどの大きさではあったのだが。

 これが。

 デニーの。

 本当の姿。

 その。

 全身の。

 描写だ。

 ああ、そして……アウレオラ。デニーの姿のその背後には、聖なる、聖なる、光背が光り輝いていた。あたかも、それは、悪魔の中の悪魔、王の中の王、を、讃美する、ただただそのためだけに創造された精霊の姿のように。その讃美に歌を歌うや否や、御座の前、あられもない虚無の中へと消えていく精霊のように。禍々しいエネルギーを放つマイエスタス・ドミニが浮かんでいた。緑、緑、緑だった。腐敗する死者のように緑だった。

 それは、その光背は、要するに死に至る病であった。その病は死に至らず。それでは死に至る病とは何か? いうまでもなく、それは、悪魔である。悪魔によって、その命の全てを食い尽くされるということである。その光背は、今までデニーが食らってきた全ての命であった。死に至らしめられた命であった。死して後、永劫、デニーを喝采するためだけに繋ぎ止められた死者の姿であった。ああ、恍惚。ああ、歓喜。閉じ込められた愛。

 ルイ・デナム・フーツ。

 王。

 王。

 夜の王。

 遂に。とうとう。真昼の目の前に、真実の姿を現わしたのだった。それを、真昼は、感じて。人間の不完全な肉体が許す限りの、全ての感覚で感じて。ただただ幸福だった。あたかも、それは、一時間も続くオルガスムスのようだった、あるいは、その肉体の細胞の一つ一つが、楽園に変わってしまったかのようだった。心臓が、静かにときめく。とくん、とくん、とくん。そのたびに、全身に、多幸感が広がっていく。

 まだ汚れていない怪獣。ああ、あたし、恋をしている。真昼はそう思った。そして、それは正しかった。それを、恋と呼ぶのが適切であるならばの話であるが。真昼は死にたかった。今、この時、消えてしまいたかった。なぜなら、真昼は戦慄とともに悟ったからだ。真昼が、この後、どれほど長く生きていこうとも。この瞬間以上の幸福などあり得ないということを。生きてる、生きてる、あたし、生きてる。本当に。

 この瞬間の真昼を、愛だとか、美だとか、信仰だとか、生の躍動だとか、そのようなものと比べて欲しくない。これは……つまりは、被造物感だった。最も純粋な被造物感。つまり、今の真昼は、デニーによって作られた生き物なのだ。真昼がいなくてもデニーはいるが、デニーがいなければ真昼はいない。真昼は、絶対的に無価値だ。デニーにとって、真昼ほど無価値な何かは想定し得ない。真昼は、決してデニーによって愛されてはいない。そうであるにも拘わらず、真昼の全生命は、デニーによってのみ生命であることが許されているのだ。

 これほどの快楽があるだろうか。

 これほどの安寧があるだろうか。

 創造に、被造物の生命は無関係だ。あらゆる救済は、被造物とは関係ないところでなされるがゆえに救済でありうる。理由があって救われるのであれば、それは救いではない。必然、運命、それだけが真昼を真昼にする。

 真昼は、やはり白痴のような顔をしたままで。口の端から、つーっと、涎を垂らしながら。頭蓋骨の中に直接幸福を注ぎ込まれているかのような幸福を感じていた。全部、全部、終わってしまえ。あたしのために。あたしのためだけに。この瞬間の、全てが終わってしまえ。そんなことだけを、完全にイカれてしまった脳味噌で、考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る