第三部パラダイス #42

 と、その瞬間。それは、燃え盛る硫黄の砲弾、光り輝く水銀の氷塊、夜闇を裂く雷鳴の絶叫、一つの時代の終焉を告げる隕石。星が、聖なる二枚の翼を生やした星が、墜落してきた。空から……リチャードの頭上、その真上へと。

 真昼の目の前が、まるで閃光弾が炸裂したかのように、その内側に太陽の光の全てを閉じ込めた閃光弾が炸裂したかのように、ただただ完全な光によって塗り潰される。真昼は、六重の障壁によって守られていたために、なんとかかんとか、視力を失わずに済んだが。もしも、これを直視していたら、デニーの魔学式によって強化された眼球であっても危なかっただろう。それくらい果てしがない光であった。

 そして……真昼は……その光の中に……アビサル・ガルーダ? そうだ、アビサル・ガルーダだ。これほどの光の中で、それでも掻き消されることのないアンチ・ライフ・エクエイションのどす黒い暗黒がそれを証明している。

 確かにアビサル・ガルーダだった。とはいえ、ただのアビサル・ガルーダではない。身体に充満していたセミフォルテアを、多段階的に形而上臨界点まで到達させて、一つの巨大な不定子力爆弾と化したアビサル・ガルーダだ。

 いうまでもないことだ。そう、いうまでもないことなのだ。デニーが、このような生きるか死ぬかのぎりぎりの状況下で、無駄話などするわけがないということなど。デニーが、リチャードの話を黙って聞いていたのは。それどころか、分かり切っていることをわざと分かってないふりをして。する必要もない質問をして、馬鹿みたいに勘違いをして。まるで興味がないことまで根掘り葉掘り聞き出して。そのような全ての会話は、つまりは……サテライトと初めて出会った時にそうであったように、つまりは、時間稼ぎだったということだ。

 これは魔学においては基本中の基本であって。一応は、兎錬学だとか元素学だとか、そういった分野に属する事柄ではあるが、とはいえ、仮にも魔学と呼ばれるものを学んだことがある生き物であれば知らない者などいないであろう常識であるため、くだくだしく書くつもりはないが。形而上臨界点とは、要するに、観念が有する形相構造がプロファーナーレを起こすことによって、「定義」の全体がエネルギーに変換するという、それだけの事態を引き起こすだけの理解不可能性の一点のことを指している。

 要するに、それはある種の禍事であるということだ。聖別によって、瀆信によって、法的秩序から排除されるということ。信仰という力によって、「定義」を「定義」の外部へと引き摺り込むということ。ある種の例外状態。そうすることによって、「定義」が包殻しているディナミー――潜性力の状態にあるエネルギー――を爆発させるのだ。

 これがセミフォルテア爆弾の基本的原理である。この原理を利用して、例えばエレファントなどは、サテライトのアヴァターの形相構造に信仰を激突させることでセミフォルテア爆弾としていたわけだ。

 ただ、とはいえ。実は、これは、魔子型不定子爆弾の構造は、あくまでも基本中の基本に過ぎない。実はもう一歩踏み込んだ構造を持つセミフォルテア爆弾が存在する。それが、いわゆるウニオ・ミュスティカ型と呼ばれるセミフォルテア爆弾だ。

 ここで、少し、先ほどの文章を読み直してみて頂きたい。アビサル・ガルーダが不定子爆弾になってしまっていたことを書いた文章である。そこに「セミフォルテアを」形而上臨界点まで到達させた、と書いてあるはずである。これは、ちょっと読んだだけでは間違っているように思われるかもしれない。なぜなら、そもそも、なんらかの形相構造が形而上臨界点を迎えることによって放出されるエネルギーこそがセミフォルテアだからだ。

 しかしながら、実は、これは全く間違っていない。どういうことかといえば、セミフォルテアも、やはりこの世界における一つの概念である以上、ある種の観念であり、形相構造を有しているのである。

 セミフォルテアの形相構造を形而上臨界点に到達させることで連鎖的アディナトン反応を引き起こし、そもそも存在していたセミフォルテアよりも遥かに膨大なセミフォルテアを発生させる。そして、新しく発生したセミフォルテアを更に爆発させることで……というようにして。実は、セミフォルテア爆弾という物は、無限に爆発させ続けることが出来るのである。セミフォルテアのエネルギーを無限に重ねていくことが出来るのだ。

 これが多段階的なセミフォルテア爆弾、ウニオ・ミュスティカ型のセミフォルテア爆弾である。無論、このような爆発を引き起こすことは容易ではない。そもそも、ある信仰さえ解体してしまうほどの信仰を作り出すこと、例外状態の例外状態を発生させること。その混沌の前では混沌さえも秩序に見えるような混沌。それはもう災害とさえ呼ぶことが出来ないものだ。一つの世界の終わりとでもいうべき現象だ。

 そして。

 当然ながら。

 デニー、は。

 世界を終わらせることが出来る。

 悪魔。

 ということで、デニーは、アビサル・ガルーダ自体をウニオ・ミュスティカ型のセミフォルテア爆弾として、リチャードの頭上に叩き落したというわけだ。

 と……セミフォルテアを多段階的に形而上臨界点に到達させる際、一つの重要な問題が立ち現われてくる。それは、その反応、もちろん、段階を踏めば踏むほど強力なエネルギーを生み出すことが出来るわけであるが。一つ一つの段階を踏むためには、それなりに時間がかかるということだ。そして、更に、時間があればあるほどそういった反応の数を重ねることも可能になる。端的にいい換えれば、ウニオ・ミュスティカ型のセミフォルテア爆弾は、時間をかければかけるほど強力なエネルギーを発生させることが出来るようになるということだ。

 だから。

 デニーは。

 あれほどまでに。

 リチャードとの会話を。

 引き延ばしていたのだ。

 さて、死に損ないの鳥の王は、最後の最後の真聖性の欠片を焼き尽くされることによって、天文学的没落、禍々しい彗星に変化した。吹き鳴らされた怒りの金管、傾けられた苦痛の鉢。それは、その主人に敵対する者、疫病の王子を底知れぬところに投げ込まんとして、まるで大群衆の罵倒のような雷鳴を掻き鳴らしながら墜落してくる……いや、ね、こう……もう勘弁して下さい。

 もう無理なんですよ。原稿用紙一万枚も書いてきて、さすがに比喩表現も尽き果てました。そりゃあ、分かってますよ。「破滅」だとか「憎悪」だとか、「洪水」だとか「雷鳴」だとか、もうそろそろいいだろってくらい使い倒してきたから、陳腐を通り越して飽き飽きしてきたっていうその感覚は分かってます。書いてるこっちもうんざりしてるくらいなんです。でもね、もう、無理なんですよ。ほとんど比喩の引き出しは使い果たしてしまっちっちなんで、今更新しい表現とか不可能を通り越して超不可能って状態なんです。なんでね、こう、ちょっとくらい「あ、この比喩前に使ってたぞ」っていう比喩があっても、へへ、許してお願いマイダーリンってことで一つ。よろろっぴね。

 で? えーと、なんだっけ。そうそう、アビサル・ガルーダがリチャードめがけてどっかーんってところでしたね。ただ、実は、まだ「どっかーん」までは至っていないのだった。アビサル・ガルーダは、「どっかーん」する直前。具体的にいえば、リチャードの頭頂部から百ダブルキュビトの距離まで迫っていた。

 さて、一般的に考えれば絶体絶命の状況である。王レベルの生き物をセミフォルテア爆弾に変えて、それを叩きつけるというのは、神々の軍勢を一瞬で蒸発させようという時にしか使わないような攻撃方法だ。ということは、リチャードが、神よりも遥かに強力な生き物でもない限り、この攻撃を生き残ることなど不可能だということである。

 普通であれば、こういう状況下、顔色を変えるものだ。どうしても避けられない終焉に対して絶望的な表情になったり、あるいは、現実を受け入れられずに狂ったような表情になったり。だが、リチャードは。そのような動揺を微塵も見せなかった。

 それどころか、見上げて。そこにアビサル・ガルーダを認めると。ふんっと、鼻の先で笑いさえしたのだ。その態度は、現実逃避のそれではなかった。ただただ、道の真ん中に置かれたバナナの皮を見つけて、そのようなものは破滅の名に値しないと、そういっているかのように。明らかに馬鹿にしたような、明らかに見くだしているような、そんな笑い方だった。

 そして。

 ヒュブリスとしか。

 表現出来ない口調。

「おいおい! デナム・フーツ!」

 大きな。

 大きな。

 声で。

 叫ぶ。

「こんな可愛い焼きヒヨコで俺を殺すだって!」

 それからリチャードは、自分の左腕、頭上のアビサル・ガルーダに向けて勢いよく突き出した。まっさらに開いたままの左の手のひらで、天から降りてくる強い御使いを指し示すかのように。それを書き留めるな、それを書き留めるな。御使いの手のうちにある遠き星々の本を書き留めるな。

 と、その瞬間に……リチャードの、その左手から。何か触手のようなものが紡ぎ出された。それは、とてもとても曖昧で、とてもとても透明で。あり得ないほど非論理的で、そして、笑ってしまいそうなくらいカートゥーンチックな何かだった。透き通るような光が、リチャードの指先から、何本も何本も、吐き出されて。そして、リチャードの手のひらの先で、そのそれぞれの光の糸筋が織り成されていくのである。

 一瞬の出来事だった。真昼が一度まばたきをして、その次に目を開いた時には既にその形が出来上がっていた。それは……大砲? そう、大砲に似ている物、大砲の役割を果たすであろう物。要するに、真昼が上空から見下ろした時に、リチャードの隣に置かれていたはずの、あの大砲だった。

 あの大砲は、いつの間にかなくなってしまっていた。どうせヴァジュラが大地にあるものを叩き潰した時に、跡形もなく消えてしまったのだろうと思っていたのだが。どうやらそういうことではなかったらしい。それは、リチャードが自由自在に出現させたり消失させたり出来る物だったのだ。

 ただ、先ほど真昼が見た時とは少し違った形になっていた。まず、それはずっとずっと巨大になっていた。先ほどは、せいぜいがリチャードと同じくらいの大きさであったが。今となっては長さだけ見てもリチャードの背丈の三倍程度。その砲口部分の直径は二ダブルキュビト近くになっていた。

 また、砲口は円形のままであったが、そこに至るまでの砲身の断面は、完全な円形ではなく少しばかり伸ばされた楕円形になっているのだった。これはひどく不可解なことで、確かにその部分は楕円形のはずなのに、砲口を見ると、まるで騙し絵でも見ているかのように円形になっているのだ。

 その大砲に対してはまともな物理法則が働いていないかのようだった。金属の色をした砲身は、無数の円筒形に複雑に分岐していて。その砲口の地点で再び一つへと収斂している。ただ、そのように円筒形に分岐している必然性を全然思い付けない。砲口の近くには、いかにも意味ありげな色をして光るスイッチのような物が幾つか付いている。だが、そんなところに付いてるスイッチには明らかに意味がない。

 全体的に……以前、真昼が見た大砲と同じように。なんだか、一つ一つの部品が、ただただ格好良いというだけで、なんの意味もないように感じられた。意味がないどころか、世界の法則に矛盾している。まともなデッサンも習ったことがない子供の悪戯書きのように見えるのだ。ただ、それは、論理的ではないがゆえに力を持っていた。つまり、つい先ほど、現代芸術の理論について説明したが。まさにその理論をそのまま実践しているのである。あらゆる技法を破壊した先に現われる純粋な「力」の感覚。その大砲は、まさにその感覚によって形作られていた。

 まるで。

 銃というものを。

 概念の形態まで。

 研ぎ澄ましたような。

 あるいは。

 その銃の支配者である。

 リチャードの、精神を。

 そのまま。

 具象化。

 したような。

 そうだ、よくよく見てみれば。それは大砲ではなく銃であった。あまりに巨大過ぎてそうは見えなかっただけで、それには、確かに、グリップと、トリガーと、そのように見える物が付いていた。ただ、トリガーはあまりにも大き過ぎてリチャードが引けるような物ではなかったし、グリップはあまりにも大き過ぎてリチャードが握ることが出来るような物ではなかったが。

 さて、その銃は既に完成していた。そして、銃口は、リチャードの物であるに相応しく、まるで愚弄するように天空を向いていた。いい換えれば、真っ直ぐ真っ直ぐに突っ込んでくるアビサル・ガルーダの上嘴の先を向いていた。

 下嘴はもうなくなっちゃってるからね。アビサル・ガルーダは、今、リチャードから数十ダブルキュビト程度のところまで迫っていた。一方で、銃は、リチャードの頭上数ダブルキュビトのところに浮かんでいた。

 浮かんでいたというか、虚空に固定されているといった感じだったが。どちらにしても銃口は、大体において地上から十ダブルキュビト程度のところに開いていたということだ。

 アビサル・ガルーダは、凄まじい勢いで落下してくる。時折、アビサル・ガルーダが通過している世界のその部分が、無限に増殖するセミフォルテアのエネルギーに耐え切れず、ばちばちと音を立てて弾け飛ぶ。まるで、その全身にごうごうと鳴り響く万雷を纏わりつかせているみたいだ。けれども、その音を耳にしてさえ、リチャードは動ずることはなかった。

 この世界には自分が恐れるべきものなど何一つ存在していない。pride、dignity、唯我独尊。ただただ究極の自己中心主義者の顔をして。そのような顔をして笑って、自分を虚無から虚無へと葬り去ろうと突進してくる、その巨大な爆弾を見上げている。

 爆弾が。

 銃口に。

 到達するまで。

 あと。

 五十ダブルキュビト。

 四十ダブルキュビト。

 三十ダブルキュビト。

 二十ダブルキュビト。

 十ダブルキュビト。

 九。

 八。

 七。

 六。

 五。

 四。

 三。

 二。

 一。

 その瞬間……「頭が高ぇんだよ!」。があっと、まるで肉食の獣が獲物のはらわたを食いちぎる時のような顔をして笑って。リチャードが「跪け、金翅鳥!」と叫ぶ。

 そして、大砲に向かって開いていた手のひら、いきなりぐばっと握り締めた。すると、大砲の付け根のところに付いていたトリガーが、触れる者もないのに動き出す。

 引き金、ぎりぎりと絞られて、やがて、かちんと音を立てる。その音を合図にしたかのようにして、砲身を形作っていた無数の円筒形が、荒々しい光を放ちながら作動し始めた。一本一本の円筒形が、かぱりと砲身から離脱して。そして、その直線方向は保ったままでぐるぐると回転し始める。光と光とが、あたかも綿菓子のようにして束ねられていって。それから、その光の集合体が銃口に集中する。光が、光が、光が、一つの極点に注ぎ込まれて。やがて、それは爆発せんばかりのエネルギーの塊となる。

 せんばかり?

 ははっ。

 いうまでもなく。

 それは爆発する。

 ずどうっと、音がした。それは銃声。それは発砲。そして、それは僭越であった。明白な事実として、そのエネルギーは、本来そうであるべき「大きさ」を、「強さ」を、「量」を、超え出てしまっていた。それは僭称であった、リチャードは、それほどの強力さを手に入れてはいけないはずだったのだ。だが、そのような決めつけを、いわば「定義」を、軽蔑とともに無視して。本来、何か、この世界の全ての現実を決定している超越者に唾を吐きかけて。その光は、あらゆるものを破壊しうる絶対的な「力」となって放たれた。

 僭主の砲撃は、地上から天上へ、軽々と重力に逆らいながら流星と化して。リチャードへと、あと十数ダブルキュビトの距離にまで迫っていたアビサル・ガルーダ。つまり、その銃口から一ダブルキュビトも離れていないところまで迫っていたアビサル・ガルーダに向かって翔け上がっていく。

 無論であるが、その一瞬後には、砲弾はアビサル・ガルーダに着弾していた。さて、本来であれば……アビサル・ガルーダ、というか、このようなセミフォルテア爆弾を破壊出来るものなどないはずだ。なぜかというと、このセミフォルテア爆弾は既に爆発しているからである。

 要するに爆発しながら落下してきていたのだ。本来であれば、セミフォルテア爆弾が爆発すれば、周囲一帯、撒き散らされた曼陀羅華のエネルギーによって不定子の雲と化してしまうのであるが。例えばエレファントがサテライトのアヴァターをレジスタンスの抵抗力を利用して一方向の爆発へと収束させていたように。デニーも、アビサル・ガルーダが本来有している王レベルの魔力を媒介にして、アビサル・ガルーダを中心とした結界を作り出すことによって、その爆発を空間上の一点に収束させたままで落下させていたのである。

 だから、例え、それを、銃弾が貫いても。どれほど鋭い剣で流水を切っても無意味であるように、無意味であるはずなのだ。まあ、確かに、周囲の結界は破壊されるかもしれないが。爆発のエネルギーは流動的であり、砲弾で一部を貫こうとも、その他の部分はリキッドに流出して、そのままリチャードに向かって降り注ぐはずなのである。

 しかし。

 それは。

 常識に過ぎない。

 そして。

 リチャードにとって。

 常識など、無意味だ。

 はっきりいって、常識などというものは、それに捉われている限りにおいて常識であるに過ぎない。それが、物理法則であろうとも妖理法則であろうとも、そのようなものには絶対に従わないという反骨さえあれば。反逆者であれば、反抗者であれば、反体制者であれば。実は、そのような理不尽な強制に従わなければならないという理由など何一つないのである。羊の皮を破り狼となれば。人は飛べないという決めつけを拒否すれば、人は、空を飛ぶことさえ出来るはずなのだ。

 そんなわけねーだろ! まあ、それはそれとしてですね。けれども、とはいえ、少なくとも、リチャードは、常識に従うつもりなどないらしかった。

 砲弾が、アビサル・ガルーダの上嘴に接触すると。ぱきぃんと、合わせ鏡の内側に無限に続く鏡の全てが割れた時のような音がした。アビサル・ガルーダの上嘴が割れる。そして、その一点を始点として……アビサル・ガルーダの全身、逆立したまま怒涛する瀑布のごとく砲弾から放たれたエネルギーの波動が襲い掛かる。

 それは、例えば、ライターの火を吹き消すみたいに簡単なことだった。アビサル・ガルーダが纏っていたはずのセミフォルテア。無限に深化していくプロファーナーレによって、この世界の根底の根底の根底から汲み出してきたところの、神々さえ蒸発させるほどのエネルギー。それが、あっという間に吹き飛ばされたのだ。

 あり得ないことだった。絶対に、あり得てはいけないことだった。ただ、あり得ないというのも、やはり一つの思い込みに過ぎないのである。リチャードは、思い込みなどしない。たった一つ、自らの絶対的優位性を除いて。他者がこの世界に貼り付けたラベルなど、リチャードにとっては、ただただそれは剥がすためだけにあるものなのだ。

 なんにせよ、セミフォルテア爆弾が有していたエネルギー、その熱量もその爆風も。この場所を覆う結界さえも突っ切って、天空の果ての果てまで吹っ飛んで、跡形もなく散乱霧消してしまった。後に残されたのは裸になったアビサル・ガルーダの残骸だけだ。そう、それは残骸に過ぎなかった。反生命さえもとうに保てなくなった死骸に過ぎなかった。

 その死骸が、リチャードの砲弾によって、あられもなく砕けていく。肉が砕け、骨が砕け、そして、そのようにして粉々になった肉体と肉体との断絶面から反生命の原理が滴り落ちていく。それから……ばら、ばら、ばら。この地上へと、惨たらしい肉塊だけが墜落してくる。

 砲弾のあまりの衝撃によって、一度、上空彼方まで吹っ飛んでから。例えば指の欠片、例えば翼の先、腹の肉の塊、腰の肉の塊、そして、嘴の断片。そういったものが、大体、一ダブルキュビト立方くらいの大きさの破片となって、そこら中にばらまかれる。

 そうして。

 その後で。

 その。

 散乱の。

 中心で。

「デナム・フーツ、デナム・フーツ!」

 ぎいっとでもいう感じ。

 凶暴な笑みを浮かべて。

「こんな雑魚が、俺を相手に役に立つとでも思ったのか!」

 子供っぽい優越感に。

 満ち溢れたような声。

「暫く会ってなかったからって、忘れちまったのかよ!」

 リチャードが。

 こう、告げる。

「俺は、レベル7の能力者なんだぜ?」

 レベル7、対神兵器級能力者。これは以前も書いたことであるが、スペキエース等級はレベル1からレベル6までの六段階に分かれている。レベル5の大規模戦闘施設級以上のスペキエースはその全てがレベル6に分類されるのだ。だが、正式な用語ではないのだが。いわゆる俗称として、実は、レベル7という等級が存在している。人間的な文脈を遥かに踏み超えて、神々のような高位のゼティウス形而上体とさえ対等に渡り合うことが出来る能力者。それが、レベル7のスペキエース能力者である。基本的に、王レベル程度までは、レベル6能力者とされているので。レベル7というのは、王レベルの中でも最高レベルの生き物か、もしくはそれ以上の生き物とも対等に戦えるほどの力の持ち主である。

 そう、つまりそれは……リチャードが虚空に紡ぎ出したその銃は、リチャードのスペキエース能力だったのだ。リチャードの能力名はライフェルド・ガンナー。その名の通り、虚無からライフェルド・ガンを発生させる能力である。

 ライフェルド・ガンとは何か? ライフェルド・ガンとは、つまり机上の空論だ。それは、いかなる意味でもあり得ない銃器のことを指す、完全に無意味な単語である。

 リチャードが生まれるまでは、そのようなものはあり得なかった。なぜなら、ライフェルド・ガンは、その定義の中にそれがあり得ないということが含まれているからだ。

 だが、しかし……イースター・バニーの弟子であり、スペキエース研究の天才ともいわれたドクター・ヤングブラッドが通称機関において行なった狂気の実験によって、そのライフェルド・ガンというあり得ないコンセプトが、リチャード・グロスター・サードという形で実現してしまったのだ。

 とにかく、その弾丸は、あらゆるものを打ち抜く。例え神でさえ。例え、この世界とは全く異なった法則の世界からやってきた遺物でさえ。例え、法則そのものを作り上げる超越者でさえ。なぜなら、その弾丸は、ただ単に「あり得ない」からである。その弾丸は、「あり得ない」ということそのものの象徴が結晶化したものなのだ。その弾丸は、あらゆる「あり得ない」を可能にする。そして、リチャードは、そんな弾丸を放つ銃を自由自在に作り出すことが出来るスペキエースなのである。

 つまり。

 リチャードは。

 始祖家のノスフェラトゥであって。

 レベル7のスペキエースでもある。

 と。

 いうこと。

 はっきりいって、リチャードは、この星で最強の生き物のうちの一匹である。これは誇張でもなんでもなく、ただ単なる事実だ。比類なきヴェケボサンであるテングリ・カガン、紫内庁長官の秋津冴子、マルクス家家長のアーデルハイト・フォン・マルクス、ビーゼウトにおいてスペキエース担当事務次官を務めているシャボアキン、魔法少女の支配者ロクショウ、そして、もちろん、最強のノスフェラトゥであるヤラベアム。そういった、いわゆる化け物と呼ばれるような生き物と同じような生き物なのである。

 だからこそ、デニーは、あれほどまでに酷薄な表情を見せたのである。だからこそ、デニーは、これほどまでに冷酷な態度を崩さないのである。この星の生き物のうちで……ごくごく僅かしかいない、デニーを殺すことが出来る生き物。それほど強力な生き物。リチャードは、そのうちの一匹なのだ。

 ああ……

 雨が。

 雨が。

 雨が。

 降っている。

 黒い雨が。

 アビサル・ガルーダの断片から滴り落ちる。

 アンチ・ライフ・エクエイションの、雨が。

 雨の中、たった二匹、立っている。この星で最も強力な生き物のうちの二匹。立ったままで、身動きもせず、ただただ向かい合っている。悼んでいるかのようだ、悼んでいることの真似事をしているかのようだ、たった今、あまりにも無残な死を迎えた鳥の王を。降り注ぐ雨が怪物どもの表側の装丁を濡らしている。だらだらと、二度目の死を迎えた鳥の王の、その反生命の原理が、怪物どもが装った姿から滴り落ちている。

 ふと、デニーが。

 右手を差し出す。

「あーあ。」

 その雨のしずくを。

 手のひらに受け止めながら。

 軽く、首を、傾げて、言う。

「カリ・ユガに怒られちゃうよお。」

 デニーはそう言うと、真銀の鈴の音を鳴らすようにくすくすと笑った。その笑い声は、真昼には、ぞうっとするほど密やかなものに感じた。確かにそれは無垢だった。確かにそれは純粋だった。だが、今までのようなどこか柔らかい感じはそこにはなかった。ただただ冷たい、凍り付いた恒星のように冷たい。

 一つ、奇妙なことがあった。デニーは、今の攻撃が失敗したということにあまりダメージを受けていないようなのだ。まあ、それは、アビサル・ガルーダなんて、デニーにとっては駒の一つに過ぎないかもしれないが。それにしても、なんというか、まるで、予めこうなることが分かっていたかのようなのだ。

 ということは、デニーは、全く無意味だと理解していながらアビサル・ガルーダを浪費したということか? デニーが、このような状況下で、そんな無駄な行動をとるだろうか。ただ、そのことについて真昼が深い考えに至る前に……リチャードが、また、口を開いた。

 「さてと」にやにやと、明白な嘲笑を浮かべたままで言う「これで、てめぇの悪足掻きは終わりだな」。それに対してデニーが何かを答える前に、畳みかけるようにまくし立てる「くっ……ははははははははっ! 無駄、無駄、無駄なんだよ! もしもだ、仮にだぜ、てめぇが百パーセントの力を出せる状態なら勝ち目もあったろうがよ。だが、今のてめぇは、どうだ、どうだよ、その姿! そんな状態で俺に勝てるとでも思ったか! 万に一つでも億に一つでも兆に一つでも無量大数に一つでも! 俺に勝てると思ったのかよ! んなわけねぇだろ現実を見ろ! てめぇは、俺に、勝てねぇんだよ。絶対に絶対に勝てねぇんだ。だから諦めててめぇの後ろにいるそのメスガキを俺によこせ!」。

 デニーは、リチャードの言葉に「んー、どーしよっかなー」とかなんとか言いながら、暫くの間、考えていた。いや、考えるふりをしていた。デニーのそれは、本当に逡巡しているのではなく、明らかに自分は逡巡してますよという演技をしているに過ぎなかった。初めから決まっていたのだ。答えは。だから、デニーは、その暫くという時間が過ぎ去ると。ぱっとした笑顔、透明な真空の結晶みたいな笑顔をして、こう答える「やっぱりダメー」。

 と、瞬間。

 そ。

 れ。

 は。

 変貌。

 リチャードの身体が、目に見えて、ホモ・サピエンスに酷似したそれとは異なったものへと変化し始めた。もう少し端的にいえば、リチャードは異形へと歪み始めた。まずは……その口元だ。吸痕牙、つまり生けとし生きる者の生命力を貪るための器官を剥き出しにしたままで。その口が、目に見えない力によって引き裂かれるかのように、壮絶に裂けていく。ざりざりと音を立てるかのようにして、右の口の端は右の耳元まで、左の口の端は左の耳元まで、達してしまう。更に、吸痕牙までが。先ほどまでは、少し長い犬歯といった程度でしかなかったのに。その全長も、その周囲も、鍾乳石が形成される映像を早送りした時のようにして、数倍の大きさに膨れ上がる。あたかも残忍な意図を持って研ぎ澄まされた二本の剣のようなものに変わっていく。スーツに包まれた全身、の、筋肉、が、しなやかな金属を鋼線に加工して、それを束ね合わせたものであるかのように、硬質でありながら柔軟性を持つ、凶暴な獣のそれに、脈打ち、脈打ち、ながら、変わっていく。スーツから見えている手のひら、あるいは指先。指の一本一本が、なめらかに動く機械仕掛けの鉤爪みたいに、長く長く、鋭く鋭く、引き伸ばされていく。もともとの指の二倍ほどもあろう長さ、それは、より獲物を掴みやすくなり、より内臓を抉り出しやすい、そのような形になる。そして、最後に、その羽だ。二枚の羽、今までは、せいぜい、リチャードの身長よりも少し短いくらいの長さしかなかったのに。長く、長く、贅長、長奢、星のない夜が広がっていくかのようにして拡大していく。いや、変化は長さだけではない、二枚の羽は、もう、それらは、飛行の用途に供されるそれではなくなってしまっていた。それらは凶器であった。それらは巨人の首を断ち切るためのシャリテ・ド・シャノンのように、明確な殺意の象徴に変化していた。

 そうだ。

 この姿が。

 この姿、こそ、が。

 ノスフェラトゥの。

 万物の霊長の。

 本当に。

 本当の。

 姿。

 その変化は、一瞬だった。月並みな例えではあるが、世界が息を飲むよりも一瞬。そして、その一瞬の後に、ふっと、消えていた。リチャードの姿は……もちろん、いうまでもなく、本当の意味で消えたというわけではない。移動したのだ。今までリチャードがいた一点を任意の一点とすると、そこから別の一点に。

 どこか?

 どこか?

 その一点とは。

 どこか。

 などと。

 思う。

 暇さえ。

 与えず。

「わーあっ!」

 と、デニーが声を上げた。それは、まさか、悲鳴? デニーが悲鳴を上げたとでもいうのか? 確かに、そこまでの悲壮感もそこまでの驚愕感もなかったが。それでも、その声は、ある種の叫喚であった。真昼は、慌てて、リチャードがいたはずの場所から目を移す。デニーがいるはずの、その場所に。

 そこで……起こり得ないことが起こっていた。絶対に、絶対に、何があっても起こってはいけないことが起こっていた。そんな……そんなことが……真昼は、自分が息を止めたことさえ理解出来ないほどの絶望感で息を止める。デニーが、あのデナム・フーツが。邪悪が、夜の王が。リチャードの一撃をまともに食らって、吹っ飛ばされていたのだ。

 いや、正確にいえば、ぎりぎりのところで、少なくとも致命傷を負わないように回避していた。だが、それでも、リチャードの攻撃はデニーの身体にクリティカル・ヒットしていた。

 リチャードは、長く長く伸びた指、多関節の指を一つところに折り畳んで。奇妙に複雑な拳を形作り、その拳によってデニーを殴りつけていた。デニーは、その拳、危うく顔面に入るところだったその拳を、右の前腕で受け止めようとして。その衝撃を受け止め切れず、あたかも放り投げられたかのように飛んでいた。

 一ダブル、二ダブル、三ダブル……五ダブルキュビトも吹っ飛んでから、ようやく受け止めたエネルギーも分散してきたらしい。受け身をとるみたいにして、くるんと一度、空中で回転すると。そのまま、ずざざっと音を立てて、革靴の底、両足のひらを滑らせるように着地する。

 「さすがだねー、ロード・トゥルース」攻撃を受け止めた右の前腕を見下ろしながら、デニーが、独り言のように呟く。「ぜーんぜん衰えてないみたい」その前腕は、どう見ても骨折しているとしか思えない角度で捻じ曲がっていた。暫くは使い物になりそうにはない。

 ただ、そうであったとしても。リチャードは、待ってくれるようなつもりなど毛の先の先ほどもないようだった。五ダブルキュビト程度離れた距離にいる、その場所で。リチャードの手の中には、既に、ライフェルド・ガンが形成されていた。しかも、右手に一挺、左手に一挺、計二挺。それらの形、は、HOL-100LDF、つまりデニーが愛用していたあの拳銃に酷似していた。ただ、それよりも一回りか二回りほど小さい。つまり、HOL-103をベースにして作ったライフェルド・ガンらしかった。

 それらの銃口は、もちろん、デニーの方を向いていて。そして、デニーが着地する前に、既に弾丸は発射されていた。右、左、右、左、右、左、数え切れないほどの銃弾が雨霰のようにして横薙ぎに降り注ぐ。

 それに対してデニーは、ふっと右腕から目を上げると。「わわっ! たいへんっ!」とかなんとか言いながら、そちらの方向に左手を突き出した。そして、握り締めた拳、ぱんっと弾くみたいにして開いて見せる。

 その手のひらには……実は、魔法円が描かれていた。これは魔学者にありがちなことであって、デニーもそうしているのだが。体の様々なところに、魔法円や、魔学式や、そういったものを描いておいて、いざという時に発動させるのである。ちなみに、こういう「備え」は、あまり頻繁に使ってしまうと、そのような「備え」があるということが相手にばれてしまうため、本当の本当にマジでヤバい時しか使うことがない。

 つまりは。

 デニーにとって。

 今が。

 その。

 本当の。

 本当に。

 マジで。

 ヤバい。

 時。

 魔法円が光り輝く。生まれてから一度も眠ったことのない誰かが白昼の幻想として思い浮かべるような、不可思議な緑色の光を放つ。デニーが魔法円に魔力を送り込んだのだ。

 その魔法円は……カトルー・ロゴスと呼ばれる、非常に特殊な魔法円だった。今まで触れてはこなかったが、魔法円というのは、実は、一般的には二つの種類に分けられる。まず一つ目が、今まで出てきたような具体言語型の魔法円。これは、ジャーンバヴァ語や易語、ホビット語のような、その構造自体に根源的な原理を秘めている言語を利用する魔法円である。一方で、もう一つ、抽象言語型魔法円というのがある。これは、その名の通り、シニフィアンを通過することなく直接シニフィエを呈意するタイプの魔法円である。これは、ノスフェラトゥのようにゼノン小球が発達した種類の生き物が使う魔法円であって。そもそも、そういった生き物は記号を通過することなく思考を伝達するので、使用する魔法円も非常に抽象的な概念の形をとるのだ。

 カトルー・ロゴスは、この二種類の魔法円の性質を同時に持つ珍しいタイプの魔法円である。共通語に直すとすれば「普遍的な筋書き」の魔法円とでもいうべきか。

 まず、最初の状態において、カトルー・ロゴスは抽象言語型の魔法円である。つまり、それは具体的な言語の形を持つわけではなく、抽象的で曖昧な思考を魔学的に表現したところの、非記号的なエネルギーの塊に過ぎない。

 ただし、その魔法円が発動するに至っては。エペイソディオナイズと呼ばれる特殊な反応が起こる。これは共通語でいえば「場面的具体性への落とし込み」とでもいうべき単語である。どういうことかというと、魔法円が発動するまでは、カトルー・ロゴスは、どのような観念の形態もとることが出来る非常に普遍的な詩学状態を保っているが。発動した瞬間に、その魔法円の析出者にとって最適化された具体言語型魔法円に変化するのである。

 このような魔法円は、抽象言語の段階、つまり記号化されていない思考の段階で、魔学的な諸本体及び魔学的な諸現象に介入することが出来るほどの精神力を持っていなければ使用出来ないため、人間のような下等知的生命体には使いこなすことなど出来るわけもないが。強くて賢いデニーちゃんにとっては、手軽で余裕のぱっぱらぱーなのだった。

 いや。

 そういう。

 理論的な。

 側面は。

 どうでもいいとして。

 とにかく、デニーがその手のひらを開いた瞬間に。ただただ無秩序な準混沌に過ぎなかった魔法円に恣意が介在し始める。全ての記号の種結晶となるべき零記号、それは、つまりは「dia」、「それゆえに」という前置詞だ。いうまでもなく、具体的言語は完全な無意味ではあり得ない。口を開いて声を出す「A」という音節がゲバルにおいて始まりを意味しているように。口を閉じて声を出す「N」という音節がアーガミパータにおいては終わりを指し示すように。あらゆる言語は、具体的な状況下において「それゆえに」発生するものである。

 恣意とは、常に、現時点における個別的な条件に拘束されているのだ。そして、現時点において、デニーは……危機的状況にある。そうであるならば、ここで析出されるべきは一体どんな魔法円であるべきか? 外部から襲来する有害性を防ぐための魔法円だ。つまりは、防御の魔法円だ。

 「それゆえに」、カトルー・ロゴスは変性する。今まで纏っていた普遍性を脱ぎ捨てて、それはただ一度限りの現実における統辞へと羽化する。

 デニーの手のひら、描かれていた光の観念的凝塊がふわりとほどけていく。そして、その光から、ぽうっ、ぽうっ、ぽうっ、という感じ。まるで煙草の煙、幾つも幾つも、リングにして吐き出すみたいにして。具体言語型の魔法円が吐き出される。

 その一つ一つ、それぞれの魔法円が防御の意味を有する魔法円だった。非常に端的に……ただし、デニーにしか理解出来ない言語によって。ただただ「防壁」とだけ書かれた、その単語が、「蛆虫の九角形」と呼ばれる特殊な図形に囲まれている。

 そのような魔法円、デニーの目の前、数え切れないほどの枚数が発生して。その一枚一枚がデニーに対する攻撃を防ぐ盾となったということである。

 直径にして二ダブルキュビト程度、デニーを覆い隠すには十分な大きさである。厚みはほぼゼロに近いが、これは観念的な力であるから、物理的な形状は強度には関係していない。とにかく、そのような盾が、少なくとも、現時点で十枚以上、立ち塞がっていて。更に、その数は今まさに増殖している。

 あたかも真銀で出来た壁のごとく。

 これ以上は、考えられないくらい。

 完全な防御。

 で。

 ある。

 はず。

 だった。

 そうだ、それは何ものも破ることが出来ない絶対の防壁であるはずだった。それなのに、リチャードの放った弾丸、その最初の一発が、最外縁の光の障壁に触れた途端……かりんっという、びっくりするほど呆気ない音を立てて。たった一発の弾丸によって、盾、の、一枚、が、割れた。

 しかも、それは、エレファントが罪食いの魔法円を叩き割った時のように、様々な小細工を弄してようやく割ることが出来たというような生易しい割れ方ではなかった。単純に力によって押し負けたのだ。リチャードの弾丸が持つ純粋な力があまりにも大き過ぎたがゆえに割れたのだ。

 確かに……さすがに、一発の弾丸が割ることが出来たのは一枚の盾だけであった。だが、しかし、リチャードは、凄まじい勢いで連射、掃射、集中放火を行なっていたのだ。銃弾は、ライフェルドの豪雨となってデニーに向かって降り注いでいるのだ。

 カトルー・ロゴスが盾を作り出す速度は、冗談ではないかと思うほどの迅速であった。ほとんどマシンガンでぶっ放しているのではないかと思うくらいの生産効率で盾を発生させていた。けれども、それでも、リチャードが放つ弾丸の迅速に追いつくほどではなかった。次第に、次第に、デニーは、競り負け始める。このままでは、全ての盾が叩き割られるのも時間の問題だろう。

 その前にデニーはなんとかしなければいけなかった。だが、一体どうすればいいというのか? 盾を発生させる力を少しでも弱めれば、弾丸は、一瞬にして到達してしまうだろう。デニーは「わーわー! ちょっと待って待って待って!」とかなんとか言いながら、それでも、どうしようもなかった。

 弾丸が。

 デニーに。

 届くまで。

 あと。

 五枚。

 四枚。

 三枚。

 二枚。

 一枚。

 「あっ……!」と、デニーが声を上げた。最後の弾丸、が、遂に、最後の盾を突き破って。そして、デニーの顔面に向かって、空間を疾駆してきたのだ。「やばっ……!」と口走りながら、デニーは、慌ててその身を左側に向かって投げ出す。まるで、一匹の兎が、猟師の罠から逃れるようにして飛び退る。

 本当に、すんでのところだった。あと一瞬遅れていたら、その弾丸はデニーの眉間を撃ち抜いていただろう。弾丸は……あたかもスローモーションのように……デニーの顔のすぐ横を……通り過ぎていって……そして、その瞬間に、その弾丸は、デニーの頬を掠めていった。

 そう、デニーの頬を引っ掻いていったのだ。ああ! デニーが、あのデニーが! その弾丸を、避け切れなかったのだ。その弾丸は、デニーのことを撃ち抜けはしなかったが。それでも、デニーの頬に、一筋の傷を付けていったのである。

 信じられないほどぎりぎりの攻防だった。少なくとも、デニーにとっては。一瞬でも気を緩めたら、その直後に死んでいるような限界線における命のやり取りだった。ただ、とはいっても。その弾雨を切り抜けたことで、ほんの僅かに。一瞬の一瞬の、そのまた一瞬程度の余裕が出来た。そして、デニーが次の行動をとるにはそれだけの余裕があれば十分だった。

 横っ飛びに飛んだローファーは、一度、二度、荒野を閉ざす氷の上を蹴り飛ばすと。その次の一歩で、しゃぱん、とでもいうようにして、デニーの全身が消え去った。

 デウスステップをしたのだ。今までは、盾を作るということに全魔力を注いでいたため、他の行動を起こすだけの余裕はなかった。ようやく移動に対して魔力を割くことが出来るようになったのである。

 さて、それではデニーはどこに移動したのか? リチャードは、ぱんっと音でも立てるみたいにして両手のうちに作り出していたライフェルド・ガンを虚無へと返した。それから、深く深く闇に沈んでいく赤色巨星のような二つの眼球、視線を辺りに走らせた。と……そんなリチャードの、すぐ背後。とんっという軽い音が大地を踏むのを感じる。

 そう、デニーは、デウスステップによってリチャードの背後を取ったのだ。ちなみに以前も書いたように、一般的なデウスステップは通過した経路に魔学的な痕跡を残してしまうため、どこに移動したのかということはばればれなのだが。今回、デニーはfurtimを同時に使用した。

 これは、いわゆる修飾魔法と呼ばれる魔法であり、ベースとなる魔法に更に性質を付け加える魔法である。例えば、今回でいえば、ベースとなるデウスステップを「盗人のように」という副詞によって修飾することによって、全く痕跡を残さないデウスステップとしたということだ。

 しかも、デニーの左手。カトルー・ロゴスは、盾の魔法円から変化していた。今までは外敵によって攻撃されている状況だった。だから、それは防御の魔法円を歌っていたのだ。だが、今は、こちら側が攻撃を仕掛ける番である。エペイソディオンは変化した。そうであるならば、その舞台で歌われる歌も変化するべきなのだ。

 デニーの、左腕。手首から先が、巨大な光の剣に変化していた。それは諸刃の剣どころではない。あらゆる場所が刃となっていて、あらゆる場所で切り刻むことが出来る、「切断」という観念そのものの刃であった。「蛆虫の九角形」を鍛錬して作り上げたところの屠獅子刀であった。

 デニーは。

 姿を見せたその瞬間に。

 既に、その剣を。

 振り上げていて。

 その。

 直後。

 リチャードに向かって。

 それを全力で叩き込む。

 例えば普通の人間であれば、そんな攻撃、どうしようもないはずだ。仮に、背後に目がついていて、そのような攻撃を事前に察知していたとしても。それでも、人間の背中には腕も手もない。受け止めることも受け流すことも出来ないのである。

 だが、リチャードにとって幸いなことに。そして、デニーにとっては残念なことに、リチャードは人間ではなかった。ノスフェラトゥだったのだ。確かに、ノスフェラトゥも、背中に腕も手もない。だが、その代わりに、二枚の羽が生えている。

 にいっと、生命を食らうけだものそのものの表情で笑った。それから、リチャードは、右回り、ぐるんと身を翻す。前方を向いていた体をデニーがいる後方に向け直したのだ。その体の動きに合わせるみたいにして、二枚の羽のうちの右側の羽。回転する勢いに任せかまけて、デニーの剣、一気に弾き飛ばした。

 あまりにも凄惨たる膂力だった。羽による攻撃に膂力という単語を使っていいのかは微妙なところであるが、とにかく、デニーの剣は、腕は、まるで雷に打たれたかのように明後日の方向へと滑っていった。

 「はわわわわっ!」とかなんとか声を上げながら、デニーは慌てて態勢を整えようとする。しかしながら、そのような隙を見逃すようなリチャードではなかった。ぎいっという感じ、凶悪な笑顔を、更に更に、酸鼻を極めるかのごとく捻じ曲げて。それから、優雅で高雅で典麗で、そして、野獣みたいに暴力的なノスフェラトゥのダンスを開始する。

 まるで……二匹の蛇が同時に襲い掛かってくるかのようだった。しなやかで、暴虐で、凶悪で。リチャードの羽は、軟質の高極子物質のように柔らかく弾性があった。しかも、それでいて、研ぎ澄まされた金属の刃のように先鋭的であった。

 それが、右から、左から、完全なる同期的攻撃として切り掛かってくるのである。リチャードは、気が狂った肉食獣のような笑い声を上げながら。まるで踊っているかのように、全身を脈動させている。右に回転し、左に回転し、軽く飛び上がったと思えばデニーに向かって飛び降りるかのように突進して。あちらにこちらにステップを踏み、そして、そのそれぞれのステップのたびに、二枚の羽がデニーを襲うのである。

 デニーは、ほんの一時だけ手に入れた優位性を、攻撃の機会を喪失していた。攻撃の道具であったはずの剣は、既に、リチャードの羽による連斬を受け止めるのに精一杯となっていた。いや、それどころか、デニーはまたもや追い詰められ始めていた。先ほどの打撃によって、デニーの右腕は破壊されている。ということはデニーが使用出来るのは左腕だけである。一方で、リチャードは、縦横無尽に二枚の羽で攻撃してくるのだ。

 「やだー! 待って、待って、待って、待ってってばー!」とかなんとか、気の抜けるようなことを叫びながら。それでも、可能な限り最適化された軌跡によって光の刃を滑らせるデニー。二対一の剣戟、その数の差を、デニーは、ただただ速度だけで贖っているようだった。

 ほとんど春先のつむじ風とも見紛うほどの疾走感だ。あるいは、他の例えを使うとすれば、兎のダンスのようにちょこまかと。デニーの動きの基本形は、複雑な螺旋形を描くような多重楕円形であった。つまり、ある一定の方程式、リチャードの攻撃を防ぐために最も無駄がないと考えられる曲線を描く方程式に従って、デニーは、くるくると独楽のように回転しながら、その剣をあらゆる方向に動かしていたということだ。

 いうまでもなく、ただ一つの角度によって回転するというだけでは防ぎ切ることは出来ない。なぜならリチャードの攻撃は、上から叩きつけるようであったり、大地を抉って下から繰り出されたりもしていたからだ。デニーは、そのような攻撃さえも弾き返さなければいけないのだ。それゆえに、その回転は、左右の回転だけではなく上下の回転も含み、また、そのそれぞれの中間を薙ぎ払うような回転さえも行なっていた。

 ただ、それだけの速度によって対応していたとしても。もともと存在している圧倒的な力の差はカバーし切れないらしい。デニーの剣、その空間における滑走は、次第に次第に犀利の感覚を失っていく。剣がリチャードの羽を弾き返す音も、ざりん、ざりん、というように、重い痛覚を含むかのようなものへと変わっていく。

 と。

 次の瞬間。

 遂に。

 頓挫の。

 時が。

 来る。

 がいぃいいいいんというひときわの不協和音を立てて、デニーの剣が、とうとう、リチャードの翼によって跳ね返された。デニーが「おっとと……!」と口走る。方程式が導く座標上のなめらかな曲線、その上を通らなければいけないはずの曲線を外れて、その切っ先が完全に無意味な一点を指し示す。

 そして、そのようなチャンスを見逃すリチャードではなかった。リチャードは、直後、とんっと宙に向かって跳ねて。そのまま、ぐるんと一度、前方に回転した。当然ながら、ただ回転したわけではない。その回転の勢いによって、二枚の羽を重ね合わせて作り出した一枚の巨大な刃、収穫祭の鎌のようにして叩きつけたのだ。どこに? デニーの左腕、その先の剣に。

 ざぐんっ、と、いう、惨憺たるノイズが響き渡る。いうまでもなく、デニーの剣が真っ二つに切断された音である。デニーから切り離された剣の断片。死者さえもその月光に浸せば生き返るであろう、そんな月光にも似た緑色の光。魔法円の一部を、言語の意味的排他性を、形成していたはずの光の束は。粉々に打ち砕かれて……やがては、一つ一つの形式素へと分解されて消えていく。

 これはデニーにとって大変よろしくない展開であった。先ほどまでは、いくら、盾が、盾が、盾が、破壊されようとも。それはいってみれば世界に映し出された魔法円の鏡像が破壊されていたに過ぎなかった。盾は、魔法円というオノマが生み出したフィグーラに過ぎなかったのである。

 しかしながら、今起こったことは、オノマそのものが破壊されたということだ。正確にいえば、そのオノマは非線形要素まで破壊されてしまったわけではない。ただ、それでも、切り飛ばされた言語データの不完全性によって、既に記号連鎖不全性の状態に陥っていた。簡単にいえば、このような壊れかけた魔法円では、もう、リチャードの弾丸を受け止めることは出来ない。

 デニーは……瞬間、消えた。またデウスステップを使ったのだ。これで、ひとまずのところはリチャードの猛攻から逃れられたというわけだ。ただ、とはいえ、デウスステップとて万能ではない。というか、このように、戦闘の最中における一時的な回避行動を行なう場合、デウスステップには致命的な欠点がある。それは、デウスステップはある一点からある一点への移動が一瞬で終わってしまうということである。

 つまり、消えた後は、すぐさま現われなければいけないということである。いつまでもいつまでも消えていられるわけではない。出来ることといえば、リチャードからなるべく見つかりにくい一点に出現するということだけである。

 最悪なのは、このような荒野では隠れる場所などどこにもないということである。とはいえ、真昼をここに残してどこか遠くに消えてしまうというわけにもいかないのであって。もう、ほとんどどうしようもない状況ということだ。

 ちなみに、デウスステップによって、真昼ともにどこかに逃亡するという手であるが。これも不可能な選択肢だ。なぜというに、どこに逃亡したとしても、必ずリチャードは追いかけてくるだろうからである。これは有名な話なのでわざわざ書く必要もないと思うが、例え始祖家ではなくても、ごくごく普通の純種のノスフェラトゥであっても。パンピュリア共和国一つ分がその感覚範囲内に入ってくるのである。もちろん、外縁に外縁に行くにつれて、その精度が落ちていくというのは当たり前の話であるが。なんにせよ、純種の、しかも始祖家のノスフェラトゥの感覚範囲から、デウスステップのような移動手段で逃れ出るということは不可能なことだ。

 しかも……リチャードが手を加えた、この真っ赤なドーム状の結界は。恐らくはワンウェイ・タイプの結界だ。つまり外側から入ってくることは出来るが、内側から外側へと逃れることが出来ないタイプの結界。いうまでもなく、この結界が、もともとはデニーによって作られたものである以上、それを破壊することも出来ないわけではないだろうが。とはいえ、その破壊には間違いなく時間がかかる。そして、そのような時間を与えてくれるようなリチャードではない。

 だから。

 デニーは。

 消えた。

 その後。

 心臓さえ。

 鼓動を打たないうちに。

 また、現われる。

 リチャードの斜め右側。後方、七ダブルキュビト程度先。地上から五ダブルキュビト程度のところ。唐突に、ぽかんと、宙に浮かび上がった状態で現われ出た。当たり前のことであるが、デニーのような強く賢い生き物が、わざわざその移動の範囲を平面上に限る必要などない。三次元のあらゆる場所に、重力の影響を完全に無視して移動することが出来るのだから。

 くるんと逆立ちした状態、頭を下にして足を上にして、ぱーっと両腕を開いた状態で現われたデニー。リチャードは、即座に気が付いて、そちらを振り向く。

 振り向いた時には、腕の中、既に新しいライフェルド・ガンが出現していた。今度はKGSG(KILL GHOUL SHOT GUN)、散弾の飛散方向をある程度調整出来るような特殊な改造を施されたショットガン、をベースにしたらしい形状。ショットガンなので、まあ、両腕で一挺しか持てていなかったが。とにかく、それを、デニーが現われた方に向かってぶっ放す。

 放たれた一発のショットシェルが、途中で炸裂して大量のペレットを撒き散らす。普通であれば、散弾銃によって放たれた弾丸が分散した場合、それぞれのエネルギーもやはり散り散りになってしまうものであるが。ライフェルド・ガンは、無論、そのような「普通」に拘束されることはない。それぞれのペレットが、それぞれのエネルギーの最大値を保ちながら、ただただ広範囲にわたって襲撃するだけだ。

 そのペレットの最初の一粒が、デニーに着弾する直前。デニーのローファーは、踏むべきものの何もない虚空を踏んだ。またもやデウスステップをしたのだ。ペレットの大群は、デニーが消えた後の何もない空間だけを貫いて。そして、デニーは、また別の場所へと移動する。

 そうして、その後で……また、デニーが現われて、リチャードが散弾を放って、デニーが消えて。また、それを、繰り返して。また繰り返してまた繰り返してまた繰り返して、何度も何度も、全く同じ一連の手続きだけが繰り返されていく。

 二人は、全然静止しているというわけではなく、むしろ全力で駆け抜けているとさえいっていいだろうが。それでも、この戦場は膠着状態にあった。

 ただ、とはいえ、デニーの方が若干不利であるということはいえるだろう。なぜというに、以前も説明したように、デウス・ステップは大量の魔学的エネルギーを消費するからだ。そもそも、普通の魔力の持ち主、ツー・ホーンドレベルのデウス・ダイモニカスのような生き物であっても、たった数回のデウス・ステップを行なっただけで相当の疲労感を覚えるほどなのである。それを、こんな、何回も、何十回も。デニーのような尋常ではない魔力の持ち主だからなんとかなっているようなものだが、それでも……これが、百回だとか二百回だとか、そういう回数を超えてしまったらどうなるか分からないだろう。疲れ果てて倒れてしまうとまではいかなくても、やはり少しくらいは動きに鈍さが表われてしまうはずだ。そして、今、この状況では、僅かな鈍さが命取りになる。

 だんだんと。

 だんだんと。

 蓄積していく。

 不利なるものの砂泥。

 これに足を取られるのも。

 時間の問題。

 デニーに策はないのか? ただただ悪戯にゲームオーバーの瞬間を伸ばしているというだけの話なのか? まあ、これまでちょいちょいこういう展開があったのだし、読者の皆様におかれましてはもうすっかりお馴染みになっていらっしゃると思いますが。答えは、もちろん否である。

 その時を待っていたのだ。リチャードが、傲岸不遜の断崖絶壁の下、その下に逆巻いている渦潮に飲み込まれて溺れてしまう時を。普通の純種であれば、まずはそんなことはあり得ない。純種というのは人間的感情を一切持っていないのであって、油断だとか不覚だとか、注意力の欠如だとか、そういった現象から最も縁遠い生き物なのである。ただ、リチャードはといえば、ご覧の通りのリチャードなのであって。ある意味では人間よりも人間らしい人間的感情の持ち主である。だから、リチャードは、戦闘の際、相手を侮るという致命的なエラーを犯しうる。

 さあ。

 デニーの。

 姿。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 消えては。

 現われて。

 それが。

 続いて。

 と。

 遂に。

 その。

 時。

 が。

 来る。

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