第三部パラダイス #41

 真昼のことを、まるでお姫様のように、大切に大切に抱き締めて。いわゆるお姫様抱っこの形、左腕と右腕と、その上に真昼の肉体を優しく虚ろわせて。真昼はデニーの首筋に腕を伸ばしていて……そして、ふわりと柔らかく、静かに、静かに、そのローファーは着地した。壊れ物注意の箱、壊れやすいオルゴールが入った箱。それを、宝石のように美しい凝膠体の中に沈めるようにして。あれだけの高さ、千ダブルキュビトの高さから落ちてきたとは思えない着地、重力など完全に無視した着地だった。

 そのように。

 地に降りた。

 後で。

 デニーは。

 軽く。

 首を。

 傾げる。

 結局のところ、デニーは、その胸に抱かれた真昼は、ヴァジュラが突き刺さってる場所からさほど離れていない場所に降り立っていた。大体、目測で数十ダブルキュビト程度の距離。そしてデニーはそのヴァジュラが突き刺さっている場所を見ていた。というか、その奥にある一点。

 あまりにも歪んでしまっていて、具象的な大きさも観念的な大きさも、もう理解出来なくなってしまっていたが。それでも、その破綻した形状において、ヴァジュラの大体の大きさは、分からないわけではなかった。その幅が、十五ダブルキュビトくらい。厚みとしては五ダブルキュビトくらい。高さとしては七十ダブルキュビトから八十ダブルキュビトはあるだろう。

 デニーの目は、それを見ていた。あたかも座標軸における捻じ曲がった直線の長さを測定しているかのように。いや、というか、その直線によって、証明するべき数式を証明し終えたかどうかということを確認しようとしているかのように。

 それから、やがて、デニーは、軽く肩を落とした。その視線を、ふっと俯けてから。ほへーっと溜め息をつく。「んー、まあ、そーだよね」と、独り言のように呟く。その後で、その腕に抱いていた真昼の肉体を、そっと、震える円形の外周の長さを測定しようとしているかのようにプリサイスな手つきによって、凍り付いた辺獄の大地の上に降ろす。

「デナム・フーツ、あたし……」

「真昼ちゃん。」

「え?」

「ちょーっとだけ、後ろに下がってて。」

 そう言って。

 まるで。

 一つの。

 記号のように。

 微笑む。

 デニー。

 だけど、でも、あたしは……あたしは、何を言葉しようとしていたのだろうか。あたしは、というその単語の後に、一体何を言おうとしていたのだろうか。それは、とてもとても大切なことであるはずだった。絶対に、それは真昼によって口にされなければいけないことで。しかも、この時、この瞬間、まさに今、口にされなければいけないことであったはずなのだ。

 今を逃したら……それは、あまりにも不吉な予感であったが。今を逃したら、それは、二度と口にすることが出来ないことであるような気がした。だって、だって、これから何かが起こるから。何かが起こってしまうから。真昼は、その前にそれを口にしなければいけないのだ。その言葉を、この世界において、それがそうであるようにそうでなければいけないのだ。

 そうであるにも拘わらず、真昼には、それが分からなかった。自分が何を言おうとしていたのか、全然分からなくなってしまっていた。まるで、糸がほどけてしまったようだ。くるくる、くるくると、糸玉が転がっていって。全ての糸がほどけてしまった後の世界のようだ。そして、真昼は、知っていた。そのような出来事は、決して取り返しがつかないということを。

 だから、真昼は、デニーの言う通りにするしかなかった。そうしたくはなかったのに。いや、そうしてはいけないはずだったのに。何かが……何かが、おかしい。全てがおかしい。奇妙に不確定な絶望。曲線を貪り食う多角形のように。無数の直角を睥睨する正円のように。けれど……けれど、そんなはずがない。そんなことが起こるはずがない。だって、だって、デナム・フーツは全知全能なんだから。デナム・フーツは、あたしの、運命なんだから。

 絶対に当たるはずだった予言が。

 外れて、しまった。

 その瞬間みたいに。

 真昼は。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 デニーから。

 離れて。

 後ずさりに。

 退く。

 「ねえ、あんた、大丈夫なの?」思わず口にしてしまったその言葉に、真昼は、自分自身で、息の根が止まりそうなくらい驚愕した。今、今、あたしはなんて言った? デニーに対してどういう種類の言葉を口にした? デナム・フーツが、あのデナム・フーツが! 大丈夫ではないということがありうるというのか? そもそも、大丈夫もクソもないではないか。あの誰か、あたし達を狙ってきたあの誰かは、もう、馬鹿みたいにでかい剣に押し潰されて。死んでる、死んでるよ。もう死んでるに決まってる。でも……本当に、死んでいるの? ねえ、答えて、答えてよ。分かった、あたし、もうあんたに嘘をつくのはやめる。あたしは、不安だ。あたしは不安で仕方がない。この空気が、この旋律が。世界が今、奏でている、この不協和音が。ねえ、デナム・フーツ。大丈夫なの? ねえ、まだ、全てのことは大丈夫なの? 大丈夫だよね、全部全部、大丈夫なんだよね。あたしは、別に、死んでもいい。あたしなんてどうでもいい。最悪の最悪、あたしを殺しても、あたしを犠牲にしても、あたしを見捨てても。あんたは……あんたは、絶対に、生き残るんだよね? 強くて賢いあんたには恐れるものなんてないんだよね?

 デニーは。

 その。

 真昼の。

 激情に。

 答える。

 こと。

 なく。

 ただただ笑っていた。今までとは、完全に異なった笑い方によって。それは、例えるならば、絹のネクタイだとか真珠のネックレスだとか、そういう、一つの礼儀としての笑顔。ドレスコードのような笑顔。例えるならば、葬儀の日に、天使達がその美しい顔を隠すためにつける蒼白の仮面のような笑顔。

 すっと、右の手のひらを真昼に向かって差し出した。親指と、中指と、軽く触れ合っていて。その次の瞬間には、ぱちんと音を立てて、デニーは指を弾いた。それから、それから、弾かれなかった人差指が、真昼のことを真っ直ぐに指差していて。

 その指示に従って、真昼の心臓が、真昼のものではない真昼の心臓が、とくん、と脈打った。いや、まあ、現時点における真昼は生きているので、今までも脈打ってはいたのだが。そのような鼓動とはどこか違う鼓動によって脈打ったということ。

 とくん、とくん、とくん、これは、一体何か? なんだか、聖なる、聖なる……ああ、分かった、これは聖句だ。この心臓に刻まれていた聖句。遥か昔のように思えるけれど、せいぜい数日前。ASKのアヴマンダラ製錬所、ティンガールーム。ミセス・フィストと、その五人の娘との戦闘時に。デニーの放った弾丸によって刻まれた、あの聖句。

 しかし、その聖句は……更に書き換えられていた。最初に現われた魔学式から数えて、それは三度目のars magna。いや、厳密には「書き加えられていた」といった方が正しいだろう。つまり、もともと刻まれていた聖句に、以下の文句が追加されたということだ。「さて、その泉の周りには六人の天使が立っていた。それらの天使は、この世界が大いなる魚に飲み込まれた後に来るであろう夜のための番人であった。一人目の天使は魚。二人目の天使は獅子。三人目の天使は雌山羊。四人目の天使は炎。五人目の天使は蛙。六人目の天使は鷲。六人の天使達は声を揃えて歌った。「アラリリハ、ほむべきかな、ほむべきかな、主の恵み。泉の周りに垣根を巡らせよ。羊毛と真鍮と目と、それに冷たい星とで作られた垣根を巡らせよ。その数は、六の、その六倍のその六倍の更に六倍」。

 ぽくん。

 と。

 音を立てて。

 真昼のものではない。

 その、真昼の心臓は。

 一つの。

 虹色の。

 あぶくを。

 吐き出す。

 最初の時と同じように、真昼の胸の辺りから。時間とも空間とも関係なく、例えるならば、そのような、現実の成立の前提となる構造物の表面に、うっすらと浮かんでいる被膜のような虹色をした。色というよりも、非現実性としての虹色をした、あぶくが、ぷかりと浮かび上がってくる。

 ただ、一点だけ異なっているところがあった。そのあぶくは最初の時とは異なり、たった一つだけしか発生しなかったのだ。どちらかといえば、この聖句が二度目に書き換えられた時。その時に真昼の行動を封じ込めるために発生した六つのあぶくのうちの一つ。大きなあぶくに似ていた。

 ぷかり、ぷかり、と膨れ上がって。そして、その球体は、真昼の全身を包み込んだところの、一つのガラスのペーパーウエイトのようなものになる。まるで、薄汚れて虫食いのある白い薔薇の残骸を閉じ込めた、そんなガラスのペーパーウエイトだ。そのまま、そのあぶくは、ゆらん、と浮かび上がった。地上から数ダブルキュビト程度の高さまで浮かび上がって。そうして、その後で、更なる変化が起こる。

 以前、真昼を閉じ込めた時……その時のあぶくは、それほどの強度を必要としていたわけではなかった。その時のあぶくは、いってしまえば、内側にいる真昼のことを閉じ込めておけさえすればよかったのだから。確かに、真昼は、奇瑞としての奇跡を身に纏ってはいたが。その奇跡の支配権の大部分は、実質的に、デニーが掌握していたのだから。

 しかしながら、現在の、この状況下においては。その程度の強度では、全然、足りないらしかった。少なくとも、デニーはそう考えているらしかった。

 ふっと、虚無から現われた。何か、完全な直線のようなものが。その完全な直線が、もう一つの完全な直線と交差して。そこに完全な角度が成立する。

 それは、薄暗い影のようなものであった。それは、この世界を切開し、そこから吐き出される膿にも似た悪夢のようなものであった。それでいて、それは、完全な輪郭を持った図形なのだ。非現実的なほどの、例えば漫画だとかカートゥーンだとか、そういったものと変わらないほどにはっきりとした形状を持つ多角形なのだ。多角形? そう、その通りだ。直線と、角度と、直線と、角度と、直線と、角度と。それが幾つも幾つも接続することによって、それは多角形を形成していた……真昼を閉じ込めた球体のその全体を囲う、牢獄のような多角形。

 いや、というか、格子状の多面体といった方がいいかもしれない。多角形と多角形とが結び付き合って、それは、例えば極子構造のようなものに似た形状になっていた。それが、まず、一番目の障壁。そして、その外側に、更に、その多面体を包み込むように、二番目の多面体が形成される。絶対的な虚無であるはずの場所から、その確率のパラメーターを、ト・プラグマ・オート、それそのものの非決定性として。その存在が存在として無知になる。

 一重。

 二重。

 三重。

 四重。

 五重。

 六重。

 合計して六重の障壁が形成されたのだ。六重、六重とは! 恐らくは、真昼など理解することさえ適わないような、そのような充溢する統治の忘却に従って。一つ一つの障壁が、そのそれぞれが全然異なった方法でくるくると回転する。一つ一つの障壁が、ゆっくりゆっくり角度を変えていく。あたかも朝日の角度によって、その栄光の方法論を変えていく、教会のステンドグラスのように。

 それは、恐らくは、蟻をも、神をも、通さないような障壁なのだろう。今、ふわりと揺らめいて浮かび上がった雪の欠片が。ゆらゆらと、まるで他人事のようにその障壁へと近付いていく。と、その次の瞬間には。その雪の欠片は跡形もなく消え去っていた。障壁の一つ、一番外側の直線が。すうっと、優しく優しく、その雪の欠片に触れて。その次の瞬間には、その雪の欠片は存在出来なくなっていたのだ。フェト・アザレマカシアによる否定、に、よって、存在ではない存在になってしまったのだ。

 それほどまでに、例え真昼の頬に触れたとして、その頬の皮膚の一番外側の表面さえも傷付けることが出来ないような何かでさえも、通さないような障壁。神学的に形成された……それは、ヨグ=ソトホースの檻。それは、最も強力な、主のご加護。これほどまでに、強く強く、守られていれば。恐らく、真昼は大丈夫だろう。これから起こることの間にあっても、真昼が、傷付けられることはないだろう。ようやく、これで、安心だ。安心して、これから起こることに対応することが出来るわけだ。

 しかし、これから起こることとは一体なんなのか? デニーが、このような張り詰めた感覚を真昼に感じさせたことは。この一週間では、他には、たった一度しかなかった。生命の樹から現われた、蛇。ゾクラ=アゼルとの戦闘の直前。あのたった一瞬、デニーは、真昼に、不安を抱かせた。

 ただ、その時でさえ。デニーは、このような顔で笑ったりはしなかった。その時でさえ、デニーは、いつものように、屈託の欠片さえも見いだすことが出来ない、可愛い、可愛い、贈り物の花束のような笑顔で笑っていた。

 ということは、今から起こることは。これから現われるものは。ゾクラ=アゼルよりも危険な何かであるということか? しかも、それはデニーが予測していなかったことらしいのだ。少なくともゾクラ=アゼルの時は、デニーはそのことについて予測出来ていた。そして、それに対する用意も出来ていた。今から起こることは……それに対する用意さえ出来ていないらしいのだ。

 真昼は。その障壁の中で。虹色のあぶくの中で。震えていた。まるで、死というものを初めて知った子供のように震えていた。自分も、他人も、この世界にあるあらゆるもの。どんなに、どんなに、大切なものであっても。どんなにどんなに失いたくないものでも。絶対に、自分の前から、失われてしまうということ。その「終わり」は避けることが出来ないということを、初めて知った子供のように震えていた。真昼は……今まで生きてきた中で、このように震えたことはなかった。このように怯えたことはなかった。真昼は、デニーのことを見下ろしていた。例えば、一瞬でも目を逸らしてしまったら。その次の瞬間には、その姿が、その形が、永遠に失われてしまうかのように。デニーのことを見つめていた。

 ねえ。

 デナム・フーツ。

 あたし。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 お願い。

 やめて。

 あたしのために死なないで。

 あたしを置いて。

 あんたは逃げて。

 あんただけは。

 あんただけは。

 生き延びて。

 しかしながら……いうまでもなく、デニーは、そのような真昼の恐怖など気にも留めることがなかった。デニーには、既に、そんな余裕はなかった。目の前に存在している脅威、危機、いや、避けることの出来ない絶対的な破滅それ自体。それだけが、デニーにとって、今、思考するべきことだった。

 目の前、目の前、でも目の前に何があるっていうの? ただ、大地に突き刺さったヴァジュラがあるだけじゃない。他には何もない、何もないよ。やめて、そんな顔して、それを見ていては駄目。ねえ、帰ろう、帰ろうよ。何かが起こる前に。何か、とても、とても、良くないことが起こってしまう前に。

 と。

 デニーが。

 一歩。

 前に。

 踏み出す。

 一歩、一歩、もう一歩。太古の昔に滅びた動物の脊髄のように神々しく光り輝くヴァジュラから、十ダブルキュビト程度の距離のところまで近付いていく。そして、そこまで近付いていくと……え? いや、そんな……違う、そんなこと、あり得ない、あり得るわけがない……見間違いだ……そんな、そんな……絶対にあり得ない……デニーが、あのデニーが……跪く、なんて。

 だが、それは現実であった。それは現実に起こったことだった。デニーは、跪いた。右の膝を折って、その膝を地面の上につけて。右の手のひらと、左の手のひらと、それさえも、地面の上について。そして、あたかも、忠誠と忠実と、loyaltyそのものであるかのような態度、深々とこうべを垂れたのだ。ヴァジュラに向かって。いや、ヴァジュラの下にいる誰かに向かって。

 いうまでもなく、デニーが、そう簡単に頭を下げるということはない。デニーが頭を下げるのは、そうしなければならない時だけだ。そうするに値する相手にだけ、デニーは頭を下げる。そして、その男は、まさにそうするに値する相手だった。そう、男だった。その誰かは、とても、とても、高貴な立場にある男だった。例え、この一瞬後に殺し合うのだとしても。砂流原真昼という獲物を巡って、凄絶な死闘を繰り広げることが確定した未来であるとしても。それでも、この瞬間だけは、この男に頭を下げなければいけないほどに。なぜなら、その男の名前は。

 デニーは。

 ふと。

 顔を。

 上げる。

 そして。

 作り物の。

 仮面のような笑顔。

 こう。

 歌う。

「久しぶりだねー、リチャード・グロスター・サード。」

 次の瞬間。世界が、音を立てて崩れた。現実が、音を立てて弾けた。まるで……絵本のページが、神様の気まぐれによって破られたみたいに。真昼の目の前で、何もかもをひっくるめて一つにしたその全てが真っ二つに引き裂かれた。真昼の脳内で、認識が爆発する。今目の前で起こったことの、あまりの、あまりの、偉大さに。そのようにして起こったことを「見た」「聞いた」「感じた」せいで、真昼の内側にあったはずの自我がめちゃくちゃになる。そして、いうまでもなく、それは巨大な断絶となる。

 何が起こったのか? それは……驚くべきことに……弾丸だった。一発の弾丸が放たれた。起こったことは、それだけであった。だが、その弾丸は、ヴァジュラの下、押し潰されたはずの、叩き潰されたはずの、切り裂かれて消え去ったはずの、その場所から発射されたのだ。

 その弾丸は、ヴァジュラに貫かれた大地、そこから一直線、天に向かって飛翹したのだ。いうまでもなく、真下から真上に向かって放たれたその弾丸は、ヴァジュラの刃を発生させていたオリジン・ポイントを貫いて。そして、そのまま、それを粉々に砕いた。いや、まあ、正確にいえば、オリジン・ポイントではなく、オリジン・ポイントと接続している球体を、ということだが。

 まるで小宇宙のよう。その内側に、無数の光を、無数の力を、無数の、支配の可能性を。まるで光り輝く一群の銀河のように閉じ込めていた球体が破裂した。きらきらと、きらきらと、星々の欠片のようにして、その残骸が降り注いでいく。そして、初めからなかったもののように、現実にならなかった可能性のようにして消えていく。

 それは……一体……何が起こったのか? 真昼には分からなかった。分かろうとするための思考さえも残っていなかった。何もかも吹き飛ばされてしまっていたのだ。あまりにも、あまりにも、力強いその力によって。

 力だ。ああ、そうだ、力だ。一つの力が、弾丸となって放たれたのだ。それから、ヴァジュラを、完全な状態のヴァジュラを、セミハとオルハとが一つの奔流となって形作られたヴァジュラを、真っ直ぐに貫通したのだ。

 しかも、その現象は、一発の弾丸で終わることがなかった。ぞぐん、と、いう、音を立てて。ヴァジュラの中心部分を破壊した最初の弾丸。真っ直ぐに、下から上へと、真昼が見ているものの全てを真っ二つに切り裂いた弾丸。それだけではなかった。

 どぐっ、どぐっ、どぐっ……ががががががががががががががががんっ! 無論、それは音とは呼べないような音ではあった。つまり、本来であれば音を発生させるような、その前提条件となる法則。それさえも打ち抜くような弾丸だったからだ。とはいえ、それでも、音に似た感覚ではあった、それは、つまり、世界が震撼する音だ。世界が、あまりにも大いなる力を畏れたがゆえに。その震撼が、音となって、真昼を震わせた、そのような音。

 まず最初に三発。ヴァジュラの、斜め右上、斜め左上、そして、真っ直ぐ前方に斜め上。この世界の最も根源的な力、アーキブームの直後に生まれた力、で、出来た、その刃を貫いた弾丸。光ともいえない光で出来た刃の表面に、ぽっかりと虚無の穴が開く。何もない、何もない、悪夢で出来た疫病のような穴が開く。

 そして、その後は、もう完全な無差別だった。見境なく、片っ端から、手当たり次第。フルオートのアサルトライフルを掃射したかのように。テンプルワーカーで薙ぎ払ったかのように。一斉射撃だった、そのようにして、ヴァジュラの表面の全体が撃ち抜かれた。穴が、穴が、穴が、無限の陥穽のような穴が開いた。

 光が。

 光が。

 光が破れて。

 エクス・ニヒロ。

 闇の裏地が。

 華々しく。

 ゆすらぐ。

 ああ……綺麗だ……どうしようもなく、抗いようもなく綺麗だった。その力の誇示は。魅了されざるを得なかっただろう、仮に、真昼が、デニーによって、文字通り心酔していなければ。いうまでもなく、真昼は、デニーという現象以外の現象を綺麗だと思う心を喪失してしまっていたが。それでも、これを分類した場合、綺麗と呼ばれるその種類のものに分類されるのだろうということは理解出来た。生き物は、何もかも、自らも含めて、その全てを破壊しうる力を。その巨大さを愛するものだ。そして、ヴァジュラを破壊したこの力は、間違いなく巨大であった。

 兎に角。

 魚に毛。

 穴だらけになったヴァジュラだった。ぼろぼろになって、もう、原形さえとどめていないヴァジュラだった。ただ、それでも、辛うじて立っていた。あたかも死んだまま、生命の惰性で立ち竦んでいるリビング・デッドのようにして。「つまり」「まだ」「閉じ込めていた」。それは、閉じ込めていた。主人に対峙する敵を。己の内臓の内側に。

 ただ、当の主人は、もう期待していなかった。いや、最初から、わずか数秒、よくて数分、足止め出来ればいいと考えていただけなのだ。ヴァジュラごときが。この世界の最初の力ごときが。あの男を足止め出来るはずがない。

 もう、いいよ。あははっ、役立たず。そして、直後……歪みに。光り輝く被造物の歪みに。つまり、ヴァジュラの刃に。取り返しのつかない亀裂が入った。あらゆるものに腐敗と枯渇とをもたらす腰の曲がった老人が這い回るようにして。亀裂は、ただの数秒で、ヴァジュラの刃の全体に這い回った。

 そして、パキィイイイインという、綺麗な綺麗な音がした。ああ、そう、それも綺麗だった。遠い、遠い、鏡の向こう側の世界が、たった今、滅びてしまったみたいに。そのせいで、お気に入りの鏡が砕け散ってしまったみたいに。そんな音を立てて、ヴァジュラの刃は、無数の断片になって散乱した。

 きら。

 きら。

 きら。

 煌華で。

 絢爛で。

 まるで。

 真実の。

 露呈のように。

 次々と。

 真昼の。

 視線の先で。

 時空の中に。

 消えていく。

 根源的な。

 力の、光。

 そのような……さんざめく現実の深淵の向こう側に、立っていた。その男が。デニーが、デニーさえもが、その御許では跪かなければいけない男が。

 その男は、真昼が想像していた生き物の様態とはあまりにもかけ離れたatmosphereであった。いや、勘違いしないで欲しい。それは、例えば、生物種としての観点に関する話ではない。その男は、そういう意味では確かに真昼の思った通りの生き物であった。つまり、ホモ・サピエンスに酷似した、高度な把持性を有する生き物ということだ。

 二手と二足とを有し、それらは、恐らくは内部に内臓を有しているだろう胴に接続している。その胴の上部からは適度な長さの首が突出しており、その上には頭部が乗せられている。ここまでは、ホモ・サピエンスとさして変わりがない。ただ、一点だけ、その男が明らかにホモ・サピエンスではないということを証明する身体的特徴があった。

 それは。

 その背部。

 まるで。

 その奥底に、人食いの怪物が、潜んでいる。

 星の死に絶えた、冷たい冷たい夜のように。

 漆黒に染まった。

 二枚の、羽。

 長さとしては、それらの羽を有する肉体の身長と、ほぼ同じくらいと思われた。それらの羽は、例えば鳥類のもののように羽毛によって形作られていたわけではなかった。また、例えば昆虫類のもののように外骨格によって完成していたわけでもなかった。要するに、それらの羽は、皮膜としての器官であった。

 まずは、ホモ・サピエンスでいうところの肩甲骨の辺りから突き出たスパーがある。左右に一本ずつ、これらのスパーはあたかも蛇の脊椎ででもあるかのように無数の関節に分割されている。そうすることによって、羽の稼働範囲を柔らかくなめらかなものにしているわけだ。ただし、これらの羽が武器として使用される時には。これらの関節は、あたかも立体的なパズルであるかのように複雑に噛み合って、そして、決して折り曲げることが出来ないほど強固なものともなりうる。

 そのスパーの先端辺りから、七本のリブが伸びていて。それらのリブとリブとの間に被膜が張り詰めているということだ。ちなみに、それらのリブは、スパーのように関節が分岐しているというわけではない。それらはそもそも硬骨でさえないのだ。どちらかといえば、軟骨のような組織である。正確にいえば、塑像骨と呼ばれる種類の組織だ。繊維状の細胞が鎖のように規則正しく繋がり合って作り出された組織であり、奇妙なまでの弾性と、それに見合わぬ剛性とを両立させている。

 そのような羽、あたかも、権力と威力との誇示のように広げて。つまり、その男はホモ・サピエンスではないのだ。人間よりも、遥かに遥かに力強き生き物。人間が被食動物であるとすれば、その捕食動物。真実の意味における万物の霊長。ナシマホウ界の生き物でありながら、神々さえも殺すことが出来るほどの強者。そう、その男は……ノスフェラトゥだった。

 ノスフェラトゥ。四大高等種と呼ばれている生き物の一種。神話によれば、ノスフェラトゥの起源は聖書におけるサンダルキア・レピュトス記まで遡る。ケレイズィとフェト・アザレマカシアとの戦争が引き起こされた時、フェト・アザレマカシアとの戦闘における軍勢として利用するために、ケレイズィによって生物兵器として作り出された生き物だというのだ。

 その伝説が真実であるかどうかは別として――まあ真実なんですが――確かに、ノスフェラトゥは強力な生き物だった。その強さは、同じ四大高等種のうちの一種であるところのイタクァを、四大高等種戦争において絶滅させたほどだ。恐らくは、ナシマホウ族の中では最強の生き物。

 その強力さは、ノスフェラトゥが、ナシマホウ族でありながらゼティウス形而上体であるということに由来する。いわゆる鬼的ゼティウス形而上体と呼ばれるそれだ。その身体は基本子ではなく彷徨子と呼ばれる特異なエネルギー単位で出来ている。このエネルギー単位については、そもそも研究自体が全然進んでおらず、そのため、このエネルギー単位が現実においてどのような「意味」を有しているのかということさえ未だに理解されていない。

 噂によれば、オーヴァーロード計画のCHILDREN-1実験において、謎野研究所所長である謎野眠子の協力のもと、イースターバニーがその「意味」の完全解明に成功したということであるが。イースターバニーは現時点において行方不明であるのだし、謎野眠子のようにのらりくらりと捉えどころのない人間から何か非常に重要な事実を聞き出すというのは土台不可能な所業である。ということで、彷徨子についてはここでは触れないことにしよう。

 ちなみに、一つだけ付け加えておくと。この彷徨子という名称は、ホビット語におけるfluctuclaという単語の直訳であり、あまりいい訳とは言えない。実際には、変動子だとか、あるいは「揺らぎのエネルギー」と呼んだ方がいいだろう。エネルギー単位における独立性が安定していないということから名付けられた名だ。

 なんにせよ、ノスフェラトゥが、そのエネルギー的なレベルの構造からして、ホモ・サピエンスなどとは比べ物にならない絶対的強者であるということ。そして、デニーが跪いている男が、そのノスフェラトゥであるということだ。

 ただ、そのことも、真昼が感じたこと、真昼が想像していた生き物と、実際にそこにいた生き物と、その拭いがたい違和の感覚とは関係なかった。真昼は、この一週間で、デウス・ダイモニカスとともに革命に参加し、洪龍との会見を果たしたのである。今更、ノスフェラトゥごときには驚かない。

 問題なのは。

 その男が。

 明らかに。

 若過ぎるということだ。

 ここでいう若いという言葉は、ただ身体的な老成の欠如をのみ指しているわけではない。そういう意味での若いであるならば、さして不思議なところはない。ノスフェラトゥは、人間のように、醜く老いさらばえることなどないのだから。ノスフェラトゥは、その身体が絶頂にある状態で生まれ、その身体が絶頂にある状態で死んでいく。ノスフェラトゥには老人も子供もなく、ただ一生分の青年期があるだけだ。

 人間でいえば。

 二十代前半といったところ。

 ノスフェラトゥらしい、透き通るように白い肌。

 ノスフェラトゥらしい、暗く沈むような赤い瞳。

 狼か何かのように、中途半端に伸ばされた髪。

 その髪、乱雑に、ばらばらに、切られている。

 常に歪んだように笑っている口元。

 わざとらしく、見せつけるように。

 吸痕牙、を、剥き出しにしている。

 服装は。

 ぼろぼろになって、そこここに縫い跡があるスーツ。

 首に引っ掛かかっているだけという感じのネクタイ。

 それから、磨かれたことなど一度もなさそうな革靴。

 その全てが。

 見るものを威嚇するように。

 完全な黒で染められていて。

 若造。若輩。つまりはそういう意味だ。デニーが、その前に跪くとすれば。ミセス・フィストにさえ、カリ・ユガにさえ、跪かなかったデニーが跪くとすれば。それなりの威厳というか畏怖というか、そういうたぐいの、神々しい荘厳さのようなものがなければいけないと、そう真昼は思っていたのだが。その男にはそのようなものは一切なかった。

 どちらかといえば、真昼の目には、ゴロツキというか、チンピラというか、そういう風に見えた。未成熟な、不良少年。こういうたぐいの生き物を、確かに真昼は知っていて……ああ、そうだ、サテライトだ。なんとなく、全体的な雰囲気が、サテライトに似ているのである。ただ、サテライトほど虐待されてはいない。甘やかされたサテライト。

 傲慢。

 驕慢。

 ただただ。

 許しがたいまでの。

 反逆者の、不遜さ。

 その男は、ノスフェラトゥとは思えないほどにぎらぎらとした、暗く輝く三白眼によってデニーを睨み付けていた。それは、ある意味では怒りであり、ある意味では憎しみであった。ただし、それは、デニーという個人に対して名宛されたものではない。明らかに、その男は、デニーという個人にはなんの関心も払っていない。世界の全体に対する、漠然とした不満のようなもの。それが、その男の中で燃え盛っていて、その炎が発する光が眼球から吐き出されているのだ。その男は、常に世界の前に立ってる。世界の全体を殺そうとしている。欲求不満、関係不全……そう、つまり、反抗期なのだ。その男は、反抗期の子供なのだ。

 霧のように立ち込めていた光。

 徐々に、徐々に、晴れていく。

 そして。

 それから。

 男は。

 二本の吸痕牙を剥き出しにして。

 まるで狂人のように笑いながら。

「デナム!」

 居丈高に。

 高圧的に。

「デナム!」

 自らの絶対的暴力を。

 決して疑わない者の。

 その態度に、よって。

 こう。

 叫ぶ。

「デナム、フゥウウウウウウウウウウウウウウウウツ!!」

 それから、にやにやと精神異常者のような笑顔。「久しぶりじゃねぇか、え? おい!」と続ける。これは、なんというか、まるで人間のような話し方だった。以前にも少し触れたことであるが、ノスフェラトゥの喋り方というのはノソスパシーを前提としたものである。つまり、断片的な単語を一つ一つ羅列していって、その間の文脈についてはノソスパシーによる直接的な思考の提示によって補っていくという方法。けれども、この男は、自立語と自立語との間を付属詞でべたべたと膠着する形。非常に自己表出性の強い話し方をしている。

 もしかして雑種なのだろうか? これまた以前に触れたことであるが、ノスフェラトゥという生き物は、純種と雑種と、二種類に分かれる。いわゆる正妻から発生した、生まれた瞬間からノスフェラトゥであるノスフェラトゥが純種。それとは異なり、ノスフェラトゥによってスナイシャクを吸われたことによってノスフェラトゥに変化してしまった人間が雑種である。雑種は、もとが人間であるので、人間であった時に習慣化していた言語コミュニケーションが抜け切っていない。そのため、あたかも人間であるかのような話し方をするのだ。

 ただ、そんなことはあり得ないように真昼には思えた。だって、デニーが、たかが雑種に? 膝をついたり、頭を下げたり、そんなことをするわけがない。というか、そもそも、この男が純種のノスフェラトゥであったとしても。それでも、デニーが跪いたことの説明にはならない。なぜなら、デニーという生き物は、龍王が「お友達」というレベルの生き物なのだから。いくら高等知的生命体とはいえ……この男が、ただのノスフェラトゥであるはずがない。

 では。

 一体。

 この男、は。

 何者なのか。

 デニーは、両手を大地の上から離して。そして、ついていた膝、ゆっくりゆっくりと立ち上がる。それから、膝の辺りについていた埃、ぱん、ぱん、と軽く払って。それから、その男に向かってにっこりと微笑む「ふふふっ、ロード・トゥルース。最後のノスフェラトゥ・グール間紛争以来だね」「はっ! んな、他人行儀な呼び方はやめてくれよ。俺とお前との仲だろ?」。

 それから、男は、急に。不愉快そうに顔を歪めた「つーか、俺は、もうあいつらとは関係ねーよ。俺は、アップルの連中とも縁を切ったし、ハウス・オブ・トゥルースの連中とも縁を切ったんだ。今の俺はただのリチャードだ。その呼び方で呼ぶんじゃねえ」。苛々としていて、今にも叫び出しそうな話し方。

 そんな男に向かってデニーはふるふると首を振った「ううん、違うよ、そんなことはないよ」「は? んだよ」。そして、デニーは、いかにも恭しい口調。あまりにも慇懃過ぎて無礼とさえ思えるような口調で、言う「グロスター家の継承権は、未だ失われていません。ねっ、でしょ? ロード・トゥルース」。

 それに対して、その男は……いや、これからは、その男の自称に従ってリチャードと呼ぶことにしよう。リチャードは「なあ、クソ野郎」と言った。まるで、デニーの、これ以上の言葉を遮るかのようにして。それから「人様の家庭の話に首を突っ込むんじゃねぇよ」と、忌々しげな態度で言葉を吐き捨てる。

 いや、っていうかリチャードくん情緒不安定過ぎない? 大丈夫? ちゃんと寝てる? えーと、まあ、ノスフェラトゥに睡眠は必要ありませんが……それはそれとして、真昼は、ようやく理解出来た。リチャードが何者なのかということ。なぜ、リチャードに、デニーが跪いたのかということ。

 ロード・トゥルース。アップルのグロスター家。その継承権を持つ者。つまり、このリチャードという男は、パンピュリア共和国における四つの始祖家、そのうちの一つであるグロスター家のノスフェラトゥだということだ。

 パンピュリア共和国は、いうまでもなくノスフェラトゥ共和制の国家だ。つまり、その権力は人間に所属しているわけではなく、純種のノスフェラトゥによって独占されている。そして、そのような権力者たるノスフェラトゥが集団生活を送っている場所が、ブラッドフィールドの中心部分に存在するドーム状の結界、アップルである。

 アップルという名前は、まるで林檎のように真っ赤に染まっていることから付けられたものだが。その結界は、外敵から権力の中心部分を防御するという目的の他に、アップルに居住するノスフェラトゥの神卵光子刺激性相対的独立化現象を防ぐ効果もある。これは誰でも知っていることなので、わざわざ触れる必要などないと思うが。純種のノスフェラトゥは、彷徨子の不安定性から、太陽が発する光、ヒラニヤ・アンダが放射する神卵光子に接触すると、相対的独立化現象を起こしてしまう。その生命が世界から独立してしまい、ノスフェラトゥが世界を触れることも世界がノスフェラトゥを触れることも出来なくなってしまう。要するに一時的に世界から消え去ってしまうのだ。それを防ぐために、アップルの結界は神卵光子を完全に遮断するものとなっているというわけだ。

 さて、アップルの権力は基本的に四つに分かれる。まずは軍事・外交関連を管轄するハウス・オヴ・ラヴ。法務・労働・厚生関連を管轄し、裁判所の役割をも果たしているハウス・オヴ・グッドネス。経済・産業・交通を管轄し、中央銀行の役割をも果たしているハウス・オヴ・トゥルース。それから、文化・科学・宗教を管轄しているハウス・オヴ・ビューティ。

 そのそれぞれの「ハウス」を支配しているのが、いわゆる始祖家と呼ばれる四つのノスフェラトゥの「家族」である。いや、正確にいえば、三つの「家族」と、それに一鬼の「最初のノスフェラトゥ」。つまり、ハウス・オヴ・グッドネスを支配しているレッドハウス家、ハウス・オヴ・トゥルースを支配しているグロスター家、ハウス・オヴ・ビューティを支配しているクールバース家、そして、最後に、ハウス・オヴ・ラヴを支配しているのが、フェト・アザレマカシアとケレイズィとの戦争の際、最初の最初に生み出された二鬼のノスフェラトゥのうちの一鬼であると噂されている、あのヤラベアムだ。

 つまり。

 この男。

 リチャードは。

 パンピュリア共和国。

 その支配者たる家族。

 その一員。

 そういえば……真昼は、今更ながら思い出した。武器屋の娘である真昼は、当然ながら、パンピュリア共和国の権力構造についても家庭教師から叩き込まれていた。パンピュリア共和国といえば、武器屋からすれば大得意も大得意、いわゆる「優良顧客」だからである。そのようにして叩き込まれた知識の中、確か、今のハウス・オヴ・トゥルースの名前はリチャード・グロスター・セカンドだったはずだ。

 その記憶が正しいのであれば、全てのことの説明がつく。リチャードは、リチャード・グロスター・セカンドの子供だということだ。ノスフェラトゥにおける親子関係というのは「母胎」を中心とした関係性であって、人間におけるそれとは全く異なっているのだが。とにかく、そういうことである。

 まあ、真昼のこの推測は半分正しくて半分間違っているといったところで、リチャードは、リチャード・グロスター・セカンドの子供といえば子供なのだが、実は嫡出子ではなく私生児である。この私生児という表現は、ノスフェラトゥを更に進化した生命体にするための実験として通称機関によって作り出された子供という意味合いの単語であるが、まあ、この事実はこの物語にさほど関わってくることではないのであって、あまり詳細に触れないことにしておこう。

 なんにしても、そうであるならば。リチャードは、パンピュリア共和国の経済的側面を一手に握る家族の一員ということなのだ。そして、ここが重要なところであるが、デニーはパンピュリア共和国において経済活動を行なっているところのコーシャー・カフェという組織の一員なのである。

 いや、そういうことを、デニーの口からはっきりと聞いたわけではないが。今までの色々な話を聞いている限りにおいて、コーシャー・カフェという組織は、パンピュリア共和国という集団に所属しているか。もしくは、コーシャー・カフェの主要な拠点はパンピュリア共和国にあるはずだ。

 そうなってくると……これは、パンピュリア共和国に居住していないとなかなか理解しにくいところかもしれないが。実は、パンピュリア共和国においては、犯罪行為によって発生した経済的価値に関しても、やはりハウス・オヴ・トゥルースが管理している。つまり、犯罪行為も集団内総経済(Gross Group Economy)に含まれるということだ。

 これは、ノスフェラトゥが、人間が人間に対して行なう犯罪について完全に無頓着であるということに由来している。ノスフェラトゥ自体は、自分達に害が及ばなければ、大抵の犯罪にはまるで興味がないのだ。いうまでもなく、人間としては、人間の犯罪は非常に大きな問題なのであって、だからこそ夜警公社のような組織があるわけであるが。とはいえノスフェラトゥは、いわゆる「大逆罪」および「反乱罪」以外のあらゆる犯罪をどうでもいいことだと考えている。

 例えばですよ、えーとですね、蛞蝓とか飼ってるとするじゃないですか。しかも一匹とか二匹とかじゃなくて、めちゃめちゃでかい水槽の中に大量の蛞蝓を飼ってるとしますよね。それで、蛞蝓が共食いとかするのか知らないけど、その水槽の中の蛞蝓が、一匹か二匹か、共食いとかで減ったとしても、大した問題じゃないですよね。そういう感じです。ということで、犯罪行為であっても、ちゃんと税金とか払わなければいけないし、確定申告をしなければいけないのだ。

 実際に、夜警公社など、犯罪組織から支払われた賄賂についてきちんきちんと毎年確定申告で申告をしているし。それに、なんなら、税金(パンピュリア共和国では税金は「人間がノスフェラトゥに対して支払うもの」という意識があるため公社であっても公社税という特殊な税金がある)逃れのためにとんでもねぇ経費の使い方をしたりしている。噂によれば、社用車の一台一台にロケットエンジンを付けた年さえあるそうだ。まあ、さすがにそれは嘘だろうが……とにかく、何がいいたいのかといえば。コーシャー・カフェが経済的主体である以上、ギャングだろうがなんだろうが、ハウス・オヴ・トゥルースに頭が上がらないということである。

 以上。

 このゆえに。

 デニーは、リチャードに。

 跪いたということだろう。

 あ、あまりに俗物的……どれほどの偉大さの、どれほどの崇高さの、ゆえに、その跪拝が行なわれたのかと思えば。なんのことはない、監督官庁には頭が上がらないという非常にお役所的な理由に過ぎなかったわけだ。真昼はなんだかがっかりしてしまったが、現実なんてそんなもんかと思い直す。

 それに……まだ、説明がついていないことがある。そのような、ビューロクラシーにおける上下関係だけでは。あの、デニーの表情。あたかも捕食者を、そこまではいかなくてもある種の脅威を、目の前にした昆虫のような表情。デニーにそのような表情をさせるということは、リチャードは、そのような上下関係抜きでデニーの生命に危険を及ぼせるような生き物でなければ、説明がつかないのだ。リチャードは、何か、力を持っている。生まれながらに有している権力、以外の力を。それは、なんなのか?

 それはそれとして、デニーとリチャードとは会話を続けていた。「とにかく、だ。俺をロード・トゥルースって呼ぶんじゃねぇよ」「ええー? じゃー、なんて呼べばいいのー?」「だから、さっきから言ってんだろ、リチャードって……」そこで、リチャードは、ふと言葉を切る。少し考え直してから、こう続ける「よくよく考えてみりゃあ、リチャードっつー名前だって、俺の名前じゃねぇんだよな。これは、俺の名前じゃなくて、あのクソ親父の名前だ」。まあ、実際は、リチャード・グロスター・セカンドの「リチャード」もリチャード・グロスター・ファーストからとっているわけであって。テクニカリーにいえばちょっと間違っているのであるが、とはいえ、言いたいことの根底部分は間違ってはいない。

 「俺も、あいつらみたいに、なんか名前を考えてもいいかもしれねぇな。ほら、あいつら、付けてただろ? 自分で、コードネームみたいなやつだよ。エレファント・マシーンだとかハッピー・サテライトだとか。ハッピー……そうだな、ハッピーっつーのが付くといいかもしれないぜ。ハッピー、ハッピー、なんにせよ、ハッピーだっつーのは悪くねぇだろ? そうだな、ハッピー……ハッピー・トリガーなんつーのはどうだ? はははっ、悪くねぇな、馬鹿っぽくて、悪くねぇよ」。そこまで、一方的にぺらぺらと喋り終わると。何がおかしいのか声を上げて笑い始めた。げらげらと、とてもではないが高貴な生まれとは思うことが出来ない笑い方。変にテンションが上がってしまっているパターンの笑い方。暫く笑い続けていたのだが、やがて、落ち着いてきたのか、続きを話し始める。

 「つーわけで、俺は、あいつらに雇われてここにいるってことだよ」体の前で両腕を組んで。それから、いかにも相手を苛立たせようとでもしている態度。上半身を、デニーに向かって、尊大そうに傾ける。「あいつらってのは、REV.Mの連中ってことだぜ」それから、鼻の先で笑う。

 「てめぇが出張ってきた時から……デナム・フーツが出張ってきた時から、あいつらは、もう、自分達の手に負えるような事態じゃねぇってことは分かり切ってたんだよ。まあ、あいつらの中にもレベル7の能力者はいないわけじゃねぇけどな。そういう連中は、そう簡単に動かすことが出来ねぇわけだ。それぞれがそれぞれの「仕事」をしてる最中だからな。つーことで、俺を雇うことにしたんだよ。ただ、一つだけ問題があった。それは、俺が、アーガミパータまでやってくるには少しばかり遠いところにいたっつーことだ。だから、時間稼ぎが必要だった」。そこで言葉を止めると、今度は、上半身を後ろに向かって反り返らせる。よくもまあ、ここまで偉そうに出来るなという感じの姿勢だ。それから、続ける「はっ! てめぇは、あんな連中が自分に差し向けられた刺客だとでも思ってたのか? バーカ、んなわけねぇだろ。あいつらはな、みんな、みんな、俺がここに来るまでの時間稼ぎに過ぎなかったんだよ。そして、今、俺がここに辿り着いたっつーことだ。主役のご到着! 今までのは、全部、前座に過ぎねぇ。これからようやく本当のショータイムが始まるってわけだ!」。

 リチャードくん、めちゃめちゃ一人で喋るタイプだね。お話聞いてくれるお友達とか、あんまりいなかったのかな? それはそれとして、デニーは、リチャードに対して口を開く「ロード・トゥルースは」相変わらず作り物のような笑顔を浮かべたままで「REV.Mの一員なの?」。

 デニーのそのような言葉に対して、リチャードは軽く舌打ちをする。まだロード・トゥルースと呼んでくるデニーに対する苛立ちによるものだろう。ただ、そのことについてはもう触れないで、答えを返す「ちげーよ。お前、話聞いてたのか? 言っただろ、俺は、雇われたって」。

 「でもさーあ、ロード・トゥルースも、REV.Mのみんなとおんなじ……」「あのな、デナム・フーツ」リチャードは、デニーのことを黙らせるようにして言葉を挟む「俺は、あいつらの社会的状況だの政治的主張だの、そういったことにはクソの欠片ほどの興味もねーんだよ。スペキエース解放だか人類根絶だか知らねぇけどな、勝手にやってくれって話だ」。リチャードは、両方の手のひらを自分の体の前、見せつけるようにして開いて。それから、更に言葉を続ける「要するに、金だ、金だ、金だ! ぜーんぶ、金のためにやってんだよ。分かったか?」。

 「ってゆーことはぁ」デニーは、人差指の先を唇につけて。それから、ちょっとだけ首を傾げる。それから、続ける「ロード・トゥルースは、今、傭兵をしてるの?」「ああ、そうだよ、悪ぃか?」「へー、そーなんだ」「金は、あった方がいいだろ? 特に、やりたいことがある時はよ」「ほえ? ロード・トゥルースは何かやりたいことがあるの?」「ああ」「ええー? なあに? 何がやりたいの? 教えてよ」「あいつらを、みんなみんな、ぶっ殺すんだよ。俺を馬鹿にしやがった……アップルにいるあの連中をな」「それって革命ってこと? パンピュリア共和国で革命を起こすつもりなの?」「はっ! そういうことになんな」「わあー、すっごーい! 頑張ってね!」「てめぇ、馬鹿にしてんのか?」。

 なるほどなるほど、真昼にも、ようようと大雑把な状況が読めてきた。まず、リチャードは、なんらかの理由があって、アップルから追放されたか、あるいは自ら出奔したのだろう。継承権を失っていないらしいことから考えてみれば、恐らくは後者だと思われるが。とにかく、そのような事態に至るまでに、リチャードは、アップルと、それほど小さくはないいざこざを経験していて。その経験について未だに怨恨の感情を抱いている。

 その恨みつらみを晴らすために、いつの日か、アップルに対して大々的な革命を仕掛けようとしているのだが。さすがに自分一人だけではそんなことが出来るわけもなく、大勢の兵士や、大量の武器や、そういったものを揃えるために出来る限り多くの金銭を必要としている。そして、その金銭を獲得するために、差し当たっては傭兵をしているのであるが。その傭兵家業の一環として、このたび、REV.Mに雇われたのだということだ。

 サテライトも、エレファントも、あるいはブリッツクリーク三兄弟さえも。全員が全員、リチャードがここに来るまでの時間を稼いでいたに過ぎなかった。恐らくは、そのことは、時間稼ぎの駒として使われていた本人達にも知らされていなかったことだろう、もしも彼ら/彼女らが、時間稼ぎだということを知っていたら。そのことについて、彼ら/彼女らの顔色から、デニーが読み取れていなかったはずはない。そして、デニーが、もしもそのことを読み取っていたら。あのような、遊び半分、使い捨てのおもちゃで遊ぶような戦い方をして、時間を無駄にするようなことはしていなかっただろうから。

 そのようなわけで、今、リチャードは、デニーと真昼との前に立ち塞がっているということだ。ただ、そういったことの他に……真昼は、今の、デニーとリチャードとの会話に、少しばかり引っ掛かることがあった。

 それは、デニーが発した「ロード・トゥルースもREV.Mのみんなとおんなじ」という言葉の意味である。真昼が思い付く限りでは、二者の間にはほとんど同一性は見当たらない。強いていえば、リチャードもREV.Mもパンピュリア共和国を敵対勢力と見做しているという点だが――いうまでもなくパンピュリア共和国はスペキエースに対する差別が体制に固着している国家である――とはいえ、デニーがこの言葉を発した時の感じからすると、もっと、深い深い意味がありそうな気がする。この言葉が、何か、現在の緊張と関係があるような気がする。

 ただ。

 それは。

 それと。

 して。

 二人の会話は。というか、二人の間の、距離と速度との測り合いのようなものは。どうやら、まだ続いているらしかった。「でもさーあ」「は? んだよ」「よく分かったね、デニーちゃんが、ここに来るっていうこと。ってゆーか、ここにデニーちゃんのブラインド・スポットがあるってゆーこと」。

 その言葉を聞くと、リチャードは。いかにも満足そうな笑い方をして、また笑った。「はははっ、んなことかよ」そう言いながら、無造作に、スラックスのポケットに手を突っ込んだ。そして、その中から、一つの小瓶を取り出す。

 とてもとても小さな小瓶で、親指の第一関節くらいの大きさしかなかった。「高かったんだぜ、これ……まあ、経費っつーことで、あいつらに払わせたんだけどな」なんていうことを言いながら、暫くの間、それを手のひらの中で弄んでいたのだが。次の瞬間。唐突に。その小瓶、握り締めて、手のひらの内側でぱきんと砕いてしまった。

 ぱっと開いた手のひら。そこから、何か、粉のようなものが舞い上がる。いや、粉というか、それは、どちらかといえば灰色の霧のようなものだった。それほどに細かい粒子であって、少し風に吹かれただけでふわりと浮かび上がってしまう。まるで、その霧に包まれている部分だけが、きらきらと、不可思議な銀河のように沈んでいるみたいに見えて。それを見て、デニーは、一言、ぽつりと呟く「あー、イブン・ガジの粉かー」。

 「これを、あのガキ……確か、カレントとかいったっけな? あいつに飲ませて、てめぇが何をしようとしているのかってことを調べさせたのさ。てめぇらが、ぐずぐずと、生命の樹なんて探してる間にな」そう言って、またげらげらと笑う「はははっ、クソ野郎、てめぇの結界なんざ丸見えのお見通しなんだよ」。

 「ふふっ、なるほどね」「ああ、結界っつったら、そうそう、てめぇの結界、使わせて貰ったぜ。日傘代わりにな。本当に、このアーガミパータっつーところは、日差しがきつくて仕方がねぇ。俺でさえ蒸発しちまいそうになるほどだよ」そう言いながら、にやっと笑って。リチャードは、右手の人差指で自分の真上を指差した。「んー、デニーちゃん、びっくりしちゃったよ。デニーちゃんの結界のはずなのに、中に入ったら、ぜーんぜんデニーちゃんの結界じゃなかったから」。

 これで、デニーが、結界の内側に入った瞬間に顔色を変えた意味が真昼にも分かった。つまり、本来は、この赤色のドームはデニーの結界だったのだ。デニーが、ブラインド・スポットを覆い隠すために作り出したという結界。だが、その結界に、リチャードが、なんらかの形で介入して。アップルを覆い隠している、神卵光子を遮断するための結界に作り替えてしまっていたのである。そして、そのような変化を目にしたデニーは、即座にリチャードの存在に気が付いたということだ。

 ところで。

 リチャードは。

 手のうちの残りの粉。

 あるいは、瓶の欠片。

 ぱんぱんと。

 払い落とすと。

「さて……無駄話は、これくらいにしとこうじゃねぇか。」

「ええー! デニーちゃん、もっとお話ししたいよお。」

「俺の要求は、分かってるよな?」

「分かんなーい。」

「巫山戯てんじゃねぇよ。」

 ぎっと。

 威嚇するかのように。

 口の端を捻じ曲げて。

 吸痕牙を剥き出しにして。

 リチャードは。

 続ける。

「おとなしく、砂流原真昼を差し出せ。」

 そして……初めて、その両眼が真昼に向けられた。デニーの背後、ふわふわと浮かぶ障壁によって守られている真昼に。ただし、いうまでもなく、リチャードは、真昼のこと、人格を有する一人の人間として向き合ったわけではない。そこにある、物として。取引の、材料として、道具として。ただ単に、そこにあるということを確認したというだけだった。

 そのようなリチャードに、デニーは「んんー、ちょーっと無理かなー」と答える。「だってだって! 真昼ちゃんを、ちゃーんと、おうちまで送り届けてあげないとね。デニーちゃん、怒られちゃうもん」。

 「てめぇの都合なんて知ったこっちゃねーんだよ」リチャードは、デニーに視線を戻してから、敵意とともに睨み付けながら、答える「いいから、黙って、とっとと、よこせ」。それに対して、デニーは、べーっと舌を出して。両手のひら、顔の横でひらひらとさせながら言う「やーだよー」。

 「よこせ」「やだ」「よこせ」「やだ」「よこせ」「やだ」「よこせ」「やだ」、そのようなやり取りを何度か繰り返した後で。リチャードが、片方の手、デニーのことを脅すように突き出しながら「てめぇがそういう態度をとるんなら」唾棄するように言う「力尽くで奪い取ってもいいんだぜ」。

 デニーは。

 ふっと。

 世界の。

 脊髄を。

 揺らすみたいに。

「わあ、こわーい。」

 そう言って。

 軽く。

 笑う。

「デニーちゃん、怖くて怖くて泣いちゃうよ。」

「だから……巫山戯てんじゃねぇっつってんだろ!」

「ええー? デニーちゃん、ぜーんぜん巫山戯てないよ。」

「そういう態度が巫山戯てるって……」

「ねえ、ロード・トゥルース。」

「んだよ!」

「力尽くって、どういうこと?」

「は?」

「どうやって、真昼ちゃんを奪い取るつもりなの。」

「てめぇを殺して、それからあいつを奪うってことだよ。」

「んー、なるほどねー。」

 そう言うと。

 デニーは。

 きゅるん、と。

 体を揺らして。

「デニーちゃんを殺すつもりなんだぁ。」

 左手、背中、腰の辺りにそっと回して。

 右手、人差指の先、自分の唇につけて。

「デニーちゃん、殺されたくないなぁ。」

 左足の爪先。

 つんっと。

 地面の上。

 つっつくような。

「どーしよーかなー。」

 そんな、可愛らしい。

 ポーズを、してから。

「じゃあ……」

 そっと。

 吐息のように。

 こう、告げる。

「ロード・トゥルースのこと、先に殺しちゃおーっと。」

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