第三部パラダイス #40

 そう、お城だ。御伽話に出てくるお城。真昼は……実は、正子に絵本を読んで貰ったことがある。まだ、正子が気違いになってしまう前の話。少なくとも、取り返しがつかないほど狂ってしまう前の話。優しい優しいお母さんだったころの正子に、絵本を読んで貰ったことがある。今から考えると、あまりにも現実離れした事実であって、本当に自分がそんな幸福を享受していたことがあったのかと、真昼自身さえも疑ってしまうことではあるが。それでも、真昼は、覚えていた。それは、お姫様が幸せになる話だ。王子様に、お姫様が救われて。そして、二人は、いつまでもいつまでも幸せに暮らしました。そういう話が書かれた絵本。

 そういう絵本に書かれていた、素敵な素敵なお城。実用性なんていうことについては全く考えていない、ただただ子供の理想を描いただけ。子供の夢を描いただけ。ちょっと現実離れした構造。建築基準法とかそういうものを完全に無視してますよねって感じの建築物。

 そのお城が、まさに、そのお城が。

 今、真昼の視線の先にあったのだ。

 お城の全体は、これは別に「城」と「白」とを掛けた面白いジョークでもなんでもないのだが、真っ白だった。このような荒野に建てられている建築物としてはあり得ないような清らかさだ。一つ一つの石材、真昼が見たことも聞いたこともない、まるで、この世界の心臓から希望そのものを切り出してきたかのような石材。それが、調和の概念そのものとでもいうかのような愛と平和とによって組み立てられている。

 そして、それにどういう意味があって、というかどういう物理法則に従って立てられているのかさえよく分からない構造の、そんな尖塔。何本も何本も立てられている。正確にいえば真ん中に一本巨大な尖塔が立っていて、その周囲には八本の尖塔。右側に四本、左側に四本、それぞれの側で、ファサードに近付くにつれて、徐々に徐々に低くなっていく。例えるならば、奇妙な形をした冠のような並び方をしている。

 そう、冠だ。そう考えれば説明がつくだろう、その八本の尖塔の一つ一つに、巨大な宝石が埋め込まれているということが。まるで落ちてきた流れ星をそのまま閉じ込めたかのような。きらきらと、オーロラみたいな色で光る宝石。大きさとしては、その半径で考えても数ダブルキュビトはありそうな宝石が、それぞれの尖塔に一つずつあしらわれているのだ。そして、真ん中の尖塔は……星屑を散りばめた天の川のようだった。天上の世界の、あの素晴らしい川が、その尖塔に流れ込んでしまったかのような。尖塔の全体が、まるで一つのバイヴレーションを奏でているかのような美しい光のシンフォニーによって包み込まれているのである。

 一つ一つの尖塔には、いうまでもなく、楽しげに踊る兎がかぶっている帽子、に、似た、尖頂が乗せられているのだが。その尖頂は虹のように美しい色をしていた。それは、一つ一つの尖頂が既に美しい虹であるのだが、その一つ一つの尖塔を集めて九つの尖塔として見た時も、まるでそれぞれがそれぞれの色を持つ、つまり九つの色を持つ虹がそこに現われたかのように見えるのである。

 また、お城のそこここが、まるでケーキの飾りだとか、あるいはプレゼントにかけるリボンのように、様々な垂れ幕によって飾られていた。ジャボ、スワグ、あるいは紋章の描かれたタペストリーだ。そこに描かれた紋章のイメージは……何か、とても奇妙なイメージだった。それは二つの部分から成り立った意匠である。上の部分は、天使の羽が生えた星。下の部分は、二本の牙を生やした蛆虫。それがどういう意味がある意匠なのかということは真昼には分からなかったが、とにかく、そういう紋章が描かれたタペストリーが城の土台の部分に垂れ下がっていた。

 そして。

 その。

 お城の。

 周辺は。

 一面の……本当に、一面の、お花畑になっていた。そうだ、それはそうだ。いうまでもなく当たり前の話なのだ、こんな素敵なお城はお花畑の真ん中になければいけない。まるで、この世界が生まれてきたことに対する、幾つもの、幾つもの、祝福を。一つに束ねて花束にしたかのような、そんなお花畑の真ん中に。

 お城を中心とした、大体の円形。その直径でいえば一エレフキュビト程度。花が、花が、花が、数え切れないほどの美しい花々が、夜刀岩を覆い尽くしていた。

 ただ、そのことに関して……一つ不思議なことがあった。先ほども書いたように、夜刀岩は、観念的な物質と具象的な物質と、その双方のどちらでもない物質だ。中間的な性質を持つというよりも、そのどちらとも異なった性質を持ってしまった物質。それゆえに、これも先ほど触れたことだが、その物質は生命を育むことが出来ない物質なのだ。観念であれ、具象であれ、その土壌に根付くことが出来ないはずなのだ。というか、それ以前の問題として、こんな寒冷な土地、どこまでもどこまでも続く雪の荒野に、一体どんな花が咲くことが出来るというのか?

 そう思って、そのお花畑を見てみると。実は、その「お花畑」を構成しているものが花ではないということに気が付く。あたかも花であるかのような姿形をして。あたかも花であるかのような顔をして。ゆらゆらと、風に吹かれてでもいるかのように揺らめいているそれは、ある種の波動であった。

 つまり、それは、今まさに形成され続けているところの結界であったのだ。ほとんど無限個とも思えるほどの、無数の、無数の、結界が。生まれては消えていき、消えていっては生まれる、その過程が、あたかも花畑であるかのように見えていたのである。揺らめいているのではない。それは、沸騰する水が、あたかもぼこぼことあぶくを吐き出しているかのように。その場所から、数え切れないほどの結界が沸き上がってきている光景なのだ。

 一つ一つの結界の大きさは、視認出来る段階においては大きくない。せいぜいが、それこそ一枚の薔薇の花弁ほどの大きさしかない。そのような結界が、次第次第にインフレーションを起こして。最終的には、破裂するようにして虚空へと解き放たれていく。それが、些喚くような揺らめきに見えているのだ。

 地面から、あたかも薔薇の茎のように、一本一本の例外状態が、つまり結界を形作る法的基盤となる振動が発生していて。その茎の上に薔薇の花が咲き乱れている。それぞれの前提条件の上に、無数の結界が、生まれて、生まれて、生まれて、その一つ一つの境界領域が花びらのように見えているのである。

 薔薇。

 薔薇。

 薔薇。

 まるで溶けた砂糖のように。

 甘く甘く、誘うように甘く。

 そんな、色を、して、いる。

 それは。

 要するに。

 薔薇の。

 庭園。

「あれが、目的の場所ってわけ?」

「いっえーす、その通り!」

「なんか安っぽいラブホテルみたいだな。」

「ほえほえ? ラブホテルって?」

「人間の男と人間の女がセックスする場所だよ。」

「へー、そーなんだー。」

 全然興味なさそうな口調で、けらけらと笑いながらそう言ったデニー。そんなデニーに対して、真昼はこう問い掛ける「あれ、何」「あれって、どれのことですかあ?」「あれだよ、あれ、あの花みたいなやつ。ラブホテルの周辺に繁茂している花みたいなやつ。ぱっと見、花に見えるけど。でも花じゃないよね。花にしては、ちょっと透き通り過ぎてるし。それに、花って、普通、あんな風にきらきら光ったりしないし。あれ、何」。

 「あー、うんうん、結界だよ」「結界?」「そーそー、結界」。そう言ってから、デニーは、ちらりと真昼の方に視線を向ける。なんとなく顔色を窺うみたいにして、横目で見る。そうして、どうやら、真昼がぴんときていない感じであるということを確認すると。ちゅっとした唇の先に、きゅっと握り込んだ拳をくっつけて。右手の拳、人差指と中指と、その第二関節の辺りだ。そして、軽く首を傾げて見せる。

 「あのねーえ」「なんだよ」「真昼ちゃんがラブホテルみたいって言った建物があるじゃないですかあ。その建物は、んー、まあ、デニーちゃんが取引をする時に、その取引の契約内容を決める会議室だったり、そうやって取引をする子のための宿泊施設だったり。それか、取引の目的物、オーバーウエポンとかメタヒューマンとか、そういうものを保管しておく倉庫だったり。そういう用途でも使ってるんだけど、でもでも、いーっちばんじゅーよーな用途は、結界の発生装置なんだよね」。

 そこまで話すと、また、デニーは、真昼の方に横目を向ける。真昼は、そんなデニーのことを、非常に傲慢な表情をして見ている。一言も発さず、なんの反応も示さないが、「それで、続きは?」と促している表情だ。その表情に促されるようにして、デニーは続きを話し始める。

「あれさあ、デニーちゃんが作った装置なんだけど。基本的には二つの部分から出来ててね。まず一つ目が、あの建物の周辺に展開してる魔学式だね。んー、今は、生成変化してる結界で隠れちゃってて、見えなくなっちゃってるけどお。でもでも、あの建物の周りを、ぐるーって一周するみたいに魔学式が書かれてるの。

「その魔学式が、結界を作り出しているの。結界のジェネレーターの役割を果たしてるってゆーことだね。それでそれで、そーして生成した結界を、二つ目の部分が変化させているんですねー。その二つ目の部分っていうのが、あの建物の、九つの尖塔。

「一つ一つの尖塔に、魔石が嵌め込まれてるでしょお? まず、真ん中の尖塔じゃない尖塔、真ん中の尖塔の周りに、いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお、ろーく、しーち、はーち……八本! 八本の尖塔があるけど。それぞれの魔石の中に、デニーちゃんが、魔法を閉じ込めてあるんです!

「それぞれの魔法を、真ん中の尖塔に埋め込まれてる魔石を焦点にして、集積させて、反応させて、収束させて、それで一つの魔法にしてるわけなんだけど。そうして理念新生させた魔法っていうのがトランスミッターになるわけだね。つまり、結界を、拡大して送信して、そーゆー魔法ってこと。

「ジェネレーターが、結界を作るでしょお? 幾つも幾つも、ほんっとーにたくさんの結界を作るの。その一つ一つの結界が、さっき、真昼ちゃんが、お花に見えるって言った、あの、お花、お花、お花、の、一枚一枚の花びらなんだね。それで、そうして出来た結界が、トランスミッターによって拡大されるでしょお。ある程度拡大されると、世界の中に拡散していって、少なくとも感覚では捉えられないようになるから。花びらの一枚一枚が、ある程度大きくなったら、ふっと消えて、見えなくなっちゃうの。でも、結界は、いつもいつも作られてるわけだから。花びらが生えてきては消えて、消えては生えてくる、そんなお花みたいに見えてるってわけだね。んー、まー、そーゆーわけで! ジェネレーターの魔学式が描かれているところの、その上の部分が、まるでお花畑みたいになってるんですねー。

「でもでも、実際は、そーゆー結界って、消えてなくなってるわけでもなんでもなくって。拡大されて、拡大されて、拡大されて、そうして繋ぎ合わされてるの。繋ぎ合わされて、一定の現実領域を覆い尽くしてるの。その現実領域ってゆーのが、デニーちゃんの秘密のブラインド・スポットっていうこと!

「もともとはねー、デニーちゃんが、アーガミパータの担当だった頃に、えーっと、さっきもちょーっとだけ言ったけど、オーバーウエポンだとかメタヒューマンだとか、そーゆーのの取引に使ってたところなんだよね。

「そーゆー取引って、いちおー、誰にも見つからないようにしないといけないでしょお? だってだって、取引をどこでするのかってゆー情報がろーえーしちゃうと、その取引の目的物を狙って、輸送中とか、取引中とか、そういうタイミングで、ヴェケボサンだとかユニコーンだとか、もしかしてデウス種の生き物とか、そーゆー生き物が攻撃を仕掛けてくるかもしれないし。

「そんなわけで! あそこにある建物の周辺の、数エレフキュビトの現実領域と。スカーヴァティー山脈を越えた先、中央ヴェケボサニアにあるもう一つのブラインドスポットと。それから、その二点間を繋いでるルート。この三つを、あの装置で発生させた結界、「ヴーアの封印」っていう結界で隠してるわけなんだね。

「んー、「ヴーアの封印」については……真昼ちゃんはきょーみないと思うから、あんまり詳しく説明しないけど。まー、まー、トラヴィール神学で使われてる結界だね。対象となってる現実領域がそーなってるところのそーゆーことをフェト・アザレマカシアの方向に捻じ曲げて、法則そのものを位相変調させちゃうの。そーすることで、その現実領域が、この世界において有しているはずの確定性を撹乱しちゃうんだね。その現実領域は、決定前の状態、よーするに確率的状態に拡散しちゃうの。「ある」っていう確率は、この世界のあらゆる場所で肯定されうるんだけど。一方で、その確率が収束して、本当の本当になる一点っていうのがどこにもなくなっちゃうんだよね。結果として! 「ヴーアの封印」で封印されちゃった現実領域は、そこにあるんだけどそこにないっていうことになるのです! その現実領域が占有しているはずの場所を、見ても、聞いても、通り過ぎても、そこにはなーんにもない。「ヴーアの封印」の受選者、えーと、つまり、その結界に選ばれた誰かさんじゃないと、その結界の中に入ることが出来ないどころか、その現実領域があるのかないのか、それさえも確定することが出来なくなっちゃうってわけ。

「まっ、そんな感じだねっ! つまり、真昼ちゃんがお花って言ったのは、お花じゃなくて、その一枚一枚の花びらが、結界のエクスケプティオなんだね。境界障壁っていうか、境界標識っていうか、そういう境界線になるべき境界線が、生まれたばっかりで、小さくて、小さくて、だから、花びらみたいに見えてるだけっていうこと。分かった? 真昼ちゃん?」

 めちゃ。

 めちゃ。

 分かり。

 にくかった。

 が。

 それでも、まあ言わんとしていることは理解出来た。つまり、あの御伽話のような光景の全体が一つの結界の発生装置であって。真昼が花畑のようだと思ったそれは、その装置が発生させている結界だということ。

 そうして作り出された結界が、デニーが、プリアーポスだとかレノアだとか、そういう相手と話している時に。何度かその言葉を発していたところの「マートリカームラのブラインド・スポット」を形作っている。

 あのお城を中心として、デニーの言葉によれば、直径数エレフキュビトの円。恐らく、イメージとしては、ドーム状の結界が覆っているのだろう。そして、そのドームの頂上の部分から、あたかもチューブのように、あたかもヴェッセルのように、一本のルートが伸びている。そのルートは、スカーヴァティー山脈を越えて、その先にあるもう一つのブラインド・スポットに繋がっている。

 デニーは、真昼のことを、そのルートを通じてアーガミパータの外側に輸送しようとしているのだろうと思われた。プリアーポスという何者かに対してなされていた何かしらの指示、真昼はよく聞いていなかったのだが、その指示から推測するに……向こう側のブラインド・スポットから輸送機がやってきて、真昼は、その輸送機に乗って、この地獄から脱出することが出来るということだろう。

 そういうことは。

 まあ。

 まあ。

 理解は出来た。

 真昼も、随分と「デニーちゃんのお話」を解読する能力がついてきたものである。そのことについては、まあ、いいのであるが。それはそれとして、今のデニーの話について、真昼は、ちょっと引っ掛かるところがあった。真昼は、右手を後頭部にまで持っていって。そして、髪の毛を引っ掻き回すようにがりがりと掻きながら、デニーに問い掛ける。

「今さ。」

「んー?」

「あんた、言ったよね。その「ヴーアの封印」ってやつ? で、隠されてる現実領域は、見えないし、聞こえないし、通り過ぎることも出来ないって。でも、あたし、見えてるんだけど。あの城みたいな建物も、それに、その周りをぐるーっと囲んでる、花畑みたいなのも。それって、どういうこと? もう、あたし達は、その結界の中にいるっていうこと?」

「んーん、まだ結界の外にいるよ。」

「じゃあ、あたし、なんで見えてるの。」

「だって、真昼ちゃんは、デニーちゃんだもん。」

「は?」

「だーかーらー、真昼ちゃんが死んだ時に、デニーちゃんが、真昼ちゃんの内的世界を、マネリエス・フォーミングしたでしょお? そーしたことによって、もう、真昼ちゃんは、真昼ちゃんじゃなくて、デニーちゃんが内蔵秩序了解した真昼ちゃんになっちゃってるの。つまりねーえ、今の真昼ちゃんは、postillaに過ぎない、デニーちゃんが真昼ちゃんだと思っている真昼ちゃんに過ぎない、ってゆーこと。デニーちゃんが真昼ちゃんだと思ってる真昼ちゃんは、真昼ちゃんじゃなくて、デニーちゃんが真昼ちゃんだと思ってる真昼ちゃんでしょお? ということは、今の真昼ちゃんは、疎外でも、阻害でも、そのどっちでもなくて。デニーちゃんの「了解」に過ぎないの。」

 デニーは。

 分かった?

 とでも、いう。

 ように、して。

 右手。

 人差指。

 真昼に、向かって。

 軽く振って見せる。

「は? 意味が分かんないんだけど。」

「えー? 何が分かんないのー?」

「いや、つーかさ、あたし、生き返ったわけでしょ?」

「うんうん、そーだね。」

「じゃあ、その、マネリエス・フォーミングだとかなんだとか、もう関係ないんじゃねーのかよ。つまり、そのマネリエス・フォーミングっていうのは、あたしが死んだからそういうことをしたわけだろ? あたしが死んで、それ以上死なないように、あんたはその魔法をあたしにかけたんだろ? じゃあ、あたしが生き返った今となっては、その魔法は、もう、あたしの内側から消えちまったんじゃねーのかよ。」

「あのねー、真昼ちゃーん。そもそもマネリエス・フォーミングって、真昼ちゃんの魄にかけた魔法でしょお? それで、真昼ちゃんが生き返ったっていうのは、真昼ちゃんが真昼ちゃんの魂を取り戻したっていうことなの。それはね、つまり、真昼ちゃんの魄の部分には関係ない現象なの。もーっちろん、魂が戻ってきた以上は、もう、それ以上は魄は崩壊したり破綻したりはしないわけだけど。でも、そもそも、真昼ちゃんの魄は、マネリエス・フォーミングによって辛うじて維持されていたものだから。生き返ったからって、そんな簡単に魔法を消しちゃうことは出来ませーん。」

 そこまで。

 話してから。

 デニーは。

 少しだけ。

 考えて。

 こう。

 言い直す。

「真昼ちゃんは一度壊れたコップなの。お水が入ったコップね。それで、コップが割れちゃって、中のお水が漏れちゃったっていうわけ。それで、コップの割れた部分を修理して、改めて水を注いだんだね。水を注いだとしても、コップの割れた部分の修理がいらなくなるわけじゃないでしょお? つまり、そーゆーこと!」

 なるほど。

 なるほど。

 そういうことか。

 真昼は。

 頭を掻いていた、右手を。

 ほとんど無意識のうちに。

 首筋に移動させる。

 まるで。

 首輪、のように。

 刻印されている。

 あの、首筋の傷。

 指先で。

 そっと。

 触れながら。

 こう言う。

「つまり、あたしが壊れてしまったその部分は、未だにあんたという生き物で埋められたままの状態にあるっていうこと?」

「そーそー、そーゆーこと! まあ、正確にいうと、デニーちゃんというよりも、デニーちゃんが解釈した真昼ちゃんという観念によって埋められてるっていうことになるんだけどね。あくまでも、その観念は「この」デニーちゃんとは別のものだから。だから、例えばその観念がずががーんってされちゃっても、「この」デニーちゃんにはかんけーない、「この」デニーちゃんはぜーんぜんダメージを受けたりはしないし。逆に、「この」デニーちゃんが死んじゃったとしても、その観念は壊れちゃったり死んじゃったりはしないってわけ。」

「それで、結果として、あたしという一個の内的世界は、あんたの生命と同一の……まあ、存在形式でも概念形式でもいいけど、そういう同一の状態にあるから、あんたが見通すことが出来る結界を、あたしも見通すことが出来てるってわけだな。」

「せいかいせいかい、だいせいかーい!」

 そのような、会話の後。

 真昼は、相変わらず。

 首筋に触れたままで。

 何か考えているようだったが。

 やがて。

 ちらと。

 デニーに。

 横眼を向けて。

 そして、問う。

「あのさ。」

「なあに、真昼ちゃん。」

「それって、あたしなのか?」

「ほえ? どーいうこと?」

「つまり、今のあたしはあたしなのか? あたしは、以前のあたしとは違うあたしになってしまってるんだろ? それは、まあ、そういうことなんだろうけどさ。人間の細胞は一日に一パーセントずつ入れ替わってるとか、本当だか嘘だか知らないけど、どっちにせよ昨日のあたしと今日のあたしとは違うわけで、あたしが以前のあたしと異なっていたとして、あたしはあたしであり得るかもしれないよな。でも、あたしが、あんたになってしまってるんだろ? あたしという生き物が、あんたという生き物に変わってしまってるんだろ? それって、まだ、あたしはあたしなのか?」

「ええー? 真昼ちゃんって、自己同一性とか気にしちゃうタイプなのー?」

 真昼は。

 デニーの。

 その言葉。

 「自己同一性とか気にしちゃうタイプ」なんていうめちゃくちゃな言葉を、人間という卑小な生命の、この短い一生の中で聞くとは思わなかったなと思いながら。しかし、真昼自身は、「自己同一性とか気にしちゃうタイプ」ではなかった。

 真昼にとって、それはどうでもいいことであった。真昼が、真昼であっても真昼でなくても。例えば、今の真昼が過去の真昼のクローンに過ぎないだとか。あるいは、今の真昼は過去の真昼の人格が一つのデータとしてなんらかのハードディスク上にアップロードされたものに過ぎないだとか。そういったことが事実であったとして、今の真昼にとって、なんの関係もない事実であった。

 だって、そうでしょう? 真昼にとって、今の真昼にとって、本当に重要なことは。本当の自分だとか偽物の自分だとか、そんなことではないのだ。そもそも、真昼にとって真昼は重要ではない。真昼にとって重要なのは、この感情だった。

 真昼の中に、初めて、初めて、十六年という生命の時間の中で初めて発生した、この愛の概念。それだけが真昼にとって重要なものだった。この愛の概念さえあれば。それだけがあれば。真昼は、つまり、真昼だった。

 それ以外のものは真昼ではない。この肉も、この骨も、この内臓も、この血液も。頭も、腕も、手も、胸も、腹も、腰も、脚も、足も。この頭蓋骨の中に泥濘のように蹲っている灰白質も。ただ……そう、ただこの心臓だけが真昼だったのだ。この、絶対に、絶対に、真昼のものではない、心臓だけが。

 もしかして、真昼が、デニーによって弥縫された生き物であるとして。その弥縫が、この心臓であるかもしれない。つまり、この感情は、この愛は、真実の真昼から発生したものではないかもしれない。

 もっとありていに言ってしまえば、この愛は、デニーが真昼に植え付けてしまったものかもしれない。つまり、真昼が、デニーの都合の良いように行動するように。勝手に逃走したり、勝手に自殺したり、そういうことをしないように植え付けた、外的な洗脳のようなものに過ぎないかもしれない。

 それでも。例えそうであったとしても。真昼にはそれでよかった。いや、むしろ感謝しただろう。この愛を植え付けてくれたことに。だって、真昼は、この愛によって初めて完全になれたのだから。この心臓。ぽっかりとした穴を塞いでくれた心臓。真実の自分であるということになんの意味がある? 真実の真昼、ああ、真実の真昼ときたもんだ! それは、真実のゴミだとか、そういう言葉となんの変わりもない意味しか持たない。

 このような完全性が、真昼自身から、真昼の真実から、出てきたという想定自体が。真昼にとってはなんだか冒涜であるような気がすることであった。この完全性の完全性が真昼という汚穢で欠損されてしまうような気がすることであった。そうであるくらいなら、これが他の誰かから植え付けられたものであるという方が全然よかった。ああ、そうだ、これが洗脳であったなら、どんなにいいだろう! これが、真昼の都合なんて全然関係なく、ただ単に真昼を管理するのに便利だからということで植え付けられた感情だったらどんなにいいだろう! そうであるならば、真昼は、より一層完全になる。完全な、支配によって、支配される。

 しかしまあ、念のため書いておくと、そうそう世界というものは都合良くいかないものであって、残念なことに、真昼のその愛の概念は、洗脳でもなんでもなく、ただ単に真昼の思い込みから思い込まれたところの思い込みに過ぎなかったのだが。デニーちゃんとしても、そんなことしなくても相手が勝手にそうなってくれているのにも拘わらず、いちいち洗脳などする必要性などないわけなのである。それはそれとして、なんにしても、真昼は、別に、全然気にしていなかった。真昼が真昼ではなくても、まあそんなこともあろうわな、くらいの感想しかなかった。

 措定。

 この愛が。

 この愛が。

 この愛が。

 ただ。

 それだけが。

 真昼だった。

 そもそも、自らの個別性。「この」真昼の一回性さえも、もう、既に、「この」真昼にとってはどうでもいいことになってしまっていた。ああ、馬鹿みたい。なんで、あんなにも、真昼は「この」真昼にこだわっていたというのだろう。だって、「この」真昼だろうが、あるいはどの真昼だろうが。所詮は、ただの観察者に過ぎないのだ。観察者は本質的なものではない。本当の本当に重要なのは、観察されるものなのである。真昼が観察しているもの。「それ」が「それ」であるということこそが、真昼を真昼として規定している全てなのだ。つまりは、極論をしてしまえば。その「それ」が残存していれば、真昼が真昼であるということに、真昼は必要ではないのである。全然真昼ではないはずの誰か。真昼の紛い物。そうであったとしても、その誰かが「それ」を観察しているのであれば、その誰かは真昼なのだ。それは一回性だとか複数性だとか、そういうくだらない、どうでもいい、人間至上主義的なたわ言とは全く関係ない。そのような些細な執着は、今の真昼にはなんの関係もないことだ。今の真昼は、そういった人間的感覚が破綻した先にいる。つまり、砂流原真昼の愛の概念は砂流原真昼の一回性には依存していない。いわゆる確率子状態と呼ばれる一定のパラメーターが、完全に同一の粒子。それが二つあれば、少なくとも神学上は、その二つの粒子は完全に同一の粒子であり、その二つの粒子には一回性というものが存在していないと定義されるように。やはり、真昼には真昼の一回性というものは存在しないのだ。もしも、砂流原真昼の愛の概念を有しているのであれば。それがなんであれ、それは、「この」真昼にとっては「この」真昼なのだ。同一性? 同一性! はははっ、くだらない。砂流原真昼は砂流原真昼に価値など見いださない。

 ただ、そう、で。

 あったとしても。

「いや、あたしはいいんだよ。あたしとしては、あたしがあたしだろうがあたしじゃなかろうが構わないんだけどさ。静一郎はどうなんだよ。あんたがあたしのことを救ったのは、静一郎と取引するためだろ? あたしのことを取引の対象として利用するためだろ? っていうことは、あんたにとって重要なのは、あたしがどう思うかじゃなくて静一郎がどう思うかだろ。で、静一郎は、あたしじゃないあたしで納得するのかよ。」

「あー、そーゆーこと? んー、だいじょーぶじゃない? だって、別に気にしないでしょお。真昼ちゃんが以前の真昼ちゃんかそうじゃないかなんてゆーこと。真昼ちゃんのおとーさんとしては、真昼ちゃんが真昼ちゃんであるかどーかって、あんまりかんけーないよね? 真昼ちゃんのおとーさんが求めてるのは、真昼ちゃん自身じゃなくって、砂流原っていうおうちにとって恥ずかしくないような人間なんだから。そりゃーさーあ、死んじゃってたら、ちょっと恥ずかしいかもしれないけどお。ちゃーんと生きてて、それで、外側から見て問題なかったら、それでぜーんぜん満足って感じだと思うよお。」

 まあ、確かに。

 そう言われれば。

 その通りですわ。

 デニーは、更に付け加える「まー、まー、もしも、真昼ちゃんがデニーちゃんに洗脳されちゃってたりだとか。それか、真昼ちゃんの内側にデニーちゃんが都合良く操作出来る何かが埋め込まれてたりだとか。そーゆーことだと、ディープネットのコンプライアンス管理っていうか、企業機密の漏洩とかそういう意味でよくないかもしれないけど。そういうわけでもないしね」。真昼は、その言葉に答えるとも答えないともなく「まあ、そうだな」と呟いた。それから「静一郎はそういうやつだよな」と付け加える。

 真昼としては、デニーがそれでいいのならばそれでいいのだ。なので、自分が自分ではなく、何か別のものであるということについてはもう考えないことにした。いや、まあ、正確にいえば、一部が以前の自分ではなくなっていて、一部が以前の自分のままである、そのような状態なのだろうが。どちらにせよ、真昼にはほぼほぼ関係ないことだ。

 まあ、敢えていえば、この身体の内側にデナム・フーツを孕んでいるということについて、いいようのない嫌悪感と、いいようのない多幸感と、その双方を同時に感じる、脳蓋を鋭利に貫く爆発みたいな感覚を抱いてはいたのだが。それは、まあ、ここでは重要ではない。ここで重要なことは……とにかく、あれが、二人の目的地だということだ。

 デニーと。

 それから。

 デニーが「了解」した、真昼の観念。

 それが真昼のような顔をしてる何か。

 その二人が見下ろしている。

 御伽話の。

 お城。

 真昼は、自分が孤独ではないかのように息を吸った。隷属の片鱗のような呼吸。それから、大きく、大きく、溜め息をつく。ふはーっという感じ、疲れ切ってしまい、何もかもに疲れ切ってしまい、もう指先一つ動かしたくないだとか、そんなことをいいたげな溜め息だ。

 くだらない、くだらない、全部全部、現実の爪先から夢のてっぺんまであらゆるものがくだらない。この世界にある何もかも、真昼が主人公であるということの、その主人公性に値しない。ねえ、そうは思わない? デナム・フーツ。この世界の全てがあんたに値しない。

 それでも。

 この世界に生きていくしかないのだ。

 だから、真昼は。

 そのお城を見下ろしながら。

 デニーに、向かって、言う。

「要するに。」

「んあー。」

「あそこに着けばゲーム終了ってことだな。」

「そーそー、そーいうこと!」

 長かった、気がする。でも、短かったと言われれば短かったかもしれない。この一週間。このアーガミパータに来る前の、真昼が生きてきた十六年間。その全ての経験と比べても、何万倍も、何億倍も、何兆倍も、重量がある一週間だった。それを計量してみれば永遠に近い重さがあるし、それを落下させてみれば、その速さは一瞬だ。それが、今、終わる。今、終わろうとしている。

 普通であれば、なんらかの感慨深さのようなものが襲ってきてもいいのかもしれないが。真昼には、そのことについて、なんの思考も、なんの想念も、なかった。いや、正確にいえば、以前にも少し触れた不安、なんだかよく分からない不安。全てが終わってしまった後に到来するものについての不安はあったのだが。ただ、それについては、真昼は考えないようにしていた。

 そもそも……現実味がないのだ。なんだか真昼には、自分が、永遠に、アーガミパータから出ることは出来ないのではないかという感覚があった。何かが、何かが、起こって。今この瞬間にも、アーガミパータから出られなくなってしまいそうな、そんな感覚が真昼にはあった。

 それはきっと、マコトの言葉を使えば、なんらかの種類の定常安定化欲求のようなものに過ぎないのだろうが。それでも、真昼は……これまでの一週間で、自分の身に起こってきた全てのことを勘案してみれば。アーガミパータという土地で、ハッピーエンドが起こることがあるなんていうことを信じることが出来なかった。誰も彼もが不幸なままで死んでいくこの土地で、自分だけに幸福が訪れるなんていうことを信じられるわけがなかった。

 きっと。

 誰かが。

 誰かが。

 あたしのことを。

 不幸にしようと。

 やってくる。

 例えば悪い魔法使いが。

 あるいは、森の、狼が。

 だって……だって! 見てよ! 今のあたしを! あたしは、だって、完全に、絵本の中のお姫様じゃん! 白馬に乗った王子様に連れられて、素敵な素敵なお城に向かおうとしている! このアーガミパータで! この地獄の底で! こんな馬鹿馬鹿しいこと、あり得る? あたしがその中心で参与しているこの現実は、まるで、両親から虐待され過ぎて頭がおかしくなってしまった子供の、おかしくなってしまった頭の中みたいだ。

 こんなの現実逃避だよ。とはいえ、まあ、よくよく考えてみれば……真昼が乗っているのは、白馬でもなんでもなく、全身からだらだらと反生命の原理を滴らせ続けている神の鳥で。そして、そのアビサル・ガルーダに風切らせているのは、王子様ではなく、ギャングの幹部であり頭のおかしい殺人鬼でもあるデニーなのだが。そう考えると、そこまで、おかしくないのかもしれない。あれも、別に素敵な素敵なお城じゃなくて、ギャングの幹部が武器取引に使ってる出城のうちの一つなわけだし。お城はお城だが、その用途に素敵さの欠片もない。

 それにしても……あのお城は、なんであんな外観なのだろうか。「あのさ」「はいはーい」「あの建物ってさ、武器の密輸に使うためのやつなんだろ?」「うん、そーだよ」「なんであんなに、メルヘンチックっていうか、フェアリーテールっていうか、そんな感じなの? あんたの趣味?」「ええー? 別に、趣味ってわけじゃないけどお。デニーちゃんがもともと住んでたお城があーいう感じだったから」「あんたがもともと住んでたお城?」「そーそー」「あんた、高貴なお生まれの方だったわけ?」「さっき言ったじゃーん、デニーちゃん、もともとは王だったって」「ああー、なんか言ってたかもな。あたし、いつも、お前の話、まともに聞いてないから」「あははっ、ひっどーい!」。

 それからデニーは「デニーちゃんはねーえ……」と言葉しかける。恐らくは、真昼に対して、自分の過去を話そうとしたのだろう。自分が、過去、どのような生き物であったのかということ。そして、今、どうしてこのような仕事をしているのかということ。いうまでもなく、コーシャー・カフェにおける機密事項をぼかした上で、ということであるが。なんにせよ、その話はいい暇潰しになったことだろう。あのお城に到着するまでは、暫くかかりそうだし。それに、真昼をアーガミパータから脱出させることになっている輸送機が到着する時間、要するに日没までは、まだまだ時間がある。その時間を、デニーのことを知るために費やすというのは、それなりに悪くない過ごし方だ。

 そういえば……あたし、こいつについて、なんにも知らないかもしれない。よくよく知っていた、つもりだった。なんなら、こいつについて、全部全部知り尽くしているような気がしていた。どれほど、こいつがクソ野郎か。どれほど非道で、どれほど無情で、どれほど屑なやつなのか。

 ただ、あたしが知っているのは、こいつがこいつであるという、その本質についてだけの話だ。あくまでも、こいつが開けっ広げにしている、内面の要素だけ。こいつという生き物に付随している、あらゆる外的な要素。こいつがどういう経験を生きてきたのかということ。今のこいつはどういうラベリングがされているのか、どういう関係性の中にいるのかということ。そういうことについては全く知らない。つまりあたしは、こいつがこいつであるということ以外のほとんどのことを知らないのだ。

 コーシャー・カフェという国際的なギャングの幹部。現在はワトンゴラを担当している。アーガミパータを担当していたこともあった。死霊学者。たぶん、第一次神人間大戦の前に生まれた。第一次神人間大戦時には神々の陣営についていた。第二次神人間大戦時には人間の陣営についていた。ずっとずっと昔、王だったことがあった、らしい。そのことについては詳しくは知らない。親がいた。兄弟がいた。そのどちらも自分で殺した。それから……名前は、デナム・フーツ。ルイ・デナム・フーツ。

 それくらいだ。知っていること。そうであるならば、あたしは、そろそろ、こいつのことを、もう少し詳しく知ってもいいのではないだろうか。ちょっとだけ……ちょっとだけ、遅過ぎるような気もしないわけではないけど。あと数時間で、全てが終わってしまうというこの時。いや、誰かが誰かのことを知るということに、遅過ぎるなんていうことはないはずだ。あたしがこいつについて知るということに、遅過ぎるなんてことはないはずだ。

 こいつが誰なのか。いつ、どこで、生まれたのか。親はどういう生き物だったのか。兄弟はどういう生き物だったのか。なぜ自分の家族を皆殺しにしたのか。王だった頃は、一体何をしていたのか。第一次神人間大戦では、第二次神人間大戦では、どういう活躍をしたのか。なぜギャングに入ったのか、コーシャー・カフェではどういう仕事をしてきたのか。誰を、誰を、誰を殺したのか。どれだけの生き物を、どれだけ残酷に殺してきたのか。幾つの目を抉り、幾つの耳を削ぎ、幾つの腹を裂き、幾つの四肢を他愛もなく切断してきたのか。

 知りたいというわけではない。だって別に、あたしがこいつのことを知ろうと知るまいと、何も変わらないからだ。あたしはあたしのままだろうし、こいつはこいつのままだろう。その必然的な関係性は、支配は、変わることがない。それでも、何か、きらきらとしているものを飾り付けるのは悪くない。夜の空に星を、星を、星を浮かべて。それを一つ一つ繋ぎ合わせて星座を作ることは悪いことではない。だから、真昼は、デニーがデニーについて話そうというのならば。その話を聞くつもりはあった。まるで、こいつに、初めて出会ったかのように。こいつのことを知ろうというつもりはあった。

 ただ……残念ながら……そういうことにはならなかった。デニーが話を始めようとした瞬間に、奇妙な出来事、ある異常事態が起こってしまったからだ。それは、起こってはいけないことだった。絶対に、絶対に、起こってはいけないことだった。要するに。つまりは。デニーが、口を開いた、その直後に。

 ルア。

 ルア。

 フューガー。

 ワェト。

 ワェト。

 シャガパ・タンガ。

 グ・バ・ヤヲ。

 イイ。

 ルヘア。

 ルヘア。

 例えば銃弾。

 濫衣。

 礙衣。

 禰衣。

 憺衣。

 戯獄の点零。

 飼笑の犯器。

 槃は逆論する。

 涅は仮劫する。

 夢骸欣求。

 肆。

 蕩。

 甘やかされた。

 子供の。

 玩具が。

 くるりと。

 回転し。

 それは例兎癌腫囲。

 ああ。

 要するに。

 世界の。

 全てが。

 赤。

 い。

 色。

 に。

 染まった。

 それは、本当に、突然だった。突然、真昼の目の前にあった世界の全体が、完全な赤に転換したのだ。全てが、全てが、全くの赤になった。真っ赤な鮮血をぶちまけたみたいに、破裂したかのような赤が破裂したのだ。

 真昼は、一瞬、何が起こったのか全然分からなかった。「は?」と声を漏らした。「え?」と声を漏らした。それから、右と左と、きょろきょろと見回しながら、ほとんど口走るみたいにして「なんだよ、何が起こったんだよ」と言う。

 そして、だんだんと事態が飲み込めてきた。つまり……違うのだった、そうではないのだった。世界が赤く染まったのではなく、真昼がいるこの場所が、赤く透明なドーム状の何かによって覆われたのだ。

 そのドームを透過して、真昼に向かって降り注いでくる太陽の光。それが赤く染まっているだけなのだ。この場所を照らし出している全ての光が赤く染まっているため、自然と、世界が赤く見えているだけ。

 世界は、赤い光で満たされた水槽の中に沈められているようなものだった。そのドームは……どれほど巨大なものだろうか。とにかく、かなりの範囲を覆い尽くしている。その中心に、例のお城があって、そこから、アビサル・ガルーダが飛行しているこの場所まで広がっている。直径は五エレフキュビト程度だろうか、ということは、このドームは半球の形状をしているので、最も高い場所は二.五エレフキュビト程度の高さがあるということだろう。

 とにかく、そのようなドームに、アビサル・ガルーダが、今まさに突っ込んだために。そのために、何もかもが赤く染まって見えたということだった。突っ込む前まではそのドームが見えていなかったので、ちょっと予想外のびっくり大事件が起こったように感じてしまったのだが。何が起こったのか分かってしまえば、別に驚くほどのことでもなかった。

 ところで、そうであるならば、次の疑問は、これはなんだろうかという疑問だ。このドームは一体なんなのか。ただ、真昼は、考えるまでもなくその疑問の答えを導き出すことが出来た。「おいおい、これ、なんなんだよ……ああ、結界か」。

 そう、先ほど、デニーが言っていた結界だ。あのお城を中心として、ここ一帯をブラインド・スポットにしている結界。そう考えれば説明がつく。というか、そうとしか説明がつかない。真昼はなんだか拍子抜けしたような気持ちになってしまった。なんだよ、そんなことかよ。一瞬、やっぱり何かが起こってしまったと思ったが。結局、何も起こらないのか。「びっくりさせんじゃねーよ」と言いながら、軽く舌打ちをする。

 それから、隣にいるデニーに「それにしても、随分と悪趣味な結界だな」「真っ赤も真っ赤、真っ赤っ赤じゃねーか」「ま、なんか理由があんのかもしんないけどさ」なんていう感じ、どうでもいい軽口を叩く。それから、ちらと、そちらの方に視線を向ける。

 と。

 その。

 瞬間。

 脊髄に。

 凍り付いた。

 水銀が。

 流し。

 込ま。

 れる。

 久しぶりの感覚だった。本当の本当に、久しぶりの感覚。まさか、まだ、自分に、こんな感覚が残っているなんて。つまり、これは、恐怖だった。しかも、今までのような、かたわの恐怖ではない。例えば、ただ単に生物的な恐怖であるとか。あるいは、中枢神経の反射的な反応としての恐怖でもない。いうまでもなく、論理的にそれを恐怖するべきだからという理由だけで恐怖している恐怖でもない。それは、完全で、絶対の、恐怖。逃れることが出来ないほどの現実としての恐怖。そう、必然性としての恐怖。

 なぜ、真昼はそのような恐怖を感じたのか。それは、デニーの顔を見たからだ。その顔は……一見すると、ごくごく普通の顔だった。例えば、驚愕に歪んでいるわけではない。あるいは、絶望に沈んでいるわけでもない。慄然、怯懦、焦燥、そういうあらゆる負の感情は、その顔から読み取れない。そうではない、そうではないのだ。そうではなく、その顔が……完全な無表情であったということ。それが、真昼を恐怖の心底に叩き落とした。

 いつもいつも、デニーが浮かべていたはずの顔。くすくすという笑顔、けらけらという笑顔、にーっという笑顔、シュガーで、ハニーで、プディングでキャンディでクッキーでマシュマリーで、そして、吐き気がするほどに可愛らしいあの笑顔。それが、今のデニーの表情からは完全に消え去っていた。

 デニーは、この赤いドームに突っ込んだ瞬間に。何かが起こったことに気が付いたのだ。何か絶対に起こってはいけないことが起こってしまったということに。そして、そのせいで、全ての擬態をやめてしまっていた。あたかも人間であるかのような、人間らしい表情をすることをやめてしまっていた。

 その表情は……真正面から、昆虫の顔を覗き込んでしまった時、そこに見る表情だった。何もない、何もないのだ。昆虫には感情があるだろうか? 恐れたり怖れたりするだろうか? たぶん、しないだろう。例えば、なんらかの種類の昆虫が、今まさに危機的状況に陥っている時。その昆虫は人間のように感情を剥き出しにしたりはしない。ただ反応する。その危機的状況に対して、本能に刻まれた反応だけを行動として行動する。

 つまり、デニーの表情はそれであった。真昼は……絶句した。理解したからだ。今が危機的状況であるということを。それは、デニーが、あのデニーが、予測さえしていなかったような事態であって。そんなことがあり得るのか? そんなことがあり得ていいのか? ああ、でも、それは起こってしまっていて。そして、そのせいで、デニーは、今、反応しようとしている。冗談も饒舌もなく、ただただ最善の行動を取ろうとしている。

 息も出来ず。

 ただ。

 ただ。

 デニーを。

 見ている。

 真昼。

 まるで。

 一つの宇宙が。

 生まれてから。

 死んでしまう。

 一つの。

 永劫のようにさえ。

 感じてしまう一瞬。

 その一瞬。

 の。

 後で。

 デニーが。

 ふっと。

 些喚く。

「ゴー、フィッシュ。」

 真昼の世界がくらりと傾ぐ。ああ、悪くない感覚。心地よい死に包まれて死んでいくような。全身が、冷酷と残虐と非道と、絶対的な冷血によって抱き締められて。そして、赤い光の中を落下していく。つまり、一体何が起こったのかといえば、真昼のすぐ隣、一つだけ横のアビサル・ガルーダの爪先に立っていたデニーが、跳んだのだ。あられもなく跳んだのだ、真昼がいる方に向かって。そして、真昼のことを、まるで一つの強奪のようにして掻っ攫って。そして、二つの獣の肉体は、あるいは、二つの昆虫の肉体は、虚空へと投げ出されて。そのまま、重力に従って、墜落することを開始したということである。デニーの冷度を感じる。全身がデニーの冷たい冷度によって包み込まれている。安心、安寧、あるべきところに自分があるという感覚。自然と、デニーが下を向いていて、真昼が上を向いている、重なり合った体と体とは、そのような姿勢になっている。つまり、現時点における真昼は、今まで真昼がいたところ、上へ上へと掲げられているアビサル・ガルーダの手のひらを見ていることになるのだが……と、花火。

 花火だ。黒い花火。闇の花火。真昼の目の前で、高度の粘性を有した暗黒が炸裂した。べとべととした鮮烈を撒き散らしながら、そして、その爆発は音を立てる。まるで、悲鳴のような、絶叫のような、そんな音を。ような? いや、違う。明らかに、それは比喩ではない。それは、実際であった。つまり、それは、アビサル・ガルーダの咆哮だったのだ。気が狂うような激痛を、のたうち回るような苦悶を、そのまま叫喚として吐き出したのだ。そして、真昼が花火だと思ったものも、やはり実際は花火ではなかった。爆発したのは花火ではなくアビサル・ガルーダの手のひらだった。アビサル・ガルーダの右の手のひらと左の手のひらとが跡形もなく粉々に砕け散ったのだ。鵬の手のひらが? 神と、神と同等の力を持つ鳥の手のひらが? そんなことがあり得るのか? だが、そのような疑問は無意味だった。なぜなら、それは、実際に真昼の目の前で起こっているからだ。

 理解不能。次第に、次第に、全ての出来事が速度を落としていく。真昼の思考が轟音を立てて回転する。何が、何が、何が起こったのか? つまり、要するに、これは。ただ、アビサル・ガルーダの手のひらが爆発したというだけの話ではない。今まで、デニーと、真昼と、二人がいたところ、それが爆発したということだ。それが、攻撃を、受けたということだ。そう、攻撃を受けた。何者かが、デニーと、真昼と、二人に、攻撃を仕掛けてきたということだ。何者か。鵬の手を破壊出来るような何者か。いや、それ以上に……真昼には、それ以上に恐ろしいことがあった。その何者かは、デニーさえも、その攻撃が行なわれる直前まで、その攻撃の予測が出来なかった。そんな攻撃を仕掛けてきたのだ。デニーが? あのデニーが? あり得ない、あり得ない、絶対にそんなことはあり得ない。だって、デナム・フーツは、デナム・フーツは、全知全能のはずだから。きっと、きっと、全知全能のはずだから。だから、この攻撃も、きっと予測していたはずだ。けれども、どうやら、そういうことではないらしかった。デナム・フーツは。真昼のことを抱き締めたまま、地上に向かって、放たれた弾丸のように赤い光を突っ切っていくデナム・フーツは。相変わらず、追い詰められた昆虫のように無表情だったから。

 そのデニーの視線が、ちらと揺れた。何かを見た。何を? 真昼もそちらに目を向ける。地上。黒と白と。荒野。その上に何かがあった。いや、誰かが立っていた。誰が? 分からない、よく見えない。しかしそれは確かに誰かだった。高度な把持性を持つ生き物の形状をした誰かだった。人間か、それか人間に似た生き物か。ただ、今の真昼にとっては、その誰かは問題ではなかった。その誰かよりも注目するべきものがあった。それは、その誰かの隣にある物体だ。それは、その誰かの身体の大きさとほぼ同じくらいの大きさがある物体であって。それは、つまり、大砲だった。いや、大砲なのか? 少なくとも、大砲のような役割を果たすものではあるらしい。それには砲身があり、それには砲口がある。ただ、それは、奇妙に作り物めいている。なんとなく、サイエンス・フィクションっぽいというか、実用的でも科学的でもなく、ただただ格好の良さだけを追求した玩具のような。また、それだけではなく、妙にデッサンが狂っているように見えた。いや、これは例えでもなんでもない。もしかしてこの距離から見ているため、なんらかの錯覚が起こっているのかもしれないが。とにかく、その大砲は、異様で異常で、この時空間が有するあらゆる法則からして、あり得ない形状をしているように、真昼には見えた。

 ぱっと。

 光。

 を、放つ。

 その。

 大砲。

 が。

 デニーが、とんっと虚空を踏んだ。何もないはずの空間を、デニーのローファーが蹴り飛ばして。そして、デニーと真昼と、二人は、その落下の方向を変えた。今までの方向から、勢いよく、横の方向に弾かれるみたいに移動した。

 その瞬間に、二人の真横、空気を、空間を、何かが掻っ捌いていった。砲弾だ、大砲が放った砲弾だ。それは不可思議な何かだった。物質でもなく妖質でもなく、曖昧で不確かな、実体の紛い物のような何か、で、出来ている砲弾。

 砲弾は、そのまま、デニーによって紙一重のところで躱されたまま、空へ空へと突き進んでいって……やがて二人の上空にいたアビサル・ガルーダに着弾した。またアビサル・ガルーダの一部を吹っ飛ばす。今度は、その頭部。正確にいえば下顎から首筋にかけての部分。この攻撃によって、アビサル・ガルーダの声帯は完全に破壊されたらしい。先ほどまで聞こえていた、あの、凄まじい叫び声。まるで一つの虚空が世界を飲み込もうとしている時に、その世界が軋み音を立てる鳴動のような叫び声が、その瞬間に、ぷつんと停止する。

 あ。

 雨だ。

 雨が降ってる。

 黒い黒い、雨。

 真昼は、なんとなく間の抜けたような、そんな感覚の中で、自分の頬を濡らした、アビサル・ガルーダのアンチ・ライフ・エクエイションを感じていた。アビサル・ガルーダの、そこから先が消えてなくなった手首から、ほとんどちぎれかけた首から、噴水のように、アンチ・ライフ・エクエイションが噴出していて。そして、それが、霧雨のように真昼のことを濡らしている。ああ……なんだろう、温かくも冷たくもない。なんだ、命なんてこんなものか。

 そんな呑気なことを考えている真昼だったが。ただ、現在の状況は、実際のところ、そういった真昼の呑気さからはかけ離れたところにあった。地上の、あの、大砲、らしき物。もう一度、光を放った。もう一度、もう一度、もう一度。

 そのような光が瞬くたびに、デニーは、あたかもステップを踏んでいるように、ラビット・トレイルを踊っているかのように、優雅に、優美に、感傷的なまでに繊細に、虚無を蹴り飛ばす。とんっ、とんっ、とんっ、あららかなダンス。

 スーツの裾がひらりと揺れる。月光の下でクラゲが死んでいくように。デニーの爪先が軽く空を刻む、真昼を抱き締めたままでくるりと回転する。ゆらゆらと、フードが揺れて……その奥で、明らかに人間ではない、哺乳類ではない、脊椎動物ではない、昆虫の顔が、数式を巡らせている。それは、人間が扱うもののように記号化された数式ではない。そうではなく、本能として、そこに答えだけが存在している数式。そして、その数式に従って……デニーは、踊る。右も、左も、上も、下も、なく。ただただ座標軸だけが提起されている、無拘束のダンスを踊る。

 デニーが、切り取られた蝶々の羽のように身体をひらめかせる。そのたびに、アト、ゼプト、ヨクト、ほとんど触れんばかりの距離を砲弾が通過していく。先ほどは紙一重と表現したが、これは、紙の一枚と表現するのにも、あまりにも薄過ぎる紙だ。

 そして、躱された砲弾、砲弾、砲弾は。次々と、アビサル・ガルーダに着弾していく。アビサル・ガルーダの右足が吹っ飛ぶ。アビサル・ガルーダの横腹が吹っ飛ぶ。アビサル・ガルーダの左肩が、左羽が、胸部中央が、右腿が、吹っ飛ぶ。アビサル・ガルーダは、反生命の原理によって蘇った、鳥類の王は。見る見るうちに、見る影もない肉塊へと変貌していく。声が出ないまま……藻掻いて、藻掻いて、藻掻いて。なんだか滑稽な、笑ってしまいそうな、めちゃくちゃにぶん投げられた操り人形のような舞踏だ。デニーの精緻で精密な舞踏とは、全くの対称形。

 明確だった。

 分かり切ったこと。

 考えるまでもなく。

 これは、この過程は、このままだと破滅が目前であるという内臓的な提挙であった。近付いてくる、近付いてくる、地上が、つまり、あの大砲が設置されている地点が。近付けば近付くほどに、その砲弾を回避するのは難しくなるだろう。いや、違う、そうじゃない。最も危険なのは、着地のその一瞬だ。例えデニーといえども、その一瞬だけは、隙が出来てしまう。自分の肉体と、その肉体が接触するこの星と、その二つの接点。その場所における関係性の最適解を実行する一瞬だけは。

 その隙は、いうまでもなく、ほんの僅かだ。人間にとっての一瞬を、その千分の一の千分の一の千分の一にしたよりも、それよりも遥かに短い、星が生まれる時の閃光のような一瞬。ただ、そのような一瞬であっても……現在のこの状況下では致命的なものになりうる。

 十分に理解していた、デニーは、そのことを分かり切ったように分かっていた。そして、今のデニーは、その一瞬よりも一瞬である一瞬に対する、絶対に失敗の許されない対策を諦念していたのだ。諦、道理、真実。諦念とは、諦めることではない。それを見極めること。

 そう、その瞬間なのだ。砲弾、砲弾、砲弾、絶えることも途切れることもない連続した砲弾の強襲に強制されて一人きりのワルツを踊りながら。真昼の肉体が定義する運命を抱き締めて、それを一方的に左右しながら。デニーは、自分自身のWhole thingを、その、たった一点だけに収斂していく。近付いてくる、近付いてくる、近付いてくる。その接点が。現実が、死か、生か、そのどちらかに分かたれる一点が。

 そして。

 それから。

 螻。

 蟻。

 凝縮して。

 透過する。

 その。

 清浄な。

 瞬間に。

 デニーは。

 美しい。

 美しい。

 流れ星のように。

 舌先を。

 上顎で。

 コッと。

 鳴らす。

 ねえ、教えてあげる。あのね、アビサル・ガルーダは、死んだわけではなかったんだよ。まだ、死んではいなかったんだよ。体中が、まるで、水玉模様みたいに穴だらけになって。子猫にさんざん遊ばれた後の猫のおもちゃみたいにずたずたに引き裂かれて。それでも、アビサル・ガルーダは死んではいなかったんだよ。だって、許されていなかったから。死ぬことを許されてはいなかったから。最後の最後、この瞬間に……ご主人様の役に立つまで。

 デニーが、クリック・スペルを発した瞬間に。ほとんど捨てる寸前の襤褸雑巾のような姿になりながら、それでも、デニーと真昼と、その二人の上空に浮かんでいたアビサル・ガルーダが。唐突に、全身を痙攣させた。あたかも生命の……いや、反生命の最後の一滴を振り絞るようにして、右腕を揺らめかせる。

 その右腕の先端。吹っ飛ばされて痛々しい傷口になった右手首から、アンチ・ライフ・エクエイションの塊のようなものが、どぷっと吐き出されて。それが一瞬で先ほどまでそこにあったはずの右手のひらの形状に変化する。

 右腕は速やかに動作して、出来たばかりの右手のひらの紛い物を自らの背中にまで持っていく。その背中、肉体の鞘に突き刺さったままのヴァジュラ。ほとんど機械仕掛けのような正確さによって、それを、掴み、引き抜く。

 実は……実際のところは……このヴァジュラの形態は、完全な形態ではなかった。この状態は、ヴァジュラが最も強大な力を発揮するところのものではないのだ。読者の皆さんは覚えておられるだろうか、サテライト&エレファント feat.ブリッツクリーク三兄弟との戦闘。戦場の全体が、レジスタンスが吐き出した抵抗力によって覆われてしまい、そこにあるものの何一つ感覚出来なくなってしまった時。アビサル・ガルーダが、そのような状況を打開するためにした行為を。

 その時、アビサル・ガルーダは。自らの手に持っていたヴァジュラを高速で回転させることによって、中央のオリジン・ポイントから放出されている二つの原理、つまり、セミハの原理とオルハの原理とを羯磨融釈したのだ。そうすることによって、この世界に「双頭のピュランクス」と呼ばれる状態を作り出し、それによって、原理内戦の法則破壊的効果をフィールド全体に爆発させた。そして、結果として、抵抗力を吹き飛ばしてしまったのだ。

 要するに、何がいいたいのかといえば。セミフォルテアとオルフォルテアと、二つの力は、それぞれの力として確かに強力であるが。その二つが原理内戦を起こした時に放出される膨大なエネルギーと比べれば、その爆発と比べれば、歯のない魚の一噛みのようなものに過ぎないということだ。

 ヴァジュラが最大の力を発揮する時。それは、オリジン・ポイントから放出されるエネルギーを、セミハのそれとオルハのそれとに分離することなく、一つの、同一の、奔流として、その刃とした時なのである。

 ただ、まあ、それはそうなんですけどね。一つ、大きな問題があるのである。それは、そのような爆発を制御するということは、限りなく難しいという問題である。以前、アビサル・ガルーダが、そのような原理内戦状態を作り出した時。それは、セミハの力とオルハの力とを、ごくごくわずかに、そっと。降り注ぐ雪の欠片と雪の欠片とが、地上に落ちるその直前に、一種だけ触れ合った程度。その程度に触れ合わせたに過ぎなかった。それにも拘わらず、あれだけの膨大な力、法則の揺らぎを発生させたのである。

 もしも、このヴァジュラが発生させることが出来るレベルの、そのレベルのセミハの力とそのレベルのオルハの力と、その二つの力を完全に合一させれば。その時発生する力は、一つの銀河の全体における現勢力をテンピカライズできるほどの巨大なものとなりうる。いうまでもなく、君レベルの生き物は一つの星を、公レベルの生き物は一つの星系を、王レベルの生き物は一つの星団を、滅亡させることが出来る程度の力を有するもの、というのがその定義であるが。ヴァジュラの本来の力は、王レベルの生き物さえも軽々と越えてしまうほどの力なのだ。

 まあ、まあ、よく考えてみればそんなことは当たり前の話であって、この武器は、龍と鵬との戦いにおいて、王レベルの生き物を殺害するために使用されていた武器なのである。王レベルの生き物がその攻撃を防げるような武器であったのであれば、クソの役にも立たない。

 さて、アビサル・ガルーダは、王レベルの生き物である。ヴァジュラの全力を、制御することが出来ない……いや、制御し続けることが出来ない。正確にいえば、制御することは出来る。恐らくは数秒、長くて数分。それが限界ではあるが、一時的に制御することは出来る。

 そして。

 今は。

 その。

 数秒で。

 数分で。

 十分だった。

 ふっと、消えた。アビサル・ガルーダの手の内側に握り締められたオリジン・ポイント、そこから放出されていたはずの、上側の独鈷、下側の独鈷、二つとも、夢の残骸を鳴り合わせた残響が、跡形も残さず消えてしまうかのようにして。ふっと、消えてしまった。それから、アビサル・ガルーダは……その、ただの球体を、ある種の壮絶さ、凄絶ささえ感じさせるほどの形相。下顎を失った破滅の星座のような形相で振り上げる。

 るんっ。

 と。

 いびつが。

 疾駆する。

 世界に。

 傷口が。

 開く。

 オリジン・ポイントから、一直線に。この世界が誕生したその瞬間に定義された法則に、すうっと、あくまでも優しく、あくまでも静かに、断絶が発生した。それは、いってしまえば、「あり得ないことのあり得なさ」だった。根源方程式が役に立たなくなる。あたかも、等式の上に、一つの斜線が引かれたかのように。その斜線がそれであるかのように、世界に切れ目が入る。

 それが、その次の瞬間、ずるりと歪む。歪むとしかいいようがない。何かが異なってしまったのだ、一直線に……歪みの色が美しく漏出する。傷口から吐き出されたかのようにして、オリジン・ポイントが、刃を吐き出したのだ。そう、それこそが、このヴァジュラの刃の、その本来の姿であった。異様な捻じれ、奇妙な曲がり、ただただ不気味な光が、たった一つの刃となる。

 本来は、爆発的なエネルギーを。現実の全体に充満するように飛散して、あらゆるもののアガトラシー化を嘲笑うはずの凄まじい力を。アビサル・ガルーダは、操作して、収束させて、たった一点を攻撃するための武器として洗練したのである。だが……それでも……抑え切れない力の脈動が、その抑え付ける制御を跳ねのけるようにして弾けている様が見て取れた。オリジン・ポイントから、まるで迅雷のように、がりがりと音を立てて、アビサル・ガルーダの右手のひらの紛い物を蝕む原理内戦の力。ただ、とはいえ、大部分の力は一点に集中している。

 一点。

 一点。

 そう。

 狙うべきは。

 ただ、一点。

 アビサル・ガルーダは。

 絶対的に。

 強制された。

 信仰における。

 クレーシスの。

 ように。

 数式的に、正確な、ティラニー。

 僭主によって、命じられるまま。

 その。

 ヴァジュラを。

 地に。

 放つ。

 投擲。そう、それは投擲だった。ヴァジュラの最も原始的な使用方法は、チャクラと同じように、それを投擲して相手に突き刺すという方法だ。まあ、チャクラの場合は輪宝であり、突き刺すというよりも切り裂くという方が正しいのだが。とにかく、アビサル・ガルーダの右手は、地上の一点、クリック・スペルによってデニーに命じられた方向にヴァジュラを投げつけた。

 それは、いうまでもなくあの誰かがいる方向だった。つまり、アビサル・ガルーダに向けて、というか、デニーと真昼と、二人に向かって、現実離れした形状の大砲を発射していた、あの誰か。人間なのかどうなのかも分からないが(人間がデニーをここまで追い詰めることなど出来るわけがないという真昼の深い深い確信)、とにかく人間のような姿をした誰かがいる方向。

 ヴァジュラは。

 現実化した現実を。

 引き裂き。

 引き裂き。

 引き裂き。

 そうして。

 その後で。

 あたかも。

 一つの。

 罪の。

 宣告の。

 ように。

 して。

 その誰かがいる。

 その。

 まさに。

 一点を。

 貫く。

 貫く? いや、それは……貫くというには、あまりにも神学的であった。つまり、それは物理学に支配された行為として定義するにはあまりにも偉大過ぎたのである。確かに、ヴァジュラは、その誰か、大砲ごと、大地ごと、破滅を叩きつけた。ヴァジュラは、大地の上に、あたかも選ばれし者以外の何者も引き抜くことが出来ない剣のように突き刺さって。そして、そこにいたはずの誰かも、大砲も、もう跡形も見えなくなっている。それどころかそこには巨大なクレーターのようなものさえも出来ている。ただ、それは、ある物質がある物質に一撃を加えたというよりも、もっともっと深刻な出来事が起こった結果であった。つまり、そのクレーターが出来た時空間、その全体における物理学的法則そのものが葬り去られて。その結果として、何もかもが虚無に帰したということだ。

 何もかもが?

 いや。

 まだ。

 今は。

 分からない。

 デニーの。

 視線は。

 未だ。

 その一点、を。

 凝視していて。

 ただ、とはいえ、少なくとも時間は稼げたようだった。それが一瞬であるか、それとも永遠であるかは別として。デニーと真昼とが、着地するための時間は。要するに、アビサル・ガルーダが放ったヴァジュラは、デニーと真昼とが大地に激突する寸前に着弾したのであって。まさに、その時、つまり着地の瞬間において、その誰かの攻撃は封じられていたということだ。

 さて。

 そうして。

 あと。

 三秒。

 二秒。

 一秒。

 まるで。

 少女に。

 口づけを。

 落とすような。

 ジェントリー。

 に。

 よって。

 デニーは。

 とん、っと。

 雪を、踏む。

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