第三部パラダイス #39

 辟支廻向。

 無余涅槃界から穢悪汚染の彼岸に還相する。

 底下愚縛の凡夫を懐孕する無盡燈明の煩悩。

 決して、利己の真心。

 ただそれだけが無因無縁の宿命を慈悲とする。

 南無弥勒菩薩。

 南無弥勒菩薩。

 南無弥勒菩薩。

 さあ。

 あたしの。

 名前、を。

 口にしろ。

 あたかも……あたかも、どこでもない場所のような場所が広がっていた。真昼の見ているその場所。それはこの世界には決してあり得なかったような場所だ。いつだったか、とにかく、この世界というものが生まれる前に。この世界を作った何者かによって放棄された場所。捨てられて、忘れられて。そのせいで、ただただ誰もいないという孤独だけが、凍り付いた寂寞とともに停滞している場所。冷たい、冷たい、そう、その場所は冷淡であった。あらゆる意味で、その温度も、その光景も、何もかもが、冷ややかとしか表現のしようがないまでに淡々としている。

 それは地獄なのか? いや、地獄ではない。地獄には愛がある。偏愛、愛染、言葉はなんでもいいが、その愛が欠如することがいわゆる地獄というものの構成要素だ。あるいは、それは煉獄なのか? いや、それは煉獄でもない。煉獄には目的がある。煉獄とは、出発点と目的地とがある一本の道のことを指す。始まりと終わりがあるのであれば、その距離を測ることが出来る。

 ここは、つまり、辺獄だ。そこには始まりも終わりもない。そして、より一層重要なことに、そこには愛がない。そこには主というものに対する根源的な認識が欠如しているのだ。いや、というよりも「主に相対する自分自身」というものに対する認識が欠如している。肉体の言語が完全な空虚として露呈している。

 空、空、どこまでも青く、透き通っていて、雲一つない。何ものも受け付けることがない空。洗礼を受けずに死んでいった、無原罪の幼児のためにこの場所はある。そのような幼児には、欠如がない。そもそも形作られていないからだ。その代わりに、そのような幼児にあるものは、別様ではあり得ない絶対性だけだ。

 それは孤独であるが、その孤独について勘違いしてはいけない。その孤独は「他者の不在」によって成り立つ孤独ではない。全く逆だ。それは「自己の不在」による孤独なのだ。遊戯ではない、遊戯は自己で充満している。そうではなく、そこにあるのは支配関係だ。支配者と被支配者との、取り返しがつかない分離。

 辺獄に、真昼はいた。一度、往相して。そして、また、こちら側へと還ってきた者として。カートゥーン。そう、これはカートゥーンだ。光がある。ここには。動物的な光が。動物的なまでに野蛮で、真聖さの欠片もない光。

 そう、ここには主はいない。主がいない以上、何もかも許されることがない。裁きはなく、許しはなく、従って、ただただ罪だけが残されている。そのような中で、無原罪であるということはどのようなことか? つまり、いうまでもなく、それは選ばれているということだ。しかも、その選びは、真昼自身に起因するものではない。もしもその選びが真昼自身に起因しているというのならば、いうまでもなく真昼はその選びに値しないだろう。そうではなく……それは、真昼の不在によってなされた選択だ。真昼の不在によって、真昼だけが選ばれた。真昼以外のあらゆるものが選ばれなかった。無論、それは奇跡である。そして、奇跡は、少女が流す涙のように残酷だ。

 ここは辺獄だ。カートゥーンの中、その一つのコマで堕胎された、混濁した胎児を保存するためだけに作り出された一個の卵のような場所だ。あらゆるものはあらゆるもののうちにあり、その卵の内側には存在しない。その卵の内側では、「無」という概念さえ無効化される。そして、その卵は、冷凍庫の中で凍り付いている。ここは寒い。少し寒い。寒々とした荒野が、どこまでもどこまでも続いている。

 いや。

 これでは、何も、分からない。

 もう少し具体的な話をしよう。

 ここは、つまり、アーガミパータの西北部。

 その果ての果てにある変成岩の露岩地帯だ。

 昨日の午後、太陽が中天を過ぎ去って下降の旅程を開始した頃、デニーと真昼と、その二人を手のひらの内側に頂いたアビサル・ガルーダが、パヴァマーナ・ナンディに突っ込んだスカーヴァティー山脈。その山脈の、峩々として巍々として、あたかも太古の昔に死に至り、その後に肉体も朽ち果て、ただただ脊柱だけが残された一柱の神の、その歪なまでに神々しい脊柱のような肢体。それが、遠く遠くに見えている。

 スカーヴァティー山脈の山麓から数エレフキュビト離れたところ。いわゆるアクハット平原と呼ばれている場所である。アクハットとは、マートリカームラ語では「不滅の清浄」を表わす単語だ。その名前は次のようにして名付けられた。スカーヴァティー山脈を阿弥陀仏の身体とみなし、そうして、アクハット平原を阿弥陀仏の足とみなす。この世の生けとし生けるもの、一切の群生海をその無量の暗黒によって悟りの無明へと沈める阿弥陀仏。三千大千世界、六方恒沙、遍き宇宙を踏破するその足は、決して傷付くこともなく、決して穢れることもない。その足は、泥足を洗う必要もなく、その純一無雑は侵されることはない。ゆえに、アクハット。

 そして……その単語が意味する意味の通り、真昼の眼下に広がっている光景は、決して滅びることがないものに特有の頑牢を象示していた。夜刀岩と呼ばれる特殊な変成岩によって作られた大地。黒く、黒く、凍り付いている。剥き出しになった岩盤が、どこまでもどこまでも広がっている。夜刀岩。やと、やつ、谷の岩。その名の通り、この岩は、ナシマホウ界とマホウ界と、その境界に発生する変成岩である。既存の岩石が、ナシマホウ海とマホウ界と、その二つの世界の衝突の衝撃。あるいは、二つの世界が鬩合するそのエネルギーによって変質した岩石だ。この岩石の最大の特徴は、科学的な特質と魔学的な特質と、その双方を有しているということである。二つの世界が生み出すあまりにも巨大なエネルギーは、その岩石を不定子のレベルから変質させてしまう。その結果として、夜刀岩は、魔子でも科子でもない、その二つの基本子の性質を持った非常に奇妙な基本子になってしまうのだ。それゆえに……夜刀岩は……例えば微睡の中、夢とも現とも区別のつかないあわいのように。あるいは、異なった形相子を持つ二種類の動物の間に生まれた、繁殖能力を持たない生き物のように。それ以外の何物でもない、茫漠とした、不毛の、物質となるのである。

 その大地には二色の色しかない。夜刀岩の黒と、その黒を惨たらしく浸食している氷雪の白。確かに清浄だ。死ぬことがないが生きているわけでもないものを清浄と呼ぶことが出来るのであれば。例えば、果実と石とを選択させるとしよう。そして、選択者が果実ではなく石を選んだとしよう。その石を食らうことによって手に入れた不死こそが、この土地に相応しい生命だ。

 この土地には、果実を選んだ生命が寄生する余地はない。呼吸をする生き物のための土地ではない。舗装されているかのように、あらゆる生命を排除するために不死という概念で舗装してしまったかのように、この土地には、動物の一匹も、植物の一本も、存在していなかった。ごつごつと無関心な岩と、奇形的なほどに冷酷な氷と、その二種類のアクハットがあるだけだ。

 大体……黒の比率が七、白の比率が三、その程度。黒い岩石が、ところどころで凸、ところどころで凹、その凹の部分に雪溜まりが出来ているのである。あたかも、雨が降った後の水溜まりのように。あちらこちらに出来た雪溜まりが、意思のない生命、膠着質の生命体であるかのように、ところどころで触手を伸ばすみたいにして接続している。それから、その雪は、表面に透明の膜が張っていて。すっかり凍り付いて、まるで夜刀岩とは別の種類の岩石であるかのような、そんな有様になってしまっている。

 荒涼。

 ただただ。

 その言葉。

 だけが。

 ぽかんと。

 死んでいる。

 そんな土地だ。そして……真昼は……その土地の上を天蓋する、アーガミパータの空。このような土地に最も相応しい生命である光り輝く胎児、その受精卵の中で身動きするヒラニヤ・アンダが見下ろす、完全な青。その青を、一直線に引っ裂くようにして飛翔するアビサル・ガルーダの上に乗っていた。

 いつものように、両手のひら、供物だの犠牲だの、とにかく聖なるものを捧げるようにして真上に掲げられているその手のひらの上。左側でぺたんと座っているデニー、その真横に、真昼は座っていた。デニーは、地べたに座り込むように、足を真っ直ぐに伸ばして、背の後ろで両手のひらをついて、そのようにして座っていた。いかにも寛ぎ切った姿勢だ。そして、真昼は、体育座りをしていた。両膝を抱え込むみたいに、両腕でしっかりと抱き締めて。そして、その膝の上に顎を乗せて、ぼんやりと座っていた。

 そして。

 二人は。

 取り留めもなしに。

 会話を続けている。

「じゃあ、結局、世界は滅ぶわけ?」

「んー! 世界っていうより、この銀河がね。」

「それならさ、あたしのことを助けてなんか意味あんの? つまり、数か月後だか一年後だか知らないけど、とにかく、そのアザーズっていうのが来たら、この星は滅ぼされるわけでしょ。跡形もなしに。で、あんたがあたしを助けようとしているのは、っていうか、あんたが所属している組織があたしを助けようとしているのは、あたしを助けることで、ディープネットから、っていうか、静一郎から、バーゼルハイム・シリーズがどうやって作られてるのかっていうその技術の情報を手に入れるためだよね。で、その技術の情報をどうして手に入れたいのかっていうと、最終的な目的は金ってことになるわけだ。その技術の情報で作った兵器を売り捌くためにその技術の情報を手に入れるわけだもんね。でも、この世界が滅びるっていうなら、金なんていくらあっても意味ないでしょ? だって、金って、この世界にしか流通してないわけだし。まあ、仮に、金は置いておいて、技術の情報を手に入れる、そのこと自体に意味を見いだしているとしてもさ。世界が滅ぶ、それから、その世界に所属しているところの自分も死ぬ、そういう状況になったら、やっぱり、そういう情報になんの意味もないよね。だって、死んだら死んじゃうわけだし。そうなったら、もう、情報を使うも何も、どうしようもないでしょう。いや、あたしは生き返ったよ。あたしは生き返ったけど。この星が跡形もなくなくなったら、生き返ることも無理でしょ。多分。それならさ、こんなことしてないで、もっともっと他にすることがあるんじゃないの? その、アザーズっていうのの侵略を防ぐために色々することがあるんじゃないの? こんなところで呑気に時間を浪費してて構わないわけ?」

「ええー? そんなこと言われてもー、デニーちゃん的には、命令されたことをやってるだけだしー。難しいことは分かりませーん。それに、アザーズが来たとしても、ぜったいぜったいぜーったい、この銀河が滅ぼされちゃうってわけでもないしね。まあ、今のところは、百回の百回の百回戦っても、一回も勝てませーんって感じだけど。でも、まあ、なんとかなる時はなんとかなるもんだよお。それに、なんとかなったら、やっぱりバーゼルハイム・シリーズについて色々知ってた方がいいよねーって感じじゃないですか! たぶん、そーゆーことだと思うよ。」

「世界が滅びるってのに、随分とまあ他人事だな。」

「だからあ、世界は滅びないよお、真昼ちゃあん。滅びるとして、この銀河だけが滅びるの。なんでかは分かんないけど、アザーズが滅ぼそうとしてるのはこの銀河だけだからね。お隣の銀河は、たまたまアザーズがこの銀河に来る時に、たまたまそこにあったから、たまた滅ぼされちゃっただけなんですー。それで、それで、もしもこの銀河が滅びるとしても、デニーちゃんは別に困らないもーん。デニーちゃん、別に、この銀河でなきゃ生きていけないよーっていう下等生物じゃないし。いざとなったら、どっか別のところ、別の銀河に逃げちゃえばいいだけでーす。まあ、コーシャー・カフェの他の子達は生き残れるかどうか分かんないけどね。でも、デニーちゃん的にはデニーちゃんが生き残れればそれでいいし。」

「お前って、本当にクソ野郎だな。」

「あははっ! 真昼ちゃん、ひっどーい!」

 右手には極楽浄土。

 頭上には神の胎児。

 そして。

 目の前には。

 途切れることなく。

 続く。

 続く。

 不生女の荒野。

 そんな中を伝説の生き物である鵬に乗って飛行しているというのは、よくよく考えるとめちゃくちゃな話ではあるが、アーガミパータで数日を過ごすうちに、真昼はすっかりそういうめちゃくちゃな話に慣れ切ってしまっていた。そして慣れてしまえば、こういうめちゃくちゃな話というのは、その話の渦中にいる者からすれば退屈極まりないものであるということが分かる。

 だって、景色変わんねぇからさ! 全然変わんねぇの、もう。いつまでもいつまでもおーんなじよ。アクハット平原は、そのほとんど全体が、今真昼の眼下に広がっているこの光景と全く同じ光景で出来ているため。十分も経てば、イライラしてくるくらい面白味がないのである。そのため、隣にいるデニーとどうでもいい世間話をするくらいしかやることがないというわけだ。

 ああ。

 そういえば。

 あそこを出てから。

 どれくらい時間が。

 経ってるんだろう。

 あそこというのはいうまでもなくラビットダイナーのことであるが。あそこを出て以来の真昼は、いまいち時間の感覚というものが混乱してしまっていた。確か、レノアが、デニーに向かって、カービー州での時間の進み方はその外側とは少し異なっているといったような話をしていたが。それと関係しているのだろう。恐らくは時差惚けのようなもの。

 とにもかくにも、ラビットダイナーを後にして。それから、デニーと真昼と、二人は。というか、その二人が乗ったアビサル・ガルーダは。延々と、荒野の上を飛行して来たのであった。

 カービー州からスカーヴァティー山脈へ、その移動について、真昼は、もう少しドラマティックなことが起こるのではないかと思っていた。異様な体験というか異常な体験というか。例えば、何か、人間のように卑小な生き物が作ったとは思えないほど巨大な門を通り抜けて、その先にある不可思議に歪んだ時空間を通り抜けて、現実の世界に戻ってくるとか。そういう奇妙なことが起こるのではないかと考えていたのだが、決してそんなことはなかった。

 アビサル・ガルーダが飛行を開始してから、暫くの時間が経過すると。なんだか眩暈がしてきた。いや、そういう眩暈ではない。例えば、回転するタイプの椅子に乗せられて、ぐるぐるぐるぐると回されて。そのせいで気持ち悪くなってしまったとか、そのたぐいの眩暈ではない。もっと、なんというか……突然の眠気が襲ってきて、その眠気のせいでふらっとしてしまう。ベッドの上に倒れ込みそうになってしまう。そういう眩暈だった。

 そういう眩暈を、もっともっと弱くしたやつ。ちょっとふらっとする程度の眩暈だ。よくよく気を付けていないと気が付かないくらいの眩暈が、暫くの間続いた。数十分か、ひょっとしたら一時間くらいは続いたのかもしれない。そして、その間に……徐々に、徐々に、景色が変わっていったのだ。

 最初は、あのプレーンだった。まるで亡霊のようにさらさらとして、砂時計の底に落ちていってしまいそうなプレーン。それが、真昼の眼下で、次第に次第に、スカーヴァティー山脈の山麓、峻厳かつ峻刻な、あの光景へと変貌していったのだ。

 それは思い返してみれば変な話ではあった。だって、ちょっと考えれば分かると思うのだが、プレーンは完全な平地だったわけだ。そして、スカーヴァティー山脈は、一アーロハにも到達しようというくらいの凄まじい山脈なのである。いつの間にか……真昼は全然覚えていないのだが……いつの間にか、真昼の右手に、この山脈が現われたのである。一体、どのように、これほどの山脈が現われたというのか。

 記憶によれば、ごくごく自然な感じ。飛行していくうちに、平野の光景が、だんだんと盛り上がっていって、このような山脈の光景になっていったというような感じがするのだが。これほどの山脈が自然に現われたように見えるためには、少なくとも数時間の距離を飛行しなくてはいけない気がする。そうでなければ、このような山脈は唐突に姿を現わすしかないだろう。だが、それほど飛行したという覚えはなかった。

 まあ、とにかく、そのようにしてスカーヴァティー山脈の山麓まで辿り着いてから。また、暫く飛行していると、アクハット平原へと突入して。それから、暇で暇でしょうがない数十分が経過したというわけだ。

 真昼は。

 少し姿勢を変える。

 左手を、体の後ろについて。

 右脚を真っ直ぐに伸ばして。

 それから。

 右腕で。

 ぐーっ、と。

 伸びをする。

「それってさ、防ぐ方法はないわけ?」

「ほえほえ?」

「だからさ、そのアザーズってやつらの侵略をさ。」

「んー、まあ、幾つかないわけじゃないけどね。」

「どーすんの。」

「まずー、重要なことはー、さっきも言ったんだけど、アザーズには魔学的な攻撃がぜーんぜん通じないっていうことなんだよね。だって、神々にせよ、龍虎鵬武みたいな神的ゼティウス形而上体にせよ、あるいは、ナシマホウ界の四大高等種だって! この星の高等知的生命体の攻撃方法って、すっごくすっごく魔学的な攻撃に偏ってるから。そーなってくると、この星の、最強レベルの軍事力は、アザーズにはぜーんぜん意味がないってことになっちゃうんだよね。まあ、スペキエースとかがいないわけじゃないんだけどお。でも、神々と同じくらいの力を持ったスペキエース、よーするにレベル7のスペキエースって、そんなに何人もいるわけじゃないじゃないですかあ。一方で! アザーズは大軍勢で侵略を仕掛けてくるわけです!

「これをなんとかしないとってわけだよねー。で、そういう時に使うのが、セミハ=オルハ変換器ってわけ! これはねーえ、えーっとねーえ、この星にも、魔学的な攻撃が通じない生き物って、いないわけじゃなかったんだよね。いわゆる「兎戮の民」って呼ばれてる生き物なんだけど。こーゆー生き物は、肉体を構成している物質のうちで、魔子の割合がとーっても少ないか、ぜーんぜんないないって感じだから、魔学的エネルギーの干渉を受けないの。そのせいで、自分が魔法を使えない代わりに、他人の魔法も受け付ませーんっていうわけ。

「それでね、そういう「兎戮の民」の子達のうち、ちゃーんと飼育してちゃーんと調教したお利口さんのことを、神々に対しての暗殺者として使ってたわけ。ほら、「兎戮の民」って魔学的エネルギーがつーよーしないでしょ? 神々っていったって、いくらつよくてつよくてつよーいって感じでも、やっぱりゼティウス形而上体だから。攻撃は、全部とはいわないまでも、やっぱりそのほとんどが魔学的エネルギーによるものだから。「兎戮の民」って、天敵っていわなくても、やっぱりちょーっとだけ戦いたくないなーって相手になっちゃうわけなんだよね。

「でもさーあ、やっぱり、ポンティフェックス・ユニットとか、神々同士が殺し合いをしてるところとかだと、そういう暗殺者の部隊って、大体の神々が、いちおーはしょゆーしてたからさーあ。そういう、「兎戮の民」に対しての対処方法は、どーしても必要になってきたってゆーわけ。それで作られたのがね、セミハ=オルハ変換器ってわけでーす!

「これは、もう、なんてゆーか、名前のとーりの装置で。よーするに魔学的エネルギーを科学的エネルギーに変換する装置なんだよね。だから、これを使えば、神々が魔学的なエネルギーによって攻撃した攻撃が、そのまま科学的エネルギーによる攻撃になるってゆーこと! これなら「兎戮の民」にも攻撃がつーよーするようになるってわけだね!

「で、これを使えば、とーぜん、アザーズにも、神々の攻撃がつーよーすることになるわけなんだけど。でもでも、一つだけ問題があるんだよねー。それはあ、このセミハ=オルハ変換器で変換できるエネルギーの量には限界があるっていうこと! デニーちゃんはあ、一応はあ、王レベルなんだけどお。そんなデニーちゃんの、全力の二十パーセントくらいの攻撃も変換し切れないくらいだからね。確か、今、さいっこーのセミハ=オルハ変換器でも、君レベルの生き物の攻撃の、そーゆー魔学的エネルギーを変換するので精一杯なんじゃないかなあ。

「ほらほら! 「兎戮の民」ってさ! 基本的にはさぴえんすだったわけじゃないですかあ。それほどつよーい攻撃を変換する必要がなかったんだよねーえ。でもでも、アザーズは、さぴえんすなんか比べ物にならないくらいつよくてつよくてつよーい生き物だから。君レベルのセミハ=オルハ変換器じゃ、あんまり役に立たないんだよねえ。

「それでえ、だからあ、今、色々な研究機関が、セミハ=オルハ変換器のエネルギー変換の上限をあーっぷさせるために、だい、だい、だーい奮闘してるわけ! 神々の研究所はもちろんだけど、リュケイオンとかニルグランタとかみたいな人間の研究所に、それに謎野研究所まで! でも、やっぱり、神々の力を変換出来るようなセミハ=オルハ変換器の実用化は難しいみたいでねー。アザーズの侵略が始まる前に、そーゆー物を作れるかどーかってゆーのは、ちょーっとびみょーみたいだねー。っていうか、たぶん無理だね。

「でもね、でもね、一つだけほーほーがないわけじゃないんだよね。それはASKに協力して貰うこと! ほらほら、ASKは、とってもとってもとーってもたーっくさんの情報を貯め込んでるわけでしょお? その情報の中に、どーも、完全理想状態のヴァゼルタ=ロロカリオン変換方程式に関する情報も含まれてるらしいんだよね。方程式を完全理想状態にすれば、原理上は無制限のエネルギーを変換可能になるから。そーすれば、神々の力を、そのままアザーズの迎撃に使えることになるんだよね! そーなれば、もう、一気に戦況が逆転するってわけ!

「まあ、でも、こーゆー協力って、ちゃんとした正面玄関の方法じゃあ、協力して貰えるわけないんだよね。だって、ASKにとっては、この銀河なんて、たかが一定の可能性における、たかが一定の時間における、たかが一定の空間に過ぎないわけだから。この銀河が、もしも滅ぼされたとしても、あるパラメーターが別のパラメーターに移行するってだけの話なんだよね。この銀河が滅びても滅びなくても、ASKにとっては、ただ単に観察可能な現象が起こったってゆーこと以外のなんの意味も持たないわけ。つまり、この銀河が滅びよーが滅びまいが、ASKにはどーでもいいことなの。どーでもいいことだから、ASKとしては、こちらの味方をするつもりもあちらの味方をするつもりもないってゆーことなんだよね。

「裏口を使わなきゃいけないの。それで、その裏口っていうのが……真昼ちゃんも知ってると思うんだけど、ASKに就職した生き物って、基本的に退職することは出来ないの。守秘義務契約の中に、ASKから退職することは許されないっていう意味の条項が入ってるからね。もしも、それでも、無理やり退職しようとすると、契約違反っていうことで確率場におけるパラメーターを虚無に設定し直されちゃうんだよね。えーっと、つまり、完全な無にされちゃうってゆーことだね。殺されるとか死ぬとか、そーゆーことでさえなくって、存在・概念結合状態を解除されちゃうってゆーこと。

「でもね、実は……一人だけいるらしいの。ASKから「退職」したさぴえんすが。そーそー、それはさぴえんすだっていう噂なんだけど。とにかく、ASKの貯め込んでる情報のほぼ全てをのーみその中に収めたままで「退職」した何者かがいるらしいの。で、つまり、その何者かを見つけ出して、ASKから持ち出した情報のうち、ヴァゼルタ=ロロカリオン方程式の理想状態化に関する情報を聞き出せば、ASKに協力して貰ったのと同じ効果があるってゆーこと!

「えーっと、なんていったっけ……ああ、そうそう、マーク・ヒルトンっていう名前らしいんだけどね。だから、今、そのマーク・ヒルトンっていう子をこの星中の諜報組織が探し回ってるの。でもねー、どーも、見つからないらしいんだよねー。そりゃあ、ASKから「退職」出来るくらいの子だからね。よーっぽど、何か、奇跡的なことでも起こらない限り見つけられないと思うけど。でもでも、その子が見つかれば、んー、まあ、まあ、絶対に大勝利ってほどでもないけど、それでも、ほぼ勝つ可能性がゼロの現状を、五分五分の戦況まで持ち込めるんじゃないかなあ。」

 真昼は。

 大して興味もなさそうに。

 「ふーん」と返事を返す。

 「なさそうに」というか、実際に興味がなかった。世界が滅びるだとか世界が滅びないだとか、だから「世界」じゃなくて「この銀河」だって! とにかく、今の真昼にとっては、全然どうでもいいことだった。

 これは別に、「滅びるものは全て滅びるし、滅びないものは全て滅びない」だとか、「あらゆるものはそうなるようになるのであって、そうなることのあらゆることには意味がない」だとか、そういった悟り切った頭の悪いことを盲目に信じているからというわけではない。真昼は、既に、そのようなところは通り過ぎた後なのである。真昼にとって現実は現実であり、そして、真昼は、その現実の中で生きるということをしている。

 そうではなく、ただただ実感がないのだ。世界が滅びるといわれても、事が大き過ぎて恐怖も焦燥も湧いてこない。例えばある集団とある集団との戦争が始まったばかりで、敵集団がある都市を占領するために爆撃を開始したその直後、そういった都市の住民は、なんだか半笑いで「えらいことが起こってしまったな」とか呟くことしか出来ないものであるが。今の真昼は、まさにそういった状態なのだ。人間の不完全性の問題である。

 そういう都市の住民が、実際に自分のアパートが爆撃された時に、ようやく事の大きさに気が付くように。恐らく、真昼も、実際にそのアザーズという生き物の侵略が始まれば、まあ、何か実感するだろうが。現段階では、どうしようもない。人間の一つの特質として、全ての他人事は他人事なのだ。それならそもそも話を振るなよ!と思われるかもしれないが。先ほどから何度も何度も書いている通り、退屈なのである。

 アビサル・ガルーダは……地上から千ダブルキュビトほどの高度を飛行していた。パヴァマーナ・ナンディの上空を飛行していた時と比べてみると随分と低いところを飛んでいて、約五分の一であるが。それは、どうも、地上にあるはずのなんらかの施設を見逃さないようにしているかららしかった。たぶん、今まで何度も何度もデニーが言及しているところのブラインド・スポットなる場所だろう。速度としては、パヴァマーナ・ナンディの上空を飛行していた時と変わらない。ということは、時速二百ダブルキュビトくらい。ただ、とはいえ、真昼にははっきりと断言することが出来なかった。先ほどもちょっと触れたことであるが、真昼の時間感覚はなんとなくずれてしまっていて、そのせいで時速という数値を体感しにくくなっているのである。ただ、別に、飛行速度を変える理由もないわけであって、たぶん時速二百ダブルキュビトで問題ない。

 そして、そのようなアビサル・ガルーダの手のひらの上から見えるものには、とにかくなんの変化もない。青い空、黒い大地、ところどころに雪、能天気にぷかぷか浮かんでいるヒラニヤ・アンダ。そして、かなり遠くの方に、いつまでもいつまでも代わり映えのしないスカーヴァティー山脈。

 高度千ダブルキュビトから見下ろしたものは、あらゆるものが抽象化されてしまって、大地は単なる白黒のノイズにしか見えない。というかあれだ、現代画っていうか抽象画っていうか。ほら、厭味に気取ったいけすかない美術館のコレクション・ルーム、どの美術館にも一枚は飾られている、前衛芸術運動だかなんだか知らないが、とにかくそういうののメンバーだったやつが書いた前衛絵画のたぐい。あれに見える。

 まあ、これだけ巨大な絵画ならば、もうインスタレーションと呼んだ方がいいかもしれないが。とにかく、真昼はそういう「作品」に興味がない。いや、見方は知っている。砂流原の一員として、そういう芸術鑑賞の方法については学んでいたからだ。ああいう「作品」は、「作品」の中に胚胎しているところの純粋な力の脈動を鑑賞するものだ。つまり、そこにあるのは意味を剥ぎ取られた力そのものなのだ。

 幼い子供が「馬鹿」だとか「阿呆」だとかいう単語を特に意味もなく連呼することがあるが。それは、「馬鹿」や「阿呆」や、そういう言葉の厳密な意味合いを好んでそういうことをしているわけではない。その言葉が持つ負の力そのものを好んでいるのである。その言葉が持つ力を、原始的な感覚として自らの身体に憑依させるために、いわば儀式として叫んでいるのだ。そして、前衛絵画を鑑賞する際に必要なのも、そういう力の感覚である。現代絵画の前提にあるものは、そもそも芸術が宗教的感覚と未分離だった頃。その頃に絵画が持っていた力を、そういって分かりにくいのであれば聖性を、取り戻そうという無自覚な運動なのである。要するに、マコトの言葉を使うならば、世俗的シュブ=ニグラス主義の極致であるというわけだ。

 後は、まあ、社会的文脈との比較とか、現実の構造的把握とか、それぞれの芸術クラスターが依存しているところの運動によって色々な観察のポイントはあるが。とにかく真昼はその程度のことは理解出来ていた。そして、その上で全く興味がないのである。なぜなら、そこには膠着的な意味がないからだ。膠着的な意味がないものは面白くない。というか、面白いか面白くないかを判断するための前提が欠如している。それは花火のようなものであり、一瞬の力の感覚を把握した後は、それ以上に進展がない。

 え? いや、なんで前衛芸術の話してんだっけ? そもそもなんの話してた? ああ、そうそう、つまり、だから、真昼の眼下の光景もそれと同じなのだ。天空にせよ、大地にせよ、太陽にせよ、山脈にせよ。確かに雄大だし壮大だし広大だし、そこに爆発するような力の感覚はあるが。爆発は、所詮は一瞬で終わる。後は、ただただ意味のない力の残骸が目の前に広がっているだけだ。

 なので。

 どうでもいい話の中に。

 意味を求めるしかない。

 べっとりしていて。

 纏わりつくような。

 膠着的な意味を。

「あんたにはさ。」

 真昼は。

 ひどく気怠い口調で。

 独り言のように言う。

「あんたには、絶対分かんないと思うんだけど。」

 それから、そこで、一度言葉を止めた。ゆっくりと一度息を吸って。それから、そうして吸った息を、いかにも面倒そうに吐き出す。生きているということに付随する全ての行動がかったるいとでもいわんばかりの態度で、心臓を動かすことさえかったるいとでもいわんばかりの態度で、体を動かす。背後についていた左手を離して、全身を揺り籠のように軽く揺らして。そして、二本の足を胡坐の形に組み直した。上半身を軽く前の方に俯ける。両腕、左腕を左膝の上に、右腕を右膝の上に、それぞれ置いて。そして、体の前で両手のひらを組む。

 視線は、デニーの方には向けないで。

 ただただ何も見ていない二つの眼球。

 ぼんやりと前方に向けたまま。

 また。

 口を。

 開く。

「あたし、なんか、信じらんないんだよね。この世界が、っていうか、この星が滅びそうだっていうことが。この星に凶悪な宇宙生命体の殲滅部隊が近付いてきていて、一年後にも、それどころか数か月後にも、この星の存亡を懸けた戦争が始まるっていうことが。だって……なんていえばいいのかな、分かんねーや。どう表現していいのか分かんないけど、とにかく信じらんない。

「だって、この星が滅びそうだっていうのに……あたし、そのことに、なんの関係もないんだもん。あたしは、その宇宙生命体の侵略になんの関係もない。それに、来たるべき戦争で、あたしが何か重要な役割を果たすってわけでもない。ここはさ、ねえ、あたしの世界でしょ? あたしの世界じゃない。だって、あたしがいるし。こうしてあたしが目で見て、あたしが音を聞いて、あたしがあたしのままで、あたしの世界なのに。それなのに、そのあたしの世界が滅びそうな、その瞬間に、全くあたしがいない。

「世界が滅びるのに、あたしが何も関係していない。もっとさ、もっと、あたしの気持ちを理解してくれるべきじゃない? 本当なら、そうするべきだと思う、あたし、そう思う。あたしが悲しいと思ったら、世界は雨が降るべきだし。あたしが何かに怒りを抱いたら、どこかで火山が噴火するべきだし。あたしが嬉しいと思えば花が咲き乱れて、あたしが楽しいと思ったらどこからか音楽が流れて。現実は、あたしの気持ちを理解するべきだ。

「そして、あたしが……あたしが、重要だと思うことだけが重要であるべきだ。あたしが、これは大切だと思うことだけがこの世界で大切なことで。あたしがどうでもいいと思うことは、この世界にとってもどうでもよくあるべきだ。絶対、絶対、そうであるべきだ。そうでないとおかしいんだ。

「だって、だって、ねえ、絶対におかしいよ。だって、この数日間。この七日間。この一週間。あたしがアーガミパータで、生きて、生きて、生きて。たくさんの破壊を見て、たくさんの虐殺を見て、革命に加わって、大切だったはずの人を裏切って、戦争の真ん真ん中を突っ切って、大きな大きな爆弾が爆発するのを見て、あこがれていた人があこがれていた人じゃなかったことを知って、龍王に会って、あたしの一部を龍王に捧げて、テロリストに襲われて、それで、死んで、それで、生き返って。

「これまで生きてきた一生よりも、ずっとずっと、全然、重要だった。あたしにとって、本当に、本当に、重要だった。そんな一週間が……ねえ、そんな一週間が、この世界が終ってしまうこととなんにも関係していないなんて。ねえ、よく考えてみてよ。そんなの、絶対、絶対、おかしい。そんなのはおかしいよ。

「あたしが生きたこの一週間は、どうでもいいことだったの? あたしが死んだこと、あたしが生き返ったことは、この世界にとっては全然重要じゃないことだったの? あたしが死のうが、あたしが生きようが、この世界が終ってしまうこととなんにも関係ないってことが、あたしには許せない。

「ねえ、あたしには許せないよ。あたしが死ぬことも、あたしが生き返ることも、誰も、誰も、気にも留めないようなこと。例えば全然知らない人が何もないところで転んだりすることや、例えば全然知らない人が空っぽの財布を拾うことや、そういうことと、全然変わらないことだっていうことは。間違っているんだ。そんなこと、間違ってることなんだ。だって、あたし……この物語の主人公なんだから。

「ねえ、デナム・フーツ。あたし、こう思うんだよね。世界が……もしも、この世界を滅ぼしてしまうような、最後で最後の戦争が起こるのだとしたら。それは、あたしが誰かを愛したからでなければいけない。だって、あたしが誰かを愛すること以上に、あたしにとって重要なことなんてないから。それなら、あたしの世界にも、それ以上に重要なことなんてないでしょう?

「あたしの他に、この世界に意味なんてあってはいけない。あたしに付随する全てのものが、あたしに付随するものでしかない。ねえ、デナム・フーツ。教えてあげる。世界が……世界が滅びるっていうのならば、その滅びには、意味があっちゃ駄目なんだよ、宇宙生命体の侵略。領域を巡る、生存を巡る、闘争。そんなんじゃ駄目なの。だって、分かりにくいじゃん。分かりにくい上に、不純。そういう、あたしと世界との間の、中間的な、邪魔なものがあってはいけないの。

「ただ、滅ぼされなければいけない。なんだかよく分からないものが、なんだかよく分からないうちに、なんだかよく分からないことをして。でも、でもね、一つだけ分かることがあるの。それは、その滅びが、あたしと関係しているっていうこと。全部全部、余計な意味がなくなってしまって。あたしと世界と、その関係性だけが残されている、その状態で。あたしは、この世界の滅びに関係している。そうでなければいけない。絶対に、そうでなければいけないんだ。

「あたしさ……ははっ……あははははははははっ……だって、あたし、思春期の女の子だもん。そういうもんでしょ? 思春期の女の子って。そういうもんだよ。あんたには、全然分かんないと思うけど。あたし達はさ、あたし達っていうのは、要するに思春期の女の子はっていうことだけど。あたし達は、常に、いつだって、この世界と敵対している。

「あたし達にとってさ、この世界って、本当の本当に受け入れられないものなんだよね。こんなクソみたいな世界受け入れられない。だって、クソだもん。なんでもかんでも押し付けられるし、なんでもかんでも奪われるし。それに、あたしのこと、あたしがこうであって欲しいと思ったこと、なんでもかんでも否定される。そんな世界さ、受け入れられるわけなくない? あたし、この世界が嫌いなの。あたし、いつも、いつも、この世界が滅びてしまえばいいと、消えてなくなってしまえばいいと思ってる。

「でも、あたし達はね、それでも……愛するんだよ。愛するの。だって、愛さないと、あたし達があたし達であるっていう、そういう理由がなくなってしまうから。あたし達は、あたし達にとっての運命の人を愛さなくてはいけないの。そうしないと、だって、あたしじゃなくなってしまうから。あたし達は愛する。あたし達の愛の表象をあたし達は愛する。

「あたし達よりも善良で、あたし達よりも真実で、あたし達よりも美しく、そして、何よりも、あたし達のことを愛してくれる誰かを愛する。この世界の全てを天秤の片側において。そして、その反対に、あたし達を……あたしだけを置いて。そして、その天秤で、あたしのことを選んでくれる誰かを愛する。あたし、たった一人のことを愛してくれる誰かを愛する。

「ねえ、デナム・フーツ。それは一人でなければいけないんだ。あたしは一人で、それで、その誰かも一人でなければいけないんだ。あたしと、その誰かと。それ以外の全ては邪魔なものだから。それ以外は世界だから、それ以外はあたしが嫌悪し憎悪する世界に過ぎないから。あたしは、この世界を愛しているわけではない。そうじゃなくて、このクソみたいな世界にいるはずの、あたしの運命の人を愛している。

「あたしね……ねえ、デナム・フーツ。聞いて、聞いてよ。あたしね、恋をするの。運命の恋をするの。この世界が、間違った世界が、あたしの大っ嫌いなこの世界が、滅びるその瞬間に。あたしは恋に落ちるの。空には流星群。きらきらと綺麗な流星群が、真昼の空に降り注いでいる。その流星群は地球に落ちてくる隕石、隕石、隕石で、あたしを虐待してきた、あたしを罵倒してきた、あらゆる「大人」達を殺してしまう。押し潰して、焼き払って、全部、全部、滅ぼしてしまう。

「でもね、デナム・フーツ。あたしと、それから運命の人にとっては、そんなこと、どうでもいいの。あたし達は笑うんだ、あたし達は、世界が滅びる光景を見て笑うんだ。哄笑。大きな口を開けて、大きな声を上げて、大笑いするんだ。あたし達は、それから、世界から目を離す。お互いの目の中を覗き込むために。あたしは運命の人の目の中を覗き込む。運命の人はあたしの目の中を覗き込む。

「最後の恋なんだ……それで、最初の恋なんだ。あたしも、運命の人も。それ以外の恋をしてはこなかった。だって、当たり前でしょ? それが運命の恋なんだから。その人が運命の人なんだから。それ以外の恋をするわけがないし、それ以外の人を愛するわけがない。だから、当然、あたしも、運命の人も、それまで生きてきた中で、一度だって、キスなんて、したことがない。

「世界が滅びている、その時に。あたしはファーストキスをする。ねえ、デナム・フーツ。この世界の運命を懸けたファーストキスか、それか、自分の命を懸けたファーストキスか。そういうファーストキス以外、ファーストキスに値しないと思わない? あたしね、ずっとずっとそう思ってきた。だって、だってさ……だって、あたし、そう思うから。あたしと、運命の人は、生まれて初めてのキスをする。そして、その瞬間に、世界が終わる。

「ああ、洪水! 洪水だよ、デナム・フーツ! あたしが運命の人と口づけを交わした瞬間に、あらゆるものを、あらゆるものを、あたしの世界の表面を汚していたあらゆるものを、洪水が洗い流す! 全部、全部、綺麗にしてくれる。洪水が綺麗にしてくれる。あたしと運命の人と、本当の本当に必要なものはその二つだけで、その二つ以外のあらゆるものを洗い流してくれる。

「洪水は、太陽の炎を消してしまう。世界は昼も夜もない闇の中に包まれる。この世界の表面からは、何も、何も、なくなって。ただただその表面を、洪水が運んできた液体が揺らめいている。この世界の全ては、暗く広い海になってしまう。暗く広い海の中に……ああ、デナム・フーツ。ねえ、あたし、気が付くの。自分が楽園の中心にいるって。あたしが、楽園の中心にある、お城の中にいるって。あたしはお姫様なの。この楽園のお姫様なの。

「ねえ、あたし、目覚めるの。洪水の後で目覚めるの。暗く広い海、お城、そのベッドの中で。お城の周りは暗く広い海、恐ろしい怪物達がうじゃうじゃと泳いでいる。でも、別にいい。別に構わない。だって、あたしの隣には運命の人がいるから。あたしと、運命の人と……ねえ、もう、世界は滅んだ。ここには、あたしと、それから、運命の人しかいない。

「あたしは、ベッドの上に横たわったままで。まるで死んでしまった人のように横たわったままで。運命の人を見つめる。まるで麻薬を飲み込んだような、頭蓋骨の内側にある脳髄が麻痺してしまいそうな恍惚感に捕らわれる。もう、あたし達しかいない。世界は正しくなった。正しい世界になった。それから、あたしは口を開く。それから、あたしは言う。運命の人に向かって、こう言う。」

 真昼は。

 そこまで話すと、胡坐を組んでいた足をほどいて。

 とてもとても億劫そうに、その場に立ち上がった。

 右手は、左の肘を掴んで。

 左腕をぐーっと伸ばして。

 軽く、伸びをする。

 ふーっと、溜め息をつく。

 首を、左右に振ってみる。

 それから、すぐ横、左側。

 座ったままでいるデニー。

 そちらの方を向いて。

 見下ろして。

 まるで。

 役者が。

 なんでもないセリフ。

 読み上げるみたいに。

 そっと、言う。

「この世界にあたしとあんたしかいなかったらいいのに。」

 デニーは。いつもと同じ顔で、全然、全く、違わない顔をして。にぱーっとした顔。真昼のことを見上げたままで笑っていた。それから、真昼に向かって、こう答える「あはは、わかるわかるー」。真昼は、その答えに対して、まるで深い深い眠りにつくように両目を閉じた後で。一言、「嘘つけよ」と言う。それから、「全然分かってないだろ」と付け加えてから、また目を開く。

 ふいっと、デニーから視線を逸らす。自分の前方に目を向ける。アビサル・ガルーダの指先の方に。そして、そちらの方に歩き始める。今まで、真昼は、二つ合わせた手のひら、その真ん中辺りに座っていたわけだが。そこから指の付け根に向かって歩き出したということだ。まるで振り子時計のように、一歩一歩を大袈裟に踏み出して。手のひらの上、まあ、大体、七ダブルキュビトから八ダブルキュビトほどの距離を歩いていく。そうして、アビサル・ガルーダの、右手の第四趾、その付け根まで辿り着く。

 それから、真昼は……本当に、なんていうこともないようにして、もう一歩を踏み出した。つまり第四趾の指先に向かって一歩を踏み出した。一歩、一歩、一歩、もう一歩。手のひらの上を歩いていた時と、全然変わらない。なんだか芝居じみたあの歩調で歩いていく。長く長く、そして細い指。デニーと真昼と、その二人を乗せる器を作るために、ほんの僅かに曲げられた関節。一つ目、二つ目、三つ目、通り過ぎて。それから、爪のところまでやってくる。たった一点しかない、その爪の先端の上に立っている。

 真昼は……まるで……それから……ティンダロス。ティンダロスの王。ティンダロスの猟犬。ティンダロス十字に架けられたトラヴィールであるかのようにして。自らこそが、その救い主であるかのようにして。右腕、左腕、その両腕を大きく大きく開いた。世界よ! 世界よ! 真昼は、今、世界に向き合っている。今、初めて、この、現実の世界に向き合っている。まるで抱き締めようとしているかのように。まるで絞殺しようとしているかのように。真昼の目の前には虚空がある。この世界の全体としての虚空がある。

 そして……真昼は……「この真昼」は……初めて、愛の概念を獲得した。それは砂流原真昼の愛の概念だった。つまり、それは被造物であるということだ。創造者のいない被造物であるということだ。何一つの因果もなく、何一つの縁起もなく。ただ単なる絶対的な必然。選ばれている。選ばれている。お前らは選ばれていない、あんた達は選ばれてない。この世界の中で、ただ、あたしだけが選ばれている。あたしは絶対的な必然によって選ばれているんだ。あたしは無限だ。あたしは永遠だ。確かに、主がいないとすれば、全ては許されない。ただ、しかし、それでも……ここに、悪魔がいる。それが、あたしの愛の概念。

 真昼、は。

 口を開く。

「あたし、自分が全知全能だと思ってる。」

 次の瞬間には消えてしまう。

 煙草の紫煙のように、言う。

「結局、あたし、奇跡を信じてる。」

 それから、真昼は、はーっと溜め息をついた。なんだか全てが馬鹿馬鹿しくなってきてしまったとでもいいたげな、そんな溜め息だ。その後で、アビサル・ガルーダの爪の先で、くるっと回れ右をする。もちろん、正式な形での回れ右が出来るだけの広さなど、その爪先にはないわけであって。右足だけでその爪先にトウを立てて、そのままピルエットでもするみたいにしてくるっと回転したというだけの話であるが。とにかく、そうやって、真昼は、デニーの方を振り返る。

「それで。」

「んー?」

「いつになったら辿り着けるわけ? 目的の場所に。」

 「もう、あそこ、あのラビットダイナーっていうところを出てから、結構、時間経ってると思うんだけど」。なんとなく口にされた真昼のその言葉に、「んーとねーえ」と言った後で。デニーは、ぴょこんと立ち上がった。具体的には、体の後ろについていた両手のひらを、ぱっと離して。そのまま、その両腕を勢いよく体の前の方に持ってきて。そして、その時の勢いで、蛙のおもちゃか何かがぴょんっと跳ねるみたいにして立ち上がったということだ。それから、行進でもするような華々しい歩調、真昼がいる方に向かって元気よく歩いていく。

 とんっとんっと飛び跳ねるように。ところどころで、くるんと回転して。まるで春風の精霊が兎のステップを踏んでいるみたいだ。そうして、アビサル・ガルーダの手のひらの上を通り過ぎて、アビサル・ガルーダの第四趾の上を通り過ぎて。それから、真昼と同じように、その爪先のところまでやってきた。

 正確にいえば、真昼がいるのが右手の爪先で、デニーがやってきたのが左の爪先であったが。とにもかくにも、アビサル・ガルーダの両手のひらはしっかりとくっつけられているのであって、従って、二人は並んで立っていることになるわけだ。

 デニーは、両方の手のひら、指と指とを背の後ろ側で組み合わせていて。巫山戯てでもいるのかと思ってしまうくらい真っ直ぐに背中を伸ばして、姿勢よく立っていて。それから、くるっと、顔を真昼の方に向ける。にーっと笑ったままの顔。

「もーすぐ着くよお。」

「だからさ、そのもうすぐってのは……」

「もーすぐってゆーのは、どれくらいって聞きたいんだよね。」

「はっ! 分かってきたじゃん。あたしのこと。」

「ほら、もう見えてる!」

 そう言って。

 デニーは指差す。

 眼下に広がっている。

 荒野の、その一点を。

 言われてみれば、確かに……その方向に何かがあった。今までは、黒い岩石と、白い氷雪と、その二つ以外の何ものも見えなかった光景に異物が混入していた。どこまでもどこまでも清浄なはずの大地の上に、何か、ひどく歪な腫瘍のようなものが、あるいは、惨たらしい寄生虫のようなものが、あった。

 恐らく、現在アビサル・ガルーダが飛行している地点から数エレフキュビトは離れているだろう。その上、アビサル・ガルーダは千ダブルキュビトの高度を飛行しているのであって。それが普通の物体であって、観察者が普通の人間であるのならば、ほとんど点のようにしか見えないはずである。

 ただ、幸いなことに、今回のケースにおいては。それも、観察者も、普通ではなかった。まず観察者であるが、デニーの魔学式によって視力を最大限に強化された真昼なのである。今の真昼であれば、数エレフキュビト離れたところにいるトコヨノミコトモチが雄であるか雌であるかということさえ判別出来るだろう。ちなみに、トコヨノミコトモチとは月光国のマホウ=ナシマホウ境界地域に生息する獣的ゼティウス形而上体であり、基本的な観念は蝶々に酷似している。その開翅長は一ハーフフィンガーから二ハーフフィンガー程度。雄と雌との違いは、雄は全身がまるで雪のような白い体毛に覆われているのに対して、雌の翅はあたかも血に濡れた枯葉のような赤色をしているという点である。

 そして。

 また。

 その。

 それ、は。

 やはり、普通の大きさではなかった。あまりに遠くから見ているのではっきりしたことはいえないのだが、縦の長さが百ダブルキュビト程度、横の長さが百ダブルキュビト程度、高さとしては二百ダブルキュビト弱といったところだろう。アビサル・ガルーダと比べても、その二倍にも達しようかという大きさがある。これほどに巨大な物体であれば、数エレフキュビト離れた場所で、しかも千エレフキュビトの高さから見下ろしたとして、ちゃんとした物体として視認出来るだろう。

 ただ、まあ、とはいえ。それは、アーガミパータに到着して以来、真昼が見てきたもの。例えばASKの建造物、アヴマンダラの製錬所だとかサフェド湖の製塩所だとか。あるいは今、まさに、真昼の視線から地平線を覆い隠そうとしているかのように見えているスカーヴァティー山脈。それに、ヒラニヤ・アンダ。こういったものと比べれば、それは、例えば恐怖を感じるほどの大きさだとか、そういった大袈裟な表現を使うほどのものでもなかった。ごくごく普通の「普通の大きさではない」だ。

 しかし、そうであるのにも拘わらず。

 それは、見る者を怯えさせるような。

 絶対に。

 絶対に。

 あり得てはいけない。

 明確な異物だった。

 それは……それは……しかし……あり得るのだろうか? このようなものがここにあるということが。このようなものが、アーガミパータに、この地獄の底に、あるということが。真昼の視線の先。ずっとずっと向こう。それは、なんというか……それが、そこにあるということは。なんとなく、悍ましいことであり、惨たらしいことであるかのように思えた。ただただ異様で、不気味で。恐ろしく、怖ろしく、残酷なまでにあり得てはいけないことのように思える。あってはいけないのだ。腐り切った血みどろの泥濘のようなアーガミパータに。こんな、こんな……幸福なものが。

 それは。

 まるで。

 絵本の最後の一ページ。

 めでたしめでたしで終わる物語。

 その、最後の、最後の、ページ。

 そこに。

 描かれているかのような。

 とても。

 とても。

 美しい。

 お城だった。

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