第三部パラダイス #38

 そう言われて、ようやく、デニーも、真昼とレノアとが初対面であるということに気が付いたようだった。「あー! そーだよね、真昼ちゃん、レノアと会うの初めてだったよね!」と言ってから、軽く椅子から腰を浮かせた。そして、ぐぐーっと、上半身をカウンターの向こう側に乗り出して。両方の腕を、ばばーんとでもいう感じ、レノアの方に向かって伸ばして。体の向きは真昼の方に向けたままで「この人は! デニーちゃんのお友達のレノアでーす!」と言った。

 「レノア」、レノアは自分の胸元のネームプレートを指差しながらデニーの言葉を繰り返した。それから「レノア・ネヴァーモア」と改めてフルネームで言う「見ての通り、ここでウエイトレスをしているわ」。

 それから、片方の手、右手、人差指の先で自分の顎に触れて。こう続ける「レノアか……それか、レイヴンって呼んで。魔学者としての二つ名が、レイヴンだから」。なるほど、魔学者ね、と真昼は思った。明らかに只者の眼ではないその眼や、背中に生えている羽を別としても。デニーの「友達」ということは、それなりにやべーやつのたぐいであることは明白であったが。そうか、魔学者ときましたか。恐らくは、死霊学者なのだろう。

 と、そのような真昼の思考を直接読み取ったかのように。レノアは「ああ、勘違いしないでね。私は、ルイとは違って死霊学者じゃないわ。一応、契約学者ってことになってるから」と付け加える。「ええー? レノアって死霊学についても詳しかったよねーえ?」「んー、まあ、出来ないってことはないけどね。でも、学部は契約学部よ」「それって、死霊学者じゃないってことになるの? 死霊学について詳しくても?」「少なくとも、分類上は」「んんー! 難しーい!」「そうね……死霊学も出来る契約学者ってことになるのかしら」「でもでも、デニーちゃん、レノアとお揃いがいいよー!」「ふふ、とてもとても残念」。

 そのようなどうでもいい会話は、真昼にとってどうでもよかった……まあ、契約学者ということは、あの背中の羽も何かの契約によってその能力を手に入れたところの羽なのかな?と思わなくもなかったが。それはそれとして、さっきのレノアの言葉には、ちょっと気になるところがあった。「あの、すみません」「あら、なあに?」「ルイって、言いましたよね。その、ルイって……デナム・フーツのことですか?」。

 「ああ、そう、そうね」。レノアは、両方の手を、軽く自分の体の前で開いて。特に意味もなくそんなポーズをとってから続ける「最近では、ルイって呼ぶ子もいなくなってしまったものね。ごめんなさい、分かりにくかったかしら。ルイ、ルイ・デナム・フーツ。それがこの男のフルネームよ。で、デナムもフーツもファミリーネームで、ルイがファーストネームってわけ」。

 そういえば……ミヒルル・メルフィスのswarmを皆殺しにする時に、その景気付けとして鬨の声を上げていたアビサル・レギオンの皆さん及びアビサル・ガルーダが。確か、ルイ・デナム・フーツという名前を叫んでいたような気がする。あの時は、そんなことを気にしている余裕などマジで全然全くなかったのだが。なるほど、そういうことだったのか。

 「確か、投票した時に同率一位だったのよね。新しい、ホモ・サピエンスっぽい名前を決める時に。「デナム」っていうファミリーネームと「フーツ」っていうファミリーネームと、二つとも同じ投票数だったんだっけ」「そーそー! それで、どっちも付けちゃえってことになってルイ・デナム・フーツになったの!」「まあ、二つファミリーネームがあるっていうのもそれほど珍しいことではないしね。父方のファミリーネームと母方のファミリーネームと、どっちも付けてるとか」。

 「あの、そうだったんですか」と答える真昼。一方で、デニーとレノアとは、まだ名前についての話を続けている。「最近だと、ルイって呼んでるのは……あたしと……それから、まあ、グッド・シェパードの連中と……それにゾシマくらいかしら」「あっ、ゾーシャちゃんはねーえ、最近は「民のいない王」呼びに戻ってたよ」「ああ、そうなの?」「うん。またなんか混ざっちゃったみたい」「そういえば、最近、第二次神人間大戦の時の戦場を色々漁ってたわね。大量のホビットの死骸を持ち込んでなんやかんややってたわ」「ええー? ホビットってさーあ、四大高等種戦争の時に、ぜんぶぜーんぶサンダルバニー・コクーンの中に取り込まれちゃってなかったっけ。生きているホビットも死んでるホビットも」「そうなのよね。だから、あれ、一体どこから持ってきたのか誰も分からないのよ」「あははー、ゾーシャちゃんっぽーい!」。

 二人の話は、まるで病院の待合室で話し合う二人の老婆の会話ででもあるかのように、常に関係ない方向へ関係ない方向へずれていってしまう。その様は、まるで、流れ流れていく川は常にそこに川としてあるが、それでもそこを流れていく水は一瞬として同じ水ではないということと同じようだ。逆巻く流れの中に浮かび上がるうたかたは、まばたきをする間に生まれ、まばたきをする間に消える。それと同じように、二人の会話の内容は、真昼がようやく理解し始めたころには別の話題に移っている。

 というか、まあ、仮にちゃんと理解出来ていたとしても、交ざることが出来るような内容ではないのだが。真昼はゾシマ・ザ・エルダーと個人的に親しい知り合いというわけではないので、「ゾシマ・ザ・エルダーはあれだけ頻繁に人格が変わるのになぜ一人称は「余」で固定されているのか」というトークテーマで話をされても、分かったような分かってないような曖昧な顔をして頷いているしかないのである。

 そんな風にして、暫くの間、真昼は、飲み会でそこまで仲良くない先輩の話を聞いている後輩もかくやというくらいの社交辞令さで、曖昧な顔をして頷いていたのだが。やがて、具体的にいうとトークテーマが「ゲッセマネはどうやら占秘学部学部長エクピュローシスの本名を知っているらしいのだがデニーちゃんがどれだけお願いしても教えてくれない」に移った頃、レノアが、そんな真昼の様子に気が付いたようだった。

 レノアは。

 ちらと。

 真昼に。

 視線を。

 向けて。

「ところで。」

「はい、なんですか。」

「真昼ちゃんって呼んでいい?」

「ええ、いいですよ。」

「真昼ちゃんは、お腹は空いているかしら。」

 レノアは、デニーほど傍らに人無きが若しタイプというわけではないようだ。後輩のコップが空になっているのを見つけたら(まあどうせ飲み放題のコースなのではあるにせよ)「お酒、次のやつ頼む?」と聞いてきてくれるタイプの先輩だということである。一方のデニーは、レノアのその言葉を聞いて、いかにも今気が付きましたといった感じの大袈裟なわざとらしさで「あー、そうだよね!」と言う。「真昼ちゃん、生き返ったばっかりだもんね、お腹空いてるよね」。

 肉体的に再生されたのであれば、そのようにして血だの肉だの骨だの内臓だのを構築するにあたっては物質的な材料が必要になるのであるし、結果として空腹になるというのも理解出来るが。ただ魂を取り戻したというだけの状況に空腹というのは何か関係があるのだろうか、と、思わなくもなかったが。ただ、とはいえ、真昼は実際にお腹が空いていた。

 いや、そこまでぺこぺこという感じではなかったが、ちょうど午後四時ごろの、ちょっとした甘いものでもあればいいのにな、というあの感じである。それにそれだけではなく喉も乾いている。これまたからからというほどではないのだが、飲み会が終わって締めのラーメンを食べた後、その帰り道でたまたま自動販売機を見つけた瞬間ぐらい喉が渇いていた。

 だから。

 真昼は。

 こう答える。

「えーっと……」

「ふふ、遠慮しなくてもいいのよ。」

「はい、少しだけ。」

「分かったわ、ちょっと待っていて。」

 レノアは、軽く小首を傾げるようにして真昼に笑いかけると。それから、とんっという感じ、寄り掛かっていたというか腰掛けていたというか、その金属製の台から離れた。くるっと、真昼から見て左の方を向くと。そのまま、カウンターの中、そちらの方へと歩いていく。

 先ほども書いたように、食器棚の隣には業務用のコーヒーメーカーが置いてあるのだが。その更に隣には、結構大きめのショーケースが置いてあった。横の長さは一ダブルキュビトよりも少し小さいくらい、縦の長さが百五十ダブルキュビトよりも少し大きいくらい。正面が、透明な、ガラス張りの開き戸になっていて。その中を、ちょっと明る過ぎるくらいの蛍光灯の光が照らしている。その光の感じが、あまりにも他人行儀で、あまりにも冷え冷えとしているので、一瞬、大型の冷蔵庫なのかなと思ってしまったのだが。どうもそういう機能はないらしい。

 そのショーケースの中は六段に分かれていて。そして、そこに並んでいるのは色とりどりのパイだった。ブルーベリーパイ、イエローベリーパイ、レッドベリーパイ、グリーンベリーパイ。チョコレートのパイにパンプキンのパイにピーカンナッツのパイ。チェリーパイ、ピーチパイ、キーライムパイ、グレープパイ。そして、忘れてはいけない、缶詰のリンゴを使ったアップルパイ。おもちゃみたいに素敵なパイが、ホールケーキの状態で、一つ一つ、大皿の上に乗せられているのだ。

 レノアは、そのショーケースの前で立ち止まった。ばふんと、まるでパステルカラーの魔法みたいな音を立てて開き戸を開けると。これだけたくさんの種類があるパイの中から、少しも迷うことなく、二番目の段、真昼から見て一番左端にあるパイを取り出した。軽々と、ふわふわの真綿が乗っている皿でも持っているみたいに。それを右の手のひらの上に乗せて。それから、ショーケースの戸を閉めた。

 パイを持ったレノアが銀色の台のところまで戻ってくる。とんっと浮ついた音を立てて台の上に大皿を乗せると、ちょっと上半身を傾けて、その銀の台のすぐ隣にある食器棚からケーキ用の小皿を取り出す。ということは、いわなくても分かるとは思うが、この銀の台はメニューが掲示してあるその場所の真下に置いてあるということになる。まあそれはそれとして、その小皿も銀の台の上に置いた。

 それから、レノアは、ほとんど無造作といってもいいくらいの何気なさで右腕を伸ばして。自分の右手を、自分の背中に、持ってくる。いや、というか、自分の背中に生えている羽のところに。ところで、レノアが背中を向けてくれたことで、真昼はようやく見ることが出来たのだが。レノアが着ている服、その背中のところには、二つの穴が開いていた。羽を出すための穴だ。真昼は……少し面白いなと思ったのだが、それはただ穴が開いているというだけではなかった。その穴は、一ハーフディギトか二ハーフディギト程度ではあったが、まるで袖のようにして、羽の付け根のところを包み込むようになっていたのだ。確かに、こういう風になっていなければ、ただ開いただけの穴からは、レノアの背中まで見ていてしまっていたことだろう。

 それはそれとして、レノアの右の手のひらは、そんな羽に触れると。例えば手品でもしているみたいに軽やかな手つきで、その羽から、一枚の羽根を抜いた。するりと音も立てずに引き抜かれた羽根、レノアは自分の視線の前に持ってくる。

 暫くの間、しげしげと眺めていたのだけれど。やがてその羽に軽く口づけをしてみせた。その口づけは、デニーがやるような、ちゅっとした感じの口づけではなく、どちらかといえば、一瞬で、柔らかく隠微な触れ合いをするような口づけであったが。

 左手でパイが乗っている大皿を持って。右手、羽根を持っている。親指と中指とで、軽く羽柄を握っていて。人差指は、まるで愛撫するかのように羽軸に伸ばしている。そうして、その後で、レノアは……その羽を、なんとはなしにパイの上に落とした。

 すとん。

 大した抵抗も、せずに。

 パイは切り分けられる。

 まるで包丁で切り取られるみたいにあっさりと。いや、包丁で切り取られれば、パイというものは少しくらい形が崩れてしまうものだ。フィリングが潰れたり、生地が欠けたり。その羽根は、そのように崩れることさえパイに対して許しはしなかった。あたかも世界そのものが断絶してしまったがゆえに、その世界に所属していたパイも、その断絶と同じように切り取られたとでもいうように。

 もう一度、すとん。円形は二度切り分けられて。二つの弧と角度とを作り出す。レノアはくるりと大皿を回すと。そのうちの、より長い弧と鋭角と。小さい方のサーキュラー・セクターの下、右手に持った黒い羽根を滑らせる。

 まるで、その羽根をケーキサーバーのように扱って、切り分けられたパイを取り上げた。それから、ケーキ屋さんごっこをしている少女のような、わざとらしいまでの仰々しさによって切り分けられたパイを小皿の上に乗せた。

 羽を、軽く差し上げる。自分の顔の少し近く。そこで、羽柄を握っている親指と人差指と、淡く、淡く、まるで、眠っている兎を起こすかのような優しさで……ぱちんと、スナップした。すると、その黒い羽根は、黒く黒く燃え上がる、生まれたばかりの夜の闇のようにして、ぽうっと暗黒を破裂させて、レノアの指の周りに纏わりつく蛇の子供のようにして消えた。

 小皿を左手に持って。

 レノアは、振り返る。

「お待たせ、真昼ちゃん。」

 そう言われて……その言葉で……真昼は、ようやく、はっとして気が付いた。真昼の目の前、カウンターの上に。いつの間にかカトラリーが用意してあったのだ。今まで全然気が付かなかった、というか、さっきまでこんなものはなかったはずだ。あたかも虚無からぽかんと吐き出されたかのように。

 右側には、ナイフとスプーンと。それに左側にはフォーク。それぞれ一本ずつ、紙ナプキンの上、きちんと行儀よく置かれていた。まあ、レノアはデニーのお友達であるからして、これくらいの芸当は、つまり何もないところからカトラリー一式を取り出すくらいのことは造作もないことなのだろう。

 そして。

 レノアは。

 右のカトラリーと。

 左のカトラリーと。

 その間に。

 パイを置いて。

「召し上がれ。」

 そのパイは……真昼が見たことがないタイプのパイだった。いや、勘違いしないで欲しい。パイ自体は、非常にありがちなタイプの、いかにもダイナーダイナーしたパイであった。一番シンプルなパイ。さくさくとしたパイ生地が、平底の浅い鍋にも似た態度で土台になっていて。その中に、甘く甘く煮詰めたジャムみたいなフィリングがとろとろと注ぎ込まれている。ただそれだけ、他には何もない、美しいほどに研ぎ澄まされたパイの概念だ。

 問題なのは、そのフィリングだった。ベリーでもなければナッツでもない。チーズだとかクリームだとか、そういうたぐいでもない。まるで頭蓋骨が弾け飛んだその直後、鮮烈に散乱する血液のように赤々としていて……眼球ほどの大きさの果実が、恐らくは四分の一ほどに切り分けられて、一つ一つ、パイの上に並べられているのだけれど。その果実は、あたかも奇妙に腐敗した傷口のようだった。小さな小さなつぶつぶが、まるで何かの生き物の内臓の内側に寄生している小さな小さな花の残骸のように、うっとりと溶けている。どこか悍ましく、そこか残酷で、それでいて、どこかで見たことがあるその果実。

 「あー、アーガミパータイチジクのパイだ!」「ええ、そうよ」「めっずらしー!」「ぴったりでしょう? ジュノスから帰ってきて、初めて口にするには」。そうか、無花果か。確かにこれは無花果だ。ただ、普通の無花果よりも……随分と……聖なる、聖なる……何かではあったが。どろどろと溶けたそのフィリングは、あたかも、一つの宇宙にいる全ての生き物が、そのまま溶かされて、いっしょくたにされて、そして、純粋な生命力としてそのパイ生地の上に収まっているみたいな。

 真昼は、右手でナイフを、左手でフォークを、それぞれ取り上げた。ナイフもフォークも、安ぴか物のステンレス製。いや、安ぴか物というとなんだかぴかぴかしているように思われるかもしれないが、真昼が使っているこのカトラリーについていえば決してそんなことはなく、明らかに経年劣化と思われる変質をこうむっている。さすがにstainlessだけあって錆びこそはしていないが、金属の色はくすみ、表面は細かい傷が幾つも幾つも付いている。

 全体が金属で出来ている。非常にシンプルな作りだ。ほとんど装飾のようなものはないが、ただ持ち手の一番端っこのところに、何か紋章のようなものが刻まれていた。いや、そこまで立派なものではないのだが、とにかく、意匠化された……これは、恐らくは兎の顔だろう。正面を向いた兎の顔。

 そのようなマークを、真昼はどこかで見たことがあると思った。そして、次の瞬間には思い出す。ああ、これはスマートバニーのあのマークと同じなんだ。その商品がスマート・ゼネラル・ソフトウェア協会が提供するソフトウェアを使用していることを示す、あのマーク。それとそっくりだった。

 なぜ、こんなマークがここに?と思わないわけでもなかったが。ただ、まあ、真昼は、この世には自分が知ることも出来ず、また、例え知ることが出来たとしてもなんの意味もないようなことが多々あるということ、それどころか、この世の大半はそのようなもので構成されているということを知っていたので。そのことについては特に気にしないことにした。気にしても仕方がないことは気にしても仕方がないということは、真昼がアーガミパータに来てから学んだことのうち、最も重要なことの一つだ。

 真昼は、小皿の上のパイに視線を向ける。恐らくは半径十五ハーフディギトくらいの大きさの円を、八等分に切り分けたらこういう形になるという扇型。

 先端。その扇形の中心角のすぐ近くに、真昼はフォークを突き刺した。無花果がフォークの先端によって潰れていく、とてもとても煩わしい感覚。フィリングの奥に、ずるずると沈んでいき。そして、やがて、一番下のパイ生地に触れる。ざぐり、ざぐり、ざぐり。一枚一枚の生地を、フォークは突き破っていって。最後の最後。かちり、と冷酷な音を立てて、フォークは、陶器の堅い表面に突き当たった。

 ナイフ。死んでしまった身体の内側から内臓を一つ一つ切り分けていくかのように。真昼は、そっと、フィリングの表面にそれを滑らせた。滑稽なほど陽気に、ナイフはその表面を切り裂いていく。それほど力を入れる必要さえなかった。ただ、それに触れて。そして、すっと引いてみる。するとそれは切れてしまう。煮崩れた無花果を、焼き固められた小麦を。それから、真昼は、完全に切断し終わる。

 ティアゼント、リンダークート。まるで、フェヲマを嘲笑うようなリズムで。真昼の身体は、その胸から上の部位は、あたかも一つの形成された流れのようにして優雅な蛮族だ。左手のフォーク、その先に、早贄にされた宇宙の断片みたいにして突き刺されている、パイの断片。真昼の口が開いて、疫病と破滅とを予言する彗星のように、その奥で舌先が揺れる。tango、tongue、静かな夜、静かな炎、踊っている。

 そうして。

 その後で。

 真昼は。

 聖なる。

 聖なる。

 無花果の。

 パイを。

 口にする。

 たかがパイ食うだけなのにこんなポエジー感じさせる必要ある? まあ、それで、パイの味なんですけどね、まあ、まあ、普通の味でした。イチジクでパイ作ったらこんな感じになるだろうなっていう味。意外性の欠片もない、面白くもなんともないごくごく普通の味。

 まあそもそもの話としてさ、真昼としてはパイよりもタルトの方が好きなんですよね。そりゃあ、ダイナーといえばパイ、パイといえばダイナーみたいなところもあるし、文句は言えないけどさ。パイの、しゃくしゃくぱりぱりと砕けて、口の中に突き刺さる感じがする、あの折り込み生地の感じよりも。タルトの、クッキーっぽい、しっかりとした甘さがする、さくさくの練り込み生地の方が好きなのである。

 無花果の味。ほんの少し草原みたいな青い味がする味。どこか別の星の海、甘く、甘く、透明に、生まれる前の生命が溶けているかのような味。無花果の触感。小さく、小さく、この世界に吐き出される前に枯れてしまった花の、歯の上で潰れる触感。果肉が溶けている、疫病で腐敗した内臓のように溶けている触感。それから……大量に投入されたざらざら糖の、華やかな葬送儀礼のように甘ったるい感覚。

 要するに、真昼が感じたのは、それが全てであった。全て? いや……ただ……ちょっと、違う何かがないわけではなかった。違う? 何が違うというのだろうか。真昼にはよく分からなかったのだが、それでも、そのパイの内側には、何かがあった、何かが閉じ込められていた。

 封印? そう、封印だ。まるで卵の中に受精したばかりの生殖細胞が閉じ込められているかのように、そこには、まるで、例えば、ある種の呪い。食べてはけない木の実を食べてしまった後のような、そんな呪いが閉じ込められていた。

 とはいえ。

 それ以外は。

 ただの。

 パイで。

 あって。

「どーお、おいしー?」

「まあ。」

「わーあ、良かったね!」

 さて、ところで、レノアは。真昼がパイを食べているうちに、真昼のためにコーヒーを用意してあげることにしたらしい。食器棚から、コーヒーソーサーとコーヒーカップとを取り出して。それから、ソーサーの上にカップを乗せる。「真昼ちゃんは、ミルクとお砂糖はどうする?」「あ、どっちもいらないです」「あら、ブラックでいいの?」「はい」「ふふ、大人ね」。あなたの方がよほど大人だと思います、と言おうとして、でもやめておいた。

 レノアは、コーヒーメーカーのところに置いてあった、ガラスのポットを手に取る。ポットの中には、なみなみとコーヒーが入っていて、レノアがそれを持ち上げると、その拍子に、たぷりたぷりと音を立てて揺れた。

 レノアは、左手に持ったソーサー、その上のカップに、右手で持ったポットの中のコーヒーを注ぐ。ちょうどいいくらいの量、具体的にいうならばカップ全体の量の八十パーセントほどの位置まで注ぐと。傾けていたポットを、くっともとの角度に戻して注がれていたコーヒーの黒い色をしたラインを切った。

 ポットをコーヒーメーカーのところに置く。それから、左手でソーサーを持ったままで真昼がいるところまで戻ってくる「あまり高いコーヒーではないけれど」そう言ってから、ちょっと首を傾げる「少なくとも、インスタントではないわね」。

 真昼の目の前。

 カウンターの上。

 パイの皿の。

 少し右上の、辺り。

 コーヒーを置いた。

 真昼は、ナイフとフォークと。パイが乗っている小皿の上に、ナイフでいえば刃の部分が、フォークでいえば枝の部分が、それぞれ乗るようにして、片仮名のハの字になるような形で置いた。それから、右手をコーヒーが入っているカップに伸ばす。

 ハンドルの内側に中指を掛けて、軽く折り曲げて固定する。その中指と、それから、ハンドルの外側で支えている、薬指と小指と。挟み込むようにしてハンドルの下部分を掴む。それから、ハンドルの上の部分を、人差指で支える。最後に、親指、そっと添えるみたいにしてハンドルに触れる。

 ハンドルが大きければ、人差指と中指と、その両方を通すことが出来るのだが。とにかく、そういう風にして持ったカップを、自分の口元に持ってくる。

 コーヒーの匂いだ。焙煎の匂い。ただし、その匂いはそれほど濃いわけではなかった。エスプレッソではなくエスペランティーオ。焦げた豆を水で溶かしたみたいな、ダイナーのコーヒー、おかわり自由のコーヒー、それそのものの匂い。カップを傾ける。口の中に、コーヒーが、流れ込む。

 さらさらとした、黒い色水のような舌触り。そして、苦み、香ばしさ、そういう味よりも先に、コーヒー豆の、あの少し酸味がある味が口の中に広がっていく。水道水に抽出されたコーヒー豆の味がする……まあ、これは水道水に抽出されたコーヒー豆なのだから、当たり前の話なのだが。

 いや、でも、ここ、水道通ってるのかな。そもそも、ここ、場所の記憶なんだよね。記憶に、水道とか電気とか、ガスとかって通せるものなの? それとも、そういうライフラインも、やっぱり記憶ってこと? じゃあ、あたし、コーヒーの記憶を飲んでるのかな。コーヒーの記憶。なんだか無意味に哲学的だ。苦かった記憶、酸っぱかった記憶。すっかり冷めてしまって生ぬるい、ダイナーのコーヒーの記憶。

 そんなことを考えながら。

 真昼は、カップを置いた。

 これは……つまり……まるで……例えば、虫籠の中に、何かとても珍しい生き物が、一匹だけ閉じ込められていて。その生き物のために、先ほど、ゼリー状の食餌が与えられたのだが。そのゼリー状の食餌を、奇妙な摂食器官を伸ばして、ずるりずるりと舐め取るように食べている様を、非常に興味深そうな顔をしながら、虫籠を覗き込んでいる、二人。そんな感じだった。

 いうまでもなく、ここでいう珍しい生き物とは真昼であって、それを眺めている二人とはデニーとレノアと、この二人のことなのであるが。何がいいたいのかといえば、こういう風にしてまじまじと見つめられながら食べているというのは、真昼としては全然食べた気がしないということだ。

 さっきまであれだけくだらないことを、決して止めることが出来ない大いなる力の意志でもその裏にあるんじゃないかと疑ってしまいそうなほどに、ぴーちくぱーちくと喋り続けていたのだから。また、そうやって喋り始めてくれればいいと思うのだが。なぜか知らないが、二人は口を開きもしないで、ただただ静寂のうちに、全くの静寂のうちに、真昼のことを眺めている。なんだか異様なほどに微笑ましげな顔をして。パイ食ってるだけなんだから微笑ましいことなんてなんもねぇだろ、と思ってしまわなくもないのだが。とにもかくにも居心地が悪くてしょうがない。

 ということで何か会話を振ることにした。とはいえ……話題のチョイスには気を付けなければいけないだろう。真昼としては、今は、パイを食べたりコーヒーを飲んだりすることに集中したいのであって。下手な会話を振ってしまって、もしも話題の中心となってしまった場合、つまり、例えば、これまで真昼ちゃんがアーガミパータで繰り広げてきた大冒険の話題になってしまったりすれば、その口は、飲食のためではなく、専ら会話のために使わなければいけなくなってしまうだろう。

 とはいえ、真昼が全然知らないことについては話題にすることができない。サロメという全然知らない人の誕生日の話や、エクピュローシスという全然知らない人の本名の話は、そもそも話を持ち出すことさえ出来ないのである。

 なので。

 真昼は。

 無花果のパイ。

 また、一欠片。

 フォークに。

 突き刺した。

 ままで。

「レノアさんは。」

 レノアに向かって。

 こう、問い掛ける。

「デナム・フーツと昔から仲が良かったんですか?」

 正直な話、二人の関係性というか、それがどのように始まってどのような経過を辿って現時点においてどのようなものなのかということについては。まあ、真昼は、あまり興味がなかったのだが。ただ、今の状況、なんともいえない気不味い感じが続くよりは、デニーとレノアと、二人で思い出話でもしていて貰った方がマシだった。

 「ええ、まあ、そうね」レノアは、また、あの姿勢、銀の台に寄り掛かって、緩やかに腕を組むあの姿勢に戻っていたのだが。その姿勢のままで、ちらとデニーに視線を送りながら言った。一方のデニーは、カウンターの上に両肘をついて。その上、右の手のひらと左の手のひらとの上に顎を載せて。ぽかんとした可愛らしい顔でレノアの方を見上げながら答える「けーっこーさーあ、前の、前の、ずーっと前くらいから仲良しだったよねー」。

 「初めて会ったのは……確か、第一次神人間大戦の前よね」「そーそー! レノアがさーあ、デニーちゃんのおうちに、ばばーんって侵略しに来て!」「やだ、違うわよ。あれは、ルイが例の事件を起こしたから。あたしがパンピュリア神国を代表して調査しに行ったのよ」「ええー? それ、口実でしょお? あの時のレノア、ぜったいぜったぜーったい、デニーちゃんのおうち、欲しい欲しいって感じだったもん」「もう、人聞きの悪いこと言わないでよ」。二人は、なんだかだいぶんと物騒なことを、けらけらと笑い合いながら話している。

 「確かに、最初に攻撃を仕掛けたのは私だったけどね」「ほらー、やっぱり!」「でも、それは、ルイが明らかに話の通じそうな相手じゃなかったからよ」「あはは、そんなことないよー」「だって例の事件の時、あなた、親兄弟まで皆殺しにしたじゃない」「え? それがどーしたの?」「普通の人はね、親や兄弟を殺すっていうことに、ちょっとは躊躇いを覚えるものなのよ」「普通はーっていうけどさーあ? レノアは、親も兄弟もいないんだから、ほんとーにそうなのかどーかってこと、分かんないじゃーん!」「まあ、それもそうね」。

 ぱくもぐぱくもぐとパイを口に運びながら、話半分……いや、話クオーターくらいで聞いている真昼。え? っていうか、デニー、親とか兄弟とかいたの? ここに来て、驚きの新事実発覚じゃん。いや、まあ、よくよく考えてみれば、そりゃあいるだろうが。それでも、なんとなく、真昼にとってのデニーとは、絶対的な虚無、無限にして永遠の暗黒の中に、ぽんっという感じ、唐突に発生したように思える生き物だったので。まさか、父親がいては母親がいて、そんな常識的な生まれ方をしたとは思わなかったのだ。

 「それで、第一次神人間大戦の時よね」「そーそー、一緒に徴兵されて!」「それなりに話すようになった」「あの時はさーあ、レノアは、アナンケ王妃の護衛だったんだよね」「そうね」「あははっ! アナンケ王妃も、まさかレノアが裏切るとは思ってなかっただろーね!」「あら、ちょっと待って。訂正させて頂きますけどね、私は、裏切ったわけじゃなくて、そちらの味方をした方が面白そうだと思う方の味方をしただけよ」。

 レノアは、顎に人差指を当てて。それから、少し考えるような素振りをしてから続ける「それに、あなただって裏切ったようなものじゃない」「ええー? どーゆーこと?」「あたし、知ってるのよ。あなたがミミト・サンダルバニーを殺せたっていうこと」「あーっ!」「本人から聞いたわ。それなのに、あなた、あの兎を殺さなかったでしょう? あの兎が持っている知識と引き換えに、無傷で手放した。アルディアイオス大王が負けたのって、あの兎がノスフェラトゥに技術提供したからじゃないかしら? そうだとすれば、やっぱり、あなたも裏切ったようなものよ」「ああはー、まっ、そーかもね!」。

 真昼は、パイを食べる合間にコーヒーを啜る。そういえば……アフランシ料理のレストランだとか、コムーネ料理のレストランだとか、その中でもとりわけきちんとしたところ。ブラッスリーではなくグランドメゾン、トラットリアではなくリストランテ、そういったしっかりした店では、デザートのあとにコーヒーが出てくるじゃないですか。真昼は、あの奇妙な習慣はどうにかならないだろうか、デザートとコーヒーと一緒に出しては貰えないものだろうか、そんなことを常々思っていた。

 だって、そもそも、真昼にとってのコーヒーとは、大別して二種類に分けられるのだ。まず一種類目が、甘い物と一緒に楽しむコーヒー。これは、甘い物を食べ続けていると、そのうちに、口の中にべったりと停滞してしまう甘ったるい味を、一度喉の奥に流し込んですっきりするためのものである。このコーヒーによって、甘い物を、その一口一口を、最大限に美味しく食べることが出来るようになる。

 こちらのコーヒーはさほど高価なものではなくても構わない。というか、繊細な香りの高価なコーヒーよりも、がっしりと逞しく、甘い味を受け止めてなお力強さが残るような野蛮、庶民的なコーヒーでちょうどいいくらいだ。そして、甘い物を食べ終えた後。本当の本当にコーヒーの香りを楽しむためのコーヒーが、つまり二種類目のコーヒーだ。こちらは最高級のコーヒーであることが望ましい。チェイサーとして、まずは水を一杯飲んで口の中を清める。真昼が水をグラスの半分ほど飲み終えるころに、そのコーヒーが運ばれてくる。

 ちょうど、前のコーヒーの匂いはリセットされて。ともすれば、揺れて、震えて、虚空に消え去ってしまいそうな香りが真昼の鼻先をくすぐる。いうまでもなくデミタスのカップ。ソーサーを持って、なるべくカップを揺らさないように、香りが逃げてしまわないように、カップを顔のところまで差し上げる。カップを鼻先に近付けるのではなく鼻先をカップに近付けるようなイメージ。

 カップの上の上に溜まっている香り、一番贅沢なその香り。出来る限りゆっくりと、だが一息で吸い込んでしまう。カップを動かして、そのせいで、その香りがこぼれてしまう前に。それから、ソーサーをテーブルの上に戻して。その後で、ようやくカップに手を掛ける。重要なのは、ここで少し待つことだ。数秒待って、十分に、香りが、また、カップの上のところに溜まった頃。ようやく口をつける。

 コーヒーを啜るとともに、その香りも吸い込む。コーヒーというものはどちらが欠けても成立しないものだ。鼻と口と、その双方から、脳髄に向かって快楽が駆け上がっていく。まずは一口。そして、二口。真昼は……ああ、そういえば……このようなコーヒーの楽しみ方を、静一郎から学んだのだった。そういえば、静一郎は、コーヒーを飲む時だけ、本当の本当にその時だけ、まるで人間であるかのように見えたものだった。

 真昼は。

 コーヒーのカップを。

 ソーサーの上に。

 そっと。

 置いて。

 真昼がコーヒーに気を取られているうちに、二人の話は随分と先まで進んでしまったようだ。「だから、ミリ・ニグリ侵攻の時は、最終的に私達が二人だけでなんとかしなければいけなくなったのよね」「そーそー、セラエノ会議がなーんにもしてくれなくてね!」「まあ、でも、仕方がないといえば仕方がないといえなくもないのよね。あれって、結局は、ある一つの星系からある一つの星系に対する侵略戦争に過ぎないから。セラエノ会議も、わざわざあんな小競り合いに手を出し口を出しするほど暇ではないっていうことなのよ。きっとね」「でもさーあ、チャウグナー・フォーンの一族って、セラエノ会議の参加メンバーじゃなかったじゃーん。それなら集団防衛が適用されてもよかったんじゃないですかー?」「それはそうだけどね……とにかく、その後は、また、この星に戻ってきて。それからは、第二次神人間大戦までは一度も会わなかったのよね」「そーそー!」。

 どうも、話を聞いている限りでは……デニーとレノアとの間柄というのは、相当気安い間柄であるようだった。親友というか、家族というか、いや、どちらも違う気がする。というか、気安いという表現さえ当たらないかもしれない。もっと健全ではなく、もっと馬鹿げていて、もっと圧倒的な。密やかなまでに猥らがましく、美しいほどに傲慢だ。それは今まで名付けられたことがなく、なぜなら名付ける必要がない関係性だからである。

 というか、それは、そもそも関係性でさえないのだ。偶然、たまたま、一つの箱の中に閉じ込められている、全く異なった種類の宝石。あるいは……例えば、古い古い世界、世界が思い出すことも出来ないくらい昔のこと。大きく、悍ましく、力強く、そして、信じられないほど残酷な生き物が、この星を支配していた時代があったとしよう。けれども、そのような生き物が、唐突に、絶滅してしまった。理由はなんでもいい。疫病が流行ったか、はたまた隕石でも落ちてきたか。とにかく、そのようにして、生き物は絶滅した。ただし、たった二匹の例外を残して。ということは、もう、その種類の生き物は、その二匹しかいないということになる。世界に、たった二匹だけ、残されている生き物。その二匹の生き物が、山のように折り重なり積み重ねられた同類の死骸の上で、歌を歌いながら踊っている。楽しげに、楽しげに。つまり、二人の関係性は、その光景のような関係性だった。

 決して、分裂しているというわけではない。あるいは、それぞれが一つの極致であるというわけでもない。何か、二人で一つの存在が関係するというたぐいのようなものではないのだ。そもそも二人の間にはなんの「力」も働いていないのだから。デニーはレノアを必要としていないし、レノアはデニーを必要としていない。二人は、容易く裏切り、容易く見捨て、容易く陥れ、容易く殺す。互いに、相手がいなくなっても、兎の耳の先ほどの悲しみも覚えないだろう。ただ、それでも、真昼には理解出来た。真昼には、まるで、青光を透かして見るように理解出来た。デニーにはレノアしかいないし、レノアにはデニーしかいない。なぜなら、この世界には、このような生き物は二匹しかいないからである。この二匹を残して絶滅してしまったのだ。二人を結び付けているものが、例え、露骨な悪意、隠微な欲望、そして、芝居じみた無関心だけだったとしても。それでも客観的な視点から観察するものからすれば、それは一つの完全性であった。

 現実に対して不適格で。

 半端で。

 軽薄で。

 厚顔無恥。

 おかしくて笑ってしまうほど。

 気味の悪い。

 無能で。

 盲で。

 不完全な。

 奇形児。

 真昼は、舌の上に乗せた無花果を、そっと、潰してみる。どろどろになった果肉が、舌と上顎との間、まるで太陽が沈んだ後に広がっていく夜の時間のようにして広がっていく。てんてんと煌めく星々のように、一つ一つの痩果が散乱する。「第二次神人間大戦の時はびっくりしたよねー、まさか、まさか、おーんなじ部隊に配属されるなんて」「っていうか、私、あなたが契約してたことの方がびっくりしたわよ。しかもたかが人間と」「あははっ! まあ、コルンテップで負けちゃったからね」「それが信じられないっていうの」「んー、まあふつーにやってたら、まーっちがいなくデニーちゃんが勝ってたけどね。でも、ちょーっとだけずるっこされちゃったから」「あなたに気が付かれないようにずるをするというのも、ほとんど不可能事であるように思えるけど」。

 真昼には……仮にデニーにとってのレノアになろうとしても、それは不可能であるということが分かった。あるいは、その逆も。そのような存在になることは出来ない。絶対に、そんなことは不可能だ。ただ、それでも、そこまでの存在であったとしても。二人は、お互いの運命の相手ではない。本当に、たまたま、客観的に、科学的に、魔学的に、自然学的に、計量可能なものとして、取り換えが利かないというだけで。主観的には、つまり、その本質的な側面としては。二人の間にあるものは運命などというものではない。そこには相手を他者として認める分離的衝動も、相手を自らのうちに包摂したいという合一的衝動も、あり得ないのだ。そこにあるものは、ただただ上っ面を撫でていくような表面的な会話と、それに、犠牲も尊重もない薄っぺらい慣性。

 犠牲などというものが、一体、一匹の生き物と一匹の生き物と、その間に何をもたらすというのか? いうまでもなく、犠牲というものは、堕落と欠損とを生み出す。天秤の片側が下がっていくのであれば、それは破綻だ。犠牲は、必ず、関係性から均衡を失する結果になる。あるいは、尊重などというものになんの意味がある? 尊重というのは、いうまでも慇懃無礼であるということだ。なぜなら、それは、徹底的な不干渉ではないからである。尊重というものは侵害である。尊重をする者に見えているのは相手ではなく、自分自身の中心性だけだ。互いが互いに一つの独立した存在であるというならば、そこにあるべきものは無関心だけだ。

 だから。

 デニーと。

 レノアと。

 二人は。

 まるで不倫の匂いがする。

 非公式の血族の、ような。

 「それで、あなたの仕事と、あたしの仕事と、それぞれ忙しくなってきて」「最近は、また会えなくなってたんだよねー」「まあ、それでも、グッド・シェパードに所属していた時よりは会ってないっていうだけじゃないかしら」「ええー! そーだけどさーあ、やっぱり、デニーちゃん、寂しいよー」「ふふ、まあ、私も、寂しくないっていうわけじゃないけれど」。

 真昼が、ちょうどパイを食べ終えたタイミングで。ナイフとフォークとを、パイが乗っていた小皿の上、まるで、その円の真ん中を、右から左へと横切るようにして置いたそのタイミングで。二人の思い出話は終わったようだった。

 皿の上は、まるで最初から何もなかったように、空虚な空白になっている。これは真昼の数少ない特技のうちの一つであり、魚とか肉とかそういうのは、手で掴んで食べたり、皿を舐めたり、そういうことをしないといけないくらい食べ方が汚いのだが。なぜかデザートのたぐいだけは恐ろしく綺麗に食べることが出来るのだ。特に、パイなどは、普通の人間であれば、食べ終わった後には粉々になったパイ生地の残骸が、まるで薄汚れた紙吹雪のように散らばっているものだが。真昼は、ナイフとフォークとだけで、そのような断片、一欠片さえ残さず食べることが出来た。やっぱり、まあ、育ちの違いってやつですかね。いや、育ちの違いなら魚とか肉とかも綺麗に食べることが出来るか。

 また、コーヒーカップを手に取って。そして、真昼は、ふと考える。なぜ、コーヒーは、人間が口をつけた瞬間に、あれほど豊穣であったはずの匂い、きらきらしていたはずの美しい悦びが、これほどまでに色褪せてしまうのであろう。真昼にとって……本当のコーヒーとは……それは、真昼が口をつける前のコーヒーだけだった。つまり真昼にとって、最初の一口だけがコーヒーとしてのコーヒーなのだ。

 真昼が食べた物の香りが、コーヒーの香りに移ってしまう。触れた途端に崩れてしまう、夢で出来たお城のように。一口飲んだ後のコーヒーは、もうコーヒーではない。コーヒーであったはずのもの、コーヒーの紛い物だ。静一郎は……そういえば、コーヒーだけを純粋に楽しむ時。いつも、スプーンに注がせていた。予め温めておいた真銀のスプーン。そのスプーンの一口だけが本当のコーヒーであると、静一郎は知っていたのである。

 残りは。

 全部。

 世界に。

 溶けて。

 死んでいく。

「まあ、こんな感じかしらね。」

「そーだねっ!」

 それから、レノアは、真昼に向かって、軽くウインクをして見せる。「だから、ルイのお友達っていうことは、あたしのお友達でもあるっていうことね」。そういうところは、なんだか、ぞっとするほどデニーに似ている。

 「ところで、コーヒーのおかわりはどう?」「あ、はい……じゃあ」レノアが、また、コーヒーメーカーのところまで歩いていって。置いてあったポットを持ち上げる。真昼が座っているところまで戻ってきて。それから、真昼の目の前のカップ、ポットの中のコーヒーを注ぐ。「ありがとうございます」「ふふ、そんなに硬くならなくてもいいのよ」。

 一瞬、真昼は、カップも新しい物に換えて貰おうかとも思った。この人はデニーに似ているし、少しくらい甘えてもいいような気がしたのだ。でも、やめておいた。ここのコーヒーは、別に、そこまでこだわって飲むようなコーヒーではない。ダイナーのコーヒー、しかも、すっかり冷めたダイナーのコーヒー。

 コーヒーをコーヒーとして楽しむわけではなく、感覚に対するただ単なる刺激の一つ、例えるならば、今もバックグラウンドに流れているこのミュージックが聴覚に対してそうであるように、味覚に対して、研ぎ澄まされた感覚の余分な過剰を緩衝するためのバッファーとして。舌の上に乗せて、生ぬるく、クソ面白くもなく、飲み込んでいく。

 そして……周囲に、自分がいるこの場所に、視線を彷徨わせる。いや、それはしっかりと見るというよりも、ただただレノアと目を合わせるということの気不味さから逃れるために、何か、なんでもいから眺めるものを探しているという感じだ。逃げている、レノアから逃げている視線。

 そうしているうちに、ふと、自分の背後、すぐ後ろの床の上に視線が止まった。いや、最初から、思いっ切り後ろを振り返ったというわけではない。目の前にレノアがいるというのに、それは失礼な振る舞いだ。そうではなく、視線を這わせているうちに、視界の端の端、自然とそれが見えたのだ。

 格子模様の床の上。赤黒く、ざりざりとした、薄汚い泥濘がこびりついていた。ずるりずるりと、まるでこすりつけでもしたかのように引き摺られている。何か不吉なもの、破滅をもたらす罪人の足跡であるかのように……足跡? いや、「ように」ではない。それは確かに足跡だ。

 いうまでもなく、それは真昼の足跡だった。つまり、先ほど、ボックス席からカウンター席へとやってくる時に歩いてきた数歩の距離。その数歩によって汚してしまった、その汚れだった。それは目に見えて異物であった。例えば、一つの教会ほどの大きさがあるプラスチックの箱の中に。全く透明で、完全に清潔な箱の中に、ただ一つ、未だに動いている人間の脊髄が落ちているかのように。わざとらしい罪のように。青銅の器のように。

「あの、レノアさん。」

「何かしら、真昼ちゃん?」

「床の上を汚してすみませんでした。」

「ああ……いいのよ、気にしないで。」

「靴の裏が、あたしの血液で、濡れてしまっていて。」

「私が掃除するわけじゃないから。」

 真昼は、とても、とても、静かだった。つまり、このラビットダイナーという場所で、再び誕生してから。生き返ってからずっと……さりとて、この静寂をどう表現すればいいのだろう。いうまでもなく、その静けさというものは、実際的な意味においてだけそうであるというわけではない。真昼の精神、いつもいつも騒いでいた、雑音、千々に砕け、幾つも幾つも分裂し、あちらへこちらへ揺らめき、ずるずるとあらゆるものに触手を伸ばし、連続した些細な爆発のように無意味であったところの、この真昼の精神が。フラットだった。既に死んでしまった生き物に繋がれた心電図のようにフラットだった。

 そこには二つのものしかなく、そして、その二つのものが繋がれている、たった一本の線が、真昼の精神であった。二つのものとは、いうまでもなく、デニーと、真昼と、この二つだ。二つ。一つでは少な過ぎる。二つ以上は余計だ。

 真昼にとって、デニーとレノアと、その二人の関係性。関係でさえない関係性は。ある意味では重要なものであった。なぜというに、それは、一つの証明だからだ。つまり、この世界が正しいものであるということのこの上ない証明。

 前提として……真昼は、十分に自覚していた。自分が、デニーにとっては、使い捨ての駒に過ぎないということを。利用価値がなくなれば、躊躇いもなく、ぽいっと捨てられてしまう。味のしなくなったガムや鼻をかんだティッシュを捨てるのに、誰も躊躇いなどしないように。

 十分に自覚していた。自分が、デニーにとって特別な存在ではないということを。自分が、デニーにとって、レノアという生き物や、あるいは、フラナガンという生き物や、そういった、非常に重要な生き物となることは、決してないということを。

 真昼という存在はいくらでも取り換えが利く何かに過ぎない。何か、なんでもない何か、わざわざ名付ける意味さえない何か。例え、仮に、今のこの真昼であっても。つまり、いくらか利用価値がある真昼であっても。この真昼程度の利用価値であれば、いくらでも都合をつけることが出来るだろう。デニーほどの生き物であれば、その程度のこと、容易いことだ。

 いや、それ以前の問題として……デニーにとっての真昼の利用価値は、一次的なものでさえない。つまり、デニーが真昼を欲しているわけではない。デニーに対して命令をしている誰か、真昼が名前も知らない誰かが、そのような命令をしたから、そのような命令に従って、デニーは行動しているだけなのだ。つまり、真昼自身は、デニーにとって何者でもない。

 真昼は捨てられる。

 いつでも。

 どこでも。

 捨てられてしまう。

 ただの。

 消費財。

 そして、真昼にとっては、そうでなければならなかった。絶対にそうでなければならなかった。つまり、真昼は、デニーにとっての特別な存在であってはいけないのだ。なぜなら、それは、そうであってはいけないから。

 あり得てはいけないのだ、デニーが真昼のことを特別であると思ってはいけない。そんなことはあり得ないことなのだ。デニーが真昼を愛してはいけないし、デニーが真昼を憎んではいけない。真昼が、デニーにとっての、固有名詞的な誰かになってはいけない。なぜなら、そのような出来事は必然的ではないからだ。そのような出来事が起こってしまえば運命が捻じ曲がってしまう。

 世界が、現実が、ありうべき姿を失ってしまう。もしも、デニーが、真昼のことを特別な存在にしてしまったとすれば。それは、間違いなく真昼にとっては裏切りだった。だが、真昼は知っていた。デニーは、絶対に、真昼を裏切らないということを。従って、真昼がデニーに愛されることはあり得ないのだ。デニーは、真昼を、愛さない。なぜなら、真昼は下等生物だから。

 どうして、デニーのような強く賢い生き物が、真昼のような下等生物を愛することがある? もしも、もしも、デニーが真昼のことを愛するのであれば……それは恣意だ。この世界が一つの物語であるとして、その作者の恣意である。恣意はいうまでもなく選択であり、そして、真昼は選ばれることがない。そうであるならば、真昼が選ばれるということは、真昼が選ばれないということの証明なのだ。

 そして、そのような意味で……レノアという生き物の存在は、真昼の信仰を補完する存在であったということだ。いうまでもなく、フラナガンという存在において、真昼のその信仰は揺るぎのないものになっていた。エドワード・ジョセフ・フラナガン。デニーにとっての、真実の敵対者。それは憎悪でもなく嫌悪でもない。この二人の関係性においては、感情のような不完全なものが介在する余地などないのだ。あたかも炎が氷を嫌うかのように、天空が大地を憎むかのように、そのようにして、デニーとフラナガンとは敵対していた。生命のレベルでの敵対。生態系における天敵のようなもの。そのような関係性。

 それでも、主は。信じることによって信じるという信仰を行なっている者に対して、様々な方法であかしをして見せるものなのだ。そう、使徒だ。使徒の感覚だ。真昼は、デニーとレノアとのやり取りに、というか、より正確にいえば、そのやり取りの根底に流れている、どろどろに溶かされた銀の偶像のようなundercurrrentに対して。まるで、遠い昔に滅び去ってしまった疫病のように、静かな静かな静寂の感覚を覚えていた。

 まるで。

 冷め切った。

 コーヒーの。

 ように。

 静かな。

 静かな。

 「正しさ」。

「それで。」

 まるで聖書でも読み上げるような口調でレノアがそう言った。真昼にコーヒーを注いだ、そのポットを、またコーヒーメーカーのところに戻しながら続ける「あなた達二人は、これからどうするつもりなのかしら?」。

 そう、それは真昼も気になっていたところの疑問であった。これから、まあ、嫌々ながらもアーガミパータに帰ることになるのだが。いや……嫌だな……冗談抜きで嫌だ……それはそれとして、そこからどうするのか。

 真昼は、また、コーヒーに口をつけながら。ちらとデニーの方に視線を向ける。「ああーっとねーえ、まず、ここからアーガミパータに戻るでしょお? そーすると、スカーヴァーティ山脈の麓の辺りに出ることになるわけ! ちょーっと東寄りかな。そこからね、西へ西へ、ずずーっと進んでいくでしょ? で、マートリカームラにあるブラインド・スポットまで行くの」「それって、例の?」「そーそー、ブーアの封印で結界しといたとこ。で、プリアーポスちゃんにおねがーいってして、そのブラインド・スポットにお迎えに来て貰うことになってるから。今日の、ちょーど日没の時間にね。要人輸送用の輸送機に真昼ちゃんを乗せて、パンピュリア共和国まで運んで、そーしたらデニーちゃんのお仕事はお終いです!」。デニーは、にぱーっと笑いながらそう言った。

 「へえ、そう。それなら、まあ、これから先はそれほど難しい仕事じゃないっていうことね」「もー、らーっくらくって感じ! んー、まあ、もしかして、REV.Mが、真昼ちゃんが生き返ったーっていう情報をどっかでどーにかして手に入れて。またこうげきーってしてくるかもしれないけど。でもでも、デニーちゃんにはアビサル・ガルーダがいるしね! レベル7のスペキエースでも用意してこない限りはだいじょーぶだよ!」。

 だろうな、と真昼は思った。REV.Mがいくら愚かであるとしても、もう、さすがに理解しただろう。デナム・フーツという生き物が、どれほど強く、どれほど賢い生き物であるのかということを。無意味なのだ。あらゆる攻撃が、あらゆる抵抗が。デナム・フーツに相対した生き物は――レノアだとかフラナガンだとかといった、デナム・フーツの同類を除けば――たった一つの方法でしか、デナム・フーツとの関係性を取り結ぶことが出来ない。いうまでもなく、それは服従である。

 真昼は落ち着いていた。非常に落ち着いた態度でコーヒーを飲んでいた。確かに、アーガミパータに戻りたいとは思わない。けれども、それは、あの暑さや、あの匂い、人間を生きたまま腐らせてしまうような、あの空気が嫌なだけの話だ。子供が学校の宿題を嫌がるのと同じようなもの。真昼は自分の危険性を欠片たりとも危惧してはいなかった。真昼は、もう、絶対に安全なのである。例え、何が襲い来るとしても。天使も、悪魔も、あるいは、神さえも真昼を傷付けることは出来ないだろう。なぜなら真昼は、夜の王の庇護下にあるからだ。

 ただ……とはいえ……ほんの少し……僅かに……何か、不安のようなものがないわけではなかった。それはアーガミパータにあるものについての不安ではなかった。どちらかといえば、その後に来るものだ。何もかもが終わってしまった後に到来するであろうもの。それは……けれども……空っぽの……いや、そのことについては、真昼は考えないことにした。それは、今ではない。それは、ここではない。それはこの真昼には関係ないことだ。今は、ただ、この安全を楽しむことにしよう。何度も何度も噛み締めて、何度も何度も反芻して。子宮の中にいる胎児よりも安全な、この絶対的な安全を味わっていることにしよう。

 冷めたコーヒーが。

 したり。

 したり。

 真昼の中に。

 落ちていく。

 まるで。

 抽出された。

 夜の闇、が。

 真昼の。

 内側を。

 暗く。

 して。

 いく。

 かの。

 よう。

 に。

 「でも、そういうことなら」レノアがまた口を開いた。もう、コーヒーメーカーが置いてあったところから、デニーと真昼と、二人の目の前に戻ってきていた。「そろそろ出発した方がいいんじゃないかしら」。

 まるでこちらを気遣っているような、少しだけあららいだ表情をして。首を傾げながら続ける「日没までにマートリカームラに着かなければいけないんでしょう?」「ええー? 今、何時?」デニーの問い掛けに、レノアは、黙ったままで、時計を指差す。その時計は、このダイナーの一番左端の壁、というのは、真昼から見て左端ということであるが、とにかくそこに掛けられたアナログ式の時計だった。

 真っ白な文字盤に、ホビット数字で、ぐるっと一周時間が書かれている。よくよく見ると、その数字を形作っている線の一本一本が人参になっていて。そして、時計の中央、可愛らしい服を着た兎の絵が描かれているのだが、その兎の右腕と左腕とが時計の針になっている。

 装飾性を重視し過ぎていて、なんだか非常に時間が分かりにくい時計になってしまっているが。とにもかくにも、今の時間が、午後六時を少し過ぎた頃であるということが分かった。ちなみに、真昼は知らなかったが、この時期のマートリカーラムの日没時間は大体午後九時頃だ。

 「ああー、そーだね! ってゆーか、もーこんな時間だったんだ」「ここの時間の進み方は、外とはちょっと違うから。たまに分からなくなってしまうわよね」、そんな風にレノアとお話をしながら、デニーはちらっちらっと、わざとらしく真昼の様子を窺っている。それから、両方の腕を、なぜだか知らないけどばんざーいって感じで上に伸ばしながら「それでは!」と言う。「真昼ちゃんがコーヒーを飲み終わったら、行きましょーか」。

 真昼は、デニーのその言葉を聞くと。すぐに、ソーサーの上に置いてあったカップを持ち上げた。自分の口元まで運んでいく。カップに三分の一ほど残っていたコーヒー。そのまま、一気に口の中に注ぎ込む。冷めたコーヒーの苦さは、温かいコーヒーの苦さとは根本的に異なったものである。なんとなく錆びたような、びちゃびちゃに濡れている、嫌な苦さ。その苦さを一口に飲み込んでしまう。それから真昼は、デニーの方には視線も向けずに言う「飲み終わった」「ほえ?」「あたし、今、飲み終わった」。

 デニーは、暫くぽかんとしていたのだけれど(分かりにくいかもしれないので一応この「ぽかん」の描写について説明しておきますが、これは記憶に残っていない浄土往生によって自我というものが決定的に崩壊し、デニーへの実存放棄型依存状態に移行した真昼のその絶対的好意に対して、他者に対する好意というものをまるで理解出来ていないデニーがその絶対的好意に気が付けていないということの描写です)、やがて「あははっ!」と笑い声を上げた。「真昼ちゃんってば、おうちに帰りた過ぎっ!」。

 「あのさ」真昼はデニーのその言葉に答える「あんたは、こういうのが普通かもしんないけどさ。あたしにとっては全然普通じゃないわけ。殺したりだとか殺されたりだとか、死んだりだとか生き返ったりだとか。革命に巻き込まれて、龍の巣に入っていって、そうかと思ったら「ここはどこでもありません」みたいな場所にいつの間にか連れてこられてて。はっきりいってさ、もううんざりなんだよ。疲れた。地獄に飽き飽きした。生き物が死ぬということに飽き飽きした。あたしは、もう御免だ。降りるよ、後は勝手に殺し合ってくれ。早く帰って、普通に戻りたい。布団の上に寝っ転がって、ごろごろしながらSINGでも見ていたい。人が死んでいくことが当たり前ではない世界で、何が正義だの何が悪だの、欠片の真剣味もなくいい争っているだけの、あの普通に戻りたいんだ」。

 いうまでもなく、真昼が可及的速やかにコーヒーを飲み終えたのはそれが理由ではない。真昼がコーヒーを飲み終わったらすぐに出発しようというデニーの言葉に対して、無意識のうちに、本当に無意識のうちに、自分が未だにコーヒーを飲み終えていないということに対する負い目を感じてしまって。これまた無意識のうちに、その負い目を解消する行動に出たというのが本当のところだ。これが先ほどの絶対的行為と関係してくるわけなのであるが、とはいえ、まあ、他人の無意識にづかづか踏み込んでしまうのはあまり趣味がいいこととはいえないことなのであって、その話についてはこのくらいにしておこう。とにかく、真昼の言葉に、デニーはけらけらと笑いながら「りょーかいしましたあ」と答えると。「じゃ、真昼ちゃんのふつーに帰ろっか」と言いながら立ち上がった。

 「レノア、今日はありがとーね!」「これで「カのゲーム」の時の借りはチャラよ」「あははっ、もー、レノアってば! デニーちゃんとレノアと、こーんな仲良しな二人に、貸し借りなんてなしなし、でしょ!」とかなんとか言いながら、別れのこのひと時を惜しみ合ってるんだか合ってないんだかという感じの二人。まあ、特に惜しみ合っちゃいないんだろうな、二人とも、感情があるとは思えないほどに冷酷だし。

 いや、レノアが冷酷かどうかということは、実はそのことについての確たる証拠となるような事実を、真昼は一つも持っていないのだが。とはいえ、レノアの……黄色い目。まるで、デニーの目を、そのまま黄色く染めただけとでもいうような黄色い目。真昼には、それだけで十分であった。レノアが、デニーと、同じ種類の生き物であるという証明は、それだけで全く十分であった。

 なんにせよ、真昼が、そんなことを考えていると。くるっと、レノアが、真昼のほうに視線を向けた。「真昼ちゃんも、さようなら」「ええ、その、さようなら」「困ったことがあったら、また、いつでもここに来てね。さっきも言ったように……ルイの友達は、あたしの友達だから」「ありがとうございます。でも、あの、もう来ないと思います。あたし、アーガミパータから脱出したら、この男とは縁を切るつもりだし……」「ふふ、来るわよ」。レノアは、真昼の言葉を遮って、そう言うと。まるで、外の天気は晴れているとか、そういう当たり前のことを言うみたいな口調で続ける「あなたはまたここに来るわ」。

 真昼は。

 その言葉に。

 軽く笑うと。

「じゃあ、その時はよろしくお願いします。」

 それから、デニーと真昼と、二人は、ラビットダイナーを後にした。デニーは、いつまでもいつまでも、レノアの方に向かって、両方の手、両方の腕、ぶんぶんと振り回して、ばいばいの意を表明していて。レノアは、緩やかに腕を組んだままで、右手だけをほんの少し上げて、その手をひらひらと揺らめかせてそれに答えていた。真昼が、ダイナーの出入り口、その扉を開けると。どこかで兎の鳴き声がした……いや、まるで兎の鳴き声のような、ドアベルの音が鳴り響いた。

 そして。

 乾いた風の記憶が。

 亡霊のように。

 虚しく。

 虚しく。

 消え残っている。

 外の荒野では。

 アビサル・ガルーダが。

 間抜けなまでの忠実さで。

 二人のことを待っていた。

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