第三部パラダイス #37

「それでね、私、ああ、ちょうど良かったわと思って。この子にも相談してみようって思って。「ハーベストちゃん、ところで、今週末ってサロメちゃんのお誕生日なのよね」って言ったの。そうしたら、あの子、なんて言ったと思う? 「え、あの人誕生日とかあったんスか」って。ふふ、あの子らしいわよね。「お誕生日プレゼントをあげようと思ってるのだけれど、何をあげれば喜んで貰えるかしら」「喜ぶことって言われても、自分、あんまりあの人のこと詳しくないんで」「あら、だって、あなた、あの子のお気に入りでしょう」「あの人にお気に入りなんていないですよ」「ねえ、何がいいと思う?」そうしたらね、あの子、ちょっと肩を竦めてこう答えたの。「レノアさんが死ぬことだと思いますよ」。んー、そうね、まあ、確かに私が死ねばサロメちゃんは喜ぶと思うけれど。「何がいいかしらね……そうだわ、ユニコーンとかいいんじゃないかしら」私がそう言ったら、あの子、なんだかちょっと嫌そうな顔してね、「ユニコーン?」って言うのよ。「そう、ユニコーン、女の子はみんな好きでしょう?」「まあ、レノアさんがいいと思うんならそれでいいんじゃないスか」。ああ……本当に、何がいいかしら。確かに、もう、お誕生日が嬉しいなんて年じゃないとは思うけれど。それでも、一年に一度のことだから、やっぱりサロメちゃんにとって特別な一日にしてあげたいわ。本当に、特別な一日にね。」

 ひどくわざとらしい、女言葉で話す。

 女の声が、真昼の耳に聞こえてくる。

 その女の声は……なんというか、過剰なほどに女を強調している声だった。言葉遣いだけではなく、その全体。口調が、声音が、声色が。なんというか、まるで女であることをわざわざ装うために女装している女性のようなイメージ。芝居じみている、道化じみている、ちらとこちらに流し目を送った後でウィンクして見せるような、柔らかい艶めかしさ。少しだけ投げやりで、少しだけざらざらとしていて。こちらを勘違いさせてしまいそうなほど親しみに満ちた囁き声。

 その女の声を、真昼は、今まで一度も聞いたことがなかった。その声の女が誰なのかということが、真昼には全く分からなかった。いや、というか、それ以前の問題として……真昼には、何も分からなかった。

 今、自分がどこにいるのか。今、自分が何をしているのか。真昼の頭蓋骨の内側に入ってくる情報は……今のところ、その女の声だけだった。聴覚の情報しかない。視覚の情報がない。目の前は真っ暗だった。ただ、ここが暗闇に閉ざされているというわけではなく、一枚の膜の向こう側、光、光、光を感じている。たぶんこの膜は瞼で、真昼は目をつぶっているのだろう。

 真昼に分かったのは、そろそろサロメという何者かの誕生日が近付いているということ。この話をしている女が、その誕生日のプレゼントにユニコーンを送ろうとしているということ。その二つのことだけだった。とはいえ、サロメという女が何者なのか、この女とはどういう関係性で、なぜ誕生日プレゼントにユニコーンなのか。そういったことは全然分からなかった。

 ちなみに、真昼は女の子ではあるが、ユニコーンのことは別に好きでも嫌いでもなかった。それはそれとして……真昼は目をつぶっている。そして、真昼には、自分がなぜ目をつぶっているのかということが全然分からなかった。

 論理的に考えれば、状況から推察するに、真昼は眠っていたのだろう。ただ、眠っていたのだとすると、真昼には目覚めたという感覚が全くなかった、眠りから覚めた時によくありがちな、あの、少しずつ少しずつ覚醒していく感覚。そういったものが一切なかったのだ。

 ただ。

 それでも。

 何か、夢を。

 見ていた。

 気がする。

 何も覚えていない。

 全然覚えていない。

 もう。

 忘れてしまった。

 夢を。

 なんにせよ……どちらかといえば、唐突に発生したという感じだった。新しい生命が、全くの虚空の中に、ぽんっと放り出された感じだ。あるいは、こういう例えの方が正しいのかもしれない。一度、壊れてしまったパーソナル・コンピューター。それが、新しく完全にリフォーマットされて。それから、初めてその電源を入れた瞬間。白々しいほど静寂な、明るい画面に、企業のロゴマークが映し出されているあの瞬間。

 真昼は。

 そっと。

 目を開く。

 真昼の目に入ってきたのは……信じられない光景だった。信じられないほど平平凡凡で、信じられないほどごくごく普通で、信じられないほどなんの変哲もなく。信じられないほどに、どこでも見ることが出来る光景。つまり、それは、真昼が今いるその場所は、ありふれたダイナーだった。

 本当の。

 本当に。

 ダイナーといわれて。

 誰もが思い浮かべる。

 ステレオタイプな。

 ダイナー。

 初期のダイナーは、トラックによって移動式の、ステーションワゴンの中に作られた食堂だった。いわゆるオールアワーズ・カフェと呼ばれていたその食堂は、後々になって、プレハブの、組み立て方式の食堂一式を、そのままその店舗をオープンしたい場所に持ってくるという固定式の食堂となったわけであるが。そのような組み立て方式になるに至っても、ステーションワゴンだったころの形状、つまり、横に引き伸ばされたように細長い形状はそのまま引き継がれた。利点は二つ。一つ目、そのようにして正面ファサードを広げることによって店舗の形状自体を一つの広告形式と化してしまうことが出来る。二つ目、店舗の大きさを最低限にすることで隣接する駐車場を可能な限り広くすることが出来る。真昼がそこにいる、そのダイナーも。あらゆるダイナーがそうであるように、兎の巣穴のように細長い形をしていた。

 壁の片側はカウンター席になっている。椅子は全部で十七席。床に固定されたポールの上に丸い座面を乗せた、背凭れのないスツールだ。暗い赤色の座面は、合成繊維のベルベットで。たぶん遠い遠い過去には柔らかい手触りをしていたのだろうけれど、今となっては、毛羽立って、もそもそとした、硬いクッションになってしまっている。

 接着剤のせいでプラスチックみたいになっている木質ボードの上には、あちらに、こちらに、こぼしてしまったコーヒーがすっかり染み付いてしまっていて。その上には、ケチャップだとかマスタードだとかといった調味料のボトル、あるいは塩コショウの小瓶。それに、四角い真鍮の入れ物に入った紙ナプキンといった物が置いてある。後は、透明なカバーに覆われた脚付きのトレイが幾つか、等間隔に並んでいた。そういったトレイには、ドーナツ、チーズ、クラッカーなどのスナック類が乗せられていて、下のところにはそれぞれ値札が付いていた。要するに、勝手に取って食べるタイプのあれである。

 カウンターの奥は調理場になっている。ハンバーガー用の冷凍ハンバーグを焼くためのものだろう、やけに大きなホットプレート。すっかり色が変わってしまった、安物の油がなみなみと注がれたフライヤー。それに、ガラスのポットが置かれた、業務用のコーヒーメーカーなどが据え付けられている。それから、その隣にあるのは、まるで壁龕のように堂々とした食器棚だ。白一色の、無個性な、皿だのカップだの。洗って拭いて暫く乾かした後で、そのまま突っ込んだという感じ。いかにも乱雑に重ねられている。その横の壁にはポスターのように大きな、色褪せた紙でメニューが掲示してあって。その隣にぶら下がっている黒板には本日のおすすめが書かれていた。「フィッシュ&チップス」だ、こびりついていてすり切れたチョークの感じからすれば、ここ何十年か、下手すれば創業当時からずっとこれが本日のおすすめであり続けたということが分かる。

 そのようなカウンター席の反対側。窓側にあるのがボックス席だった。テーブルを挟んで片側にソファー、もう片側にもソファーといった具合の、典型的なボックス席が五つほど並べられていた。テーブルは、カウンターと同じ材質で出来ている。そこら中に傷や凹みが出来ていて、角はすっかりすり減ってしまっている。安っぽい色、脂っぽいピンク色の人工皮革が張られたソファーは、たぶん二人掛けくらいを想定しているだろう広さで、ところどころ食べ物をこぼした跡が残っていたり、破れて中のスポンジがはみ出したりしている。

 そして。

 真昼は。

 そのボックス席。

 ソファーに。

 横たわって。

 いた。

 真昼は……ソファーに、仰向けに横たわっていた。いうまでもなく、真昼の身体の長さは二人掛けのソファーに収まってしまうほど短いというわけではない。そのため、正確にいえば、ソファーに乗っていた部分は、真昼の身体のうち、頭から背中を通って、腿裏の三分の一ほどの部分までであった。そこから先は、腿裏の三分の二、緩やかに傾斜していって。そして、膝から急に折り曲げられて、爪先が床の上に触れている、そんな感じだ。

 真昼は、右の一の腕を額の上に乗せて。もう片方の腕は、肘のところから軽く曲げて、腹の上に置いていた。見上げているその先には……蛍光灯が……蛍光灯が並んでいる。ぽかんとした形の、円形の蛍光灯が天井から吊り下げられていて。規則正しく、きちんきちんと並んでいる。ただ、その蛍光灯のうち、一番奥のやつだけが切れかかっているみたいだった。時折、ちかちかと瞬いて。じじっじじっという、電気的な接続が上手くいっていない時に立てるあの音が聞こえてきている。

 音、音。そういえば、今気が付いたのだが、その女の声以外にも真昼の耳に聞こえている音があった。しゅーしゅーという、コーヒーメーカーがコーヒーを作る時に立てる音。フライヤーの中の油が立てている、じゃらじゃらというやる気のない音。それから、BGM。ダイナーの中には、BGMが流されていた。これは……ダンシングラビット・ウィズ・シークレットフィッシャーズの"The Best Is Yet to Come"。クラシックな曲調の、ノスタルジーを掻き立てるナンバー。既に失われてしまった、何か偉大なもの、何か素晴らしかったものを、まだ世界は取り戻すことが出来る。そんな希望を与えてくれる曲だ。

 ただ、まあ、こんな場末のダイナーで一体何を取り戻すことが出来るのかという話なのだが。なんにせよ、この音楽はどこから聞こえてきているのだろう。どうも、店のあちらこちらにスピーカーがあって、それらのスピーカーから聞こえてきているという感じではない。たった一箇所から聞こえてきている。真昼は、横たわった体を、ようやく起こした。上半身だけ起き上がって、ソファーに座ったままで、自分の周囲を見渡した。というか、その音楽が聞こえてくる方に視線を向けた。

 それはダイナーの出入り口の近くにあった。ダイナーのドアは、よくあるダイナーのドア、つまり上から下まで広々と引き延ばされた楕円形の扉窓が付いたドアで。そのドアの上のところに、錆びかけた金属製のベルが括り付けられていたのだが。そのドアのすぐ横のところに、ジュークボックスが置いてあったのだ。しかも、最近のジュークボックス、スマート・デヴァイスで操作出来る、圧縮記録された音声記録によって音楽を流すタイプのジュークボックスではない。本物のジュークボックスだ。

 人の背丈ほどもある大きさ。下の長方形部分と、上の半円部分に分かれている。上の半円部分には、レコードの機械が取り付けられていて。その奥にはスプリングによって分けられたレコード・ストレージ。コインを入れて、数字のボタンを押して。すると、そのナンバーのレコードがストレージからチョイスされて、ターンテーブルの上に置かれるのだ。レコードが回転し始める。ジュークボックスを囲んでいる、色とりどりのライトが光り始める。そして、音楽が流れ始める。

 そうだ、確かにそうだった。BGMの音楽は、無機質で代わり映えのしない、ひどく冷ややかな、冴え冴えとしたデジタル・ミュージックではなかった。まるで、何か、strange creatureが歌っているような。少しだけ掠れている。ところどころで突っ掛かる。まるで感情があるかのようにレコードの表面を滑っていく、レコード・ミュージックの音楽であった。

 そして。

 そんな。

 音楽の。

 上に。

 甘く。

 甘く。

 覆いかぶさるような。

 声。

「あら、お姫様のお目覚めよ。」

 真昼は、振り返った。その声が聞こえてきた方に。その女がいるはずの方に。やっと、視線を向けた。それは、今まで見ていた方向とは反対の方向だった。窓側ではなく壁側。ボックス席ではなくカウンター席。いや、その女は、席に座っている、ダイナーの客ではなかった。そうではなく、カウンターの内側に立っている……あれは……どう見ても……ウエイトレスだった。

 その服装は全体的にメードに似たものだが、ただメードのそれに比べると随分と動きやすそうだ。それにメードの服装はこんなに目立つ色をしていないだろう。つまり、そのドレスは全体が鮮やかな薄水色をしているのだ。ダイナーの内側以外では絶対に見ることがないであろうという色彩センスである。二の腕の真ん中ほどまでしかない袖口は、かつては(何十年も前は)流行の最先端だったこともあったのであろう、真っ白なトリムで飾られている。膝丈よりも少し短いくらいのスカートの上に、これまた白い色のエプロンをつけていて。折り返した襟の色も白だった。そして、その頭の上に乗せているのは……まるで……まるで……それは女王の王冠のように……やっぱり真っ白な、ヘアバンド型のウエイトレスキャップだった。

 胸にはネームプレートをつけている。

 洒落た筆記体で書かれている名前は。

 Lenore。

 その女は……いや、ネームプレートの名前に従ってこれからはレノアと呼ぼう。レノアは、なんというか、とてもとてもちぐはぐな姿をしていた。

 例えばその髪を見てみよう。黒い黒い髪。まるで冥府の深淵を流れていく川。まるでこの世における名前を永遠に失ってしまった空虚。そのような色をした自らの髪を、レノアは、情け容赦なくひっつめにして、さらに頭の後ろのところでお団子にさえしているのである。それは、まあ、確かに、そのような髪形は、いかにもこういう飲食店で働いていそうな髪形ではあるが。とはいえ、明らかに、レノアのその髪にその髪型は似合わない。これほど、これほど、魔物じみた誘惑の髪。そのような髪は、このように捻じ曲げられてはいけないはずなのだ。こんな風にびっとまとめてぐるぐるに丸めるのではなく、その髪は、星々さえも失われた夜であるかのように、レノアの肩に、レノアの背に、レノアの腰に。長く長く、そして、虚ろに流れ落ちているべきなのである。

 また、その顔を覆う化粧も実に不可解なものである。本来、化粧というものは美しくなるためにするものだ。だが、レノアがしているその化粧は、かえってレノアの美しさを損ねているとしかいいようのないものだったのである。というか、本来であれば、レノアには化粧など不要なはずなのだ。そのことは水色のドレスから見えているレノアの腕・手・指先を見てみれば分かる。その肌は、あたかも死せる百合のごとく、あたかも清浄な屍衣のごとく、白く透明なその肌は。一点の穢れさえなく、ただただ龍骸石の彫刻のように透き通っている。つまり、レノアには、化粧によって覆い隠すべき醜さなど一滴たりとも含有されていないのだ。それにも拘わらず……レノアは化粧をしていた。しかも、このような飲食店で働いているこういった女性が、いかにもそのような化粧をしているであろうという化粧を。つまり、ナチュラル・メイクをしようとして完全に失敗してしまっている化粧を。

 そもそも、飲食店における接客業というのは長時間の肉体労働であるのだからして、あっさりとしたシンプルなメイクなどというものでどうにかしようとする方が浅はかなのだ。最初の頃は、働き始めの頃は、ささっとした薄めのメイクでなんとかなると思っていられるかもしれないが。次第に現実はそんなに甘くないということを思い知ることになる。

 ただあまりにも化粧を濃くし過ぎてしまえばそれはそれでみっともなくなってしまう。つまるところ化粧とはいつだってそのバランスが大事なのだといえなくもないのだが、とはいえ、よくよく考えてみれば、接客中に出会う生き物には、ウエイトレスにとって本当に重要な生き物など一匹もいないのである。いってしまえば、それらは全てが客であり、それらは全て一過性の現象に過ぎない。そうであるのだとすれば、結局のところ、ウエイトレスが本気で化粧をしなければならない理由など一つもないのだ。

 ということで、それなりに長い期間働いているウエイトレスは。薄い化粧と濃い化粧と、その二つの最悪の状態が併存しているような化粧になってしまう。つまり、隠したいところだけを隠すという意味では薄い化粧だが、ちょっとやそっとで剥がれてしまうようなことがないようにめちゃめちゃしっかりしたメイクになってしまうということである。しかも、なお一層最悪なことは、そのようにしっかりメイクを施したとしても、やはりシフトが終わるころにはまあまあ乱れてしまうものなのだということだ。

 レノアのメイクはまさにそれであった。いい加減で、ところどころ崩れていて。いや、というか……どうやら、自然にそのような化粧になってしまったというよりも、わざわざそのような化粧をしているということであるように見えた。つまり、飲食店で働くということはそういう化粧をすることなのだから、そういう化粧をしているだけという話。その気になれば、なんの苦労もなく、なんの努力もせず、ほんの一瞬で完璧な化粧をすることが出来るのだが。敢えて、このように、半分崩れかけた安っぽい化粧をしているように見えるのである。

 これもまた飲食店に相応しく、レノアは、イヤリングも、ピアスも、ネックレスも、リングも、あるいは他のあらゆるアクセサリーをしていなかったのだが。それもまた、一種異様な雰囲気を表わしていた。なぜというに……レノアは……レノアは……女王だからだ。いや、ウエイトレスなのだが、その全てが、レノアという生き物を構成している全ての状態が、明らかに女王のそれなのである。本来であれば、レノアの全身は、まるで夜空が星々によって煌びやかに飾られているかのように、絢爛豪華で華美華麗な輝きによって彩られていなければいけないはずなのに。レノアは、そのような義務を怠っているように見えるのである。

 総じて、なんというか、奇妙な形でこちらを無視されているような感覚を抱かされる姿だった。本来であれば、レノアは、もっと……個性的であるはずなのだ。枠に囚われていてはいけない、真実の自分自身に正直でなければいけない、押し付けられた常識を拒否しなければいけない。通則だとか通念だとか、そういった全ての措定を無視する生き物でなければいけないはずなのだ。レノアに相対しているこちらからすれば、そうでなければいけないはずなのである。だが、そのようにして押し付けられたこちら側の希望を、レノアは無視していた。そして、「普通」であるということを完全なまでに受け入れているのである。

 社会的に定められた制服のようなもの。そのような人間はそうでなければいけないという決定事項。それを唯々諾々と受け入れている。ウエイトレスはそうでなければいけないというウエイトレスを受け入れてしまっている。しかも、それを好きでやっているわけでさえない。ただただそうであるからそれに従っているだけという、いかにも投げやりな態度。そのような態度でこちらを見て「どう、これでいいでしょう?」と言うのだ。

 ただ、そのようなレノアであっても……ところどころで立ち込める暗雲が裂けて、その銀の裏地が見えているかのように。どうしても隠し切れない凄絶なまでの美しさ、残酷なまでの艶やかさが姿を現わしてしまっているところがあった。

 例えば、その眼だ。眼、両の眼球。異形の眼が異形であるということは、確かに陳腐ではあるが、それは真実である。レノアの目は、あたかも……混じり物のない純粋な黄金であるかのように……死と滅びとを予言する退廃の惑星のように……黄色をしていた。それを見る者を破滅へと誘う、獣のための蜂蜜酒のような。一つの淫らな災いの偶像のような、そんな黄色をしていた。

 そして。

 あるいは。

 その背の。

 烏の羽。

 まるで……まるで現実味のない光景だ。明らかにごくごく普通のダイナーの、明らかにごくごく普通のウエイトレスの、その背中に二枚の羽が生えているという光景は。とはいえ、これは比喩でもなんでもなく、まあ、今までさんざん比喩を使ってきたので比喩と思ってしまうことは仕方のないことではあるが、なんにせよ、それは現実における実際であった。右側に一枚、左側に一枚、レノアには羽が生えていた。

 その髪の色のように、黒い、黒い、真っ黒い羽。夢を見ている悪魔のような黒い色をした羽。その羽を見ていると……真昼は……一枚一枚の闇が重なり合って、深い深い深海の底に沈んでいくかのような、吐き気を伴う眩暈のような感覚を覚えた。一枚一枚の羽根が、些喚くような波動によって世界を揺るがせていて。それは……激しさのようなものはない。だが、静かに静かに蝕む邪悪のような、いつの間にかこの世界と入れ替わっている悪夢のような、そんな何かであった。

 そんな羽が、なんということもないかのように畳まれて。

 レノアの背後に、無礼なまでの慇懃さで、収まっていた。

 さて、レノアは、先ほど言及した通り、カウンターの中に立っていた。正確にいえば、カウンターの内部、恐らくはステンレス製だと思しきぴかぴかと光る台、大体において腰の辺りの高さの台の上に、寄り掛かるとも寄り掛からないともなく後ろ手をついて、なんとはなしに後ろ側に傾いだような姿をして、カウンターのこちら側、つまり客席の方を向いていた。

 今の今まで、客席にいる誰かと話していたのだ。その誰かは……少年だった。真昼と同じくらいの年齢であるような姿をしている。あたかも寄宿学校の生徒が着せられるような子供っぽいスーツを着ていて。そして、その頭は、まるで揺らめくように柔らかいフードによって隠されている。

 いうまでもなく真昼は理解していた。真昼は知悉していた。その少年が誰であるかということを。真昼は、その少年を目にした時に……いや、それどころか、その少年を目にする前から。完全な無意識のうちにその少年の生命の波動を感じ取ったその瞬間に。あられもない恍惚を感じていた。

 歓喜が。

 悦楽が。

 いや。

 違う。

 全然違う。

 要するに、果たされないということが。

 最初から決まっている、約束のような。

 完全で。

 絶対な。

 憎悪が。

 真昼の脳髄を。

 甘く。

 甘く。

 痺れさせる。

 少年は、レノアの告知に。つまり真昼が目覚めたということの告知に「ほえ?」と声を漏らした。告知? 主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう。もちろんだ、当たり前の話だ。そして、真昼は死んだのではなく眠っていたのだ。

 なんにせよ、少年は、くるりと振り向いた。背凭れのない椅子の上に座ったままで、全身をボックス席の方に向けたのだ。つまり、真昼の方を見た。「あー、ほんとーだ!」「おはよー、真昼ちゃん!」、そう言って、可愛らしく笑ってみせた。

 真昼は、その瞬間に、まさにその瞬間に、全てを思い出した。自分が目をつぶってここに横たわる前のこと。生命の樹と呼ばれている、あの光の中に入っていく前に起こったこと。その全てを思い出した。

 あたしの名前は砂流原真昼。世界的軍需企業であるディープネットの幹部、砂流原静一郎の一人娘。スペキエース系テロリスト組織であるREV.Mに誘拐されてアーガミパータに来る。あたしはREV.Mに所属しているテロリストの一人であるハッピー・サテライトによって殺害された。あたしは死んだ。そして、そのように生命を喪失した状態から、生命を取り戻すために、生命の樹に入っていった。

 ただ、生命の樹に入ってからの記憶はなかった。いや、そもそも生命の樹に入ってから何かがあったのだろうか? 記憶がない以上、何もなかったということもありうる。ついさっき目が覚めるまで、完全に意識を失った状態のままでいたということだ。ただ、それでも……真昼は、何かがあったような気がした。生命の樹の中で何かがあったような気がした。具体的なことは何も覚えていないが、何かが。

 とはいえ、今の真昼にとっては……それはどうでもいいことだった。生命の樹の中で何があったにせよ、それは今の真昼には関係ないことだ。なぜなら、今の真昼にとっては、あのカウンターに座っている、あの少年を目にした真昼にとっては。あの少年以外のあらゆる事象が、あの少年以外のあらゆる形象が、あの少年と真昼との間の関係性に付随するところの、二次的な構造に過ぎなくなってしまっていたからだ。

 ああ。

 そう。

 この世界は。

 あたしにとって。

 全部、全部、おまけ。

 あの少年の。

 あの男の。

 あのクズの。

 あの悪魔の。

 デナム・フーツの。

 「体の調子はどーお?」「痛いところとかー、痒いところとかー、変な感じがするところはなあい?」と言いながら、デニーは、いつものようにくすくすと笑っていた。そのくすくすという声に、真昼は全身を愛撫されているかのような、怖気を震うような、拒否することさえ出来ない愛染の感覚を覚える。何かに染まっていくような……いや、というか、確認。自分が染まり切ってしまっているということの確認。その感覚を静かに、一人きりの嘲笑のように受け入れながら。真昼は言う「あのさ」「なあに、真昼ちゃん」「あたし、生き返ったの?」。

 「うんうん、だいじょーぶだよ! 回帰性ウムスセビシン現象はあ、ちゃーんと逆転されました!」「は?」「ジュノスにおける真昼ちゃんの個体限定範囲は、不完全に閉ざされた運命肯定的細胞分裂によって定義されました!」「は?」「えーと、とにかく生き返ったってこと!」。

 それから、真昼は、一度、大きく息を吸ってみる。それから、真昼は、一度、大きく息を吐いてみる。匂いがした。いかにも場末のダイナーでそのような匂いがしそうな、安っぽい匂いだ。まるで黒一色の色水みたいに薄められた、コーヒーの匂い。駄菓子屋の店先に並べられたガラス玉みたいにきらきらしてる、ケーキの匂い。べとべとと脂っぽいベーコンの匂い、温め直されたパンの匂い、一塊いくらで売られているバターの匂い。

 それとも。

 あなたは知らないのか。

 あなたが死んだのは。

 ただ一度、罪に対して死んだのだ。

 あなたが生きるのは。

 ただ主によって生きるからである。

 あなたはもはや死ぬことがない。

 死はもはやあなたを支配しない。

 「死んだ時と同じでさ」「んー」「全然実感がない」「んー」。デニーは、最初の「んー」を少し上がり調子に、その次の「んー」を少し下がり調子に、そう答えた。相変わらずににーっという感じで笑っていて、真昼のことを、あたかも保護者のような視線で見守っている。保護者? デニーが? あたしの? はは、笑っちまうね。利用価値がなくなれば、あたしのことを保護するつもりなんてさらっさらになくなっちまうくせに。

 真昼は自分の首元に中指の先を這わせてみた。首輪がまだあるかどうか確かめてみたのだ。あの首輪。あたしが死者として起き上がった後に、その偉大なる力の一つ証明として、あたしの肉体に刻印された、あの首輪。あたしの頭と、あたしの体と、その二つの間にある首が、間抜けにも真っ二つになってしまった時に。その二つの間を繋ぎ合わせた痕跡としての、あの傷跡。

 指先が触れる。ああ、まだあった。よかった、まだあって。あたしが生き返ると同時にこの痕跡が消えてしまわなくて。これは、あたしの、あたしの……証明なのだから。なんの証明なのかは分からないが、とにかくこれはあたしの証明なのだ。

 それから、真昼は、ゆっくりと立ち上がった。合成皮革のソファーが嫌な音を立てて軋んだ。真昼が履いていたスニーカーが、ざりっという鬱陶しい感触とともにダイナーの床を踏んだ。白と黒の二つの正方形、交互に並べられた格子模様の床。

 そういえば……今のスニーカーの感触でようやく気が付いたのだが。真昼の服装は、生き返る前と全く同じであるようだった。つまり、スニーカーのこの感触は、べたべたとスニーカーの底にこびりついた様々な生き物の様々な体液、そのべったりとした粘性の液体に、荒野の砂がくっついてしまった感触だ。血まみれで、ところどころに悲惨な傷跡が開いた服装。真っ白だった丁字シャツと、それに、ここまで致命的なダメージは負っていなかったはずのダメージジーンズ。

 せっかく生き返るのならば服も新調してくれればよかったのに。というか、よくよく見てみれば、この肉体も大して綺麗になっているわけではなかった。血液だのなんだの、砂埃だのなんだの、どろどろに薄汚れたままで。生き返る前と何も変わらない。復活……この世界で二度目の生を得たという爽やかさ、新しい第二の人生の始まりという清々しさは微塵もない。

 そんなことを考えながら、真昼は、一歩一歩、カウンター席の方へと向かう。まあ、一歩一歩も何も、ボックス席からカウンター席までの距離は真昼の歩幅でも三歩分か四歩分くらいしか離れていなかったのだが。何はともあれ、真昼は、すぐにカウンター席まで辿り着く。

 そして、デニーが座っている席のすぐ隣に腰掛ける。デニーの右側の席だ。あくまでも焦らず、慎重でさえあるような仕草によって。体の全体はデニーの方には向けなかった。その体の向き自体は、真っ直ぐ前を、つまりカウンターの内側の方に向けていた。左腕、肘から先をカウンターの上において。右手は、軽く自分の膝の上に乗せる。

 当然ながら、そのような姿勢をとれば、真ん前にはレノアがいることになる。カウンターの内側、さっきまで、デニーの目の前で、デニーと話していたレノア。相変わらずステンレスの台に寄り掛かったままで、今は真昼のことを見るともなく見ないともなく眺めているレノア。奇妙なまでに婀娜を含んだ、慈悲深いとさえいえる流し目。

 真昼は、しかし、まだレノアに話し掛けることはしなかった。少しだけ俯いた顔を、僅かにデニーの方に向けて。「まあ、あんたが生き返ったっていうんなら」いかにも不愉快そうに、吐き捨てるように呟く「あたしみたいな下等生物がそれを疑うのは、きっと愚かなことなんだろうな」。

 「あははっ、真昼ちゃんってば!」、デニーは、そう言いながら、先ほどまでボックス席を向いていた体をくるーんと回転させて。またカウンターの方向に戻した。それから右の腕と左の腕とをカウンターの上に乗せて、べたーっと溶けてしまったみたいに、その顔を、胸から上を、カウンターの上に寄り掛からせた。上半身は、まるで身を乗り出すようにして真昼の方に傾いていて。そして、カウンターの上、左頬を下にして、右手と左手と、その組み合わせた上に乗せている顔。真昼のこと、甘えるようにして、上目遣いに見上げている。

 「そのことは……あたしが今、生きているのか死んでいるのか、そのことはまあ、あたしにとってはどうでもいいことなんだけどさ」。真昼はちらとレノアに視線を向けながらそう言う。失礼にならない程度に、なるべく向こうに気が付かれない程度に。とはいえ、当然ながらレノアはそんな真昼の視線に気が付いていたのだけれど、特に気を悪くした様子はなかった。自分は話の邪魔をするつもりはありませんよとでもいわんばかりの顔をして笑っているだけだ。真昼は、ふっと視線を逸らしてから続ける「それはそれとして、ここどこ?」。

 「ラビットダイナーだよ」「は?」「ラビットダイナー」。そう言いながら、デニーは、その上半身を、カウンターの上から起こした。それから、ぴんと伸ばした人差指、軽く立てた親指、まるで拳銃のような形にした左の手のひらによって、ボックス席の方を指差す「ほら、あそこに書いてあるでしょー?」。

 真昼はそのようにして指差された方向を振り返った。デニーの人差指は、正確にいえばボックス席を指差していたわけではなかった。その更に向こう側、少し上のところ。

 要するに、窓だ。ダイナーにありがちな大きな大きな窓、まるで壁の全体が、幾つか区切られた窓になってしまっているような窓。内側から考えれば、昼間の採光性がいい。外側から考えれば、夜になって内側の光が漏れ出して、そこに行けばなんとなく人がいるというその事実自体が、誘蛾灯のような役割を果たす。

 そんな窓に文字が書かれていた。遠くからでも目立つように、蛍光ペンキのピンク、巨大な文字、図太い線。もちろん、その文字は外側から見た時に機能するように書かれた文字であって。こちら側から見た場合、自然と逆さ文字になってしまっていたのだが、とはいえ、そこには、確かにデニーが言った通りの単語が書かれていた。つまり、「ラビットダイナー」と。

「バーカ。」

「ほえ?」

「そういうこと聞いてんじゃねぇよ。」

「どーゆーこと?」

「だからさ……」

 ところで真昼は、その文字を読む時に、ついでに窓の外にどのような光景が広がっているのかということも見たのだった。窓は、幸いなことにブラインドが全開になっていたので、真昼が外の様子を見るということについてなんらの障害もなかったのだが。ただ、そのようにして見えた光景が、真昼の現状認識にとって何か役に立ったのかと問われれば、それほど役には立たなかったと答えるしかないだろう。

 端的に、荒野だった。見渡す限り、どこまでもどこまでも荒野が広がっているだけだった。沙漠だとかそういう感じではなく、乾いた土壌の上に、ところどころに草が生えているといったような。そのような大地と、それから雲一つない青空、真昼の目に見えたものはそれだけだった。

 ああ、あと、それから……実は、ラビットダイナーの正面は駐車場になっていた。いや、駐車場といってもちゃんとアスファルトで固めて作ったようなしっかりしたやつではなく、とにもかくにも凸凹としたところがないというだけの、ざらざらした地べた、それがだだっ広く広がっているだけという感じの空間でしかなかったが。とにかく、そこにアビサル・ガルーダが立っていた。深淵から蘇りし鳥類の王は、そこに立ってるようにいわれたからそこに立っていますという雰囲気を丸出しにして、いかにも所在なさげに突っ立っていた。

 まあ、明らかにここに入ってこられる大きさじゃないしね。仮に入ってこられたとして、ダイナーのフィッシュ・アンド・チップスを楽しむタイプというわけでもあるまいし。ちなみに、一応書いておくが、アビサル・ガルーダは例の殺戮兵器モードを解除していた。全身を覆っていたアンチ・ライフ・エクエイションはすっかりと綺麗綺麗になっており、ごくごく普通の鵬、とはいっても全身傷だらけでずたずたのぼろぼろの鵬であるが、そのような姿に戻っていた。もう無慈悲な大虐殺の必要がない以上、あのように馬鹿でかい図体は邪魔なだけだからだろう。

 それはそれとして、このダイナーが建っている場所がどこであるのかということ、そのことについてのヒントは、その窓によって切り取られた光景の中にはさっぱり見当たらなかった。

 ただ、それでも……根拠はないのだが。自分でもなぜそう思ったのかは分からないのだが、真昼には、ここが、アーガミパータではないように思えた。荒野は荒野なのであって、アーガミパータにも荒野はあるのだが。荒野の感じがどうもアーガミパータのあの荒野の感じとは違っているように見えるのだ。

 どちらかといえばエスペラント・ウニートの乾燥地帯。いわゆるプレーンと呼ばれるたぐいのそれであるように感じられた。まあ、このようなダイナーの印象に引き摺られてそう思った可能性もあるのだが。土の感じというか草の感じというか、どうもアーガミパータに特有の血なまぐさい感じがしない。

 なんというか、もっともっと空白の感じだった。アーガミパータがどす黒い赤だとすれば、ここは透明なのだ。もともとこの場所を彩っていた色が全て吹き飛ばされてしまった後のような。爆心地、そう、爆心地だ。そして、虚ろな亡霊だけが、消え残ってしまった記憶として、そこら辺をうろついている。

 だから。

 真昼は。

 こう続ける。

「あたし、帰ってきたの?」

 それから、少し考えて付け加える。「帰ってきたっていうのは、つまり、アーガミパータから脱出出来たのかってことを聞いてるわけ。ここが、月光国ではなくて、エスペラント・ウニートでも、パンピュリア共和国でも、その他の任意の場所、どこでもいいんだけど。とにかく、あたしはアーガミパータから出ることが出来たの? あたしは、アーガミパータ以外の場所にいるの?」。

 デニーは、窓に書いてあるあの文字を指差していた人差指。その人差指で、自分の左頬を軽くつっつきながら、悩ましげに首を傾げる。「んーんー」という、幼獣の鳴き声のような声でその問いに答える。非常に曖昧で、肯定の意味とも否定の意味とも、どちらとも取ることが出来る鳴き声だ。「それ、肯定なの? それとも否定なわけ?」。

 「ここはあ、エスペラント・ウニートのお、カービー自治領です」「カービー自治領?」「そーだよ」「そんな地名、聞いたことないけど」。確かに不登校成績ダメダメ劣等生の真昼ではあるが、とはいえ、エスペラント・ウニートの七つの州の名前くらいは知っていた。シーゲル州、シャスター州、フィンガー州、ケイン州、サイモン州、ディッコ州、そして最後の一つがニュースタンリー州。自治領という名前がついているということは、おそらくは非州領域ということであると思われるのだが。真昼は、そんな名前、学校の教師からも家庭教師からも聞いたことがなかった。

 「んー、なくなっちゃったからね」「は?」「昔ね、色々あってなくなっちゃったの。イーヴィルとテンペストとっていうね、双子の桑樹級対神兵器が暴走して、全部全部、どかーんってしちゃったの」「いや、あるじゃねーかよ」「ほえ?」「ここに、あるじゃねーかよ。ここがそのカービー自治領って場所なんだろ? なら、なくなってないだろ」。真昼は、デニーの意味不明な説明に対する苛立ちを表わすかのようにして、両方の腕、円を描くように大きく大きく回して見せながらそう言った。

 それに対してデニーは、「んあー」という、またなんとも形容が出来ない鳴き声を上げる。右の手のひらと左の手のひらとを合わせて、自分の顔のすぐ前に持ってきて。それから、親指、人差指、中指、薬指、小指、右の指と左の指とを指の腹のところで合わせたままで、それぞれの指と指との間をぱっぱっと開いたり閉じたりしながら続ける。

 「ここはね、幽霊なの」「は? 幽霊?」「うん」「それってのは……場所の幽霊ってことか?」「そーそー、そーいうこと」。真昼は、また面倒な話が始まったなとでもいうように、嫌そうに口の端を曲げる。ぎーっと噛み結んだ歯を見せる。それに対して、デニーは、この世界が面倒なのはデニーちゃんのせいじゃないよとでもいわんばかりに軽く肩を竦めて。それから、こう続ける。「ここはね、消えてなくなったカービー州の記憶なの。だから実際の場所っていうよりも形骸化した占有って感じなんだよね。ここは、ここにあるわけじゃなくて、ここにあったっていうこと」。

 「あー、あー」、デニーはまだ説明を続けたそうだったが、真昼は慌ててその言葉を遮った。わざとらしく自分の顔をデニーから逸らして、左の手で左の耳を塞いで。それから、何もかも忌々しくて仕方がないとでもいわんばかりに、右の手のひらをデニーの方に突き出して、ぶんぶんと振って見せる。「分かった、分かったから。いや、全然分かってないけど全然分かんなくていいってことは分かったから。とにかく、あたしは今、そのカービー自治領ってところにいるんだろ」「ま、そーゆーことだね。厳密にはちょっと違うんだけど」「あたしはもう厳密に生きるってことをやめたんだよ、お前のせいでな。とにかく、それなら、あたしはアーガミパータから脱出したってことでいいんだな」。

 デニーはまた「んあー」と言った。今度は、曖昧というよりも、なんとはなしに悩ましげな調子によって。右の手、人差指だけを真っ直ぐに伸ばして、他の指は手のひらの方に折り畳んで。そのような人差指を、ゆらゆらと振って見せながら、デニーはこう言う。「それなんだよねー」「どれだよ」「確かにここはアーガミパータじゃないんだけど、真昼ちゃんがおうちに帰るためには、一度アーガミパータに戻らなきゃいけないの」。

 「は? いや……なんでだよ」。真昼は、だんだんと苛立ちを隠し切れなくなってくる。いや、もとから隠す気などなかったのだが……とにかく、真昼は、自分の体を半分ほどデニーの方に向けてしまっていた。さっきまでカウンターの下に下ろしていた右の手を、カウンターの上に乗せて。それから、左の手は、自分の左膝の上に置いて。デニーの方に身を乗り出すような姿勢だ。

 「言ってることのわけが分からないんだけど。ここは、もう、エスペラント・ウニートなんだろ? それなら、エスペラント・ウニートから直接月光国に帰ればいいだけじゃねーかよ」。拳にした右手で、どんどんどんとカウンターの上を叩きながら言う真昼。それに対してデニーは、さっきまで振って見せていた人差指、そっと唇につけて。軽く真昼から目を逸らして、何か考えているような顔をしながら答える。

 「えーと、んーと……さっき、デニーちゃんさーあ、ここはここにはないよーって言ったでしょお? それってね、つまり、ここが場所としての場所じゃないっていうことなの。んー、分かりやすく説明すると、真昼ちゃんがおうちにいて、ベッドの中でぎゅーってして、それで、夢を見るとするよねーえ。それで、例えば、アーガミパータの夢を見るとするじゃないですかーあ。そうした時、そういう夢の中のアーガミパータから、現実のアーガミパータにはいけないよね? 真昼ちゃんが現実のアーガミパータに行きたいなら、ちゃんと目を覚まして、現実にある真昼ちゃんのおうちから、現実にあるアーガミパータに行くっていう方法しかないわけですよお。つまり、そーゆーこと! よーするに、ここはある種のポケットバースなんだよね。このラビットダイナーは、どこからでもここに来ることが出来るんだけど、来たところにしか帰ることが出来ないの!」。それから、どーお、分かった?とでもいいたげな感じ、可愛らしく首を傾げた。

 まあ、分からなかったといえば嘘になるだろう。決して全てを理解出来たというわけではないが、デニーが言っていることに対して納得することは出来た。

 というか、まあ、そもそもなんで自分がこんなところにいるのかという疑問は残ったのだが……ただ、それについて質問すると、またクソ面倒な説明パートが始まりそうな気配があったし、それに、そのような拷問じみた意味不明を乗り越えてその理由を知ったところで、真昼にはなんの益もなさそうだったので、もう気にしないことにした。

 恐らく、推測するに、あたしが世界樹の内側、つまりジュノスから帰ってくる際に、そのまま現実に帰ってくるという方法をとるよりも、ここを経由して帰るというルートを通った方がよかったからだろう……そのような真昼の推測はまあまあ当たっていた。このラビットダイナーは、現実と非現実との境が限りなく薄くなっている場所なので、ジュノスのような場所からのトルナダを行なう際に、その中継地点としてちょうどいいのだ。

 ちなみにこのラビットダイナーは一時間ごとの予約制であり、本来は、前々から利用予約をしていなければ使うことが出来ないものなのだが。たまたまこの時間帯の予約をしていたのが、レノアとの関係が何かと深い(この表現には多分に含むものがあります)エリザベス・ザ・ハーヴェストだったため、無理をいって空けて貰ったのである。「は? ダイナーの予約を譲れ? いや、無理スけど……」と言っていたハーヴェストも、レノアが誠心誠意お願いした結果として「いや、無理スって。これから私、ロザムント・フォン・マルクスの取り調べなんスよ? あのマルクス家の。取り扱い下手したら私の首が飛ぶだけじゃ済まないっての、レノアさんも知ってるでしょ」と快く空けてくれたのだ。

 付け加えるとすれば、このハーヴェストの取り調べであるが、諸般の事情により(この表現には多分に含むものがあります)結局のところ大失敗し、サリートマトのディッコ州研究開発センター(通称ハンバーグ・ヘヴン)センター長であるロザムントは、その姉であり聖ベルヴィル騎士団ベイン・ナイツリーダーでもあるアーデルハイト・フォン・マルクスによって奪還されてしまった上、シークレット・フィッシャーズとマルクス家との間にとんでもない遺恨を残すことになってしまうのだが、その話はここではあんまり関係ない話である。

 なにあれ。

 ともあれ。

 要するに、真昼が頑張って生き返っている間、物事は一つも進展していなかったということである。なんだかがっかりしたような、安心したような、どちらともいえない薄ぼんやりとした気持ちのままで、真昼は「へえ、そうですか」と答えた。

 それから、まあ、まあ、デニーの方を向いていた体の向きをカウンターの方に戻すと。そのまま目の前にいたレノアとまともに向き合う形になってしまった。わ、やば、この人いたんだっけ。レノアのことを完全に忘れてしまって、デニーと二人の世界に浸り切っていた真昼は。さっきまでカウンターをばんばん叩きながら喚き散らしていたことが急に恥ずかしくなってしまい、ふっと視線を逸らしてしまう。

 真昼のために多少の弁護を加えておかなければいけないだろうが。真昼は、普通の状況であれば、こういう感じのいかにも人見知りが激しいですといった挙動をとることはなかった。そもそも人見知りが激しい人間が男の家から男の家を渡り歩いて生活することなど出来るわけがないのである。ただ、とはいえ、今は普通の状態ではなかった。

 真昼が誰彼構わず男に捕食されることが出来るのは、いってしまえば同じ人間とみなしていないからなのである。つまり、そういう男に相対する時の真昼は、決して素の真昼……というか、一番無防備な状態の真昼ではない。なんというか、そのようにして男に食われるために兎の皮をかぶった真昼。一つの役割を演じているところの真昼なのだ。

 しかしながら、今の真昼は、デニーと一緒にいる時の真昼なのだ。ほとんど剥き出しの脳味噌のような真昼なのである。人間と人間とが関係性を築く時には、大体において定型的なパターンがあり、そのパターンの蓄積によって人間は他者と関わっていくのであるが。真昼は、デニーと会話している時だけは、そのようなパターンを利用していない。なぜなら、そんな社交的なことをしても無意味だからだ。デニーはデニーなのであって、人間ではない。悪魔と相対している時に自らの毛皮を繕っても意味がない。欲望と欲望とをぶつけ合うだけのコミュニケーションで何も問題がない。

 定型的なパターンは、今、全部ふっとんじまっている状態なのだ。そういう状態でいきなり全然知らんところの他者が現われたとしても対応のしようがない。なので、真昼は、まるで人見知りであるかのようにまごまごしていたのだ。

 一方のレノアはというと、別に真昼のことを睨み付けていたりだとか、あるいは非難がましげな視線を向けていたりだとか、そういうことは一切なかった。相変わらず金属製の台のところ、寄り掛かるというか半ば座っているというか、そんな感じの姿勢。ただ、さっきまで台の上についていた手、両腕を体の前で組んでいて。なんとなくコケティッシュな、なんとなくアンニュイな、あの笑顔で笑っていた。

 ちょっとの間、めちゃめちゃ気不味いタイプの沈黙が流れる。Aという人物とBという人物とがいて、Aという人物はBという人物に、Bという人物はAという人物に、それぞれ言いたいことがあるのだが、色々と理由があって二人とも口を閉ざしている場合に流れるあの沈黙である。

 いうまでもなく、デニーは、そのような気不味さというものを全く理解出来ないタイプの生き物であるために。いかにも能天気に、真昼に向かって「ほえ? どーしたの真昼ちゃん、とーっつぜん黙っちゃってー」と問い掛けた。

 その問い掛けに対して真昼が答える前に……ようやく、レノアが口を開く。明らかにレノアには似合っていない、安物のルージュが引かれた唇。ルージュというものは、本来、顔全体の血色をよく見せるためのものであるが。肌色と全然合っていないその赤色のせいで、かえって血色が良いのか悪いのか分からなくなってしまっているルージュが引かれた唇。

 淡く。

 淡く。

 囁く。

「初めまして、可愛らしいお嬢さん。」

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